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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第七章 『狼の国』

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第七章7  『男はつらかったよ』



「いて」


 指先に走った鋭い痛みに、スバルは思わず眉をしかめた。

 見ると、人差し指の先が薄く裂け、そこから血の雫が浮かび上がってきている。机の上に散らばった資料を片していたのだが、それで指を切ったらしい。


「クソ、やっちった。異世界の製紙技術を舐めてた俺への洗礼ってわけか……」


「おや、スバルくん、どーぉうしたね? 紙で指を?」


「ああ、紙より弱いなんて貧弱だーぁねって意見はわかってるよ、ロズっち。ちょっとヘマしただけだから。……これ、ちょちょいっと治せたりする?」


 じんじんと痛む指を見せ、スバルは部屋の主であるロズワールにそう尋ねる。

 自らの執務室で机に向かい、書類仕事をしていたロズワールは羽ペンを置くと、「どれどれ」とスバルの指の傷を確かめた。


「おや、痛そうだーぁね。とはいえ、このぐらいの傷なら大したことじゃない。舐めてればじきに治るだろうさ。それとも、私が舐めてあげよーぉか?」


「お気遣い結構ですー。ロズっちに舐めてもらうくらいだったら、ベア子の口の中にでも突っ込んでおくわ」


「はは、それは面白いねーぇ。……ベアトリスとも、仲良くやれてるようじゃないか」


 スバルの指を解放し、ロズワールが机に肘をつきながらそう目を細める。そんな彼の言葉を聞いて、スバルは「そうか?」と首を傾げた。

 スバルとベアトリスの関係は、何とも言葉にし難い複雑なものだ。なんて言い方をすると大げさだが、あまりベアトリスからは歩み寄ってもらえていない。


「からかい甲斐があるから、俺の方からは積極的に茶々入れてるんだけど、向こうがそれをどう思ってるのかはあんまり自信ないな」


「いやいや、心配ご無用だーぁよ。ベアトリスはあれで素直な子だからね。もしも本気で君を拒絶する気なら、禁書庫にだって出入りできないはずさ」


「なるほど……」


「現に、私はちっとも禁書庫に入れてもらえないのだーぁからね」


「なるほど?」


 自分の胸に手を当てて、そう嘯くロズワールにスバルは苦笑い。

 とはいえ、ロズワールもスバルと同じで、ベアトリスはからかい甲斐のある子としてみなしているらしい。付き合いも、スバルよりずっと長いわけだし。


「さては距離感間違えて、それが尾を引いてるとかか? 謝った方がよくねぇ?」


「まぁ、当たらずとも遠からずといったところだね。謝るには……少しばかり、私にとってもベアトリスにとっても、時間が経ちすぎてしまったしねーぇ」


「時間のせいにして謝らないってのも、それはそれでよくないと思うけど……」


「うーむ、ますます耳が痛い」


 唇を緩めながら、ロズワールが置いた羽ペンを再び取った。仕事に戻るというサインと受け取り、スバルは肩をすくめながら書棚の整理を再開する。

 幸い、切った指の血も止まったようだ。


「その指、どうしても痛かったらレムかベアトリス、そうでなかったら大精霊様に治してもらうといいよ」


「ロズっちは治してくれないの? スパルタ?」


「いやいや、そうじゃーぁないさ。――私はね、治癒魔法が使えないんだよ」


「そうなの? てっきり、何でもできる万能魔法使いだと思ってた」


 ロズワールの思いがけない告白に、スバルは軽く眉を上げた。

 業火で森ごと魔獣の群れを焼き払い、風のように空へ舞い上がることもできる。魔法使いとして一角の人物と聞けば、てっきり基礎的な魔法は全て修めているものと。

 しかし、そんなスバルの言葉にロズワールは首を横に振った。


「期待に応えられずにすまないがね、魔法というのは生まれ持った適性に大きく左右されるんだ。たまたま、私は多くの魔法の才に恵まれたが、それでもこの世に存在する全ての魔法を扱い切れるほどではなかった」


