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22代斎院 篤子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
とくし あつこ 三品、准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:後三条天皇(1034-1073)
母:東宮妃藤原茂子<贈皇太后>
  [滋野井御息所](1062没)
康平3年(1060) 永久2年(1114)10月1日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
白河(1072~1086,同母兄) 卜定:延久5年(1073)3月11日
初斎院:なし
本院:なし
退下:延久5年(1073)5月7日
父上皇崩御
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
淳子女王(再従姉妹)
 父:敦賢親王
 母:源親方女
卜定:延久5年(1073)2月16日
初斎院:不明
野宮:承保元年(1074)?
群行:承保2年(1075)9月20日
退下:承暦元年(1077)8月17日
父薨去

略歴:
 康平5年(1062)(3歳)6月22日、母茂子死去。
 治暦4年(1068)(9歳)4月19日、父後三条天皇践祚。


7月21日、後三条天皇即位。


8月14日、内親王宣下。
 延久元年(1069)(10歳)6月19日、三品に叙される。
 延久4年(1072)(13歳)12月8日、父後三条天皇譲位、兄白河天皇践祚。


12月29日、白河天皇即位。
 延久5年(1073)(14歳)3月11日、斎院に卜定。


5月7日、父後三条上皇崩御により退下。
 承暦3年(1079)(20歳)8月17日、准三宮。
 寛治5年(1091)(32歳)10月25日、甥堀河天皇の女御に宣旨。
 寛治7年(1093)(34歳)2月22日、中宮に冊立。
 嘉承2年(1107)(48歳)7月19日、堀河天皇崩御。


9月21日、出家。
 永久2年(1114)(55歳)10月1日、崩御。

同母兄弟:聡子内親王(1050-1131,一品)
     女二宮(1052.1-1052.6,諱不明)
     白河天皇(1053-1129)
     俊子内親王(1056-1132,斎宮,二品)
     佳子内親王(1057-1130,21代斎院,三品)
夫:堀河天皇(1079-1107,甥)
養母:陽明門院禎子内親王(祖母)
養父:関白藤原師実(祖父母の従弟)
猶子:藤原忠通(師実の曾孫、堀河天皇の従弟)

後三条天皇第四皇女(※夭折した女二宮を加えれば第五皇女)、堀河天皇中宮。
 母藤原茂子(滋野井御息所)は藤原能信(道長子、母は源明子)の養女で、実父は閑院流の中納言藤原公成(太政大臣藤原公季の孫)。
 夫堀河天皇は、同母兄白河天皇の子。

      藤原道長
       |
       ├────┬───────────┬─────────┬──┐
       |    |           |         |  |
一条天皇===彰子   妍子====三条天皇  尊子===源師房  頼通 頼宗
     |[上東門院]    |   |       |      |  |
     |         |   |     ┌─┴─┐    |  |
     |         |   |     |   |    |  |
   後朱雀天皇======禎子  小一条院   顕房  麗子===師実 俊家
           |[陽明門院]  |     |      |    |
           |       |     |      |    |
         後三条天皇    敦賢親王   |      師通===全子
           |       |     |         |
           |       |     |         |
           |      淳子女王   |         |
     ┌─────┤      (斎宮)   ┌┴────┐    |
     |     |            |     |    |
     |    白河天皇==========賢子    師子===忠実
     |            |              |
     |            |              |
    ◆篤子==========堀河天皇            忠通

 御息所藤原茂子所生の末娘で、母茂子は夫後三条の即位前に死去。その後は祖母陽明門院の御所で養われたらしく(『栄花物語』38・松のしづえ)、斎院卜定もここで受けたが、わずか一ヶ月半という歴代斎院中最短の早さで、父後三条院の崩御により退下した。その後も再び陽明門院御所で過ごしていたとみられ、入内に際しては関白師実が養父となった。
 篤子内親王は夫堀河天皇より19歳年長で、叔母・甥婚の多かった平安時代でも異例とされた結婚であり、篤子の兄白河院の期待も空しく子女には恵まれなかった。自らの皇統の存続に執着した白河院の意向による政略結婚であろうとも言われるが、堀河天皇自身は幼少の頃から末の叔母である四の宮(篤子)をこの上なく思慕して自ら后に望んだといい、篤子も始めひどく躊躇い恥ずかしがったものの、夫婦仲は良好であったと伝えられる(『今鏡』)。妻というよりもむしろ母代わりのような存在であったと思われ、息子のような堀河帝をよく支えた賢后であったが、それだけにまさか夫帝が30にも満たぬ若さで自分よりも先に亡くなるとは思わなかったであろう。
 なお『讃岐典侍日記』には、臨終近い堀河帝の病床を見舞ったことや、天皇没後に著者讃岐典侍(藤原長子)と共に亡き堀河帝を追慕する様子が記されている。讃岐典侍への言葉からは、若い堀河帝に先立たれた篤子の嘆きの深さが偲ばれる。
 堀河天皇の死後は出家して夫帝の菩提を弔う余生を送り、7年後に55歳で堀河院にて崩御。亡骸は本人の遺言に従い、雲林院(GoogleMap)に土葬された(『中右記』)

詠歌:すみぞめのそでのなみだとちるはなといかでか人のしばしとむらん(万代集・雑五)

参考論文:
・所京子「篤子内親王の事績」
 (『聖徳学園女子短期大学紀要』14, p70-49)
 [機関リポジトリ全文あり]
 ※『斎王和歌文学の史的研究』(国書刊行会, 1989)収録
・栗山圭子「篤子内親王論」(『女と子どもの王朝史』森話社, 2007)
 ※『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館, 2012)収録

※その他関連論文はこちらを参照のこと。

関連書籍:
・岩佐美代子『内親王ものがたり』(岩波書店, 2003)

参考リンク:
『天皇皇族実録89.堀河天皇 巻4』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※篤子内親王(堀河皇后)については92~134コマにあり


付記:
『栄花物語』(38・松のしづえ)によれば、最初に斎院に内定していたのは篤子内親王ではなく、後朱雀天皇三女祐子内親王(19代禖子内親王の同母姉、篤子の叔母)であったが、祐子はこれを厭って出家したため、後三条天皇は非常に立腹したという(『中右記』長治2年11月7日条には「延久年中為尼」とあり、時期的に一致する。また『今鏡』は「延久四年、御くしおろし給」とあり、21代佳子退下と同年のこととする)。ただし祐子は後朱雀皇女の中で唯一斎王未経験ながら、当時35歳と既に高齢であったので、現実に卜定される可能性は恐らく低かったとみられる(※記録で判る限り、30歳を越えてから卜定された斎宮・斎院は存在しない。ただし、斎宮喜子内親王を堀河皇女とするのが事実であれば、堀河天皇は1107年に崩御しているので、喜子は卜定当時(1151年)44歳以上であったことになる)
 なお富樫美恵子氏は、摂関家を外戚に持つ皇女の場合、姉妹では姉の方が品位等で優遇され斎王に選ばれない傾向があったこと、また当時は斎王に選ばれるのは喜ばしいことではなかったことを指摘している。篤子内親王の外祖父は藤原能信で、摂関家嫡流ではないが、篤子と三人の同母姉の中で、長姉の一品宮聡子内親王だけが唯一斎宮・斎院になっていない。

関連論文:
・富樫美恵子「摂関期の斎宮・斎院の選定と斎王忌避の思想」『寧楽史苑』47, p26-42)





後冷泉天皇
史料 月日 記述
中右記
帝王編年記
百錬抄
康平3年
(1062)
(不明) 【東宮尊仁王女篤子誕生】
『中右記』(永久2年10月1日条)
(前略)中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
寛治五年十月廿五日入内、同七年二月二十二日為中宮、<三十四、>嘉承二年九月為尼、今日崩于堀河院、御年五十五、(後略)

『帝王編年記』
(鳥羽院後宮)
 中宮篤子内親王<永久二年十月一日崩于堀川院 五十五>

『百錬抄』
(鳥羽天皇)
 中宮篤子崩于堀川院。<五十五。>
後三条天皇
史料 月日 記述
扶桑略記
本朝世紀
十三代要略
ほか
治暦4年
(1068)
8月14日 【皇女篤子、内親王宣下】
『扶桑略記』
(前略)同日。天皇男女皇子等爲親王。

『本朝世紀』
 内大臣(源顕房)於仗座被下女親王四人宣旨。<聡子。俊子。佳子。篤子。>

『十三代要略』
(後冷泉院)
 此日。男女皇子爲親王。
中右記
扶桑略記
十三代要略
延久元年
(1069)
6月19日 【篤子内親王、三品直叙】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、与太上天皇(白河院)同母也、治暦四年為内親王、延久元年叙三品(後略)

『扶桑略記』
 第一内親王聡子叙一品。給千戸封邑并年官年爵。俊子内親王叙二品。佳子、篤子両内親王各叙三品。

『十三代要略』
(後三條院皇女)
 篤子内親王 母同(藤原茂子)
  延久元年六月十九日。三品。
白河天皇
史料 月日 記述
中右記
十三代要略
延久5年
(1073)
3月11日 【篤子内親王、賀茂斎院卜定】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
同五年三月十一日卜定賀茂斎院(後略)

『十三代要略』
(後三條院皇女)
 篤子内親王 母同(藤原茂子)
  延久元年六月十九日。三品。
  同五年三月十一日。卜定賀茂齋院。
(白河院)
 延久五年三月十一日。卜定賀茂齋院。<篤子内親王。>
中右記
扶桑略記
ほか
延久5年
(1073)
5月7日 【父後三条上皇崩御、篤子内親王斎院退下】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
同五年三月十一日卜定賀茂斎院、五月七日退斎院<伝後三条院崩也>(後略)

