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18代斎院 娟子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
けんし きよこ
(または「うるわしこ」か)
一品
両親 生年月日 没年月日
父:後朱雀天皇(1009-1045)
母:皇后禎子内親王[陽明門院]
  (1013-1094,三条皇女)
長元5年(1032)9月13日 康和5年(1103)3月12日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
後朱雀(1036~1045,父) 卜定:長元9年(1036)11月28日
   (源道成宅)
初斎院:長暦元年(1037)4月13日
   (右近衛府)
本院:長暦2年(1038)4月?
退下:寛徳2年(1045)1月18日
   (または1月16日?)
天皇(父)崩御?(または譲位)
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
良子(1030-1077,同母姉) 卜定:長元9年(1036)11月28日
初斎院:長暦元年(1037)4月3日
   (大膳職)
野宮:長暦元年(1037)9月1日
群行:長暦2年(1038)9月11日
   (長奉送使:藤原資平)
退下:寛徳2年(1045)1月16日
天皇(父)譲位

略歴:
 長元5年(1032)(1歳)9月13日、誕生。
 長元9年(1036)(5歳)4月17日、父後朱雀天皇践祚。(7月10日即位)


7月10日、後朱雀天皇即位。


11月28日、後朱雀天皇の斎院に卜定。(当時は女王)


12月5日、内親王宣下。


(卜定、宣下共に同母姉良子内親王(斎宮)と同時)


12月20日、着袴。
 長暦元年(1037)(6歳)4月13日、初斎院(右近衛府)入り。
 長暦2年(1038)(7歳)4月?、紫野院入り。
 長久3年(1042)?(11歳)一品。
 寛徳2年(1045)(14歳)1月16日、後朱雀天皇譲位、異母兄後冷泉天皇践祚。

1月18日、父後朱雀上皇崩御。

同月、斎院退下。(父帝の譲位または崩御による)
 天喜5年(1057)(26歳)源俊房と密通。9月、俊房に降嫁。
 承保4年(1077)(46歳)8月19日、疱瘡により重態、落飾。(26日姉良子内親王薨去)
 康和5年(1103)(72歳)3月12日、薨去。

号:狂斎院
同母兄弟:良子内親王(1030-1077,斎宮,一品)
     後三条天皇(1034-1073)
夫:源俊房(1035-1121,いとこおじ)

斎院長官:藤原経家(長暦2年(1038)4月8日同4年(1040)4月以前)
     藤原章経(長暦4年(1040)4月7日以前~?)

後朱雀天皇第二皇女。
 母禎子内親王は、父後朱雀天皇の従兄妹。
 (※後朱雀の母・上東門院彰子と禎子の母・妍子が姉妹)
 19代禖子内親王、20代正子内親王の異母姉。
 夫源俊房は、父後朱雀・母禎子双方の従兄弟にあたる。
 斎院長官藤原経家は小野宮流公任の孫で、娟子の大叔父頼通の子の定綱(師実の同母兄)を養子とした。

      藤原道長
       |
       ├────┬────────────┐
       |    │            │
 源師房===尊子   彰子=====一条天皇  妍子===三条天皇
     |    [上東門院] │           │
     |      ┌───┴───┐       │
     │      │       │       │
     │    後一条天皇   後朱雀天皇=====禎子
     │                   │ [陽明門院]
     │         ┌───┬─────┤
     │         |   │     │
    源俊房=======◆娟子  良子  後三条天皇
                   (斎宮)

『小右記』によれば、娟子内親王誕生の際、母禎子内親王は非常な難産であったという(※ただし実資自身が直接禎子内親王の御所に参上したわけではなく、養子の中納言資平からの伝聞である)
 娟子誕生当時の天皇は伯父の後一条帝で、父敦良親王(のちの後朱雀帝)は東宮であった。後一条は25歳と若く、従って年子の弟である東宮敦良の即位はまだ先のことと思われていたが、わずか4年後の長元9年(1036)に後一条が29歳で跡継ぎの皇子もないまま崩御、ただちに敦良が即位した。これに伴い、時の賀茂斎院であった馨子内親王(後一条皇女)が父天皇の喪により退下、その後継者として選ばれたのが後朱雀の次女娟子(5歳)であった。また伊勢斎宮も天皇崩御により交替となったため、娟子の同母姉良子内親王(7歳)が娟子の斎院卜定と同日に選ばれた。

 娟子内親王の本院入りに関する記録は残っていないが、長暦元年(1037)4月13日に初斎院入りしたことは判っている。また『中右記』(長承4年3月13日条)に、長暦2年(1038)斎院が初めて紫野院入りしたとの記述があり、この「斎院」は(個人名の記載はないが)明らかに娟子である。さらにこの時、4月8日の灌仏停止を外記が勘申したとあることから見て、従来と同様に4月の賀茂祭の前に入御したものと思われる。なお長暦2年は賀茂祭の記録も残っていないが、4月は朔日が丁卯であるから、斎院御禊は恐らく慣例通り中午日の16日、賀茂祭は中酉日の19日に行われたと見るのが妥当であろう(『春記』(長暦2年11月12日条)の斎院で神楽が奏された記録に「於神殿前庭有此事」とあり、この頃既に斎院娟子は紫野本院にいたことが判る)

 平安中期頃から、今上天皇の娘たる内親王が斎宮・斎院となる例は減少しており、同母姉妹の同時卜定は当時極めて稀であった。しかも后腹の皇女が同時に卜定されたのは、斎宮・斎院史を通じてもこの良子・娟子の二人が唯一の例である(※母禎子内親王が立后したのは翌年2月13日だが、尊貴な内親王にして当時後朱雀の唯一の正妃であり、既に立后が内定していたと見てよかろう)。なお先代後一条天皇の時には、次女の馨子内親王が中宮威子所生ながら斎院とされたが、長女の章子内親王は12歳で着裳と同時に東宮親仁親王(のちの後冷泉天皇)の妃となったこともあって、ついに斎王には選ばれなかった。
 にもかかわらず、後朱雀の嫡出長女・次女である良子・娟子の二人を敢えて斎宮・斎院としたのは、禎子内親王と折り合いの良くない頼通らの圧迫であったとする説がある。良子・娟子の卜定が生母禎子内親王の立后前であり、しかも両名の内親王宣下よりも先だった点も、異例の「后腹内親王の卜定」を避けようと急いだためとも考えられる。
 ただし当時、良子・娟子以外で斎王未経験だった章子内親王(後一条皇女、11歳)は既に一品に叙されており、加えて父帝の喪中であった。また嫄子女王(敦康親王女、21歳)も関白頼通の養女(つまり皇族ではなく藤原氏)として後朱雀の女御代となり、12月には入内が確定していたらしい(『範国記』長元9年12月10日条)。このため当時、他に候補となる未婚内親王がいなかったのも理由のひとつであろう(※なお小一条院の娘が二人いたと思われるが、長女栄子内親王?は当時消息不明、次女儇子内親王は藤原信家との結婚が決定していた可能性が高い)

 なお父天皇の崩御により退下した斎院の例は多いが、天皇譲位で退下した可能性があるのは、2代時子と娟子の二人のみである(26代官子も鳥羽天皇譲位により退下とされるが、『中右記』(大治2年4月6日条)に官子を鳥羽・崇徳2代の斎院とする記述があり、崇徳天皇践祚後の退下と思われる)。ただし娟子の父後朱雀天皇の譲位から崩御まではわずか二日で、しかも当時の史料による記録は存在しない。さらに当時天皇譲位では斎院は退下しないのが慣例であったと見られるため、父上皇崩御による退下であった可能性が高いと思われる(『重憲記』は「寛徳二年正月十六日、退斎居」とするが、この「居」が「宮」の誤りだとすれば、姉の斎宮良子と誤ったことになる。また『一代要記』は譲位による退下とするが、後世の史料で誤りもたびたびあることから信頼性はやや低い。なおさらに時代は下るが、『皇代暦(歴代皇紀)』は「退之依上皇崩御也」としている)
 ともあれ、次の19代禖子内親王(娟子の異母妹)が卜定されたのは娟子退下から1年以上後の諒闇明けであった(※なお諒闇は通常「天皇の父母の喪」を指すが、それ以外に「父母に準じる人物」に対しても服喪した例もある)
※娟子内親王の斎院卜定(並びに姉良子内親王の斎宮卜定)は、非常に珍しく先帝崩御と同年に行われている。
 平安中期以降、先代斎王が天皇・上皇崩御により退下した場合は、退下から一年以上後に(=諒闇が明けてから)新斎王を卜定した例が殆どである(これは新斎王が故先帝の娘の場合に限らず、異なる皇統の皇女・女王でも同様だった)。ただし新帝後朱雀にとって、故先帝後一条は父ではなく兄であったので、三条天皇の時には父冷泉院崩御で翌年延期となった大嘗会が年内に行われている(後冷泉天皇崩御・後三条天皇即位の際も同様)。よって後朱雀の娘(即ち後一条の姪)である良子・娟子姉妹の卜定も、年内で差し支えなかったものと思われる(※なお後一条崩御の時も「諒闇」はあったが、後一条が崩御した長元9年4月17日から二ヶ月後の6月20日には既に明けていたことが『左経記』等から判っている)

 斎院退下後、娟子は源俊房と密通した。これより約40年前にも、前斎宮当子内親王(三条天皇皇女)と藤原道雅の密通事件があったが、娟子は何と母皇太后禎子内親王の御所を出奔して大騒動となり、「狂斎院」と仇名される。この前代未聞の不祥事は、特に同母弟の東宮尊仁親王(のちの後三条天皇)を激怒させた。
『栄花物語』(37・煙の後)には、尊仁が怒りのあまり俊房への厳しい処罰を望み、また母禎子にも姉娟子との文のやり取りを禁じたことや、一方で姑の尊子(俊房の母。道長女、母は源明子)が娟子を大切に世話したこと等が記されている。のち二人は許され、娟子は正式に俊房室となるが、子女はなかった。

※関連論文はこちらを参照のこと。

参考リンク:
『天皇皇族実録76.後朱雀天皇 巻3』宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
 ※娟子内親王については88~93コマにあり