「じゃあ、治癒魔法以外にも?」


「いや、治癒魔法以外は大体使えるけどね」


「ガチの一個だけの穴!?」


 重たい前置きに反して、ロズワールの弱点は一個だけだった。

 とはいえ、その穴が治癒魔法が使えないことというのは、これで意外と埋め難い大穴である気がする。


「戦ってる最中とか、自分の傷が治せる治せないってだいぶ重要な気がするし」


「へえ? スバルくんも、そういうことが考えられるのだね」


「まぁ、バフとかデバフの効果を軽視して、ただ『たたかう』のコマンドだけ選んでれば勝てるようなパワープレイは小学校で卒業したのさ。俺は能力モノの漫画とかで、無能力だけど知略を駆使して能力者と渡り合いたいタイプなんだ」


「難しいことを言われてるようで、実はそうでもない話と見た」


 ほんの数週間の付き合いだが、スバルの軽口の真理をロズワールは見抜いたらしい。

 そのことに頭を掻いて舌を出すスバルに、ロズワールは片目をつむって、その青い方の瞳を瞬かせると、


「実際、スバルくんの言う通りだよ。治癒魔法の有無は戦いを……ある種、戦場を大きく変えると言ってもいい。だから案外貴重な才能でね」


「そうなの? けど、パックにベア子、レムも使えるんだよな?」


「前者の二人は特別だからねーぇ。レムに関しては……気質もあるかな。私も、その才能を伸ばすのに注力したからさ」


 その後のロズワールの話によれば、治癒魔法の有用性は魔法の中でも特に重要視されていて、専門の治療院での師弟制度が存在するほどらしい。

 レムもそこで学んでもよかったのだが、ラムから離れるのを嫌がったこともあり、ロズワールが直接指導したのだと。


「なので、治癒魔法があることにズブズブと浸かりすぎていると、いざケガをしたときに耐えることを忘れてしまうという怖さがあるかもねーぇ」


「あぁ……痛みに耐性がなくなるってことか。それは確かにあるかもしれねぇな」


 無菌室で育てられた人間が、外のウィルスなどに耐性がつかないように、痛みをすぐに治癒魔法で消していれば、いざそれに頼れないときに致命的になりかねない。

 そんな考えから、スバルは自分の指の傷をちらっと見て、


「わかったよ。騒ぐほどの傷じゃないし、戒めとしてこの痛みには耐え抜こう」


「指先ちょこーっと切ったぐらいで大げさじゃーぁないの。そのぐらいの傷なら別に治しても変わらないだろうし、レムに治してもらえば?」


「人を怠惰に誘う甘い罠! ……いや、これぐらいは平気平気。無問題」


 軽口めいたロズワールの物言いだったが、スバルには一理あるように思えた。

 この異世界生活が生易しいものでないことを、すでにスバルは王都と屋敷の二つの事件で知っている。耐え難い痛みなど、ないに越したことはない。

 しかし――、


「避けられないそれが訪れたときのために、俺は覚悟を決めるぜ」


「指先切っただけだけどねーぇ」


 立てた人差し指にぐっと力を込めて、そう力説するスバルにロズワールが苦笑する。

 もっとも、そんなスバルの意気込みも空しく、執務室の掃除を終えたスバルがレムたちと合流したところで、傷に気付いたレムに即座に治療されてしまうのだが。



                △▼△▼△▼△



「うぎぎぎぎ……!」


「ほれ、添え木でも噛んどけ。痛いぞ痛いぞー」


 そう言いながら、トッドがスバルの左手の指を真っ直ぐに伸ばし、赤紫に変色した三本の指につんと臭う薬を塗布する。そして、彼は手早く指に添え木を当てると、ぐるぐると包帯で指を固定し、手当てを完了した。


