第9998話 精神修養(限定公開)
自宅から数時間をかけて、ガルダは目的地に辿り着いた。
二十年以上前に製造された、星の名前を冠する排気量250ccのバイクは普段乗り回す分には問題ないが、田舎道を長時間走り続けるのには向いていないかも知れない。
車体の左側面にある鍵穴に手を伸ばし、エンジンを落とす。
ド、ド、という単気筒エンジンの音が静まり、周囲から蝉の音が押し寄せてくる。
「暑っつ……」
真夏にバイクなんか乗るものじゃない。ガルダはそうぼやいてヘルメットを脱いだ。
汗で塗れた髪をグシャグシャに掻くと、アスファルトの照り返しに顔を顰める。
駐車場にはいかにもといった車両が十数台停めてあり、遠くでエンジンの唸りが響いていた。
目の前には大きな平地の中でグネグネと曲がる舗装路が走っている。
郊外に設置されたオートレース用のクローズド・ロード。つまりサーキットだ。
なぜ、こんな所に来たのかといえば、格闘技興行への参加の難しさ故である。
アマチュアの試合で当然の様に連勝を重ね、プロやセミプロの混ざった大会でも優勝を攫うカルコーマは、格闘技雑誌の隅に載る程度には注目を集め始めた。
しかし、一口にプロといってもピンからキリまであるように、ベルトや試合でも価値が異なる。
名前を売り、報酬を得る為には当然、価値の大きな大会に出たいのだが格式の高い大会ほど、中学生のカルコーマが正門から出場するのが難しい。まして、階級的に国内の試合を組むのがそもそも難しいスーパーヘビーだ。
さらに言えば、カルコーマが強すぎるのも問題で、これは興行主と選手を抱えるプロモーターやトレーナーが逃げて回るのである。
結局、カルコーマのシングルマッチなどはここのところ、まったく成立しておらず、そうなると、ワンデー・トーナメントの様な半分お祭り的な大会を荒しながら、次の試合を模索していくしかない。
ガルダが次に定めた格闘技イベントに向け、築いた人脈はやや乱暴な、言い換えれば善良な一般市民と半グレのさらに中間くらいに位置するような胡散臭い実業家だった。
もともと、徒党を組んで悪事を働いていたというその男は、各種の違法行為から足を洗った後に手広く商売をやっており、また親しい仲間内に格闘技興行を営んでいる連中を複数抱えているのだった。
しかし、その手の人間に繋がるとき、こちらがビジネスパートナーとしての付き合いを求めても、相手は配下への参入を暗に強いてくる。
ガルダは頭が切れるし、カルコーマは腕が立つ。その上、十数人からなる不良グループを手足にしているのだから、涎が出るほど美味く見えるらしい。
ガルダとしては美味そうな匂いは存分に嗅がせつつ、その上で歯牙には引っかからない絶妙な距離を保っていた。
そういった付き合いの中、実業家を含め十人ほどで食事をしていた時のことだ。
その男が、昔取った杵柄でバイクの話をし始めた。
曰く、時速300キロを遙かに超えるモンスターマシンを所有している。しかし、草レースに出しても有能なライダーがおらず勝てないので、君たち乗ってみないかと。
これに対し、一心不乱に食事を平らげていたカルコーマが反応し、一度乗ってみようという事態に発展したのだ。
そうして、この炎天下に至る。
駐車場にバイクを停めると、ガルダは人の気配がある方に歩いて行った。
すると、自転車置き場の様な屋根があり、その影の下に十数人が屯している。
サーキットの中には複数台のバイクが走っており、専用の衣装とフルフェイスのヘルメットでどれがカルコーマやら解らない。
なんて思ったのは一瞬で、一人だけ明らかに他のライダーよりデカい男がいた。間違いない。カルコーマである。
ガルダは日陰に入ると、目でカルコーマを追う。
プロ野球の剛速球より倍も速いという、よく考えればワケの解らない速度でカルコーマは路面を駆け抜けていく。更に言えば、何故あれで転ばないのかという様な角度を付けて地面に顔を近づける。
「や、ガルダ君」
背後から声を掛けられ、振り返ると上機嫌なバイクオーナーがいた。
「彼、速いよ。普段、どんなのに乗ってるの?」
サングラス越しの目が楽しそうに歪んでいる。
しかし、ガルダの知る限りカルコーマはバイクなんて持っていない。
ただ、ガルダのバイクを乗せてくれとせがむので操作法を教えてやったことがある。
しかし、狭い地下駐車場で速度も出せず、また明らかに体格に合わないガルダのバイクに対してつまらないと吐き捨て、それ以来カルコーマはバイクに乗っていない筈だ。
それはそれで、愛車を小馬鹿にされたガルダは怒り狂ったのであるが、ともあれ、高排気量の大出力を誇る大型車で、カルコーマは飛ぶように走っていく。
基本的な操作は一緒だが、古い中型車でしかないガルダのバイクとは姿勢から心構えまで何もかも違うはずである。
