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この作品「どうにかならないのか(Web再録〜1/3)」は「ロナドラ」「吸死【腐】100users入り」等のタグがつけられた作品です。
どうにかならないのか(Web再録〜1/3)/はいの小説

どうにかならないのか(Web再録〜1/3)

72,423文字2時間24分

初出2022/11/28
『どうにかならないのか』の期間限定Web再録です。1月3日まで。

自分に片想いしたままロくんが死んでしまうことを知ったドちゃんが、それを回避するべく頑張る話です。

年末年始のお供によろしければどうぞ。

1
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どうにかならないのか






  1

彼の棺を真っ赤な薔薇で埋めた。

ロナルドくんが遂にいなくなった。
彼の葬儀はシンヨコを挙げて盛大に執り行った。喪主は妹さんたっての希望で私。会場はドラルクキャッスルマークⅡ。「ドラルクさんの好きに」、と方々から言われたのでお望み通りに好き勝手騒いでやった。私の一族も、お馴染みのおポンチどもも、まだかろうじて生きている退治人メンツ含め彼の知り合いも、全員巻き込んで参列させた。参列者への挨拶なんてそこそこに私とお父様とお祖父様で腕を振るって、街全体をもてなす勢いで事務所の前の道路に次々と料理を出した。通夜だの告別式だの知らん。私に任せたのだから日本の流儀になど乗っ取らん。ドラドラ式で行かせてもらったわ。
不謹慎にもテンションの上がったお祖父様が変な創作料理を始めるわ、お父様が料理のえさになるわ、ポンチどもはポンチだわで散々だったが、私は厨房に一人になっても手を止めなかった。
頭がおかしくなりそうだった。
後片付けを全て終え、人々の熱気も落ち着いた数日後、私はやっと外へ出た。ジョンを胸に抱いて、通い慣れた病院へ向かう。
シンヨコらしく吸血鬼にも開かれた扉をくぐり、数々の看護師さんから先日の騒ぎを咎められる。勘弁してくださいよ、と言いながらも優しく笑っているのだから可笑しい。いやはやすまないね、思ってもいないくせに、なんて談笑しても深夜のくせに非難されることはない。
彼女は私が来ることを見越してそういう区画を希望した。

「ヒナイチくん、ご加減はいかがかな」
「ああドラルク。今日はだいぶいいぞ。お前が来たからな」
「お上手だね」

くすくす笑う、彼女も随分年老いた。けれど笑顔は昔から変わった気がしないのだから不思議だ。

「先日は、ここまで騒ぎを広げてくれてありがとう。おかげで楽しかった」
「それはよかった」

彼女は頑強だったけれど、長くまで前線にいたおかげで積もり積もった古傷が牙を剥くことになった。大好物のクッキーも禁止されて久しい。今日はそれを知らない人がお見舞いに来たのか、サイドテーブルに食べかけのクッキーが置いてある。
先日は、普通には歩いて来られないだろうからとポンチどもにここを襲撃させたのだ。ポンチなりに役に立ったようで何よりだ。

「ロナルドも本望だろう。あれは正しくお前のための式だった」

そう。あの式は私が私のために開いた式だった。そうするのが彼も一番喜ぶと言われた。あんなに不謹慎で無礼で品性も何もないような騒ぎだったのに、彼の最愛の妹さんはずっと満足気に笑っていた。

「どうしてだろう」

彼が死んだ直後から、ずっと抱いていた疑念だ。彼は全てを私に遺して逝った。腕の中のジョンがヌーと鳴く。

「ロナルドくんはずっと独り身だった」

童貞臭さと青臭さと若さゆえの落ち着きのなさとデリカシーのなさが全面に出ていた若造も若造の頃ならいざ知らず、というよりそのときもモテてはいたけれど、歳を重ねるほどに尋常でなくモテた。言い寄ってくるお嬢さんは多種多様であったし、浮ついた思いでなく真剣な恋情を秘める誠実な人もいただろう。
彼はひとりも選ばなかった。交際していた気配すらなかった。若いときにひとりかふたりほど付き合ったようだけれど、すぐに別れていた。一週間も経たないうちに、すぐに。
あんなに煩悩まみれだったのに、それでいて善良だったのに、どうしてこんなことになったのだろう。彼は結局生涯童貞だった。優しくて可愛らしい女の人と連れ添って、お兄さんに子供を見せるのが夢だって言っていたのに。恋も出来ぬほど清廉ではなかったはずだけれど。
ねえ、とヒナイチくんを見ると、彼女は穏やかに笑った。

あれ、と思う。

「怒ってる?」

いや、悲しんでる、のかな。わからない。そんな顔な気がするよ。
「もう言ってしまうがな、ドラルク」。彼女は口を開く。笑みを浮かべたままで。

「ロナルドはお前が好きだったんだ」

腕の中のジョンがヌーと鳴いた。

「お前が好きだったから、相手を作らなかった」

彼女は急に眉を下げて。

「本当に知らなかったのか」

腕の中のジョンがヌーと鳴く。

「き、いていないぞ、わたしは」
「誰も言わなかったからな。誰も」

だれも、と彼女はまた寂しげに呟いた。
おざなりに彼女に挨拶をして、病院を飛び出した。足を向けるのは、彼を最もよく知る彼のもとだ。

「ねえ、ロナルドくんの好きな人って、ねえ」

嘘だろう、という私の心を見透かしたのか、半田くんは少しだけ眉を顰めた。

「死人に口無しだ、ドラルク」

腕の中のジョンがヌーと鳴いた。

  2

「…………夢オチなんてサイテー……」

いつも通りの棺桶の中で目が覚める。気分は最悪だった。なんだ、あの夢。
わけがわからんが起き抜けからテンションがダダ下がりだ。もう今日は何もしたくない、このままダラけて一晩ゲームしてやる……と思うも虚しく、棺桶を襲う容赦ない打撃音で儚くも命を落とす。

「いつまで寝てんだ砂! 起きろ!」

夢の中で聞こえなくなったはずの声が聞こえて、不覚にも目元にじわりと熱がこもる。やだやだ、こんな感傷的なのは。あんな夢なんかに振り回されて情けない。若造がいるからなんだってんだ。

「オイコラ起きてんだろお前」
「……チッ」
「舌打ちすんな、おノーブルはどうした」

五月蝿い若造、こっちはお前のせいで夜っぱらから情緒が大変なんだ。黙ってろ。
盛大に顔を顰めながら棺桶の蓋を開けると、傍にしゃがみ込んだロナルドくんとばちっと目が合った。

「元気そうじゃねえか」

唇を曲げてすぐに離れてしまったけれど、私の網膜には残像のようにその姿が残っていた。
夢の中の映像がフラッシュバックする。
赤色がひしめき合う白い棺の中、色だけならおめでたいのに血色の良かったはずの彼の顔はあまりに白くて、銀髪は殆ど白髪に取って代わられてしまっていて、降ろされた睫毛もその唇ももう二度と開くことはない、馬鹿みたいに騒がしくて恐ろしいほどに空虚なあの、あの夜。

「ロナルドくん」
「あ? んだよ、起きたなら今日仕事あるから着いてこいよ」
「……まあ、よかろう」
「なんで上からなんだ殺すぞ」

殺すぞ、と言いながら殺すのはどうかと思う。
あれは夢だと思っているのに、死だけは現実の延長線にあるのだからどうしようもない。
あんな夢は有り得ない、と思っているのにあまりに鮮明だったものだから、まるで本物の記憶のように思い浮かべられてしまうのだ。

『ロナルドはお前が好きだったんだ』

彼女の声をこれほど耳障りに思ったことはなかった。


喧騒の中で赤を追って走る。

「ロナルドくん、私もう足が疲れて死にそうなんだけど」
「この雑魚ボケ貧弱おじさんもうちょいだから我慢しやがれクソ!」
「ウェェン」

仕事に行くぞ、と言われてついて来てみれば、どうやら退治人との戦いを演出したい吸血鬼に頼み込まれた末の依頼だったらしい。困惑しきった顔の一般人に「あ、これ渡しといてくださいって」と依頼料を着くなり受け取った若造の顔も困惑に満ちていた。うけた。
そして肝心の吸血鬼はというと、「ロナルド意外と赤くてこわい」と言ってなかなか出て来ず、ようやく出て来たかと思えば「ふひゃ、フハハハ! こっちだ!」と言って逃げ出した。
それを追いかけ今に至る。

「もうちょいって、何をもってもうちょいなんだ若造!」
「いやなんか依頼料入ってた封筒に『心の準備に十五分ほどかかる予定です』って書いてて」
「先にしとけそれは!」

というよりもう十五分走りっぱなのか、うそだろ。私は途中何度かデスリセットしたが、あの吸血鬼も若造も、全力でよくそんなに走れるものだな。

「ハァ、ふ、フハハハ! ゼェ、ングッ、ハァ、退治人と、ゲホ、愚かな同ぼッ、同胞め! ハァ……ハァ、わざわざお越し頂き、ゲホッ、ァア、ありがとう……」
「あ、いや、どういたしまして……あの、落ち着いてからでいいぜ」
「すま、ハァ、ゲホ、ハァ、あ、あがり症で……」
「ああ〜……」

手頃な広さのある路地でようやく止まったかと思えば、吸血鬼は大層しんどそうに咳き込みながらも不敵な笑みを作ってみせる。それに対して息ひとつ切らさずに気遣ってすらいる若造。なんなんだこいつ。
吸血鬼はしばし深呼吸したあと、何事もなかったかのようにそのマントをはためかせた。

「フッ……残念だが退治人、我が名を語るまでもなく貴様らはもう私の術中だ」
「は?」
「あ、いやすみません、事前に能力使ってますよって意味で……」
「いや別にそんな凄んだわけじゃ、ビビりかよ」
「いやだって怖……退治人怖……赤……」
「お前が赤い奴選んだんだろ!!」
「赤ダニに群がられる悪夢でも見たのか」

頑張って畏怖くしようとしているのはわかるが、どうやらロナルドくんとの相性が最悪らしく怯えきって畏怖モードが二秒と持たない。畏怖保てない同盟とか組もうかな。

「てか事前に能力ってどういうことだよ。俺は特に何もねぇぞ」
「私もこれといった変化はないが」
「あ、いえ私の能力っていうのは寝ている間にしか作用しなくて」

ぴく、と勝手に顔が強張るのを感じた。
まさか、と思いながらも必死でその思いを打ち消す。

「今日起きる前、何か夢を見ましたよね?」

どくん、心臓が変に跳ねて死んだ。どうした砂、とロナルドくんの声が聞こえる。
吸血鬼は先程と打って変わっておずおずと名乗りを上げた。

「申し遅れました私、吸血鬼『未来を少しだけ夢に見させるおじさん』と申します」
「『未来を少しだけ夢に見させるおじさん』!?」
「ええと、相手が夢を見られるレベルの睡眠状態にあるのが条件なんですが、そうであれば夢の中で未来の自分に憑依出来るんです」
「つまり、何だ? 私たちが昨日見た夢は、起こり得る未来だとでも言うのかね」
「ええ! まさに!」

ざあ、と今度は心臓から血の気が引いていって死んだ。「マジでどうしたオイ」、と焦った声が聞こえるが答える気にはなれない。

「ドラ公お前、どんな夢見たんだよ」

言えるものか。言ってたまるか。

「おい、何見たんだって」
「ぜひ教えて頂きたい! 今のところ憑依していた期間が長いほど実現可能性が高くてですね、五日以上だとほぼ確実になるのですが」

私が夢の中で過ごしたのは、ロナルドくんの死から葬儀の数日後まで、およそ十日間。五日を目安としても長すぎる。
嘘だ。嘘だろう。

「……ドラ公?」

君は私に片想いしたまま、童貞も卒業せずに死ぬのか。優しくて可愛らしい女の人と連れ添って、お兄さんに子供を見せるのではなかったか。
恋も出来ぬほど清廉だなんて、よく言ったものだ。

「未来を変えることは?」

恐らく真っ青な顔で聞いた私に、吸血鬼は大層おろおろして、「出来なくはないと思います」と答えた。

「先程も言った通り、日数でわかるのはあくまで『実現可能性』です。例えば夕飯が好物だった、みたいな短いものだと、自分に関わらないものの要因で変えられてしまって、結局当たらなかったりします」
「……」
「しかし、一定の期間を持ったそれこそ『記憶』と呼ぶにふさわしい夢ならば、今までのパターンだと大体がその通りに進むようですね。思うに、他者を要因としているものならば自分では変え難いのでそういう結果になるのでは、という仮説もあるのですが、もちろん未来のことなのでまだ実現していないものもありますからね。私も確定事項とは」
「それで?」
「ええ、しかし私の能力で見る未来に共通しているのは、程度はあれど『要因によって左右される』ということです。実現可能性が高くとも、百パーセントは有り得ません」
「……つか、結構すごくね? その能力」
「え、そ、そうですかね?」
「戦闘向きじゃねえけど……なんで急にこんなことしたんだよ」
「えへへ、昔から憧れてて……ロナルドさんはお優しいって聞いたので……」

照れ臭そうにへらへら笑い始める吸血鬼に、呆れた顔で苦言をこぼすロナルドくんをじっと見る。
ロナルドくんは死んでしまう。私を好きでいたために、ずっとひとりのまま。夢すらも叶えないままで。
そんなのは駄目だろう。そんなのは駄目だ。私だってあんなのは嫌だ。
変えなければならない。
せめて可愛らしい伴侶に看取られる最期を、彼に。
彼の葬儀は私のためではなくて、彼女たちのためになくてはならない。
……………………とかなんとか言ったが、私に片想いして生涯童貞って何だ!? やめろやめろ! 流石に責任感じちゃうだろうが!! 童貞くらい良い感じに捨てられんのかバカ造が!!
というよりなんで一生引き摺っとるんだ重いわ、どっかで見切り付けて愛せる人を探すもんだろうが何やってんだ!! クソッ!! 悪いが私には応える気はこれっぽっちも無いぞ!
変えなければ。なんとかして若造に私を諦めさせて、良い感じのお嬢さんとのハッピーエンドに導くのだ!!

「……おい、お前」
「アバッッッッッッッスナァ!!」
「なに声かけただけで死んでんだふざけんなよ‼」
「いやごめん私繊細だからゴリラの音圧で死んじゃうんだよね」
「殺」
「ブァ」

復活しながら私はIQ二億の頭をフル回転させる。
若造を良い感じの人と添い遂げさせるには。まず、相手を見つける。これはまあ、なんとかなるだろう。このシンヨコといえど、根はなんだかんだ善良な人が多い。それに私も付いていることだし、若造が変な女に引き込まれそうなら止めればいい。
そしてなんと言っても難しいのは、良い人がいたとして、若造がその人を愛しその人が若造を愛さねばならない。ここだ。

「おい」

未だに信じ難いことではあるが、どうやらロナルドくんはお目が高いことに私を好きになるらしい。そしてそれを一生引き摺っちゃうらしい。

「おい、砂」

ということは、彼の性癖はおっぱいから洗濯板に変わったということだろうか? そうなると引き合わせるお姉さんもちょっと考えた方がいいのだろうか。いや、どうせ若造のことだし今の段階なら簡単におっぱいで上書き出来るだろ。いけるいける。

「砂ァ!!」
「ォあ!?? なんだ⁉」
「無視してんじゃねぇ! ゆっっっっっくり再生しやがって、どうしたっつってんだろ!」
「どうしたって……あれ、吸血鬼未来おじさんは?」
「無害そうだったから注意して帰したわ。それよりお前だよお前」

ロナルドくんがじろりと私を睨め付けた。こっっわ。退治人こっわ。赤っ。

「さっきから変だろうが。バサバサ死にやがって、その度に泣いてるジョンのことも考えろ」

視線を下げれば、涙でびしょびしょになったかわいらしい私の最愛。

「え……ああ、ごめんよジョン。別に何も変じゃないさ」
「変だろ。…………そんなに嫌な夢だったのか」
「ううん、まあ、そうかな」
「どんな」
「君には言わないよ」

ていうかジョン以外には言えそうもないけど。
でも安心したまえロナルドくん。

「私がなんとかしてやろう」
「は?」

帽子の下に手を伸ばしてわさわさの髪を掻き分けて感触を楽しんだ。
棺を閉じる直前まで頬だのなんだのぺたぺた触っていたけれど、髪はもう少なかったから心残りだったんだ。髪の下に暖かさを感じる。素晴らしいな。

「は、はァ?」
「よし! 行くぞ若造!」
「ァ、あ? お、おま、は!?」
「何してるんだ、帰るぞ」
「あ、お、お前が指揮取んなや!」

ううん、やっぱいいな。夢の中でも、もっと触っておけばよかったと思ったんだ。冷たい頬に触っても足りなくなるだけだったから。

  3

「というわけで、『ロナルドくんに彼女を作ろう!大作戦』ここに始動!」
「何してんだクソ!」
「ギャァ!」

事務所で高らかに宣言すれば首に水平にチョップされて死んだ。

「何をするんだ若造! せっかくこのドラドラちゃんがお前のために一肌脱いでやろうとしたってのに」
「それがあの作戦ってか!? 嘘つけ俺のこと馬鹿にしようとしてるだけだろうが!」
「違う!」

存外大きな声が出て、若造が驚いたように目を見張る。

「未来を見たと言ったろう。それを変えるためだ」
「……そ、れが、彼女とどう関係あんだよ」
「いいか若造、このままいくとお前は一生童貞のまま死ぬ」
「エッ」

ロナルドくんの顔が分かりやすく絶望に塗れる。私はここぞとばかりに畳み掛けた。

「そして、その理由が片想いだ。今はまだわからないだろうが、君はとある人に片想いして叶わぬままその人に操を立てて死ぬ」
「…………なあ、それって」
「聞くな。今知っても良い結果にはならんだろう」

ロナルドくんはぎゅっと眉を寄せた。
確かに気になる気持ちはわかる。でもここで「私だよ」とか言ったら説得力が皆無になる。ドッキリだと思われて終わる。それは避けたかった。

「叶わねぇの」
「叶わないさ」

私はロナルドくんが好きだけれど、きっとロナルドくんが欲しい好きを返せない。だから叶わない。
中途半端に叶ったって苦しいだけだろ、ねえ。

「だったら方法はひとつだ。今から一生愛せる相手を探せ」

肩を掴んで真っ直ぐ目を見ると、ロナルドくんは少しだけ目を細めて、「わかった」と呟いた。
私はほっと息を吐く。納得してくれてよかった。

「ただ」

熱い手のひらに手首を掴まれて驚いて死んだ。構わずロナルドくんは続ける。

「お前の言う通りにするんだから、俺にも対価ってもんが要る」
「は? 聞いたか若造、これは貴様の未来のために」
「聞いたっての。ただ、俺はそれを信じる理由がねえ」
「私を信用していないと?」
「……そうじゃねえよ。俺からすりゃ、片想いで終わる一生も別に悪くねえと思ってるだけだ」

私は愕然とした。なんだと、と叫べばその拍子に喉が掠れて死んだ。

「片想いだろうが童貞だろうが……俺はたぶん、望み通りの人生だったはずだぜ」
「違う」

違う。あんなのは君の人生じゃない。
君の人生は、もっと、隙だらけであったって幸せで、誰から見たってそれがわかるようでなければならない。
相手を見つけることもなく、勝手に住み着いた吸血鬼に死後の葬送を冒涜されるようではいけない。
どうして私はあんな風に彼を送ったのだろう。どうしてもっと綺麗に出来なかった。どうしてもっと尊いものに出来なかった。

「違ったっていいけどよ。俺の人生を変える対価を払えよ」

一ミリも譲る気のないロナルドくんに、私は頷くしかなかった。

「わかったよ」
「よし」

ロナルドくんはひとつ頷いて、じゃあまずは、と掠れた声で言った後に唇を舐めた。

「スマホ、貸せ」
「え?」

『対価』なんて言うからどんなものが来るのかと思ったら、予想だにしなかった要求が来て面食らってしまった。
疑問符を浮かべる私に、ロナルドくんは「ほら」と言って手を出し催促してくる。私は納得しきれないながらもスマホのロックを外して彼に渡した。

「はい」
「ん。SNS見るぞ」
「えっ、なに? いやいいけど……」
「ん」

ロナルドくんは何を考えているのかわからない顔で、宣言通り私のSNSの全てを見ていった。ツイッターからインスタから、ラインまで。リプ欄、DM、最近のトーク履歴、全てを見ていく。
そうして決して短くない時間が過ぎた後、ようやく「もういいぞ」と言ってスマホをこちらに返した。

「もういいの? ていうか、何がしたかったの?」
「別になんでもいいだろ」
「いやこっちはなかなかのプライバシー侵害をされたんだが」
「俺は人生を侵害されてる」
「なんだその言い方は⁉」
「あーもうとにかく、これで一旦はお前の計画に乗ってやるよ」

若造は面倒臭そうに手を払って私の抗議を流す。少しどころでなくむかついたが、その気になったことは喜ばしい。

「いいか、お前の要求を一つ呑むごとに今みたいに俺の言うことを一個聞け」
「よかろう」

正直何を要求するかもまだ決めていないし、何を要求されるか恐ろしいが、ここで頷かなければ先に進まない。ロナルドくんはなんだか不自然な顔で笑った。

  5

まずは出会いを、と考えて、私は色々な伝手を使って合コンやら知人の女性やらをロナルドくんに引き合わせた。単に出会いが欲しい女性から、ロナ戦ファンの女性もいたし、顔につられただけの女性もいた。おとなしい人からロナルドくんの好みドンピシャの人までいた。
ただまあそこはロナルドくんだから、彼女たちの大多数はすぐに彼に対して冷めていった。少なくとも恋愛対象にはちょっと、という人が多かった。幸いにも紹介された女性たちは優しい人ばかりで、やんわりとロナルドくんを振ってくれたので、私の方は「ご縁がなかったんだねえ、気を落とさずにいこう」と励ますだけで済んだ。
そして、中にはいたのだ。ロナルドくんがどれだけおっぱいを連呼しようが変態の話をしようが、その他様々な醜態を目の当たりにしても純粋な好意の視線を向けてくれる人たちが。「でもロナルドさん、すごく素敵なひとですよ」と笑ってくれる人が。
ただ、そんな人たちはロナルドくんの方から別れを告げていた。
彼女はいい人だと思うよ、と言っても彼は「でも俺はあの人と恋愛出来ねえよ。ダラダラ関わるのは失礼だろ」と言うばかり。そうなると私は黙るしかなかった。
結局、私が望むのはロナルドくんの幸福な生涯である。彼を好きでもない人と結婚させることはしたくない。あくまで“彼が”一生を添い遂げたいと思う相手じゃなければならない。
というか本当に、どうしてあんなにもおっぱいが好きなのに私を好きになったんだ? わからん、わからんぞ未来の若造。一体何があったというのか。
ひとまず女性と引き合わせるのは休憩して、ロナルド吸血鬼退治事務所は以前の通りの日常が続いていた。
そんなこんなで、本日の依頼人は若いお嬢さんである。幸運にもなかなかに若造好みのスタイル。聞けば、隣の部屋に高等吸血鬼が住んでいるものの、なんだか様子がおかしいのだと言う。