「あとは最後にこの水薬だ。多少なり痛みも和らぐだろうさ」


 脂汗をだらだらと流したスバルに、トッドが薬の入った瓶を渡す。中身はドロッとした緑色の粘液だったが、薬と言われればやむを得ない。

 スバルは覚悟を決め、ぐいっとそれを飲み干した。


「おぶぇっ! まずっ! お、重たい液体が喉に絡みつく……!」


「飲みづらさで有名な薬だからな。けど、効き目は抜群なのは保証するぞ。軍でも重用されてる貴重品だ。傷の治りが早くなる」


 スバルが飲み干し、空になった瓶を指で挟んでトッドが笑う。

 口元を拭いながら、スバルはそんなトッドの言葉に「悪い」と頭を下げた。


「そんな貴重なもんを、俺みたいなわけわからん奴に分けてもらって」


「いいってことよ。実際、これ以上放っておいたら指が腐ってもげるとこだ。剣狼の短刀までいただく相手に恩を売ったとでも思いねえ」


 カラカラと気前いいトッドの答えに、スバルは眉尻を下げて唇を噛む。

 ヴォラキア帝国の軍人らしいトッドは、森でもらったナイフのおかげでスバルの素性を高貴なものと思い込んでくれている。おかげで、捕虜にも拘らず待遇はずいぶんといい。

 だが、だからこそ騙しているのが申し訳ない気分でもあった。

 それに加えて、とある疑問がスバルの脳裏を掠めている。

 それは――、


「しかし、あれだな。こんなとき、治癒魔法でもあればバーッと傷も治せるのに」


 左手の調子を確かめながら、スバルは何の気なしを装ってそう呟く。

 すると、それを聞きつけたトッドが眉を上げた。


「お? これまた贅沢なことを言うもんだ。治癒魔法なんてそうお目にかかれるもんか」


「――。やっぱり、そうだった?」


「そりゃな。火やら風やら起こすのと同じ感覚で、傷も病気も治せるなんてなったら便利だろうよ。お前さんの左手だって、あっという間に治ったろうさ」


 肩をすくめ、しんみりと語ったトッドにスバルは目を伏せる。

 そして、自分の予想が的中したことに、不安と安堵を同時に掻き立てられていた。


 以前、まだその企みを暴かれておらず、ただのノリのいい道化的貴族とロズワールのことを認識していた頃、治癒魔法の希少さについて話したことがあった。

 魔法は才能に左右され、治癒魔法の使い手は貴重であると。


 その情報に加え、陣地に準備された治療用の天幕には薬草や水薬の瓶が立ち並び、魔法ではなく、医学的な道具の数々が用意されていた。

 傷を手当てしてくれると言ったトッドも、決して魔法的なものに頼らず、薬草と添え木という手段を取った。故に、間違いない。


「治癒魔法は、珍しい」


「少なくとも、俺は一度も見たことないな。聞いた話じゃ、帝都の方には使える術師が囲い込まれてるとか。なんにせよ、一般人には遠い世界の話だよ」


「――――」


「むしろ、お前さんの口から治癒魔法なんて言葉が出た方が驚いた。俺からすれば、選択肢にも上がらないような話だぞ?」


 身近でないものは、そもそも思考の端っこにすら存在を主張できない。

 そのぐらい、帝国では――少なくとも、トッドらにとっては治癒魔法は身近でない。

 なので、そうした返答があることを予期していたスバルは「いや」と首を横に振り、


「見ての通り、実は旅人なんだ。あちこち旅して回ってて、それで治癒魔法を使う人と出くわしたこともあるんだよ」


「なるほど、旅装か。確かに妙な格好をしてるとは思ったんだ。この辺りの暑さと、お前さんたちの服装がどうにも噛み合ってなかったから」


 そう言ってトッドが上から下までスバルを眺める。その格好はプレアデス監視塔の攻略のため、砂海を抜ける防砂対策がされていた服のままだ。

 アウグリア砂丘は砂漠のイメージと違って暑い場所ではなかったが、砂風に対抗するために肌はほとんど覆ってしまっている。そのため、湿気と気温が高めのヴォラキアでは、少々時季外れの格好と言わざるを得ない状況だった。


