瀬島龍三の謎 |國民會館 読み込まれました

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武藤会長の金言

Chairman Muto’s Maxim

2019/02/26  金言(第79号)

瀬島龍三の謎

■はじめに

元大日本帝国陸軍大本営参謀、終戦後はシベリア抑留、そして帰国後は、伊藤忠商事の中枢に君臨して会長にまで登りつめ、退任後は、第二臨調(臨時行政調査会)の事実上の指導者として政財界に重きをなした瀬島龍三ほど、謎に満ちた人物はいない。私は昔からこの人物に興味を持っていた。

今回この金言で久し振りの「人物論」に彼を取り上げるのは、この瀬島が鐘紡を倒産に追い込んだ、元凶伊藤淳二を旧日本航空の副会長を経て会長に送り込んだ裏にはこの瀬島がいると思うからである。伊藤は、取引先である伊藤忠商事の元社長で、中興の祖と云われる越後正一氏と親しい関係にあった。労使関係がうまくいかなかった旧日本航空に労使協調路線を標榜して、一見円滑に会社を運営し労務問題の専門家といわれていた伊藤を越後氏は、当時伊藤忠の要職にあって中曽根首相とパイプの太かった瀬島を通じて日本航空に推薦したのではないかと私は思っている。伊藤は、老人殺しと云われる程財界の長老に食い込むのがうまく、越後さんや当時は三井銀行の小山五郎頭取などにも可愛がられていた。

■第一章「終戦までの経歴」

第1節「軍のエリート官僚の道を歩む」

さて、瀬島龍三は富山県の現在小矢部市(旧西砺波郡松沢村)に1911年12月に生まれるが、幼い時から秀才の誉れが高く県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て1932年陸軍士官学校を次席で卒業、さらに1938年陸軍大学校を首席で卒業し、関東軍第四師団の参謀を経て、1940年には大本営陸軍部作戦課に配属される。この間関東軍参謀時代には、対ソ連戦の示威演習である関東軍特殊演習(関特演)の作戦担当として作戦の立案に係る。そして1941年には、同上第一課の作戦班長補佐となり、同年12月8日に太平洋戦争が開戦すると以後45年7月に関東軍参謀として満州に転出するまで陸軍の主要な南方作戦を軍事参謀として指導したのであった。
(主要な作戦・・開戦初期のマレー作戦、フィリピン作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦(特攻作戦)、対ソ防衛戦など)

この間1944年にはクーリエ(一種の公認の軍事スパイ)としても、モスクワに2週間出張している。この事が後にソ連側からスパイとして追及される。
1945年7月に竹田宮恒徳中佐の後を受け関東軍作戦参謀となるが、同年8月15日の日本の降伏後の8月19日にソ連軍との停戦交渉にのぞむ。

第2節「参謀時代の汚点」

話は前後するが、1944年10月12日から16日に行われた台湾沖航空戦は、日本が米軍のフィリピン上陸を阻止すべく準備していた中、米海軍機動部隊は突然台湾の航空基地を攻撃したため、これを迎撃した日本軍との間で熾烈な戦いが繰り広げられたのであった。アメリカ軍の損害は軽微なものであったにもかかわらず、日本軍は大戦果と発表したため、比島防衛がおろそかになっていたところに、意表をついて米軍は、フィリピン本島ではなくレイテ島へ来襲したため容易に上陸を許したのであった。この大戦果が誤報である事を再三大本営に連絡した堀栄三参謀の電報をあろう事か握りつぶしたのが瀬島である事は、本人自身が明らかにしている。この行動により、瀬島は「小才子で大局の明を欠く」と批判されている。彼の握りつぶしにより、どれだけ多くの将兵の血が流されたかは事実が証明しているが、彼の参謀時代の大きな汚点であろう。

