芥川龍之介は軽井沢で下関の句を詠む
東雲の煤降る中や下の関
[大正十四年八月三十一日 軽井沢から 室生犀星宛]
なんでや?
[蕪村全集テキストデータ]
去來章篇
蕪村全集めつた吹する衣更着の風又小いそかしさも埓明る春隨分あんし候へとも出不申候。あと〓もし能句出候はゝ、のほこりの句可仕やと存候。とかく御丁簡可被下候。又々申へく候。此內雛小いそかしさも埓明ル春此御句ケ樣ニ仕候而はゆるりと春をかまへたる庭此中素牛集にはるの句をのそまれ候而卽「小いそがしさも」の句の上に原本には「是ヨリ蕉翁ノ書ナリ」と頭註を加へあり素牛-惟然のこと。席鶯や雀よけ行枝うつりいかゝくるしかるましきや。とか〓手ぬるくなり候而きのとく〓〓。史邦との三吟はいかゝ成行候や。あたら三吟にて候。何そにいたし申度候。以上原本には去來蕉翁の眞蹟が摸刻して出せり以下蕪村の文にして、その自筆のまゝ板下とせり。蕉翁去來一紙兩筆ノ書ハ向某ヨリ菊層ニ傳來ス層又長松下隨古ニ讓ル層ハ古カ叔父ナリ向某ハ玄來カ通家也右一紙兩筆のふみは、長松下の藏るところにして、けに稀有のものなり。其比去來はさうなき作者にして、蕉翁もこのおのこ欺きかたしとつふやかれけるとそ。さある人のかゝる脇なむとせんに、いとたやすかるへきを、自らの臆にことはりかねてや、翁の沙汰をこひもとめにける、殊勝の事にこそ侍れ。さてこそ翁もかくやなとひねり直れけるも、なをこゝろゆかすや侍りけむ、「禮者うすらく春のしつかさと、砥並山には聞へにける。一日太祇嘯山、長松下を訪らひ、この書をひらき見て、いにしへの人の道に深切なることかはかりに侍れは、すゝろ懷古の情にたえす。やかて三吟の發端となりて、廿チの席をかさねて、はたちの長松下湯淺隨古、長松庵と號す。巴人の門人五安十四永二年四月廿一日歿、年直れ-直され。砥並山-去來撰、その中に浪化の「鶯に朝日さす也竹格子」を立句として、浪化去來芭蕉三吟歌仙あり。「禮者うすらぐ」は去來の脇旬なり文章篇
蕪村全集五〇二歌仙なりぬ。しかはあれと、其角か月に嘯く體にも傚はす、嵐雪か花にうらめる姿にも擬せす。まいて今の世にもてはやす蕉門とやらむ、質をもはらにするにもあらす。たゝ己かこゝろのさま〓〓に、思ひ邪なきをのみたとぶ成へし。もとより三子の意に得たりとする俳諧にもあらねは、人の見んこともいとくるしとて、草稿のまゝにて橘仙堂か棚架に打すてありけるを、あたら三吟なり、なんそにしたまへと、序して三子を催すものは、三菓散人蕪村書。(平安廿歌仙)コントニー「一言以蔽之論語爲政曰思無v卵孔子が詩經を〓評せし言なりたとぶ-尊ぶ。橘仙堂-京都の書肆にて蕪村派の俳書はこゝより出は北村氏、版せられしもの多し俳諧をよくす堂主寬政二年歿。五、其雪影序(明和九年)今や上侯伯より、下漁樵におよふまて、俳諧せさるものなし。それか中に、一家をもて世に稱せらるゝことは、きはめてかたLo京攝の際三四指を屈するたにもいたらす。そも〓〓三四者は誰、几圭其大指を領せり。圭はしめ巴人菴の門に遊ひて、その眞卒に倣はす、かたはら半時菴の徒に交りて、其贅牙に化せられす。ひとり俗談平話をもて、たくみに姿情を盡せり。たとはゝ小說の奇なることはゝ、諸史のめてたき文よりも興あるかことし。圭去りて又圭なるもの出す。人或たま〓〓人情世態のおかしき句を得れは、則云圭流也と。こゝにおいて一家の論盡ぬ。ことし十三囘、其子凡董小册子を編て父の魂を祭る。世の追善集つくれるにはやうかはりて、あなかち紫雲靑蓮の句をもとめ魚肉蘋藥雜爼にして供するす、ひとへに弄花醉月の吟を拾ふ。ものゝことし。余曰、さはよし又父か意也。かの闇室にこもり、几圭-高井氏、京都の人巴人門九董の父なり寶曆十年歿年七十四巨擘と新大阪親指なり聲牙庵同じ文辭の艱澁にして松木淡々。解しがたきことことはゝ-詞は。そ紫雲靑蓮の句-追善の句蘋繁うきぐさと白よも共に鬼神に薦むべきもの文章篇
蕪村全集五〇四精進。こひ仕へて媚び仕へて鷄骨-王戎和嶠時を同じ骨床を支へ和は哭泣禮を備うして大喪に遭ふ王は鷄武帝劉仲雄に之を語りしに仲雄答へて曰く和は禮たか麺をお立す不明な事件上海交通大学は死孝とすべしといへり。(世說)せうしいとまめやかに、手念珠をはなたす、稱名こと〓〓しく尼法師にこひ仕へて、あやしく着ふくれたらんよりは、鷄骨床を支ユれとも、かたちかしけ眼うちくほみたるかたにこそ、もろこしの識者は與ミし侍れ。凡董之此篇其幾乎。明和壬辰秋夜半亭蕪村書(其)雪影も六、太祇句選序(明和九年)靑丹よし-奈良の枕詞。八仙歌に「焦遂五斗方卓然、焦遂が五斗-杜甫の飮中高談雄辯驚四筵。」遂遂は平生口吃なれども酒を飮めば滔々たる雄辯をふるひきと蕉翁の三斛-支考の俳諧太祇曾而小言すらく、靑丹よしなら漬と云んより、なら茶と云んこそ俳諧のさひしみなれ。焦遂か五斗はそちにさはかし。蕉翁の三斛こそ長く静にして、鐵杵を鍼に磨し、點滴の石を穿つをしへにも叶て、我業の卒る時もありなむ。かりにもおこたり後始めて俳諧の意味を知る十論に「奈良茶三石食うてへしとは或時に故業の戯なら云云」とあり鐵杵を鍼に磨し忍耐し昔て事をなし遂ぐる譬。溪未李白書を象宜山中に讀むだ成らすして棄て去り小を過ぐ老媼の鐵杵を磨するに逢ひ之を問へば針を李白之に感じ還りて業を卒作らんとするなりと答ふふと(世諺叢談)。點滴の諺は前漢書に「泰山之雷穿石」とあるに出づふんで-筆劫窒(ポツソツ)-徐々といふに同じ。言を出すこと葎亭-の緩やかなるさま三宅嘯山宛在島原妓樓吉文字屋野を宛在樓といふを以て主人、雅因と號し嵯峨別又之を別號とす羅人門にて太祇蕪村と親交あり安永六4歿ほゐとくべき-本意遂ぐうけひて-うけふは誓ふこゝは「うけがひて」の誤なるべし。すさむへからすとて、佛を拜むにもほ句し、神にぬかつくにも發句せり。されは祇か句集の艸稿を打かさね見るに、あなおひたゝし、人のイめる肩はかりにくらへおほゆ。けにやいせのはま荻のおきふしにも、ふんてをはなたす、勃窣として口よりいつるにまかせ書おけるものにしあれと、なにはのあしのいつれ刈すつへきも見えねは、葎亭宛在の撰者も、眼つかれこゝろまとひて、まめやかにゑらみ得へうもあらしかし。余二子にいふ、さははつへき期あらめや、大かたにこそあらまほしけれ。たゝ四時のはしめことに出せる五六帋かほとをゑらみ取て、初稿と題し、木にきさみて世にひろうし、二稿三稿といへるものは、年を經てもほゐとくへきわさなれとすゝめけれは、二子もうけひて、かしこうこそ申つれ、さらは其ことを世にことはり聞へとひて、文章篇
蕪村全集よとあるにそ、やかてしりへにかいつく。明和壬辰九月蕪(太村祇句書選)七、この邊序(安永二年)一夜四唫發端秋の日の晝よりくれて、いとゝ雨さへしきりなれは、窓の燈かけもなつかしき油小路なりける幽居を敲て、嵐山叟か病中をなくさめんと、百鬼夜行のあやしきをかたり出て、かの東坡居士か物好に倣はんとすれは、あるしの翁耳うちふたき、いかて四噬流行のおかしきにはとつふやきけるにそ、おのつから狐狸のふしともゆかしくて、萩に薄とわけまとへは、無爲は夕の秋をか嵐山-竹護と號す、武藏の人、京都にありて雅因の宛在樓に寄寓し嵐山と號せり安永二年九月廿四日卽ちこの四吟興行ののち幾くもなくして歿す萩に薄と-四歌仙其一は蕪村の「薄見つ萩やなからん此邊り」を發句とせり無爲は同じく樽良の脇句に〓風より起るあきの夕高子は-同じく几董の第に三に〓舟たえて宿とるのみの二日月。」堪へく-堪ふべく。こち、こち、高子は舟なき旅を愁ひて、とみに膝押のはいかいとはなれり。やゝ半過行頃、おの〓〓調へのおなしきをよろこひ、腹つゝみ打ならして、無爲菴秋のくれ泣を此日の遊ひ哉さてあるしの翁は、このほとのいたはり猶堪へくもあらて、おのれには句をゆるし得させよと、頭巾まふかに引かふり、おとろおとろに毛おひたる古きしとねの、八疊には得ものへあへさるに這のほりつゝ、やかて臼引音の聞ゆるは、例の狸寐ゐりにはあらて、そこら喰こほしたるよひ茶小豆餅の狼藉なるも、うしろめたけれ。兎かくして三更の鐘響く頃ひ、四卷の哥仙なりぬ。袖にし歸りて、夜明るまゝに打かへし見るに、よべの小判に引かへて、柿の古葉の古くさきに似たれと、何とやらんむかしのお頃ひ-ころほひ。文章篇
蕪村全集昔の人のかほり-古今集に「五月まつ花橋の香をかげば昔の人の袖の香ぞすLらさまに-かりそめに人のかほりもあれは、橘屋とはかりあはせよと、此邊と題して、橘仙堂に得させぬ。花洛紫狐菴あからさまに紫狐菴蕪村しるす(このほとり)八、也哉抄序(安永三年)あーナ序夫切字をしらんと要せは、まつ切字となつけたるは、いかなる字義そと眼をつくへし。さて其むねをさとりえて後、切字といふ目は、字義あたらすといふ事をしるへし。されは我門には切字とはいはす、しはらく是を斷字といふ。猶口受有。切字はありてなきもの也、なくて有もの也。切字ありてきれぬ句有、なくて切るゝ句あり。此妙境に入て字々切字ならさるはなし。夫か中に、也哉の二字をおく事きはめてたやすからす。いにしへの名ある集にもあやまち少からす。まして今の世の人のつくり出さん句は、いはても知へし。爰に我友無膓居士なるものあり。津の國かしまの里にかくれ栖み、客を謝して俗流に交らす、ふかくやまとの國ふりにふけり、人しらぬ古き書をさへさかし見すといふことなし。もとより俳諧をたしみて、梅翁を慕ふといへとも、芭蕉をなみせす。おのれかこゝろの適ところに隨ひてよき事をよしとす。まことに奇異のくせもの也。此ころ一本を著し、其門生二三子余にしめす。ゝなはち也哉抄となつく。其說數條おの〓〓古き書によらさるなく、たま〓〓さとしやすからんことをおもひて、みつからの論を加ふといへとも、つゆも古無腸-上田秋成。かしまの里-歌島、などゝ書く攝津+柄にし加島て秋成は安永二年こゝに移り同四年まで住み居たり梅翁-西山宗因。文章篇
