これはうちの叔父にも当てはまる話。
叔父は70年初頭、自分の意に反し朝鮮大学から北朝鮮に送られた。
日本にいると送られた側の苦労話は多いが、、北朝鮮の国民はどう受け止めて受け入れていたのかと言う部分は正直謎なのだ。
この原稿は叔父を思い北朝鮮でどんな風に帰国者が思われていたのかが気になった私の願いを叶えてくれた一つの証言。
脱北者の苦労話や評論家の情報整理記事は多いが、、、w
こう言う内から見た帰国事業での在日の立場を話してくれる人は少ない。
ちなみにこの内容は朝鮮総連幹部の家族の場合である。
地方に送られた者たちはもっと酷い扱いだっただろう。
『北朝鮮に人質にとられた朝鮮総連幹部の子供たちの運命』
先月の28日、北朝鮮は、日本の朝鮮総連第25回全体大会に、金正恩(キム・ジョンウン)名義の書簡を送った。
書簡とはいっているが、実際の内容は、北朝鮮独裁者からの教示といっても差し支えない。
なぜなら、朝鮮総連の中央部、各都道府県の総連組織、そして総連の同胞たちが、この書簡を丹念に覚え、内容に沿った各種学習を強要することになるだろうからだ。
さらには、書簡で提示された課題によって、同胞たちの思想を検証し、彼らの忠誠心を評価することにもなる。
実は、北朝鮮国内よりも、朝鮮総連の方が、厳しい規律と忠誠心のなかで生きているという話を、私は、北朝鮮にいるときに聞いたことがある。
今回の書簡で、金正恩は、現時点での総連の基本任務は、各界各層の同砲たちの心をひとつにまとめ、在日朝鮮人運動の新しい全盛期、総連復興の新時代を、より一層力強く築くよう、叱咤激励した。
同じように金正恩は、総連は、愛国愛族精神に燃える多くの同砲たちの絶え間ない力を、唯一無二の原動力として、総連復興の新しい時代を、勝利的に切り開いていかなければならないとも力説した。
私は、金正恩の書簡を読み、今や世界が、これまでのどんなときよりも、個人の幸福と理想の現実化を目指しているにもかかわらず、現在に至るまで北朝鮮住民に強要している、もっとも過酷で息の詰まる、全体主義的な奴隷人生を、在日同胞にまで押しつけるのかと、怒りを抑えることができない。
そしてなぜ、朝鮮総連の同胞たちは、地球村(世界)でもっとも発展した、自由で豊かな資本主義国家で人生を営みながら、精神と魂を、完全に北朝鮮に献納して生きなければならないのか?
朝鮮総連の同胞が、現在でも、このような北朝鮮の使いっぱしりになって生きている理由は、いったい何なのか。
気がかりなこと、この上ない。
金正恩が朝鮮総連に送った書簡に私が怒る理由は、45年間の北朝鮮生活で、数多くの在日帰国者たちと深く知り合い、彼らのつらい人生や胸中などをよく分かっているからだ。
私の知る限りでは、北朝鮮や朝鮮総連の宣伝文句とはまったく異なり、在日同胞帰国者は、北朝鮮に到着した初日から、異質な存在、すなわち「資本主義の水を飲んだ、信じることのできない異端児」として扱われた。
出身成分も、主体思想はうわべだけの階層とみなされる動揺階層に分類され、また、言動によって問題を起こした者や、過去の動向が明らかでない帰国者などは、敵対階層に規定された。
あからさまな差別と監視が常につきまとい、社会的な進出には、多くの制約が伴う身分である。結局、在日帰国者は、他の人々より、いくら熱心に仕事をし、忠誠心を誇示しても、下級技能職公務員以上の職に就くことはできないのだ。
そこで、これから、在日帰国同胞が、北朝鮮でどんな人生を強要されたのか、その詳細を語ろうと思う。
私が、咸鏡南道咸興で中学3年になった1974年頃、私たちのクラスに、朝鮮総連幹部の子供だと紹介された、なんともエキゾチックな級友が3人、入学してきた。
年齢は同じぐらいなのに、背丈が頭ひとつほど高く、血色もよく、体つきもがっちりとした、まるで年上の青年のように見えた彼らに、私たちは圧倒された。