『扶桑略記』
 太上天皇(後三条院)春秋四十崩。
水左記 承暦元年
(1077)
12月18日 【法勝寺供養。白河天皇行幸】
 快晴、都無片雲、今日法勝寺供養也、辰剋有行幸彼寺、陽明門院、中宮(藤原賢子)、一品宮(聡子内親王)、前齋宮(俊子?)、前齋院(※)今暁令渡給云々、予依爲服者不供奉行幸、(後略)

当時前斎院は佳子・篤子の2名がおり、どちらかは不明(あるいは両方か)。
中右記
兵範記
扶桑略記
承暦3年
(1079)
8月17日 【篤子内親王を准三宮とし、封千戸を賜る】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
承暦三年八月准后、是依為祖母陽明門院養子、女院申請也

『兵範記』(仁安2年5月23日条)
 承暦三年八月十五日庚戌、陽明門院被献割分封戸一千烟、譲與三品篤子内親王

『扶桑略記』
 勅以篤子内親王准三宮。賜封邑千戸。依祖母陽明門院之譲也。
二十巻本類聚歌合
夫木和歌抄
承暦4年
(1080)
10月2日 【庚申篤子内親王侍所歌合】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 永保3年
(1083)
3月20日 【後三条院四宮(篤子)侍所歌合】
(未入力)
堀河天皇
史料 月日 記述
中右記
一代要記
ほか
寛治4年
(1090)
10月9日 【白河院・中宮(媞子)清水寺に参詣、篤子内親王の病平癒祈願】
(未入力)
中右記 寛治5年
(1091)
10月6日 【篤子内親王の女御入内定】
(未入力)
後二条師通記
中右記
為房卿記
寛治5年
(1091)
10月9日 【篤子内親王の女御入内定】
(未入力)
中右記
為房卿記
寛治5年
(1091)
10月15日 【篤子内親王、唐崎にて御禊】
『中右記』
 今日後三条院四宮(篤子)御禊唐崎、是斎院退下之後、依未有此事也、源大納言(師忠)<本所別当云々、>殿上人・諸大夫十余人許前駈、<皆>布衣云々、但御禊之間、倍[陪]膳権左中弁(源)基綱朝臣・役供中務少輔(藤原)家隆許、於彼所衣冠者、陰陽師(賀茂)道言候之、出車二両云々、不下御則還御了、前駈料軽幄儲饗饌云々

『為房卿記』
(未入力)
為房卿記 寛治5年
(1091)
10月19日 【四宮(篤子)御所装束のこと】
(未入力)
後二条師通記
中右記
為房卿記
寛治5年
(1091)
10月25日 【篤子内親王女御宣下、七瀬祓】
(未入力)
為房卿記 寛治5年
(1091)
11月2日 【篤子内親王女御入内、三日夜餅の儀】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治5年
(1091)
11月7日 【堀河天皇、女御(篤子)の御所に渡御、後朝使の儀】
(未入力)
中右記 寛治5年
(1091)
12月11日 【女御(篤子)昇給のこと】
(未入力)
中右記 寛治5年
(1091)
12月13日 【堀河天皇、女御(篤子)に渡御】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
1月1日 【女御(篤子)に節句を供する】
(未入力)
時範記 寛治6年
(1092)
1月5日 【堀河天皇、宮御方(篤子)に渡御】
(前略)申刻主上(堀河天皇)渡御宮御方(篤子内親王)、左近中将(源)国信朝臣候御剱、頃之還御、(後略)
中右記
為房卿記
寛治6年
(1092)
1月27日 【女御(篤子)、陽明門院御所に渡御】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
1月29日 【堀河天皇より女御(篤子)に御書】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
2月3日 【女御(篤子)、輔仁親王と共に二条烏丸第に移徒】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
2月16日 【堀河天皇より女御(篤子)に御書】
(未入力)
後二条師通記
中右記
為房卿記
寛治6年
(1092)
2月17日 【女御(篤子)入内】
(未入力)
後二条師通記 寛治6年
(1092)
3月20日 【女御(篤子)方で蹴鞠】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
4月12日 【四宮(女御篤子)御所で和歌管弦の御遊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
5月12日 【最勝講始。女御(篤子)聴聞】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
7月29日 【相撲召合。女御(篤子)見物】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
9月9日 【女御(篤子)に節句を供する】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年
(1092)
10月5日 【射場始。女御(篤子)より被物】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
11月23日 【殿上淵酔。藤原宗忠、宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 寛治6年
(1092)
11月28日 【賀茂臨時祭】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
1月1日 【女御(篤子)に節供】
(未入力)
中右記
体源抄
寛治7年
(1093)
1月25日 【女御(篤子)立后の宣旨】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
1月27日 【女御(篤子)、高陽院に移徒】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
2月12日 【堀河天皇より女御(篤子)に御書】
(未入力)
後二条師通記
中右記
兵範記
ほか
寛治7年
(1093)
2月22日 【女御(篤子)を中宮に冊立】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
2月23日 【中宮(篤子)饗饌】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
3月2日 【中宮(篤子)記事】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
3月11日 【中宮(篤子)に小弓等の御遊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
3月18日 【中宮(篤子)行啓定】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
3月22日 【中宮(篤子)初めて入内】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
3月24日 【中宮奉幣使定、堀河天皇、中宮(篤子)御所に渡御】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
3月28日 【中宮(篤子)諸社奉幣延引】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年
(1093)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
7月30日 【相撲召合。中宮(篤子)見物】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
10月18日 【除目入眼。中宮(篤子)御給】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
11月9日 【春日祭奉幣】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
11月10日 【平野祭。中宮(篤子)奉幣】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年
(1093)
11月20日 【臨時除目。新大将源雅実、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 寛治7年
(1093)
12月11日 【大神祭。中宮(篤子)奉幣】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
1月2日 【中宮(篤子)及び関白師実臨時客】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
1月24日 【中宮(篤子)、讃岐前司藤原顕綱第に行啓】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
2月5日 【陽明門院葬送。中宮(篤子)御衰日】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
3月9日 【后妃一覧】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
閏3月2日 【中宮(篤子)、鴨院より還啓】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
5月1日 【中宮(篤子)御遊】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
5月27日 【中宮(篤子)除服】
(未入力)
時範記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
6月14日 【時範、宮御方(篤子)他に慶賀】
 癸未、々刻著巡方参所々申慶賀、
関白殿(藤原師通)、次大殿(藤原師実)、次内中宮御方(篤子内親王)、次院(白河上皇)、女院(郁芳門院)、次右府(源顕房)、次左府(源俊房)、左大将殿(藤原忠実)、次高蔵殿(祐子内親王)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
6月19日 【藤原宗忠(?)慶申。中宮(篤子)他に参上】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
7月7日 【遷宮の文書内覧。中宮(篤子)に奏上】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
8月13日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
10月24日 【堀河院火災。堀河天皇・中宮(篤子)渡御】
(未入力)
中右記 寛治8年
[嘉保元年]
(1094)
11月3日 【堀河天皇・中宮(篤子)、密奏により渡御】
(未入力)
中右記 嘉保元年
(1094)
12月27日 【中宮(篤子)仏名】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
1月30日 【遷宮の文書内覧。中宮(篤子)伊勢御庄のこと】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
2月6日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
2月24日 【中宮(篤子)仁王講】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
3月5日 【中宮(篤子)伊勢御庄のこと】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
4月15日 【賀茂社行幸。中宮(篤子)御給】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
6月18日 【前関白師実、京極殿御堂を供養。中宮(篤子)行啓】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
7月7日 【堀河天皇、中宮(篤子)御曹司に渡御、管弦】
(未入力)
中右記部類 嘉保2年
(1095)
7月30日 【相撲。中宮(篤子)御見物】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
8月2日 【遷宮沙汰】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
9月19日 【堀河天皇御悩、中宮(篤子)参上】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
11月2日 【中宮(篤子)行啓】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
12月8日 【内侍所御神楽。中宮(篤子)女房見物】
(未入力)
中右記 嘉保2年
(1095)
12月27日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
1月1日 【右中弁藤原宗忠、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
1月27日 【中宮(篤子)不予、大般若経読経、仁王講】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
2月10日 【春日祭。大殿(藤原師実)、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
本朝続文粋
俊忠集
千載集
嘉保3年
[永長元年]
(1096)
3月11日 【和歌披講】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
3月23日 【中宮篤子内親王侍所歌合】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
3月24日 【殿上賭射御覧、中宮(篤子)参加】
(未入力)
時範記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
3月25日 【宮御方(篤子)で作文のこと】
(前略)
<御書所作文事(右傍書)>
今夜御書所作文也、題云、禁庭松表貞、式部少輔(大江)隆兼為序者、於宮御方(篤子内親王)釣殿講之、依天気也、
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
7月13日 【田楽御覧。藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
10月22日 【中宮(篤子)除服】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
11月11日 【中宮(篤子)梅宮祭奉幣】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
11月16日 【御前試、中宮(篤子)御覧】
(未入力)
中右記 嘉保3年
[永長元年]
(1096)
12月10日 【大神祭使立つ。中宮(篤子)使のこと】
(未入力)
中右記 永長元年
(1096)
12月26日 【中宮(篤子)御仏名、中宮職事を補す】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
1月1日 【右中弁藤原宗忠、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
2月11日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
3月16日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
4月11日 【斎院(令子)御禊、中宮(篤子)御覧】
(未入力)
中右記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
8月16日 【皇子誕生祈願】
(未入力)
中右記
公卿補任
永長2年
[承徳元年]
(1097)
9月23日 【堀河天皇と中宮(篤子)、閑院より関白師通二条第に行幸】
(未入力)
時範記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
10月2日 【秋季仁王会。諸卿、宮御方(中宮篤子)へ参上】
 早旦参高陽院、午刻参 大殿(藤原師実)、次参内、次参八省、今日依有秋季仁王会也、(中略)
次諸卿被率参宮御方(篤子内親王)、講説了、行香如常、次下官退出、
時範記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
10月2日 【宮御方(中宮篤子)御装束始】
 早旦参高陽院、行雑事、亦令始宮御方(篤子内親王)御装束、六位進(源)惟兼行之、(後略)
中右記
時範記
永長2年
[承徳元年]
(1097)
10月11日 【堀河天皇、新造高陽院へ行幸。中宮(篤子)行啓なし】
『中右記』
(未入力)