【娟子内親王の名前のこと】
「娟子」の名前の読みについては、藤本孝一氏が『範国朝臣記(範国記)』(長元9年11月28日条)に「二宮御名娟子、読麗」と記載のあることから、恐らくは「うるわしこ」であろうと考察している。また娟子の姉・斎宮良子内親王についても「一宮御名良子、読長」とあり、こちらは香淳皇后(良子女王)と同じく「ながこ」で間違いなかろう(※『平安時代史事典』は良子・娟子共に「よしこ」としているが、異字とはいえ姉妹で同訓の名は不適当と思われる)。このように訓読みの判っている女性名は、この時代皇族でも非常に稀で貴重な例である。

参考論文:
・橋本義彦「“名字”雑考――皇子女の命名を中心として」
 (『月刊百科』(198, p6-9, 1979)初出、『平安貴族』(平凡社,1986/平凡社ライブラリー, 2020)収録)
・藤本孝一「内親王名の附け方と読み方」
 (『日本歴史』(648, p92-93, 2002)初出、『中世史料学叢論』(思文閣出版, 2009)収録)
参考史料:
・『兵範記・範国記・知信記:翻刻・解説篇4-[2](京都大学史料叢書4)』
 (思文閣出版, 2020)
・『平記[上](大日本古記録)』
 (岩波書店, 2022)
参考リンク:
・「女性に名前をたずねるなんて…」(斎宮歴史博物館)
・「良子の妹、賀茂斎院・娟子内親王」(斎宮歴史博物館)
・「範国記」(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ提供)
 [image 053]に長元9年11月28日条あり





【『水左記』における承暦元年の疱瘡流行】
 娟子の夫源俊房は、『御堂関白記』に次いで古い貴重な自筆原本が現存する日記『水左記』を残していることでも知られる。康平7年(1064)(自筆本あり、宮内庁所蔵)の閏5月には、娟子と思われる「前斎院」が火災に遭い師房らと避難した記事があるものの、それ以外に「(前)斎院」の名は見られない。

 その後の『水左記』を見ると、個人名は不明だが「御前」なる人物が時折登場する。中でも承暦元年(1077)(自筆本あり、尊経閣文庫所蔵。国宝)8~9月の疱瘡大流行の際には、俊房家では俊房本人(当時43歳)が最初に罹患、続けて「東西姫君(俊房の姉妹か?)」と「御前」が相次いで発症しており(恐らく家族感染であろう)、その経緯が詳細に記されている。「姫君」は比較的軽症だったのか回復も早かったようだが、「御前」の病状はその後さらに悪化、8月19日ついに落飾したとあるので、一時は危篤状態だったらしい。なおこの時の疱瘡の流行は都中で猛威を振るい、宮中でも白河天皇や中宮藤原賢子、関白藤原師実夫妻までもが罹患した上に、8月26日に良子内親王が49歳で薨去、さらに9月6日には白河天皇の第一皇子敦文親王がわずか4歳で薨去するなど、庶民のみならず皇族や貴族にも多くの犠牲者を出した。当時の『水左記』は連日のように次々と感染者が増えて行く様子を生々しく記録しており、『栄花物語』(39・布引の滝)にもこの時の「赤裳瘡」で死亡した貴族の名が列記されている。
 こうした中、俊房自身も7月末から半月余り重い症状に苦しみ、「御前」が発症した8月8日にはいまだ完治していなかったが、これ以降ほぼ毎日「御前」の病状を記録しており、平癒を願って祈祷や仏像の制作、神社への祈願など様々な手を尽くしている。また病中の8月22~24日には娟子の母陽明門院から連日使いがあり、「御前」のために調度が贈られたほか、良子内親王が同じく重態であることも伝え聞いていたようである。良子はそのまま26日に死去したが、幸いにして「御前」は9月上旬には無事回復したようで、その後同年11月19日条によると「御前」は故一品宮(良子)喪の除服を行っている。

 さて、この「御前」についてはこれまで『史料綜覧』等で、俊房の母藤原尊子(道長女)と見なされてきた。しかし「御前」は良子内親王の死に際して服喪しており、三ヶ月の服喪期間は「曽祖父母・外祖父母・父の兄弟姉妹・妻・兄弟姉妹・夫の父母・嫡子」の死に際して定められたものである。尊子から見て姉(彰子・妍子)の孫である良子内親王は、近い血縁ではあるものの服喪の対象ではなく、よって「御前」は尊子ではない。
 また前斎宮で生涯独身であった良子には当然夫や子供・孫はおらず、よって服喪者は良子の母陽明門院と兄弟姉妹(当時存命なのは娟子・禖子・正子の三名)及び甥・姪(白河天皇とその兄弟姉妹六名)ということになる。この内陽明門院と白河天皇、そして東宮実仁親王と三宮輔仁親王については称号等から特定できるので、この四名も「御前」にはあたらない。となると残りは良子の妹三名と姪四名だが、その中で『水左記』にこれほど詳細な消息が記されており、更に陽明門院とも近しい関係であったと見られる「御前」は、俊房の正室にして良子の妹である娟子と考えて間違いないであろう。
 なお娟子の母陽明門院は、17年後の寛治8年(1094)に82歳の長寿で崩御した。『中右記』(同年1月16日条)によると死因は疱瘡であったというので、承暦元年の疱瘡流行の際には罹患しなかったらしいが、後三条院に続いて長女の良子にまで先立たれた彼女の嘆きは深かったと思われる。

 ところで、8月20日以降の記事ではただ「御心地」とのみ記述する場合が多く、『国宝水左記』(勉誠出版)の解説ではこれを俊房自身の病状の記録と見なして、俊房が8月下旬まで約一月苦しんだとしている。しかし「御心地同様御坐」(8月20日条)「御心地雖非宜、頗落居給」(8月21日条)「御心地苦給」(8月26日条)等、主語の「心地」に加えて述語も「御坐」「給」と明らかに敬語である。一方、間違いなく俊房本人とわかる箇所では「今朝心地不例」(7月25日条)「心地猶苦」(7月27日条)「今朝心地殊苦」(8月2日条)「今日心地雖不極苦不爽」(8月8日条)「今日予心地頗爽」(8月12日条)等となっていることから、「御心地」が俊房自身を指すとは考えられない。さらに8月29日条で再び「今日御前御心地頗宜」とあるので、やはり8月20日以降の「御心地」も御前=娟子のことであろう。
 また服部敏良氏が王朝貴族の病の記録について、俊房の疱瘡罹患の例を取り上げている。氏によると、俊房は7月25日から疱瘡、ついで赤痢となり、8月12日に恢復したとしている(『王朝貴族の病状診断』)

 なお『水左記』は9月9日条に「巳剋參南殿、尼上日者不例御坐也」と、「御前」と入れ替わるように今度は「尼上」の不例を記録している。翌10日条には「尼■[上?]御心地同様之由被仰、老後之人經數日給之事甚不便也」とあるので、「尼上」は高齢の女性であったらしい。以後「早旦參南殿」「辰剋參南殿」等の言葉が頻出しており、俊房がしばしば「尼上」のいる南殿へ出向いていたことがわかる。恐らく「尼上」のためであろう祈祷等も行われているが、「御前」の時と比べると少ないことから見て、この時の「尼上」は疱瘡に罹患したものの軽症だったか、あるいは疱瘡以外の病に臥せっていたのかもしれない。
 その後承暦4年(1080)から永保元年(1081)にかけて、故源師房(俊房の父)の法事が行われ遺骨を雲林院から白河に移しているが、その関連で「尼上」の名がしばしば見られ、「尼上」には一貫して敬語が使われている。また同じく永保元年、右大将(俊房の弟顕房)も「尼上」に参上しており(7月16日条、12月11日条)、さらに8月23日には「尼上御心地不例事」により「博陸上」即ち関白藤原師実の正室麗子(俊房の妹)が訪れているので、この「尼上」は俊房・顕房・麗子らの母尊子と思われる。従来は疱瘡により落飾したとされていたが、恐らく承暦元年3月の夫師房死去により出家したものか(※なお、角田文衛氏は承暦4年記事の「尼上」を尊子としている)
 ところで、かつて万寿2年(1025)に「赤裳瘡」が流行した(『栄花物語』25・みねの月、26・楚王のゆめ)折、尊子の異母妹である東宮妃藤原嬉子が後冷泉天皇を出産した直後に命を落とした(享年19)。この「赤裳瘡」を『左経記』では「皰瘡」と表記しており、当時の「皰瘡」の記録は天然痘と麻疹(はしか)の区別がつきにくい(『平安時代史事典』)。これがもし天然痘で、当時20代の尊子も罹患していたとすれば、70を越えていた承暦元年の流行では罹患を免れた可能性も考えられるが、承暦元年に比べて犠牲者が少なかったためか、『栄花』注釈書や服部敏良氏はこの時の「赤裳瘡」を麻疹としている。

 その後、永保元年(1081)12月に俊房の土御門新邸が落成した折には、「尼上」も俊房や「御前」と連れ立って転居した記録があり、以後は土御門邸で俊房と同居したと見られる。またこの時尊子と共に「大将上」と「姫君御方」と呼ばれる女性も北対に入っており、「大将上」は故右大将藤原通房室妧子(師房長女、俊房の姉)であろう。通房は長久5年(1044)に20歳で早世しており、若くして未亡人となった妧子はその後再婚することもなく母尊子と同居していたようである。また「姫君御方」については、角田文衛氏が妧子の妹の澄子(師房二女?)であろうと推定している(「源澄子」)
 なお、『水左記』には土御門新邸転居以前の記事に「寝殿御方」という人物が何度か登場する。彼女にも敬語が使われており、また永保元年8月に寝殿御方が主催した法華経供養には、通房の弟である関白師実が参列している。のち『殿暦』(天仁元年10月10日条)の妧子死亡記事では「寝殿尼上」の呼称で記録されている(※『中右記』同日条では「土御門尼上」としている)ことから見て、『水左記』の「寝殿御方」も妧子であろうか。