第3節「ソ連との停戦交渉における密約疑惑」

さて話は元に戻し、彼は8月19日のジャリコウヴォで極東ソビエト赤軍総司令官ヴァシレフスキー元帥他2名の元帥、将軍と関東軍参謀長秦彦三郎中将及び通訳の宮川舟夫と3名で交渉に当たった。その停戦交渉の内容の詳細について、おそらく停戦交渉は交渉とは名ばかりの一方的なソ連側からの命令に終始したのではないかと想像出来るのであるが、その後シベリアに抑留され、厳寒と粗食、そして強制的な重労働にあえいだ日本人は約57万5千人といわれ、内約5万9千人がシベリアの土となった。これはポツダム宣言に違反するものであったが、このような事実のもとになった停戦交渉の詳細を、一切瀬島は明らかにしていない。実際に抑留された人の中からはこの交渉の中で、捕虜を人的な賠償として差し出すという密約が取り行われたという疑いは十分にあると言い切っている者が多数いる。歴史の証人として瀬島には、その責任が十分あったにもかかわらず、重ねて言うが その詳細は一切つまびらかにしていない。

■第二章「シベリア抑留時代」

第1節「極東軍事裁判ではソ連側証人として証言」

その後、瀬島はシベリアに11年間抑留されることになる。この11年間瀬島は、将校としては労働義務がないにもかかわらず、強制労働に従事させられたといわれているが、後に述べるように彼の言動には疑われる節が多い。この間、彼は連合国側から極東軍事裁判にソ連側証人として出廷する事を命じられる。

1946年9月17日、関東軍鉄道司令官草場辰巳中将と総参謀副長松村知勝少将と共に、ウラジオストクから空路証人として市ケ谷に送られる。草場中将は、東京裁判における法廷での証言を潔よしとせず、東京へ連行された3日後の1946年9月23日服毒自殺をとげた。彼は、ソ連側の検事証人という旧帝国陸軍軍人として屈辱的な役割を受け入れさせられた時から自殺を決意していた節がある。その日記には、自殺に至る心境が綿々と綴られてれていたようである。何故自殺を選択しなければならなかったかについては、証人訊問調書で、彼は日本陸軍が対「ソ」戦準備を実行して戦争計画を持っていたと証言し、これは、日本陸軍内部で計画されていた戦争準備案が即実行に移される「対ソ侵略計画」であるというソ連の告発理由を、十分に裏付けるものであった。他の二人、松村、瀬島の自筆の供述書もワシントンのナショナルレコードセンターに残されており、草場と同様あるいはそれ以上に饒舌に参謀本部内の対ソ連計画をソ連側に告白したものと思われる。特に瀬島は、大本営参謀として知り得た作戦計画及びその細部を語っている。又松村も作戦計画が生み出された背景を詳細に語っている。ソ連側としてはこの二人の証言を組み合わせれば「対ソ侵略計画」が裏付けられると判断したのではないか。ソ連の検事団は、日本陸軍は対ソ侵略を計画していたと告発していた。そしてその証拠として次のような瀬島の供述書を読み上げる。「昭和17年度に於いて参謀本部の計画は攻撃計画であり、作戦は急襲的に開始する予定でありました」即ちソ連はこの「攻撃計画」を「対ソ侵略計画」とみなしていたのである。瀬島は、この「攻撃計画」は単なるペーパー上の年度計画であり、「対ソ侵略計画」には当たらないのではないかという弁護人側の反対訊問を否定してしまう。具体的には「昭和16年、17年の計画は攻撃計画であり、昭和19年、20年の計画は守勢計画であった」と供述してしまう。これは、16年、17年には攻撃計画が存在していたことを意味してしまうのである。

もう一つ瀬島の供述で重大な点がある。すなわち「参謀本部の作戦計画に関東軍は関係を持たず、参謀総長が天皇に会って裁可を頂き、これを関東軍司令官に伝達し、これに基づき関東軍司令官は自己の作戦計画を立案する」と証言、さらに「関東軍司令官に与えられているものは大元帥陛下の命令であります」この証言から導き出されるものは、関東軍の攻撃作戦計画も天皇の裁可を得ている以上、天皇の責任ということになる。この事はあらためて天皇の戦争責任にふれる重大な意味を持っている。

