【西脇 亨輔】【テレビ朝日元法務部長が追う木原事件】ついに遺族が検事と初対面…!告げられた「衝撃の言葉」と検察が示唆した「独自捜査」の可能性
しっかりやらないといけない事件です
遺族のクリスマスに微かな明かりが灯った。これは本当の光となるのだろうか。
木原誠二前官房副長官の妻X子氏の前夫である安田種雄さん(享年28)が'06年4月に自宅で不審死を遂げ、一旦は自殺とされたが'18年に再捜査が始まり、しかしその捜査が何故か突然打ち切られたという、いわゆる「木原事件」。
年の瀬も押し迫った12月25日午後4時、種雄さんの遺族が初めて担当検事と面会した。
東京地検に入っていく遺族
出席したのは、種雄さんの母親、長姉、次姉と、この件の刑事告訴を担当した勝部環震弁護士ら弁護士3人の計6人。遺族はこれまでにも思いを伝えようと検察官に面会を申し入れてきたが断られ続け、ようやくこの日実現したのだった。先月テレビ朝日を辞めて自由に取材できるようになった私は、話を聞きに伺った。
検察庁に向かう道中、種雄さんの母は不安を露にしていた。
「木原さんや警察側が検察庁に手を回すようなことはないだろうかと、昨日からずっと心配で……」
その目には、すでに涙が浮かんでいた。
その後東京地検で始まった面会では、まず弁護士が挨拶し、続いて種雄さんの姉が捜査への疑問をまとめた書類を説明した。その間検察官はほぼ言葉を発さず、部屋は重苦しい空気に包まれていたという。それを破ったのは母の言葉だった。
「ずっと苦しい思いをしてきたんです。'18年の再捜査で希望を持ったのに、突然奈落の底に落とされた。今度こそぜひ捜査をしてください」
涙ながらの声が部屋に響き、空気が一変した。その時だった。検察官はこう明言した。
「これは、しっかりやらないといけない事件です」
遺族が長い間もがき続けてきて、ようやく聞くことができた言葉だった。
読売新聞の「完全な誤報」
2日前の12月23日夜――。種雄さんの長姉と次姉が乗った車は、何かに突き動かされるように関東近郊の夜道を駆け回っていた。2人の脳裏に渦巻いていたのは、1週間前の12月16日に突然報じられたニュースの衝撃と怒りだった。
〈06年死亡の男性『事件性認めず』 警視庁3度目捜査〉(読売新聞12月16日朝刊)
記事には警視庁が「種雄さんの死に事件性は認められない」とする捜査結果を東京地検に送ったと書かれていた。遺族にとっては、寝耳に水だった。
10月25日に刑事告訴が受理されてからわずか1ヵ月半で「事件性がない」と結論付けるなら、今回の捜査は一体何だったのか。そして何故、捜査状況を真っ先に報告すべき遺族には何も知らせないまま、いきなり読売新聞の「スクープ記事」が流れたのか。
そして記事にはこんな記載もあった。
「捜査結果は同日、遺族に伝えられたという。」
遺族もすでに「事件性なし」という結果を伝えられ、了承しているかのような内容だった。
しかしこれは完全な誤報だ。その前日の15日、私は種雄さんの次姉からメッセージをもらっていた。そこには「一歩前進です!」と書かれていて、警察側から「これから捜査は検察に移る」と説明されたとあった。遺族はこの先の捜査を信じ、警察が「事件性なし」と断じて送検したとは露も知らなかった。
それなのに記事には、遺族も知っていたかのように書かれている。この記事は「捜査関係者」からの情報によるものだった。とするとこの誤報も「捜査関係者」が流した情報だったのか。
結局、読売新聞はその後紙面で訂正した。
〈16日【社会】「06年死亡の男性『事件性認めず』」の記事で、捜査結果が「遺族に伝えられた」とあるのは誤りでした。警視庁から東京地検への書類送付の事実は伝えられていましたが、事件性が認められないとする捜査結果は伝わっていませんでした。確認が不十分でした〉
しかし社会面の片隅に訂正が掲載されたのは、12月20日だった。最初の報道から4日が過ぎて記事はすでに拡散し、大手メディアは一斉に同様の報道をした。「事件性なし」は既成事実にされようとしていた。
これに対して遺族は、今回の捜査で関係者に改めて事情聴取したのかなど、疑問の数々を警察側に質問した。しかし警察側はどの質問にも同じ答えを繰り返した。
「所要の捜査を行って、収集された証拠を精査した結果、事件性は認められませんでした、ということです」
しかし事件性を認めない理由についての説明は、なかった。
「答えを聞いたときは悔しくて、悔しくて。私たちが素人だからなのか、説明もなく押し切ろうとしている。まるでばかにされているようでした」(次姉)
遺族が関係先を訪ねてわかった新事実
そこで遺族は決意した。自ら車を運転し、関係先を探し訪ね、わずかでも新情報を集めることにしたのだ。
「警察が動いてくれない中、できることは全部やろうと思ったんです。じっとしていることはできなかった。後悔したくないんです」(長姉)
23日夜も、遺族の車が1軒、2軒、3軒と関係先を回っていく。目的地に着き遺族の後をついて車外に出ると、夜の冷気が身体を襲いあっという間につま先の感覚がなくなる。それでも遺族は深夜まで街を歩き、関係先を訪ね続けた。
結局この日は新情報を得ることはできなかったが、情報収集を続ける中で遺族は種雄さんの知人からこんな話を聞いたという。
「'18年の再捜査の時、警察に事情聴取され、取調官が詳細なメモを作っていた。そして『これを供述調書の形にしておくので、次回、あなたのサインをもらう』と言われたが、その直後に捜査が止まり、結局調書にサインできないまま終わってしまった」
これと同じような話をする人が複数いたという。なぜ'18年の再捜査はこんな中途半端な形で唐突に打ち切られたのか。そしてサインされず正式な供述調書が残されなかった事情聴取では、一体何が語られていたのか。
疑問が次々浮かび上がったが、私人である遺族にできる調査には限界がある。新たな捜査を求める思いを検察官に伝える初めての場が、12月25日の面会だったのだ。
手をついた母に検事は……
遺族と検察官との面会は約40分に及んだ。
その中で弁護士は検察官に今後の捜査方針を質問した。「検察官はこの件を独自に捜査するのか、それとも警察に捜査させるのか」という問いに、検察官は「両方ありうる」と答え、独自捜査の可能性を示唆した。
また捜査スケジュールについての質問には、検察官はこう答えた。
「じっくりやる事件だと思います。だから期間とかを申し上げるのは難しい」
検察官は繰り返し、この事案は「しっかりやらないといけない」「じっくりやる」と話していたという。
そして面会の最後、種雄さんの母はおもむろに床に手を付き、頭を下げた。
「捜査をお願いします。検事さんしか希望はないんです」
頭を下げ続ける母に近づいた検察官は、こう声をかけたという。
「お顔をあげてください。しっかりやりますので」
面会を終え、弁護士と遺族はこう語った。
検事との面会後、取材に応じる遺族と代理人の勝部弁護士
「検察官が独自捜査も含め時間をかけて捜査すると話したことに、ひとまず安堵しました。我々も自分たちにできることを引き続きやっていきます」(勝部弁護士)
「今は微かに希望が湧いてきています。でも希望が大きいほど、絶望も大きい。だから不安も、とても大きいんです」(母)
今回の事件送致に、検察官はどこまで積極的に取り組むのか。遺族はもがき苦しんでいる。それを無視することは私にはできない。検察庁も同じ思いであってほしいと、強く祈っている。
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