蕪村全集人のゝりにもとらす、憶說といふへからす。余つら〓〓よみゝ(マヽ)てたゝむきを扼けていふ。是不朽の書也、二三子はやく木に上して、同志の人の聞につたへよ。二三子諾す。すなはち序を余に乞。余いふ、わか此言質也といへとも、理おのつから明らか也。更に序して花をもとむへからす。二三子とくされ、ともにはかれ。于時安永甲午孟春下浣平安夜半亭蕪村誌几董書たゝむき-腕。扼け-おさへて訓むべきを誤れるかともに平安夜半亭蕪村誌也几董書哉抄)九、むかしを今の序(安永三年)雪中庵-嵐雪。百里高野氏、江戶小田門に入り後嵐雪に學んで原町の魚問屋なり始め蕉亡師宋阿の翁は業を雪中菴にうけて、百里琴風か輩と鼎のことくそはたち、ともに新意をふるひ、作家の聞えめてたく、當時琴風と相並んでその名鳴又雷堂と號す。享保十二年歿年六十二生玉氏、攝津東成門郡孝明に出て蕉入人壯歲江戶る後其解に從ひ百里と名聲伯仲す亭保十一年歿、年八十八。閑をあまなひ-あまなふはその境遇に安んじ樂むこと-さがなき事世間の俗事をいへり。の人ゆすりて三子の風調に化しけるとそ。おの〓〓流行の魁首師やむにして、尋常のくわたて望むへききはにはあらさめり。かし武江の石町なる鐘樓の高く臨めるほとりに、あやしき舍りして市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におとろきて、老のねさめのうき中にも、予とゝもに俳諧をかたりて、世の上のさかことなとましらへきこゆれは、耳つふしていと〓〓高き翁にてそありける。ある夜危坐して予にしめして曰、夫俳諧のみちや、かならす師の句法に泥むへからす、時に變し時に化し、忽焉として前後相かへりみさるかことく有へしとそ。予此一棒下に頓悟して、やゝはいかいの自在をしれり。されは今我門にしめすところは、阿叟の磊落なる語勢にならはす、もはら蕉翁のさひしほりをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ。是外虛に背て內實-棒下に-禪家の三十棒に比していへり文章篇
蕪村全集五一二に應するなり。これを俳諧禪と云ひ、傳心の法といふ。わきまへさる人は、師の道にそむける罪おそろしなと沙汰し聞ゆ。しかするに今このふた卷の哥仙は、かのさひしほりをはなれ、ひたすら阿叟の口質に倣ひ、これを靈位に奉て、みそみめくりの遠きを追ひ、强て師のいまそかりける時の看をなすといふことを、門下の人々とゝもに申ほときぬ。しふた卷の歌仙-今傳はらその中の一歌仙の草稿と思はるゝもの存す。連句篇三五九頁參照みそみめくり-三十三囘忌.ひを、熊村文集一··芭蕉翁附合集序(安永三年)はいかいの繼句をまなはんには、まつ蕉翁の句を諳記し、付三句のはこひをかうかへしるへし。三日翁の句を唱へされは、口むはらを生すへし。されと翁の句〓〓、ひろく諸集にありてかうがへ-考へ。口むばらを生ず-世說「士大夫三日不讀書、則理義不交於胸中、便覺面貌可憎、語言無味」。むばらはいばら(大、荊)に同じ。見やすからす。よてこれを抄出して、これを約かにし、道にこゝろさしあるものあれは則與ふ。門下の小子、つゐに木に刻みて書寫の勞をはふくといふ。安永甲午中秋平安紫狐菴蕪村誌平安紫狐菴蕪村誌(芭蕉翁附合集)一一、左比志遠理序(安永五年)賤がたかせの-枠にかけて「別く」の序とす釣の絲の-浮子にかけて「受け」の序とすいてやはいかいの道千々にわかれて、ともしひくらきしつかをかせのわくへくもあらす、浪風あらきつりのいとの、うけえられぬことのみ多かる。そか中にはせをの翁のゝ給ひけむ、はは俚俗にちかきも、こゝろは向上の一路に遊ふへしとそ。れや一貫のをしへにして、千古の確言なるをや。しかはあれとともしひくらきしつかを文章篇
蕪村全集さひしをりてふことをさとりしらされは、句をつくり出すことかたくなんありとて、此一條はのへたまひけるにや。まことに蕉門の蘊奥は此ふみにとゝまりて、他にもとむへきことはあらしかし。世人さひといふはさひしきをいひ、しをりとは一句のなよらかなるをいふとのみこゝろうるは、ひかことにや侍ん。言をもて說うることかたし、意をもてさとすへきことにこそ。されは其玄妙を了〓解したるとちむかひかたらんには、老のまさにいたるをもしらす、のちの世の一大事をもわするゝはかりうれしきわさになん侍れ。我友はなひの居士なるもの、さある友の多く出こんことをねかひて、往ところにして此旨を說しめさゝることなけれは、おのつからかゝるたときふみの、ひめおくへきことかたくなり行まゝに、書肆何かし耳とく聞とりて、やまことにはなひの居士-「寂棄」の著者一音法師。かて木にゑりて公にすることゝはなりぬ。見ん人等閑におもふへからすと、平安の紫狐菴において蕪村書。寂薬ニ、春泥句集序(安永六年)柳-維駒は黑柳氏なり。洛西の別業-洛の西北等持院に召波の別莊ありき。柳維駒父の遣稿を編集して、余に序を乞。序して曰、「余會テ春泥舍召波に洛西の別業に會す。波すなはち余に俳諧を問。答曰、俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尙ふ、俗を離れて俗を用ゆ、離、俗ノ法最かたし。かの何かしの禪師か、隻手の聲を聞ケといふもの、則俳諧禪にして離〓俗ノ則也。波頓悟す。却問、叟か示すところの離〓俗の說、其旨玄なりといへとも、なを是工案をこらして、我よりしてもとむるものにあらすや。しかし彼もしらす、我も何がしの禪師-白隱禪師しかし-若かじ。文章篇
蕪村全集しらす、自然に化して俗を離るゝの捷徑ありや。答曰、あり、詩を語るへし。子もとより詩を能す。他にもとむへからす。波疑敢問、夫詩と俳諧といさゝか其致を異にす。さるを俳諧をすてゝ詩を語れと云、迂遠なるにあらすや。答曰、畫家ニ去俗論あり、日、畫去俗無他法、多讀書則書卷之氣上升市俗之氣下降矣、學者其愼旃哉。それ畫の俗を去たも、筆を投して書を讀しむ。況詩と俳諧と、何の遠しとする事あらんや。波すなはち悟す。或日又問、いにしゑより俳諧の數家各々門戶を分ち、風調を異にす、いつれの門よりして歟、其堂奧をうかゝはんや。答曰、俳諧に門戶なし、只是俳諧門といふを以テ門とす。又是畫論曰、諸名家不分門立戶、門戶自在其中。俳諧又かくのことし、諸流を盡シてこれを一囊中に貯へ、みつから其よきものを旃-之、焉二字の合音にて「これ」とよむ撰ひ、用に隨て出す。唯自己ノ胸中いかんと顧るの外他の法なし。しかれとも常に其友を撰て、其人に交るにあらされは、其〓に至ることかたし。波問、其友とするものは誰ンや。答、其角を尋ね嵐雪を訪ひ、素堂を倡ひ鬼貫に伴ふ。日々此四老に會して、はつかに市城名利の域を離れ、林園に遊ひ山水にうたけし、酒を酌て談笑し、句を得ることは專ラ不用意を貴ふ。如此する事日々、或日又四老に會す、幽賞雅懷はしめのことし。眼を閉て苦吟し、句を得て眼を開く。忽四老の所在を失す。しらすいつれのとにろに仙化し去るや、恍として一人自イム。時に花香風に和し、月光水に浮ふ。是子か俳諧の〓也。波微笑す。つゐに我社裏に歸て、句を吐くこと數千、最麥林支考を非斥す。余日、麥林支考其調賤しといへとも、工みに人情世態を盡ス。さじ倡ひ-「とな(唱)へ」に同麥林-伊勢の中川乙由。さ文章篇
蕪村全集れはまゝ支麥の句法に倣ふも、又工案の一筋ならさるにあらす。詩家に李杜を貴ふに論なし、猶元白をすてさるか如くせよ。波日、叟我をあさむきて、野狐禪に引ことなかれ。畫家に吳張を畫魔とす、支麥は則俳魔ならくのみ。ます〓〓支麥を罵て、進て他岐を顧す、つゐに俳諧の佳境を極む。おしむへし、一旦病にふして起つ〓とあたはす、形容日々にかしけ、湯藥ほとこすへからす。預め終焉の期をさし、余を招て手を握て曰、恨らくは叟とゝもに流行を同しくせさることをと。言終て涙潛然として泉下に歸しぬ。余三たひ泣て曰、我俳諧西せり、我俳諧西せり」。右のことはは、夜半茗話といふ册子の中に記せる文也。夜半茗話は余か几邊の隨筆にて、多くもろ〓〓の人と討論せしことを、雜錄したるもの也。しかるに其文を其まゝにて、此集の序とす李杜--白白、杜甫。元白元稹、白居易。の二家の風調は卑俗なりとの評あり吳張-不詳。支麥-支考、麥林。麥林。俳諧西せり前漢の丁寬田何に從つて易を學ぶ業成りて東に歸る何曰く易已に東せりと。この故事により召波がりしを歡じて西新鮮料館でり」といひしなり夜半若話-この書今傳は虎の皮を-外美にして內その實なきを語に羊質虎皮引かふたる-「引きかうだる」にて頭巾など目深にかぶるをいふることは、まことに故あり。此文を見て、波子か〓韻洒落なるその句のいつはりなきことを味ふへや、其ひとゝなりを知て、し。かの虎の皮を引かふたる羊に類すへからすといふことを、洛下の夜半亭に於て、六十二翁蕪村書。于時安永丁酉冬十二月七日春泥句集一一一、蘆陰句選序(安永八年)もたる-持ちたる。むかし丹波のくにゝ、大なる壁もたるおきな有けり。そのたまうちにひかりをかくして、ゆかしさ云んかたなし。人其玉を百貫にかはんといふ。翁おもふやうかくてたに有を、光まさはあたひなをかきりあらしとおもひて、百貫にはえそとてうらす。えそ-「えぞ賣らじ」の意文章篇