「それで、旅の間に治癒術師なりに出会って、その便利さに堕落したと」


「言い方が悪い! 実際、便利ではあるけども」


 実際、スバルも何度か――否、かなり頻繁に治癒魔法の世話にはなっている。

 それこそ異世界召喚された当初、最初の難関から生還するのにも、ベアトリスの治癒魔法がなかったら不可能だったぐらいだ。

 もしあのときベアトリスがいなければ、スバルは腹が裂けたまま、内臓を垂れ流して今日まで生きてこなくてはならなかった。


「自分の内臓を踏んづけて転ぶなんて経験、二度としたくないもんだぜ」


「治癒魔法、ね」


「――? トッドさん?」


 なかなか稀有な経験を回想するスバルの前で、トッドが静かに吐息をこぼす。その雰囲気の変化にスバルが眉を寄せると、彼は「いや」と片目をつむり、


「俺は治癒魔法なんて残酷なもん、身の回りになくてよかったと思うからさ」


「残酷って……なんで? むしろ逆じゃないのか?」


 トッドの見解に無理解を示すと、彼は「だってさ」と片目をつむったまま、


「傷が治るってことは、死なないってことだ。負傷して引っ込められることもない。傷を治して、また延々と戦わされる。傷が癒えるってのはそういうことだ」


「――――」


「俺は怖くて仕方ないよ。最初に治癒魔法なんてものを作り出した奴は、いったいどれだけ戦いが好きだったんだ? それをまざまざ見せられてる気がしてね」


 静謐なトッドの言葉を聞いて、スバルは何も言い返せなくなる。

 偏った考え方だとは思った。実際のところ、治癒魔法の活躍の場は戦いだけに留まらない。それこそ、日常の延長、事故や病気の人間を救う役目もある。

 しかし、一面的にはトッドの考え方も事実だ。

 戦場で負傷した相手を治療し、再び戦いへと駆り立てる。――そうした側面がないと言い切れない以上、それを恐れる彼の気持ちも否定はできない。


「悪い悪い、脱線したな。そんな眉間に皺寄せさせるつもりはなかったんだ」


 押し黙ったスバルを見て、トッドが空気をリセットするように言った。スバルの方も、自分では考えなかった価値観の意見に、「大丈夫」と頷き返す。

 それから、トッドは話題を変えようと、天幕の外の方へ意識を向けた。


「けど、そうなると檻の中の嬢ちゃんも旅の連れ合いってことだろ? それなのに、なんでお前さんはあんな噛みつかれてるんだ?」


「……不慮の事故、かな。前はかなり以心伝心の仲だったんだが、今はちょっと色々あって完全に一方通行なんだ。長い目で見てほしい」


「俺はいいけど、お前さんは相当辛そうだな……。しかし、そうなると」


 スバルとレムの複雑な事情に深入りせず、トッドが顎に触りながら視線を外す。

 そのトッドの視線の先、スバルが意識的に無視している右腕があった。そのスバルの右腕に、先ほどからずっとしがみついているのは――、


「あー?」


 と、何も考えていない顔で、間抜けな声を漏らすルイであった。

 彼女はスバルの右手にしがみついたまま、何が楽しいのかニコニコしており、時折、スバルの指を弄んでは自分の髪の毛を搦めたり、やりたい放題だ。


「さすがに、お前さんたちの娘って歳じゃないよな。どういう関係なんだ?」


「何度も言ってるだろ、知らない子だよ。でも、碌な奴じゃないのは確か」


「塩っ辛い対応だこと。……けど、檻の嬢ちゃんはこの子を気にしてたみたいだぜ?」


「それが厄介なんだよ……」


 改めてトッドに指摘され、スバルは置かれた状況のややこしさに嘆息する。

 現状、スバルのレムへの想いは完全に空回りしている状態だ。記憶をなくしたレムの塩対応は、スバルがルイを蔑ろにすることも大きく影響している。

 しかし、それがわかっていても、スバルにはルイを受け入れることができない。

 当然だろう。彼女は大罪司教、決して相容れることのできない純粋悪の一人。


「それがどうしてこうなってる? お前、何を企んでて、いったい何がしたいんだよ」


「うー? あー、あーおー」


 スバルの詰問にも、ルイはへらへら笑うばかりで答えは返ってこない。

 どこまでも、忌々しい態度だ。もちろん、『記憶の回廊』で見せたような悪辣な対応をされても困るのだが、敵と断定できるだけ心は惑わずに済むだろう。

 今のように、まるで赤子か幼児のような振る舞いをされて、その危険性をスバルしか認識できていない状態より、よっぽど。


「まぁ、旅の連れ合いなんだ。どこにいくにせよ、もうちょっと関係を改善しておいた方がいいだろうさ」


「――。それって、どっちに対するアドバイスだ?」


「あどば? さて、どっちでも好きな方で受け取っておけよ」


 聞き覚えのない単語に首をひねりつつ、トッドはそう言って立ち上がる。

 ここは治療用の天幕、それ以外の雑談で長居するのも好まれないのだろう。スバルも、右手にルイを引っ付けたままトッドのあとに続く。


「さて、ひとまず傷の手当ても済んだし……さっそくだが、雑用を頼んでいいか?」


「ん。ああ、何にもしないで置いとかれるより罪悪感がない。何でも言いつけてくれ。靴を食う以外の仕事ならどんとこいだ」