瀬島を賛美する著作の中で天皇の責任には一切ふれなかったとか、かつての上官を守るために論を展開したとか云っているが、実際には上記の通り「攻撃作戦計画」の存在や天皇の戦争責任を間接的ながら証明したものであった。

極東軍事裁判に出廷した3人の内草場中将は自殺し、松村少将は昭和31年に帰国し、その後ソ連問題研究家として生き、その間「関東軍参謀副長の手記」を公刊するが、その中でソ連側の証人になったいきさつには一切ふれていない。家族にも収容所の生活について何一つ話していない。一方瀬島は、抑留中の詳細な事実には一切口をとざしている。そして抑留から帰国後、商社経営の中枢として、また臨調の重鎮として活躍し、他の2人の証人との落差は余りにも大きい。瀬島は、東京裁判へ出廷した事実を大本営の2000日」の中でわずかに語っている。それによると「最初は何で突然連れて来られたのかわからなかった。羽田から丸の内の三菱のビルに連れて来られた。そして2~3日してから東京裁判の証人として連れてこられたことがわかった。証人台に立ったのはたしか9月18日であった」と云っている。全てうそである。同じく証人として連れてこられた草場中将は、詳細な日記を残しており、それによると「最初はなんで突然連れて来られたのか全然わからないんです」という話は事実に反している。日記によると、東京に来る1ヶ月半以上前に瀬島は他の3人(草場、松村、樺太庁長官大津)と一緒にソ連軍将校と食事をとりながら、東京裁判に証人として出廷することについて話し合っているからである。また「証人台に立ったのは9月18日」も事実に反している。正確には10月18日である。

第2節「主人公を極端に美化している小説「不毛地帯」」

昭和史研究の第一人者である保阪正康氏の推理によると10月18日を9月18日としたのはある文学作品、すなわち昭和48年から53年迄「サンデー毎日」に5年間にわたり連載され、後にベストセラーになった山崎豊子氏の「不毛地帯」の主人公、元大本営参謀「壹岐正」が9月18日に東京裁判のソ連側証人として立ったことになっており、それが頭にあったのではないかということである。「不毛地帯」はあくまで小説であるが、大日本帝国陸軍参謀の主人公がシベリアで辛酸をなめ、11年間抑留の後帰国、総合商社に入り、以後最初は民間の仕事になじまなかったが戦闘機の輸入に関する仕事に携わり、旧陸軍のコネクションなども生かしその輸入に成功して異例の出世をとげる。その後日米の自動車会社の提携や中東における石油堀削プロジェクトにも成功するが、最後に社長と対立して会社を辞め、シベリア現地で死んだ日本人の墓参と遺骨の収集に向かうのである。主人公壹岐正のモデルが瀬島龍三である事は間違いないが、先にも述べたようにあくまでこれは小説である。付言すると瀬島龍三も利根川首相(中曽根康弘)のブレーンとして登場する。しかし、山崎豊子の書く小説では他にも旧日本航空において会社側と対立した労働組合委員長小倉完太郎氏をモデルとした恩地元と、伊藤淳二をモデルとした会長国見正行を主人公とした小説「沈まぬ太陽」があるが、両書共に共通するのは極端に主人公を美化しているのである。これは文学作品であるからいたしかたないであろう。瀬島にインタビューした保阪氏によれば、瀬島自身も証人として東京に来た時、家族に会わせるとのソ連側の申し入れを絶ったとしているが、実際には家族に面会しており、彼は法廷で証言した後1カ月近く東京に滞在していたのに、保阪氏には「わずか1週間ほどしか東京にいなかった」と語っておりその期間は「不毛地帯」に述べられている期間と一致している。

