1980年代の上野駅近くの上野七丁
目界隈、通称上野バイク街は物凄
い活気があった。
まるで御徒町のアメ横商店街のよう
にバイク屋(中古車屋と用品店)が
建ち並んでいた。
表通りだけでなく、裏通りまでも
二輪店がびっしりだった。
こうした光景は全国でここ東京
上野だけ。
この上野駅そばの昭和通り沿線に
バイク街が登場したのは1970年代
だった。
私が高校生の時の1970年代中期に
はすでにバイク街があり、友人た
ちとよく学校帰りに歩いたりした。
カフェスタイルのブースを採り入
れた店舗もあり、開放的だった。
ただ~し!
実際に上野バイク街を歩いた事が
ある人たちは知っているだろう。
あの独特な空気を。
中古車屋などは一切整備はして
いない。
だが、まるで新車のようにピカ
ピカに車両を磨き上げて並べて
展示している。本当に整備は一切
無し。そもそも整備するスペース
も整備士も置いていない。
そうした怪しげな中古車屋がず
らっと並んでいたのだ。
そして、店員たちはまるで不良か
やさぐれた半グレか連日徹夜麻雀
で疲れ切った無職者のような感じ
の店員しかいなかった。
態度は当然この上なく悪い。
「チッ。買わねぇんなら見てん
じゃねえよ」とか平気で訪問客
に言ってた。
中古車古物商でなく用品屋でさえ、
それに近い態度の店ばかりだった。
ただ、品ぞろえが半端なく多い事
と、価格も激安だったので多くの
二輪乗りが訪れただけだ。物販
エリアとして。
ただし、革ツナギなどは下町の
革屋に作らせたパチもんのよう
な物がずらっと並んでいるだけ。
有名どころの製品などはもちろん
無い。
南海部品が高級品店に思えるの
だから、だいたい想像はつくだ
ろう。
そう。戦後の闇市の延長にあった
近所のアメ屋横丁と全く100%
同じ空気と実質の街区だったのだ。
買った中古車は不具合があって
も一切受け付けない。古物商の
それは常道だが、それを地で行っ
てた。
過去の上野バイク街の事を「二輪
の聖地」のように言う人が時々い
る。
それは、上野バイク街に実際に
何度も通って、地場の空気と実態
に触れた事が無い人が言ってるの
は確実だろう。
「二輪の聖地」ではなく、あそこ
は「二輪のドヤ街」だったのが
正確な表現だ。木賃宿が二輪中古
販売店や用品店になっただけだ。
だが、実に「上野」らしい風景で
はあった。
1970年代中期あたりには、ここ
バイク街やアメ横の裏路地あたり
では、カツアゲとかも頻繁にあっ
た。
うちらの仲間はこちらからは仕掛
けたりはしないが、当然ぺったん
この鞄の中には鉄棒を常備してい
たし、伸縮式特殊警棒で武装もし
ていた。でないと歩けない街。
素手でタイマンだ、などとツッパ
リ君よろしくイキっても駄目。相
手は刃物持っててそれを出してく
るのだから。ツッパリ君世界とは
別物の本物の筋者たちが横行する
街だった。
勿論、真面目君などは一切寄り付
かないのが上野御徒町界隈だった。
オートバイ関係情報は、綺麗ごと
ばかり書くが、実際の東京上野は
ノガミと呼ばれた戦後から1970年
代末期あたりまではそのような
場所だったのは確かな事だ。
第一建ち並ぶ店の店員自体がその
手の連中のような店ばかりだった
のだから(笑)
なんというか、昭和の危ない街。
エンコ(浅草)さえ、まだ国際
観光地化などしておらず、彫り
物の兄さんたちが仕切っている
場所だった。
これは江戸時代からそうなのだが。
暴走族ではエンコのスペクターが
山の手エリアよりも気合が入って
いて、ペクターといえばエンコ、
というような感じだった。
東京下町はそのような空気があっ
た場所であり、下町情緒とかほの
ぼのした人情味の街というのは
それは下町の一面しか捉えてい
ない。
カオスであった東京の街は、戦後
愚連隊(幅員兵たちによる暴力組
織で、今でいう半グレ)たちが
自警団のように仕切っていた。
やがてそれは旧来のやくざが現代
暴力団に変貌する時に合流した。
そして、戦後の日本は、警察の
協力団体や芸能界の興行取り仕切
りはすべて暴力団が行なっていた。
それ、日本の歴史の真実。
上野のバイク街という場所は、
そうした戦後日本の残滓の一つ
だったのである。
戦後の東京の闇市。
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