「よっぽどジャマルが腹に据えかねたみたいだな……わかったわかった、そんな真似はさせないさ。とりあえずはそうだな」


 考え込むようにしながら、トッドがちらと見たのは黒い天幕の群れだ。

 つられてその天幕を見て、スバルが「これは?」と聞くと、


「陣地用の備蓄品だ。あれこれ必要だからと集められてるんだが、どうにも細々とした片付けが苦手でね。そこで、整理整頓が得意なお前さんの出番ってわけだ」


「……俺、整理整頓が得意だなんて言ったっけ?」


「いんや? けど、得意だといいなぁと思ったんだよ。あと、仮に得意じゃなくても、助けてもらった感謝で頑張ってくれるに違いないって」


「……いい性格してるな、トッドさん」


 人のいい笑みを浮かべながら、なかなか意地の悪いことを言うトッド。彼の言葉に頬を引きつらせ、スバルは黒い天幕の群れをざっと眺めた。

 ぱっと見で天幕は二十前後あるが、これが全部備蓄品で埋まっていて、なおかつトッドの言う通り、雑多な整頓しかされていないなら重労働だろう。


「一日二日じゃ終わらなそうだな……」


「なあに、補給隊の竜車が出るまでに片付いてくれたらいいさ。ははは」


「ははは……」


 つまりは速やかに動け、ということだろう。

 左手の傷を考えると、やや難易度は高めだが、致し方ない。


「これも今日の稼ぎのため、レムを連れてエミリアたんの下へ戻るため……」


「うー!」


 ぐっと拳を固め、過酷な労働に挑もうとするスバルの傍ら、ルイが声を上げる。そのまま右腕にぶら下がれ、スバルは憎々しげに顔をしかめた。

 まるでわかっていない顔で、スバルの心身共に負担をかけてくる大罪司教。その悪辣さはそのままに、扱いづらくなった印象が非常に強い難敵だ。


「なんかシャウラといい、身に覚えのない絡まれ率が高すぎるぞ……」


「あー、うー」


 わかっているのかいないのか、機嫌のよさそうなルイを引きずるようにしながら、スバルは黒い天幕へと足を進める。

 最終的にわかり合えたシャウラと違い、ルイとはそもそも意思疎通もできていない。わかり合うことなど、不可能なのだと思いながら。



                △▼△▼△▼△



「……それで、暗くなるまでずっと天幕の片付けをしていたんですか」


 と、重労働を終えて戻ったスバルを、床に横座りしたレムが出迎えてくれた。

 そんなレムの姿に眉尻を下げるスバル、その反応に彼女は目を細め、


「出迎えていません」


「いや、心を読むなよ。……でも、牢から出してもらえたんだな?」


「――。少なくとも、ここの方々に私への敵意はないようでしたので」


 気まずげに目を伏せたのは、川べりであったと聞く遭遇戦――あの片目の男、ジャマルの一隊とレムが繰り広げたよくない初対面の罪悪感だろう。

 基本、心を許していない相手に対して対応の塩辛いところがあるのがレムだ。

 スバルと打ち解けてからはかなり和らいでいたものの、記憶をなくした今はその気質がやや復活気味。それを反省しているのだと思う。


「だけど、反省できるなんて偉いぞ、レム。花丸だ」


「……あなたは私をどんな目線から見ているんですか? あなたに褒められても嬉しくとも何ともありません。そもそも」


 微笑むスバルに辛辣に言って、レムはすっと視線を上げる。

 つられて顔を上げても、そこにあるのは円錐状の天幕の細い天井だ。はて、とスバルが首を傾げる。と、レムは不機嫌そうに舌打ちして、


「どうして私たちで同じ天幕なんですか。贅沢を言いたくはありませんが、もう少し配慮してくれても……」


「いや、むしろこれは配慮の塊だと思う。トッドさんに、俺たちは同じ旅の連れ合いだって伝えたし、それでだと……いたたたたたたっ!」


「勝手なことを!」


 傍らに腰を下ろした途端、レムの手に腰骨のあたりを強く掴まれた。そのまま腰椎を軋ませられ、苦しむスバルにレムは目を鋭くする。

 しかし、そんなレムの行動を、「あー」と小さな影が割り込んで止める。

 それは――、


「またあなたは……」


「うー!」


 スバルの腰を掴むレムの手に圧し掛かり、ルイが体ごと抗議する。

 何故かルイに甘いレムは、その行為に対して諦めたように吐息し、仕方なくスバルへの折檻を中断。代わりに、ルイの体を自分の膝へ引き寄せた。

 そのまま、動かしづらい足にルイの頭を乗せて、優しく体を撫でてやる。


「ちっ」


「……今度はどうしてあなたが舌打ちするんですか。この子はこんなにあなたに懐いているのに、そこまで非情になれる理由がわかりません」


 態度の悪いスバルに、レムの反応は芳しくない。

 スバルはといえば、レムの膝を借りて寝そべるルイが、いつ本性を明らかにしても彼女を守れるよう、その動向をつぶさに観察するしかなかった。


 ――トッドの指示で、黒い天幕の整理を始めたスバル。

 やはり最初の想定通り、天幕内の整理整頓は短時間で終えられるものではなかった。それはもちろん、スバルの左手が完調でなかったことも理由の一つだが、スバルの想定以上に帝国人に整理整頓のルールが備わっていないことと、それから――、


