ぷよぷよ生みの親、売上高70億円の絶頂からわずか一年で「ぷよ」のように会社はじけ人生一転…「ぷよの縁」再びゲーム開発の世界に
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累計で1000万本を売り上げたシリーズは、テトリスに次ぐ「二匹目のどじょう」をつかむ。「高橋名人」として知られるゲームプレゼンターの高橋利幸さん(64)=写真=は言う。「人間は本能的に柔らかいものに親しみを持つ。『ゲームは男の子のもの』という考えを取り払い、女性もとりこにしたのが、画期的だった」
人気は過熱する。広島県大野町(現・廿日市市)で94年12月、キャラクターをかたどったまんじゅう「ぷよまん」を売り出すと、約300人が列を作った。自身も宣伝活動の前面に立ち、キャラクターのコスプレでテレビやイベントに登場した。「広島のビル・ゲイツ」。米マイクロソフトの創業者に例え、そう自称することもあった。
自宅の一室、社員は自分1人でのスタート
広島県三原市出身。数学が得意で科学者になってノーベル賞を取るのが夢だった。68年に広島大理学部に入学したものの、学生運動にのめり込み、7年間在籍した大学を除籍される。地元の広島電鉄に入社後も、成田空港の反対闘争に参加した。
会社を辞めざるを得なくなり、28歳で実家に戻った。両親は「働け」とは言わない。「何か欲しいものはないか」。ある日、父親から尋ねられた。「アップル2」と答えた。
米アップルが発売した当時最新のマイクロ・コンピューター。周辺機器も含め約50万円もしたが、理由も聞かずに買ってくれた。「『息子にやり直してほしい』との思いだったのだろうが、『遊び道具を手に入れてラッキー』としか思わなかった」
その出会いが、人生を変える。専門誌を見ながら、2か月かけてボウリングゲームを作った。「頭をフル回転させ、思い通りに操作できるようプログラムを組む快感を初めて知った」
誰かの下で働くのは性に合わない。82年4月、「コンパイル」を創業する。本社は広島市の自宅マンションの一室。一大ブームを巻き起こす任天堂のファミリーコンピュータが登場する1年前だった。
社員は自分1人。広島市の家電量販店で知り合った仲間に協力してもらい、ゲーム開発に没頭した。完成度にこだわり、納期はいつも遅れた。発注元から完成するまでホテルに缶詰めにされたことも一度や二度ではない。
姿勢は変えなかった。納期を守るのではなく、遅れても怒られない会社を選んで仕事を請け負った。ヒット作に恵まれなくても意に介さない。「失敗の積み重ねの上にヒットは生まれる」と信じた。
1000億円売り上げ、テーマパーク…新たな「野望」
92年以降に各種のゲーム機で発売した「ぷよぷよ」の改良版は、会社の売上高を右肩上がりに伸ばした。すると、「売り上げ1000億円」という新たな「野望」が生まれる。その柱が「ぷよぷよランド」の建設だった。
「ゲームの世界観に没入できるテーマパークを作りたい」。東京ディズニーランドをライバルに見立て、ドーム型の建物内にジェットコースターを走らせる計画を立てた。500億~1000億円と見積もった事業費は、株式上場で捻出するつもりだった。97年3月期からの1年間に130人を新たに雇い、社員を420人に増やした。