『時範記』
(前略)中宮(篤子内親王)依御衰日今日不行啓、来十四日可入御也、仍留御二条殿、諸衛可候啓陣之由、大夫仰外記云々、(後略)
中右記
時範記
永長2年
[承徳元年]
(1097)
10月14日 【中宮(篤子)、二条第より高陽院へ行啓】
『中右記』
(未入力)

『時範記』
(前略)下官事未訖以前参中宮(篤子内親王)、依今夕有行啓也、下官著闕腋袍、螺鈿釼、純[巡]方帯、頃之大夫(源師忠)被参、下官召陰陽頭(賀茂)成平令勘日時、覧于大夫、次啓之、返給下大夫、〃〃被下〃官、〃〃下属了、新大納言(藤原家忠)、左大将(藤原忠実)、権大夫(藤原能実)、左大弁(藤原季仲)、右宰相中将(藤原仲実)被参、戌刻成平参上奉仕御反閇、<賜禄、>先是大夫参上被行召仰、事了、次寄御輿、<花輦、>次出自東門、自二條大路西行、自東洞院大路北行、自中御門大路西折、入御自北陣、下官不帯弓箭供奉御後、供奉諸衛如恒、出車十両、女騎八人扈従、●御輿於東対東面、次輿退、次公卿称籍、<権亮(源国信)問也、准曽、> 次公卿退出、(後略)

●=𨌅(さしよせる。こちらを参照(字源))
時範記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
10月17日 【前関白師実、法成寺新堂を供養。中宮(篤子)御誦経・布施】
 今日有法成寺新堂供養事、(中略)
次中宮御誦経使権亮(源)国信朝臣参上、賜禄如初、先是賜衆僧禄、本家布施之外、太皇太后宮(藤原寛子)、中宮(篤子内親王)、北政所(源麗子)、関白殿(藤原師通)皆有加布施、(後略)
時範記 永長2年
[承徳元年]
(1097)
10月24日 【宮御方(中宮篤子)、千手観音を造ること】
 早旦参大殿(藤原師実)、為御使参内、被申讃岐守(藤原)行家朝臣重任事、次帰参大殿、申御返事、次参宮御方(篤子内親王)、被造始■[等カ]身千手観音像、法橋院助於阿闍梨静信房始之、少進(源)実房監臨之、(後略)
時範記 承徳元年
(1097)
12月14日 【中宮(篤子)御仏供養】
(※『元享四年具注暦裏書』による)
(12/12条)
 参京極殿、五十講結願也、前大僧正(覚円)率讃衆廿口之中僧綱五口、大殿(藤原師実)令取導師被物給、有中宮(篤子内親王) 加布施、
(12/14条)
 戌刻有宮御方(篤子内親王)御仏供養事、等身千手像、法眼長覚付密教供養之、今夕始行七壇北斗法、以行事蔵人被仰御願趣了、
前大僧正覚円於三井寺奉仕之、蔵人(藤原)盛輔仰御願趣、
法印権大僧都定賢於醍醐寺修之、蔵人(源)雅職仰御願趣、
権大僧都良意於三井寺修之、蔵人盛輔仰御願趣、
権少僧都林豪於京修之、権少僧都仁豪於京修之、法眼長覚於京修之、法橋経暹於山修之、蔵人(源)家時仰御願趣、
  已上伴僧六口、
中右記 承徳元年
(1097)
12月26日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
2月5日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
長秋記目録 承徳2年
(1098)
3月2日 【中宮(篤子)花合延引】
 依召參内、明日中宮御方花合云々、望夜聞延引由、
長秋記目録 承徳2年
(1098)
3月3日 【中宮(篤子)歌合】
 御燈御拝後、中宮御方披獻落花、
時範記 承徳2年
(1098)
3月24日 【良意僧都の房で、中宮(篤子)御仏を供養】
(※『元享三年具注暦裏書』による)
 祇薗御塔仏御衣木加持云々、
[仰脱カ]六観音御修法、御願趣、依為新仏、以吉事可被供養、以子刻所被始也、
千手  法印権大僧都良意、<伊与国奉御壇供、>
聖観音 権少僧都林豪、<近江国、>
十一面 権少僧都仁豪、<美作国、>
馬頭  法眼長覚、<加賀国、>
准胝  権少僧都経範、<備前国、>
如意輪 権律師公円、<若狭国、>
   已上番僧六口、
次向良意僧都房、被始中宮(篤子内親王)御仏、白檀二十五分、愛染王也、(後略)
殿暦 承徳2年
(1098)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏会】
(未入力)
時範記 承徳2年
(1098)
6月20日 【五壇修法。中宮(篤子)御料】
 今日候内、仍不参院、今朝五壇修法被結願、又被供養新写大般若経云々、今日法印権大僧都良意、中宮(篤子内親王)御料於石山寺奉供養銀如意輪像、<件御仏起自叡慮、以納殿金銀奉鋳之、下官為行申[事]、依為宮司也、是別御願也、事秘之故不注之、>御供養之次、即被始御修法、(後略)
中右記 承徳2年
(1098)
8月23日 【仁王会沙汰。中宮(篤子)、春日社に参篭のこと】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
9月22日 【藤原賢子國忌、中宮(篤子)僧前を進めず】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
10月26日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
10月29日 【藤原苡子、堀河天皇に入内】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
10月30日 【中宮(篤子)不予平復】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
11月2日 【中宮(篤子)不予のこと】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
11月22日 【中宮(篤子)の殿上淵酔を師実が指示】
(未入力)
殿暦 承徳2年
(1098)
11月23日 【五節童女御覧、中宮(篤子)昇御】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
12月22日 【除目。中宮(篤子)御給】
(未入力)
中右記 承徳2年
(1098)
12月26日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
1月2日 【時範、中宮(篤子)に参上】
 早旦著衣冠参大殿(藤原師実)、御輿之後退出、参殿(藤原師通)、頃之退出、午刻著束帯帰参、申刻有臨時客事、訖令参大殿給、于時酉刻也、下官退出、参左大将殿(藤原忠実)、次参中宮(篤子内親王)、次参左府(源俊房)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
1月9日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 早旦参内、参宮御方(篤子内親王)、次参殿(藤原師通)退出、依少所労不参修正、大殿(藤原師実)北政所(源麗子)令入内給云々、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
1月11日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 午刻参内、候宮御方(篤子内親王)、晩頭退出、入夜法成寺、大殿(藤原師実)不参御、頃之参法勝寺、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
1月12日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 早旦参殿(藤原師通)、次為御使参大殿(藤原師実)、申刻帰参申御返事、晩頭参内、入夜退出、参法成寺、両殿(藤原師実・師通)参御、頃之参法勝寺、及深更参宮御方(篤子内親王)、退出、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
1月19日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 巳刻参殿(藤原師通)、為御使参大殿(藤原師実)、即以気帰参申御返事、申刻参内、参宮御方(篤子内親王)、入夜退出、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
1月27日 【時範、宮御方(中宮篤子)に宿直】
 早旦参大殿(藤原師実)沙汰高野詣事、申刻参大殿、次参院(白河法皇)、以播妙[州]令申假事、次帰畢、入夜参内、宿侍宮御方(篤子内親王)、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
2月2日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参大殿(藤原師実)、依御忌日渡御宇治殿、関白殿(藤原師通)同以参御、午刻参院(白河法皇)、入夜参宮(篤子内親王)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
2月3日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参大殿(藤原師実)、沙汰高野詣事、午刻参殿(藤原師通)、次参宮(篤子内親王)、申刻帰畢、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
2月4日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 早旦参大殿(藤原師実)、次参殿(藤原師通)、次参内、参宮御方(篤子内親王)、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
2月6日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 早旦参大殿(藤原師実)、次参殿(藤原師通)、被立大原野神馬使、文章生(藤原)有隆為使、依雨儀於東中門有此儀、事畢参内、候于宮御方(篤子内親王)、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
2月8日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 早旦参殿(藤原師通)、次参大殿(藤原師実)、次参宮御方(篤子内親王)、次参内御方(堀河天皇)、次退出、(後略)
後二条師通記
本朝世紀
承徳3年
[康和元年]
(1099)
3月28日 【中宮(篤子)小弓、蹴鞠、管絃、和歌】
(未入力)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月6日 【時範、宮(篤子)に参上】
(前略)入夜参大殿(藤原師実)、次参宮(篤子内親王)、次参殿上、
後二条師通記
時範記
承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
『後二条師通記』
(未入力)