蕪村全集五二〇さて夜に日にすりみかきけるほとに、はつかに瑕あらはれ出ぬ。おきなあさましとまとひて、いよゝすりみかくにしたかひ、きす大に玉はまめはかりになりぬ。はしめかはんと云し人も、今ははなおほひつゝさたなくなりけるとそ。されや大魯か門流、芦陰遺稿といふものを出さんとして、序を予にもとむ。予か曰、遺稿は出さすもあらなん、いにしへより作者のきこへあるもの、遺稿出て還て生前の聲譽を減するものすくなからす。大魯はもとより攝播維陽の一大家と呼れて、我門の嚢錐なりし。されはその佳句秀吟は、人おの〓〓膾炙す。たれか遺稿の出るを期せんや。はた遺稿を出して、かの玉もたる翁に傚ふことなかれ。門流肯す、ひそかに草稿をあつめて、凡董に託して校合せしめ彫刻半ハにいたる。しかしてふたゝひ序を予にもとむ。こゝにき新花摘の中にもこの意味の遺稿は出さずも-蕪村はことを述べたり(四五七頁參照)。錐の直に鋒をあらはすに喩囊錐-穎才の意。囊中のふ(史記平原君傳)こゝにおいてやむへからず、取てその草稿を閱す。予嘆して曰、遺稿出すへし。遺稿出て人いよ〓〓その完璧をしるへし。是大魯か身後の榮、ます〓〓そのひかりを加ふるに足らん。門流微笑して去。このこと又序とすへし。安永巳亥孟冬夜半翁識己亥-八年。夜半翁識陰句選背一四、桃李序(安永九年)俳諧桃李序いつのほとにか有けむ、四時四まきの可仙有。春秋はうせぬ、壹人制して曰、夏冬はのこりぬ。壹人請て木にゑらんと云、の歌仙ありてやゝとし月を經たり、おそらくは流行におくれた可仙-歌仙。文章篇
蕪村全集五二二らん。余笑て曰、夫俳諧の活達なるや、實に流行有て實に流行なし。たとはゝ一「圓「郭に添て、人を追ふて走るかことし。先ンするもの却て後れたるものを追ふに似たり。流行の先後何を以てわかつへけむや。たゝ日々におのれか胸懐をうつし出て、けふはけふのはいかいにして、翌は又あすの俳諧也。題してもゝすもゝと云へ、めくりよめともはしなし。是此集の大意也。蕪村識俳諧桃李俳桃李三五、花鳥篇序(天明二年)掾好遊山水而體便登陸、郭文が勝具-世說に「許時人云許 徒有勝情實有濟勝之具」。濟勝の具とは勝地郭文か勝具なけれは、鬼貫か禁足にはくみしやすきにや。みよしのゝ山ふみもかり寐のゆめにたとり、あらしのやまの春のゆをわたり歩く具、卽ち健脚の意蒙求に許詢勝具廓文郭文が勝具と誤りしなり遊山と出でたるよりこゝに鬼貫か禁足-鬼貫に禁足の旅記あり、ゑびす心-夷心、風雅を解せぬ心さうざうし-淋し。く衞たにしらぬゑひすこゝろの、いとさう〓〓しけれは、せめて朝夕草扉におとつるゝ人の、花さくらの吟咏をほくのはしにかいつけ、一帖にものして臥遊のよすかにもとおもひたちつゝ、とかくするほとに春烟眼を過キ、綠樹窓を蓋ひ、荏苒として去つくす日にゆふへをかこち、蕭條とふりくらす雨に曉をしらす、おこたりかちなる老の身をうらみて、ひとり几上に肘する折ふしある人梅翁のたんさくを得て、この句にわきせよと、云ひおこせたるを取上け見れは、手澤淋漓として、雲外の一聲睡をさまし、言下に一句を吐。所謂狗尾をもて貂に繼たるこゝちするを門下の二三子第三第四とつゝけゆくまゝに、やかて三十六句にみちぬ。いとよし、花さくらの後へに附して、則花鳥篇と題號して、我疎懶の罪を謝することしかり。梅翁-西山宗因、四二九頁參照。連句篇狗尾をもて-善きものゝ後によからぬものをつぎ足すを狗尾續貂といふ文章篇
蕪村全集五二四壬寅皐月蕪花村鳥識篇一ハ、俳題正名序(天明二年)はいかいの去きらひのことは、諸書にあらはしてその法そむくへからす。しかれとも俳諧は活物也、時に臨て其法を背くも又法とす。付ケに疎密あり、句に輕重あり、一卷の緩急句行の浮沈を相顧て、或おもてきらふものを七句に免し、字去のものを五句に禁する〓と有。法は四時のとし、去嫌の扱ひは風雨寒暖のことし。變化極りなし。神釋祭奠の正名、草木鳥獸の正字をしらさる時は、その變に應することかたし。伏水の鷺喬俳題正名を著す。一たひこれをひらけは、かの去嫌の取捨掌をさすかこ伏水-山城伏見。鷺喬-山本氏。正字通-明の張自烈撰、〓の廖文英その稿本を購ひ得て自著とし、南康の白鹿洞に版行せり。白鹿洞-南唐のときの學館にして朱熹知南東車に除せられし時之を再興せり。とし。まことに俳諧の正字通也、天明壬寅夏六月鷺喬は夫白鹿洞の人歟。夜半亭蕪村識(俳題正名)一七、五車反古序(天明三年)冬ごもりの句-召波の句に「冬こもり五車の反古のあるし哉」本書の卷末にこの句を發句として脇起俳諧あり連句篇四四三頁參照維駒父の十三囘忌をまつるに、集ゑらみて五車反古といふ。ふかき謂あるにあらす、父の冬こもりの句によりて號けたる成へLoはた父の筆まめに書あつめたるものを、よゝとねちこみたる帝の紐ときて見れは、贈答の詩の稿有、或は花に來たれといふ天狗のふみあり、今宵の雪をいかにやなと、そゝのかす高陽の徒の手紙有。又は云すてたる哥仙の、半ハはかりにしてところ〓〓墨引たるあり。其裏には多く人の句も、みつからの句もかふ北克海大阪大阪府中国内町やることあり其角の句に「初櫻天狗の書、た文見せむ高陽の徒-酒飮み仲間の意勵食其が漢王に見えて自ら高陽の酒徒といへる故事による(史記)文章章篇
蕪村全集いつけたり。それをとかく爪揃して、今の世の人の句も打ましヘ、ならへもてゆくほとに上下二册子となりぬ。序を余にもとむ。余病ひにふして、月を越れとも起ことあたはす、筆硯の業を廢することひさし。故をもて其ことを不果、これこま忌日のせまりちかつくをかなしみ、しは〓〓來りもとむ。余曰、明日を待チて稿を脫せむ。明日すなはち來る、病ます〓〓おもし。又曰、明日を待て稿を脫せむ。維こま終に卒業の期なきを悟て、竊に草稿を奪ひ去。余も又追はす、他日そのことを書して序とす。病夜半題五車反古これこま-維駒。八、宴樂序遲日亭の主人-おやつく人下村春坡、京都の巨商(NH4)NH2CO2卓下の誤寫か。まほけ-設け(マヽ)遲日亭の主人早下をまほけ、諸子を引て宴ず。懲器王盤遲唇駝離窮山之珍竭水之錯、盡く具せすといふことなし。日午より夜半にいたりてよく蚕食すへからす。我黨只うらむ、便々たる腹中文雅の貯なきことを。纔に題を分ち俳歌をうたふで詩賦に換へ、庭に步し月に嘯く、豈仙家の歡に讓るへけんや。月の句を吐てへらさん蟾の腹2017饗應に滿腹せ蟾は月料金免除の蟾蜍の異名あるよりの聯想なるべし蕪村文集一九、隱口塚序茶碗麵包初瀨の堂のあ り芭蕉がにての句ゆかし堂の隅」芳野紀行)。檜の枕詞何でもの見たるー芭蕉の大街街道 (野見せうぞ檜文章こもりくの初瀨の堂の片隅に、まきもくのひの木笠うちしきて、ゆかしき春の旅寐姿は、よきもの見たるよし野の勞れを休んとなるへし。されは其吟魂のおり〓〓この境にやとり來まさむこ章篇
蕪村全集五二八もと 何何京都府京区下げ谷町コーラ建てゝ諸家の吟を集め蕪を射 ける几董も序を作り「雲水の香をせしなれりきとめて花の塚」但しこの書今の前になり岩ずねにかへる-根にかへる寝にかへる芭蕉の芳野紀行に그草臥て宿かる頃や藤の花」の句あり貞德終焉記-貞室の著に卷九にその中心にくい中心に移してもと漆組の里祇蕪村嘯山三人の奥書を添ふ貞室の眞跡は今伊萬里前田氏に藏すとC (聽蛙亭雜筆による)鳥羽田にあさる-貞德の墓鳥羽實相寺にあればその緣煙雲の-蘇軾の寶繪堂記ㄱに譬之煙雲之過眼百鳥之感耳」一時の快をとりて長く心に留めざる意とを願ひて、草をくさきり土をかきあつめて、一基の碑をいとなみ建るものは、やまとの好士何來なり。そのはしめに筆をたてゝ、手むけの句を奉るものは、平安の蕪村なり。蕪村百拜して書。草臥てねにかへる花のあるしかな蕪村文集二〇、貞德終焉記奧書(明和七年)これは〓〓鳥羽田にあさるかりがねの、ふみたがふべくもあらぬ貞室翁の眞跡なりけり。泰里のぬしこのみちのすき人にてあなれば、かうやうのたときもの數もつくさずひめおかれける、ま〓とに煙雲の眼を過るには似もやらす、蝶鳥の花に集る類ひなりかし。それが中にもこれらや奇しき一のたからなるべし。明和庚寅水無月蕪村鑒(三十庚寅-七年。定輻○溫故集序溫故集-雪人氏編、蕪村全集中に收む廿九日被觸た脚らざればたゞ參考のため採錄す夫吾俳諧はいそのかみ古き御代より出雲八重垣のはるけきかなたより名にしあふ高千穗の峰に神のまし〓〓て此國の如意の峰の朝日のかけを見たまふ時はしめて日に向ふと五字をかしらにいひかけ玉ふて陽の數を日の德に合せ玉ふされは中頃はさらなり近き中にも芭蕉翁天の下に名をならしてよりこなた今俗中にもつはらなれは歌よむ人はもと連歌よりくつれたる物といひなしてあなかちにいやしきものと覺えたる人の多けれは代々の上達部殿上人武雄風流人の句を出して左にしるしぬ安永癸酉中春下浣摸寫蕪村識蕪村識文章篇
蕪村全集五三〇短篇類一、木の葉經(寶曆初年)檀林-淨土宗の十八檀林の一なり。弘經寺-下體結晶50貫狸書經物として傳ふ美食我家的けて同寺に居りその人あらざるを看破死する時書殘せるものなりと住職の外之を見るを得ずと傳へたりすきやう-執行。もふで-詣でしもつふさの檀林弘經寺といへるに、狸の書寫したる木の葉の經あり。これを狸書經と云て、念佛門に有かたき一奇とはなしぬ。されは今宵閑泉亭に百萬遍をすきやうせらるゝにもふて逢侍るに、導師なりける老僧耳つふれ聲うちふるひて、佛名もさたかならす、かの古狸の古衣のふるき事なと思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を嚙て、肌寒し己か毛を嚙木葉經洛東間人嚢道人釋蕪村遣草狸毛-筆。遺草-これは蕪村が京都に西歸して間もなく、卽ち寶曆初年の頃書きしものと思はる筆跡も晩年のものとはいたく異り若干1望月氏、京都の人週四、明和三年三月十二日歿年七十九箕居-兩足を投げ出してすわる〓と忘年の交-年齡の長幼を論ぜすするまじはり只才學を以て友とる時無術に五十一處だり、二、宋屋追悼辭(明和四年)宋屋老人、予か畫ける松下箕居の圖を、壁間にかけて常に是を愛す。されはこそ忘年の交りもうとからさりしに、かの終焉の頃はいさゝか故侍りて餘所に過行、春のなこりもうかりけるにやかて一周に及へり。今や碑前に其罪を謝す。請君我を看て他世上人となすことなかれ。線香の灰やこほれて松の花蕪村我を看て-王維の詩句「科頭箕居長松下、白眼看他世上人」蕪世村界(香三、乾鮭の句に脇をつぐ辭(安永四年)乾鮭の吟、安永五年九月刊の「續明烏見ゆればこれは安永四年の作なるべし暮雨巷-曉臺暮雨巷ひさしき病病のたま〓〓おこたりにけれは、乾鮭の一句文章篇