第3節「シベリア抑留時代の謎」

裁判後シベリアに連れ戻され1950年の後半迄抑留生活を強いられた。その間の詳細について彼は明らかにしていなかった。彼が公式にシベリア収容所の体験を公にしだしたのは第二臨調委員に就任してからである。しかし、その内容も全く一つのパターンが繰り返されていたに過ぎない。その内容は「昭和21年自分は大本営参謀であったというかどにより、即決で重労働25年の刑を云い渡された。そして翌日から重労働に服した。そして昭和31年日本に帰るまで11年間労働に服した。伐採や石炭堀、シベリア鉄道の貨車の荷下ろしもした。その他土工作業も経験し、およそ重労働のほとんどを体験した。しかしあの厳寒の地で重労働では25年は生きられないと思い、手に職を付けた方がよいということで左官屋に弟子入りして左官屋すなわち壁塗りである。そして帰国するまでこの仕事を続けた」彼はいろいろな席で語っているが今述べた全てがワンパターンである。

一方「明日の命がどうなるのかわからない。毎日おなかペコペコで労働はきつく恐らく人間の「生活」ではなく人間の「生存」という11年間でありました」このようにシベリア収容所で人間の極限を見、これを機に人生観が変わったという。その人生観が変わったということを彼は著書「大本営の2000日」の中で、「自分は陸軍のエリート生活の中で階級がすなわち人間の価値だと信じていたが、シベリアの生活から階級とは単に一つの組織を維持する手段に過ぎない。人間の価値とは全く別のものである事に気がついた」とも述べている。以上が瀬島が語るシベリア体験であるが、瀬島には十分に語っていないことが多々あるのである。というのは瀬島がシベリアにおいてその所在がはっきりとしていた場所は1946年7月6日から翌47年1月中旬までハバロフスクの収容所から「夏の家」という別荘に移され、東京裁判の証人として東京に連行された6ヶ月間、そして1945年4月から1951年8月の帰国まで戦犯として収容されていたハバロフスクの第二十一分所で生活した期間だけなのである。その他の年月はどの収容所でどのように過ごしていたのか明確になっていない。1947年末から1950年4月まで瀬島は、モスクワ近郊にあった第7006捕虜収容所に大本営情報参謀朝枝繁春少佐と関東軍情報主任参謀志位正二少佐、元大本営戦争指導班内閣嘱託の種村佐孝少佐と共に収容されていたと見られている。朝枝、志位はその経歴からみて、25年の刑を宣告されてもおかしくないのに1950年、1949年に帰国している。その後1954年に発覚したソ連の対日スパイの元締ラストボロフ事件にからみ、帰国していた志位、朝枝の両名が、自分等はラストポロフに協力していたと警視庁に自首したのであった。前記の第7006収容所は日本へ帰国した後民主化運動、共産主義運動のリーダーとなるべく機密要員を訓練する学校でラストボロフはその教員の一人であり、ここには11名の日本人が収容されていたとされ、その内氏名が明らかになっているのが種村、志位、朝枝、瀬島であったという説があるが確認されてはいない。しかしいずれにしても瀬島にはスパイではないかというグレーな部分が付きまとっている事は確かである。

元警察官僚で浅間山荘事件を指揮した佐々淳行氏は一貫して瀬島スパイ説を主張している。実はかつて國民會館で佐々さんに講演していただいた事があった。講演後の雑談の中で瀬島はスパイかと思い切って聞いてみた。答えは直接的ではなかったが、私は肯定と受け取った思い出がある。瀬島の体質は東条英機、服部卓四郎、辻政信と全く同質の陸軍官僚の典型といってよい。