参考史料:
『水左記』自筆原本(宮内庁書陵部画像公開システム提供)
 ※閏6月19日裏書ならびに同月25日条は康平七年正月~六月の34・35コマにあり
参考図書:
・『水左記(尊経閣善本影印集成65)』(前田育徳会尊経閣文庫編, 八木書店, 2017)
・『国宝水左記』(前田育徳会編, 勉誠出版, 2013)
・『王朝貴族の病状診断』(服部敏良, 吉川弘文館, 2006)※2020年新装版発行
参考論文:
・関口力「源尊子」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)
・野口孝子「源妧子」(『平安時代史事典』角川書店, 1994)
・角田文衛「源澄子」(『王朝の映像』東京堂出版, 1970)
・栗山圭子「次妻高松殿腹の姫君:寛子と尊子」(『藤原道長を創った女たち』明石書店, 2020)
・北村安裕ほか「『水左記』の研究―康平七年閏五月~六月―」
 (『岐阜聖徳学園大学紀要(教育学部編)』(60), p90-75, 2021)
 [機関リポジトリ全文あり]
参考リンク:
『水左記』の「御前」 (多摩遊覧)※2020年8月5日確認





後一条天皇
史料 月日 記述
小右記
日本紀略
長元5年
(1032)
9月13日 【東宮第二王女(娟子)誕生】
『小右記』
 東宮御息所一品禎子戌時産女子(娟子)、夜闌中納言(藤原資平)従彼宮来云、難産、適被遂、不着座帯出、

『日本紀略』
 東宮妃一品内親王産生第二女子(娟子)。去四月。渡坐少納言橘義通中御門宅。
小右記 長元5年
(1032)
9月15日
【娟子産養】(9月16日条)
 昨一品宮(禎子)産養、関白(藤原頼通)被用意、参會卿相、<関白、内府(藤原教通)、大納言(藤原)頼宗、(藤原)能信、(藤原)長家、中納言(藤原)実成、(源)師房、(藤原)経通、(藤原)資■[平]、(藤原)定頼、参議(藤原)兼経、(源)朝任、(藤原)兼頼、(藤原)公成、(藤原)重尹、(源)経頼、>有攤興云々、

※■は縦線
小右記 長元5年
(1032)
9月18日
【娟子五夜産養】
 去夜事当中納言(藤原資平)、報云、本宮所被儲也、上達部殿上人禄有差、饗饌如常、関白(藤原頼通)、内府(藤原教通)、大納言三人、<(藤原)頼宗、(藤原)能信、(藤原)長家、>中納言五人、<(藤原)実成、(源)師房、(藤原)経通、(藤原)資平、(藤原)定頼、>参議六人、<(藤原)兼経、(源)朝任、(藤原)兼頼、(藤原)公成、(藤原)重尹、(源)経頼、>廿日作人文云々、
小右記 長元5年
(1032)
9月19日
【娟子七夜産養】
 今日東宮(敦良親王)御産養云々、中納言依多武峯物忌不参、宰相中将(藤原兼頼)云、諸卿禄大褂、本宮加児衣襁褓等歟、中将録加襁褓、参入卿相、内府(藤原教通)、大納言(藤原)齊信、(藤原)頼宗、(藤原)能信、(藤原)長家、中納言(藤原)実成、(源)師房、(藤原)定頼、参議(源)朝任、(藤原)兼頼、(藤原)公成、(藤原)重尹、(源)経頼、無和歌之興、有擲采之戯云々、
小右記 長元5年
(1032)
11月2日 【娟子御五十日儀】
 宰相中将(藤原兼頼)同車参内、依東宮(敦良親王)一品王子五十日事、待賢門内執続松、少納言資高迎来春花門、参宣耀殿、<件殿一品宮(禎子内親王)直廬、>関白(藤原頼通)<左大臣、> 内大臣(藤原教通)、并諸卿在饗座、予未到彼殿之門[間?]、中納言(藤原)資平迎来、就食勧盃、太如在也、東宮渡給、母宮(禎子内親王)并王子(娟子)前物等、殿上人執之、只三人廻之後、陪膳宰相中将(源)顕基、左兵衛督(藤原)公成、
亥時羞王子餅、関白起座参簾中、依其事歟、良久之後巻御簾、東宮出給、数圓座簀子、先関白候座、召男等、大進(藤原)隆佐参入、召諸卿、余先参入、次内府已下皆着座、々席狭、下﨟候殿上、給衡重、次敷伶人座於庭前、<自御前在東方、>供御前、<懸盤六基、蘇芳螺鈿打敷云々、>右兵衛督(源)朝任陪膳、解剣置笏、須指笏於腰底者也、失也、次召伶人、笙者横笛二人、無唱哥人、亦無絲絃、極見苦、大納言(藤原)能信和琴、拍子(藤原)中納言実成、唱哥大納言(藤原)齊信、(藤原)頼宗等也、今夜御遊不似往昔、不異狄楽、可類蝦遊、和琴唱歌極不便也、不[盃?]酒二巡之後給禄有差、大臣女装束、已下褂袴歟、不慥見、伶人禄白褂、可給疋絹歟、殿上人禄不見、可尋、参入諸卿、左大臣、余(右大臣藤原実資)、内大臣、大納言齊信、頼宗、能信、(藤原)長家、中納言実成、(源)師房、資[平]、参議(藤原)兼経、朝任、(藤原)兼頼、顕基、公成、(藤原)重尹、(源)経頼、子夜事了、
後朱雀天皇
史料 月日 記述
左経記
(類聚雑例)
長元9年
(1036)
7月6日 【皇女(良子)等、先帝(後一条)の御服】
 及子二刻今上女一宮皇子(良子内親王)、於北陣外被着故院(後一条天皇)御服云々、
範国記
扶桑略記
長元9年
(1036)
11月28日 【斎宮(良子)、斎院(娟子)卜定】
『範国記』
 有斎宮・斎院卜定事、豫仰大学頭(藤原)義忠朝臣、令勘申二宮御名字、左頭中将(藤原兼頼)持参殿下、御覧被奏、<一宮御名良子、良字読長、二宮御名娟子、読麗>殿下令参大内、次右府被参、左頭中將良頼朝臣伝仰右府、以良子・娟子、可令卜定斎宮・斎院、頃之、於陣座被奏卜食文、<入筥、留御所、>被仰聞食之由、次召余被仰云、大納言藤原朝臣頼宗・右中弁(源)経長朝臣等可令行初斎宮事、以権大納言藤原朝臣長家・権左中弁(源)資通朝臣、可令行初斎院事、權大納言於陣腋申了、参藤大納言御許、亦令申其由、但件事等、只可申右府(藤原実資)歟、然而依殿下(関白藤原頼通)御定也、
次遣勅使於両所、<斎宮、左中将、斎院、四位後少将(藤原)行経、>次被補両所別当、<斎宮、新中将(藤原)資房、斎院、左馬頭(藤原良経、)>蔵人方召仰之、
今日不被下親王宣旨、先例多在卜定以後云々、

『扶桑略記』
 良子女王為斎宮。娟子女王為斎院。
範国記 長元9年
(1036)
12月5日 【斎宮良子・斎院娟子、内親王宣下】
(前略)還御之後、斎宮(良子)・斎院(娟子)被下可為親王之宣旨、<良子・娟子可為親王、書一帋下之、>外戚公卿等参御在所、令奏慶賀、一宮(*)始入御、殿上人奉仕御前、

※帋=紙の異体字。
「一宮」について『京都大学史料叢書(4)兵範記・範国記・知信記』(思文閣出版, 2020)は良子内親王とするが、良子は既に斎宮であるので、この「一宮」は第一皇子親仁親王(翌年立太子)か。
範国記 長元9年
(1036)
12月20日 【斎院(娟子)神殿に入御。同日着袴】
(前略)斎宮(良子)・斎院(娟子)始入御神殿、斎院今日令着御袴給、有時定、無御儲、只剋限、令着御袴許給也、
範国記 長元9年
(1036)
12月22日 【親仁、尊仁、斎宮良子、斎院娟子に別封】
(前略)次被下一・二宮親王宣旨、<書加懸帋、或人云、親仁、<一宮、>尊仁、<二宮、>>(藤原)義忠勘申之、一宮、<藤大納言(頼宗?)、>二宮、<右兵衛督(源隆国)、>斎宮・斎院被奉別村各三百戸、<但宣旨詞、良子娟子(衍カ)内親王、娟子内親王■所稱也、>(後略)
行親記 長元10年
[長暦元年]
(1037)
2月8日 【禎子内親王、斎院に行啓】
(2月9日条)
(前略)今日一品宮(禎子内親王)從齋院(娟子)渡御齋宮(良子)、即還御云々、昨夜渡御齋院也、
行親記 長元10年
[長暦元年]
(1037)
4月2日 【斎院御禊定と初斎院卜定のこと】
(4月2日条)
(前略)■日有齋院御禊定並御所卜定、即被定御前云々、<御禊日來十三日、入御所右近府、>
(4月3日条)
(前略)今日齋宮(良子内親王)御禊也、即入大膳職、其儀如常、(中略)
馬助允所衆等御裝束等如齋院例御禊、但無雜色舎人等、(後略)
行親記
年中行事秘抄
長元10年
[長暦元年]
(1037)
4月13日 【斎院(娟子)御禊、初斎院入り】
『行親記』
 斎院御禊、<従(源)直成朝臣宅入御右近衛府、>從二條大路東行給、還行之時自二條大路西行、從東大宮北行、從一條大路御右近府御前、左大辨(藤原重尹)左衛門佐(源)経季、尉(藤原)章經、右衛門佐貞孝、左兵衛佐代兵庫頭業任、尉右兵衛佐(源)朝棟、尉次■[第?]使右馬助親清、行列使左馬允顯輔、所衆六人、院別當左馬頭(藤原)良經朝臣等也、行事右衛門督、(藤原資平)<中宮丈[大]夫(藤原長家)依有服親被行定、>無宰相、今日供奉人無雜色、所衆等間有雜色、典侍候矣、

『年中行事秘抄』
 四月 初斎院御禊年雖八日不當神事灌佛停止●
 長暦元年。寛治四年例也。<近代多雖不當神事。初齋院年停止。>
 經頼記云。長暦元年四月三日。齋宮良子。入大膳職。同八日雖不當神事。依伊勢賀茂齋院禊無灌佛。同十三日丙辰。齋院娟子。入右近府。