ガルダは男に対して、適当に言葉を濁す。
「それより、アイツは無口だからここまで何時間も、隣に乗せてくるのは大変だったでしょう」
男の二人乗りスポーツカーは、ムッとした表情のカルコーマと二人、気まずい雰囲気が充満したのではあるまいか。目的のある往路はともかく、帰りまでカルコーマを送らせると男との関係にヒビが入るかも知れない。それでガルダはワザワザカルコーマを迎えに来たのだった。
「いや。カルコーマ君は俺の車に乗ってないよ?」
男はヘラヘラと笑いバイクを見つめている。
「しかし、本当に凄い走りだ……」
その視線は吸い寄せられるようにカルコーマへ固定され、逸らせないでいる様だった。
新しいファンがカルコーマの雄姿を堪能しているのなら、邪魔をするのも悪い。
ガルダは男から離れ、置かれたパイプ椅子を一つ取った。
と、再び声が飛ぶ。
「あれ、ガルダ君じゃん」
今度は女性。それも少しだけ知った顔だった。
三十前後だろうかという細身の女は、少し前からカルコーマを囲む女たちの一人だ。
詳しくは知らないが、現在六人ほどいるカルコーマ・ガールズの中でも一番年嵩なのでは無かろうかとガルダは思っていた。
「ああ、姉さんがアイツを乗せてきたのね」
ガルダと食事をした後、この女が車で迎えに来たことを思い出す。
「そうそう。昨日、頼まれてさ」
女は簡単に言うが、今日の集合時間は朝八時とかだった。であれば、日も昇らない早朝に出発してきたのだろう。
「へえ、じゃあ今朝早くにアイツを迎えに行ったんだ。ご苦労さん」
ガルダの言葉に女はキョトンとした表情を浮かべる。
「ああ、違うよ。昨日から一緒にいたの。で、朝起きてから一緒に来たの」
ああそうですか。
ガルダはため息を吐く。
カルコーマは暴力的なまでの生命力を携えて生きており、その発露は食欲や運動能力で収まらず、性欲にも至る。
もっとも、前世ではノラに対する献身でそれほど派手なものではなかったが、力を支える対象が不在の現在はいつだって激しく女を求めている。
「ポリさんに捕まっても知らないよ」
あんな外見でも未成年には違いない。しかし、ガルダの言葉に女は苦笑を浮かべた。
「さて、なんのことかな。まあ、なにがあっても私は彼から離れられないけどね」
クレバーなカルコーマのことだ。自分の本当の年齢など、女側には知らなかったで通すように含めてあるのだろう。女も悪戯っぽく答えた。
「そんなこと言わずにさ、普通の彼氏か結婚相手でも探したら。アイツ、多分お姉さんが思ってるよりロクデナシだぜ」
そもそも、本質的にカルコーマはこの女を愛してなどいない。その胸を堂々と占有し続けるのは前世で仕えていたノラなのだ。
おそらく、それはずっと変わらない。そう思っているから同類のガルダもカルコーマと一緒にいるのである。
しかし、欲望自体を発散する事に全く悪びれない点もガルダと同種であり、これは一種の同族嫌悪的な視線がガルダにはあった。
「愛されてなくても、幸せっていうことはあるものよ。ガルダ君」
女は笑い、ガルダは黙り込む。
カルコーマは、恐らく人類としてギリギリのラインを出力全開で走り続けていた。
※
「あれ、旦那じゃねえか」
バイクを降りたカルコーマがヘルメットを片手に歩いて来た。
顔面も長い黒髪も、水から上がってきたかのように汗に塗れている。
「なにしに来たんだよ、こんなトコロまで?」
女が差し出した椅子と飲み物を当たり前の顔で受取り、どっしりと座る。
「オマエを迎えに来たんだよ。ワザワザこんなところまで!」
「旦那のあのオンボロに、二人乗りなんて冗談じゃねえ。俺は車で帰るからいいよ」
そうでしょうね、とガルダは小さくぼやく。
「そんなことより、楽しかったか?」
熱い中、何時間もグルグルと走り回っていたのだ。よほど楽しかったのだろう。
しかし、カルコーマは首を振る。
「精神修養みたいなモンだよ。滝行と同じだ。心は少し修まったかな」
なんの事は無い。この怪人は時速三百キロオーバーのバイクを精神統一の手段として乗っていたのだ。その果てに、精神を磨いたのだという。
しかし、カルコーマはさっさと着替えてシャワーを浴びると、女の横に立って腰に手を回した。
「じゃ、肉でも食って帰るか。旦那、飯代をくれよ」
と笑いながら手を差し出すので、ガルダは財布から紙幣を数枚取り出してカルコーマに手渡す。
「シケてんな。まあ、いいか。旦那は二輪だから、熱中症に気を付けてゆっくり帰んなよ。下手したら転ぶぞ」
それだけ言い残すと、カルコーマは女を抱いて、件の実業家にも挨拶ひとつせずに立ち去ってしまった。
そのどこに『修まった心』があるものか。遠ざかる車を見つめながらガルダは首を傾げるのだった。
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