■第三章「シベリアから帰国した後の経歴」

第1節「華々しく昇進していった伊藤忠商事時代」

彼が興安丸でシベリアから帰国したのは1956年8月18日であった。帰国後彼は1958年1月伊藤忠商事に入社する。伊藤忠は、大阪から出たいわゆる五綿といわれる繊維専門商社の一つであったが、社風はねばり強く質の高い人材をそろえていた。彼は1等から5等まである社員資格の内、4等社員として入社したのであるが、この地位は高卒女子社員と同様の扱いであった。一方仕事も特別なものが与えられたわけではなく、一日中日比谷の図書館に通い古い新聞などを読み、自己に足らぬところを埋めることに費やしていたようである。瀬島が入社した昭和30年代にはまだまだ旧軍人に対する風当たりはきつかった。瀬島に陽があたり出したのは1960年10月に越後正一氏が社長に就任してからであった。越後氏は伊藤忠兵衛氏子飼いの典型的な近江商人で、その才覚は抜きん出たものがあった。越後氏は、この一繊維商社であった伊藤忠を大手総合商社にまでのしあげた功労者であった。越後氏が社長に就任した当時、同社は94%を繊維に依存しており残りの6%は染料であった。越後氏は伊藤忠の業務の内容を鉄鋼、木材、化学品などに拡大していくのである。越後は、旧陸軍参謀本部で参謀であった瀬島の事を聞きつけ、軍人であったからには軍人時代のコネクションを持っているのではないかと考え、彼に軍用機の営業をやらせてはどうかと考える。当初は越後といういわば参謀本部長に仕える参謀という役割であったが、彼は持前の才覚で事を進めたため社内には反瀬島の空気が生まれた事もあった。しかし総合商社への脱皮を目指す越後は瀬島を巧みに使い、社内もその方向に動かざるを得なかったから瀬島の役割には重みがつき、その後、彼は異様なほどのスピード昇進をはたしていった。すなわち1960年7月には航空機部長、翌年10月には業務部長、1962年4月業務本部長、5月には取締役となり、1963年常務取締役、1968年5月専務取締役、1972年5月副社長、1977年に副会長、そして1982年6月に会長に昇進している。1986年には会長を退き相談役、1992年7月に特別顧問となった。

この華々しく昇進した時期は越後の悲願であった防衛庁への米国戦闘機の売り込み商戦において、伊藤忠が勝利を収めた時期に符合している。繊維商社に過ぎなかった当社が当時500億円という大規模な航空機商戦に勝利したことをきっかけに、当社は総合商社へと大きく変貌していくのである。然しその中味については注釈がいる。瀬島が入社する前年、1957年6月に政府は国防会議において旧来のF-86F戦闘機に替わり、新戦闘機のライセンス生産を行うことを決定した。そして紆余曲折の結果、他の有力機を押さえて伊藤忠のかつぐグラマンのF-11Fに決定したのであった。伊藤忠は、自民党の党人脈(河野一郎など)に食い込み勝利をものにしたのであったが、決定後ロッキードが猛然と反撃に出て1958年9月にこの決定を白紙に戻してしまう。結果として伊藤忠の政治工作に手抜かりがあったといわれている。そして1959年11月に正式にロッキードF-104Cのライセンス生産が決定する。

越後は、グラマンがロッキードにひっくり返された後社長に就任したのであったが、瀬島を重要視したのは今後の商戦に当たり、旧日本陸軍の人脈を活用するという意図を持っていたからである。このため瀬島は1960年4月に航空機次長になるとその3ヶ月後部長となったのであった。そして翌年7月政府は国防会議を開き二次防を決定したのであったが、その目玉となったのは「自動防空警戒システム」バッジシステムといわれるもので、これは日本の防空設備、施設をコンピューター化するという大規模な防衛設備で、総額500億円になるものであった。この商戦にはヒューズ、GE、リットンの3社が名乗りをあげ、いろいろ問題はあったが最後にヒューズ社をかついだ伊藤忠が商戦を勝ち抜き、前回の戦闘機商戦の雪辱をはたしたのであった。

伊藤忠に業務部ができたのは1958年であったが、瀬島は翌10月に3代目の部長に就任し翌年業務本部長となる。当時の伊藤忠はタテ割りの組織であった。例えば繊維部門の中で方針が決まると、そこでプロジェクトチームが出来、営業もその範囲の中で行っていく。鉄鋼部門も同じやり方であった。瀬島はタテ割りの組織に反感を持っており全社的に業務を統合出来るスタッフが必要と考えていた。すなわちこの業務本部を頭脳集団として、営業はその方針のもとで働くということである。これは大本営の作戦参謀が個の派遣軍に命令を下すという方式そのものである。その後新しいプロジェクトはすべて業務本部が中心となりとり行われるようになり、まさに業務本部は社内の中枢部門となっていき、瀬島機関と称されるようになり若手のあこがれの部署となるが、それが又別に社内の軋轢の種ともなる。