彼らの制服は、良い生地で仕立てた特注品で、放課後と体育の時間に着ていたジャージ服と帽子は、すべて日本製であった。
誰もが初めて見るファンションだったため、全校生徒とすべての先生の注目を浴びた。私たちのクラスだけでなく、学校全体で、総勢9人の朝鮮総連からの帰国子女が、ある日一斉に転校してきたのだった。
彼らは、咸興駅舎の前にある「総連帰国子女寮」と呼ばれる高級マンションで、集団生活をしながら、近隣の中学校に転入したのだ。
寮には、料理人、洗濯人、マンション管理員、診療所医師が常駐し、彼らの便宜を図っていた。
そして、平壌から派遣された朝鮮海外同胞迎接所の幹部が、総連幹部の子供たちの学習と生活を指導していた。
初めは、あまりにもぶっ飛んだ容貌とファッションと、それに下手な朝鮮語のために、同い年とはいえ話が合わなかったのだが、一緒に勉強するうちに、そのひとりと、本当の親友同士になった。
学年も上がり、私たちは勉強だけでなく、社会に対する見解や希望、未来に対する夢など、いろいろな話をした。
世の中の幸せは、誰もが享受して生きるものと思ったが、彼の心に大きな傷があることを知って、とても驚いた。
彼は、日本にいる両親と兄弟を、本当に恋しがった。彼の父親は、朝鮮総連の主要幹部だったので、北朝鮮に忠誠を誓うために、愛する息子を北朝鮮に、人質として送らなければならなかったのだ。
だが、彼が、父親を理解することはなかった。核心幹部が、朝鮮総連を裏切らないように、子供たちを一名ずつ、北朝鮮に人質として送り出さねばならなかった、そんな両親たちの胸中、とくに母親の心は、どれほどつらかったことだろうか?
それなら、彼らが北朝鮮に来て、約束どおり、特別な民族幹部になったのだろうか? そんなことはない。
その友人は、咸興で医学大学を卒業し、歯医者になった。
歯医者になったのなら上手くいったと思うかもしれないが、北朝鮮における医師の立場は、技能職公務員に過ぎない。
党幹部ではない。
帰国者たちは、決して幹部にはなれない。
おとなになって、何度か彼に会う機会があったが、彼は強要された北朝鮮の生活、そして家族との生き別れのトラウマが大きく、とうてい幸せではなかった。
私たちの学校に転入した9人の朝鮮総連帰国子女のほとんどが、友人と同じように、日本の家族に対する限りない望郷の念にかられながら、ただただ年老いていった。
13歳になるかならないかという幼い年齢で、血縁関係もなく、たったひとりで北朝鮮に連れてこられ、祖国繁栄に尽くす大きな柱になるという希望を抱いていた彼らは、現在も、毎日毎日食べ物の心配をしなければならないような暮らしの中で、北朝鮮住民からは“チェッポ”と蔑視され、つらい思いをしているのだ。
そんな帰国者の苦労を見てみぬふりをしてきた朝鮮総連、韓国で知り合った在日4世の話では2022年の現在も日本の朝鮮大学(朝鮮総連)からは年に数人の留学生を送っていると言う。
朝鮮総連の幹部と同胞たちが、必死の思いで追従してきた北朝鮮だが、その本性は、これまで述べてきたとおりである。
第二次世界大戦終了後から77年間、在日同胞のことをつかんで離さず、彼らの人生と魂までも搾取してきた、そんな北朝鮮が、在日同胞3世4世の時代にも、金正恩の朝鮮総連を夢ていることが、どれほど腹立たしいことか。
在日同胞には、しっかりと分かってほしいと願うばかりだ。
金 興光(キム・フンガン)
北朝鮮の平壌金策工業総合大学電子工学卒業後、咸興共産大学で博士号を取得。2003年に韓国へ脱北し、2006年には韓国政府内の統一部北朝鮮離脱住民後援会課長を経て現在、(社)NK知識人連帯の代表を務めながら韓国内で対北専門家としてTV、新聞、YouTubeなどで活躍中。
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