蕪村全集をうめきいてゝ、文のはしにかいつけ聞ゆ。よみゝるに悲ラ壯也、よく老杜か妙境に入レり、乏して貴し、よく蕉翁の幽懷をさくれり。余三嘆して止す、つゐに句をつきて几董に示すといふ。乾鮭をしはふりて我皮肉哉暮雨爐に氷解く硯匂へる蕪村しら梅の朝日に細く咲出て几董老杜-杜甫。つきて-繼ぎて。しはぶりて-しやぶりてしら梅の-この句のみは凡董自筆にて記せり右のワキかくも案し候いつれ可然哉骨朽ツへきや寒中の梅へ(伊藤松宇氏藏遺草)四、洛東芭蕉菴再興記 安永五年)四明山-比叡山の最高峰一乘寺村-今京都府愛宕郡に屬す。四明山下の西南一乘寺村に禪房あり、金福寺といふ。土人口-稱翠微-山の中腹をいふ爾雅「山未」及上、曰翠微。」して芭蕉菴と呼。階前より翠微に入ること二十步、一塊の丘あり。すなはちはせを庵の遺蹟也とそ。もとより閑寂玄隱の地にして、綠苔やゝ百年の人跡をうつむといへとも、幽篁なを一爐の茶煙をふくむかことし。水行雲とゝまり、樹老鳥睡りてしきりに懷古の情に堪す。やうやく長安名利の境を離るゝといへともひたふるに俗塵をいとふとしもあらす鷄犬の聲籬をへたて、樵牧の路門をめくれり。豆腐賣る小家もちかく、酒を沽ふ肆も遠きにあらす。されは詩人吟客の相往來して、半日の閑を貪るたよりもよく、飢をふせくもふけも自在なるへし。抑いつの比よりさはとなへ來りけるにや、2草かる童麥うつ女にも、芭蕉庵を問へは、かならすかしこを指す。むへ古き名也けらし。さるを人其ゆへをしらす。竊に聞、いにしゑ鐵舟といへる大德、此寺に水行-水行き。樹老樹老い長安-京都をいへり。離るゝといへども金福寺藏蕪村自筆の記には〓離るといへとも」とあり。沽ふ-買ふ。もふけ-設け。文章篇
蕪村全集五三四住たまひけるか、別に一室を此ところに構へ、手自雪炊の貧をたのしみ、客を謝してふかくかきこもりおはしけるか、蕉翁の句を聞ては、泪うちこほしつゝ、あなたうと忘機逃禪の〓を得たりとて、つねに口すさみ給ひけるとそ。其比や蕉翁山城の東西に吟行して、〓瀧の浪に眼裏の塵を洗ひ、嵐山の雲に代謝の時を感し、或は丈山の夏衣に薰風萬里の快哉を賦し、長嘯の古墳に寒夜獨行の鉢たゝきを憐み、あるは薦を着てたれ人いますとうちうめかれしより、きのふや鶴をぬすまれしと、孤山の風流を奪ひ、大日枝の麓に杖を曳ては、麻のたもとに曉天の霞をはらひ、白河の山越して、湖水一望のうちに杜甫か皆を決、つゐに辛崎の松の朧々たるに、一世の妙境を極め給ひけん。されは都徑徊のたよりよけれはとて、おり〓〓此岩頭に憩ひ給ひけるにけるか-蕪村文集に「けたのしみ-自筆の記に〓たのしひ」。雪炊-洗濯と炊事。口すさみ-自筆の記にㄱ口すさひ」〓瀧の浪に-芭蕉の句に〓瀧や浪に塵なき夏の月。」「六月や峰に雲おく嵐山嵐山の雲に芭蕉の句に丈山の夏衣に芭蕉の句は襟もつくろはずに「丈山の像、風かをる羽織〓長嘯の古墳に芭蕉の句가長嘯の墓もめぐるか鉢たゝき」→薦を着て-芭蕉の句に都近き所に年をとりて、薦を着て誰人います花の春ㄴ(昭和4年)、町田して元気時間の如来いて王者を認め梅白昨日や鶴を盜まれしC事故孤大比叡の-芭蕉の句に「大比叡やしの字を引て一辛崎の松かすみ-芭蕉の句に「からさきの松は花より朧にて」。徑徊-徘徊に同じ。岩頭村文集には「岩阿」とあり蕪村自筆の記及蕪枯野の夢-芭蕉終焉の句雨をよろこぼびて-蘇東によりていふparamet台灣大學家庭いいおん90元年末" と雨亭と名く喜雨亭の記この所蕪村文集に「口號-ろこひて亭に名つくる」。口ずさみうき我を-芭蕉の句に「うき我を淋しんこ鳥」。この句嵯峨日記に出づ伊勢長島の大智院ㄱきに我々の初候とらんなよ秋の寺といふ芭蕉白筆の色紙を藏されば實はこの句大智院にての吟なるべし無功德の宗風-禪家の宗風や。さるを枯野ゝ夢のあとなくなりたまひしのち、かの大德ふかくなけきて、すなはち草堂を芭蕉菴と號け、なを翁の風韻をしたひ、遺忘にそなへたまひけるなるへし。雨をよろこほひて亭に名いふなと、異くにゝもさるためし多かるとそ。しかはあれと、此ところにて蕉翁の口號也と、世にきこゆるもあらす。ましてかい給へるものゝ筆のかたみたになけれは、いちしるくあらそひはつへくも覺へね。住侶松宗師の曰、さりやうき我をさひしからせよと、わび申されたるかんことりのおほつかなきは、此山寺に入おはしてのすさみなるよし、此ころまて世にありし耆老の、ふみのみちにも心かしこきか、ものかたりし侍りし。されは露霜のきへやらぬ墨の色めてたく、年月流去水くきの跡、なとかのこらさるへき。さるを無功德の宗風こゝろ猛く、文章篇
蕪村全集不立字-蕪村文集には「不立文字」とあり禪家にては道は心を以て悟るべきものにして文字を以て傳ふ不立文字傳心な熟成豚肉どと唱ふ無用の物蕪村文集には「藏す」とありほろび-蕪村文集に「ほころび」と誤れり,なしみ-自筆の記にㄱかなしひ」。追ふべくもあらず-歸去來辭「悟已往之不諫、知來者之可追」あいなく云々-蕪村自筆の記には「只にうちすてをかむこと罪さへ」とあり江亭丽自字道卿、樋口氏。號芥通伊藤坦庵の曾孫にして出でゝるのでサイ油蔴地方法國民國民黨、道立は俳を蕪村に學び自在文化九年十二月年七十五五三六不立字の見解まなこきらめき、佛經聖典もすてゝ長物とす。いかてさはかりのものたくはへ藏むへきなんと、いとさう〓〓しき狂漢のために、いたつらに塵壺の底にくち、等閑に紙魚のやとりとほろひにけむ、ひんなきわさ也なとかなしみ聞ゆ。よしやさは追ふへくもあらす。たゝかゝる勝地に、かゝるたとき名ののこりたるを、あいなくうちすてをかんこと、罪さへおそろしく侍れは、やかて同志の人々をかたらひ、かたのことくの一艸屋を再興して、ほとゝきす待卯月のはしめ、をしか啼長月のする。、かならす此寺に會して、翁の高風を仰くことゝはなりぬ。再興發起の魁首は、自在菴道立子なり。道立子の大祖父坦菴先生は、蕉翁のもろこしのふみ學ひたまへりける師にて、おはしけるとそ。されは道立子の今此擧にあつかり給ふも、大かたならい海外山東京都港区皮ふほんstressionティーおいしく! Wiltextとうござい3 THEこのまでのごと-14キッズが当たるによるなるとした30,482,300ことこのまではがしています。ですやろばかむこうsous 345 2017.08.20아니라(藏寺福金)證酒事隔海町
今此擧-自筆の記に「今」字なし安永云々-自筆の記に그天明辛丑五月下八日L愼記-自筆の記に「愼識」ぬすくせのちきりなりかし。安永丙申五月望前二日平安夜半亭蕪村愼記寫經社集)五、浪華病臥の記(安永五年)十月五日-安永五年と推定せらる十月十八日付東舊宛手紙參照隻履を手にして達磨が一つの革履を携へて西方の國に去りし故事書言故事後漢二十八祖達磨居而逝後三歲魏宋雲使西域過嶺起こぼ手持隻履翩々獨問師何往曰西天去明惟一革履存焉ㄴ志慶東舊大魯の芦陰舍中の人。十月五日舟を浪花の芦陰舍によす。こゝち例ならす侍れは、都の夕なつかしく、舟中よすから風におかされこゝち例ならす侍れは、都の夕なつかしく、に、かの隻履を手にして西天に去給ふためし、くもうれはしく侍りけるに、志慶東舊の兩子、客情やるかたなきに、愚なる身には尊くもうれはしく侍りけるに、湯藥のことなとまめやかにものし給りけれは、病ひとみにおこたり、夢の囘りたることく覺て、文章篇五三七
蕪村全集手にとらしとても時雨の古艸鞋甘棠居にやとりて千とり聞夜を借せ君か眠るうち阪高麗橋に住みる富岡 し大甘棠苧屋吉右衞門、寄寓せりて蕪村はしに しその居い庭に海棠ありを以て甘棠居といふ病蕪村(武藤氏藏遺草)六、檜笠辭(天明二年)さくら見せうぞ-芭蕉の그笈の小文」に〓よし野にて櫻見せうぞ檜の木笠」の句あり。さくら見せうそひの木笠と、よしのゝ旅にいそかれし風流はしたはす。家にのみありてうき世のわさにくるしみ、そのことはとやせましこの事はかくやあらんなと、かねておもひはかりしことゝもえはたさす、ついには煙霞花鳥に辜負するためしは、多く世のありさまなれと、今更我のみおろかなるやうにて、人に辜負する-そむく。相見んおもてもあらぬこゝちす。花ちりて身の下やみやひの木笠夜鳥半篇花七、伏波將軍の語(天明二年)一休會裏になき物まな正月しも茶わむをしきたゝみくものいゑせにこめ得法悲の衣つとめ放參經陀羅尼はやるものなに〓〓猿樂田樂のうたひもの尺八こきりこはふかふし傾城若俗のさふたむさよ〓〓さ夜ふけかたのよしかのひとこゑ悲の衣-緋の衣か。はふか-放下。さふたむ-相談。文章篇
蕪村全集御家にありて-焦尾琴には「御家の珍奇にて」とあり此小哥は天下老僧の活作也。佐竹の御家にありて、疎なる饗には掛られすとかや。その一聲をこゝにうつして、蕉尾桐のしらへをそふ。一曲の早哥もまた艷なり。一枚起請-法然上人の枚起請文に比せしなり。もはらー事ら右の文は其角か焦尾琴に有て、俳諧の一枚起請ともいふへし。さはおのれかこゝろさし賤陋にして、寂しをりをもはらとせんよりは、壯麗に句をつくり出さむ人こそこゝろにくけれ。かの伏波將軍か老當益壯といへるそ、よろつの道にわたりて、致を一にすへし。古市河相筵今の中むら慶子なとは、よくその道理をわきまへしりて、とし〓〓に優伎のはなやかなるは、まことに堪能の輩と云へし。伏波將軍-後漢書馬援傳「少有大志、嘗謂賓客日丈夫爲志、窮當益堅老當益壯」伏波將軍は漢武帝の時に置かれし官名にては卽ち馬援をさしていへり市河柏莚-二代市川團十郞併諧を其角に學べり中村慶子大阪の俳優にて若女形の名人蕪村とも交ありまこと花鳥篇八、追慕辭(天明三年)十三囘和八年なれば-太祇十一時中國民眾議院議員蕪は杯調和洋の牛g面に云罵りて-聲高に冬發セリいひて登蓮法師登蓮法師がますほの穗まそほの薄の故實を知らんとて雨の降りけたる故事(長明の無名抄)。るに養笠被りて俄に出かけ品變りたると-「たれど」の誤寫なるべし。太祇居士か十三囘追善の俳諧にまねかれける日、風雨ことに烈しかりけれは、かくては道のほといかにやなと、人のせちにとゝめけるを、簑笠や有、とく得させよと云罵りて、こと〓〓しき老の出立いとおかしく、からうして不夜庵にいたりぬ。かの登蓮法師か風流とは品かはりたると、こゝろさしの誠はなとか恥へきにやと、頓て佛前に向て線香やますほのすゝき二三本蕪村文集九、宇治行(天明三年)文章篇