『時範記』
 早旦参大殿、次参殿、申刻参宮(篤子)、依御灌仏也、酉刻内御方(堀河天皇)御灌仏了、所司持参山形、御裝束了、右大将(源雅実)、二位中納言、右衛門督(源雅俊)、大宮権大夫(藤原季仲)、新宰相中将(源国信)参上、御灌仏儀如恒、入夜退出、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月13日 【時範、宮御方(篤子)に参上】
 早旦参大殿(藤原師実)、申定御賀茂詣舞人事、午後参高倉殿(祐子内親王)、次参内、候宮御方(篤子内親王)
晩頭大殿令参給、臨暮退出、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月15日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参大殿(藤原師実)、申刻参殿(藤原師通)、入夜参宮(篤子内親王)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月19日 【宮(中宮篤子)不例】
(前略)次参内宿侍、自去夕宮(篤子内親王)不例御也、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月20日 【時範、宮(中宮篤子)に宿直】
 巳刻退出、参大殿(藤原師実)、次参関白殿(藤原師通)、申刻帰参宮(篤子内親王)、今夕宿侍、今日被仰殿御前事了、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月21日 【時範、宮(中宮篤子)に宿直】
 早旦参両殿(藤原師実・師通)、沙汰雑事、申刻帰参宮(篤子内親王)宿、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月22日 【宮(中宮篤子)、病悩により御卜】
 早旦於宮(篤子内親王)被行御卜、依御悩也、奏事日之後退出、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月26日 【時範、中宮(篤子)に宿直】
(前略)入夜参中宮(篤子内親王)宿侍、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月27日 【宮(中宮篤子)不例】
 今日候宮(篤子)、依不例御也、今夕宿侍、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
4月28日 【宮御方(中宮篤子)大般若読経】
(前略)次宮御方(篤子)被始大般若御読経、仁王講、此間心神乖例相扶祇候、事了帰了、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月3日 【時範、宮御方(中宮篤子)に参上】
 今日参両殿、次参内、参宮御方(篤子)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月10日 【宮(中宮篤子)風気】
 早旦参殿、午後退出、参内、此一両日宮(篤子)有御風気、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月11日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参大殿、次参宮(篤子)、申刻退出、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月11日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
(前略)次参宮(篤子)、及深更退出、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月13日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参大殿、次参殿、次参宮(篤子)、自内依有御消息参大殿、即以帰参申御返事、次退出、入夜帰参宿侍、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月16日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参宮(篤子)、次参両殿、午後退出、
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月17日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参関白殿、次参大殿、次参宮(篤子)、(後略)
時範記 承徳3年
[康和元年]
(1099)
6月18日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参両殿、次参宮(篤子)、(後略)
時範記 康和元年
(1099)
閏9月16日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 早旦参宮(篤子)、今日被始新写、(後略)
長秋記 康和元年
(1099)
閏9月21日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記目録
長秋記
本朝世紀
康和元年
(1099)
10月2日 【中宮(篤子)不予により、八社奉幣使を発遣】
(未入力)
時範記 康和元年
(1099)
10月17日 【千巻観経】
 以十口僧、千巻観経、<宮御方(篤子)>
今日延暦寺加地僧侶十二口奉仕供不動供八壇、(後略)
中右記目録
本朝世紀
康和元年
(1099)
10月24日 【中宮(篤子)不予により、獄囚四十余人を放免】
(未入力)
時範記 康和2年
(1100)
1月15日 【時範、宮(中宮篤子)に参上】
 参宮(篤子)、被始随求御修法、(後略)
時範記 康和2年
(1100)
1月18日 【熾盛光御修法のこと】
 今夕座主(仁覚)於山上、以十六口番僧被行熾盛光御修法、依宮(篤子)御祈也、
殿暦 康和2年
(1100)
2月1日 【中宮(篤子)御遊】
(未入力)
殿暦 康和2年
(1100)
2月22日 【中宮(篤子)御卜】
(未入力)
殿暦 康和2年
(1100)
7月17日 【藤原忠実、中宮(篤子)に慶賀を申す】
(未入力)
時範記 康和2年
(1100)
8月10日 【宮(中宮篤子)御仏供養】
 今日山御願供養也、(中略)宮(篤子内親王)有御仏供養、不動尊、即奉行、御修法寛慶法眼行之云々、
殿暦 康和2年
(1100)
8月16日 【中宮(篤子)行啓なし】
(未入力)
時範記 康和2年
(1100)
8月19日 【宮(中宮篤子)御修法】
 被始宮(篤子内親王)御修法、薬師、<座主、>不動、<仁源、>降三世、<実慶、>軍タリ、<静意、>大威徳、<尋仁、>金剛夜叉、<兼賢、>
時範記
中右記目録
康和2年
(1100)
9月4日 【中宮(篤子)不予、三条第に行啓】
『時範記』
 戌刻中宮(篤子内親王)依御悩出御(藤原)基隆朝臣第、北面差申御車、<貞信公(藤原忠平)糸毛、>(賀茂)道言可奉仕反閇、右苻[府](藤原忠実)、民部卿(源俊明)、権大納言(藤原家忠)、新大納言(藤原公実)已下供奉、薬師御修法、自今夕以七仏薬師儀被遂行云々、

『中右記目録』
(未入力)
時範記 康和2年
(1100)
10月4日 【宮(中宮篤子)、新写大般若経を供養】
 今日宮(篤子内親王)被供養新写大般若経、仍早旦参上、(見せ消ち)令奉仕御装束、其儀撤御帳座巻帷、立仏台懸御仏、<初[新]写釈迦像、>毎間懸彩幡、仏前立香花仏供机、其左右供燈明、御帳挑之、北辺立聖供机、当仏前西庇立礼版、
為導師座、前机安第一巻、自棟副戸西掖西行、敷高麗端帖為僧綱座、母屋第一間及西庇舗紫端帖[為脱カ]凡僧座、南庇一行舗同帖為同座、<至于南第一間相対舗之、>立経机卅前、安置御経、●末座前立磬、仏前簀子立行香散花机、同簀子敷高麗端帖為公卿座、南弘庇舗紫端帖為堂童子座、<一行、依無便宜、立北方座、>巳刻権少僧都貞尋、権律師慶増、定真、法橋定秀以下皆参、講師法印権大僧都覚信遅参、仍可被供養転読之故、僧侶先昇、蜜[密]々揚題者、且以転読、未刻民部卿(源俊明)、権大納言(藤原家忠)、二位中納言(藤原経実)、左衛門督(藤原公実)、権大夫(藤原能実)、大宮権(藤原季仲)、右兵衛督(源師頼)、左宰相中将(源顕通)、源宰相(能俊)、新宰相中将(藤原忠教)、大蔵卿(源道良)参上、申刻導師参上、権大夫以下官被尋事由、被仰下可打鐘之由、次公卿著座、次衆僧参上、導師就礼版撃磬、堂童子大夫四人著座、唱唄之後分花筥 次散花行道、次堂童子収花筥退入、導師敬白、次転読如例、事了有行香、侍長取火▲、次賜布施、導師被物一重、権大夫取之、布施絹廿疋、権亮(源顕通)取之、僧都七疋、律師法橋各五疋、凡僧三疋、公卿以下取之、事了参京極殿、大殿(藤原師実)出御々堂南庇、下官参御前、可令勘日時之由退出、下知(賀茂)光平(安倍)泰長令勘之、次持参覧之、次下官執帋筆参上書定文、書了覧之、公卿見了如元下給、下官取帋筆退入、参入公卿、権大納言、二位中納言、権大夫、新宰相中将、大蔵卿也、次持参宮啓之、

●=㝡(ウ冠+取。最の異体字。こちらを参照(字源))
▲=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源))
百錬抄
天台座主記
元享四年具注暦裏書
ほか
康和2年
(1100)
10月7日 【中宮(篤子)天台梶井西南院の供養】
『百錬抄』
 中宮(篤子)御願天台梶井供養。

『天台座主記』
(未入力)

『元享四年具注暦裏書』
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和2年
(1100)
11月2日 【中宮(篤子)、藤原顕季の六条第に行啓】
(未入力)
中右記目録 康和2年
(1100)
12月14日 【中宮(篤子)入内】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記
ほか
康和3年
(1101)
2月13日 【前関白太政大臣藤原師実薨去】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
3月21日 【藤原師実法事。中宮(篤子)・前斎院(令子)より御誦経】
(未入力)
時範記 康和3年
(1101)
3月29日 【中宮(篤子)御修法のこと】
 今日宮(篤子内親王)被始御修法二壇、薬師、<覚澄、>不動、<増賢、>日曜供、<元証、>奎星、<明算、>御読経、<薬師、>僧九口、(後略)
時範記 康和3年
(1101)
6月1日 【中宮(篤子)愛染王法等を修す】
 午時参中宮(篤子内親王)、申行御修法事等、雖神事間、於陣外被行之、
愛染王、<御仏新造、仍今日供養、> 禅円、<伴僧四口、>
軍荼利、      経観、<伴僧四口、>
殿暦 康和3年
(1101)
6月16日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
7月22日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
8月6日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
8月22日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和3年
(1101)
9月1日 【中宮(篤子)不予により、藤原国明第に行啓】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
9月7日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和3年
(1101)
9月19日 【中宮(篤子)還啓】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
9月23日 【中宮(篤子)御悩】
(未入力)
朝野群載 康和3年
(1101)
9月25日 【平時範、中宮領荘園の雑務を執行】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
11月22日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
12月14日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年
(1101)
12月28日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
1月1日 【右大弁藤原宗忠、中宮(篤子)に参賀】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
1月9日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
1月28日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
長秋記目録 康和4年
(1102)
1月29日 【中宮(篤子)不予のため、僧三十口に大般若経】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
2月5日 【中宮(篤子)方で御賀の舞御覧】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
2月13日 【藤原師実忌日法会。中宮(篤子)・前斎院(令子)御誦経】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
3月4日 【右大臣忠実参内。忠実と藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
3月9日 【高陽院御賀試楽】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
3月18日 【白河法皇五十算賀。中宮(篤子)行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
4月8日 【中宮(篤子)御灌仏】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
5月17日 【中宮(篤子)仁王会】
(未入力)
長秋記
俊忠集
康和4年
(1102)
閏5月10日 【中宮(篤子)御所に和歌会】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
閏5月19日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
閏5月25日 【堀河天皇と中宮篤子、競馬御覧】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
閏5月28日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
6月1日 【東三条第で競馬。中宮(篤子)女房ら見物】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
7月8日 【藤原忠実・忠通参内。中宮(篤子)より引き出物】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
7月20日 【堀河天皇と中宮(篤子)、法勝寺へ行幸】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
7月21日 【堀河天皇と中宮(篤子)、法勝寺より還幸】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
閏8月1日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
閏9月6日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
9月25日 【堀河天皇と中宮(篤子)、高陽院より還幸】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
10月2日 【中宮(篤子)女房、紅葉見物】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
10月6日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
11月2日 【春日使のこと。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
11月22日 【堀河天皇と中宮篤子、五節童女御覧】
(未入力)
殿暦 康和4年
(1102)
12月12日 【忠実、鳥羽院に参上、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
12月17日 【藤原忠通・泰子着袴。中宮(篤子)、忠通に装束を贈る】
(未入力)
中右記 康和4年
(1102)
12月21日 【中宮(篤子)桂芳坊に方違行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年
(1102)
12月27日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
1月1日 【藤原忠実と藤原宗忠、中宮(篤子)・前斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
中右記
本朝世紀
康和5年
(1103)
1月3日 【中宮(篤子)大饗】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
1月4日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
1月15日 【中宮(篤子)、右大臣忠実の子威徳(忠通)に馬を下賜】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
2月1日 【中宮(篤子)入内】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
2月5日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
2月6日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
2月7日 【中宮(篤子)桂芳坊に渡御】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
3月5日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
重憲記
本朝世紀
康和5年
(1103)
3月22日 【中宮(篤子内親王)、伯母娟子薨去に服喪】
『重憲記』
 是日中宮(篤子内親王)著御服給、依前斎院(娟子)事也、