第2節「伊藤忠商事での活動における評価」

それでは瀬島の伊藤忠における功罪をどう評価するかであるが、先ず功の方ではバッジシステムでの成功、さらに瀬島自ら自慢するGMといすゞの提携をまとめた事、プリマハムを世界最大の食肉メーカー、オスカーマイヤーと提携させた事、洗剤メーカーP&Gと日本サンホームの提携に成功した事、一方罪の方では土地問題や東亜石油の問題は根が深く、伊藤忠の経営を長年にわたって苦しめたのであった。又安宅産業との合併についても瀬島は反対であった。瀬島の活動についてのマスコミの評価は「可もなく不可もない」という見方と「失格」という厳しい考え方をする向きも多くある。

私はダイワボウという繊維の会社に勤めていたので、ある時期伊藤忠さんには毎日のようにお邪魔していた。それだけに知人も多かったが、概して繊維部門の社員の瀬島に対する態度には冷たいものがある。私が携わっていた当時毛糸部門の課長で、その後副社長に迄行かれた方に瀬島氏の事を聞くと、「自分とは世代の違いもあり直接話した事は少なかったが、一度こういう事があった。東南アジアの確かタイで現地との合弁で生産工場を立ち上げるという案件で、自分がその担当であったので瀬島氏の所に案件の説明に行った事がある。瀬島氏は前々から繊維部門には冷たかったが、その時も今更タイに繊維工場をつくってどうするのかと頭から否定的であったのでやむを得ずそのプロジェクトを進める事が出来なかった。後日その案件は競争会社の丸紅が取り上げ大変な成功をおさめたと聞いている」

もう一つ、中高時代の友人で後に海外有名メーカーとの合弁会社の社長を歴任した彼はこう云っている。「瀬島氏は1958年小菅社長時代に入社し、越後社長(60~74年)時に業務本部長(その後取締役、副社長、副会長、会長)となってから伊藤忠全体を見る立場になった。「儲けること」が最優先で、伊藤忠の屋台骨を背負う気概だけは強い繊維部門からは実に煙たい存在で、その後の戸崎社長時代には繊維部門は瀬島氏からとことんいじめられたと聞く。当時の繊維部門の中堅上層部にとって良い思いは全くないはずである。表面的には78年の会長退任で伊藤忠における表舞台を去るが、その後政財界に影響力を発揮、実際は2000年の特別顧問を退任するまで伊藤忠には隠然として影響力を持っていた(いわゆる「瀬島機関」などと云われるKGB的なものが社内にあったと聞く)」と話してくれた。

第3節「第二臨調を私物化」

さて、実権のない会長となって彼は1978年頃から財界活動をするようになった。(日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭など)そして1981年当時まだ会長であった瀬島のもとに、当時の首相鈴木善幸から「今度出来る第二次臨時行政調査会の委員を引き受けてほしい」という依頼があった。一度は断るが、日本商工会議所会頭の永野重雄から再度口説かれる。さらに会長に擬せられていた土光敏夫に呼ばれ「今度の行政改革は国家民族の将来にとって絶対にやらなければならないことである」と委員就任を要請され、委員就任を引き受ける。一方当時行政管理庁の長官であった中曽根康弘も働きかけたと云われている。

第二臨調の発足にあたって、土光が鈴木や中曽根に要求したのは「増税なき財政再建、3K(国鉄、コメ、健康保険)の赤字解消、地方行政改革の断行、答申の完全実施」でこれが受け入れられなければ第二臨調をつくる意味はないと言い切った。