●=㕝(古+又。事の異体字。こちらを参照(字源))
行親記 長元10年
[長暦元年]
(1037)
4月18日
(長暦元年)
【賀茂祭(斎王不参)】
 祭也、其儀如常、但齋王(娟子)不御、仍無行事上卿以下、行烈使、次第使、藏司、<助定職、>近衞、<右少將(藤原)資仲、>馬司、<右頭師良、>皇后宮(禎子内親王)<亮(藤原)良經>中宮(藤原●子)<權亮邦恒、>有所〃女■[使]、典侍、<御乳母三位(源隆子)、>祭使■[還]立所無饗、相訪人〃一兩宿衣、召官人以下給例祿・別祿、還遣了、中宮女使■[從]主殿寮出立、皇后宮使從故織部令史是延宅出立、

●=嫄(女偏+原。こちらを参照(字源))
行親記 長暦元年
(1037)
10月2日
(長暦元年)
【殿上逍遥】
(前略)今日殿上逍遥、參齋院(娟子)、(後略)
公卿補任 長暦2年
(1038)
4月8日 【藤原経家、斎院長官に任命】
(天喜4年)
非參議 從三位 同(藤原)經家(中略)
<(前略)長暦二正十四藏人。四月八日兼齋院長官(止大安寺)。(後略)>
中右記 長暦2年
(1038)
4月? 【斎院、紫野に入御】
(長承4年3月13日条)
 從殿下(関白藤原忠通)、被仰云、初齋院年灌佛例、
康和三年(1101)四月八日灌佛、<十三日初斎院入紫野院、>
天永元年(1110)四月八日灌佛、<十三日初斎院入紫野院、>
長暦二年(1038)、寛治五年(1091)、初齋院入御紫野院、灌佛停止、外記勘申如此、何様可被行哉、予申云、被行何事候哉、
春記 長暦2年
(1038)
11月12日 【神楽を斎院(娟子)に奏す】
(前略)今夕於斎院有御神楽、是公家所被行也、但其事有先例、又雑事等彼院所行也、
晩頭<直衣>参斎院、(藤原)行経、(源)実基、(藤原)経季、(源)資綱、(藤原)良経、(源)経成、(藤原)定房等参入、有杯饌事、事畢雑興云々、少時有御神楽、於神殿前庭有此事、孝義朝臣、信頼、資範、自餘有障不参云々、近衛司男共又候之、殿上人或束帯或宿衣参入、但非色掌并垣下、垣下院司役殿上人、南階東掖庭敷畳祇候、為見物也、
亥刻許事畢、各々分散、予退私、(後略)
春記 長暦4年
[長久元年]
(1040)
4月5日 【斎院(娟子)御禊のこと】
(前略)
<賀茂社靈木顛倒御祈事、>(右傍書)
又今朝召賀茂下上御社禰宜各一人、即參入、被仰云、上社靈木顛倒事爲天下可有疾疫之由所卜申也、限七ヶ日可祈申者、予仰了、今日女房陪膳不候、仍予所候也、右府(藤原実資)以經成被候者[云カ]、<先申關白云々、>有勞事、不可定申御禊御前者、仰云、隨關白定次第可仰也、(後略)
春記 長暦4年
[長久元年]
(1040)
4月7日 【斎院(娟子)御禊前駈定】
(前略)今日春宮權大夫源朝臣可定申前駈事也、其次可注供奉諸司闕者[名イ]之由可示關白、即參入、面申此由、被申云、齋院長官(藤原)章經、左兵衞佐淡路前司實範、山城介宇治篤行、掾忍海經方、<予奏名簿、是國司所申請也、>一々可傳之由所被仰下也、大略以大納言源朝臣令奏 了者、予即參内奏此旨、仰云、早可仰下者云々、出仗頭、<奥座、>先下山城掾名簿了、以詞仰長官等事、即退、依心神殊悩也、其由令付經成已畢、今日有擬階奏云々、
春記 長暦4年
[長久元年]
(1040)
4月22日 【斎院(娟子)御禊】
 齋王(娟子)御禊日也、早旦參關白(藤原頼通)殿、適拝謁申承今日事等、雖非指事、是例事等也、内府(藤原教通)以將曹時國被仰云、府粮二百石、讃岐國司進濟也、而諸家下部等檢封之、不令下行由云々、早可申關白者、即申殿下、被仰云、太不便事也、早奏事由、仰上卿可下遣史部者、予即參内奏此由了、遣仰藤中納言已了者、即仰藏人了、良久申可參入由、而及數刻不參入、仰云、被景漸欲闌、不可默止、件扇等汝只以書状可送(藤原)良經許、被院者依仰以書状奏遣了、御扇一枚、女房料廿枚、童女料四枚也、太以美麗也、尤過差也、就中童料太以遷駕也、已非王事歟、差小舎人送良經朝臣許已了、及午時所雜色等不參、頻遣催仰、未二刻許、御覧肥牛等、其儀如御馬御覧也、予先候御前、即令引牛等、第一牛<關白牛御車料也、先是行事藏人申事由、>出納引之、近江肥牛五頭、山城肥牛五頭等、小舎人<皆着衣冠也、件牛等兼以所牒所召也、>引之、三廻後引出了、可遣齋院之由仰了、申一刻許藏人所雜色一人衆四人參入、雜色今一人不參、仰云、日已暮、先只可御覧者、予即參御前、如御馬御覧也、少時雜色已下合五人、<本數六人也、>入自瀧口戸、列居御前庭中、<西上北面、随御前儀也、>又仰可向南之由向了、予仰云、馬取<天>參來、<まうこ、>各退出、少時各引乘馬<此度雜色今一人參、合六人也、>參入、<雜色節頼、兼宗、時任、衆恒、定致、■任、助光、>兩三廻後仰云、罷乗<れ>各騎了、但兼宗馬遷駕不能騎乘、仍召右將曹令取騎之了、一兩廻了、仰云、罷下、<與>即下了、仰云、早可參齋院、各退出了、予即退出、參齋院、<經一條大路、>此間女房等乘車云々、天陰欲雨、于時申三點許歟、即寄御車、予等着御車、上達部殿上人多以參入、殿上人依仰所催也、乘御車了、予(源)實基同乘見物、人々從者皆如法、多有染色、不遑記、相從參河原院、皇后宮大夫(藤原能信)、右衛門督(藤原資平)等參入、殿上人又如之、御禊後予參内、于時戌刻許也、參御前申今日事、依陪膳不候、予勤兩度陪膳、宿侍、今夜不雨、
春記 長暦4年
[長久元年]
(1040)
4月25日 【賀茂祭】
 賀茂祭候女房陪膳、仰云、今日早可催藏人所御前也、予令仰藏人章行催之、今日不御覧肥牛、只御覧所前駈也、今日着麹塵也、午刻許右頭中將(藤原)信長參入、予奏事由、相替退出、是早爲參齋院也、早旦送摺袴於使少將許了、予退私、未時許到祭使許、左少將基家出立左大辨經輔大炊御門家也、先是舞人陪從等着座也、新宰相修理大夫(藤原経任)在之、二獻巡行間也、予即退出、參齋院、皇后宮大夫(藤原能信)被參候、行事殿上人多々參候、申時許事成了、寄御輿、予(源)實基同乘見物、申三點許齋王(娟子)渡御也、内藏寮仲康、近衛府使少將基家、后宮使少進資國、春宮使亮隆佐、山城介爲行、齋院長官(藤原)章經等也、件等人々從者裝束、或有染色、但其衣員皆如制也、使々車等殊無過差風流也、女房車等如例、但衣員減定云々、次第使馬允政則云々、女使典侍<藤芳子、>云、糸毛車可在齋院車次、仍可在彼出車上也、爲之如何、予云、専不然事也、有内侍前駈、是例事也、何可次齋院糸毛車哉、尤無由事也者、仍渡了、見物了、予即營歸解脱、着宿衣騎馬、<頼資馬也、定成、爲恒在共、>參下御社、爲供奉齋王御共也、此間齋王御坐假屋也、先是皇后宮大夫、右衛門督(藤原資平)、左宰相中將(藤原兼頼)參候、又殿上人十許人參候之、少時乘御輿參給御社了、女房供奉御奏幣之後歸給、乘移御車、參給上御社、殿上人等執炬火前駈、予同供奉、儀式同下御社、但齋王下御云々、良久之事了、又歸給神館、殿上人等又供奉之、此間左少將經季爲勅使參入也、下御了、予等即歸蓬戸、近習人々留候也、于時及五更、心神太辛苦、(後略)
春記 長暦4年
[長久元年]
(1040)
4月26日 【賀茂祭(還立)】
 巳時許參内、仰云、夜來之動静如何、此由參向神館可傳示者、即參神館、以仰旨令女房傳申了、先是上達部殿上人多參候之、有饗饌、未時許使々參入、申初許有歌舞、此間予(源)實基相共同乘車、於紫野見物了、又參齋院、上達部殿上人參入、近衛司使參入供歌舞了、敷庭前座、使々參着之、有酒肴事、漸了間予退出、參内奏復命、(中略)
而賀茂祭以前奏不行、至于今過畢、何日可行哉、可示關白者、參彼殿以源大納言(師房)令申案内、被奏云、承了、(後略)
春記 長久元年
(1040)
11月23日 【祐子内親王着袴・准后のこと】
(前略)後日督殿(右衛門督藤原資平)被命云、准后事是無術事也、雖皇子猶可依攝録之縁辺歟、齋宮(良子)齋院(娟子)是已隔數年姉也、而先彼有此事、謂天下如何、又神意可恐歟如何、努力云々者、又内密談云、藤氏皇后于今無其人、已非託宣旨、源氏皇后(中宮藤原嫄子)蒙神罰之後、以其子息忽被下准后宣旨、尤背神意歟、尤可恐々々者、先日主上密被仰云、准后事忽不可然也、給千戸封之人々、當時有其員、加又齋宮齋院事、仍更不可思立、然而關白懇切奏此事、仍難止也云々、(後略)
春記 長久元年
(1040)
12月20日 【京官除目。斎院(娟子)御給】
 今日京官除目也、(中略)
關白(藤原頼通)仰云、諸宮内官當年給早可進之由可仰宰相中將(藤原良頼)者、予仰之、被申齋院(娟子)并皇后宮(禎子内親王)(禎子内親王)前齋院(馨子)御給名簿未被進者、予申此由、被命云、除目已欲了、(後略)
春記 長久2年
(1041)
3月22日 【斎院(娟子)女房料のこと】
 辛未、雨降、 午時許參關白殿(藤原頼通)、以章信令傳申云、賀茂祭齋院女房料扇於作物所令調由有勅命也、仰云、早可隨勅命者、即參内、扇事仰藏人(高階)章行了、毎年被調事不可然之事也、(後略)
一代要記 長久3年?
(1042)
(不明) 【斎院二品娟子内親王、一品に昇叙】
 長久■年■月■日叙一品