『本朝世紀』
 是日中宮(篤子内親王)著御服給、依前斎院(娟子)御事也、
重憲記
本朝世紀
康和5年
(1103)
4月25日 【賀茂祭。中宮(篤子内親王)、伯母娟子喪により使なし】
『重憲記』
 賀茂祭也、但中宮(篤子内親王)不被立使、依前斎院娟子御服也、
(※『本朝世紀』も同文につき略)
中右記 康和5年
(1103)
6月18日 【中宮(篤子)証菩提院御堂のこと】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
6月20日 【中宮(篤子)桂芳坊に方違行啓】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
6月30日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
7月1日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
7月6日 【中宮(篤子)御所堀河殿上棟日時を勘申】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
8月11日 【藤原俊忠、中宮殿上にて読経】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
9月6日 【中宮(篤子)御所造作のこと】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
10月5日 【射場始。中宮(篤子)懸物を献じる】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
10月10日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
10月14日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
10月28日 【中宮(篤子)御所にて不動念誦】
(未入力)
殿暦
中右記
本朝世紀
康和5年
(1103)
11月4日 【中宮(篤子)不予により、侍従厨に移徒】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
12月1日 【中宮(篤子)、侍従厨より還啓】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
12月5日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
12月9日 【中宮(篤子)大進仲実、忠実に中宮御所造作について示す】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
12月15日 【中宮(篤子)、大極殿西廊に方違行啓】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
12月16日 【中宮(篤子)御所造作のこと】
(未入力)
殿暦 康和5年
(1103)
12月22日 【中宮(篤子)に慶申】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年
(1103)
12月25日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 康和5年
(1103)
12月28日 【中宮(篤子)、大極殿西廊に方違行啓】
(未入力)
中右記 康和6年
[長治元年]
(1104)
1月1日 【右大弁藤原宗忠、藤壺中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦 康和6年
[長治元年]
(1104)
1月2日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 康和6年
[長治元年]
(1104)
2月3日
(長治元年)
【春日祭奉幣。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
2月18日 【中宮(篤子)基隆宅へ方違行啓】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
3月2日 【中宮(篤子)、堀河殿渡御延引】
中右記 長治元年
(1104)
3月3日 【中宮(篤子)、藤原基隆第に方違行啓】
(未入力)
阿娑縛抄
朝野群載
長治元年
(1104)
3月29日 【中宮(篤子)御所堀河殿に安鎮法を修す】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月2日 【中宮(篤子)、藤原基隆第に方違行啓】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月6日 【中宮(篤子)還啓】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
4月11日 【中宮(篤子)、堀河殿に還御】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月24日 【中宮(篤子)初和歌】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
4月27日 【中宮(篤子)入内、小弓御興】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
5月26日 【白河法皇、中宮(篤子)御願寺の建立を許可】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
6月10日 【中宮(篤子)和歌会】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
7月21日 【中宮(篤子)御物忌】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
7月21日 【法橋仁慧を法眼に叙す。中宮(篤子)御悩祈の賞による】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
8月1日 【弘徽殿御八講。中宮(篤子)、前斎院(令子)参列】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
8月13日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
8月25日 【中宮(篤子)御堂造立の宣旨】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
9月28日 【中宮(篤子)御堂のこと】
(未入力)
殿暦
朝野群載
長治元年
(1104)
9月29日 【中宮(篤子)物気悩】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
10月14日 【延暦寺僧網等僉議のこと。左大臣以下、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 長治元年
(1104)
11月1日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
11月23日 【中宮(篤子)女房、京極殿に参上】
(未入力)
殿暦 長治元年
(1104)
12月1日 【中宮(篤子)行啓定】
(未入力)
殿暦
中右記
百錬抄
長治元年
(1104)
12月5日 【堀河天皇と中宮(篤子)、内裏より堀河院に還御】
『百錬抄』
 遷幸中宮(篤子)御所堀川院。<去八月十一日中宮先移徒。元是関白領也。被譲進之。>
殿暦
中右記
長治元年
(1104)
12月23日 【行幸行啓定】
(未入力)
中右記
ほか
長治元年
(1104)
12月28日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
1月1日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
長秋記 長治2年
(1105)
1月5日 【東宮行啓。中宮(篤子)女房出車】
(未入力)
永昌記 長治2年
(1105)
1月10日 【藤原為隆、中宮(篤子)に参上。卯杖行事】
(未入力)
永昌記 長治2年
(1105)
1月15日 【兵部手番、中宮(篤子)御願寺敷地の事で、藤原為隆を右大臣忠実第に派遣】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
1月16日 【藤原宗能慶申。中宮(篤子)に参上】
(未入力)
永昌記 長治2年
(1105)
1月28日 【中宮(篤子)御願寺造立日時を定める】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
2月8日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
2月29日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
閏2月2日 【中宮(篤子)不例により三社に奉幣】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
閏2月11日 【内及び中宮(篤子)物忌】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
閏2月13日 【中宮(篤子)女房但馬(宗忠妻)卒去】
(未入力)
殿暦
中右記部類
長治2年
(1105)
閏2月17日 【仁王会。白河院、中宮(篤子)、東宮へ参上】
(未入力)
殿暦
中右記
古今著聞集
十訓抄
体源抄
玉葉集
ほか
長治2年
(1105)
閏2月24日 【中宮(篤子)花合】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
3月9日 【威徳(藤原忠通)、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
3月17日 【中宮(篤子)御立所のこと】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
3月30日 【御祈始。中宮(篤子)、御経供養】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
6月8日 【堀河天皇と中宮(篤子)、堀河院より内裏に行幸】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
6月20日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
6月26日 【中宮(篤子)御願寺御堂上棟】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
7月2日 【中宮(篤子)御願寺御堂上棟のこと】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
7月7日 【中宮(篤子)内侍雲林院にて多宝塔供養】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
8月3日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
9月3日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
10月3日 【堀河天皇不例。中宮(篤子)参上】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
10月7日 【中宮(篤子)仁王会】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
11月1日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 長治2年
(1105)
12月13日 【藤原忠実、宮御方(中宮篤子)に参向】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
12月20日 【射場始。中宮(篤子)懸物を献じる】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年
(1105)
12月22日 【中宮(篤子)京極殿へ行啓】
(未入力)
中右記 長治2年
(1105)
12月24日 【中宮(篤子)還入内】
(未入力)
殿暦 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
1月1日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
1月1日 【右大弁藤原宗忠、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月4日 【大原野祭。中宮(篤子)使、軽服のため不立】
(未入力)
殿暦 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月6日 【中宮(篤子)御方違】
(未入力)
殿暦
中右記
長治3年
[嘉承元年]
(1106)
2月7日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
中右記 長治3年
[嘉承元年]
(1106)
3月26日 【右大弁藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
4月24日 【賀茂祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
5月3日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
5月13日 【最勝講。中宮(篤子)参列】
(未入力)
殿暦 嘉承元年
(1106)
5月23日 【中宮(篤子)御堂行事】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承元年
(1106)
5月23日 【阿波守中宮亮源高実卒去】
(未入力)
永昌記 嘉承元年
(1106)
6月7日 【堀河天皇御物忌】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
6月17日 【中宮(篤子)、侍従厨に方違行啓】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
7月13日 【中宮(篤子)、侍従厨に方違行啓。中宮御願寺の御門上棟】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承元年
(1106)
8月27日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
永昌記
殿暦
嘉承元年
(1106)
9月3日 【中宮(篤子)御燈御禊。中宮不予】
(未入力)
永昌記
殿暦
嘉承元年
(1106)
9月4日 【中宮(篤子)日来不例、足を病む】
(未入力)
永昌記
殿暦
嘉承元年
(1106)
9月13日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
9月16日 【中宮(篤子)五社に奉幣】
(未入力)
永昌記 嘉承元年
(1106)
9月18日 【中宮(篤子)五壇法を修す】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
10月13日 【中宮(篤子)、侍従厨に方違行啓】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
11月14日 【公卿ら、中宮(篤子)へ参上】
(未入力)
中右記
殿暦
嘉承元年
(1106)
11月7日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承元年
(1106)
11月27日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
殿暦 嘉承元年
(1106)
12月3日 【中宮(篤子)御方で雪山のこと】
(未入力)
中右記 嘉承元年
(1106)
12月17日 【藤原忠通、中宮(篤子)より装束を賜る】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
12月25日 【堀河天皇と中宮(篤子)、堀河院に行幸。中宮、仏像を法成寺に供養】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年
(1106)
12月25日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
2月28日 【関白(忠実)以下、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
俊忠集
千載集
夫木和歌抄
嘉承2年
(1107)
3月12日 【中宮(篤子)の女房公卿殿上人等、観花和歌を詠む】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
(未入力)