調査会のトップを司る委員は9人であった。土光を会長にして会長代理が日経新聞顧問の円城寺次郎、委員は日本赤十字社社長の林敬三、旭化成社長の宮崎輝、伊藤忠会長後に相談役の瀬島龍三、国際基督教大学教授の辻清明、東京証券取引所理事長の谷村裕、同盟副会長の金杉秀信、総評副議長の丸山康雄の8人であった。この委員会の下に専門委員21人、参与(発言力を持つ)55人、顧問が5人、総計90人という大組織である。当然9人の委員で構成する委員会が総理大臣に答申する基本方向を決定するはずで、決めた方向に従って問題ごとに専門部会に検討を委ねることになっていたが、最上位の位置にある9人の委員は現役で活躍している人がほとんどで、実際の業務を仕切るのは事務局中心となってしまい、これは伊藤忠の会長をはなれ、相談役となった瀬島の独壇場ということになってしまったのである。彼は実際に9人で構成する委員会を骨抜きにしてしまった。そして瀬島と多分中曽根に近い専門委員あるいは9人の委員の内の何人かで組織を動かしていった。それにはあく迄実現可能な範囲で実行していくという線引きをして動かすようにしたのであった。これが俗にいわれた裏臨調の姿であった。すなわちこの裏臨調を仕切ったのが瀬島だったのである。中曽根はこの瀬島の「実現可能な範囲の答申」とは自己の意に沿った答申が出されるものと考え、瀬島の動きを歓迎した。1981年(昭和56年)7月に第一次答申を出したがその内容は「行財政需要の惰性的な膨張を思い切って抑制するために行政の制度、施策の抜本的な見直しを行うことにより支出の節減と合理化を図る。各省庁の歳出額は原則として前年度と同額以下に抑制する」というもので、これは1982年(昭和57年)予算のゼロシーリング、1983年(昭和58年)予算のマイナスシーリングとなって実現した。さらに大きな答申としては1982年(昭和57年)7月の第三次答申で、これは三公社の民営化に関するものである。少数派閥の中曽根は何とかこの臨調を自己の政権獲得の道具として使いたかったのである。中曽根が首相になって瀬島や部会の専門委員がブレーンとして中曽根と意を通じて動く以上、もう臨調は諮問機関ではなく、首相の政策を後追いしていく機関に過ぎなくなった。要するに中曽根、瀬島は第二臨調を私物化したのであって、瀬島のはたした役割は第二臨調の歴史的な役割をあまりにも矮小化してしまったのではないか。

■おわりに

最後に保阪氏のスタッフが第二臨調に加わっていない五十代、六十代の財界人にインタビューした時、その一人が声をふるわせて述べた一言こそ瀬島氏に対して持っている一般の方々の感想ではないかと思う。

「瀬島さんのことについてインタビューはお断りします。あの方はこれまで責任というものを一度もとられていません。大本営参謀であったのに、その責任を全くとっていないじゃありませんか。伊藤忠までは許せます。戦後は実業人として静かに生きていこうというなら個人の自由ですからとやかくいうことはありません。それが臨調委員だ、臨教審委員だとなって、国がどうなのか教育がどうなのかという神経はもう許せません。私達学徒出陣の世代だって次代の人に負い目をもっているのに瀬島さんは一体何を考えているのか全くわかりません」と電話口で語気を強めた。その他官僚OBや学者、あるいは何人かの財界人からも戦場での辛い戦闘経験を持つものには瀬島の存在がどうしても合点がいかぬとの声があると云っている。

私は前々から瀬島龍三なる人に大変興味があったので一度書いてみたいと思っていた。一般には山崎豊子氏の「不毛地帯」のモデルが瀬島氏であるとして大変好感を持つ人も多くいるのであろうが、私は昭和2桁の最初の頃の生まれで戦争を知っている最後の世代として、どうしても彼の真実を語ろうとしない態度が納得出来なかった。今回この稿をおこすに当り次の3点の書籍を大いに参考にさせていただいた。

①共同通信社会部編「沈黙のファイル」「『瀬島龍三』とは何だったのか」

②保阪正康著「瀬島龍三参謀の昭和史」

③保阪正康著「昭和の怪物七つの謎」

特に②については全面的に参照させて頂いた。

                                                                                                                      以上
  皆様の忌憚のない御感想、御意見をお待ちしております。

                                               ( 本稿は武藤治太会長の書下ろしです。)

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