「普通の人なんですよ。それが二ヶ月……くらい前からかな、挨拶をしても全く反応がなくなってしまって。私は在宅の仕事なので昼は家にいるんですが、うなり声とかなにか物が散らかる音とかが頻繁に聞こえてくるようになって。おかしいですよね、吸血鬼なのに」
「まあ日光がある程度平気なのもいますが、その隣人はそうじゃないんですね?」
「ええ、確証はありませんけど」

女性は物憂げな顔で頬に手をやった。

「ごめんなさい、わけのわからない依頼をしてしまって。でも吸対に言ったらおおごとになってしまう気がして……」
「いえ、こんなまともな依頼珍しいくらいですよ」

ロナルドくんが遠い目をして笑うと、女性はよくわからないといったふうに首を傾げた。

「じゃあひとまず、その物音を聞きたいですね。まだかなり早いので、少し仮眠してからお邪魔してよろしいですか?」
「あ、はい。私の部屋でよければどうぞ使ってください。住所書きますね」

女性がロナルドくんにメモを渡し、彼はそれを見て「ありがとうございます」と頷いた。
ロナルドくんと女性が腰を上げる。彼は私の方を振り返り、あ、というような顔になった。

「お前は留守番な」
「うむ。日が沈むまでレディーの家に居座るわけにはいかんからな」

今はまだ日が昇っていないが、昼になると私は身動きが取れなくなる。それに日中仕事をしている人の家では遮光も徹底されてはいないだろう。
すると女性ははっとしたような顔になって、「残念です」と眉を下げた。

「同じ高等吸血鬼の方なら、何かわかるかと思ったんですが……考えてみればそうですね。考えが浅くて」
「いやはや私の価値をしっかりわかっていらっしゃる。素晴らしいお嬢さんだ! おい、しっかりやりたまえよ若造」
「言われなくてもやるわ」

雑な拳で殺されて、唇をゆがめて表情で不満を示しながら復活する。
ふむ、図らずもロナルドくんと依頼人の女性が長時間二人きりになる流れだ。まあがっつり仕事であるので浮ついたことは言わないでおくが。
それになんだか、この女性はロナルドくんよりも……。
事務所を出ようとしている女性が不意に振り返り、ぱちりと目が合う。

「ロナルドくん」

呼び止めると、彼は「あ?」と柄悪く振り返った。

「私も起きておくから、通話でも繋げてくれたまえ」

女性が少し目を見開く。

「こんな素敵な女性の相手を口下手ゴリラだけに任せるなんて、失礼ですからね」
「失礼はお前じゃ!」

依頼人はなんだか明るい笑顔で「助かります」、と言った。私も笑顔を返す。
じり、と不穏な視線を感じて追えば、やはりロナルドくんが私を睨みつけていた。
どういうつもりだ、と声を出さずに唇を動かすので、肩をすくめて意味深に笑っておいた。鈍感ゴリラめ、少し考えればわかるだろう。
彼女はきっと、その隣人のことが好きなのだ。

「この私にお教え出来ることならば、なんでもお答えしましょうとも」
「は、はい。ありがとうございます!」

ロナルドくんのところに依頼に来たのも、そういう意図もあるだろう。このシンヨコのことだから、高等吸血鬼の知り合いなど出来そうなものではあるが、彼女は偶然縁がなかったのかもしれない。
ロナルドくんは視線で彼女と私を何度か往復し、ぐっと何かを耐えるように顔を歪める。いやはや、私に好意的な女性が現れただけでこの態度。何がどうなったら私を好きになんてなるのかね。
ひとまずムカつくので渾身のドヤ顔で煽っておいた。当然訪れる死。
女性が帰ったあと、ロナルドくんはなぜかすぐに出発の準備を始めた。

「仮眠するんじゃないのかね」
「ネカフェ行く」
「は? なんで」
「うるせぇ」

普段アホみたいに節約するくせに、どういう風の吹き回しだ?

「あっちに着いたら電話かけっから、おとなしくしとけやカス」
「君こそ興奮してドラミングでレディーの部屋を荒らすんじゃないぞ」
「行ってくるな~ジョン」
「無視して殴るな!」

拳だけ寄越す若造に抗議するが、私に反応することはなくニコニコした間抜け面で事務所を出て行った。
残された私はジョンに対して愚痴をこぼす。

「どう思うジョン! いくらなんでもこのドラルク様に対して失礼すぎると思わんかね!?」
「ヌー」
「あの不満そうな表情! 私が頼られるのがそんなに気に入らないか⁉ 無視なんて子供じみたことまでしよって、あれじゃ本当に五歳児だぞ」
「ヌン、ヌヌヌヌヌンヌ ヌヌヌヌ ヌンヌエヌ ヌヌヌ」
「ロナルドくんの気持ち~? 考えるまでもないと思うがね」

しかし最愛のジョンに「考えてあげて」、と言われたからには一考しないわけにもいかない。顎に手を当てて、ううん、と唸った。
ロナルドくんの、気持ち。私が感じた不満や怒りだけじゃない気持ち。そんなもの、あるとは思えないけど。
でも彼が私を好きだって、私は一生気づかなかったもんな。

「わかったよジョン、もう少し考えてみよう」
「ヌン!」

私はスマートフォンに目を落とす。時刻は午後九時。昼まではかなり時間がある。私も仮眠するべきなのだろうけど、そんな気にもなれず。とりあえず棺桶に横になるくらいはしておこう。

「ねえ、ジョン」
「ヌ?」

一緒に寝るのだと腕の中に潜り込んできたジョンに声をかけた。

「なんだかいっぺんに、ロナルドくんがわからなくなってしまったよ」
「ヌー」
「ジョンはわかるの?」
「ヌンヌ ヌヌヌヌヌヌヌ ヌイヌヌ」

ジョンはドラルク様じゃないから。

「どういうこと? 私があの若造がわからないのは、私だから?」
「ヌン」
「ますますわからないな」

優しいジョンが小さな手で胸を撫でてくれる。今回のはさすがに、私は間違ってないと思うんだけどなあ。そりゃあ大人げなく煽ったりしたけど。
眠気はなかったはずなのに、横になっていると少しうとうとしてくる。
電話がかかってきたらすぐに出られるように、胸の上でスマートフォンを抱いた。

軽快なメロディーで目を覚ます。
はっとして液晶を見ると、ロナルドくんからの着信だ。
欠伸を一つだけしてから、通話をつなぐ。

『遅え』

開口一番これである。すまないね、と一言だけ言っておいた。

「もう着いたのかね」
『おう。今依頼人と二人だ』
「ふむ。物音は?」
『まだだな。いつもならもう少し早くには鳴ってるはずらしいんだが』
「ふうん」
『とりあえずこのまま待つぞ』
「わかったよ」

暗い棺桶の中、液晶の光が眩しい。
なんだかごそごそと音がして、話し声が聞こえる。

『……なんか、依頼人がお前に聞きたいことあるって』

ぶすっとした顔が目に浮かぶような声音で若造が言う。ああきたか、と思った。
「いいよ」と返すと、「あの、失礼します」と女性の声がした。

「やあお久しぶりですね。私に何を聞きたいのかな?」
『はい。ドラルクさんは、人間との恋愛についてどうお考えですか』

私は情けなくも面食らった。これはまたストレートで来たものだ。

「人間との、恋愛、ですか」
『はい。私、好きな高等吸血鬼の方がいるんです。ドラルクさんに、同胞? としての意見を伺いたいんです』
「ほう、それはそれは」

やはりそうか。ならば私がするべきことは二択だ。
後押しするか、諦めさせるか。
まず間違いなく彼女は前者を望んでいる。シンヨコは高等吸血鬼もダンピールも多いが、まあ『一般的』な感覚からして吸血鬼との恋愛といえば慎重になるものだ。吸血鬼は基本的に人間なんて(笑)、と思っているし。
正直に言えば、どうでもいいので好きにすればいいと思う。恋路は人に委ねるものではない。好きならば好きだと言えばよかろう。

「私としては、特に反対する理由はありませんな」
『そう、ですか? 古き血を引いていて正に吸血鬼然としたドラルクさんがそう言うなら、多くの高等吸血鬼はそうなんでしょうか』
「アッ、ン、ンフフン」
『どうしました?』
「いえその、失礼。いたずらな使い魔にくすぐられましてね」

危ない。唐突な畏怖につい気持ちよくなってしまった。濡れ衣を着せられたジョンが心外みたいな顔をしている。すまんジョン。

『じゃあその……私が告白しても、種族を理由に断られることはありませんか?』

知らんがな。お相手に聞き給え。なんてことは言わない。

「まあ多種多様な吸血鬼がいますからね。私よりも、貴女はお相手がそう言って断るとお思いで?」
『いえ、その……ずっと一緒にいてくれるならそんなこと、とは聞きました』

おや、なかなか踏み込んだ話をしているじゃないか。なにをまごついているんだか。

『でもその、私が嫌だから断言しなかったんじゃないかって……』
「貴女が嫌なら『考えたことない』とかいくらでも濁しようはあるでしょう。肯定的な意見を返している時点で脈ありなのでは?」
『そ、そうですか? 人間とは画した存在たる高等吸血鬼の代表として、ドラルクさんは私のような人間はありですか? 魅力を感じますか? お願いします、人間から見た高等吸血鬼の規範のようなドラルクさんの後押しを頂きたいんです』
「ンーフフー、フフゥ」

なにこの人最高。めっちゃ気持ちいい。

「今の印象から言えば、私なら即OKですな」
『本当ですか!』
「もちろんですとも! いやあ相手が私じゃないのが残念……」

そこまで言って、私は言葉を途切れさせた。何のことはない。どごん、という鈍い音に驚いて死んだからである。

『ロナルドさん、どうしたんですか!?』

焦った女性の声が聞こえる。どうやら今の音は若造によるものらしい。

『いやその、悪魔の幻影が見えて』
『大丈夫ですか!?』
「なんだなんだ若造、この私におとなしくしろと言っておいて結局貴様が沸き上がる暴力を抑えきれていないじゃないか」
『うるっせー黙れクソ砂!!』

いや冗談抜きでうるさいのは君だぞロナルドくん。枕元に置いてるのに耳がキーンてした。これ絶対隣にも聞こえてるだろ。

「落ち着き給えよ。隣に勘づかれるぞ」
『それが、全然物音がしねえんだよ。寝てんのかな』
「私なら今ので確実に起きるが」
『あ、でもなんか聞こえてきた』

それみろゴリラ。お前のせいだぞバーカ。

『あ、なんか……ん? 外出たか?』

その言葉から数秒とおかずに、遠くからポン、と音がした。

『……来た』

ロナルドくんが少し硬い声で言う。

『日光にはそこまで弱くねえってことか……すみません、応答してもらっていいですか』
『は、はい』
「いや絶対クレームだぞこれ、あーあ、ロナルドくんのせいでご近所づきあいに亀裂」
『お前は黙っとけ‼』
「声がでかい!」

ごそごそ、とノイズが聞こえる。どうやらインターホンまでスマートフォンを持っていってくれているらしい。『すみません、うるさかったですか』という女性の声が聞こえた。

『……あの、ひ、一人じゃ、ない、ですよね』

ぼそぼそとしたロナルドくんじゃない男の声。これが隣人の吸血鬼か。なんだか根暗そうだな。
女性は『ええ』、と返した。

『外に、出てきてもらえますか』
『えっ?』

困惑したような声で女性が言う。

『直接、話がある、ので』
『ええと……』

女性はおそらくロナルドくんに指示を仰いだのだろう。ロナルドくんが小さく、『俺が出ます』と言った。

『わかりました、今出ますね』

ロナルドくんが答えて、足音が遠ざかっていく。なにやらまたぼそぼそと遠いところで話し声がしていたが、一転がたん、と音がして、がちゃ、ごん、と不穏な音が続く。
なんだか胸がざわついた。平静を保とうとしてもうまくいかない。

「ロナルドくん? ロナルドくん、お嬢さんロナルドくんは」
『あ、あの、私にもよく、』

なにすんだお前、とくぐもったロナルドくんの声が聞こえた。正確には何を言っているのかはっきりしなかったけれど、たぶんそう言っていた。『ロナルドさんが外に出て、あの人が急に扉を』、女性がそう言う声にかぶせて、男が叫ぶ。

『鍵を閉めて!!』

女性が困惑するのがわかった。さらに大声が続く。

『鍵を閉めてください、開けないで!!』
『あ、の、どうして』
『いいから!!』

『ドラルクさん』、と伺うように言われる。私は困惑していた頭がようやく落ち着いてきて、「大丈夫ですよ」となだめるように言った。

「鍵は閉めなくて構いませんが、彼にロナルドくんを紹介してあげてください」
『え? わ、わかりました』

女性はまたひどく当惑したようだったが、はきはきとした声でおそらくは扉の向こうに語り掛けた。

『———さん! その人は私が依頼した退治人さんです! 最近のあなたの様子が心配で! 相談に乗ってもらっていたんです!』
「相棒の畏怖すべき吸血鬼から離れると不安で壁にヒップアタックしないと気が済まなくなる性癖だとも言ってくれ」
『その人は相棒の畏怖すべき吸血鬼さんがそばにいないと、不安で壁にヒップアタックしたくなる性癖があるんです!!』
『クソ砂ァアアアア!!』

ほんまに言いよったわ。ロナルドくんの怒号を聞きながらゲラゲラ笑う。
『でも、じゃああれは』、とこれまた困惑している様子の男の声が聞こえる。

「ひとまず彼をお招きして話し合いをなさっては? よほど人間に近い吸血鬼でなければ、日光の下はつらいでしょう」

私のスマートな提案に、彼女は未だ混乱した様子で『そうですね』と言った。

『……はあ、それで、俺が彼女に暴力を振るっていたと』
『す、すみません……その、ごつごつ壁を叩く音が聞こえていましたし、そうしたら強い力で叩かれて、怒鳴り声まで……』
『いえその、こちらこそ本当にスミマセン……』
「そうだぞじっとしていられないゴリラ、人の家の壁をずっとごつごつやっていたなんて何をイラついていたんだね? マーキングならもっと別の」
『死ねぇ!!』

鼓膜を破る大声に耐えきれず塵と化す。

「ギャー! 遠隔で死んだ!」

まあなんだ。全ては誤解ということだ。
今日も起きていた隣人の彼は、まず隣の彼女が男を家に上げたことに気づき、酷く動揺した。そして、いけないことだとは思いながらも聞き耳を立ててしまっていた。すると、どうやら上がった男は壁を苛々と殴っている。もしやと思っていたところに壁に穴が空くかと思うほどの力で殴ってきた。その少し後に怒号、もしやと思って堪らず部屋に行くとまた怒鳴り声の後にいつもより弱々しい声(おそらく困惑)の応答。

『変な男性に騙されるような人とは思えなかったので、無理矢理言うことを聞かされているのかと思ってしまったんです。クソ女、とか聞こえたし……』
『あ、いやそれたぶんクソ砂って言ってます……その、居候の吸血鬼のことで』
『ああ、そばにいないと不安になる……』
『その件については全くの虚言なんで今すぐ忘れてください』

隣人の彼は、日光を浴びて即死ということはないものの、かなりの吐き気や頭痛といった体調不良に見舞われるらしい。

「へえ、それにしては大暴れしていたようだが」
『どうにかしないとと思ってしまって……』

彼は先ほどと打って変わって、弱々しい声音である。

「ほお~? いやはや“彼女のために”必死だったわけか! 素晴らしいねえ!」
『えっ……?』
『い、いやそのッ、それはちが、ちがくて!』

違うんですか、と依頼人の小さな声がした。

『違わない……です。すみません、ぼく……』
『あ、謝らないでください! うれしいです、から』

うわ……若造今どんな気持ち? 万年彼女なしでクリスマスを恨む童貞のメンタルが非常に危ぶまれる。

『あの、すみません。込み入った話は後でして頂いて、一応依頼の件でお話伺えますか』
『あ、はい!』

予想通り、ロナルドくんは悔しそうな声でそう絞り出していた。

『えっと、ぼくが毎日昼に物音を出しているってことでしたよね』
『ええ』
『その、お恥ずかしいんですが、今スランプでして……モヤモヤして、色々散らかしている 物音が聞こえてしまったのではないかと……』
『スランプ?』

若造が間抜けな声を上げる。

『はい。あ、ぼく画家をやっているんですが』
「ほう! 芸術家とは素晴らしいですな」
『すみませんちょっと砂消しますね』
「えっ!? おい!」

ぶつ、と乱雑な音で通話が切られた。

「はッ、ハァ!? マジで切りやがったあのゴリラ!」
スマートフォンを持つ手が怒りでぶるぶる震えた。胸の上でジョンがヌゥ、と眉をひそめて声を上げた。そうだよねジョン、いくらなんでも今のは横暴だよね。バカップル(幼体)を目の前に苛々していたのはわかるが、人に当たるにも限度ってもんがあるだろ。なんだ? 性癖の捏造は地雷だったのか? ムダ毛フェチの退治人が普通にやっていけてるんだから、ヒップアタックしがちな退治人がいてもいいだろ。ねぇジョン。

「ジョンは今の理由もわかるの?」
「ヌヌンヌイ」
「ジョンにもわからないの? じゃ、お手上げだねぇ」

ジョンがしきりに首をひねっている。

「はあ~もうやめだやめ。寝ようジョン、もともとIQ値に差がありすぎるんだ、私に彼が理解出来るはずないさ」
「ヌン……」

スマートフォンの明かりも消えた棺桶の中、ジョンが悲しそうな顔をした。
わからなくたっていいさ。勝手に怒っていればいい。
彼を理解出来る誰かを見つけてやれば良いだけの話だ。

「どうってことないさ。頑張ろうねえ、ジョン」

きっとちゃんと見つかるさ。
ロナルドくんのことだもの。

  6

試験だよ、というと若造は「何の?」と馬鹿丸出しの顔で言った。

「君、私の努力の甲斐あって、最近女性としっかり話せるようになってきたじゃないか。一度しっかり見てみようと思ってね。好きな人が出来たときに、スマートにエスコートしたいだろ?」
「はあ」

気のない返事に少し眉が上がる。どうでもいいみたいな顔しよってこのスカタン。女性を引き合わせると簡単に言っても、半径一メートル以内に女性が入っただけで、変な顔で気色悪い量の汗を流す貴様を教育するのがどれだけ大変だったか。どれほど言い聞かせても「エヘヘ」とだらしなく笑う奴を根気強く諭すのがどんなにストレスかわかるか?
まあ、こんなことを口にした日には「お前が好きでやってんだろ」と言い返されるので、飲み込むしかないのだが。

「んで? 試験って、何すんだよ」
「うむ、もちろん女性とのデートだ」
「相手はどうすんだ」
「私が見繕ってやる」

途端に若造は不愉快そうな顔をする。

「何。お前が用意した女の人どデートって? そもそも誰。どういう関係なわけ、お前と」
「血族の使い魔だ。動物の姿なら新年会で顔を見たことはあるはずだよ」

言って写真を見せると、ロナルドくんはぽかんと口を開けた。少ししてなんだかばつが悪そうに、「先に言えよ、見繕うとか、普通に紹介されるって思うだろ」とブツブツ言った。
私だって紹介してやりたいのは山々だが、生憎そんな女性は未だ見つかっていない。これは試験だからある程度客観的に判断が出来て、かつ私と繋がっている人が望ましい。

「スタイルのいいお姉さんに変身してくれとお願いしているが、残念なことに君には微塵も興味がないので安心して粗相するといい。ただし今回は間違っても惚れないように」
「腹立つので殴ります」
「ブァ」

何はともあれ、試験には納得してもらえたらしい。よしよし、良い子だぞ若造。

「じゃあまず、行程を考えよう。待ち合わせは十四時、解散予定は二十時だ」
「え……っと、軽くお茶して喋って、映画とか行って、そっから夕飯行って……とかか?」
「悪くないな。映画は何を見る?」

ロナルドくんは迷うように唸った。

「あー……その子の好みに合わせた方がいいかな」
「ふむ、聞いた話では好みのタイプは『謎がないと手が震えてくる探偵』だそうだ」
「彼女クセ強くね? ……んじゃあ、このコメディ色も強いミステリーとかどうだ? 結構評価も高い」
「まあいいんじゃないか。よし、じゃあ私が口を出すのはこの辺にしておこう」
「えっ、店とか決めねえの?」
「アドバイスしすぎると試験にならんだろう。それに評価を下すのはお相手だからな。とりあえず、簡易な彼女の好き嫌いリストをあげよう。試験は一週間後だ、頑張りたまえ」

言うと、ロナルドくんは不安そうな目で「おう」と返した。

「大丈夫だよ。私から見ても君は成長したさ。きっとちゃんとエスコート出来るよ」

ゆら、と彼の瞳が揺れた。「だったら」、ぽつりと呟いた。

「これで合格だったら、言うこと聞けよ」

一瞬何のことかと思って、そういえばそんな約束をしたなと思い出した。よかろう、としっかり頷く。ロナルドくんはなんだか変な顔で笑った。
約束をしたときと同じ笑顔だと思った。