蕪村全集田原の里-宇治より宇治虫に沿うて遡ること一里餘明三年秋の末、蕪村はこ毛球(奥田治兵に招かれて、こゝに杖をC宇治大納言-宇治拾遺物香港文化大學(宇治拾遺物丹波國篠村に平&いとめー書き留め拾遺の茸拾ひのこしと物語に書きもらされたる意右の宇治大納言のにかけたり°つ拾遺といふは物語の名に緣みあり宇治山の南田原の里の山ふかく、茸狩し侍けるに、わかきとちはえものを貪り先を爭ひ、余ははるかに後れて、こゝろ靜にくま〓〓さかしもとめけるに、菅の小笠はかりなる松たけ五本を得たり。あなめさまし、いかに宇治大納言隆國の卿は、ひらたけのあやしきさたはかいとめ給ひて、なと松茸のめてたきことはもらし給ひけるにや。君見よや拾遺の茸の露五本最高頂上に人家見えて高ノ尾村といふ。汲鮎を業として世わたるたよりとなすよし。茅屋雲に架し、斷橋水に臨む。かゝる絕地にもすむ人有やと、そゝろに客魂を冷す。鮎落ていよ〓〓高き尾上かな米かしといへるは、宇治河第一の急灘にして、水石相戰奔波激水石相戰奔波激浪雪の飛かことく、雲のめくるに似たり。聲山谷に響て人語を亂る。銀瓶乍チ破テ水漿迸リ、鐵騎突出シテ刀鎗鳴、四絃一聲如裂帛と、白居易か琵琶の妙音を比喩せる絕唱をおもひ出て、帛を裂琵琶の流や秋の聲銀瓶云々-白樂天の琶行」の中の句C琵(蕪村文集)一〇歲旦說ことしは歲旦の句もあらしなとおもひゐけるに、臘月廿日あまり八日の夜のあかつきのゆめに、あやしき翁の來りていふやう、おのれはみちのくにの善正殿にたのまれまいらせて、京うちまゐりし侍るおきななるか、よきついてなれはそこに奉るへきものゝ侍れは、こゝにまほて來ぬとて、ひらつゝみときて、根松臘月-十二月。まほて來ぬ-まうで來ぬ文章篇
蕪村全集とうでゝ-取り出て。のみとりなるをふたもととうてゝ、これを御庭のいぬゐの隈に植おき給はゝ、かきりなきよろこひをも見はやし給はんといひつゝ、かいけちて見えすなりぬ。ゆめうちおとろきても、此翁にむかひかたるやうにおほえて、かの武隈の古ことおもひ出られてかくは申侍る。我門や松はふた木を三の朝かいけちて-かき消してうち驚きても-眼覺めても武隈の古こと-橘季通、の松は二木を都人いかにとみちの國より上りて「武隈間はゞみきと答へむ」とよみし故事。(蕪村文集大津村田利兵衞氏藏の蕪村自筆にはこの記次の如くあり。のとやゝ異れは參考の爲め左に錄す。文章前出のもことしは歲旦の句もあらしとおもひ過けるに、臘月廿八日のあかつきの夢に、老たるおのこの來りていふやう、おのれはみちのくにの前正殿にたのまれまいらせて、大うちまいりし侍るおきな也。そこに奉るへきものゝ侍れは、ことにまうて來ぬとて、ひらつゝみときて、根まつのみとりなるをとうてゝ、これをいぬゐの庭の砌に植置給はゝ、いく千代のさかえをも見はやし給ふへしと云つゝ、かいけちて見へすなりぬ。ゆめおとろきても、たゝ此翁と物うちかたるやうに覺て、かの武隈の古ことなとおもひ合せて、かくは申出侍る。我門や松はふた木を三の朝蕪村せいほうくひすの啼や師走の羅生門同蕪村同一一、夢說夢に播磨かたに舟をうかふ。風おもむろに浪あらそはす、悠々たる春光、其興いふはかりなし。さあるほとに此舟つゆもうこかす、只鐵索をもて金軸に繫きたるかことく、舟子ともとかくすれとやりぬへくもあらす。思ふに鰐てふものゝねたく見入たる金軸--軸軸或は金輪の誤°坤軸は地の樞軸なり文章全篇
蕪村全集にこそと、舟中の人々たゝ泣になきつ、おの〓〓身にそふ寶をときて海中に投し、かの魚の執はらさせよなとひそめき聞ゆるに、夢うちおとろきて、帆虱のふとし流さん春の海て。うちおどろきて-眼覺めふとし-禪。蕪村文集一二、螺盃銘むかし〓〓うら島か子、龍のみやこに至りて乙姫に配偶す。あらふる眷族賀を献す。おの〓〓かしらに鱗甲をかさりとす。それか中に大なる貝をいたゝくもの有。光輝人を射る。浦島子心に是を欲す。終に得て水の江の浦にうかふ。浪花のうかふ瀨是なり。後又乙姫俵藤太を迎て宴す。玉盃を出して酒をすゝむ。ああらふる-あらゆる、總水の江の浦-萬葉に水江浦島子の歌ありうかぶ瀨大阪新〓水のぶ瀨といふ鮑貝の大盃ありほとりにありし酒樓に浮將て-「以て」に同じ。き。德野-太祇門、島原妓樓の主人。藤太其盃の美なるを愛す。別に臨て、乙姫許多の寶を將て、藤太を送る。其貝すなはち其一つなり。傳て今德野か家に藏む。予に其銘を乞ふ。予おもふ、浦島か子は與謝の海に得たるをもてうかふ瀨といふ。藤太鳰のうみにこれを得たり。それ浮巢と呼ん歟。一盃一盃又一盃、長く子か家に傳てしらす幾萬盃そ。蕪村文集鳩のうみ-琵琶湖。浮巢-鳩の浮巢とて鳩はその巢を水上に浮べてつくしらす-知らず。一三、春の月もろこし我朝にも、秋の月を賞つる名ところはあまた侍るに、なとて春月は等閑に見すくし侍りけむ。禁城の南門のほとりよりあふき見れは、如意が嶽のすこし南なる山のいたゝきより、きさらき十日あまりの月ほのかにさし出文章篇
蕪村全集て、柳おほろに梅のおほつかなくかほり來るなと、すへてやるかたなき心地せらるに、何かしのおとゝにやおはすらめ、內よりまかて給ふか前をはらはて、やをら行き過き給ふなとことにやんことなき。女倶して內裡拜ん春の月靑柳や我大君の草か木か前をはらふ-警驛。(小林氏藏遺草)一四、點の損德論點に損德の論あり。抑作者の意にあたらしくて判者の耳に古きものあり、又判者はめつらしく聞とも句主のかたには古しとおもふ有、或は吾妻には舊作にして都には新意と聞へる句ありて、句主に損德あれは、判者に誹謗を遁るゝことかたし。蕉翁其嵐の徒出るともいかんともすへからす。是判者の一大厄也。に一二をあけてしはらく其事を解。百合花よへの露をやしたみけむ折とれは百合から雨のこほれ鳧右二句作者のかたにはあたらしかるへけれと、判者のかたには古し。一とせ余か判の百哥仙合に通り發句せよと社中よりのそまれけれは、朱硯に露かたふけよ百合花蕪村この句よへの露をしたむ趣向にいさゝか似たり。又東武の蝸名か句に雨露の桔梗は花のつほ深き蕪村又東武の蝸名蝸名-西氏、又野村氏、超波の門なりといふ寬延二年歿篇
蕪村全集此句後の折とれはの句に匠意同しと云へし。右二句ともに句主はかつてしらすし給へれは、自らの意にあたらしとおもはれんもむへなり。判者は古しとおもふも又むへ也。さみたれや蟹のぬけ行琴の反さみたれのふりくらしたるつれ〓〓に、琴なんとしめやかにひきわつらへるさま、そこら調度のたゝすまい、海邊水〓の家居つき〓〓しき後園の致景なとおもひやられ侍る。されは我都には殊にめつらしき趣向にて、判者の耳にはいとゝめてたくそ侍る。しかるに同卷にさみたれや猫のくゝりし琴の反とあれは、其地にては有ふりたる趣向としられ侍るなれと判者の耳にあたらしけれは、やむことを得す點を加へ侍る。其角か句にみしか夜や隣へはこふ蟹の足穴寒しかくれ家いそけ霜の蟹いつれも蟹のおかしみを得たり。琴をぬけ行蟹いさゝかけしめなき心地し侍る。右二題の論にて餘はなそらへしるへし。より判者孤陋寡聞なれは癖考のみ多かめれと、唯罪ゆるし給んことを願ふと云。けしめ-けぢめ、區別。蕪村書(大阪、土居氏藏遺草)一五、二見文臺の畫法○
蕪村全集雙石-二見浦の夫婦石な雙石を畫き波紋を寫し、便面に梅或松を摸するを法とす。と〓〓く其繁を省て、踈を尙ふと云。今こ便面-扇の異名、人を見るを欲せざる時此を以て自ら面を蔽ふに便なりとの義蕪村(花押)右金福寺藏の二見文臺に蕪村の自筆せるものによる。文臺の一隅に扇面を畫きその中にこの文を記せり。文臺の裏面には、「芭蕉庵什物天明壬寅夏四月我則寄附之」と記せり、以てその來由を知るべし。波紋を寫し雙石を摸し、便面に梅或は松を畫くを法とす。今こと〓〓く其繁を省き疎を尙ふ、又是蕉門の一變。平安夜半翁(花押)嵯峨の落柿舍のほとりなる民家の庭に、年經たる桐の木有けり。牛をもかくしつへきほとの圍み也けり。それをとかくもとめ得今こ牛をも隱しつべき-莊子に櫪社樹その大さ牛を蔽せども散木にして用ふべからずとの寓言あり我家の靑氈-前出。四八路景-丹後宮津の人。三頁を見よて、二見かたの文臺三ツつくりたり、二ツはみちのくの人と、つくしの人にわかちゆつれり、一ツは我家の靑氈にもかへしと藏しもちけるを、門人路景口には得云ハて、こゝろに欲するかほはせのやるかたなくて、終に得させ侍りぬ。澁かき落柿舍の垣ねにたよりあれは、かくは冠せたり。あまかきのあまきよりは、陽炎の肩にたつ紙の衣の蜀錦にもまさりぬへし。六十七翁蕪村(花押)紙の衣の-紙衣には澁を引けばなり。右京都金田氏舊藏の二見形文臺に蕪村の自筆せるもの。原物未見寫眞版による。「波紋を寫し云々」は文臺の表に、金福寺藏のものと全く同じ形式に記し、「嵯峨の」以下の文は、文臺の裏に記せり。なほこの文臺にそへて路景に遣したる手紙一通及び左の添書あり。路景に文章の讀み方意義を〓へしものなるべし。章篇