同母姉良子内親王が同年6月24日一品(『一代要記』)なので、娟子はそれ以降か。
本朝世紀
一代要記
寛徳2年
(1045)
1月16日 【父後朱雀天皇譲位、斎宮(良子)・斎院(娟子)退下】
『本朝世紀』(康和5年3月4日条)
 前斎院娟子内親王薨去(中略)
寛徳二年正月十六日退斎居。

『一代要記』
 娟子内親王、(中略)寛徳二年正月十六日退之

『皇代暦』は父後朱雀上皇崩御により退下とする(1/18条参照)
後冷泉天皇
史料 月日 記述
扶桑略記
百錬抄
皇代暦
ほか
寛徳2年
(1045)
1月18日 【父後朱雀上皇崩御】
『扶桑略記』
 太上天皇(後朱雀)春秋卅七。於東三条第崩。

『百錬抄』
 太上天皇(後朱雀)落餝入道。即刻崩于東三条院。<卅七。>葬高隆寺乾原。安御骨於円教寺。

『皇代暦』
(後朱雀天皇/齋院)
 娟子内親王
帝二女歳五退之依上皇崩也其後竊適參議中將俊房卿
一代要記
ほか
天喜5年
(1057)
9月 【源俊房に降嫁】
『一代要記』
 天喜五年九月適参議左中将源俊房卿
定家記 康平2年
(1059)
10月12日 【法成寺阿弥陀堂五大堂供養。前斎院(娟子)御誦経】
 癸酉、供養無量壽院(法成寺阿弥陀堂)并五大堂、去九日始奉仕御裝束、(中略)
所〃御誦経
内藏寮 五百端    上東門院 三百端
皇太后宮(禎子内親王) 三百端  中宮職(章子内親王) 三百端
皇后宮職(藤原寛子) 三百端   春宮坊(親仁親王) 三百[端]
前齋院(娟子内親王) 三百端   前〃斎院(馨子内親王) 三百端(後略)
百錬抄 康平3年
(1060)
12月11日 【参議源俊房、勅勘を免ぜられる】
 宰相中將(源)俊房被免勅勘。依前齋院<娟子。>強奸事。此一兩年籠居。
定家記 康平4年
(1061)
7月21日 【東北院供養。一品内親王(娟子?)御諷誦】
 壬寅、天霽、被供養東北院矣、本是建立法成寺東北、故有此号、(中略)
一、所〃御風誦
内藏寮五百端    本院千端
皇太后宮(禎子内親王)五百端   中宮(章子内親王)五百段[端]
皇后宮(藤原寛子)三百段[端]   東宮(親仁親王)三百段[端]
一品内親王(娟子内親王?)三百段[端]   無品内親王(祐子内親王?)三百段[端]
二品内親王(馨子内親王?)三百段[端]   関白殿(藤原頼通)三百段[端](後略)
水左記 康平7年
(1064)
閏5月19日 【土御門(?)殿焼亡。前斎院(娟子)、師房ら避難】
(前略)未時二條邊に(※)有燒亡、
(裏書)
 下官趣焼亡所之間、有人云、前齋院(娟子)燒了、余聞之走參件院、御坐土御■[門?]殿、余參件殿、南風出來、煙陷難堪、大納言殿(源師房)等乘車給、令出給了、物■[具?]皆悉所取出也、依有天運、適免難給了、

「に」は崩し字。字母は「尓」
水左記 康平7年
(1064)
閏5月25日 【前斎院(娟子)、藤原隆方宅へ渡御】
 臨夜參大納言殿(源師房)、今夜前齋院(娟子)(源)隆方朝臣家給、余候御共、次參殿下(関白藤原頼通)
白河天皇
史料 月日 記述
扶桑略記
ほか
延久5年
(1073)
5月7日 【同母弟後三条院崩御】
『扶桑略記』
 太上天皇(後三条)春秋四十崩。
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
8月8日 【御前(娟子)、疱瘡に罹患】
(8月8日条)
(前略)自今日御前(娟子)御心地不例、皰瘡氣也歟、
(8月9日条)
(前略)又自今日御前(娟子)御●令知足院永義阿闍梨修同法、又爲予令觀海修同法、(後略)
(8月10日条)
 去夜下痢雖宜、心地惘然、苦痛無極、御前(娟子)姫君等御心地極令苦給、(後略)
(8月11日条)
(前略)御前(娟子)姫君極令苦給、仍令觀海書願書、祈申石清水賀茂平野金峯山熊野等、子細旨在願書文、入夜御前御●令修鬼氣招魂祭等、(後略)
(8月12日条)
(前略)御前(娟子)姫君極令苦給、今日予心地頗爽、(後略)
(8月13日)
(前略)今日御前(娟子)御心地令苦痛給無極、召佛師法輪小院令奉造始三尺阿彌陀佛像給、故以令着用給御綿衣二領、<白、>御袴一腰、<紅、>充給料物、以俊章爲行事、又同御料以中堂舊柱而令佛師■<判眼長勢二男云々、>令奉造二尺藥師如來像、先日以他材所令奉造始也、而此柱依爲明物、今日以正材所令改造也、冬面衣下襲各一領故又充給料物、以明業爲行事、令修土公祭、明業同奉之、
(8月14日条)
(前略)今日姫君心地頗宜、御前(娟子)御心地重令苦痛給、仍奉摺寫供養仁王經六部、又終日令奉轉讀、請僧五口、行尊(源基平子、小一条院孫)、延眞、<擬講、>勢禪、一人觀海弟子、一人延眞弟子、晩頭結願、有布施、絹各二疋、有小膳、(中略)
入夜御前御●令修土公鬼氣等祭、朝方奉行之、臨深更、令永義阿闍梨修神供、(後略)
(8月15日条)
 御前(娟子)御心地頗令落居給、以(賀茂)道榮弟子等令修七瀬御祓、(中略)
入夜令觀海修神供、御前御料也、
(8月16日条)
 御前(娟子)御心地同様御坐、(後略)
(8月18日条)
 御前(娟子)御心地自申時許重令苦給、入夜遣問御平服由於(賀茂)道榮許、令占申云、更無可畏思食事、明日許令平服御歟、但邪氣由頗見候者、(後略)

●=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
8月19日 【御前(娟子)、疱瘡により重体、落飾】
(8月19日条)
 去夜御前(娟子)御心地重令苦給、寅時許奉渡北家、令種々御祈祷等、先請觀海令受戒給、施白御綿衣一領、次修諷誦於賀茂上下、祇園、清水、六角堂、各絹一疋、明業奉行之、以牛一頭獻賀茂上社、以馬一疋獻下社、又奉造始三尺藥師像、<佛師經禪、明業爲行事、>同千手觀音像、<佛師(名欠)、朝方爲行事、>同大威徳像<佛師長勢一男、俊章爲行事、>等各一體、即遂落餝御出家、山禪師奉剃御頭、年來手自令奉書寫給、法花經一部、并開結經轉女成佛阿彌陀般若心等經等、令奉供養給、忽付假表紙假軸等、奉●供養、又一▲手半普賢◆像等奉付光今彫銅薄、<料物四疋、明業行之、>付其光同奉供養、以永豪律師爲講師、布施單衣一領、召佛師延深、仰可奉圖始兩界曼荼羅<各一鋪半、>之由、給御衣絹、以蒔繪御手筥一口、充給圖繪料、又奉圖繪始丈六十一面觀音像一鋪、御衣絹料八丈絹二疋給之、<近江守所送也、>圖繪▼廿九石云々、俊章爲件兩事行事、次絹十二疋充十二時、爲毎時諷誦送天台、其後又送六疋、同爲修諷誦也、明業奉行之、晩景一乘寺法印<増譽、>被來、今朝以俊章啓案内也、讀誦法花經第一巻被歸、入夜奉圖繪供養十一面觀音像三千餘體、■三百卅三體、<一鋪半、像大一寸許、中央奉圖繪居一▲手半像、佛師良仁、>大威徳像一體、<一鋪半、>摺寫心經五百巻、以永義阿闍梨爲講師、布施絹五疋、件十一面圖繪料、■■大威徳圖繪料十五疋云々、佛師忠算、明業爲行事、以廣俊令修泰山府君祭、雖有日來令服韮給之禁忌、御坐急事之間不忌如此事之由、(賀茂)道榮所令申也、仍令修也、<之ノ(右傍書)>道榮依服韮不參勤件御祭、便[使?]用廣俊也、
後聞、公家依御體不豫并人民皰瘡等、被奉幣廿二社、上卿右衛門督(藤原実季)、少内記江通國作宣命文、

●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源))
▲=𢵍(手偏+歹歹+木。こちらを参照(字源))
◆=𦬠(こちらを参照(字源))
▼=䉼(米偏+斤。料の異体字。こちらを参照(字源))
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
8月20日 【俊房、御前(娟子)の平癒祈願に仏像を作らせる】
(8月20日条)
 御心地同様御坐、然而自夜頗令落居給、辰時許尚重苦給、令陰陽重占之處、申無殊恐之由、邪氣云々、雖然憑猶少、歎念深、僧徒兩三自夜念佛讀經、巳刻許令修諷誦於石清水春日、銀筥一口奉廣隆寺、未刻重苦給、鋳顯十一面觀音像於一尺鏡面、令啓可奉行疫神之由、以觀海爲導師、申刻許奉作始丈六藥師如來像、佛師法輪小院率弟子一兩、始刻彫之功、酉終奉供養昨日奉圖始丈六十一面觀音像一體、并今日奉圖繪一鋪半延命●像三千餘體、凡有可奉一萬體之願、且隨圖得也、像大一寸許、中央奉圖居一▲手半像一體、佛師良仁以單衣一領給圖繪料、明業爲行事、講師圓深阿闍梨、秉燭之後講説了、有布施、單衣一領、絹十疋、相次奉供養法華經一部、藥師經等、以觀海爲講師、布施絹二疋、令陰陽師三人修鬼氣祭、今朝付春日諷圖使、送書状於藥師寺別當許、此御心地於件寺可祈申由也、未時許自大智房阿闍梨許示送云、御祈祷有感應氣、不可怖思食者、所々修諷誦、天台、<絹、>祇薗、<銀筥、單衣、>六角堂、<絹、>