ロナルドくんは驚くほど真面目に準備をしていた。デートで使えるようなお店に詳しそうな知り合いに話を聞いたり、下見に行ってくると出て行ったこともあった。着ていく服も悩みに悩んでいた。私は出発のときに起きていることは出来ないけれど、部屋にぽつぽつ増えていく服を見るに、しっかり女性ウケしそうなコーディネートになるような気がした。なんと美容院まで予約したらしい、と知ったときにはさすがに仰天した。
「随分と真剣じゃないか」と言うと、彼はさも当たり前のような顔をして「合格してえからな」と言った。
どこでスイッチが入ったのかわからないが、その気になったのは非常に喜ばしい。
その意気だぞ、と励ますとまたあの不自然な笑顔をした。
一週間はすぐだった。目を覚ますと、時刻は十八時半。二人はそろそろ夕食のレストランに向かっている頃だろうか。時程を把握していないのでわからないが。
棺桶から起き上がった私に、ジョンが「ヌー」と鳴きながら近づいて来た。おはようジョン、と甘い声で挨拶をして抱き上げる。ジョンは嬉しそうにヌン、と頬をすり寄せた。

「ロナルドくんはどうしているかねえ」
「ヌンヌイ?」
「そりゃあ心配さ。彼の成長は私の成果だからね」

本当は、スマートなエスコートなんて出来なくてもロナルドくんを選んでくれる人が一番いい。彼の美点はけして顔に見合った行動が出来ることなんかじゃない。しかし、彼が見初めた女性を射止めるために、武器は増やしておくに超したことはない。

「ねえキンデメさん、若造どんな感じだった?」
「……ぐぶ、特に何も。いつも通り出て行ったぞ」
「本当に? 時間ギリギリで焦ったり、緊張で吐きそうになっていたりは?」
「悠々と準備をして、普通の顔で出て行ったぞ」
「ふうん」

つまらん。ああは言っても、どうせキョドると思ったのに。まあ私はそれでいいんだが、 なんかつまらん。

「……貴様は、あの退治人に本当に好いた相手が出来たらどうするつもりだ?」

キンデメが感情の読めない声で聞いた。何を今更、と私は答える。

「もちろんここを出て行くとも」
「出て、どうする」
「その気になればこの辺の吸血鬼用マンションにでも移り住めるし、お祖父様に頼んで城を再建してもらってもいいな」
「退治人とは?」
「コンビなんてどこでも続けられるし」

そうか、と返したのを最後にキンデメは黙り込んでしまった。結局何が気になっていたのかよくわからない。

「師匠の目標って何なんですか?」

代わりのように、死のゲームが声を上げる。

「だから、ロナルドくんが添い遂げる相手を……」
「違いますよお、僕が気になってるのは、師匠は最終的にどうなるのかってことです」
「私がどうなるか」
「ロナルドさんが幸せなとき、師匠は何してるんですか?」
「そりゃあもちろん、」

答えようとして、ふと留まる。
そういえば私は、当たり前のように彼の幸せな日常を全て知る気でいたけれど、実際そうとは限らないのだ。彼のそばにいるのは私ではないのだから、私は断片的な情報から『幸せそう』なことを知るしかない。もしくは半田くんみたいになるか。
だけどどれだけ想像したって、思い描くのは彼の幸せな日々に当然のような顔をして加わっている自分で。

「ロナルドさんが誰かと一緒になるっていうのは、師匠とはもう一緒じゃないってことですか?」

そうなるね、と言った自分の声は笑えるくらいに沈んでいた。

「なんだか悲しいですね」

死のゲームがしょぼんと目尻を下げる。

「そうだね」
「師匠も悲しいですか?」

ヌー、とジョンが鳴く。

「うん」
「じゃあロナルドさん絡みのクソゲーを今からいっぱい考えておきますね! 『ドキッ! ゴリラだらけの生卵スプーンリレー』とか」
「うわ……」

死のゲームは当然私といるつもりらしい。彼も立派な吸血鬼の一体であるはずなのだが、気持ち的には使い魔に近い気分で接している。慕われるというのは誰しも嬉しいものだ。
じゃあそのときは、ロナルドくんが来る前のジョンとの生活に死のゲームが加わった感じになるのかな。ああ、少しずつイメージ出来てきたかもしれない。若造がいない生活。
なんとなく誰も話さなくなってしばらくした頃、静寂の隙間を埋めるように電話が鳴った。スマートフォンを手に取ると時刻は既に十九時二十三分。発信元は若造。

「やあ、もう終わったのかね。それともドラちゃんがいなくて寂しくなったのか?」
『んなわけねーだろボケ。普通に解散したわ』
「随分早かったな。話が弾まなかったのか」
『いやまあ、普通、だった』
「なんだそれ」
『でもたぶん失敗はしなかったぜ』

電話口で話す若造は聞いた通りに至って普通だった。どタイプのお姉さんとデートを終えた後だというのに、普段の仕事終わりに「今日飯ある?」とか聞いてくるのと全く同じ声色だ。

「で、どうしてわざわざ電話を?」
『お前どうせ暇だろ。出てこいよ』

暇言うな、配信とかあるかもしれんだろ。ないけど。
ロナルドくんは私の返答も待たずに『じゃあ三十分後に駅な』と電話を切ってしまう。やっぱだめだろコイツ、相手の予定とかもうちょっと慮るとかなんとか出来んのか。さすがバーベキューを前日に予定する男である。
とにもかくにも実際私に予定はないわけだし、行かないとうるさいだろうし、まあ気が乗らないこともないので行ってやろうと思う。優しいドラちゃんに感謝し崇めるがいい。
手早く支度をして事務所を出る。電話から十分も経っていない。ここから駅までだと総合しても二十分もかからないだろう。
ロナルドくんは今どこにいるのだろう。駅で集合、と言われても駅のどこかもわからない。出てこいよ、なんて呼び出して何をするのか。

「わからないのに、どうして私はホイホイ呼び出されているのかねえ」

腕に抱いたジョンがヌーと鳴いた。
駅に着くと、驚いたことにちょうど若造が待ち構えていた。

「やあ、すごい偶然だな。手はずの悪いゴリラが目印も示さないから会えないかと思ったぞ」
「はいはい、殺す殺す。事務所から来るんだから大体の方向くらいわかるわボケ」

やれやれといった様子で雑に殺される。呼び出されて来てやったというのに失礼な奴め。
すぐさま復活して「それで?」と唇を曲げた。

「急に呼び出して何をしようというのかね」

若造はすぐには答えず、なんだか不満そうな顔でじっと見つめてきた。意図が全くわからず「なんだ」と言うと、彼は途端にかっと顔を赤くした。次いで、たどたどしく話す。

「きょッ、うの、俺、どうだよ」
「はぁ?」
「その、服とか……髪とか」

そう言われて、初めて彼の全体に意識を向けた。
前髪を半分ほど掻き上げてセットされた髪、モノトーンでまとめられた服装。彼の銀髪ともよく似合っているし、スタイルの良さが引き立てられている。控えめに言って大正解である。

「いいんじゃない。これ君が選んだの?」
「いや、店員さんに従った」
「うむ、だろうな」
「なんだその顔は殺す」

やっぱりロナルドくんのセンスではなかったようだが、まあ人を頼ることを覚えたことが成長だろう。

「なんか選んでたヤツを持ってってこれでいいですかって聞いたら、すげえ教えてくれたんだよな……」

心なしか気落ちした声色から、彼のコーディネートは優しく全却下されたのだろう。
それにしても、これを選んだ店員はさぞや楽しかったに違いない。一見すればモデルのような男を、思いのままに着飾れるのだ。

「私に頼めばよかったのに」
「あ? お前が助言しないって言ったんだろ」
「それはあくまで行程に対してのもので、服なんて私だって見られるんだからお願いしますとかしずいて泣いて頼めば……」

愚痴を言うようにぶちぶち口にして、唐突に我に返る。
なんだそれ。ロナルドくんの服を誰が選ぼうが関係ないだろう。冷静に考えてデート服を選ぶのに同居人のおっさんに泣きつく成人男性、なかなか微妙だぞ。
ロナルドくんは目に何かしみたみたいに顔を歪めた。

「やっぱ今のなし。店員さんに頼むのが一番確実だしね、うん。五歳児も知恵をつけたじゃないか。お勉強できまちたね~」
「うぜえ!」

慌てて煽りモードに移行すれば、まんまと流された若造は白目をむいて殴ってくる。
そのまま口喧嘩が始まると思いきや、彼はむずむずと口を動かした。

「次はお前に聞いてやるよ……それでいいだろ」

さっさと行くぞ、とロナルドくんは照れたようにそっぽを向いた。
え、何今の? 

「どうしたゴリラ腹でも痛いのか? 私にコーディネートなんて任せた日にはダチョウに爆モテ間違いなしのオスルックになるぞわかっとんのかその辺」
「ンン!」
「ギャア!」

せっかくキメているのに白目をむいて歯茎むき出しで怒ったら台無しじゃないか。
しかしこれでひとまずごまかせただろう、と復活する。

「で、なにするの?」

聞くと、ロナルドくんは自信たっぷりに「特に予定はねえ!」と言った。

「はあ? 人を呼びつけておいてなんだ!」
「いいだろ別に! 居候させてやってんだから家主の呼び出しにくらい応じやがれ!」
「ホーー!? その家の文化的な生活を保ってやっているのは誰だと思っているのかね? 私がいなくなると貴様なんてすぐに野生に還るぞ!」
「料理の腕でかろうじて許されてるだけのゲーマーニートが何言ってんだバーカクソバーカ」
「毎日私の料理をウホウホ食べておいてよくもそんなことが言えたな!?」
「んな食べ方してねえ殺す……ッて、そうじゃなくて!!」

ロナルドくんはもどかしそうに頭を振って、その後しっかり私を殺した。次いで不貞腐れたように唇を尖らせ、なんだかじっとりとした目で私を見た。

「せっかく良いカッコしてんだから、一緒に外歩きてえと思っちゃ悪いかよ」

一瞬言葉の意図がわからず、呆けてしまった。

「つまり何だ、君はその格好いい状態でどうしても私とデートがしたかったわけか?」
「かッ、え、格好いい? て、てかで、どぅ、でぇとって、んなわけ!!」
「軽い冗談だろうが、過剰反応するな。これだから童貞は……」
「おっま、しょ、しょうがねえだろ!! お前はどうせわかってねえんだろうけど!!」
「何を言う! 君がプロの童貞であることなんて新横浜の八割は知っているさ」

拳が来るだろうと思って放った言葉には、予想と違って「そうじゃねえよ」という息苦しそうな呟きが返ってきた。
胸に、不快感を伴った困惑が広がる。ああまただ、私には彼がわからない。
ヌー、とジョンが鳴いた。
「もういいから行こうぜ」。若造が取り繕った声音で言った。

「行くって、どこに」
「……なんか、ショッピング的な……そういうことをしようぜ」
「わやわやか」

仕方ない、この私が調べてやろうじゃないか。そう考えてスマートフォンを操作した。
まあなんだ、若造が私とどこかに行きたいだなんて、悪い気はしなかったので。
電車に乗るのも面倒なので、新横浜近辺でなにかないかと検索をかける。

「あ、これどう?」

その中で一つ面白そうなものがあったため、ロナルドくんに画面を向けて見せた。

「新進気鋭の抽象的肖像画家の個展だって! 行ってみよ、」

スマートフォンの向こう側に見えた顔に、言おうとした言葉が出てこなくなった。
真っ青な彼の瞳に黒が見えた。そんなはずはないのだけど、黒いな、と瞬間的な印象を受けたのだ。

「行かない」

彼の声は硬かった。

「別のとこにしようぜ」

優しい力でスマートフォンを奪われた。ロナルドくんはそのまま少しだけサイトを見た後、ふと顔を上げて笑う。

「やっぱ、帰るか。ちょっと遠回りするくらいでいいや」
「えっ、でも」
「今日はちょっと疲れたしよ」

さっきまでの浮かれた雰囲気が嘘のように、ロナルドくんの表情は強張っていた。何がなんだかわからず頷いてしまう。彼は「よっしゃ」と笑って、私の手を引いた。
引っ張られるようにして駅から離れていく。頭の上でジョンが戸惑った声を上げている。

「ロナルドくん、歩くの速いよ」

このままだと前につんのめって死にそう、と抗議すると、彼は舌打ちをして「クソ雑魚が」と言いつつも速度を緩めた。握られていた手首が離されて、一瞬温度差で寒さを感じたが、すぐに手を覆うように掴まれた。彼の体温が高いせいで、熱がこもってじっとりとした感触がする。

「手汗ルドくん、そんなにしっかり掴まなくても逃げないよ」
「う、うるせえ! 信用ならねえんだよ! 掴まれとけ!!」

真っ赤な顔で唾を飛ばすのを見て、なんだか安心した。
掴まれている手をじっと見る。私の細く上品で高貴さに満ちあふれるエレガントな指が、彼のがっしりしていて健康的な手のひらにまとめられている。なんだか不思議な気持ちになった。じっとりしてるけど、嫌じゃない。

「ねえジョン、悲しいよね。デートなのにこんな扱いだよ? はーやだやだ、この分じゃ今日の試験も落第かなあ」
「ヌーン、ヌヌヌヌヌン ヌンヌイ」
「ああ……なあジョン、お前の主人こんなんでよく今までやってこれたよな……いや俺も俺だけどさ……」
「失礼極まるぞゴリラ!!」

なにやら訳知り顔で若造と頷き合うジョン。なぜだジョン。

「あと言っとくけど、今日の試験はめちゃくちゃ好感触だったからな」
「君の妄想ではなく?」
「ちげえわ! 実際にすげえ褒められたんだよ!!」

怒鳴る拍子に掴まれた手に力が込められて死んだ。こいつ、まさかこのために私の手を離さなかったのか。コンパクトな殺し方考えよって、遺憾の意だぞ。
口に出せばバカ造はばつの悪そうな顔をして、ぶつぶつ言いながらちゃっかりもう一度手を握ってきた。おい。
また軽めに殺されてもかなわないので、がっちり拘束してくるその手を外そうとしたのだが、腕を振っても指を開かせようとしてもびくともしない。結局、ジョンに「ドラルク様、もう諦めるヌ」と言われて渋々諦めた。

「はあ~、仮にも退治人なのだから、振るう拳を惜しむんじゃないよ」

負け惜しみのように言うと、ロナルドくんは心底呆れた表情で「お前ってバカだよな」と言いやがった。

  7

嘘でしょ、と思わず私は口に出す。電話の相手は「嘘じゃないですよ」と笑った。

『容姿はもちろん、話していてすごく良い人柄がわかって、こっちの話も楽しそうに聞いてくれて。映画も面白かったし、感想を話し合うときも楽しくって、連れて行ってくれたお店もおしゃれすぎなくて安心できましたよ』
「え、それ本当にうちの五歳児の話? 騙されてない?」
『もう、ドラルク様がお育てになったのでしょう? ポールくんは文句なしに合格ですよ』

ご機嫌の相手との通話が終わり、私は呆然としてしまう。相手とは、この前の試験でデートの相手役を務めた一族の使い魔だ。結果を伝えにわざわざ電話をかけてきてくれた。
合格はこの際良い。想定通りだ。しかし、評価が高すぎないか?
私は夜食後のコーヒーを飲みながらこちらをチラチラ気にしているロナルドくんを見やる。彼は一瞬ビクッとした後、何故か少し自信なさげにフフンと笑った。

「ど、どうだよ。合格だったろ」
「うん……」
「ほら……え、マジで? マジで合格?」
「信じられんがそうだ」
「むかつくから殺す! でもマジで合格か……そっか……」

ロナルドくんは噛みしめるように呟き、にまにまと頬を緩ませた。それを見ていると、尚更先ほどの評価が信じられなくなっていく。もちろん、相手役との相性が良かったのはあるだろうが、それにしたって信じられない。

「なあ、おい」

しきりに首を傾げていると、不意に真剣な顔の若造に呼びかけられた。

「私の名前は『おい』ではないが?」
「そういうのはいいんだよ……合格したから、その、言うこと聞けよな」

言われて、ああと思い出す。そうだった。

「まあよかろう。何が望みだ」

畏怖感たっぷりに言うと、顔をしかめて無言で殴られる。おい、と怒りの声を上げるも効果はなく、奴はふてぶてしい顔で私の塵の中からスマートフォンを取り上げた。

「なんだ、またSNSか?」

ロナルドくんはそれには答えず、スイスイと画面を操作していった。いや待て、何故パスワードを知ってる?
復活して画面を覗き込むと、またもやSNSチェックだった。この前も思ったが、何をしたいのか全くわからん。それで何になるっていうんだ。

「よし」

ロナルドくんがそう言って頷いたので、もう終わりかと思ってスマートフォンを受け取ろうとした。しかし、予想に反して彼は私の手を避けると、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。広げるとA4ほどになるそれに、ボールペンでなにやら書き足しているらしい。
やがて手を止めると、その紙を私に向けて言った。

「ここに書いてある奴らはブロックしろ。もう連絡取るな」
「君は何を言っているんだ?」

つい本気の声で聞いてしまった。いやでもマジ何言ってんだこいつ?
ロナルドくんは至って真剣な顔をしている。脱稿ハイ、のわけはない。脱稿はまだまだ先のはずである。早く書いた方がいい。

「俺の言うこと聞くんだろ。ブロックしろよ、早く」

向けられた紙を見ると、確かに私がSNSで関わっているアカウント名が見える。見慣れたものもあれば、見覚えのないものもあった。え、かなり仲良くしてる人もいるんだけど。

「ちょ、っと、待ちたまえよ。確かに言うことを聞くとは言ったがこれは……」
「往生際悪いぞ。さっさとやれ」

ロナルドくんは私のスマートフォンをずいと突きつけてきた。しかし受け取らずに反抗する。

「ブロックって、君な。この中には日頃から良くしてくれる人たちだって多いんだぞ。そんな突然ブロック出来るか! SNSだって人間関係なんだから、下手なことしたら配信にだって支障が出る」
「……じゃあ、今すぐじゃなくていい。俺がやらせたって言っていいから、ほら。DMでもなんでも送れよ」
「だからそういうわけにはいかないと……」
「じゃあもう、彼女作んのやめる」

思わず言葉が出なくなった。ロナルドくんはむっすりとした顔で続けた。

「俺はいいんだぜ、別に。このまま片思いして終わっても」

でもお前は嫌なんだろ。そう言われれば、私には何も言えない。

「な、んでそんなに頑ななんだ……」
「うるせえ。どうせお前にはわかんねえよ」

その通りだ。この前から、君のことが本当にわからないよ。
それでも私はあんな終わり方は嫌なんだ。
こうなると、私の選択肢なんてひとつだった。

「わかったよ、もう彼らとは関わらない」

ロナルドくんの顔がわかりやすく晴れた。

「たださっきも言ったように、今すぐは無理だよ」
「いい。あと、俺から言われたってこともちゃんと言えよ。別の奴に理由聞かれても言え」
「君の評判に関わるんじゃないのかね」
「いいんだよ。絶対言えよ」

「わかった」と頷く。自分の都合で関係を切らせる以上、私に不都合がないようにとしているのかもしれない。真面目な人間だとつくづく思う。
リストを見ながら、関わりのない相手はすぐにブロックし、そのほかはロナルドくんからの要請があってこれ以上関係を続けられないことを説明した。もちろんすぐには反応はないが、どうなるのか正直怖い。炎上しなきゃいいけど。
それら全てを監視していたロナルドくんは、最後のひとりにメッセージを送ったのを確認すると満足げに頷いた。

「これから新しく関わる奴が増えたら俺に言えよ」

輝かしい笑顔でそう言われて、頬が引きつる。なんだお前は、たちの悪い束縛彼氏か? そんな考えが過って、縁起でもないと打ち消した。そもそもの発端は何の間違いかこいつが私をそういう目で見たことから始まっているのだ。今はまだセーフだとしても、前例がある以上不安である。なにしろ、どんなきっかけで若造が私を好きになるかすらわかっていないのだから。
発動条件不明の詰み確状態異常。なんともクソだが、やるしかないのだ。

「わかったな? わかったって言え」
「わ、わかったってば。新しく関係が出来たら君に言う」
「俺の許可を取れ」
「許可ぁ? なんたってそんなこと……」
「……彼女作んのやめ」
「わかった、わかったよ! 許可を取ればいいんだろう!」

なんだコレ、完全に若造のペースじゃないか。どう考えてもおかしいのに、良いなりになるしかないのが悔しい。クソが。
この調子乗りゴリラが、彼女が出来たら死ぬほど恩に着せてやるからな。
ジョンがなんだか心配そうな顔をしているのが気がかりだったけれど、私は考えるのをやめて彼の思うとおりにすることを選んだのだった。