『俊忠集』
(未入力)

『千載集』
(未入力)

『夫木和歌抄』
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
3月30日 【中宮(篤子)和歌御会】
『中右記』
 晩頭參内、申院御返事了、(中略)
後聞、源中納言(国信)・左宰相中將・左京大夫・藤宰相等、殿上人十餘輩、於御前俄有和歌興、是當座乱題、於中宮(篤子内親王)御方披講云々、(後略)
殿暦 嘉承2年
(1107)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
4月26日 【藤原忠通元服。中宮(篤子)へ慶申】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
5月2日 【中宮(篤子)御堂のこと】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
7月17日 【七仏御薬師修法のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
7月18日 【堀河天皇病状悪化、中宮(篤子)参内】
(未入力)
殿暦
中右記
為房卿記
ほか
嘉承2年
(1107)
7月19日 【堀河天皇崩御】
(未入力)
鳥羽天皇
史料 月日 記述
中右記 嘉承2年
(1107)
7月24日 【故堀河天皇葬送。中宮(篤子)御衰日】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
7月29日 【中宮(篤子)素服を著す】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
8月5日 【中宮(篤子)阿弥陀護摩を香隆寺に修める】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
8月30日 【中宮(篤子)御方で御簾・御座改め】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
9月3日 【中宮(篤子)、堀河天皇御法会奉仕の諸僧に布施を賜る】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
9月7日 【中宮(篤子)、御衰日により御誦経を修せず】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
9月8日 【中宮(篤子)の尊勝寺阿弥陀法等の結願を停止】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
9月21日 【中宮(篤子)出家】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
9月23日 【中宮(篤子)御懺法を堀河院で行う】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
9月26日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 嘉承2年
(1107)
10月10日 【忠実室、堀河院の中宮(篤子)御方に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
閏10月12日 【中宮(篤子)仏像を堀河院に供養、法華八講を修め、堀河天皇の冥福を祈る】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
閏10月16日 【中宮(篤子)御八講結願】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年
(1107)
11月7日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 嘉承2年
(1107)
12月20日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月2日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月3日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
讃岐典侍日記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
1月19日 【中宮(篤子)不予。御仏経供養を行う】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月1日 【中宮(篤子)御邪気】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月17日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
2月21日 【中宮(篤子)一品経を講する】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月4日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月7日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月16日 【中宮(篤子)御悩】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月27日 【中宮(篤子)御物忌】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
3月30日 【中宮(篤子)行啓のこと】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月7日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
4月12日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
5月19日 【中宮(篤子)、御仏供養を行う】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月13日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月21日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月23日 【中宮(篤子)、堀河天皇の為に三尺普賢像及び経一部を供養】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
6月24日 【源麗子、堀河天皇の為に仏事を中宮(篤子)御所に修める】
(未入力)
殿暦 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
7月1日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
讃岐典侍日記
嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
7月18日 【中宮(篤子)千部御経供養結願】
(未入力)
中右記 嘉承3年
[天仁元年]
(1108)
7月28日 【中宮(篤子)素服を除く】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
8月19日 【堀河院国忌。中宮(篤子)例講】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
9月13日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
9月27日
(天仁元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁元年
(1108)
10月4日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
11月7日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 天仁元年
(1108)
12月24日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
1月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏停止】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
6月23日 【中宮(篤子)御堂に仏像安置】
(未入力)
百錬抄 天仁2年
(1109)
6月29日 【中宮職、京極堂供養】
 中宮職供養京極堂。
殿暦 天仁2年
(1109)
7月11日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
8月18日 【白河法皇、鳥羽殿で御塔供養】
(未入力)
殿暦 天仁2年
(1109)
10月10日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
1月2日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
永昌記
天仁3年
[天永元年]
(1110)
3月2日 【慶申。中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦 天仁3年
[天永元年]
(1110)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
1月2日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦 天永2年
(1111)
1月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記
ほか
天永2年
(1111)
1月10日 【中宮(篤子)初めて京極堂修正を行う】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
3月19日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記
殿暦
天永2年
(1111)
5月7日 【中宮(篤子)御経を法華堂に供養】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
6月19日 【堀川院例講】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
7月19日 【堀河院国忌】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
10月23日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)・中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 天永2年
(1111)
11月12日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年
(1111)
12月27日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
1月2日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
1月16日 【中宮(篤子)御堂修正のこと】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
3月18日 【藤原忠実、中宮(篤子)に慶申】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏を停止】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
5月8日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
5月11日 【藤原宗忠、皇后宮(令子)・中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
7月19日 【中宮(篤子)御仏経を堀河院に供養】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
9月11日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
9月15日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
9月18日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
9月28日 【中宮(篤子)御読経供養始】
(未入力)
殿暦 天永3年
(1112)
10月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
10月10日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
中右記 天永3年
(1112)
10月15日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年
(1112)
12月26日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月5日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
1月9日 【中宮(篤子)行啓のこと】
(未入力)
殿暦
長秋記
天永4年
[永久元年]
(1113)
2月15日 【中宮(篤子)涅槃講】
(未入力)
殿暦
長秋記
天永4年
[永久元年]
(1113)
3月14日 【中宮(篤子)、童舞を観覧】
(未入力)
長秋記 天永4年
[永久元年]
(1113)
閏3月11日 【中宮(篤子)、御堂より堀河院に還啓】
(未入力)
殿暦 天永4年
[永久元年]
(1113)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏を停止】
(未入力)
殿暦 永久元年
(1113)
7月17日 【中宮(篤子)堀河院御堂供養定】
(未入力)
殿暦
長秋記
ほか
永久元年
(1113)
7月24日 【中宮(篤子)、堀河院御堂を供養】
(未入力)
殿暦 永久2年
(1114)
1月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
4月1日 【藤原忠実、深長(ふこさ)相論田について沙汰】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(前略)次參中宮御灌佛、治部卿被參加、次第如初、秉燭以前退出、(後略)
中右記 永久2年
(1114)
5月16日 【師実・麗子夫妻の仏事に中宮(篤子)参加】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
5月24日 【藤原忠実、深長(ふこさ)相論田について沙汰】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
6月21日 【藤原忠実、深長(ふこさ)相論田について沙汰】
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
7月19日 【中宮(篤子)、堀河天皇の国忌に、堀河院西対御堂で御経を供養】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
8月20日 【中宮(篤子)御逆修結願、観音像供養】
(未入力)
殿暦 永久2年
(1114)
8月28日 【中宮(篤子)御悩】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
9月5日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
9月11日 【中宮(篤子)不予】
(前略)午後退出之次參中宮(篤子)<堀川院、>御惱重御之由、所被談也、
中右記 永久2年
(1114)
9月25日 【中宮大夫源師忠薨去】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
9月26日 【中宮(篤子)不予】
(前略)大略中宮(篤子)一品宮(聡子内親王)御悩、逐日危急、依被●歟、(後略)

●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源))
中右記 永久2年
(1114)
9月29日 【醍醐天皇国忌】
(前略)今日忌、無小考定、
 十月一日、雖可有、又依中宮(篤子)御事止了、仍凡無小考定也、
殿暦
中右記
帝王編年記
百錬抄
公卿補任
ほか
永久2年
(1114)
10月1日 【中宮篤子内親王崩御】
『殿暦』
 雨甚降、早旦早馬、申剋許自中宮亮(藤原)仲實許告送云、日來御心地無術御坐云々、頃之中宮〃司家時、大夫(藤原能実)爲使來云、未剋許中宮(篤子)已萌[崩]給者、乍驚欲馳參之處、主上(鳥羽天皇)御服并明日行幸事極不便也、仍先參院、自本民部卿(源俊明)・別當(藤原宗忠)・大藏卿(藤原為房)候、有此行幸并主上御服沙汰也、仰云、無召先參入条感養[思食?]云々、有沙汰、平座并行幸停止、神殿御裝束事行幸[事?]并(藤原)爲隆許<ニ>遣史生云、神殿御裝束并御所蔀屋御裝束等<を>不可奉仕、有中宮御事、行幸已有延引者、戌剋許各退出、余依方違參四条宮(藤原寛子)<御所大符[内符(源雅実)]土御土[門?]亭也、>除服之後未參、仍惡日也、不參御前、中宮今夜彼宮内侍〃雲林院堂<に(※)>渡給、其儀如蜜[密?]〃行啓、是御遺言云々、件堂中自去春比被儲墓所、<土葬也、新立堂之中可御坐定被造置云々、>渡給之間、御車本宮、御車牛亮仲實進之、權大夫可進上、而依憚日不進也、三日内可渡之由有御遺[言脱?]上、自明日有冬節忌、仍入棺以前渡給也、御車後有女房二人、無先火云々、