●=𦬠(こちらを参照(字源))
▲=𢵍(手偏+歹歹+木。こちらを参照(字源))
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
8月21日 【御前(娟子)、小康状態続く。陽明門院から使いあり】
(8月21日条)
 御心地雖非宜、頗落居給、自今日至于來廿四日、堅固物忌也、未刻許春宮權大進有宗來、雖爲物忌相遇、及秉燭供養鋳顯鏡十一面觀音像、以觀海爲講師、布施絹二疋、今夜修代厄鬼氣祭等、(後略)
(8月22日条)
 御心地頗令落居給、未剋許春宮大進有宗爲陽明門院御使來、相遇謝遣、(後略)
(8月23日条)
 御心地與昨日同、巳剋許法印被入來、未剋許、自陽明門院、爲使散位大藏友通、被渡奉御前(娟子)御調度、未二剋齊覺僧都送書云、昨今御心地如何、又主上御心地毎事平復御了者、
後聞、陽明門院令渡一品宮<良子、>是依御心地重苦給云々、
(8月24日条)
 御心地與昨同、早旦法印被入坐、予對面、未刻許能登守公俊爲院(陽明門院)御使來、御心地事也、予依物忌不相遇、(後略)
(8月25日条)
 御心地此兩三日只同前也、爲使木工允俊章、訪申内府上御心地、被答有減氣之由、又訪小野宮中納言心地、并皇后宮權大夫之病者等、以帶刀景輔爲使、今日人々多來、依物忌開也、
今上一宮(敦文親王)於華山院近日令煩給、此御皰瘡後痢病云々、就中昨今重苦給云々、有種々御祈祷云々、
自長多仁法印御許爲使行慶、被訪御心地之趣、答申宜御坐由了、土左守長季以書状訪此間事等、誠雖細々不能縷記之、(後略)
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
8月26日 【娟子、再び病状悪化。娟子の姉良子内親王薨去】
 自寅剋許御心地苦給、其體似邪氣、僧侶兩三讀經祈念、聞申案内於法印、即被入坐讀心經被祈申、<巳剋許、(右傍書)>織單衣<黄朽葉、>一領送大智房闍梨許、是前日御祈布施也、件御祈今日滿七日了、雖然尚御心地苦給、殊加記念能々可祈申之由示送了、先之以書状訪良眞僧都所悩、答於今者無治術之由、巳剋許令參山禪師於貴布禰社、是聊爲有其祟事之故也、奉御帳料絹并帽額錦等、禪師於寶前讀諳[誦?]法華經一部祈申歸云々、又以賀茂神主成經奉紅色單衣一領唐鏡一面<有筥、>於同社、又書出去十三日所立申願可奉造二尺藥師如來像一體、又可曳千僧供<奉ノ(右傍書)>事等、與今日所立申於貴布禰社可供養心經千巻事、兼又可觀修神樂事、前後相竝注載一紙、請明胤令讀之、令拭[振?]辨説之舌、頗陳祈請之趣 又可奉造千手觀音像一體之願只今所立申也、雖不載願書、只令申其由事了、有布施絹三疋、織單衣一領、<黄朽葉、>未剋許陰陽頭道言來、予問云、自寅時許御心地苦給如何、占云、尚疫氣候歟、明日明後日間平復御歟者、此間僧徒一兩唱錫杖始、自長仁多法印御許以書状、被訪御心地事、答申自今朝又苦給之旨了、及秉燭懺法如常、又以僧三口<齊覺、成昭、圓禪、>令讀理趣經、有布施、各絹二疋、相次又唱錫杖、入夜召佛師覺助弟子令作始二尺千手觀音像、白重下襲一領給佛師了、以俊章爲行事、又去十九日朝方所奉作始三尺千手觀音像、於此家中可奉作之由仰了、
令陰陽師三人修鬼氣祭、
此日一品良子内親王早世、<年四十九、>是依疱瘡也、後朱雀院第一皇女也、母陽明門院(禎子内親王)
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
8月27日 【娟子、快方に向かう】
(8月27日条)
 曉唱錫杖、御心地與昨日同、(中略)
未剋許賀茂神主成經來、予示成經云、今度必可蒙冥助之由致丁寧可祈申貴布禰社也者、成經聞此由歸了、未終奉十列走馬於貴布禰社、雜色男共勤仕、依之御前服假之間不被■[奉?]幣帛也、
良久觀海來、釋■[迦?]如來説法之次第令奉聞之、申剋行慶爲長多仁法印御使來、是御心地之訪也、申無術之由、秉燭以木工允俊章令申博陸(関白藤原師実)云、今日可參入之由自兼日雖存思給、此御心地尚苦給之間不參入候、遺恨無極候也者、御返事云、承今日可被坐之由、終日雖待申、遂不御坐、頗口惜候事也者、
秉燭之後懺法如常、(後略)
(8月28日条)
 御心地今朝頗宜、今日令奉書一日法華經、<色紙銀泥堺、>辰剋許經師等參入、<卅人、>是依昨日催也、各分充枚數令書之、有饗、未剋許各書了給祿、各疋絹、調巻經師給祿、各疋絹、以長尋令書外題、有祿疋絹、式部丞明業爲行事、
講師相違之間已及深更、仍請菩提房僧都<齊覺、>爲講師、布施「美作守道時取布施、」(右傍書)絹廿疋、單衣一領、相次唱錫杖、又修懺法、此御心地有邪氣體、以呪雖不縛附人、或時自縛、或時陳雜事、(後略)
(8月29日条)
(前略)今日御前(娟子)御心地頗宜、心中之悦也、及秉燭唱錫杖、又修懺法、夜居僧一兩暗誦法華經、(後略)
(8月30日条)
 今日一日大般若讀經事、是爲御前(娟子)御祈、近習之輩各所企也、請僧卅口、此中長多仁法印十口、菩提房僧都八口所被請送也、掃南廟、豫懸彩幡、敷紫端疊爲讀經所、又懸唐繪釋迦如來像一鋪、前居閼伽佛供等、此間衆僧來集、能暹、兼禪、尊譽、信慶、忠禪、勝賢、■<■圓泉ノ(右傍書)>靜珍、嚴算、嚴觀、靜舜、<已上菩提房、>源昭、念信、永有、慶觀、公義、良珍、<已上知足院、>行尊、良覺、兼昭<東大寺、>明許、行明等也、已終發願、以圓泉爲導師、午終羞膳於僧徒、<明業備之、>於西廊有此事、申初結願、導師如前、有布施事、各三疋、僧衆分散了、(後略)
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
9月2日 【白河天皇、大伯母良子内親王喪のこと】
(9月1日条)
 今朝堅固物忌也、外宿人不來、
御心地頗有宜氣、
(9月2日条)
(前略)入夜勘解由次官知綱爲殿御使來、雖爲物忌予於東侍所相遇、御消息云、主上(白河天皇)明日可令修御燈御祓給也、而依一品宮<良子、>御喪有御服假、前々如此御服假之時、御燈御祓有無甚以不審也、但後朱雀院御時長暦三年八月廿八日中宮<(藤原)嫄子、>崩、其年九月御燈御祓被修歟如何、若故殿(藤原頼通)御記中被注置者可被尋給也者、引見件御記之處、彼年九月三日有御祓之由被注載、其由注別紙奉了、
今夜令行夢祭、入夜唱錫杖、日者懺法今夜雖可結願、尚令延行云々、
(9月3日条)
 早旦奉黄牛一頭於祇薗、御前(娟子)御心地之間有御祟之故也、巳剋許參博陸殿(関白藤原師実)、所悩之後今日初所參入也、良久歸、午剋許遣喚賀茂神主成經、稱只今來之由、未剋許成經來、貴布禰御體<鋳金銅、>并銀龍等、附件成經奉貴布禰、是此御心地之間有其祟之故也、(中略)
長多仁法印爲使行慶被示給云、御心地如何、申昨今有減氣由了、被出京云々、(後略)
(9月4日条)
 御心地頗宜、今日博陸(関白藤原師実)行百座仁王講云々、是若宮(敦文親王)御祈云々、(後略)
(9月5日条)
 辰剋許參博陸殿(関白藤原師実)、若宮(敦文親王)從夜前殊令苦給之故也、良久歸、今日令僧五口<行尊、齊覺、永義、良覺、永有、>轉讀般若心經千巻、廻向行疫神、未剋許結願、各有布施、申終參殿、入夜歸家、先之修懺法了、又及深更修鬼氣祭、(後略)
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
9月6日 【敦文親王、疱瘡により薨去】
 早旦參博陸殿(関白藤原師実)、若宮(敦文親王)御心地殊令苦給、(中略)
予奉見若宮御體、更無可令存給之氣色、博陸、并上(白河天皇)、皇后宮大夫、御乳母等悲嘆之氣不可陳盡、見者心胆如舂、酉剋許女房等揚嗚咽之聲、戌終御非常了、御年四歳、哀哭之至言言語道絶、予依不可触穢●退出、(後略)