  8

そこからの若造の容赦のなさは凄まじかった。
生活力のなさでお相手に引かれてはかなわんと家事を教えれば、料理で合格ラインに達すると私の外出の予定を全て自分に申告しろと言い、掃除洗濯が出来るようになると今度は会ってはいけない相手を指定した。SNSのブロック騒動同様に、また説明をして関係を切ることになってしまった。
運が良かったのか、SNSでのかなりの数のブロックでも炎上することはなく、多少ごねられはしたもののなんとか全員お別れすることが出来た。まったく大変だった。
並行して、私は若造を合コンに送り出したり、女性と引き合わせたりを続けていた。そして、何度か行くとロナルドくんは対価を要求した。
今私は彼に、人間関係のほぼ全てと、外出時の服装と、知人への呼び方と、配信の大まかな内容を管理されている。
服装については、Tシャツ等のラフな服に関して文句をつけられた。脇のあまい服を着るなとか、首元はしっかり詰まっているのを着ろとか、安易に違った服装をするなとか。ファッションについて文句を言われる筋合いはないんだが、という反論は当然却下された。
呼び方については,あだ名を付けるのは不用意に親密感が出て良くない、とのことで。腕の人やヨモちゃん、もや氏はなんとか許可されたものの、基本的には簡単に名前を呼ばないようにしろと言われた。意味わからん。
配信内容については、いつかやりかけたチェアダンスの件をしこたま怒られた。それから、難しすぎて息が上がるようなゲームはするな、エプロン姿を見せる料理配信をするな、手袋を外した指先を見せるな、等々。勝手にさせろとこの件に関しては私も猛然と抗議し、これは配信内容を事前に知らせるということで折り合いをつけた。若造が内容に不服が ある場合はその理由を添えて私に進言し、私はそれを聞いて審議する。最終決定権は私にあるものの、これも本当に意味不明だ。
何をしたいんだ、と聞いても「お前にはわからない」の一点張り。ジョンに聞いても死のゲームに聞いてもデメキンさんに聞いてもわからない。みんなして「自分からは言えない」だって。あーあ、私だけのけ者みたいじゃないか。つまんないの。こんなに若造のために頑張ってるっていうのに、メビヤツは日に日に当たりがきつくなっていくし。君のご主人の生活を支えているのは私だぞ? 頼んでない、とか言われそうだけど。
そういうわけで、最近フラストレーション溜まり気味のドラちゃんなのだ。今日はヌーチューブ用の動画を撮るから、と事務所に残っているけれど、なんだかやる気が出ない。正直配信でもいい内容だし、いつもギリギリの若造と違って私はちゃんとストック作ってるし、やらなくてもいいんだよなあ。
というわけで、若造に申告した予定とは違ってしまうが外に遊びに行くことにした。ラインで連絡入れたし問題ないない。キンデメさんには「正気か」と止められたが、もはやこうなると自分でも対処出来ないのだ。外に出たくてうずうずしてしまう。
ただでさえここ最近若造に監視されているような生活だったのだから、これくらいの自由許されてしかるべきだろう。それにほら、冷蔵庫の補充もしたかったし。
なんて色々と理由をつけて意気揚々と外に出る。少し迷ったが、お馴染みの退治人ギルドへ足を向けた。フラフラ出歩くよりも、ここならば若造に文句を付けられる恐れが少ないと思ったのだ。何かあっても腕の人あたりが庇ってくれそうだし。少しすればロナルドくんも帰って来るだろうから、そうしたら「一緒にスーパー行こうと思って」とかなんとか言おう。うむ、我ながら惚れ惚れする作戦。
そもそもあの五歳児に私の行動が制限されるなど憤然やるかたないのだが、この件に関してヤツはなんだかヤバそうなので、気に留めておくに限るのだ。
そんなこんなで、ギルドのガラス戸を開く。これまたお馴染みの退治人、ショットさんが私を見て「げっ」と声を上げた。聞き逃さず擦り寄って行く。

「やあショットさん、久しぶりだっていうのに人の顔を見るなり失礼じゃないかね?」
「うわ……お前なんでいるんだよ。ロナルドは?」

ショットさんはそう言ってキョロキョロ辺りを見回した。ひとりだよ、と言うと苦虫を噛みつぶしたような顔で「マジかよ」と呟く。

「お前それさあ、ロナルドやべえんじゃねえの」
「大丈夫だよ。一緒にスーパー行くために待ってたって言うから」
「いやでもひとりでここ来てる時点で……」
「もう! 私だってちょっとは自由にしたいんだ!! ショットさんならわかってくれると思ったのに!」
「わかるぜ、わかるけどさあ……」

ショットさんは心底困ったような顔をして、とりあえずマスターにホットミルクとココアを注文してくれた。うっそ、適当に癇癪起こしただけなのに奢ってもらえちゃった。折を見てこの手使っていこうかな。

「大体、嫌なら出て行くなりして抵抗しろよ。お前が最終的には受け入れるから、ロナルドも加減がわからなくなるんじゃねえの? なんで言うこと聞いてんだ。らしくねえぞ」

まともに言われてウッと詰まる。あの吸血鬼によって見た夢の話は公表していないので、ショットさんたちからすれば私たちは『いきなり同居人に彼女を作ろうと躍起になり始めた奴』と『何故かその対価に同居吸血鬼を束縛し始めた奴』である。なにそれ、どういう関係?
どうしてそこまで彼に彼女を作りたいのか、と聞かれた際は「若造の将来が心配になったから」と答えた。決して嘘はついていない。しかしどうして彼が私の行動を制限し始めたかについて問う者は誰もいなかった。何故だ。もしかしたら本当に、私だけが気づいていないのか。私だけが知らないのか。
なんとも面白くないじゃないか。
露骨に顔に出ていたのか、ショットさんが「拗ねんなよ」とクリームメロンソーダの上のチェリーをくれた。いらん。

「まあお前はお前で考えてんだろうな。変なこと聞いて悪かったよ」
「うむ。それからショットさんのチェリーはいらないです」
「ショットさんのチェリー言うな変な意味に聞こえんだろうが!」

ここ最近の私の行動について、退治人たち含め周囲の人間はあまり咎めてこない。はじめの頃は「ロナルドの意思は」とか「遊びですることじゃない」とか言われたけれど、すぐにそれも無くなった。だって私、今回は本気だもの。

「なあドラルク、お前はロナルドにどこかの誰かさんをあてがおうとしてるけどさ」
「なんかやな言い方だな」
「なあ、ドラルク、俺はロナルドには心底惚れた相手と幸せになってもらいてえよ」

ショットさんは真顔で私を見ている。会ったばかりの頃のクールットさんみたいな顔で。なんだかその言葉に違和感を覚える。私はそのために努力しているはずで、ショットさんだってそれを知っているのに。

「なんとかならねえのか」

そう言われて、私はぐ、と唇を噛んだ。なんとかなんて、もうとっくにしようとしてる。
どう言い返すかと口を開いたとき、スマートフォンが鳴った。発信先は、先の試験で協力頂いた使い魔の主人。
失礼、とショットさんに一声かけて電話に出る。『ハイドラルク、元気?』と陽気な声がした。

「ああ、元気だよ。今日はどうしたのかな?」
『どうしてもその後が気になってしまって。ねえ、まだポールくんにパートナーを持たせるつもり? お前以外の?』
「そりゃあそうさ。それがどうしたの?」
『無理だと思うよ。話を聞いた限りではね』

なんで、と答えた声は存外に不機嫌だった。

『なんでって……彼はもう既に手遅れさ。ああいうのは一途だからね、一人に決めると自分自身でもどうにも出来ないんだ』
「手遅れ」
『やだなドラルク、お前だってさすがに彼の恋心を知らないなんて…………えっマジで?』

からかうような声音が一転焦りに満ちたものに変わり、『うっわしくったな、彼には私がバラしたって言わないで』と電話は切れた。
嫌な汗が背中を伝う。
ロナルドくんはどうして、彼女を作ることに乗り気じゃないのか。どうして彼の好みドンピシャのはずの女性とのデートでも、心が弾まないのか。どうして片思いのまま死んでもいいと、自信を持って言えるのか。思えば彼は、はじめ私の見た夢の話をしたときに、「叶わないのか」と聞いてきた。今考えると、少し妙な確認な気もする。そしてショットさんの言葉。
彼にはもう既に、好きなひとがいる。私だけがそれを知らない。
そう考えれば、今まで私が抱いてきた疑問にひとつの答えが見つかる。
ロナルドくんは大失恋をするのだ。今の時点で抱えて死んでもいいと思えるくらいの相手を逃すのだ。そうして打ちひしがれる彼を、私は私なりのやり方で励まし、慰め、もう一度立ち上がれるように手を引くだろう。
それであのチョロルド、コロッと私に落ちちゃうんじゃないか?

「なんとか……ねえ」

通話中からずっと私の様子を伺っていたショットさんは音を立ててメロンソーダを啜った。行儀悪いぞ。

「ねえ、そう言うからにはロナルドくんには好きな人がいるんだよね」
「わかっちゃいたが、そこからか……」
「誰?」
「ホイホイ言うわけねえだろ」

やはり、ロナルドくんには既に好きな相手がいるらしい。ショットさんは知っている。ただ言うつもりはなさそうだ。相手の存在を仄めかしただけ、まだ甘い方なのだろう。

「どんな子?」
「言わねーって」

ショットさんの声が少し怒ったようなものに変わる。あまつさえ大きなため息まで吐いた。なにその「これだからドラルクは」みたいな顔!?

「若造に聞けば教えてくれるかな?」
「そう思うか?」
「ううん、全く」

ショットさんはそりゃそうだ、と大きく頷く。

「なるほど、そう考えると若造の束縛は私に根を上げさせるための作戦というわけか! クソッ悔しいが効果覿面だ!」
「ああ……コレ俺のせいってことになるかな……」
「若造め、好きな人がいるならそう言えばいいものを……」
ショットさんがどんどん遠い目に。どうしたのショットさん。
「ねえショットさん、ヒントは? ヒントくらいならいいでしょ?」
「嫌だよ、俺は十分甘やかしてやったろ。ここからは自分で頑張れ」

しっしと手を振るショットさんに媚びた声でしなだれかかって腕を組む。

「ショットさんおねが~い、パフェ! ホールケーキ! 特製生クリームたっぷりのシフォンケーキ!」
「うっぐぉ、俺は負けねえぞ!」
「シンヨコ退治人イチのイケメン! ヨゴレもこなすいぶし銀!」
「ンフ、お前俺がそんな見え見えのお世辞にフフ、ンフフ」

おっ好感触。このままいけば本当にヒントくらいは貰えそう? 全くショットさんてば、退治人のくせにチョロいんだから。

「ねえヒント! ヒントだけでいいから」
「だッダメだ! 俺はロナルドを裏切れねえ!」
「いいよ別に、ヒントくらい」
「いや俺は……あれ?」

私でもショットさんでもない低い声が唐突に割り込んできた。二人して弾かれたように振り返る。

「近くね」

ロナルドくんが短く言う。またしても二人でわたわたと距離を取った。

「お前なんでここにいんの? 今日は実況動画撮るって言ってたよな」
「い、いやでも、その、えっと」
「スーパー! スーパー!」
「そっそう! 一緒にスーパー行こうと思って! 待ってたの」

淡々と、しかし底冷えのする声でロナルドくんに詰められ、混乱しているとショットさんが助け船を出してくれた。そう、そういう言い訳だった。それを見たロナルドくんはショットさんにちらりと視線をやる。いぶし銀ットさんは「ピェ」と雀みたいな声で縮み上がった。

「で? 俺に嘘ついてショットと歓談して? 俺の好きな相手のヒントが欲しいって?」
「い、いやダイジョブ、こういうの自分で気づかないとね、やっぱ」
「いいよ。ヒント出してやれよ、ショット」
「うええ!?」

ショットさんはのけぞって、私とロナルドくんを交互に見る。

「なあおい。知りたいんだろ」

若造に視線を向けられて正直ビビり散らかしてしまったが、なんとか頷くことが出来た。ショットさんが見捨てられたような顔をする。悪く思わないでくれ給え。
彼はしどろもどろになりながらも覚悟を決めたらしく、私の方に向き直った。

「ヒント、ヒントな」
「うん」

なぜだか緊張し、ごくりと唾を飲み込んだ。ショットさんはうんうん唸って悩んでいる。

「ええと……鏡でも覗けば、意外とわかるかもしれないぜ」

ロナルドくんが少し動揺したようにショットさんに視線を向けた。ショット、と先ほどまでの勢いはどこへやら不安げな声で咎めるように言う。

「自分で発破かけたんだろ、腹決めろよ」

ロナルドくんはぐう、と唸って不安げな目を私に向ける。私はショットさんの言った意味がわからなくて、困惑しきった声で答えるしかなかった。

「鏡を覗くったって、後ろの壁くらいしか写らないよ」
「は? んなわ……あ~……」

ショットさんは一瞬信じられないような顔をしたが、やがて合点がいったように苦々しい顔で頭に手をやった。

「ヒントくれるって言ったのに、おまじないみたいなこと言わないでよ」
「いや、マジでマジの大ヒントだったんだよ……」
「そんなまさか!」
「ほんとだっつーのチクショー! お前もっと気合い入れて生活しろ!!」
「ショット!!」

ロナルドくんが悲鳴のような声を上げる。なんとも訳のわからないヒントだったが、反応からするに間違っていないらしい。

「どうして私の日々の過ごし方が非難されるのかわからんが、頭に留めておこう」
「おー、そうしてくれ。なんで俺はなんとかしてやろうとか思っちまったんだろうな」

ショットさんはうんざりしたように上を向いた。その後、私とジョンが飲んでいるものがショットさんの奢りだと知ったロナルドくんが、私を殺した後ショットさんに精算したのだが、その際も魂の抜けたような顔をしていた。
帰るぞ、とロナルドくんがイライラした声で言う。

「はあい。スーパー寄ってよ」
「わかってるっつーの」

ギルドのガラス戸を開いて外に出たところで、ロナルドくんはまたもや私の手首を掴んだ。あの夜以来、二度目である。まさかこいつ、お手軽な殺害方法に味を占めたのか?

「ねえ、手」
「良いだろ、別に。お前どこ行くかわかんねえし」
「どこも行かないよ。スーパーでしょ?」
「歩くのおせえんだよ」
「君が速いだけだろ。足は私の方が長いんだから優雅な歩き方が」
「死ね」

思った通り、手首を握り潰されて死んだ。復活するとこの前と同じように手をわしづかみにされた。
ロナルドくんは唇を曲げて不満そうな顔をしていた。こっちの顔じゃ。
好きな子いるのに、こんな手を繋ぐみたいなことして往来を歩いていいんだろうか。そう思ったけれど、なんとなく聞くのはやめておいた。

「おし、じゃ行くぞ……こっち」

彼は一度スーパーの方向へ向かおうとして、急に道を変えた。

「スーパーはこっちの道だぞ方向音痴ルド」
「黙れこっちの道のが強くなれるんだよ」
「スーパーまでの道にレベルアップ要素無くないか?」

とはいえそこまで遠回りするわけでもなく、一本横の道を通る、といった程度だったのでひとまずしたいようにさせておいた。
それでも理由がわからず、いつもの道を振り返る。
疲れた様子のサラリーマン、スマホを手に歩く女性。スケッチブックを手に街路樹を見上げる青年、夜だというのに闊歩する数人の女子高生。
どうしてロナルドくんはこの道を避けたのだろうか。
当然理由を思いつくことはなく、手を引かれるままに夜の道を歩いていった。

  9

鏡を覗いてみるけれど、やっぱりそこには何も写らない。吸血鬼であれば当然のことだ。
あの日から何度も鏡を見たが、若造の好きな相手の手がかりは未だつかめないまま。おそらくは一種の謎解きなのではないかと思う。そうでなければ、ロナルドくんの好きな人のヒントが『鏡を覗けば写る』ではおかしいのだ。
ショットさんめ、バカだと思っていたがこの私でもわからない謎解きをあの状況で考えるとは。なかなかやると認めざるを得ない。ロナルドくんが焦っていたことも踏まえると、相手を知っていれば絶対に納得出来るものであるはずなのだ。

「今日、女の人に告白された。一回合コンで会って、ずっと好きだったって」

夜食前に出したサラダを貪りながら、若造はそう切り出した。

「へえ、やるじゃないかゴリラのくせに。それも全てこの私の努力の賜物だな」
「まあ、お前のクソアドバイスを聞いて俺が頑張った結果だな」

しゃり、とレタスを食む音が聞こえた。ロナルドくんはふてぶてしい態度でそう言うと、「だから」、と言葉を続けた。

「対価貰ってもいいよな。俺の努力が実を結んだってことだもんな」
「些かドラちゃんへの敬意が足りん気もするが、まあよかろう。今度は何がお望みかね」

本当は何を言われるのかと戦々恐々しているが、おくびにも出さず威厳たっぷりにそう言う。私を束縛したいのならばすればいい。どれだけ不自由な生活を強いられようとも、私は絶対に諦めたりしないぞ。
ロナルドくんは唇を軽く舐めて、手のひらには少し余るくらいの瓶を机に出した。

「これ、付けろよ。忘れずに毎日な」

それは少し前にオータムの企画で出した、ロナルドくんイメージの香水。

「これだけ?」

今度は何を管理されるのかと思っていた私は拍子抜けして、素っ頓狂な声で聞いてしまう。

「おう」

ロナルドくんはぎこちない仕草でサラダを食べながら頷いた。ふうん、と机の上の瓶を眺める。

「まあいいよ。それくらいなら全然」

そうか、と硬い声が返って来た。これも束縛の一種なのだろうか、私にはよくわからないけれど。
途端に元気よくレタスを口に運ぶ姿がなんだか面白くて、とことんわからない男だな、と笑ってしまった。

で、考えたのだが、好きな人とロナルドくんをくっつければ私の目的は一気に実現されるのでは?
あの夢を見た時点では可能性はゼロのようだが、今のロナルドくんはもはやあのときのロナルドくんではない。恋愛なんて予想もつかないことである以上、全くの望みゼロということは珍しいと私は思っている。
私とて、何も知らない私ではないのだ。ロナルドくんと相手が結ばれるように全力で後押しすれば、ワンチャンあるのではないか。
ショットさんの言ったことは、そのまま私にも返ってくる。
彼には、本当に好きな相手と幸せになってもらいたいのだ。
たとえそれがこの楽しい日々の終わりを意味しようとも、あの空虚な葬送を思えば些細なことだ。
ただ、これは私にとって危険な賭けでもある。もしも私が献身的にサポートをして、それでも若造が振られてしまった場合、若造の『好きメーター』が一気にこちらへ向く可能性があるのだ。私に惚れることだけはなんとしてでも避けたい。そうなればバッドエンドまっしぐらだ。
慎重に、慎重に行かねばならない。ただ、何よりもまずは。
ロナルドくんの思い人は誰か、ということだ。
この件について、事態は混迷を極めた。
まず聞いたのは事務所に住む皆々。誰しもがまた、「ロナルドに言う意思がない以上、自分から言えることは何もない」と首を横に振った。
次に行ったのは吸対。半田くんは私をじっと見て、「馬鹿め」と静かに言った。お兄さんは「悪いの」と肩を竦めるだけだった。そのほかの人たちには「知るわけない」「そもそもそういう行為はどうかと思う」などと素気なく返された。
ヒナイチくんには聞けなかった。あの夢みたいに、なんだか怒られる気がして。
次に、退治人ギルドへ行った。退治人の皆さんはあの日ショットさんが出したヒントを聞いていたようで、「あれ以上言えることはない」「ショットはお前に甘すぎる」「あの変態イソギンチャクが」と何故かショットさんが責められていた。
次に、シンヨコにはびこる吸血鬼どもにも聞いてみた。「ロナルドさすがに可哀想すぎ」「あの退治人にそこまでの恨みが?」「もう頭脳派名乗るのやめろ」と最高に辛辣な反応を返された。
まさかと思いつつも、お父様にも聞いてみた。ワンコールで来たお父様は酷く困ったような顔をして、「ドラルク」、といたずらを諭すような口調で私の肩に手を置いた。

「お前は昔から優しく、それでいて聡明だ。人を見ることにも長けている。そのお前がどうしてもわからないと言うのなら、それはきっとお前の中に理由があるはずだ。お父様はいつだってドラルクの味方だよ。『一番有り得ないこと』まで考えて、それでもわからなかったらまた呼びなさい」
「今教えてはくれないのですか? お父様は私が可愛くないのですね……」
「そ、そんなことはない!! ドラルクは宇宙一可愛い子だよ!! ただ、そうだな……ジョンは教えてくれたのかい?」

私はジョンを見た。ジョンはふるふると首を振る。彼はこの件について、助言すらくれたことはなかった。

「私たちはいつだってお前のことを思っているよ。歯がゆいけれど、お父様はこれに関して軽率なことは出来ない」

お父様はずっと困った表情をしていた。そんなことは今まで初めてで、なんだか私の方も心許なく思ってしまった。お父様はいつだって私に甘くて、欲しいものはなんでも与えてくれたのに。

「彼をお前の大切な……人間だと、思うが故だ。ドラルク、そんな顔をしないでくれ」

もういいです、と突っぱねて送り返したものの、内心拠り所を失ったようだった。お父様すら知っているのに、私には教えてくれない。
ロナルドくんの好きな相手を、私だけが気づけていない。こんなに一緒にいるのに。若造は今や私の日々のほとんどを管理しているのに。
どうしようもなく面白くなくて、適当にネットで調べた方法に手を出した。
それは『恋を叶えるおまじない』なんて、いかにもな名称を付けられていた。
新月の夜、影が暗闇にちょうど溶けるような場所で、自分が最も心を動かされるものが吸血鬼化したものの塵を水に溶かす。その際水には、自分の匂いを付けておかねばならない。血を混ぜるのが最も効果的。『(自分の名前)の恋が実りますように』と唱えて、右に三回、左に二回かき混ぜる。その後、塵を溶かした水を花瓶に入れ、自分のイメージカラーの花を育てる。花は一日で枯れるが、生けてから枯れるまで誰にも見られてはならない。
なんとも胡散臭い方法ではあるものの、その時の私はとにかく頭がいかれていたのである。
新月を待ち、吸血セロリを意図的に発生させてパニクりまくった若造に退治させ、片付けるふりをして塵を集めた。若造の退治に頻繁について行き、気まぐれにウロチョロしていると見せかけて条件に合う場所を探した。新月の一日前に五本の薔薇を買って事務所に生けた。

「急になんだよそれ」

当然のように若造が聞いてくる。

「いいだろう? 見栄えがするじゃないか」
「いいけど、なんで薔薇? しかも五本って多くね」
「赤色といえば君じゃないか! それに、五本にだってちゃんと意味はあるよ」

まあ本数にあまり意味はなくて、五本もあれば一本くらい枯れたとかなんとか言ってもかまわんだろとかそういう思考なんだけど。
そういえば、唇をひん曲げたロナルドくんはしばらくパソコンをいじっていたが、唐突に「ホァッッッッタァァァ!?」と叫んで器用に後ろに吹っ飛んでいた。何があったんだろうね。
赤い薔薇、なんて見るとそれこそあの棺の中を思い出すけれど。
あの記憶を塗り替えるためにも、私はこんなおまじないにだって縋ってやるのだ。
新月の夜。散歩に行ってくる、ジョンも一緒だから、となだめすかしてなんとか一人で外出した。ロナルドくんは、フクマさんに「原稿の進みが芳しくないようですよ」と告げ口してオータムへ連れ去って貰った。
ちょうど良く光の届かない路地裏で、水を汲んだ広口の花瓶に、渡された彼のイメージの香水を混ぜた。若々しい男を思わせる香りが辺りに広がる。彼は香水なんて付けないし、最近は私が付けているから、彼の匂いかと言われると疑問だが、まあ所詮おまじないだ。
マドラーで何度かかき混ぜて、塵を流し込む。当然溶けることはないのだが、吸血セロリの塵は不思議に花瓶の中に広がった。

「ロナルドくんの恋が、実りますように」

口にして、少し考えてからもう一度、今度は彼の本当の名前で唱える。
右に三回、左に二回。
いち、に、と左回りにマドラーを動かした瞬間、嘘のように水の中の塵が消え失せた。
ヌ、と肩にいたジョンが驚きの声を上げる。私もじっとりと汗をかくのがわかった。
まさか、まさかねと思いつつも心臓が高鳴った。
もし本当にこのおまじないに効力があったとしたら。彼の恋はもうすぐ実り、私がついぞわからなかったお相手と添い遂げることとなるのだろう。

「お別れの準備をしなければいけないね、ジョン」

腕の中のジョンがヌーと鳴いた。
赤い薔薇を一本取って、予備室に置いた花瓶に生けた。若造はしばらく帰って来んとして、ヒナイチくんと半田くん、もちろんジョンにも入らないでほしいと言い含めた。
これで、これできっと、と一輪の薔薇を眺める。
これできっと、彼は報われるはずなのだ。

  10

「わ、るい。滑った」
「いや、大丈夫……」

至近距離から若造の体温が乗った息を感じる。
予備室での配信を終えてリビングへと戻ってきたところ、急にロナルドくんがよろめいて私の両脇に手をついた。
早い話が壁ドンだ。
一つ屋根の下に住むゴリラによるおじさんへの壁ドンだ。いくら片方がキュートなこの私だといっても、なかなか辛いものがある。
そして一度くらいならば気にしない。気にしないのだが、これが一度ではないから問題 なのだ。
あのおまじないをした次の日から、こんな感じの接触がうんざりするほど増えた。少し並んで道を歩けばよろけて彼の胸に縋り付いてしまうし、距離感を間違えてくっつきそうなほど顔が近づいてしまうし、昨日なんて棺桶で寝転んでゲームをしていたら転んだ彼が倒れ込んできて、あの中で密着しながら添い寝だ。ふざけとんのかクソが!!

