ぷよぷよ生みの親、売上高70億円の絶頂からわずか一年で「ぷよ」のように会社はじけ人生一転…「ぷよの縁」再びゲーム開発の世界に
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人件費の増加は、資金繰りの急速な悪化を招く。97年12月、ボーナスの支払いが滞った。「何とか運転資金を貸してほしい」。有力な取引先だったセガ(東京)の首脳に電話で泣きつくと、「仲間なので支えます」と伝えられた。
その後、セガからは「ぷよぷよの権利と引き換えなら10億円出します。権利は買い戻せます」との条件が出される。「急場をしのげればいい」と深く考えず、98年2月、知的財産権の譲渡を決めた。手にした資金の大半は、社員へのボーナス払いで消えた。
2億円の手形の決済期限が目前に迫っていた。前年に山一証券が経営破綻するなど日本は未曽有の金融危機にあり、新たな借金は難しかった。
「先行投資を急ぎすぎてしまった」。1か月後、広島市で記者会見に臨み、声を振り絞った。会社は約75億円の負債を抱えて倒産し、再建に向けて和議を申請した。
倒産の理由はいくつかある。本業のゲーム開発で「ぷよぷよ」に続くヒットを生み出せなかった。経理は社員任せで、決裁書類はきちんと中身を確認せずに判を押した。社内に大所帯を束ねる力量や経験のある人材はおらず、会社の成長戦略もなおざりだった。「東京と違い、地方では情報も限られる。井の中のかわずだった」
株式上場に備えて蓄えた数億円の自己資金は和議ではき出し、手元には数百万円だけが残った。会社は再建に失敗し、2002年12月に解散する。不思議と悔しさはなかった。「おいしいステーキを食べた後、『ああ、なくなっちゃった』と思うのと同じだった」。創業から20年。人生は52歳で振り出しに戻った。
還暦超えて再起、新作発売にSNSで「お帰り」
生活は激変した。首都圏のアパートを転々としながら、夜の工事現場で警備員をしたり、専門学校でゲーム理論の講師をしたりして、食いつないだ。親から仕送りも受けた。ゲーム開発からは足が遠のいた。
転機は12年に訪れる。専門学校の上層部と衝突し、講師を辞めた。「落ちゲーをもっと進化させたい」。そんな思いから再びゲーム開発の世界に戻った。
新たな挑戦を助けてくれたのも、やはり「ぷよぷよ」だった。「あの仁井谷です」。企画を見てもらおうと任天堂に電話すると、担当者が東京まで足を運んでくれた。開発費500万円の借り入れを申し込んだ金融機関の担当課長は、試作品をプレーして言った。「昔ぷよぷよで遊んでいました。ぜひともこれを世に出したい」
16年11月、任天堂の携帯ゲーム機用に「にょきにょき たびだち編」を発売した。「ぷよぷよ」を進化させ、実力差があっても対等に戦いやすくした。ダウンロード販売限定で約1万本を売り上げた。
「お帰りなさい」「面白かったです」。SNSに喜びの声が続々と届いた。幼い字で書かれた手紙には千円札が入っていた。「もっとお金を出しても惜しくないというメッセージだと思った。久しぶりに心が震えた」
コンパイル創業期から一緒に仕事をしていたゲームクリエイターの藤島聡さん(56)=写真=は一度関係を断った。支払いの遅延や不払いが頻発したためだが、倒産後に修復した。「いいかげんだが、本気では憎めない。この人ならまた面白いことをしでかすんじゃないかと思わせてくれる」と期待する。
今は千葉県内にある家賃5万円のアパートに住む。オンラインで囲碁の対局をしたり、趣味のギターを奏でたりしながら、次回作の構想を練る。
コンピューターゲームで対戦する「eスポーツ」が五輪競技になる日が待ち遠しい。「自分の作品で世界一になった選手に、自分の手で金メダルをかけたい」。その夢がかなう日は来るだろうか。
林尭志(はやし・たかし)記者 2012年入社。西部社会部を経て、今年5月から東京科学部。小学生の時にスーパーファミコン版の「ぷよぷよ」で遊んだ。取材を機に実家の押し入れから探し出してプレーしたところ、6連鎖が限界だった。36歳。