●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源))
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
9月29日 【良子内親王法事】
(前略)此日故一品良子内親王御法事云々、於世尊時被修云云、
 「首書」
 前齋宮俊子内親王被修云々、
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
10月27日 【御前(娟子)、知足院に籠る】
(10月27日条)
(前略)自今日限一七日御前(娟子)令籠知足院給、予同參入、于時秉燭也、有女房等車、前駈五六人許也、
(10月28日条)
 巳剋許予獨向家、(後略)
(10月29日条)
 辰刻許向知足院、先之宰相源中將來、相遇、晩頭出知足院歸家、(後略)
水左記 承保4年
[承暦元年]
(1077)
11月3日 【御前(娟子)、知足院から帰る】
(前略)今日御前(娟子)可令出給也、寺僧四口有布施<各二疋、>明日爲坎日之故也、(後略)
水左記 承暦元年
(1077)
11月19日 【御前(娟子)、姉良子喪の除服】
(前略)酉剋御前(娟子)令出河原給、爲令着除服給也、<依故一品宮(良子)喪也、>陰陽助(賀茂)道榮奉仕御祓云々、(後略)
水左記 承暦4年
(1080)
5月10日 【御前(娟子)と姫君、招魂祭】
(前略)去七日夜人魂見御前御精進所云々、仍今夜御前并姫君御料令(賀茂)道榮修招魂祭、便於彼宅修之、以佐定爲使遣御撫物、
水左記 永保元年
(1081)
7月19日 【御前(娟子)物忌】
 今明御前堅物忌也、(後略)
水左記 永保元年
(1081)
8月28日 【寝殿御方、法華経供養】
 今日寝殿御方(故藤原通房室妧子?)於蚊松被供養佛經、<釈迦如來像■■■法華經一■■■>巳時許御前(娟子)達渡給、相次博陸(関白藤原師実)令渡給、未時許有講筵事、暹●律師、題名僧六口、行尊、陽慶、定秀、深賢、延眞、明元等也、(後略)

●=斅(教の旧字体。こちらを参照(字源))
水左記 永保元年
(1081)
11月20日 【御前(娟子)、方違】
(11月20日条)
 甲旦向土御門、今夜御前(娟子)爲方違<王相、>渡廣綱宅給、是來廿二三兩日可爲御物忌之故也、(後略)
(11月21日条)
 曉御前(娟子)還給、予留土御門了、入夜歸、
水左記 永保元年
(1081)
11月22日 【御前(娟子)の閻魔天供養を開始】
(前略)始自今日至于明年十二月晦日、於天台山毎日充壽命經一巻供養之、又奉供養閻魔天、是御前(娟子)御祈也、明年可愼給之故也、
水左記 永保元年
(1081)
12月2日 【源俊房、土御門新邸へ転居。御前(娟子)同車】
 曉向土御門、巳尅許陰陽頭道言來打厭百鬼符、又勘可渡之日時、<今日時亥、>未尅許博陸(関白藤原師実)并左大將(藤原師通)參高倉殿給、予參入、今日依可有御渡被覽新作也、次坐予土御門給、同被覽也、良久被歸了、
秉燭之後着衣冠參宮、<土御門北東洞院東、>先之新中納言、左衛門督(源師忠)、右衛門督(源俊明)、右兵衛督(源俊実)等參入、戌尅宮(祐子内親王)并■■御方(頼通室隆子女王)令渡新作高倉殿給、前駈歩行、各宿衣也、上達部殿上人同歩行也、入自西門給、權陰陽博士有行朝臣奉仕反閇、移徒儀黄牛五菓許也、事了予歸、家[亥?]終渡土御門、<■■■■御前(娟子)同車、>前駈衣冠布衣相交矣、入自東門、道言反閇、下家司二人着褐衣牽黄牛、寄車於廊北面妻戸、相次尼上(俊房母尊子)、并大將上(故藤原通房室妧子)、姫君御方■北對給、中納言渡西小寝殿、今夜不招賓客、依無移徒歩儀也、(後略)

天野ひろみ「王朝文学の中の寝殿」(『平安京の地域形成』, 京都大学学術出版会, 2016)に解説あり。
扶桑略記
ほか
永保2年
(1082)
12月9日 【大納言源俊房、右大臣に昇任】
『扶桑略記』
 大納言(源)俊房任右大臣。年四十八。前太政大臣(源)師房朝臣一男也。母入道大相国(藤原)道長女(尊子)也。
扶桑略記
ほか
永保3年
(1083)
1月19日 【右大臣源俊房、左大臣に昇任】
 右大臣源朝臣俊房任左大臣。(後略)
堀河天皇
史料 月日 記述
中右記 寛治7年
(1093)
11月28日 【娟子内親王、父後朱雀院のために観音像を造立】
(前略)今日左府(源俊房)醍醐堂供養也、(中略)
件堂安置等身正觀音像一躰・兩界曼陀羅、後聞、前朱雀齋院(娟子内親王)爲後朱雀院御被建立也、後朱雀院正月十八日御國忌也、仍爲彼菩提造立觀音造云々、但無願文、是有由緒也、左府偏營了、
中右記
扶桑略記
ほか
寛治8年
(1094)
1月16日 【母陽明門院(禎子内親王)崩御】
『中右記』
(前略)今夜子時許、陽明門院崩于鴨院、<是依疱瘡也、御年八十二、>
禪定仙院者、諱禎子、三條院第三女、母皇太后藤妍子、入道太相國(藤原道長)之女也、長和二年七月六日誕生、同十月爲内親王、同四年准后、治安三年一品、万壽四年入東宮、<十五、>長元十年爲中宮、同三月皇后、寛治[徳]二年落餝、永承六年爲皇大[太]后、五年稱陽明門院、在后位卅三年、院号後廿六年、爲當時太上皇(白河院)祖母、養中宮(篤子内親王)爲子、(後略)

『扶桑略記』
 陽明門女院禎子崩。年八十五。三条天皇御女。後朱雀院后。後三条天皇之母儀矣。赤疱瘡所害也。
中右記 嘉保2年
(1095)
5月11日 【左大臣源俊房の土御門亭焼亡】
 曉寅時許左府(源俊房)土御門亭燒亡、驚走參入、左大將殿(藤原忠実)令同宿給也、白地其北山座主(天台座主仁覚。俊房の弟)<ニ>、左府・大將殿共令渡給、大殿(藤原師実)・關白殿(藤原師通)、公卿・殿上人濟〃參入、予雖爲神事行事、燒亡触」穢依無甲乙、參此處也、巳時許歸家、件亭造畢之後纔十余年、仍新造之處也、而一日爲●燼、惜哉、

●=煨(火偏+畏。うずみび。こちらを参照(字源))
煨燼(わいじん)=燃えさしのこと。
中右記
重憲記
殿暦
康和5年
(1103)
3月12日 【娟子内親王薨去】
『中右記』
 今日未時許、左大臣(源俊房)室家前斎院卒去云々、斎院名娟子、後[朱]雀院女、母故陽明門院(禎子内親王)也、往年成左大臣妻、已送多歳、今日已卒去<年七十二云々>

『重憲記』
 前斎院娟子内親王薨、内親王者後朱雀天皇第二女、母陽明門院(禎子内親王)也、長元五年九月十三日誕于中宮大進橘義通朝臣宅、御産以前、自東宮以少進則経為使被献紅御袴一腰、是有由緒云々、
九年十一月廿八日卜定賀茂斎王、時年五也、
十二月六日勅為内親王、外戚卿相等進弓場奏慶之由、
長久■[三]年■月■日、授■[一]品、
寛徳二年乙月十六日退斎居、
天喜五年九月偸降嫁参議左近中将源俊房卿、世以為不可、
薨時春秋七十二、予依召参左府殿(源俊房)、仰云、
来十八日可有斎院御葬礼、公家御衰日不可憚歟、又薨葬如何、申云、親王以下御送葬、強不可被避公家御衰日歟、又六条前斎院(禖子内親王)薨時無薨奏、今度事可随仰者、

『殿暦』
(3月15日条)
(前略)若宮(宗仁親王)御五十日記、(中略)院(白河院)無對面、去此左府(源俊房)北方前齋院(娟子)入滅、件人院の御をは(伯母)なり、

『重憲記』は平田俊春『私撰國史の批判的研究』(国書刊行会、1982)による。
(長久年間の叙品記事に関する註は、『大日本史料』を参照とした)

中右記 康和5年
(1103)
3月15日 【宗仁親王五十日。左大臣俊房、前斎院(娟子)喪により不参】
(前略)入夜有行幸上皇(白河法皇)御所高松亭云々、是今宮(宗仁親王)五十日聞食之間、有此臨幸也、勸賞判官代(藤原)伊通敍從五位上云々、公卿多有障不被供奉者、
左大臣(源俊房)・右兵衞督<師(源師頼)>、依前齋院(娟子)御事不被出仕、(後略)
重憲記 康和5年
(1103)
3月18日 【娟子葬送】
 左大臣(源俊房)御室前斎院(娟子)御葬送也、今日公家御衰日也、不被沙汰、可然云々、
重憲記
本朝世紀
康和5年
(1103)
3月22日 【中宮(篤子内親王)、伯母娟子薨去に服喪】
『重憲記』
 是日中宮(篤子内親王)著御服給、依前斎院(娟子)事也、

『本朝世紀』
 是日中宮(篤子内親王)著御服給、依前斎院(娟子)御事也、
重憲記
本朝世紀
康和5年
(1103)
4月25日 【賀茂祭。中宮(篤子内親王)、伯母娟子喪により使なし】
『重憲記』
 賀茂祭也、但中宮(篤子内親王)不被立使、依前斎院娟子御服也、
(※『本朝世紀』も同文につき略)
重憲記 康和5年
(1103)
4月30日 【娟子法事】
 是日、左大臣殿(源俊房)故斎院御法事也、
崇徳天皇
史料 月日 記述
中右記 大治5年
(1130)
2月21日 【藤原聖子立后。立后例のこと】
(前略)立后例、<國史以後、>(中略)
<陽明門院 大夫大納言藤能信、權大夫中納言藤資平、>
 長元十年二月十三日、立一品禎子内親王為中宮、
<帝母>
  三條院第三女、母皇太后藤妍子、入道殿(道長)女、
  生後三條院、良子、娟子内親王、陽明門院是也、(後略)