「こいつが、俺の仕事を片っ端から邪魔するんだよ。人がせっかく片付けても、あとからあとから崩して散らかしやがる。おかげでちっとも進まねぇ」


「何もわからないんですから、仕方ないじゃありませんか」


「何もわからないのはレムも同じだろ。でも、レムはそんなことしない。以上、証明終了! QED!」


「またわけのわからないことを言って!」


 スバルへのレムの塩対応の原因、それがルイにあるとわかっていて、どうしてスバルがルイに対して塩対応を取らずにいられようか。

 これがよくない塩対応スパイラルだとわかっていながら、表面上だけでもルイとうまくやることはできない。――生理的嫌悪感は、押し隠せるものではない。


「――――」


 やるせない思いを抱え、スバルはそのまま床にべしゃっと背中から寝そべった。

 スバルとレム、そしてルイの三人しかいない天幕――ほんの数日だが、スバルたちの滞在用としてトッドが分け与えてくれたものだ。

 陣地を張る最中、森に入った仲間が戻ってこなかったため、家主のいなくなった天幕だから好きに使っていいと笑っていた。


「いや、笑えねぇけども」


 とはいえ、余ったテントを分け与えてもらえたのは非常に助かる。

 スバルはともかく、レムを男所帯の陣地に置いておくのはとても心配だ。トッドは客人として扱うと言ってくれたが、それがどこまで浸透してくれるかは不明瞭。

 ましてや、レムはすでにジャマルの不興を買ってしまっている。

 できれば、スバルが雑用する合間も目を離さず、傍にいてほしいのだが――、


「いつまでも不貞腐れてないで、食べてください」


「え?」


 仰向けのまま、考え事に耽るスバル。そのスバルの視界を遮ったのは、レムがスバルの顔の上に差し出した焼き串だった。

 思わず体を起こすと、レムがこちらに顔を背け、その焼き串を突き出している。


「これは?」


「食事だそうです。陣地の方々に配られていたので、私がもらっておきました。……少しずつでも、移動の練習をしなくてはいけませんから」


 そう言って、レムが空いた方の手で自分の足をさする。

 不自由な状態の彼女の足、その調子が戻ってくるのがいつになるかは知れないが、スバル以上に不安に思っているのが当事者であるレム自身だろう。

 見知らぬ人々に囲まれた陣地、記憶もなく、ふわふわした立ち位置の自分。何かを知るために動き出そうにも、足が自由にならないのだから。


「……早く受け取ってくれませんか。手が疲れます」


「わ、わかったわかった。えっと、レムはもう食べたのか?」


「は? なんでこの子が食べてないのに、私が先に食べるんですか。そんな身勝手な真似ができるはずないでしょう」


 そう言うと、レムは天幕の端に寄せてあった骨の器を引き寄せ、被せてあった布を外して焼き串をルイの口元へ運ぶ。

 レムに甘やかされるルイは、そんな彼女の厚意に甘えて、まるで雛が親鳥から餌をついばむみたいにちまちまと肉を齧っていた。


「ふふ」


 ちまちまと、食事をついばむルイをレムは微笑ましげに見ている。

 その光景から目を離せず、スバルも渡された焼き串をちまちま齧った。刺して焼いただけといった風情の肉は、いったい何の肉が使われているのか見当もつかない。

 とりあえず、硬くて大味、おいしいとは言い難いものだ。


「エミリアたんとかベア子が作る飯とどっこいだな……」


「何をブツブツと……ぁ」


「――?」


 食事への雑感を述べるスバル、そんなスバルを一瞥したレムが、ふと目を見開いた。その彼女の反応に、スバルは何事かと眉を寄せる。

 彼女の青い瞳が見つめるのはスバルの顔だ。となれば、彼女が驚いた理由はスバルの顔にあるのだと思うが。


「どうした? まさか、ちゃんと俺の顔を見たのが初めてだとか悲しいこと言うなよ?」


「そんなことは、ありませんけど……あの、涙が」


「涙?」


「……涙が、流れています。気付いていないんですか?」


 おずおずと、そう切り出したレムにスバルは息を詰める。それから、おそるおそる自分の頬に触れてみて、指先に熱い雫が当たり、驚いた。

 レムの突拍子のない嘘ではなく、本当だった。


「あれ、俺、泣いてる?」


「な、泣いています。どうしたんですか? 指の、ケガが……?」


 ほろほろと流れる涙を手で拭い、スバルは自分の感情の波に混乱する。だが、涙の原因は折られた指の痛みではない。

 もっと別の、たぶん、こうしてレムと穏やかな時間を過ごしていることだ。


「――――」


 まだまだ全然、状況は落ち着いたわけではない。

 エミリアたちとははぐれ、連絡を取るための方法もわからず、素性がバレれば危険な目に遭いかねない土地で、記憶のないレムとは没交渉の体たらく。挙句、同行者にはこの世の邪悪を極めた大罪司教がおり、率いるは無知無能、無力無謀の揃ったナツキ・スバル。