「ロナルドくん、早くどいてもらっていい? ジョンがお腹減ってるから」
「あー、うん」

いつまでも離れる様子のない彼に、不審に思いつつ言う。生返事が返ってきて、きゅっと眉を寄せた。うんじゃないわ阿呆、と言おうと顎を少し上げる。
と、熱い指に頬を触られた。ほぼ同じタイミングで柔らかいもので唇を押され、一瞬で離れていく。

「うん。どくわ、おう」

ロナルドくんは俯いたまま襟足をわしわしと掻いて、緩慢な動きで事務所の方へと去って行った。

あ?

その時の心中は驚きなのか困惑なのか怒りなのか、もっと色々なものが混ざり合った名前の付けられない何かなのか。
頭は明朗なのに思考すべき単語が思いつかない。
あいつ今なにした?
ジョンに視線を向けると、ジョンは「あーあ」みたいな顔で私を見ていた。どうして?

「じょ、ジョンさん、見ました?」
「ヌン」
「あいつ何してました?」
「ヌヌ」

きす、と口にした言葉は誰がなんと言おうと意味を知らない単語だった。
ジョンは私の反応をじっと観察しているように見えた。衝撃的な場面のはずなのに、驚きは一切感じられない。

「たまたま、ぶつかった、とか?」

不自然な接触が日常になりつつある現状だ、それと同じようなものなのかもしれない。
ふう、と息を吐く音が聞こえ、見るとジョンが悲しそうな顔をしていた。
どうしたの、ジョン。どうしてため息を吐いたの。

「ヌヌヌヌヌヌヌ、ヌヌイヌーヌ ヌヌ」

ドラルク様がしたいようにして、と手袋をはめた指先にキスをされる。

「ヌヌイヌヌヌ ヌヌ」

見たいものを見て。
ジョンは私の最愛の使い魔で、いつだって一緒で、一番の味方で。
なのにどうして、そんなに突き放すようなことを言うのだろう。

「ジョン、私は君を怒らせたかい?」
「ヌヌン」

ジョンは首を横に振った。

「だったら、君から見て私は間違ったことをしている?」

ジョンはいつかのお父様と同じような、困り切ったような顔をした。

「ジョン」

私の一番大事な子は、可哀想なくらいに迷っている。

「ヌンヌ……」

ジョンは、ロナルドくんが辛いのはつらい。

「辛い思いをしないように頑張っているんだよ。ジョンには言っただろう?」
「ヌヌ、ヌンヌ ヌヌヌヌヌヌヌ イッヌヌヌ イヌヌンイイヌ」
「でも、それはジョンの話だろう?」

ジョンはそりゃあ私と一緒が一番幸せだと思うけれど、ロナルドくんがそうかと言われると自信を持って「それはない」と言える。

「ヌヌヌヌヌヌ」

ジョンの小さな手で頬を撫でられた。
彼は請うように言った。今のは、キスなの。疑わないで。覚えていて。

「でも、それならどうして彼は、という話になってしまうよ」

ジョンはまた、ひどく困った顔をする。

「すまないね、ジョン」

君の忠言は覚えておくよ、とだけ言うと彼は曖昧に頷いた。


さて、彼の奇行の件は一度置いておくとして、肝心の彼とお相手の進展具合が気になる。なにしろ好きな相手というのだから接触がなければ話にならないが、見ている限り心当たりが見つからない。しかしここで「ねえロナルドくん! お相手とは最近どうなんだい?」とか言うメンタルはさすがに私にもない。そもそも、私が彼の思い人を知ったあの夜から、その話題は地雷なのだ。

「おまじないは成功したと思うんだがなあ」

あの日生けた薔薇は、書いてあった通りにたった一日で枯れ果てた。不思議なことに、花瓶の水も涸れていた。私が確認するまで、予備室には誰も入っていないはずだ。誰かが入ればおまじないは成功しないはずなので、薔薇が枯れることもないと思うのだが、どうなんだろう。
やはり、ロナルドくんが片思いしている相手がわからないのは痛い。
しかしながらショットさんの出した「鏡を覗けば映る」の謎解きはまだ出来ていない。ショットさんめ、やりおる。
仕方がないので、さりげなく若造に探りを入れてみることにした。

「ねえゴリルドくん、最近どんなことでドラミングした?」
「藪から棒になんだてめえは」

そろそろ締め切りがやばくなってきた馬鹿造は、パソコンから目を離さずに消しゴムを投げ付けてきた。当然命中し、私は儚くも塵になる。

「何か良いこと、あったんじゃないのかね」

若造はわかりやすくギクリと硬直した。ほほう。私はするする近寄って「ロナルドくぅん」と猫撫で声で話しかけた。

「何かあった? 聞きたいなあ、私」
「ねーよ! 邪魔すんなあっち行っとけ!!」
「何を言う! 君の幸せは私の幸せなんだ! わかったら早くその面白そうなことを話しなさい」
「ちょっとは取り繕え!!」

マー耳まで真っ赤にしてわかりやすいこと! これは相当嬉しいことがあったと見える。

「なんだね、真っ赤っかになって。ラッキースケベでもあったのかね?」

完全に冗談での煽りだったが、予想に反して若造はビタリと動きを止めた。何かを言おうとした唇のまま、ぶるぶる震えている。

「え、なにその反応……」
「ち、違う!! 断じてスケベな気持ちはなかった!!」
「ほんとに~? 若いゴリラなんてけだものだからなあ」
「ゴリラは年取ってもけだものだろうが!!」

あ、そりゃそうだ。予期せず論破されてしまったが、この天才ドラちゃんとて小さな間違いを犯すことはある。そこをわざわざあげつらう目の前のゴリラの方がナンセンスというもの。ふう、全くこれだからデリカシーのない童貞って嫌ね。

「お前なんか今むかつくこと考えたろ」
「真偽もわからんのに殺すな!」

何のためらいもなく拳を振るってきやがった若造を睨み付けつつ復活する。

「ねえ、嬉しかった?」

聞くと、ロナルドくんはしどろもどろになって視線をあちらこちらにやり、小さく「……まあ」と答えた。

「ほっほう!」

つい気分が高揚し、オーバーな声が出てしまう。いやしかし、そうか。彼は何かしら色っぽい事態に遭遇し、それを嬉しく感じたらしい。
ここで重要なのは、彼がそれを“嬉しく感じた”という点だ。彼の一途さと性根の良さはわかりきったことである。もしこれが思い人以外とのことであれば、彼は多少テンションは上がるかもしれないが「嬉しかった」という感想にはならないだろう。

「それって一回だけだった?」
「いや……割と……」

そこそこあったらしい。なるほど。
これは、おまじないの効果と言っていいのか?

「以前にそういったことは?」
「ねえ……けど、なんだよ」

ふむ、そういうことが起こり始めたのは最近だと。
多少方法が俗っぽいが、おまじないの『恋を叶える』とはこういう方法だったか。

「いやいや! お相手の反応はどうだった? 嫌がっていたかい?」
「嫌……がって、はなかったと思う。特に何も感じてないみたいな……」
「良いじゃないか! 嫌悪感がないならさりげなく意識させればコロッと落ちるかもしれないぞ!」
「え、ま、マジで……?」

この時点で、お相手がロナルドくんの思い人であるという前提で話しているのだが、阿呆なロナルドくんだから全く気づいていないな。これは好都合、背中を押してやろうじゃないか。

「なにかアタックは仕掛けてみているのかね?」
「ま、まあ……一応?」
「ほっほう! 例えばどんな?」
「こ、この前、ちゅー、した」

思わず「ウッ」と声が出る。まさかお前、私でキスの練習しやがったな?
失礼極まるボケナスだが宇宙よりも広い心で許してやって、「反応は?」と聞く。

「いやなんか……全然普通。気にしてねえのかも」
「何を言うんだ! キスが嫌がられていないんだぞ⁉ 一応聞くがそれって口にだよね?」
若造が頷く。

「口へのキスが嫌がられないなんて、脈あり以外有りえんだろ!!」

若造の顔がボッと燃え上がった。

「そ、そうなん? マジで? なあ、本気で言ってる?」
「こんな嘘あるか! 君の常識で考えてみたまえよ」
「い、いやだって……ま、マジか……」

ロナルドくんは耳まで赤く染め上げたまま、口を手で覆って放心していた。

「そ、か……そうか、そうなんだ……」

ぶつぶつ呟いているその口角がだんだんと上がっていく。

「す、すげえ嬉しい……すげえ……」
「おお……」

感極まったように呟き続けているのを見て、私もなんだかじわじわ耳が熱くなる。
よかった。ロナルドくんの恋が実りそうでよかった。私の唇を練習に使われたのは憤然やる方ないが、結果として成功したのならいいだろう。
やっぱりあのおまじないは効果があったということか。それとも、もともと脈ありだったのがあのおまじないで明確になったということか、まあどちらでも良かろう。

「告白は? まだなのかね?」
「オベァロホッッハポォ!?」
「飛んだ!?」

私の見た地獄が非現実になる日も近い、と上機嫌に聞けばロナルドくんは椅子ごと天井までの垂直跳びを見せた。なにその脚力。やはりこいつ少なくとも人間ではないのでは?

「……え、あの……それ聞いてくるってことは、その、待ってくれてるってこと?」

天井に刺さったままのロナルドくんがおずおずと言う。顔は見えないが手元はもじもじ手遊びを繰り返していた。もう敷金はどうでもいいのかな。
なんにせよ。ひとまず私の仕事は総仕上げをすることだ。

「もちろん! 待ちくたびれているかもしれないぞ」

がしゃん、と大きな音を立ててロナルドくん+椅子が落ちてくる。彼はその豊かなまつげを涙でじんわり濡らしていた。

「そ、そうだったのか……」

彼の幸せは私の幸せ、とは揶揄いで口にした言葉だが、あながち間違いでもない。これからのロナルドくんが送る幸せな人生を考えると、身体のあちこちから熱が広がっていく。
ふとロナルドくんが立ち上がったと思うと、がばっと豪快に抱き締められた。直前に見えた真剣な表情が網膜に残る。

「俺、ちゃんと頑張るから。だからもうちょっと、待っててほしい」

あらまあ、日本人がこんなに熱烈とは。終始私に反抗的な態度のロナルドくんだったけれど、少しは私の思いも伝わっていたのだろう。もしかすると、お相手と結ばれた一因だと思ってくれているのかもしれない。

「私だったらいくらでも待つさ」

だけど、お相手はあまり待たせてはいけないよ。せっかくの熱意に水を差すのも何なので口には出さなかったものの、そう思った。
私なら何百年も待っていられるけれど、人間の彼と(おそらく)相手はそういう訳にもいかないからね。
ありがとう、と肩口で鼻水をすすりながら言われる。どういたしましてと彼の背中に回した腕の力を強める。
どうしようもなく幸せだった。

  11

それが今は、どうすればいいかわからない。
着信の音で起こされた。相手はお父様だった。
『やあドラルク! ヌイッターの広告? で見たよ! おめでとう!』
「ええとお父様、私は今寝起きなのですが何の話ですか?」
『えっ? お前とポールくんが付き合っていると……』
「ハァ!?」

思わず大声を出したものの、さすがは私というべきか一瞬で平静を取り戻し自身のヌイッターを開く。
お父様は『広告』と言っていたが、おそらくはトレンド欄に出てくるネットニュースだろう。その考えは当たっており、トレンド欄には『ロナルド熱愛』『ドラドラちゃんねる』が踊っていた。
ことの発端らしい記事を探り当てると、どうやらこの前若造に言われてブロックした中の一人がリークしたようだった。

【『ドラドラちゃんねる』視聴者Gさん「ドラちゃんから急に関わりを絶ちたい、って言われて。話を聞いたらロナルドさんに言われて、とか。仲良くしていたつもりだったんで電話かけたりしたんですけど、(電話の)対応は全部ロナルドさんでしたね。『今までありがとうございました』って言われるんですけど、絶対思ってないだろ、みたいな(笑)。(関係を絶ったのは)俺だけじゃないみたいですね。少なくない数やられてる。中にはドラちゃんの厄介ファンみたいなのが多いみたいですけど、俺とかの頻繁に絡んでたフォロワーもいます。あー、嫉妬かな、って(笑)。」】

『退治人&吸血鬼、イケメン作家の束縛愛』なんてどことなく腹の立つ見出しと共に、その『Gさん』のインタビュー含め幾人かの証言が載っていた。束縛が酷いこと、ドラルクさんがそれを受け入れていることは有名、手を繋ぐ場面も最近は見られ、ロナルドさんはずっと前から片思いを……、気が遠くなるような文言がひたすら連ねられている。

「お父様、違います。これは全くの嘘です」
『そ、そうなのかい? でも……』
「どこぞの低俗なライターが鼻息荒く書いただけのとんだゴシップですよ。騙されないでください」

電話越しのお父様はおろおろしていたが、やがて少し悲しそうに『わかったよドラルク』、と言った。
怒りで身体が震える。死ぬとわかっているのに奥歯を強く噛みしめてしまう。
邪魔をしてくれやがって!!
一見すれば信憑性のない記事だが、ここにあることは濁った目で見た真実である。なにしろロナルドくんの束縛も私が受け入れていたことも手を繋ぐような格好で歩いていたのも事実なのだ。ロナルドくんの片思い相手、というのもきっと本来の相手が私にすり替えられているに違いない。
どうか、ロナルドくんの思い人がこれを見て彼への思いを失うことがありませんように。どうか彼がしっかりと彼女に説明出来ていますように。どうかこれが彼の未来に影を落とすことがありませんように。
吸血鬼だろうが何だろうが、切羽詰まれば祈ることに抵抗などない。とにかく、とにかく少しでも鎮火に走らなければ。
一族にはお父様から伝えて貰うようにしよう。退治人にはロナルドくんが説明しているだろうけれど、私からも一応伝えておこう。
困ったときのショットさんだ、と私は急いで彼にメッセージを送る。メッセージアプリは不穏な位に平穏だった。

『ショットさん、ニュース見た? わかってると思うけど、あれ嘘だから』

既読はすぐに付き、一分ほどの後返信が来る。

『嘘?』

ちょっとショットさん、こういうときにそんなボケいらないよ。

『嘘だよ。ショットさんも知ってるでしょ、ロナルドくんに好きな人いるの』
『そりゃ知ってるけど』
『もう少しのところまで来ているみたいなんだ。告白するって言ってた、お願い、面倒な噂流されたくないんだ』

ショットさんの返信が止まり、なぜだかわからなくてイライラする。胸が狭くなったように心臓が圧迫されているのを感じる。
二分ほど経って、ショットさんがようやく返信をよこした。

『つまり、ロナルドにはお前じゃない好きな相手がいるんだな?』
『そうだよ、わかってるでしょ?』
『お前はロナルドと付き合う気はねえんだな』

私は間髪入れずに返信する。ジョンが私にずっとしがみついているのが気がかりだった。

『当たり前だろう、馬鹿げたこと言わないでくれ』

『とにかくそういうことだから、みんなによろしく言っといてくれたまえ』と送って、やっと一息つく。

「クソッ! なんでこのタイミングでこんな邪魔が入るんだ!」

起きたときには既に不在だったロナルドくんの行方は知らないが、お相手に弁明でもしていたらいいけど。いや、この時間なら仕事だろうか? なんにせよ大変そうだ。
しかし、帰ったら説教してやらなければならない。どういう気の迷いか知らないがあんな束縛を始めて、誤解されるようなことをして、どう考えても脈ありなのにだらだらとお友達を続けおって。
そんなことを考えていると、またショットさんからメッセージが来た。
私に縋りついているジョンがヌーと鳴いた。

『ロナルド今から帰るって』

なんでショットさんが、と返すより先に次のメッセージが届く。

『そろそろ俺らじゃどうにも出来ねえわ。せいぜい腹括っとけよ』
「えっなに? 私殺されるの?」

ぞわっと寒気がして死んだ。

「に、逃げようかな。ねえジョン……」

助けを求めてジョンを見ると、厳しい顔で「ヌ!」と大きくバツを作った。

「だ、だめ? だめなの?」
「ヌン!」

叱るように強く頷く。そんなあ、と情けない声と共にとりあえず死ぬ。
どうしようどうしよう、もしギルドからなら数十分もせずに帰ってきてしまう。死ぬ。何かしらの制裁を受けて復活出来なくされる。
正直、どうしてこの状況でそこまで私に殺意を向ける理由がわからないが、とにかく『終わり』が近づいている以上対策をしなければならない。
どうする。謝るか? この私があの若造に頭を下げるか? クソッ絶対「ごめんなさい」は言いたくないがさすがに解禁するべきか?

「ジョン、やっぱりブラジルあたりに逃げ……」
「ヌ!!」
「ヒイッごめんなさい!!」

小さな足で床をダンッと踏んで叱られる。ウエエン、怒らないでよジョン。せめて一緒に謝って。
そう言うとジョンは困った顔になって、「ヌ……」と迷うように視線を彷徨わせる。

「お願いジョン、このままじゃ本当に殺される! ロナルドくんと友達でいられなくなる!」

お父様に負けず劣らず私に甘いジョンは、もはや辛そうな顔で悩んでいる。

「ヌ、ヌヌ!」

しかしジョンは覚悟を決めた顔で「だめ!」と言った。

「ええっ! 私がどうなってもいいの!?」

ジョンは慌てて首を横に振り、ドラルク様、と優しい口調で語りかけた。
ジョンはドラルク様が大好きだから、大事な友達とはちゃんと向き合ってほしいヌ。ロナルドくんは怒ってるけど、話を聞いてあげて。

「でも、ジョン……」
「ヌンヌ、ヌンヌヌ」

信じて、と言われれば弱い。甘いのはお互い様なのだ。

「うぐ……。わかったよジョン、君が私を死地に送るわけないものな」
「ヌン!」
「でもちょっと危なそうだったらすぐに助けに来てください」
「ヌ、ヌン……」

恥も外聞もなく頼めば、優しい使い魔は微妙な顔で頷いてくれる。
ありがとう、と小さな身体を抱きしめたところで、ドンドンと地響きのような足音が聞こえる。

「か、かえっ、ジョ、助けて!」
「ヌ!?」

「さっきの決意は⁉」とでも言いたげな顔でジョンが私を見る。いやでも無理でしょこれ死ぬって、マジで。明らかに不機嫌だもの! 命を奪う業を背負う覚悟を決めた音してるもの!
テンパっている間にも事務所の扉は開き、メビヤツの嬉しそうな声、そして近付く足音。

「ウワーー!! ごめんなさいーッ!!」

恐怖に耐えきれず扉が開いた瞬間に死につつ謝罪してしまった。

「せっかくうまくいきそうだったのにあんな記事が出て、すまなかったと思ってる!」
「……お前は」

恐る恐るロナルドくんの表情を伺うと、彼は想像よりも怖い顔はしていなかった。
どちらかというと、疲れていた。
続く苦痛に折れたような、諦めたような顔をしていた。

「お前は、何も……俺のことなんか、何も……」

呟いて、彼は大きくため息を吐いた。

「記事については、別に怒ってねえよ……」
「う、嘘だ! じゃあ何に怒っているんだ!」
「お前が俺のことなんて一切考えてねえからだよ!!」

急な怒号に思わず死んでしまう。しかし見過ごす訳にはいかない発言だったので、勇気を振り絞って反論した。

「考えてないわけがあるか! 私がこの数ヶ月、君のためにどれだけ思考を尽くしたと!?」
「俺はこのままで良いって言った! 嫌だったのはお前だろ! 結局自分のためだろうが!!」
「君の未来を思うが故だ!!」
「どんな未来だよ、言ってみろよ! なあおい、いい加減教えろよ。あの夜どんな夢を見たんだよ」
「……言わん」