史料 記述
十三代要略
後一條院
 長元九年<同(十一月)廿八日良子女王爲齋宮。娟子女王爲齋院。>

後朱雀院
(皇女)
 娟子内親王<母同上(皇后禎子)。長元九年十一月廿八日爲齋院。同十二月五日爲内親王。寛徳二年正月十六日退之。天喜■年九月密配參議俊房卿。康和五年三月薨。七十二。>
一代要記
後朱雀院天皇
(賀茂)
 娟子内ヽヽ[親王]
 <帝二女、長元九ー十一月廿八日爲賀茂齊、<五才、>同十二月五日爲内親王、長久 年 月 日敍一品、寛徳二ー正月十六日退之、天喜五ー九月適參議左中將源俊房卿、>
帝王編年記
後朱雀院
(皇女)
 ●子〃〃〃[内親王]<母同後冷泉院賀茂齋院/後俊房公北方>
(齋院)
 ●子内親王<帝第二女寛徳二年正月退之/天喜五年九月密通俊房公>

●=女偏にム+月
二中歴
(齋院)
 娟子<後朱雀女長元九年 後堀川左大臣俊房妻>
皇代暦
後朱雀天皇
(齋院)
 娟子内親王 帝第二女歳五退之依上皇崩也其後竊適參議中將俊房卿
本朝皇胤紹運録
(後朱雀院子)
娟子内親王[齋院。號狂齋院。配俊房公。母同(陽明門院禎子)。]
本朝女后名字抄
(賀茂齋内親王)
娟子内親王<號狂齋院(右傍書)><後配堀河左大臣俊房(左傍書)> 長元九年。卜定。後朱雀院第三皇女。母陽明門院。三條院皇女。
賀茂斎院記
娟子内親王
後朱雀院第三皇女也。母禎子内親王。<号陽明門院。>三条院女也。
長元九年十一月卜定。其後配堀河左大臣俊房。号狂斎院。
栄花物語
(31・殿上の花見)
【娟子内親王誕生の頃】
 東宮(敦良親王=後の後朱雀天皇)には、一品宮(東宮妃禎子内親王)の御腹に姫宮二所(良子、娟子)おはしませども、それは疎くて(離れてお住まいなので)見たてまつらせたまふことなし。
栄花物語
(33・きるはわびしとなげく女房)
【娟子内親王の幼少時】
(後朱雀天皇の)二の宮(尊仁親王)は、一品宮(皇后禎子内親王)の御腹に三つばかりにておはします。女一宮(良子内親王)は斎宮に、女二宮(娟子内親王)は斎院にゐさせたまふべしなど聞ゆ。
栄花物語
(34・暮まつほし)
【娟子内親王、斎院に卜定】
 皇后宮(禎子内親王)陽明門院におはします。女一の宮(良子内親王)は斎宮、女二の宮(娟子内親王)は斎院、(後に)左の大殿(左大臣源俊房)の上(正室)にならせ給へりき。(中略)
皇后宮、一、二の宮、斎宮、斎院にゐさせたまひぬれば、一所若宮(尊仁親王)うち遊ばしきこえさせたまひて、物をのみおぼしめしておはします。(中略)
 内(後朱雀天皇)には斎宮(良子)をぞいみじうかなしうしたてまつらせたまひける。男宮(尊仁)をば、またいかでかはおろかには思ひきこせさせたまはん。女二の宮(娟子)をば、宮(皇后禎子)ぞいとかなしうしたてまつらせたまひける。(中略)

 皇后宮には、斎宮伊勢に下らせたまひ、斎院は本院になど、皆よそよそにおはします。
栄花物語
(36・根合はせ)
【後朱雀天皇譲位・崩御、斎宮良子内親王・斎院娟子内親王の退下】
(後朱雀院が)斎宮(良子内親王)、斎院(娟子内親王)をまたもえ見たてまつらせたまはずなりぬる、いみじくあはれに、かぎりなき御有様も、かかることのおはしましけるもあはれなりける。(中略)

 その四月、祭の日、葵につけて、下りさせたまへる斎院(娟子)に、女院(上東門院彰子)の中納言の典侍、

  去年の今日かくや祈りし神山につみし葵のかけまくも惜し

返し、皇后宮(禎子内親王)の弁の乳母、

  かけまくはかしこしとこそ祈りしかはかなかりける葵草かな
(中略)

 東宮は、十二におはします、閑院に皇后宮(禎子内親王)一所におはします。斎宮(良子)・斎院(娟子)も(後朱雀院が崩御したので)下りさせたまへり。さまざまなる御服姿いとあはれなり。(良子は)十七、(娟子は)十五におはしませば、わざとの大人のうつくしうささやかなるにておはします。御かたちどもいとめでたくおはしますとぞ。
栄花物語
(37・けぶりの後)
【娟子内親王、源俊房と密通し出奔】
 源大納言(源師房)の御太郎君(長男)は、新中納言俊房と聞ゆる。
 かの朱雀院(後朱雀天皇)の二の宮(娟子内親王)は、前斎院とて、皇太后宮(禎子内親王)と一つ所におはしますに、(娟子の)御乳母子(めのとご)を語らひて、忍び忍びに参り給ひけり。
 さて忍びて迎えたてまつらせたまひてければ(俊房がこっそりと娟子を自分の元へ引き取ったので)、内(後冷泉天皇)・東宮(尊仁親王=後の後三条天皇)いと便なきものに思しめしたる中にも、東宮は一つ御腹(娟子の同母弟)におはしまして、心やましくめざましう思しめして、内にも「一人かくのみ思ひはべるべきことにもあらず(私一人がこのように心配するようなことではない=公的に処罰をあたえるべきだ)」と、いみじく申させたまへば、(俊房は)かしこまりてものしたまふ(謹慎していらっしゃった)を、(東宮は)なほ飽かず、「これよりまさりたらん罪にもありなん(もっと重い罰を与えるべきだ)」と、いたく申させたまへば、いかなることかと、大納言殿(師房)は思し嘆かせたまふ。
 六条(旧具平親王邸)にいとおかしき所、大納言殿の領ぜさせたまひけるにぞ、おはしまさせたまひける。
 大宮(皇太后禎子)をも、「すべて御文など通はさせたまふな」と、東宮のいみじく申させ給へば、いとかなしくしたてまつらせたまひしかど、かき絶えておはします。
 大納言殿の上(俊房の母・藤原尊子)、よろづに扱ひ申させたまふ。宮(娟子)の御有様いとめでたくおかしげにおはします。中納言(俊房)、物語の男君の心地したまひて、いとあてやかになまめかしき御様なり。
大鏡
【皇后禎子内親王と後朱雀天皇、五月五日に歌を贈答】
 この宮(皇后禎子内親王)に女宮二所(良子、娟子姉妹)おはします。(良子は)斎宮・(娟子は)斎院に居させたまうて、いとつれづれに、宮たち恋しく、世もすさまじく思し召すに、五月五日に、内(後朱雀天皇)より、

(後朱雀)
 もろともにかけし菖蒲(あやめ)のねを絶えてさらにこひぢにまどふ頃かな

御返し、

(皇后禎子)
 かたがたにひき別れつつあやめ草あらぬねをやはかけむと思ひし
古事談
(1・王道后宮 55)
 堀川左府(源俊房)参議の時、前斎院(娟子内親王)を取り籠め奉り、亭に置き奉りたりけるを、天皇(後冷泉)は宇治殿(藤原頼通)を憚らしめ給ひて、謬(いつは)りもてなさせ給ひけるを、春宮(尊仁親王)は事の外に憤らしめ給ひて、「あはれ吾れ一人が妹にてもなき物を(私の姉だというだけではありません=帝にとっても異母妹ではありませんか)」と仰せられけり。
 仍りて(後三条天皇の)受禅の後、其の御意赴(趣)に依りて、追ひ籠めしめ給ふ<帯ぶる所は解かず、と云々>。延久の間は召し仕はれず。六絛右府(源顕房)などにも超越せらる、と云々。白川院の御時召し出だされて、大納言にもなされける。
 前斎宮・前斎院は人の妻に成り給へども、子息無し、と云々。
今鏡
(4・藤波)
 この女院(陽明門院)の御腹に女宮たちおはしましき。(中略)
 次の姫宮(第二皇女)は娟子の内親王と申しき。長元九年霜月のころ、賀茂の斎院(いつき)と聞えしほどに、まかりいで給ひける後、天喜五年などにやありけむ、長月のころ、(娟子内親王が)いづこともなくうせ給ひにければ、宮の内の人、いかにすべしともなくて、明し暮しけるほどに、三条わたりなる所に住み給ふなりけり。
 はじめは、人の扇に一文字を男(源俊房)の書き給へりけるを、女(娟子)の書き添へさせ給へりければ、男また見て、一つ添へ給ふに、互に添へ給ひけるほどに、歌一つに書き果て給ひけるより、心通ひて、「夢かうつつか」なる事(=『伊勢物語』の斎宮密通のような秘事)も出できて、心や合はせ給へりけむ、負ひ出だしたてまつりて、やがてさて住み給ひけり。
「男咎あるべし」
なんど聞えけれど、人柄の品も、身の才などもおはして、世も許し聞ゆばかりなりけるにや、もろともに心を合はせ給へればにやありけむ、さてこそ住み給ひけれ。男そのほどは、宰相中将など申しけるとかや。後には左の大臣までなり給へりき。
今鏡
(7・夢の通ひ路)
 また大臣殿(俊房)の斎院(いつき=娟子)を取りすゑ給へりしかばにや、御末の官(つかさ)のぼりがたくおはすると申す人もあるとかや。九条殿(師輔)の北方(きたのかた)の宮(康子内親王)も、びんなき事なれど、それはただ宮ばかりにおはしき。これは斎院に居給へる人を籠めすゑ申し給へりし、類(たぐひ)なくや。
 業平中将も、「夢かうつつか」の事(斎宮恬子内親王との密通)にて止みにけり。道雅の三位も、「木綿(ゆふ)しでかけしいにしへに」などいひて、忍びたること(前斎宮当子内親王との密通)にこそ侍りけれ。これ(俊房と娟子の密通)はぬすみ出だして、取りすゑ給へれど、業平中将にはかわりて、前(さき)のなれば(娟子は既に斎院の任を退いた方なので)、さまで過りならずやあらむ。斎宮の女御(徽子女王。伊勢斎宮、のち村上天皇女御)なども、またいつきのおり給ひて、后になり給へるもおはせずやはある。また大臣までぬしのぼり給ひしかば、末のかたかるべきにあらず。おのづからの事なるべし。


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