 楽天的になれる理由なんて、一個もない。一個もないのに――、


「……お前と、こうして喋って、飯を食ってる。それが、嬉しかったんだ」


「――――」


「わ、悪い、全然わかんないよな。変なこと言ってる。気持ち悪いって思っても当然だと思う。……でも、本音なんだ」


 ぎゅっと、止まらない涙を堪えることを諦めて、スバルはボロボロと涙を流しながら、鼻水を啜りながら、レムを見つめた。


「ずっと、お前とまたこうして、何でもない時間を過ごしたかったんだ」


 食べかけの串を膝の上に置いて、スバルは絞り出すようにそれを伝える。

 流れる涙を袖で拭い、鼻水を啜る音が静かな天幕の中に響いていて。

 しばし、その気まずい音だけがしていたが――、


「……私は、あなたが何を言っているのかわかりません」


 ふと、微かな吐息のような声でレムが言った。

 涙を拭きながら、スバルは息を詰める。そして、レムの硬く冷たい声も当然の反応だと自分の恥ずかしさを噛みしめた。


 目の前で知らない男、それも好感の持てない臭いを漂わせる奴がべそをかいて、それを不快に思わないものがいるはずもない。

 またしても、レムからの信頼を損ねた。それも、取り返しのつかない形で。


「でも、あなたが涙を流すのを、笑おうとは思いません。不気味とは……思いますが、気持ち悪いとまでは」


「――え?」


 思いがけない言葉に、スバルは顔を上げて目を見開いた。

 そんなスバルの正面、レムは膝の上のルイの頭を撫でながら、スバルの方には目を向けないまま、言葉を選ぶように唇を震わせていて。


「……以上です。早く食べてください。今日は、もう疲れました」


「――ぁ」


 目をつむったレムに早口で言われ、スバルはとっさに何のことか反応が遅れる。が、それが膝の上の焼き串のことと気付くと、慌てて食べかけのそれにかじりついた。


「そ、そうだな。うん、うまいうまい。塩辛くてうまい」


「塩辛いのは、あなたの涙のせいですよ。……私は、あなたの体臭のせいで食事がおいしく感じられません。不公平です」


「それは……ええと、改善案を考えます。はい」


 レムの物言いは冷たく尖っている。

 しかし、彼女は出ていけとも、一緒に食べたくないとも言わないでくれた。ならば、スバルの方から別案を考える他にない。

 そうしなくては、このスバルの心休まる時間が守れないならば。


「……でも、不公平って話をするんなら、俺からも言いたいことはあるぞ」


「言いたいこと? なんですか? 指のことなら……」


「――そいつだよ。その、膝の上でのうのうと寝てる奴」


 ビシッと指差して、スバルがレムの膝枕を堪能するルイに唇を曲げる。と、それを見たレムが「また始まった」とばかりに目を細めた。

 しかし、スバルの言いたいことはこれまでの繰り返しとは違う観点だ。


「レムは俺の体臭……この言い方だとかなり嫌だが、俺の臭いのことばっかり言うが、そいつだって似たような臭いがしてるだろ。それは無視するのかよ」


『死に戻り』を繰り替えすたび、その臭いの濃さを増していくという魔女の残り香。

 だが、これが『魔女』所縁――魔女因子に関連したものであるのなら、当然のように大罪司教であるルイからも同じ悪臭が漂っているはずだ。

 魔女教相手に激昂するレムの反応を思い返せば、それが必定のはずで――、


「――? 何を言ってるんですか。あなたとこの子を一緒にしないであげてください」


「……へ?」


「ですから、この子からあなたと同じ臭いなんてしていませんよ。苦し紛れに、おかしなことを言い出さないでください」