蕪村全集モ「波紋な摸し罐石を撰し便面に梅或は松を畫くを法とす今こと〓〓ソらく其繁を省き疎を尙ふ又是蕉門の一變便面は扇のこと也雙石は二見の石也蕉門の流行ます〓〓さびしをりを尙ふ是則畫家に云ふ繁を省き疎を尙ふものと致きを一にす」手紙は書簡篇に出せり、參照すべし。一六、梅女に句を送る辭薪を積みたる家の一個、大家 其實を右方に畫き仁親に不幸るべし)左にこのり。專業務花とりのために身をはふらかし、よろつのことおこたりなる人のありさまほと、あはれにゆかしきものはあらし。花を踏し草履も見へて朝寢かな蕪村右の句は四條ちかきわたりなる木屋町に、なには人の旅やとり蕪村なには人の旅やとり梅女かもとよりの-同じく菱田氏の藏する摺物(八董の板下)に「花に來る人とちみうめ」のTELESIONけしと手紙のはしにいふもこの句なかるきして有けるを訪ひての口號なるを、おりふし梅女かもとよりのふみのはしに、初さくらのほ句かいつけて、みやこの春色いかに見過し給ふやなと、ほのめきこへければ、其かへりことするとて、筆のつゐてに寫してをくりぬ。(菱田氏藏摺物)の電機構築第十三月夏木立」「まづ賴む椎の短册に添へし極め書にて、紙幅の下部にこの文を記し上部に淡墨にて杖曳ける老翁の姿を描けり洛東の芭蕉庵-金福寺境內にあり安永五年再興す。一七、芭蕉の眞蹟に添ふる辭湖南の幻住庵廢して、洛東のはせを庵興る、榮枯地をかゆるならひ、まことに時あるにや。まつたのむのたん册は、翁の眞跡にて、大津の好事それかしか家に珍藏して、世の人もよくしれるものなり。さるを今はからすも、湖柳子か手裏に歸したること、又翁の感應によれる歟、あな尊と。湖柳-傳不詳。大津の俳人と、文章篇
蕪村全集蕪村書(水落氏藏遺草)八、雪亭の號を與ふる辭名をつくる事は-徒然草に「寺院の號さらぬよろづの物にも名をつくること、昔の人は少しも求めずたゞありのまゝに安くつけゝるなりㄴ名をつくる事は有のまゝこそよけれ。萬吉も早世し、一兵衞も百の親父になる。されはもの忌さるそたのもし。今名を乞はれてつくるに、我むかし雪洞とよひし事もあれは、すくに雪亭と號。これ折ふし雪の降日によはれて、一碗の酒のうへなり。雪消ていよ〓〓高し雪の亭夜半翁十一月廿九日おとゝひ此句を書かへりしに、又持來りて印を乞。醉中のはつかしさもかへり見すおして遣す。醉中のはつ(俳諧四季文集)この文兎の餅を搗ける自畫に賛せるものにして、「句集拾遺あり(Lに出る文とやゝ異同へる村-句集拾遺にㄱいへる里」。ものゝひゝく-句集拾遺に物の音のひゝくありければ」。影を倒し-句集拾遺に「頂をてらし」一六、月夜の卯兵衞出羽の國よりみちのくのかたへ通りけるに、山中にて日くれけれは、からうして九十九袋といへる里にたとりつきてやとりもとめぬ。よすからごと〓〓とものゝのひゝく音しけれは、あやしくて立出見るに、古寺の廣庭に、老たるおのこの麥を春くにて有けり。予もそこら徘徊しけるに、月孤峯の影を倒し、風千竿の竹を吹て、朗夜のけしきいふはかりなし。此おのこ晝の暑をいとひて、かくいとなむなめりと。やかて立よりて、名は何といふそと問へは、宇兵衞と答ふ。凉しさに麥を月夜の卯兵衞哉麥を月夜-「搗く」にいひ卯兵衞-宇兵衞といふ名を月の兎にとりなしたり(大津、吉住氏藏自畫賛)文章篇
蕪村全集二〇、題春草和田の岬-兵庫にあり。九九三六百相記設比比丘形明岬隣松院に小集せしこと蓋し當時の作か日、、ゝに五月三日といへるは夏にして疑ふべく、子規集には(平)おかえりなさいきの隣松院に會す云々」のみあり王孫支那にて貴公子を呼ぶ稱。王維の詩に「春草年々綠、生兮萋々王孫歸不歸、王孫遊兮不歸芳草ㄴ五月三日諸子と和田の岬の隣松庵に會す。題をさくりて偶春草を得たり、余しきりに感慨に堪へす。王孫王孫今猶何處にありや、故郷の春色誰爲にか來去す、王孫々々君が遠遊に倣ふへからす、君か無情を學ふへからす。わか歸る道幾筋ぞ春の草(岩本氏編全集)附記、子規全集十一に蕪村の僞筆にして人物四五人を描ける畫に讃せる文を錄せり。文章にやゝ異同あれども僞筆なる由なれば之を省く。二一、百物語むさしのくにかつしかの郡すみた河のほとりに僧房有、夜狐菴といふ。その名のおかしけれはとて五六の友とち調しあはせ、百物かたりといふものを催し冬の夜のわひしきをたのしむ。四更の鐘氷り燈盞既焦んとして怪談百にみたす。されはとてたゝにやむへきにあらされは、あやしき發句して百の數を合す。それか中に火桶炭團を喰ふ事夜こと〓〓にひとつつゝ夜半翁遺草遺草-原物未見、某氏の寫しによる但し原物は蕪村の自筆に違ひなしと半翁草二二、歲末辯名利の街にはしり貪欲の海におほれて、かきりある身をくるし文章篇
蕪村全集む。わきてくれゆくとしの夜のありさまなとは、いふへくもあらすいとうたてきに、人の門たゝきありきて、こと〓〓しくのゝしり、あしをそらにしてのゝしりもてゆくなと、あさましきわさなれ。さとておろかなる身は、いかにして塵區をのかれん。としくれぬ笠着てわらしはきなから、片隈によりて此句を沈吟し侍れは、心もすみわたりて、かゝる身にしあらはといと尊<我ための摩呵止觀ともいふへし。蕉翁去て蕉翁なし、とし又去や又來るや。芭蕉去てそのゝちいまた年くれす人の門たゝき-從然草に「つごもりの夜いたう暗きに松どもともして夜半過ぐるまで人の門たゝき走りありきて、何事にかあらむを空にまどふが」。こと〓〓しくのゝしりて足としくれぬ-芭蕉の句。遺草-この遺草今所在不明今某氏の手寫せるものによりて揭ぐ隨て多少の誤寫あるやもはかられず。ゝしり、<遺草)○哉留の辯貞德翁の古跡に遊歸る道すから連歌してもとる夜鳥羽の蛙かな(マヽ)此句の哉留治定おほつかなく、とてもかゝる句は、すてゝやみにはとつふやきけれは.かたくなる人のいふやう、此句のかなとめはうるはしく聞へ侍れ。春雨くたる鳥羽の細道に、ふみまよひたる夜のありさまあはれふかく、哉留のおほつかなきにてや、一句のおもむきはあなれ。これや法外の法、俳中の俳とはいふなる(マヽ) ofなを大かたにはときもさかたしと申にそ、さらはとてたゝちにかいつけ侍りぬ。「やみ」の二字行の終にありてその下やゝあきたり。もと「やみなん」などゝありしの ああい字剝落せしもたくなる-「かたはらなる」の誤寫かさかたし-「說きもさため難し」の誤なるべし。遺草-文中脫漏多く僞筆の疑あり、且つ他にも大同小異の遺草ある由なれば暫く參考として揭ぐこの記「近世名家書畫談」に「謝蕪村が書畫戯の記眞蹟な所持せるあれども尺餘なナイトは微笑 大正貳す」をあげたりcされどその文章むげに拙くして到底蕪村へ作佛句の如され終にそも寧ろ俗臭文章篇夜遺半翁草○書畫戲之記我に妻子眷屬無、書畫をもて妻子春屬とす。我に朋友無し、書畫をもて朋友とす。我に金錢無し、書畫をもて金錢とす。我に衣服無し、書畫をもて衣服とす。
蕪村全集多くして雅味に乏し。思ふに後世何人かの爲作なるべし蕪村に雅仙堂の號ある〓とも聞かず只蕉門十哲像を描きし摺物に「鳳鳳都於東山雅仙堂蕪村」と署せるものを見たることあれど、之も僞作なりき。我に家くら田地山林川等無し、書畫をもて家くら田地山山林とす。(マこ)吾遊所へゆかす、書畫交易はゐかいをもて遊所とす。吾に無師、古今の名書畫をもて爲師と。吾地獄極樂をしらす、書畫をもて地こくこくらくとす。予天下の法を守りて、佛神の像畫を安置すといへともあへて祈らす、て神佛とす。花七日物喰は圖とも書畫の會長き日を書畫に迷ひて十二月鳳凰都於東山雅仙堂我心體をも東山雅仙堂(近世名家書畫談)畫讃類圖は寶曆七丁丑九月の作にして蕪村四十二歲の時描けるもの淡墨を以て描きその上にこの文を賛せり八仙觀百川-彭城百川の一、天の橋立圖賛(寶曆七年)八僊觀百川丹靑を好んて明風を慕ふ、囊道人蕪村畫圖をもてあそんて漢流に擬す。はた俳諧に遊んてともに蕉翁より絲ひきて、彼は蓮二に出て蓮二によらす、我は晋子にくみして晋子にならはす。されや竿頭に一步をすゝめて、落る處はまゝの川なるへし。又俳諧に名あらむことを求めさるも同し趣なりけり。されは百川いにしころこの地に遊へる歸京の吟に、橋立を先にふらせて行秋そわか今の留別の句に、せきれいの尾や橋立をあと荷物彼は橋立を前駈として、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、我は橋立を殿騎として洛城の東に歸る。共にこの道の曾長にして、花やかなりし行過ならすや。丁丑九月囊道人蕪村書於閑雲洞中(池田、魚治氏藏)蓮二-各務支考。晉子-其角竿頭に-無門關に「百尺竿頭進一步。」更に向上の進むこと江大の航してどうでもなれと投げやるな「まゝの皮」とふせきれいの-鶴鴒は橋立の名物といはるゝ程多く棲めりと閑雲洞-宮津の俳僧鷺十の住める閑雲山眞照寺をいり)文章篇
けぬ-消えぬ。小とぼし-小灯し。をいふ。一裾を高く攝げしな三のづ-三の圖は尻の邊蕪村全集(藏氏田石屋古名)賛圖翁の葛載所集善迫口杜ひて、りけるに、風どゝ吹落て小とほしの火はたとけぬ。夜いとゝく裾三のづまてかゝけつゝ、からうして室町を南に只はしりに走有へき事也。らく雨しきりにおとろ〓〓しく、いかゝはすべきなとなきまとて、四更はてに歸りぬ。雨風はけしく夜いたうくらかりけれは、師走の廿日あまり、ある人のもとにて太祇とゝもにはいかいしサンディーをはじめる無いのみどこぶーにしてSONGおろしください。こうならーめん22.5弱くらんどうしてすえーっシンクルームふかーって嬉しいろーかおれーからーめん出入平安示せようこころんアリーグループをより、明日のみあえのあり係光明こうごうのみなのみようならぶどうしたらーお茶碗ちゃんのりますこのままだけどきょうかいうんきょう焼きつきこれや其の事ですようおやすみなさい。Annestrangenあなたはー!! (焼き···アイ·オー·ディ·オース·アンアイステープルー深くなの場合は、MAN太祇云かゝる時には馬てうちんと云ものこそよけれ。かねて心得蕪村云二、馬提灯(明和年中)