※「に」はくずし字。字母は「尓」

『中右記』
 今日未剋中宮(篤子)已崩給了、(中略)
中宮名篤子、後三条院第四女、與太上天皇同母也、知暦四年為内親王、<九、>延久元年叙三品、同五年三月十一日卜定賀茂斎院、五月七日退斎院、<依後三条院崩也、>承暦三年八月准后、是依為祖母陽明門院養子、女院申請也、
寛治五年十月廿五日入内、同七年二月二十二日為中宮、<三十四、>嘉承二年九月為尼、今日崩于堀河院、御年五十五、依年来御悩也、後聞、今夜中宮渡御雲林院掌侍堂、只如御平生時、未入棺先用常御車、女房二人候御車後、(中宮)(藤原)仲実朝臣以下両三人祇候云々、依御遺言也、冬節以前被忿也、
(裏書云)
今夜中宮密々渡御雲林院邊小堂之間、人々騎馬云々、後日民部卿(源俊明)被談云、如此之時先例猶歩行也、賢子中宮崩三条院皇居之後、葬禮以前渡御給経成朝臣四条宅■[之?]時、人々歩行者、後冷泉院母尚侍(藤原嬉子)薨給之後、葬禮以前渡御法興院僧坊給時、人々歩行云々、先々如此、今度騎馬之條不得心者

『帝王編年記』
(鳥羽院後宮)
 中宮篤子内親王<永久二年十月一日崩于堀川院 五十五>

『百錬抄』
(鳥羽天皇)
 中宮篤子崩于堀川院。<五十五。>天皇(鳥羽)著錫紵。依繼母也。先令諸卿定申。上皇(白河)同著御錫紵。

『公卿補任』
(未入力)
中右記
永久2年
(1114)
10月2日 【中宮(篤子)の遺骸を雲林院掌侍堂に葬送】
 或人云、今夜中宮(篤子)奉殯雲林院掌侍堂中地、本建立小堂、其中作壇、壇中乍御棺報収云々、今日御入棺者、
殿暦 永久2年
(1114)
10月4日 【中宮(篤子)仏事】
(未入力)
殿暦 永久2年
(1114)
10月5日 【中宮(篤子)薨奏。天皇錫紵を一日著し、廃朝五日と為す。
法皇、同じく錫紵を著す】
(未入力)
中右記
殿暦
永久2年
(1114)
10月7日 【中宮(篤子)崩御に際し、天皇の服喪期間他を検討】
『殿暦』
(未入力)

『中右記』
 早旦依有召參院、雖御物忌候殿上、民部卿、<俊(源俊明)、>大蔵卿<爲(藤原為房)>、兼參入、頃而殿下令參給、<皆直衣、>頭辨、<實行、>覽諸道勘文、<外記明經、紀傳儒宗在良朝臣、明法、>是中宮(篤子)崩後雜事、主上御錫紵有無日數等事也、内々於院殿上被相定也、大藏卿讀申勘文、頗勘文趣不相定也、但法家勘文稱嫡母由、依一月服可有御錫紵三箇日之由勘申也、仍可定申博士二人、<信貞、明兼、>大外記師遠被召儲也、人々相議云、已構一月御服、依以日易月、可有一日也、而稱三箇日由如何、明法申云、先儒直本勘文勘件旨也、人々被申云、猶此事不可然、一日御錫紵可有也、仰云、一日錫紵不可服由、見延喜御記也、然又故匡房卿昔年郁芳門院(白河皇女)崩給時勘申云、雅明親王(醍醐養子)延喜七[年]十月薨、主上(鳥羽天皇)服錫紵一日中除御、天徳四年四月理子内親王(村上皇女)薨、主上服錫紵一日中除御、雖一日先例有御錫紵也、依彼卿申、永長元年八月上皇服錫紵一日中除御也、<温子中宮(宇多妃、醍醐養母)時依養帝、三箇日錫紵、>只今光平又申云、舊勘文中媄子内親王(一条皇女)寛弘五年五月廿五日薨、<九歳、>主上服錫紵一日中除御也、如此例雖一日着御者、非飛び地被申云、然者一日着御錫紵則除御、何事候哉、但延喜温子皇后依養母志、三日錫紵之由、見御記也、於此中宮者、奉於今上(鳥羽天皇)無所養儀、只任法嫡母繼母之儀也、仍可有一月服之故、一日御錫紵可然歟、仰云、然者今夜着御除御可宜者、又仰云、警固々闕廢朝日數如何、被問大外記、申云、不論親疎、皇后崩時皆五箇日也、仰云、可有五箇日、又仰云、今月賀茂八幡行幸并伊勢公卿敕使被遂如何、被問大外記、申云、皇后崩月内、件兩事殊所不見也、但皇后宮馨子(後三条后)寛治六年九月五日崩、十一日例幣延引、例事猶延引、況於臨時之使哉、仰云、然者御幸伊勢敕使可在来月歟、但承保元年十月三日上東門院(一条后、後一条・後朱雀母)崩給、彼月内有大嘗會御禊、依彼例者何此月内無大神事哉、彼時無御錫紵也、大嘗會例不似常事、猶行幸并伊勢敕使被延可宜者、(後略)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
10月9日 【廃朝五日を三日に改め、上皇錫紵を除く】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
11月1日 【春日祭。中宮(篤子)崩御により、皇后宮(令子内親王)使立たず】
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
11月5日 【故中宮(篤子)五七日忌御法会】
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
11月19日 【故中宮(篤子)七七日忌御法会を堀河院で行う】
『中右記』
 今日又故中宮(篤子)御四十九日正日也、仍於堀川院被行云々、

『殿暦』
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年
(1114)
11月20日 【新嘗祭。故中宮(篤子)の御忌により、童御覧を停止】
『中右記』
 無童御覧、依故中宮(篤子)御事也、今夜新嘗祭、(後略)

『殿暦』
(未入力)
中右記 永久2年
(1114)
12月2日 【故中宮(篤子)御堂のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
永久3年
(1115)
10月1日 【故中宮(篤子)の祥月により、前中宮大夫藤原能実、両部曼陀羅、妙法蓮華経等を図写し、法会を修める】
(未入力)
殿暦 永久4年
(1116)
1月18日 【故中宮(篤子)京極御堂修正のこと】
(未入力)
殿暦 永久5年
(1117)
1月8日 【京都火災。法成寺、中宮(篤子)御堂ほか焼失】
(未入力)
長秋記 元永2年
(1119)
10月27日 【故中宮篤子内親王家の女房、雲林院において十種供養を行う】
(未入力)
長秋記
百錬抄
大治4年
(1129)
3月19日 【証菩提院供養】
『長秋記』
(未入力)

『百錬抄』
 證菩提院供養。件寺。故中宮篤子御願也。
近衛天皇
史料 月日 記述
台記 久安4年
(1148)
11月26日 【篤子中宮先例のこと】
(未入力)
六条天皇
史料 月日 記述
兵範記 仁平2年
(1167)
5月23日 【后封戸停止前例】
(未入力)
高倉天皇
史料 月日 記述
兵範記 嘉応元年
(1169)
12月15日 【中宮篤子内親王崩御の先例】
(未入力)
玉葉 承安2年
(1172)
8月21日 【九条良通着袴。忠通着袴の先例、中宮篤子から装束のこと】
(未入力)
玉葉 安元元年
(1175)
7月23日 【中宮篤子、忠通を養子としたこと】
(未入力)



史料 記述
十三代要略
後三條院
(皇女)
 篤子内親王 母同(贈從二位藤原茂子<權大納言能信女。>)。
  延久元年六月十九日。三品。
  同五年三月十一日。卜定賀茂齋院。

白河院
 延久五年 三月十一日。卜定賀茂斎院。<篤子内親王。>
      (五月)七日。太上皇終崩給。<年四十。>

堀川院
 寛治五年 (十月)廿五日。三品馬[篤]子内親王入内。<卅二。>
 寛治七年 (二月)廿三日。以馬[篤]子内親王。爲中宮。
      (三月)廿二日。中宮立后之後。初行啓于大内。
 康和二年 十月七日。供養中宮御願寺。
 長治元年 十二月五日。行幸中宮御所堀川院。
 長治二年 (正月)五日。行幸法皇大炊御門仙居。后宮行啓。
 嘉承元年 (十二月)廿五日。行幸中宮堀川院。
(後宮)
 中宮 篤子内親王<後三條院第四/女母同法皇(白河院)。>
  寛治五年十月廿五日。入内。<卅二。>
  同七年二月。爲中宮。
  嘉承二年九月廿一日。爲尼。<四十八。>

鳥羽院
 永久二年 十月一日。中宮崩于堀川院。<五十五。>
一代要記
後三條院天皇
(皇女)
 篤子内ヽヽ[親王]<治暦四ー八月十四日爲内親王、延久元ー六月十九日敍三品、同五ー三月十一日卜定賀茂齊、同五ー七月[日]退之、依天皇登霞也、>

白河院天皇
(賀茂)
 篤子内ヽヽ[親王]
 <延久五ー三月十一日賀茂齊、同七[五]月退之、太上天皇登霞、寛治五ー入内、>

堀河院天皇
(後宮)
 中宮 篤子内ヽヽ[親王]<後三條院第四女、寛治五ー十月廿五日入内、<卅二、>即爲女御、同七ー三[二]月廿二日冊爲中宮、嘉祥二ー [九]月廿一日落餝爲尼、>

鳥羽院天皇
(後宮)
 中宮 篤子内親王<嘉承三[二]ー 月 日出家、永久二ー十月一日崩、<五十五、>>
帝王編年記
後三條院
(皇女)
 「中宮」篤子〃〃〃[内親王]<堀川/院后>