若造目をそらせば、玄関から上がった彼がどすどす近付いてきて顎を掴まれ、無理矢理視線をぶつけられた。

「当ててやろうか、お前が見た夢」

囁くように言われ、何を馬鹿な、と面白くもないのに笑みがこぼれる。

「夢の中の俺が誰に片思いしてたか、言ってやろうか。どうやって知った? 誰かから聞いたのか? ヒナイチか? もしかしたら兄貴とかか」

ばくん、と心臓が変に跳ねて死んだ。正解があったらしいな、と言う若造の声がやけに遠く感じた。

「知ってるぜ。脈がねえことくらい、一生片思いで終わることくらい、俺が一番わかってんだ。……わかってたと思ってたんだけどな」

彼は座り込んでいる私の腕を掴んで引き上げようとしたが、腕が塵になって失敗した。

「ほら、立てよ」

静かな声で命令される。

「俺が“今”好きな奴、わからないんだろ。教えてやるよ。知りたいって言ったのはお前だぞ」

鼓動が早いわけでもないのに、ひどく心臓の拍動が感じられた。どん、どん、と一定のペースで、急かされるように少ない血液が押し出されている。口を開くことも抗うことも出来ない。いつかのように手を引かれて、連れて行かれたのは脱衣所。
の、鏡の前だった。

「ショットの言ったこと覚えてるか? なあ、ちゃんと『気合い入れろ』よ」

早く、と彼は一際低く唸った。
頭も心も追いついていないのに、身体だけが彼に従って強張っていく。
脱衣所の壁とロナルドくんしか映っていなかった鏡面に、ゆっくりと自分の姿が浮かぶ。

「ショット、なんて言ってた?」

いっそ冷たさすら感じるほどに彼の声は平静そのもので、声を出せば確実に震えてしまうような今の自分が情けなく思える。
それでも塵に変わらないのは、彼の声が私にかける無意識の暗示でもあるのかもしれなかった。

「なんて言ってた? なあ、言えよ」
「き、きみの好きな人は」
「俺の好きな奴は?」

言いたくない。わかってしまった。ショットさんはやっぱり馬鹿だ。私はそれ以上だった。

「鏡でも覗けば……わかると」
「だよなあ」

なんとか声を絞り出し、は、と息を吐く拍子にまた鏡から自分が消える。
おい、と低い声で、手つきだけは優しくするりと尻を撫でられる。
驚いて一度死に、復活すればまた読めない顔のロナルドくんがいた。

「なあ、もっかい気合い入れろよ。そうしたらわかるだろ。なあ、何が映ると思う?」

映すまでもなく、もう私は答えに気付いている。何も言わないのはひとえにそれを認めたくないからだ。
嘘だ、嘘だろう? いつからだ?
だって、だってそうなったら、私のこの数ヶ月間は全部無駄ってことになるじゃないか。だってもしそうならば、ならば。
あの未来を変えることは最初から無理だったってことになるじゃないか。
硬直する身体に合わせて、私の腕が、首が、耳が、髪が、輪郭を結んで背景を隠していく。
はっきりと存在が鏡面にも明らかになった瞬間、後ろからすごい熱に抱きすくめられた。

「好きだ」

蒸気かと思うくらいの吐息が首から肩にかかる。

「いつから、だ」

自分の声は笑えるくらいに震えていた。

「さあ?」

ウイングカラーで覆われていない狭い素肌に、熱い粘膜が押し当てられた。彼はそのまま何度か唇だけで食むようにして、くつくつ笑う。

「お前が生まれて初めて死んだときから」

なんて冗談だ。台詞の意味だってめちゃくちゃだ。まあ、本当にめちゃくちゃなのは『生まれて初めて死んだとき』が確かにある私の方なんだろうが。

「そ、んな、もの……」
「手遅れなんだよ、もう。もう諦めろよ」

ロナルドくん。
お人好しで、馬鹿で、ゴリラで、自信がなくて、おっぱいが大好きで、芯が強くて、優秀な退治人のロナルドくん。
どうしてそんなことを言うんだ。

「どうにもならねえよ」

どうしてそんなことを言うの。

「……ドラこう」

「おれ、ちゃんと、一生一緒に居たい奴、できた……」

途端にそう言って静かに泣き始めてしまった彼に、私はがらんどうの心のままで「よく出来たね」と言ったのだ。


  12


「行ってくる。……おいドラ公」
「あ、あー、うん……」

赤い帽子を被りながら「ん」と不遜に顎を上げるロナルドくん。私は今日もうんざりした気持ちで近付いて、少し上にある彼の唇に口づけた。両頬を手で覆われて、簡単に逃げられない。
もう既に手遅れだと気づいたあの日から、彼が要求してきたことがこれだ。
どうしても認めたくない私に対して、彼は「俺の言うこと聞いてくれるなら、諦める努力はしてやる」と持ちかけた。
まずは最低一度、私から彼にキスをすること。SNS全てを彼が買ってきたスマートフォンと同期すること。彼からの接触を拒まないこと。
だから、私は薄い腰を撫で回す手を受け入れるしかないわけで。

「う、さっさと行かんか!」
「わかってるよ!」

バタバタうるさく出て行ったのを確認して、ようやく一息つく。どうしてこんなことになってしまったんだか、と痛む頭を抑えた。
あの記事についてはひとまずオータム側から「そういった事実はない」と否定してもらったものの、騒ぎが鎮火したかと言われればまだそのレベルではない。最近私のSNSやチャンネルのコメントにお気持ち表明や荒らしが多く見られるのがその証拠だろう。
『ロナルド様が汚れる』なんて言っているお嬢さん、残念ながら貴女のDMは『ロナルド様』に筒抜けだよ。それに彼の仕事は年々ヨゴレの割合が多くなっているよ。
ロナルドくんの方にも、私の視聴者から何か行っていると思うのだが、聞いても「特には」の一点張りである。何か来たら即最終兵器フクマさんに通すことになっている彼には怖いものなどないのかもしれない。かくいう私もクワちゃんに「なんかあったら闇討ちも辞さんで」と言われてはいるものの、闇討ちラインがわからず恐ろしいことと、これでも長く生きていて配信歴もあるので全く気にならないことを理由に、総数の報告だけになっている。

「ていうかどうしてみんな若造の好きな相手が私だって言ってくれないんだ!」
「ヌヌヌリヌッヌヌ ヌーヌヌ……」

脈ありだったら言うけど、とジョンに言われ、ぐうの音も出なくなってしまった。
何度でも言うが、私には彼と付き合う気は全くない。ロナルドくんのことは好きだけれど、正直キスも毎日面倒くさいし、ぞわぞわするので身体を弄るのもやめてほしい。これが幸せな恋人同士になれるか!? 無理だろうが!
それにしてもあの若造の「諦める努力」なんて言葉につい頷いてしまったものの、具体的にどういう努力をするんだ。普通に失恋の傷を癒やすセオリーは『距離を取る』とかなのに、あいつガンガンに距離詰めて来るんだが。諦める気あるのか? まさか『諦められぬと諦めた』なんて言わないだろうな。
何にせよ、このままでは困る。
同居吸血鬼のガリガリチャーミングおじさんに恋心を抱き、振られたまま純潔を守って死ぬなんて哀れが過ぎる。魅力的な私さすが畏怖、なんて冗談も憚るレベル。

「どうしたらいいのかねえ、もう周囲は若造の味方っぽいし」

幸いにもある程度の良識があるシンヨコ民なので未だないものの、いつ誰に「一回付き合ってやってもいいんじゃない?」なんて言われてもおかしくはない。何せ彼はあのお父様やジョンですら味方に付けているのである。いや、味方という言い方はおかしいが、彼らがロナルドくんに気を遣って私に隠しごとを続けていたのは事実だ。お父様なんて熱愛の記事にあんなに喜んでいたし。

「ぐぶぶ……ならば貴様から距離を取ればいいだろう」
「私から? ここを出て行くとか? 嫌だね、私が出て行くのは彼に彼女が出来たときだ」
「……そんなことを言うからあの退治人は諦めきれんのでは……」
「楽しい現状の維持を望むのは誰だって同じじゃないかね?」
「退治人に報いてやるつもりもない、現状を変えるのは嫌……貴様も少しは妥協をしてみてはどうだ」
「私も結構彼の言うこと聞いてるんだけどなあ……」

キンデメさんは鬱陶しそうに泡をひとつ吐く。

「まあ、我輩は貴様らがどうなろうと関係はないが……ぐぶ」
「僕は師匠がいいならそれでいいんですけどねえ」

諦め顔の死のゲームも続いた。結局ロナルドくんのクソゲーは作るのかな。割と欲しいんだけどなあ。

「やっぱ出て行くしかない?」
「やめておけドラルク」
「うわっヒナイチくん」

急に後ろから声が聞こえて驚き死してしまった。

「話し合いの結果ならともかく、急にそんなことをしたらロナルドは間違いなく暴走するぞ」
「ええ……どうしろと」
「諦めるか……もしくは、きちんと突き放すかだな」

夢の中の記憶が強くて、なんだか叱られている気持ちになってしまう。

「突き放すって?」
「ロナルドのことなど好きでもなんでもない、と言うとか」
「そんなこと……」
「ドラルク、もう中途半端は出来ないところまで来てしまっているんだ」

ヒナイチくんは淡々と言う。

「受け入れるか、拒絶するか。もうそれしかないんだ」
「……でも、私は私でやりたいことがあるんだよ」
「ロナルドと他の人を添い遂げさせることだろう? なら、それこそ拒絶すればいい」
「そんなことしたらもう……」
「もう、なんだ?」
「もうロナルドくんと会えなくなるかもしれないじゃないか……?」

存外しょげた声が出て、ヒナイチくんは眉を下げる。

「そんなことを言うくせに受け入れるのは嫌なのか」
「当たり前だろう! 私はロナルドくんと友達でいたいんだ!」
「大声を出すな、ロナルドが聞いたら傷つくぞ……」

ヒナイチくんがキョロキョロ辺りを伺う。若造の気配はなかったらしく、ほっと息を吐き出した。

「ヒナイチくんだって、私に『君をずっと愛していたんだ』なんて言われたら困るだろう?」
「は!? な、なんの話だ!」

真っ赤になって拳を振り上げるので、私は慌てて手を振った。

「例えばの話だよ! 困るだろう!? このままじゃだめなのかなって思うだろう!!」
「う、うむ……まあ……」
「ほら!」
「いやしかしなあ、お前の場合はこう、ロナルドはかなりわかりやすかったしお前も何だか気を持たせるようなことをしていたし……」

じとりとした目で見られて、つい口を尖らせてしまう。

「気付かなかったことはともかく、そんなことしてないよ私」
「……脈ありだなんだと吹き込んだそうじゃないか。あのときのロナルドの浮かれようといったらもう」
「あーあー! だって! 私のことなんて思うわけないだろう!?」
「しかしもう純粋に疑問なんだが、どうしてあれで気付かないんだ? 誰かに洗脳でもされていたのか?」
「やめて! そのまっすぐな瞳心に来る!!」

ジョンガードでヒナイチくんの視線から逃れる。呆れたようなため息が聞こえた。

「だって、だって絶対ないと思ったんだもん、ロナルドくんだってロナルドくんだよ、あれだけおっぱいおっぱい言ってたくせにさ、急に私のこと好きだなんて戸惑うに決まってるじゃないか!! あれだけ雑に扱ったり殺したりしてきたくせに、私のこと好きなんて思うわけないもん、いくら私が天才だからって……」

もう訳がわからなくなってきて、じわりと視界が滲む。丸まって、ぴすぴす鼻を鳴らしながら愚痴を言っていると、ヒナイチくんに遠慮がちに背中を撫でられた。やさしい。
ロナルドくんだって、せめて彼女くらいの態度を見せてくれたら私も気付いたかもしれないのに。
もうやだなあ、と口に出すと、「ロナルドを暴走させるなよ」とヒナイチくんから無慈悲な言葉がかけられる。やさしくない。

「ねえ、ヒナイチくん」
「なんだ」
「もし私がずっと彼の気持ちに気付かなかったら、どうしてた?」

ヒナイチくんは背中を撫でる手を一瞬止める。

「どうもしない。言わなかっただろうな」
「ロナルドくんがそのまま死んでも?」
「ああ。言わない」

ふうん、と答えながら、おかしいなと思った。未来で私に教えたのは他でもない彼女なのに。

「絶対言わないのかい」
「うん……ああいや、もしかしたら言おうと思うときはあるかもしれないな」
「え、本当に? いつ?」

ヒナイチくんは撫でる手を止めずに言った。

「死ぬ直前でお前に忘れられるのが怖くなったときだ」

言われて、私は思い出す。白くて光の届かない病室。クッキーをしきりに食べたがっていたヒナイチくん。透明なチューブに繋がれたヒナイチくん。
あの日の病室、サイドテーブルには何があったっけ。

「すまない、意地悪を言った。すまない」

黙り込んだ私に、焦った声のヒナイチくんが言う。

「ただ、考えてほしいんだ。ロナルドがどういう気持ちで今までお前といたのか、どういう気持ちでお前の『助言』を聞いていたのか」

そんなの、辛かったと思うよ。でも、でも私だって辛かったんだ。あんなのは絶対嫌だと思ったんだ。ロナルドくんを幸せにしてやろうって、それが出来ないなんて考えもしなかった。

「私はロナルドくんが嫌いじゃないんだ。むしろものすごく気に入っているよ。本当だ」
「ああ」
「それじゃだめなんだよね……」
「まあ、そういうことになる……か?」

ヒナイチくんは首を傾げてううん、と唸った。

「とにかく、だ。今はロナルドもピリピリしているだろうから、刺激するようなことは避けた方が良いんじゃないか。彼女だのなんだの言うのは一旦やめてやれ」
「刺激ねえ……」

子供を諭すような言葉に、思わず唇が曲がる。だって言わないロナルドくんが悪いし。頑ななのはあっちだし。

「まあ一度、ややこしくなる前にリセットするっていうのもありかな」

ぽつりと呟いた言葉に、ヒナイチくんは少し引っかかったみたいな顔をしたけれど、何も言わずにクッキーをさくりと噛んだ。

おかえり、とロナルドくんを出迎えて、まずはその汗臭い頬に軽くキス。

「オぁっ、え?」

予想通りの反応。
提案があるのだけど、と切り出した。赤く染まって浮かれた顔つきが、急に硬くなる。

「まずは夜食を食べてお風呂に入りなよ。まあそう悪い話じゃないはずさ」

ロナルドくんはしかめ面で頷いた。
風呂上がりの髪を乾かし終わって、ほっぺたが桃色に暖まったロナルドくんを、ダイニングテーブルの向かいに座らせる。
食事中も私をじろじろ見てきて、意識しっぱなしだったと見える彼が、「提案って何だよ」と口を開く。
今にも殴りかかって来そうな雰囲気を手で制して、「まずはお互いの主張を確認しよう」と持ちかけた。

「私は君に、私以外の誰かと添い遂げてもらいたい。君は私と一生を添い遂げたい。これでいいかね?」
「まあ、そうだな」

眉間の皺を深くして、若造がぶっきらぼうに言う。
よし。私は深呼吸をひとつした。覚悟を決めろ。向き合わなくちゃ。
これまで通りにロナルドくんと一緒にいるために。

「私も、努力をしようと思う」

彼は整った顔を容赦なく歪めた。ひるまず続ける。

「曲がりなりにも君は、私以外と付き合おうと努力をしたわけだ。対価はあったとはいえ、今の状態はフェアじゃない」
「それで、努力って、」
「……きみと、そういう関係になろうと頑張ってみると言ってる」

ふざけんなよ、と震えた声で彼が言った。テーブルに両肘をついて頭を抱える。

「だから君は、私がそうなるようにアドバイスをするんだ。そうだな、君が思う『恋人』を 一緒にやってみようじゃないか」
「お前はそれで、俺が喜ぶと思ったのか」
「いや、さすがに。でも……やらない?」
「やるよ」

やってやるよ、と顔を上げずに言う。大きく息を吐いた彼のTシャツはいつの間にかぐっしょりと濡れている。私も背中に冷や汗を流しつつ頷いた。

「で、お前は対価は?」
「もちろん貰うよ」
「……どんな? また合コン行けとかなら、俺やめるけど」
「ふむ、そうだな……まずは」

来た、と内心で思う。一度肩を上下させて、慎重にそれをテーブルに置いた。

「これを返すよ」

ロナルドくんのイメージ香水の小瓶。
彼の目が見開き、動揺するようにまぶたがひくひく動く。
これで彼にも、私の狙いがわかっただろうか。

「対価、受け取って“くれる”よね。ロナルドくん」

彼にされている束縛を、ひとつずつ解いていく。元のフラットな関係に戻るように。

「結局……結局お前のためじゃねえか」
「違うよ。君は私に、『恋人でもいいかも』と思わせればいいんだよ」
「出来たら苦労してねえよ」

吐き捨てるように言って、ひどく傷ついた表情で私を見る。

「お前はそんなの、絶対ねえんだろ。だから俺の気持ちにも全然気付かねえし、そんなこと言えるんだ」
「やらないの」
「やるよ!!」

ダイニングチェアに荒々しく背を預け、彼は怒鳴った。大声に驚いて砂になる。

「ただ一個……一個聞かせろ。お前最後はどうするんだ。もしも、もしも……俺が失敗したとして、お前……出て行くのかよ、ここを」
「まさか!」

私は慌てて反論した。『出て行く』のはだめだってヒナイチくんにも言われたし、私だって嫌だ。

「そのときは、ご真祖様に記憶を消してもらおう。以前の……未来おじさんに会う前まで」
「俺の気持ちは」
「そのまま、ということになるな。不毛な片思いのままだ」
「うるせえな死ね」

フン、と振るった拳の風圧で死んだ。嘘だろ。

「私は君と……友達でいたいんだよ。恋人になったってそんなの、君が哀れだ」
「お前が俺を好きじゃねえからか」
「好きだよ。だけど、君の『好き』とは違う」
「そうかよ」

ロナルドくんが席を立った。ぎし、と床を鳴らして近づいて来る。

「俺と友達でいるためなら、お前、どこまで出来る?」

口の端を上げて嗤っている生意気ゴリラに、毅然とした態度で答える。

「何だってするさ」

熱い粘膜に口元を丸っと覆われるのを感じて、「何でもは言い過ぎたな」と早速後悔した。

 【閑話】

『皆さま、まずはお集まり頂き誠に有難う御座います』

ドラルクは壇上から周囲を見回し、恭しく一礼した。

『さて、この世で起きることのどこまでが偶然でどこまでが必然か、そんなことはどれだけ考えたってわかりはしませんがね。ただ、私とあの若造の関わりの中で偶然というものはひとつだけだったと思うのですよ。それは出会うより遥か昔、私がこのチャーミングな性質を生まれ持ったことです』

そう言ってにこやかな笑顔のままマイクを持つ手が疲れて死んだ。少しの雑音の後、ドラルクは『失礼』と言って話を続ける。

『世間は私たちのことを偶然生まれた関係のように言いますがね、私からすれば彼と過ごした数十年は必然の重ね合わせです。私の素晴らしき虚弱さ故に彼は警戒を解き、彼の持ちうる面白さ故に私は彼の下に留まるに至った。私たちがそれぞれ持っていたものが、当然のように反応し合っただけなのですよ。ただし』

ドラルクはそこでひとつ息をついた。

『私も認めましょう。今日この日、私がここで話す機会を得ているのは偶然の産物であると。たまたま主催者の知人のロナ戦ファンの娘さんが、友人との旅行先で私を見かけ、急遽、ほんの一昨日、私がこのスピーチをすることが決まったのです。これはもう偶然の重ね合わせでしょうとも。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、私は今放浪画家の青年と旅を共にしていましてね。秘境から秘境へと移動していたため連絡の手段もろくに無く、日本に帰る予定など露ほども無かったのです』

ドラルクが壇上からちらりと目線をやる。この場に彼を引きずり出した少女が照れ臭そうにはにかんだ。

『この……“ロナルドウォー戦記著者生誕二百年記念セレモニー”に参加出来たこと、素直に嬉しく思います。いやしかし、あの寂しがりの五歳児はどうあっても私に来てほしかったと見える。多種多様の変態と宜しくやっていた男ですからね、運命の神様なんて奴にも暴力で言うことをきかせたのでしょう。それくらい突飛な話でした』

ドラルクは笑い、少し目を伏せた。

『此度の開催、私から心より感謝を申し上げさせて頂きたい。彼との記憶は楽しかったと、思い出させて頂いた。お恥ずかしながら……喪うことは初めてだったものですから、一世紀もかかってしまいました』

会場のあちらこちらから、ドラルクの心情を慮って息を吐く声が聞こえた。ドラルクはまたいつものように笑い、朗々と声を張り上げる。

『そんなわけで、今宵は正真正銘、“皆で”心ゆくまで彼の軌跡を楽しみましょうとも!!』

万雷の拍手を受けるドラルクを見て、ひとりの青年は目を細める。『ロナルドウォー戦記』と書かれた本の表紙に写る男に視線を落とし、ゆったりと笑みを浮かべた。

「お疲れ様、ドラルク」
「ああ疲れたとも、存分に畏怖し労りたまえ」
「いやだよ。でも話は聞いてあげるよ」

セレモニーが終わり、青年とふたりのホテルでドラルクはようやく気を抜いた。青年は ドラルクに優しく声を掛けながら己が腰掛けているベッドを軽く叩いた。ドラルクは首を振る。祖父のトンデモさを遺憾なく発揮した急ごしらえとはいえ、この日のための服のままで寝そべるのは抵抗があるらしい。

「なんだか途中から、不可解そうな顔してた」
「ふうん、絵の具に興奮する変態のくせになかなか鋭いではないか」
「しないよそんなこと。次言ったらドラルクのスラックスのお尻は全部マンドリルとお揃いになるよ」
「ウァーッ嫌すぎる!」

ドラルクは一度死んだあとため息を吐いて復活し、衣擦れの音を立てながらのろのろ着替えはじめた。
青年はじっと視線を留める。

「いや、本当になんでもないのさ。少し……思い出しただけだよ」
「何を?」
「彼が……勿体なくもその生涯を片想いに費やしたことをさ」

ドラルクは懐かしむように目を細める。青年は思わず、「なんだそんなことか」、と呟いた。

「そんなこととはなんだね」
「ごめんね。僕だって彼と同じになるだろうから」
「何だって? それは初耳だが、努力をしたまえよ。君だって顔は一級品だ、無駄に」
「一言余計だよ」