何馬鹿な事云な。世の中のことは馬てうちんか能やら何かよいやら一つもしれない。太祇かはいかいの妙、すへて理屈にわたらさる事、此語のことよし田の法師-兼好。白うるり-徒然草の盛親僧都の段に見ゆLoかのよし田の法師か白うるりといへるものあらはといへるに伯仲すへし。夜半寫藤井氏藏張九齡の-張九齡の詩그照鏡見白髪」に「宮昔靑雲志、蹉跎白寿年、誰知明鏡裏形影自相憐ㄴ石川丈山「渡ら教女の大なから歡小明してく〓とて後水尾院の召を辭せ、故事龍山公近衞殿、宗鑑を訪ひて「宗鑑と同じられしがきつばた」れば夏の澤水」に宗鑑卽座に「のまんとすとつけし故三、髙の翁圖賛(安永九年)張九齡は明鏡の裏に白髮を憐み、丈山はきよき流に老の面影を恥。こゝにひとりの隱士あり、いつれのところの人といふことをしらす、常に葛てふものをたしめは、人呼て葛の翁といふ。文章篇五六五
蕪村全集五六六事(其角雜談集)。資朝の卿に徒然草に西·大阪府大夫る有樣を見て、大阪市立大学小学校11/21のけしき尊く見え候りとて特約大臣ふ今ら も上海市建设工程有限公司「身後堆如に生前一樽酒」。もとより靑雲權貴の地をいとひて、龍山公の御前に侍らされはおのつからかきつはたの秀句を遁れ、資朝の卿に逢奉らされは、むくいぬのそしりもなし。只生前一盃の葛水、身後の榮聲にかへなまし。されは〓濁明晦のさかひ、是不是いつれそや。しかしきよからんよりはむしろ濁らんには、明らかならむよりははたくらからんには。葛水や鏡に息のかゝる時葛水に見る影もなき翁かな此意を了解したるものは誰、其日くらしの翁有。このことをのふるものは誰、夜半亭蕪村也。(杜口追善集)鶏肉のメニュー上海交通大学の と い と も と い又次にこのういつのとしや夜半亭蕪村此圖書をもこたひ捜し求てこれを見るに老師の行狀のあらましをしるされたりCよて册子の序池田稻束氏の藏する蕪村自筆の草稿に、この文章の腹案と覺しきものあり。に冠しむ」と述べたり。參考のため左に之を錄す。因に云ふ、この草稿には、月溪が「右は先師夜半翁草稿也資朝の卿に逢奉し西大寺の上人を畫て師翁眞蹟の證とす月溪一吳春」と極め書して老翁の圖を描きたるものを添へたり。宿昔靑雲志蹉跎白髮年誰知明鏡裏形影自相憐張九齡ーわたらしなせみのおかはのきよけれは丈山老の波そふかけそはつかし貧しく老さらほひたる身の資朝の卿に逢奉らはいかゝ見給ふらんといとはつかしくつと物にかくれ侍る丈山-葛水に見る影もなき翁かな又-葛水や鏡に息の かゝる時ゝる時文章篇
蕪村全集五六八いセの物語むかし男あつまへ行けるに友たちともに道よりいひをこせけるわするなよほとは雲ゐになりぬとも空行月のめくいあふまて箱根山をこゆる時都の友とちに申遣しけるわするなよほとは雲助ほとゝきす自註俳諧にはかゝる句も折ふし有てよし四、土器賣賛深草のほとりに、としひさしくかくれすむあやしき翁ありけり。手つからかはらけをつくりて、いつもとしの末にはみつから荷ひいてゝ、みやこの町〓〓をひさきありくのみ。常は何いとなむともなく草のとほそふかくかきこもりて、その齡いくはくといふことをしらす。昔時より老にして今も老なり。かのしらはしの翁のたくひにやあらむ、いとゆかしきことなり。おもかけもかはらけ〓〓年の市白箸の翁-貞觀の頃跣足垢衣にて市中に白箸を賣りし翁(扶桑隱逸傳)面影もー俗に小町の作と照り とし傳ふる歌に「面影の變らでたとひ命に蕪村文集五、俳仙群會の圖賛守武貞德をはしめ、其角嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を畫きてありけるに、賛詞をこはれて、此俳仙群會の圖は、元文のむかし余弱冠の時、寫したるものにして、こゝに四十有餘年に及へり。されは其拙筆いまさら恥へし、何そ烏有とならすや。今又是に賛詞を加へよといふ、固辭すれともゆるさす。則筆を洛下の夜半亭にとる。花散月落て文斯にあら有かたや烏有-「いづくんぞあらんや」といふ義にて世の中に實在せぬをいふ蕪村文集章篇
蕪村全集六、狐の法師に化たる畫賛京都内藤氏の藏に月溪が法師と女とを描きその賛に蕪村がこの文と句とをかるものあり文は全くんかけにして只「倶せられたるおうな有けり」とあるが異るのみ句の次に「雪洞蕪村賛」と署せり。をうな-女。むかし五條わたりに、なまめける法師に倶せられたりけるをうな有けり。世のそしりをいとひて、みそかなるところに住けり。いろおとろひてかの法師かよはすなりけり。女いといと身をうらみてゆく衞なくなりけり。しら露の身や葛の葉の裏借家右はきつねの法師に化たる畫に賛をこはれて、とみにかいつけやりける。とみにか蕪村文集蕪村自ら墨繪にて鍬を描けるに賛せるものにしてその鍬の柄の所に更に小さく七、鍬の圖賛左の如き呑獅の賛あり。鍬の柄にとまりて蝶の工夫かな呑獅必化-不夜庵二世五雲。此ほと必化の不夜菴に、茶番といへることをもてはやせり。多く哥書物語或は小うた淨るりなとの要文によりて、各景物を出す。あるか中に今宵は呑獅あるしして、國性爺と題せり。ことに興あるさまなれは、翁もしはしの歸路をわすれて、蛤にたゝれぬ鴫や春の暮夜半翁(大阪、土居氏藏)こと呑獅-島原の妓樓桔梗屋の主人、太祇門蛤にたゝれぬ-鷸蚌の爭の故事をきかせたり八、漫畫の讃漫畫の賛-蕪村が宮津淹留中交際せし同地の三俳僧の像を漫畫風に描き、詞書を附せるものにて、當時三牌を弄するなどの事ありし僧が磊落不覊、鰌を捕へ骨かばそれを蕪村が揶揄せる文句なりきといふされどその文あまり極端なるを憚文章篇有馬(以下缺)少シおかんの氣味かある(缺)。(理、こゝに無緣寺利尙輪譽、俳號兩巴を描く。)和尙めを(缺)むいめにある(缺)はへさせてく(缺)しかしあ(缺)が上(缺)いつて(缺)を(缺)るおぞいやつしやクン〓〓。
蕪村全集り、線香の火にて處々肝要の文句を焦し去りし由にて今通讀する能はず。缺とせしは卽ちその焦がされし部分なり。右畫宮津黑田氏藏。和尙何やらしたゝかとれた樣子じやな、うら山しいわい。詳こゝに眞照寺七世和尙惠乘、俳號鷺十を描く。)御兩君御出か(缺)いかに〓〓(缺)いやじややはり(缺)てたのしみたい。貳枚ともにからふきまんすいとうじや。(株)、こゝに見性寺和尙觸譽、俳號竹溪を描く。)長く細く九、怪物圖譜怪物圖譜-各種の妖怪を俳畫風に描き、〓れる文學きは書全然消逝せ明的のない見所なけれども、上海市药材有限公司妖怪癖窺畫宮津黑田氏藏にり蕪村、きしものなるべし榊原とのゝ古屋敷に、夜ナ〓〓猫またあまた出ておとりけるがのちにハ人をなやましけるにつき、榊はらとの家臣稻葉六郞大夫鐵砲にて向ひけるに、彼猫またちつともおどろかず、胴ばらをたゝいてこゝをうてと云ければ、稻葉心にくゝおもひ五十目玉中だめ-鐵砲を中段に構へてうつことを中だめに打けるに、はさりけるとそ。(註、こゝに猫また腹をたゝく狀を描き「おれかはらのかわをためして見おれにやん〓〓」又鐵砲を腹に擬せる人物を描きて「稻葉六郞太夫」と記せり。)猫又の腹より玉返りして中〓〓打事あた小笠原何かしとのゝ座敷に林一角法師泊りけるに、夜更て數百人の足音して踊る體に聞えける故、ふすまを押明うかゝひけるに、數千の赤子あつまりて一角坊をなやまし、行かたしすれ也けるとそ。(註、こゝに襖をあけて赤子の集れるを見居る人物を描き「林一角坊」と記せり)。出羽の國橫手の城下地の崎の橋うふめのはけもの。註こゝにうぶめを描く)關口五郞太夫雨のふる夜此はけものに出合、力をさ□□行けるうぶめ-俗に產婦死して鳥となれるものなりといひその聲子供の泣くが如しとこの鳥夜中飛行して子供を害すなどゝ傳ふ力をさ□□行ける文章篇
蕪村全集とそ。其後ゑぞか島合戰の時甚手からをあらはしけるとそ。佐竹の家中に今にその子孫有。詳こゝに右に記せるさまの畫あり。)山城駒のわたり眞桑瓜のはけもの。註こゝに右の畫あり)大阪木津西瓜のはけもの。註、こゝに右の畫あり。)鎌倉若宮八幡いてうの木のはけ者。註、こゝに右の畫あり。)遠州見つけの宿夜なきばゝ。その家にうれいあらんとする時、此はけもの門口に來りなきけるとなり。人又その聲を聞て思はすなみたをこほしけるとそ。佐駒山城相樂郡狛村。古來瓜の產地にて催馬樂にも「山しろの狛のわたりの瓜作り」といへり。うれい-愁ひ。かゝる事二三度に及ひてその家にかならすうれいと有しと也。(詳、こゝに右の畫あり。)京かたひらか辻ぬつほり坊主のはけもの。めはなもなく一ツの眼尻の穴に有りて光ることいなつまのことし。註、こゝに右の畫あり。)一〇、辨慶圖、賛袖を七道具を背負ひたる辨慶の辻君がとらへて引張る圖に賛せり京うちまいり-京うち參余むかしはしめて京うちまいりしけるに、月しろき夜鴨河の流に添つゝ、二條を北のかたへ吟行しけるに、色黑くたけたかき法師のすみのころもまくりてにして、あつまふりの小うた聲おかしくうたひ行有けるに、堤のもとより辻君とおほしきかつとはしり出てたもとをひかへ、いとこゝろにくき御有さまかな、文章篇
蕪村全集我やとの草の枕、露はかりのいとまを、なとていとひ給ひそ、無下にはえこそ過しまいらせしと、月におもてをそむけてうちほのめきけれは、ひか目にも見給ひつるものかな、我は比枝の西塔何かしの坊に、阪東太郞と呼れたる顯密の法師なり、さあるたとき佛の御弟子をいかにけかし奉らんや、かしこくもゆるしたはせとひたわひにわひけれとも、とかくうけひかさりけれは、法師今はとてたみたる聲うちあらゝけて、なんだ辨慶理りしらぬ奇異のくせものよと、やかて袖打はらひて力足とゝとふみならし、たゝはしりにはしりける、いと尊くおかしかりけれは、梅翁か風格にならひて花すゝきひと夜はなひけむさし坊(日本名畫鑑所載自畫賛)なんだ辨慶-「何ンだ」といふを「涙辨慶」にかけていふ秀句一一、鍬の賛そも〓〓神代のむかしより、今に傳へて形もかはらず、廣くは國を治め、ちひさくは家をとゝのふ道具にして、雪中の筍も黃金の釜も、皆之をもて掘出せり。されば米も麥も綿も金も、すべて是より出さるはなし。自由自在の此物をわすれて、及はぬ事を願ふへからずとそ。畑に田にうち出の鍬や小槌より(水島氏編全集)○狸の圖賛(人間の服裝を爲したる狸七つを彼の草畫にかきその翁といへば俳諧の祖神の如く思ひ□□花本大明神と安置すなり。是全く大德の人