 しかし、そう言ったスバルに対するレムの返答は予想外のものだった。

 思わずじっとレムの目を見返すが、レムの表情におかしなものは見られない。嘘でもなければ、スバルを謀ろうとしているわけでもなさそうだった。

 つまり、彼女は本当に、ルイから魔女の残り香を、瘴気を感じていないのだ。


「まさか、瘴気を偽装できるのか? いや、でも、何のために?」


 これまでのスバルの経験上、魔女の残り香と呼ばれる瘴気を感じ取れるものは多くない。最も大きな反応を見せるレムを除いても、ベアトリスやリューズなど、極々限られたものだけが反応したことがあった程度のモノ。

 そもそも、そういったものを隠すという発想が魔女教徒にあると思えない。

 奴らは、この世界を我が物顔で蹂躙する大逆の使途たちだ。それなのに――、


「もういいですか? 食べ終わったなら、この子も眠たいみたいなので、そろそろ寝る準備をしたいんですが……」


「あ、え、っと……あの、さっきの話は本当に?」


「くどいです」


 ぴしゃりと、レムはスバルの疑問をシャットアウト。

 しかし、その態度がなおさら、彼女の感じているものが嘘ではないことを証明しているように思えた。


「……ルイから、瘴気が感じられない?」


 それが何を意味するのか、スバルにはよくわからない。

 だが、ひどく不気味なことが、スバルにとって都合の悪いことが進行しているような、そんなおぞましい感覚だけはあった。


「悪いんですが、器を片付けてもらえませんか。寝床の準備をしますので」


「あ、ああ、わかった。その、何もしないから安心してくれ」


「――。その一言があると、余計に不安になります」


 またしても硬い声で言われ、スバルはすごすごと、食べ終わった串を乗せた器を片付けるために天幕を出た。

 夜闇の中、陣地のあちこちに焚火の明かりが見える。スバルたちには命じられていないが、これから夜を徹した見張りを行うものもいるのだろう。

 漫画やゲームでしか知らないが、戦争の準備というものは大変なものだ。


「……早く、ここを離れたいな」


 トッドは気のいい男だが、それでも戦場の空気には慣れそうにない。

 できるだけ早くここを離れ、エミリアたちに合流する術を見つけ出さなくては。

 そう決めて、スバルはきゅっと器を握りしめ、気付く。


「……あれ、指が痛くねぇ。まさか、薬がもう効いたのか?」


 思わず強く掴んだ器、その左手の指を見て、スバルは薬の効果に驚いた。

 まだ違和感は残っているが、じんと熱の通い始めた感覚は、しっかりと左手が仕事を果たそうとし始めている証拠だった。


「治癒魔法云々って言ってたけど、薬も十分以上にやるじゃんか……」


 トッドの言葉を思い返し、スバルは軽く左手を振るって、歩き出す。

 レムのことも、ルイのことも、自分自身のことも、考えなくてはならないことは多い。

 多いが、一個ずつ、一個ずつ改善していこう。


 この左手の指のように、一個ずつ、いい方向へ進めてゆけばいいのだと。



                △▼△▼△▼△



「――――」


 そうして天幕を離れ、ゆっくりと歩いていくスバルを眺める影が一つ。

 片目を眼帯で覆った男は、その残された目を細め、ゆるゆると歩く背に舌打ちする。

 そして――、


「浮かれてやがる。くだらねえ」


 と、そう呟いたのだった。



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