青年は続けて「彼は勿体ないなんて思わなかったと思うよ」と笑った。
ドラルクが首を傾げる。どうして、と問うと、青年は「わかっているだろ」と言う。

「僕だって彼と一緒だ」

青年はふと笑みを消す。

「君が好きだ、ドラルク」

ドラルクの手の中で、上等な生地が皺を作った。


  13

わからない。
視線のやり場も、心の持ちようも。

「ドラルク、好きだ、好き」
「……うん、うん……」
「なあお前も、好きって言って、俺のこと。なあ、俺のこと好きなんだろ」
「うん……好きだよ」

君のそれとは全く違うけどね。
ずっしり筋肉のついた太ももの上に抱え上げられて、あちらこちらを撫でられながらひたすらに甘ったるいやり取りをさせられる。ここ最近の私たちの日課だ。

「もっと言ってくれ、好きだって」
「君が好きだよ、ロナルドくん」

悲しくならないのかな、こんなことをして。
あの日から一ヶ月と二週間と三日。私に対する束縛はほとんど解除出来た。なんと土下座して頼み込まれたので、交友関係の管理だけは緩く続けさせている。必死か。

「俺、お前がいるだけでいい。キスもセックスもいらねえから、お前と一緒にいたい」
「うう~ん」
「お前は俺に幸せになってほしいんだろ。だったらそれじゃだめなのかよ……」
「うう~ん」

正直に言おう。私はもはや自分の目的がわからなくなってきている。
初めは簡単だと思っていた。ロナルドくんが私を好きになるなんて滅多なことではありえないと思っていたし、すぐにいい人が見つかって若造も誰かに惹かれていくものだと思っていた。
だけど現実はもう手遅れで、しかも未来の夢で感じた通り彼の気持ちは何だかクソ重くて、完全に藪をつついたのは私の方。
恋人になれなくても私といることが一番の幸せだと言うのなら、それを叶えてやればいいのでは、という迷いが生まれている。そもそも、「私も君を好きになっちゃった」と甘く微笑んで濃厚なキスでもしてやれば、そのまま若造のしたいように身体を捧げれば、簡単にハッピーエンドには導けるのだ。
私は何がしたいんだっけ、彼を傷つけてまで。

「すきだ」
「ああ、うん、わたしもだよ」

好きだからこそ、誰から見ても明白な幸せを手に入れてほしいと思うのは、私のエゴなのかなあ。
彼と、彼を愛する誰かに、「おめでとう」と言いたいのは間違っているかなあ。

『ドラ公、俺、好きな人できた』
『緊張するけど、告白してくる』
『あの子がいいって言ってくれた! やった‼』
『明日、その、ででででででデート、だから。飯いらない』
『か、かわいいんだ、すげえ好きなんだ、良い子でさ。あの子も俺のこと同じくらい好きだったら、いいなあ』
『その、プロポーズとか、まだ早いかな。重いとか引かれるかな』
『ど、ドラ公!! いいって!! 俺、』
『俺、結婚する。あの子と』
『お前にはまあ、ちょっとくらいは世話になってないこともねえからな。式には呼んでやってもいいぜ。口は上手いし、司会をやらせてやらねえでもねえぜ』

『ドラ公、俺、もう長くねえらしい。まあなんだ、後は頼んだぜ。あいつのこととかよ』

やっぱり無理だ。
ロナルドくんのことを思えばこそ、受け入れることは出来ない。
そりゃ私と一生を共に出来るのは最高の栄誉だし、私はこんなに素晴らしい存在だから若造なんて不釣り合いなくらいだし、もし私が「いいよ」と言ったのなら彼は本当に満足して息を引き取るのだろうけれど。
でもだめだ。吸血鬼と人間だからとか、男同士だからとか、そういうことではないけれど、だめだ。絶対にそれは『違う』。
だって例えば、彼が好きなのが半田くんだったとして、でも半田くんは彼のことを絶対に好きにもならないし答える気もさらさらなかったとして、彼がそれでもいいと言ったから一生あの関係のまま過ごすってなったら。私はきっと納得しない。だってそんなの、何も変わっていない。ただの苦しい片思いじゃないか。それを一緒にいられたら幸せなんて、現実逃避して妥協したに過ぎない。
幸せになってよ、ロナルドくん。
君が本当に愛し愛された相手なら、吸血鬼でも変態でも動物でも魚でも構わないから。
自惚れていて悪かったけど、私じゃ君を幸せには出来ないから。

「ドラ公、すきだ」
「うむ、私だって君が好きだとも」


  14

ロナルドくんはキスが好きだ。
何が楽しいのか、しきりに唇を合わせたがる。そしてそれを私の方からやってもらいたがる。本当に何がそんなに楽しいのかな。空しくならない?

「んん、ッ、ンむ、……ふ、ぁ」

身動きが出来ないほどに強く抱き抱えられながら、彼は私の口内を好き勝手蹂躙する。
随分前に私と彼の粘膜の境目はわからなくなっている。まるで蕩けてくっついたかのようで、ひとつにならないのは息継ぎのために少し離れるその時に、ぬるりと唾液で繋がれながら別れるのみだ。
彼とのキスは、まあ気持ちいい。気持ちいいから嫌だ。感じるのは言うなれば、罪悪感だろう。ロナルドくんとキスをするなんて。恋人のまねごとなんて。自分の中の倫理観が猛抗議をしてくる。だけど仕方ない。これもロナルドくんが望んでいることなのだから。
「本物の恋人みたいにキスすれば、その気になることもあるんじゃないか」なんて、しどろもどろになりながら提案してきたのだ。彼の『アドバイス』は基本受け入れる。そういう約束だ。キスもだんだんと回数が重なってきたし、対価は何にしようかな。

「お前さ、嫌じゃねえの? 俺とキスするの」

ロナルドくんの腕からようやく解放されて、熱も引いたころになってそう聞かれた。むすっとした顔でいるから怒っているのかと思うけれど、これは多分不安を隠してる顔だな。

「まあ、別に……」

別に嫌ではないので、そこは正直に答えてやる。若造はたいそう不思議そうな顔をした。

「何で? 外国育ちだから?」
「外国人をなんだと思っとるんだお前は。……いや、普通に君相手だからだが」
「……でも俺のこと好きじゃねえじゃん」
「恋愛的意味ではね。君だって小さい頃はお兄さんに寝る前のキスを強請ったこともあっただろう」
「いやねえけど、お前もしかして親父さんに強請ってたの?」
「オッケー今の会話は全てなかったことにしよう」
「なあお前」
「うるさい! それよりそろそろ私に対価をよこせ!」

途端に「あ、そうなんだまあ人それぞれだもんな」顔になるバカにイラッと来て、つい地団駄を踏んでしまった。紳士的ではないが私は可愛いので許される。なんだお前は、理解を 示すな! むかつく! このブラコンのことだから絶対あると思ったのに!!
それはさておき、対価を要求したわけだから当然私は彼にひとつ要求が出来る。

「俺は何すりゃいいんだよ」

少し不機嫌になってしまったのは、今まで好き勝手私を束縛していたのがなくなってしまったからだろう。今の関係はほぼ以前と同じになっているので、私は対価と称して彼をもっと突き放すことも出来るわけだ。
例えばそうだなあ……。

「ねえロナルドくん、もしもなんだけど私に他に好きな人が出来たらどうするの?」

これは最近になって考えたことだが、その場合彼は諦めるのだろうか。お人好しだから私の意思を尊重する可能性が高いよなあ。だったら今度は私が相手を探しても……。
と、思っていたのに。

「えっ、普通に許さねえけど」

普通に許さねえけど。

「普通に許さねえけど??」

言われた意味がわからず聞き返す。
ごめん、その場合の『普通』ってゴリラ銀河のウホルド星での『普通』で合っているかな? それなら仕方ない。でもここは天の川銀河の地球なんだよね。
そう言ったら綺麗な跳び蹴りを食らった。

「お前が好きな奴とくっつくのを、なんで俺が黙って見てなきゃなんねえの? お喋りすらまともに出来ると思うなよ」
「えっ? えっ、待てまてこわいこわいこわい。えっ?」
「まあもしもの場合は言えよ。別に相手に危害を加えたりしねえけど、こっちもそれなりの対処ってもんがあるから」
「いや今の聞いて言うわけなくない?」
「は? 何でだよ言えよ」

脳内のヒナイチくんが「ロナルドを暴走させるなよ」とサムズアップしながら言っている。待ってくれヒナイチくん、こんなリスクがあるならもっと強めに警告してくれ。
重いなあとは思っていたけど、これは重いと言うより怖い。それこそ普通に怖い。

「え~……きみ、ええ……」
「お前まだわかってねえな。俺はお前が好きなんだぜ」
「いやそれはさすがにわかったけど……」
「一生片思いするくらい、好きなんだぜ」
「いや、うん……」

その話題私苦手だなあ。
なんて思っていると、冷えた激情が乗った瞳がぴたりと私を見ていることに気付く。

「俺がキスもセックスもいらねえのは、お前が絶対誰にもそれを許さねえからだ。それでいて俺のそばにいるからだ」

ジョン、を探すけれど、彼は若造と私がキスをしている間は何かと理由を付けて席を外している。いない。
というより君、キスはがっつりしているじゃないか。何がいらない、だ。無欲ぶりやがって。

「誰かに許そうとすんのなら、俺は全部欲しがるぞ」

彼が無欲じゃないことなんて、わかっていたはずなのに。

「……で、結局お前の対価ってなに?」

「誰かと適当にデートしてきていい?」なんて言おうとしていた自分をぶん殴りたい。良かった直接言わなくて、本当に良かった。

「最近あんまり外に出れてなかったから、久しぶりにジョンと二人でお散歩したいんだけど……」

ロナルドくんの望む『恋人』を始めてからというもの、ほとんど四六時中私たちは一緒に行動していた。前も割と一緒にいたと思うけど、その比じゃない。一人になるときがほとんどない。

「……二人、てことは俺には来んなってことだよな……」
「私だってたまには一人で息抜きしたいんだ。ジョンと水入らずで過ごせることも最近少ないだろう?」

ロナルドくんは険しい顔でぶつぶつ呟いている。

「ねえ、いいだろ? すぐに帰って来るよ。行き先だって君に報告するからさ」
「……まあ…………」

渋々。本当に渋々、といった様子でロナルドくんは頷いた。
やったあ、と思わず歓声を上げる。

「じゃあ早速明日! 行ってくるね!」
「どこ行くの? 何すんの? 俺がいたら困ることすんの?」
「うるせえ!!」

夜道を愛しい使い魔と二人っきりで歩く。それだけのことにこんなに開放感を感じるなんて。

「いやあ楽しいねえジョン!」
「ヌー!!」
「んふふふ、どこに行こうか? ジョンは行きたいところはあるかい?」
「ヌ~ン……」


いざ自由、となると特に行きたいところが思い当たらない。ロナルドくんの夜食に合わせて帰らなければならないから、当然あまり遠くは行けない。仕方がないので、ジョンとイチャつきながらぶらぶら歩くことにした。
夜の空や並ぶ店の看板、道行く人々に視線を向けながらジョンと笑い合う。

「ガラス張りの店って寒そうだよねえ。中が見えた方がお客さんが来るって本当かな?」
「ヌーン、ヌンヌ ヌンヌリ ヌヌシヌヌヌ ヌイ」
「だよねえ、無意識に引かれるもんなのかね」
「ヌ、ヌヌ ヌイーヌ ヌイシヌー」
「む、私の方が美味しく作れるぞジョン! しかも健康にも気を遣って! 私のを食べなさい! いいね?」
「ヌーイ! ヌン ヌヌヌヌヌヌ ヌーイヌヌ!」
「え~? そんなこと言われてもおやつのクリームは足してあげないぞ、ジョン」
「ヌア!?」
「でもちゅーはしてあげよう! ほれほれ、可愛いおくちだねえ」
「ヌ~♡」

ああ、ここ最近のフラストレーションがガンガン消えていく。端から見れば小動物と戯れるおっさんだが、私ほどキュートなら許されるはずだ。うむ。

「ヌイヌン ヌヌヌヌヌンヌ ヌヌヌヌヌヌ ヌヌリヌヌ ヌヌイヌ」
「え~♡ やきもち妬いてたのジョン、可愛いやつめ!」
「ヌヌヌヌヌヌヌ、ヌンヌ!」
「そうだねえ、私はジョンのものだよ」

そうこうして歩いていると、いつぞやのように退治人ギルドが目に入る。せっかくだから寄って行こうか、と「歓待してくれたまえ!」と言いながら中に押し入る。

「いらっしゃいませドラルクさん。お一人ですか?」
「ええ、ようやく束の間の自由を勝ち取りましてな」

マスターが柔らかな声で出迎えてくれる。ロナルドくん……は、いないか。まあそっちの方が助かるけど。
ショットさんもいない……けど。

「やあやあ腕の人! ご機嫌いかがかね?」
「あ、こんにちは。まあ、いつも通りです」
「腕の人は仕事はないのかね? 暇人?」
「えっ、いや今日はたまたま……いやでもロナルドみたいに人気ってわけでもないですし俺は別に……はい……」

軽々しく聞いたらなんだか面倒なモードに入ってしまった。そんなつもりじゃなかったんだけどなあ。まあいいや、いつものことだしと切り替えて話を始める。

「……かくかくしかじかで、最近ストレス溜まってるんだよね~。まあ今日ジョンとお散歩して結構すっきりしたけど。ロナルドくんの方はよくあれでしんどくならないよね~」
「は、はあ。まあロナルドは俺から見てもドラルクさんのことすごく好きなので、ずっと一緒は嬉しいんじゃないですか?」
「でもさ、彼がずっと私といたがるのは結局束縛したいからだよね? それって不安だからでしょ? ずっと不安がるの、しんどくないかね」
「う~ん……でも、一緒にいる不安より、一緒にいない不安の方が嫌だなあ、俺は」
「不安の元からすっぱり諦めよう! ってならないの?」
「恋愛のことですから、そう簡単にはいきませんよ」

マスターが静かに話に入ってくる。聞いていたのか。腕の人が少しほっとした顔をした。

「ドラルクさんは諦めてしまえるんですか?」

そう言われてしまえば、わからないな。なにしろ一生を捧げるような恋をしたことはないから。ていうか大体の人はないと思う。

「ロナルドくんはどうしてあんなに諦めたくないのかな~」
「それはドラルクさんにも言えることですよ。どうしてそんなに諦めたくないんですか?」

どうしてってそれは、まあ言うなれば。

「ロナルドくんが好きだから」

幸せになって貰いたいから。

「ロナルドさんも同じですよ」

じゃあ絶対わかり合えないな。

おじさん、と。
小さい声でマントの裾を引っ張られた。下を見ると、不安げな顔をした小学生ほどの少女がこちらを見上げている。

「何かね、かわいらしいレディー」
「死んでください」
「泣いていい?」

鈴を転がすような声で言われ、そういえばここは新横浜だったと思い出す。混沌と変態のまち。

「おじさんのすながほしいの」
「私の砂……塵かね」

少女はこくりと頷く。なにやら訳ありそうな顔に、ふむ、とひとまず話を聞くことにした。

「あのね……たけくんが、おじさんのすなを持ってきたら遊んでくれるって言うの」
「たけくん」
「すきなこ……」

ぽぽ、と少女はかわいらしく頬を染めた。なるほどねえ。
小学生のウブな恋路を助けてやりたいのはやまやまだが、生憎とその男はやめておいた方がよさそうだ。

「たけくんは君に私を殺してこいって言ったのかね?」
「うん……みんなやってるから、やらないと仲間にできないって」
「ふむ」

考えるそぶりを見せて、少女を観察する。顔立ちは控えめだが愛嬌がある。自信なさげな眉。もじもじと後ろにやっている手。

「では君に私の塵をやったら、君は何をくれるかね? お嬢さん」
「えっと……これ、もってきた……」

おっと、難癖付けて追い返そうとしたけれどちゃんと対価を用意していたか。
彼女が差し出したのは真っ白なひまわりだった。

「おかあさんが去年の夏からとっといてくれたの……」

去年の夏。そう聞いてみずみずしいままのひまわりを見る。少女に視線を戻すと、その耳が尖っていることに気付いた。

「君、ダンピールか」
「うん……だからたけくんが、おとうさんからわたしとなかよくするなって言われたって」
「ハア?」

ははあなるほど、そういうわけか。彼女はたけくんとやらと遊びたいけれど、たけくんは父親の言いつけを守って彼女を弾いたのだろう。そして私……高等吸血鬼を殺して塵を奪ってくれば仲間に入れてやるぞと、みんな出来るんだからそれくらいやってこいと、そういうわけか。

「失礼だが、そいつのどこがいいのかね?」
「え……えと、いつもわらってはなしてるの……かっこいいの」
「へえ~~?」

まあ『足が速い』とかじゃなくてよかったが、本当にそいつでいいのか。

「申し訳ないが塵はやれないな」
「え、ど、どうして……?」
「まずひとつ。君がそれで彼と遊べるようになったとして、もともとの理由は何も解決していない」

問題は、たけくんの父親が変な言いつけを息子にして、彼がそれに従っていることだ。
家庭の方針や個人の思想にとやかく言うのは避けるが、結局仲間になったところでたけくんの父親がたけくんに「だめ」と言えばだめなのだ。そこからはまた同じようなことの繰り返しである。
そういうことを簡単に教えてやると、少女は泣きそうな顔になって「でも」と食い下がった。

「それからふたつめ。君は私が死んでも大丈夫だからとそれを言っているんだろうが、その考え方はすごく危ない」
「え……? でも、へいきだって……」
「平気だとも! だけれどね」

私は可愛いジョンを彼女の眼前に掲げる。

「彼はアルマジロだ。甲羅がすごく硬いよ」
「ヌン!」
「叩かれても、蹴られてもへっちゃらだ」
「ヌンヌン」

でも、と私は続ける。

「もしもたけくんが『平気だから』といって、今度は彼を蹴ってこいと言ったら、君はそれをするかね?」

少女の顔がさあっと青ざめる。まあボールにしたりしている私が言えたことではないのだが、それはそれ。
小学生の無邪気に付き合ってやるのも吝かではないが、こんな風に使われるのは気分のいいものではない。許容してやるところと諭すところが大事なのだ。赤ちゃんマジロを育て上げた私が言っている。

「……でもわたし……あそんでもらえないの…………」
「よく考えたまえ。遊んでやらないたけくんと君、悪いのはどちらだ? 本当にたけくんと遊ばなきゃいけない? 他の子は遊んでくれないのかね?」
「……わかんない。いつもはなすの、たけくんだけだもん」
「だったら……私が催眠をかけてあげよう」

少女は顔を上げる。私は畏怖練の成果を遺憾なく発揮し、威厳たっぷりに懐に手をやる。そこから取り出すのはクッキーだが。

「フフ……これが何かわかるかね?」
「クッキー!」
「ハハハ! 子供らしい答えだな……これはね、食べればたちまち私の言うことを聞いてしまうクッキーなのだよ」
「嘘つき」
「嘘ちゃうわ!」

途端に汚いものを見る目で見られて、傷心から砂になりながら続ける。

「本当だとも、退治人でも吸対でも、みなこのクッキーの虜……」

嘘は言っていない。特に吸対については。

「ものすごく美味しいのだよ。私の奴隷となるほどにね」
「…………」
「ほら、ひとつあげよう」
「あやしいのでいいです」
「いいから食べてみんしゃい! マジロと半分こだ、どうだ?」
「ヌン、ヌヌヌ~」
「……半分だけなら」
「よし!」

さすがは私のジョン。大活躍である。少女はさくりとクッキーを食べ、驚いたように目を見開く。きらきらと途端に輝く瞳に畏怖欲が満たされる。そうだそうだ、美味しかろう。

「お、おいしい……!」
「ふふん、そうだろうそうだろう!」

ふんぞり返ってしばし悦に入る。が、すぐに当初の目的を思い出した。

「それで。命令だなあ……」

少女がおびえるように身体を強慣らせた。私はできるだけ優しく聞こえるように溢れる畏怖を抑えてやって言った。

「明日、たけくんとその仲間以外の誰かに話しかけなさい」

少女の目が見開き、次いで不安に揺れる。

「ん? ああしまった、半分だけでは効果が足りないかな」

私はクッキーの袋を少女に差し出す。

「では命令を変えよう。家に帰って、さっきの命令を聞こうと思ったらこれを食べなさい。……お母様に怒られない程度でね」

おずおずと彼女は手を伸ばす。はい、と小さな手に置いてやると、不安げな瞳のままで小さく「ありがとうございます」と言った。

「一生畏怖したまえ。私の偉大さを学校で広めても構わんよ」
「もうちょっとかがんでください」
「あっ、はい」

手招きされるままに、彼女と同じ高さまで視線を合わせる。
彼女は持っていたひまわりを、私の頭にさくりと差した。

「あげるやくそくだったから」

照れたように笑う。約束をきちんと守る、非常に良い子だ。

「ありがとう。有り難く受け取ろう」

少女ははにかんで、ぺこりと頭を下げて駆けていった。クッキーの袋を握りしめたまま。

「ううん、さっきの私かっこよすぎでは? ガチ恋待ったなしだねえ、ジョン」
「ヌン!」

ジョンは私の頭に刺さっている白いひまわりを、機嫌良く見上げている。
私もとても気分が良かった。
そろそろ帰ろうか、と言って歩き出す。道行く人々の視線を感じるがまあいいだろう。外す方がジェントル違反だ。
ロナルドくんは私を飾るひまわりを見てどんな顔をするかなあ。面白い顔だといいな。
期待に胸を弾ませて、上機嫌に笑いながら家路に着いた。


  15

踏み潰された白い花が床に散らばっている。
聴覚を支配する荒い呼吸をどこか冷めた気持ちで聞いていた。
ドラルク、と唸るように名前を呼ばれた。答えない。私は怒っているのだ。
少女に貰った暖かいひまわりは、どこもかしこも熱い、私を押し倒す男にむしり取られて踏まれて足の裏で磨り潰された。
なにするんだ、と言ったけれど彼にはなにも聞こえていなかった。ただ白いひまわりが何よりも憎いみたいに、私を怖い顔で予備室まで引きずった。私の頭は壊されてしまったあの花でいっぱい。
ドラルク、とまた名前を呼ばれた。答えない。謝れ。
誰だ、あれをお前にやったのは。殺してやる。嬉しそうに差して帰って来やがって、俺がどんな、どんな気持ちで、許さねえからな、昨日言ったのもう忘れたか。殺してやる、ぶん殴って、絶対許さねえ。
この男があの少女を殺すわけがないので、絶対にどこか誤解があるのだけれど。
お前が悪い。私は悪くない。バカで能無しで私の知らないことで勝手に怒る情緒不安定ゴリラが悪い。私は悪くない。
絶対に返事なんてしてやらない。

「謝れ」
「うるせえ、だまれ」
「謝れ!」
「うるせえな!!」

なんだよ、そんなに大事なのかよ、と泣きの入った声で言う。
それでいて手は私の服を解いていくのだから、浅ましいな。

「俺、俺言ったよな。許さねえって、欲しがるぞって」
「知らん。さっさと謝れ」
「ドラルク」

いつもみたいに口づけられて、謝れとすら言えなくなった。クソが。ヌ、ヌ、と小さくジョンの声が聞こえる。若造には聞こえとらんのか?