堀河院
(後宮)
 中宮篤子内親王<後三條院第四皇女/寛治七年三月廿二日立后>

鳥羽院
(後宮)
 中宮篤子内親王<永久二年十月一日崩于堀川院/五十五>
二中歴
(齋院)
 篤子<同(後三條)女延久五年 後爲堀川院中宮>

(后妃)
 篤子<中宮篤子内親王先朝御女先朝后>
皇代暦
白河天皇
(齋院)
 篤子内親王 後三條四女建[延]久五年卜定寛治五年入内

堀河天皇
(後宮)
 中宮篤子内親王 今上后後三條院女

鳥羽天皇
(後宮)
 中宮篤子 永久二年十月一日崩於堀川院五十五
本朝皇胤紹運録
(後三條院子)
篤子内親王[齋院准后。堀河院御時中宮。母同(能信卿女。實公成卿女。)]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
篤子内親王<准三后。> 延久五年卜定。同(後三條院)第七御女。母同上(贈皇太后茂子)。後堀河院中宮。
賀茂斎院記
篤子内親王
後三条院第七皇女也。母同佳子。或曰女御基子。<源基平之女。>
延久五年卜定。其後堀河院納之為中宮。
栄花物語
(36・根合はせ)
【東宮御息所茂子と所生の皇子女】
 東宮大夫(能信)の滋野井の女御殿(茂子)、男御子一所(貞仁親王=白河天皇)、女宮三所四所(聡子内親王、俊子内親王、佳子内親王、篤子内親王)おはしまして、いと頼もしくめでたく見えさせたまふ。
栄花物語
(38・松のしづえ)
【篤子内親王の斎院卜定】
 今の斎院(佳子内親王)も、わづらはせたまひて、おりさせたまひぬれば、女院(陽明門院禎子内親王)におはしましつる四の宮(篤子内親王)ゐさせたまひぬ。高倉殿の宮(祐子内親王、後朱雀皇女)、斎院にゐさせたまふべしなどいふことありて、今さらにとや思しめしけん、尼にならせたまふとて、十二月の八日、戒受けさせたまふとののしれど、人は「ならせたまはぬ」とも申すめるは、いづれかまことならん。内(後三条天皇)にはいみじくむつからせたまひて、年官年爵(つかさかうぶり)とまるなど、世人は申すめり。
栄花物語
(40・紫野)
【大嘗会御禊】
 御禊十月二十一日なり。(中略) 摂政殿(師実)をはじめたてまつりて、残りたまふ人なく仕うまつりたまへり。殿の上(師実室麗子)、姫宮たち、院(白河院)、前斎宮(媞子内親王)などみな御桟敷にて御覧ず。陽明門院、四の宮(篤子内親王)なども御覧じけり。
讃岐典侍日記
(上)
【中宮篤子、病床の堀河天皇を見舞う】
 大殿(関白忠実)立たせたまひぬれば、引き被きたる単衣引き退けて、うちあふぎまゐらせなどするほどに、宮(中宮篤子)の御かたより、宣旨、おほせ書きにて、「三位(藤原兼子、作者の姉)などのさぶらはるるをりこそ、こまかに御有様も聞きまゐらすれ、おほかたの御返りのみ聞くなん、おぼつかなき。昔の御ゆかりには、そこをなんおなじう身におぼしめす。今の御有様、こまかに申させたまへ」とあり。「たが文ぞ」と問はせたまへば、「あの御かたより」と申せなば、「昼つかた、のぼらせたまへ」とおほせごとあれば、さ書きて。
 (中宮が)参らせたまへば、昼つかたになるほどに、道具など取り退けて、みな人々、うちやすめとておりぬ。(中略)
 しばしばかりありて、御扇打ち鳴らして召す、「それ取りて」とおほせらるべきことありければ、召して、「なほ障子立ててよ」とおほせらる。なほ(帝が中宮に)おほせらることありと見えたり。立ち退く。御障子立てて、(中宮が)「御扇ならさせたまへ」と申させたまひければ、御障子開くこと、無期になりぬ。
 夕つかた、帰らせたまひぬれば、たれもたれも参りあひぬ。(中略)

 例の御かたより(中宮から作者へ)人つかはしたり。「さる心などなき人と聞けば、せめて思ひやるかたのなければ、いふなり。こなたへただ今のぼり参りなんや。道などぞふたがりて、かたはらいたくおぼしめせ」とおほせられたれば、いかでかは参らじと申さん、「うけたまはりぬ」と申したれば、「さらば、今のほどに」とおほせられたれば、参りぬ。
 離れぬ人(縁のある人)なれば、宣旨をぞあはせさせたまひて、御心地の有様問はせたまふ。見まゐらするままに申さんも、おびただしく申しちらしけりなど、漏れ聞こえてあしきこともやなどおぼゆれば、さもえ申さず。また、わざと召して問はせたまふに、申さざらんもあしかりぬべければ、「ただ、のぼりて見まゐらせたまへ。さは、いみじう苦しげに見えさせたまふ」と申せば、「さは、もしや通りよからんひまに」と申して、とくかへしつかはしつ。(中略)
 かやうののちならば、夜も明けぬべければ、「宮の御かたより召しつれば、参りたりつれば、かうかうこそおほせられつれ」と申す。「道の所せきぞ」と弱げにおほせらるる、苦しげにおぼしめしたり。殿にも、「のぼりて見せまゐらせばや」と申させたまひければ、今のほど宮のぼらせまゐらせん、ものさわがしきからぬさきにと思ふに、「のぼらせたまひぬれば。『御かたはらに人のなきがあしきぞ』とさたせられて、そのよしを申されるなめり、帰り参らせたまひて、『ただ典侍ばかりはさぶらへ』とおほせらるる」とて、三位殿おはして、殿たち、みな障子の外に出でさせたまひぬ。(中略)
「宮のぼらせたまひたり」と案内申せば、「いづら、いづこ」などおほせらるるは、むげに御耳も聞かせたまはぬにやと思ふに、心憂くおぼゆ。「その御几帳のもとに」と申せば、「いづら」と、御几帳のつまを引き上げさせたまへば、(中宮が)「ここに」と申させたまふ。ものなど申させたまはんとぞおぼしめすらんと思へば、御あとのかたにすべりおりぬ。ちがひて、長押のうへに宮のぼらせたまひ、しばしばかり何ごとにか申させたまふ。殿の御声にて、「ひさしくこそなりぬれ。御かゆなどはや参らせんや」とおほせらるるに、宮、聞かせたまひて、「今は、さは、帰りなん。明日の夜も」とおほせられて、帰らせたまひぬ。
讃岐典侍日記
(下)
【讃岐典侍、中宮の三十講に参上、中宮篤子と対面】
 宮の御かた(中宮篤子)に、三十講をおこなはせたまふとて、法華経を日に一品づつ講ぜさせたまふ。それ聞きに三位殿(藤原兼子、作者の姉)の参らせたまふに具して参りて、講などはてて、御前近く三位殿を召せばさぶらはる。宰相とてさぶらはるる人、「三位殿はいますこし近く参らせたまへ。典侍どのは今ははづかし」といふを聞かせたまひて、「それしもこそこころざし見ゆれ。見だてなく思ひ出でもなげに見ゆるところを、忘れず見ゆる」とおほせられもはてず、むせかへらせたまへる音の聞こゆるに、われも堪へがたし。

【諒闇明け】
 (嘉承3年)七月にもなりぬ。御はて(一周忌)とてののしりあふ。その日(7月19日)になりぬれば、こぞの(四十九日の)御法事おなじごと百僧なり。ありさま同じことなればとどめつ。
 こぞより後、女房六人をとゞめつ、宮の御方(中宮篤子)にあつかはせ給へるが、「今はまかでなんずるがあはれに悲しき事、かやうに侍りつればこそ、月などに参らせ給ひしを、月たちては、とく其の日になれかしと数へくらされて待ち参らすれば、今はさは見参らするが心うき」と、誰も誰も言ひあひて泣くこと限なし。泣きあふこと果てぬれば三位殿たちて出でぬ。またの出雲といふ女房のよみて北面のつぼの薄にむすびつつ
  今はとて別るる秋の夕暮は尾花が末も露けかりけり
と詠みたりつれと聞くもあはれなり。
富家語
(九六)
 仰云、東洞院西、六角南一丁<ハ>、六角斎宮(善子内親王)御坐所也。件家<ハ>伊与守(源)国明朝臣家也。故殿(藤原師実)<モ>暫御坐。又堀川院中宮(篤子内親王)、御悩間<モ>令渡給<キ>

(一二一)
 仰云、前斎宮斎院人妻<ニ>成給<ハ>先例無子息。藤壺中宮(篤子内親王?)<モ>無皇子。
今鏡
(2・玉章)
 さて、この(堀河天皇の)御時に御息所はこれから定められ給へりけれども、御叔母の前斎院(篤子)ぞ女御に参り給ひて、中宮に立ち給ひし。
 ことのほかの御齢(よわい)なれど、幼くよりたぐひなく見とりたてまつらせ給ひて、ただ四宮(篤子)をとかやおぼせりければにや侍りけむ。
 参らせ給ひける夜も、いとあはぬ事にて、御車にもたてまつらざりければ、暁近くなるまでぞ心もとなく侍りける。鳥羽の御門の御母の女御殿(苡子)もまゐり給ひて、院(白河院)もてなし聞えさせ給へば、はなやかにおはしまししかども、中宮は尽きせぬ御心ざしになむ聞えさせ給ひし。女御うせさせ給ひての頃、

  梓弓春の山べの霞こそ恋しき人のかたみなりけれ

と詠ませ給へりけるこそ、あはれに御なさけおほく聞え侍りしか。
今鏡
(6・ますみの影)
 白河院一つ御腹の御妹は、仁和寺の一品宮とて、近くまでおはしましき。聡子内親王と申すなるべし。(中略)
 その妹にて、篤子の内親王と申ししも、みな同じ御はらからなり。はじめ延久元年、賀茂の斎院(いつき)に立ち給ひて、同(おなじき)五年に院(父後三条院)うせさせ給ひしかば、前斎院(さきのさいいん)にておはしまししに、祖母(おば)の女院(陽明門院)の御譲りにて、准后御封など賜はらせ給へりし程に、堀川の帝の御時、后にたち給ひき。帝よりは、御としことのほかにおとなにおはしければ、世にうたふ歌なむ侍りけるとかや。


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