「ジョンに、言えよ。心配ないって」
「……」
「いつもの喧嘩だろ、こんなの」

私は覚悟を決めて、「大丈夫だよ」、とジョンに声をかける。心配そうな声が聞こえ、やがて足音が遠ざかっていった。

「言うこと聞けてえらいな」
「謝れ」

そうだ。これは喧嘩だ。勝負なのだ。ならば絶対に負けるものか。屈するものか。許しを請うのはお前だ。
ついにゴリラの手がシャツを開いて、薄い腹を撫でた。
その手の体温と、他人に触られる感覚に少し声が漏れるけれど、口を引き結んで若造を睨み付けた。

「すきだ」
私もだよ、とは返してやらない。

 【閑話】

それにしても、と彼女は切り出した。

「画家だったなんて、知りませんでした。教えてくれてもよかったのに」

吸血鬼の青年はばつが悪そうに頭を掻く。

「不安定な職業だと思われたくなくて……」
「ええ~? うふふ」

初めて足を踏み入れた隣の部屋。そこかしこに画材が散らばって、家具には所々絵の具が付いてしまっている。ごちゃごちゃした部屋でそこだけ開けた場所に置かれたキャンバスと、積み上がるスケッチブック。

「あ、あの、いつもはもっと片付いてますから。最近スランプだったので、その、余裕がなかっただけで……ほ、ほんとなんです!」

部屋をじろじろと見回す彼女になにを思ったのか、必死で弁明してくるのがかわいらしく思えて笑ってしまう。書く文字やゴミ出しのときのきっちり結ばれた袋、規則的な時間帯に遭遇することや普段の会話から、本来の彼は神経質で几帳面だということはうかがえる。だからこそ画家というイメージはあまりなかったのだ。
彼女は取り乱す彼をなだめてやって、恋した男の手に指を絡めた。
ぎくりと硬直した身体が、だんだんと力が抜けて安心したように彼女にもたれかかる。それを受け止めて、彼女は多幸感に浸った。
それにしてもよかった、あの人に依頼をして。彼女は思う。
なんだか変わった二人だったけれど、彼女の望んだ結果は手に入った。背中を押してくれて感謝している。
だけど、と彼女はあの日を思い出す。
青年が画家だと知った瞬間、あの退治人は顔色を変えた。唐突に相棒の吸血鬼を会話から排除して、真に迫った口調で青年に詰め寄った。
画家というのは本当か、何を描く画家なのか、人に売るようなことは多くあるのか。
青年はたいそう怯えたものだが、彼が抽象画しか描かないと知った瞬間退治人はがくりと脱力した。そうですか、と感情の抜け落ちた声で言った。
退治人はその後もいくつか青年に尋ねていたが、やがて安堵したような顔をして「すみません、俺の思い違いでした」と人好きのする笑顔で話を元に戻した。
あれは何だったのかな、と彼女は今でも不思議に思う。
白いひまわりがあることを、彼女はあの日退治人の言葉から知った。


  16

若造が私に働こうとした狼藉は、まあ当然ではあるが失敗した。奴は童貞であるし、私はこの体質だし。
何度試しても挿入までいかなくて、結局日が昇って時間切れ。若造は「くそっ」と小さく呟いただけだった。私は無視を決め込んだ。

「あー…………その、ジョンから聞いた」

そのまま棺桶に逃げ込んで昼を明かした間に私の最高の使い魔からお叱りを受けたらしい。蓋を持ち上げるとすぐ横に青ざめたゴリラが正座をしていた。

「……悪かった」
「その通りだ愚か者。救いようのない馬鹿。嫉妬に駆られて理性を失った猿」
「…………」

言い返す言葉がないようにうなだれる若造を見て、少しだけ胸がすっとした。

「全く、いたいけな少女から私への畏怖の象徴をああも無残に壊せるものか?」
「……すまん」

心底反省しているらしく、俯いたまま顔を上げようとすらしない。実際は彼はあれが少女からの贈り物だと知らなかったのだが、そこを酌量してやる気はない。話を聞かなかったのが悪い。

「でも、ごめん。俺もうだめだ」

彼は声を震わせてそう言ったかと思うと、上体を倒し、頭を抱えたまま床に伏してしまった。異様な行動で心臓が不安に痛む。

「もうだめだ。怖いんだ、俺は耐えられねえ。頭がおかしくなりそうだ、ずっと、ずっと苦しいんだ。俺にはどうにも出来ねえんだよ、だって、だって」

何かうじうじ悩んでいるのかと思ったが、どうも言っていることが要領を得ない。彼は何の話をしているのだろう?

「おまえは俺が死んだら俺のことなんて思い出にして、別の誰かと……あの男と……」

声だけでなく身体までがくがく震えだした。どうした君、大丈夫か。
さすがに心配になって手を伸ばすが、すごい勢いでそれを掴まれてあっけなく塵となった。片手で私の塵を圧縮するかのように握りしめたまま、彼は何やら呟き続けている。
心配そうな顔をしたジョンが、ロナルドくん越しに私を見る。私は首を傾げて、何が起こったかわからない、と示した。ジョンもわからない、という風に首を振る。

「どうしたんだロナルドくん。怖いって、何が?」
「おまえ、おまえはどうせ俺のことなんかどうも思っちゃいねえんだ。死んだら死んだで過去に出来るんだ。俺が、俺がどれだけ諦めたかったか知らねえんだろ。俺が死んでから百十二年と五ヶ月と三日、どれだけ俺が……俺が何回……」
「ロナルドくん? なに、何の話?」
「未来の話だよ」

彼が唐突に顔を上げ、怯えでぎらついた目を私に向けた。
未来の話、なんて言われて思い出すのは当然、全ての元凶たるあの吸血鬼。
そう考えて、そうだ、とはっとする。
今まで考えもしなかったけれど、あの吸血鬼は能力を使ったのは私だけだとは一言も言わなかった。私が過剰反応したから話題がそちらに流れただけで、当然奴はロナルドくんにも能力を使ったはずだ。
ロナルドくんはどんな夢を見たんだろう?

「おまえ…………壇上のお前を見て、あいつは笑ったんだよ。俺のためのパーティーで、表紙の俺を見て。なんでかわかるか?」

ロナルドくんは片手に握りしめたままだった私の手の塵を私に対して投げつける。目に入る恐怖で死ぬ。
耐えきれないというように、彼は悲痛な叫びを上げた。

「お前はもうあいつのもんだったからだ! 俺は既に死んでて、お前は俺を思い出にした。 もう俺にはどうすることも出来ねえんだ。あいつは生きてお前と存在している以上、触れることも話すこともいつかは許されるかもしれねえんだ。だけど俺は無理だ、だって死んでるんだからな!」
「君は何を言っている? 本当に何を言っているんだ?」
「なあ、ドラルク」

彼は救いを求める子供みたいな顔をして、私の棺桶の淵に縋った。
あれ、なんだか彼の棺を閉める前の私みたいだなあ、なんて馬鹿げたことを思った。

「どうにかならないのか」

それだけ言って、彼はしゃくり上げて泣き出した。どう考えてもいかれてしまっている彼の行動に正直私はドン引きしていたけれど、その理由がなんとなくわかってしまうだけに何も言えなかった。
私のせいかなあ、これ。
ジョンを見ると心配そうに私を見上げている。

「どうにもならないよ…………」

そう言えたらよかったな。

「私がなんとかしてやろう」

口から出たのはまたしてもそんな無責任な言葉。
だからそれじゃだめなんだって。彼を受け入れる気がないのなら、気を持たせるようなことしちゃだめなんだって。ちゃんと突き放して、時間はかかるだろうけど傷を癒やして、そうしてやっと彼は次の恋を探せるんだって。私が中途半端なくせに意地を張っているから、彼はこんなに苦しむことになったんだって。
絵を、と彼は言った。
絵を、描くんだ。誰かが。白いひまわりとお前の絵を。俺が死んで百年もする頃、それを見てひとりの男が恋をする。もう誰にもどうにも出来ない、恋だ。

「怖い」

ぼたぼたと彼の涙がフローリングに落ちる音が聞こえるような、聞こえないような。

「俺はその男が怖くてたまらなかった」

だから俺、お前が嫌がってんの知ってたけど、お前が関わる奴全員切りたかったし、外にだって出したくなかったし、思いつく限り頑張ったのに。

「お前があのひまわりを持って帰って来たとき、もう絶対どうにもならねえんだと思って、何も考えられなくなった」

棺桶を握りしめる彼の指先が白くなっている。痛くないのかな。

「探してきて欲しい」

顔を上げないまま彼は言う。

「お前が何かしてくれるって言うんなら、今日一日街に出て、『白いひまわりとお前の絵』を描く奴が一人でも見つかったなら、おれ、は」

お前を諦めるから。
全く諦める気のなさそうな苦い顔で、確かに彼はそう言った。

「でも、今日見つからなかったら、そのときは、俺に恋してほしい」

出来んと言っとろうが。なんとかするとは言ったが何でもするとは言っとらんぞ。

「よかろう」

そんなこと言うつもりなかったのに、ああもう全く嫌になる。自分がこんなに健気だなんて知りたくなかったな。
冷静に考えればこれはかなり不利な話だ。ロナルドくんにとって。
私は道で露店を開いているそこらの画家でも捕まえて、リクエストをして素知らぬ顔で「いたよ」と言えばいい。画家が見つからなければ詰みだが、まあこの変態のサラダボウル新横浜ならば性癖に糸目を付けなければ見つかるだろう。この前の依頼人の隣人、彼も画家だったなそういえば。
というか、画家を見つける必要すらないのか。適当に外に出てぶらついて、「いたよ」と言えばいい。絵は持って帰ってこなかった、なんてね。

「行ってくるよ」

どうしようかな、と思いながらシンヨコの街をぶらつく。
公園のベンチでスケッチブックに何かを描いている青年がいたので、するりと近寄って「ねえ」と声をかける。

「君の絵が欲しいな。このクッキーをあげるから、適当にでも何か描いてくれるかね?」

青年は戸惑ったようだったが、いいですよと笑って鉛筆を動かす。
三十分ほどで、鉛筆の濃淡を上手く使った海底の絵が出来上がる。白黒なのに幻想的な絵は、三十分で描いたとは思えない出来だった。

「ありがとう、素晴らしいよ」

クッキーを彼に渡して絵を懐に入れてその場を去る。
方針は決まった。
それらしい人物を見つけると手当たり次第声をかける。当然断られる場合もあるがそれはそれでいい。手持ちのドラドラスイーツがなくなるか、夜明けが近付けば終わり。
彼らが描いたのは実に様々だった。星空の絵、朝日の絵、私の似顔絵、ジョンの絵、ヴリンスホテルの絵、ジョンの絵、街路の絵、裸婦画、ジョンの絵、有名な絵画のオマージュ。そのまま引き取ってもらえるものは引き取ってもらい、描いてくれたお礼を渡して次へ行った。

「見つかるかねえ、ジョン」
「ヌー」

見つからなかったら、見つかったら、どうしよう? まだ何も考えていない。
これはチャンスだ。
彼を突き放す、最後のチャンスだ。

とある通りの道端、座り込んで絵を売っていたおじさんにカップケーキを手渡す。

「望みのもんは描けたかい?」
「ええ」

お菓子はこれで最後。
肩に乗っているジョンがヌーと鳴いた。
受け取ったのは棺で眠る私の絵。やあ、まるでこれから焼かれるみたい。そんな不謹慎極まりないことを思った。

「ありがとうございます」

どうしようかな。
おじさんに手を振って事務所の方へ足を向ける。
さあ、どうする?ロナルドくんは今、どんな気持ちで私を待っているのかな。

「ねえ! そこの吸血鬼さん、私の絵を見て行ってよ」

頭上から声が降ってくる。通りに面したビルの二階の窓から、女性が乗り出して手を降っていた。
どうするの、とジョンが言う。

「レディーに恥はかかせられないよねえ」

笑みを返して、ビルの無機質な階段を昇った。

ただいまあ、と事務所の扉を開くや否やメビヤツに手荒い歓迎を食らって死んだ。
まあ待てまだ抹殺を決めるには早いって、と殺意マシマシの門番をなんとかくぐり抜ける。
胸に抱いたジョンがヌーと鳴く。

「やあロナルドくん」
「……………………ああ」
「反応遅っ。中継かね?」
「…………」

軽口にも反応なし。生命力が全て抜け落ちて苦痛だけを糧に生きているみたいな、極限状態のロナルドくんにはそんな余裕はないらしい。
結果を促すのも恐ろしそうな若造に親切な私は後ろ手に持つそれを掲げてやる。
趣味でビルにアトリエを構える女性に見せられた、真っ暗闇で白いひまわりの花束を抱く私の絵。私がちょうど胸に抱えられるくらいの小さめのキャンバス。

「昨日私が可愛い姿で街を歩いていたから徹夜で描いたんだって。自分で持っときたいから百万とか言われたけど、千円にして貰ったんだよ。すごいでしょ」

そのときの彼の顔を、表現する言葉を私は持たない。

「……安っ」

それだけ言って、彼は俯いた。
感謝したまえよ、なんでだよ。私はずいとその絵を彼の方へ近付けた。

「この絵を君にあげるよ」

彼は心底私が憎いみたいな顔をした。
くる、と思った次の瞬間、彼の拳が帆布を破って私の身体を貫いた。
あはは、と笑うとさらに拳を振り上げる。

「君があんなに恐れた絵は、君の手で今ごみに変わったわけだけど」

彼が動きと共に呼吸を止めた。
ジョンがヌーと鳴く。

「君、どうしようか。だって私これを君にあげたわけだから、君の好きにしていいよ」

彼は怯えるような顔をした。期待をしたい、だけど恐ろしい。そんなところかな。

「そんなことより約束だからね、私は君に恋はしないよ。君は私への恋を諦めてくれたまえ」

は、は、と彼の浅い呼吸が聞こえる。
私は間違っているかなあ。
「さあ!」と大仰に手を広げて笑う。

「これで我々の関係は以前と同じ、ただの同居人、コンビに戻ったわけだ」
「……戻れるもんかよ、ハゲ」

若造はこの期に及んで抵抗するつもりらしい。

「そう! それについては私も同意見だ」
「はあ?」
「元通りになるのは無理がある。だけど困ったなあ、私は君と恋人にはなれないし、君が不幸になるのもあとで祟られそうだし、君との遠慮のない関係が変わるのも嫌だし、あっもっと私を畏怖して下僕らしい態度になるのなら話は別だけど」
「死ね」
「話の途中で殺すな! ここから出て行きたくもないし、ずっと君と一緒にいたいし」
「オッ…………」
「君が普通に結婚する未来も捨て難い。だからねえ、これからの君と私の関係について」

私は人差し指で彼の唇をなぞって、とびきり可愛い笑みを作ってやった。
お父様にさすがにいたずらを怒られそうになったとき用の、全部可愛さでごまかしてしまうための笑顔。

「愛人ってことでどう? 私は君に恋はしないけど、キスもその先もさせてあげよう。ただし君は好きな人が出来たらいつでも私を捨ててその子に一途になってくれなきゃ嫌だよ」
「あッ、あいじん?」
「そう。『恋人じゃないけど恋人みたいな関係』、これ以上に適切な言葉ある?」
「い、いやでも、お前……」
「私は君を『愛』してるよ。晴れて『恋』をやめた君が『愛』をすれば、私たちは『相思相愛』だねえ?」
「エッ、え? そう? そう……なのか?」
「ぐぶ……壺買わされそうになっとる」
「キンデメさんシャラップ!」

「確かに……」の顔をし始めた若造をこのまま逃がしてやるものか。

「『愛』し合う二人が『愛人』になる、実に自然なことではないかね?」
「た、確かに……?」

言いおった。しめたとばかりに私は押し切る。

「ロナルドくん、私と『愛人』になってくれる?」
「エアッ、しょ、しょうがねえなあ!」
「ちょろくて助かる~!」
「あ?」
「いやなんでもないよほらちゅーしよ、ちゅー」
「えっ、んふ、欲しがるじゃねえか……」

むかつく面をセロリでひっぱたきたい衝動を抑えて、私よりいくらか肉厚な唇にキスをしてやった。途端にでれでれになるのが死ぬほど面白い。

「ロナルドくん」
「……なんだよ」
「幸せにはなれそうかい」
「…………まあ複雑な気持ちはあるけど、今すげえ幸せ。もっかいちゅーしていい?」
「よかろう!」

よかった。じゃあ私はこれでいいや。
いつかロナルドくんが他の人に恋をすればいいな。その人と添い遂げられればもっといい。「好きな人が出来た」って聞ければいいな。「おめでとう」と言えればいい。
最後に彼の棺に薔薇を入れるのが、その人ならいいな。

  17


 【閑話】

子供の頃、祖母が描いたという絵を見た。暗闇の中の吸血鬼と、真っ白なひまわり。その横顔を皆は悲しげだと言ったけれど、自分はそう思わなかった。
愛おしげに伏せられた目がたまらなく美しいと思った。
月日が経って、画家になった。無人の事務所に引きこもっている吸血鬼に会いに行って、通いつめて外に連れ出した。そうして事務所を拠点とさせたまま、世界中を共に飛び回った。夢のようだった。吸血鬼の昔馴染み(といっても百年程度らしい)には「あの退治人の霊に呪われるぞ」なんて言われたけれど、気にも留めなかった。
霊なんて、くだらない。彼はもう死んだのだ。吸血鬼がどうしてようが、自分が吸血鬼をどうしようが、彼はもう知るよしもないのだ。どれだけ彼が吸血鬼を愛していたとしても、伝えないまま死んでしまっては死人に口無し。何が出来る?
旅の道中吸血鬼に触れようとしたり、良い感じになりそうなときには不自然なくらい邪魔が入って、本当に呪いでは、と思うこともあったけれど。
だけどもう、いいだろう。吸血鬼の中で自分はかけがえのない存在になったはずだ。彼を超えたとは言わないけれど、それに近しい地位を得たと思う。
告白をした。彼のことを引き合いに出して、吸血鬼が彼を大事に思っていたと知っているから利用した。せめて、せめて彼のようにはさせたくないと思ってくれれば万々歳だった。
…………だと、思ったんだけどなあ。

「すまないね。君の気持ちには応えられないよ」

引き留める隙すら見せないで、ドラルクは僕の元から去って行った。
どうしてだろう? いけると思ったんだけどなあ。
どうしてかなあ。嫌だなあ。小さい頃からずっと、ずっと好きだったのに。嫌だなあ。
どうにかならないかなあ。


好きな人が出来ちゃった、と私が言うと、彼はすぐさま棺桶を床に溶接する手配をした。君って一度切れるとノンストップだよね。ブレーキを導入してほしい。
『愛人』になってから早二十年ほど、五十代になっても現役なロナルドくんにグズグズに蕩かされて「出て行きません、今後その人と関わりません」という誓約書に、突き上げられながらぐちゃぐちゃのサインをさせられて、ようやく落ち着いたのが今。

「お前が好きな奴出来たとか言うからだぞ。で、誰?」
「え~? さっきの誓約書見なよ。私君とは関わらないことになってるんで」
「あ? なんで……」

長く伸びた私の髪をもてあそんでいた彼は、意味がわかったのか大きく動揺して髪を強く引っ張った。「痛い!」と声を上げて死ぬ。

「ど、な、なん、は? え? なん、なんで?」
「つーん。関わりませ~ん」
「も、もういい! 破棄でいいから、これ!」

彼が慌てて誓約書をびりびりに破いたので、私はまだ服を着ていない筋肉の塊にぴったりと張り付いて多幸感に酔いしれる。

「お、お前、俺と恋人にはならないんじゃなかったのかよ! それに俺に恋はしないって、」
「恋人にならないとは言ったけど夫婦にならないとは言ってませ~ん。しかも君がずっと私を諦めてなかったの、知らないとでも?」
「ふ、ふうふ」
「いや?」
「嫌じゃねえ!!」

運動部顔負けの大声を至近距離で聞いてさすがに死んだ。

「俺には諦めろって言ったくせに……」
「それなんだけど、別に私はもう一回恋しちゃだめなんて一言も言ってないよ? あーあ、ロナルドくんてばすぐ諦めちゃって、その程度なのかなあ」
「そう思うか?」
「いや全く思わんが」

よし、と頷く若(くはないけど)造。
調子の良いこと言いやがって、と思っているのはわかるけれどね。
だけどよく考えてみてよ、私だよ?
やりたいことだけしていたいの。

「でも、ロナルドくんもうすぐ死んじゃうんだよね。転化か使い魔になるなら結婚してあげるよ」
「お前それ言える立場だと思ってる?」
「まあ割と」
「その通りだよボケ!! どっちか相談して決めさせてもらっていいですか!!」
「許そう」
「普通にむかつく死ね!!」

この上ない栄誉を与えてやっている私に対してこの仕打ち、はあーやだやだ。

「お前マジで口が減らね……エッなに、どうした?」
「何が?」
「何で泣いてんの?」
「何でもないし」

もう真っ白な棺に薔薇を入れたり、焼けるまでの時間を待ったり、箸を使って骨を砕いたりしなくていいんだなあって思っただけ。
棺に縋りついて、もう一度動かす方法を必死で考えたりしなくていいんだなあって思っただけ。
だってあれだけはどうにも出来ないんだもの。


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コメント

  • elizabethsan
    01:02
  • ebineco
    1日前
  • るる

    2日前
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