蕪村全集周圍に書きし文なり)と水但し文章蕪お客様の250gでので、疑はしく思はるなりけり。我等も折あらば人の形にもあらはれ、みゝずの蕎麥馬の糞の牡丹餅などにて尊き人を害し、其不得如何にもつたなき振舞風流なし、此俳諧の尊きに入門なし、俳風を極め當今の宗匠の鼻高きを不便さに、三味線の絲よりほそき俳諧-點ちんうかれしやん。(水島氏編全集)○安良居祭圖賛門人樣亭筆を握る其さま生國の鳥羽にもとつきて彼僧正の余毛を製山水を畫せは(マン眞□にきひなけなり此畫にがける安良爲祭の圖尤妙にして愚老のおよふへきにあらすいつれの年にか加茂の川岸に吟行して若芝にいこふ時此さまを見たりしもまのわたりにおもひ出たり。辨當にすくひあけけり春の水夜半翁蕪村醉中にたわれて題並に畫扇をかざして躍れる人物二人を描けり。文中誤脫と覺しき所多く、且つ梅亭の描く所といひなから終に「夜半翁題並に畫」は實際極ちょし(恐らく原物の畫に蕪村の賛せるものてとう思い考しかに一、一、〇、〇と文した雜類晋我追悼曲(延享二年)早見晋我世を讓Statistics介我の門杖か〓りり風の號に流 たんつかそ其其で蕪二門年選挙老字號ある さん村田大北壽老仙をいたむ君あしたに去ぬゆふへのこゝろ千々に何そはるかなる君をおもふて岡のへに行つ遊ふをかのへ何そかくかなしき文章篇
蕪村全集蒲公の黃に薺のしろう咲たる見る人そなき雉子のあるかひたなきに鳴を聞は友ありき河をへたてゝ住にきへげ-竈の古言。へけのけふりのはと打ちれは西吹風のはけしくて小竹原眞すけはらのかるへきかたそなき友ありき河をへたてゝ住にきけふはほろゝともなかぬ君あしたに去ぬゆふへのこゝる千々に何そはるかなる我庵のあみた佛ともし火もものせす花もまいらせすすこ〓〓とイめる今宵はことにたうとき原本本文の終に「庫のうちより見出つるまゝ右にしるし侍る」と附記せり蓋し晋我五十囘忌(寬政五年)追善の折蕪村の當時の追悼文を發見して集中に加へしなり釋蕪村百拜書(いそのはな)二、春風馬堤曲と澱河歌(安永六年)謝蕪邨シ耆老-六十歲以上を者、七十歲以上を老といふ余一日問耆老於故園。渡澱水篇
蕪村全集故園-攝津東成郡毛馬村製作專門馬堤は毛馬の振込過馬堤。偶逢女歸省〓者。先後行數里。相顧語。容姿嬋娟。癡情可憐。因製歌曲十八首。代女述意。題日春風馬堤曲春風馬堤曲十八首○やふ入や浪花を出て長柄川○春風や堤長うして家遠し○堤ヨリ下ヲ摘芳草〓與藏塞路〓蕀何妬情裂裙且傷股○溪流石點々踏石撮香芹多謝水上石〓儂不沾裾○一軒の茶見世の柳老にけり妬情-文集に「無情」。撮-とる。〓儂-「儂をして裾をぬらさしめず」○茶店の老婆子儂を見て慇懃に無恙を賀し且儂か春衣を美ム○店中有二客能解江南語酒錢擲三緡迎我讓榻去○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らす○呼雛籬外鷄籬外草滿地雛飛欲越籬籬高堕三四○春艸路三又中に捷徑あり我を迎ふ○たんほゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得す去年此路よりす○憐みとる蒲公莖短して乳を泡○むかし〓〓しきりにおもふ慈母の恩江南語-浪華詞。楊-茶店の床几。古驛三兩家-天明六年几董初懷組に「古驛兩三家」。憐みとる-文集に「憐しる蒲公莖短して」·文章篇
蕪村全集慈母の懷袍別に春あり○春あり成長して浪花にあり梅は白し浪花橋邊財主の家春情まなひ得たり浪花風流○〓を辭し弟に負て身三春本をわすれ末を取接木の梅○故〓春深し行々て又行々楊柳長堤道漸くくたれり○矯首はしめて見る故園の家黃昏戶に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春○君不見古人太祇か句그行々て又行々-文選古詩行々重行々」。くたれり-文集に「くれたり」。天明六年儿董初懷紙「故〓春深し行々て又たんかん楊柳長堤道漸くく藪入の寢るやひとりの親の側澱河歌三首○春水浮梅花南流蒐合澱錦纜君勿解急瀨舟如電○菟水合澱水交流如一身舟中願同寢長爲浪花人○君は水上の梅のことし花水に浮て去こと急カ也妾は江頭の柳のことし影水に沈てしたかふことあたはす老鷽兒○春もやゝあなうくひすよむかし聲菟-宇治河。急カ-すみやか。篇
蕪村全集(安永丁酉春興小册)この壁書は蕪村の自筆にして、當時の額面のまゝ今な之を壁間に揭げて、ほ京都寺村氏に藏せらる。その下に俳を論じ句を練りし往時の夜半亭小集の狀想望すべし原品は訓點を朱にて記し、左傍の振假名無きのみにて、すべて點印論にのする文章と異同なく、只最後に「夜半亭」の三字あり三、取句法取句法一其角之豪壯嵐雪之高華。去來之眞卒素堂之酒落各可チカラアル句イタリタル句ツクロヒナキ句シヤレタル句法麥林支考雖 句し格賤陋一各、爲一家。亦有可取者。包括諸家者蕉翁也。而其角嵐雪伯仲蕉翁者居半。麥林支考之徒十一而已〃世有稱蕉門者。○不不知蕉翁之風韻。其所吐句尙所論スル片ハヲ不脫支麥之俗習。稱之伊-勢流或美濃流可也 豊得曰蕉門乎。人號曰田舎蕉門知言哉。意匠體也而於則用也。雖而於則調聲意匠卑俗者不足v一一一取譬若使に寒人穿金甲-持花載入見則曰盛哉而敵兵思尺白及臨頭;居然俟死者〓徒是塡溝之具耳。サル牛ハ然則意匠善而於則不調可乎。而於則不調則理不通。還是喩有啞人1懷胸大地經緯之才欲說秦楚圖羅價而不能說撫心ヲトウ〓〓セントメム指口吶々然止者。亦無所用ル〓知祥諸之大道|無/他。喃月賣花使近心於慶寰外帝及産翁其嵐之流亞。専以脫俗氣爲最。選句之法。席上各日其志專討論。不可憚他門。或面諛或屏息而退誹他者。不容再出席。ヲ云一原本には本文の終りに「右は古夜生亭會席の壁書なるを今爰に附錄して跋とす」と書きそへたり。一點印論四、漢詩文文章篇
蕪村全集五八八魂歸來賦魂歸來々々々。湖南路傍塚。土薄草悴。江風髪峙。魂歸來々々々。江東市中居。水鹹風腥。娼歌穢耳。詹叟先生曰ト隣高士魂其歸藏雖□梓維翁之〓。薄枯てまねかすとても歸花嶽雪骨凍。車塵撲面。詹叟-樋口道立の叔父。五三六頁參照蕪村遭百拜草に記せり奇石を寫生したる畫譜の始紀州和歌浦奇石磊魂、盡如香木有紋理、海岳有風流者、可恨哉。甚可弄翫、本邦乏如米謝寅寫譜畫淡路島の畫賛にて詩は「淡路通ふ千鳥のなく聲に幾夜ねざめぬ須のの守守の譯なるべしと覺しけれど參考のためか書畫共に僞筆、ぐ○須摩對淡島、燕烏馴兩邊、夜々群呼去、時驚關吏眠、謝寅畫百賛五、句卷評語その一-半紙二つ折を橫綴にし、表紙に「可仙〓裏に「漫考夜半」(蕪村自筆)と記すC句主詳かならざれど字體の の生物にてのにして所のに蕪村自筆の評語を加へたり五號活字にて記せるものこれなり點印には「春盡鳥啼」、路傍槿」二種を用ひ共に靑肉なり印文は芭蕉の句によりしにて別に小魚三尾並べる狀の朱印なも用ひたり之も芭蕉の句「魚の目は涙〓の意をとれるなり。原物は池田稻束氏の藏にかゝる(その一)可仙雁なくや病て有つる夜に似たり落散紙にしはしおく露晝の月汁賣家にこしかけて錢の相場を女ふれ來る賣といふ句に錢なと付るはあしゝ一句よけれはゆふ立の古傘は骨はなれ文章篇
蕪村全集長ウ瓢たんに並て絲爪つり置し灸すへるこれも思ひの煙也明星の曉ちかくきらめきて伏障子に羽打蠅の冬さ一重帶にて出るけいせい藪からつゝく杉のむらはへ見の秋や深草の露れ子雀に佛のめしを打くれて〓人に吉野の奥の花とはむ二疋の馬の揃ふ鈴おと陣打こしも鳴物を聞こと也句作今少しの寄手へ送る柳樽月の夜を甥の法師の寺にねてふく近來蕪村口質を奪ふ句多し蕪村早ク句集を出して陳腐をのかるへし等や甥の法師の寺訪はん筆築や誰か悲しむ風古き小袖のさむるむらさき呂路路春盡鳥啼春盡鳥啼春盡鳥啼も傍傍硯も槿槿春の水筋五九〇蕪村
蕪章村全集小豆撰ル窓の日影も西あかりわつかなる錢かそへゐる渡し守つもるへき程にもあらぬ雪ふりて春待顔に羽子をつく也牛枯て博へきちかし勞ひさしき榎伐へきの引つれし雷湯は衣旨原の句にもあれと東にはれて暮の月なからに門涼する辻〓〓に金拾しと札はりて河內通ひの木綿商人聲たみてかたる淨留理笑ふらむ夷はゝ木ゝの暖簾の蔭に見へかくれ路講春盡鳥啼路春盡鳥啼路付よろし春盡鳥啼春盡島啼傍春盡鳥啼とて鱧たゝく音傍傍槿槿槿
蕪村全集獲したりと魚くれてゆく花踏て重き草履をぬきすてん春盡鳥啼たゝみし几巾の兎角 かたむく漫考夜半(その二)おふた子の聞なれて寢るきぬた哉よき句なれどもかの鹽辛きといふ趣向ならん歟古寺や飼ふともなしに紅葉鳥もみぢ鳥俳かいには不好一夜さは不自由も雅なり鹿の聲雅なり不好うれしに藤井博士の紹介せるものその二-「江戶文學〓究ㄴにして、句卷の主は詳ならず前の歌仙卷と同じく、靑朱兩色にて「路傍槿」「春盡鳥啼」と今蕪村の評語ある句のの點印を用ひたりみを抄出すうれし-原句の「雅なり」を〓うれし」と添削せしなり橋よりも梢見下す紅葉かな漢畫山水を見る如しさび鮎やまだ起々の渡し守起々の渡し守のきげんには澁鮎よりは若あゆのかたしかるべからん爪靑き野飼の駒や草の 露おかしき案じ所珍重娘の子橋にまたせてもみぢ哉高雄楓橋と成とも題なくては聞えず茸狩や花には行ぬ所までよき句なれど趣向古き心地す牛部やに養蟲の鳴や後の月今の世の蕉門の流行體也文章篇
蕪村全集飽までも拾ふ木の實や京の兒蕉流にはあらねどその三-雜誌ホトヽギス所載寫眞版による几董の句に蕪村の評を加へたるものなりと。京都西陣河合長藏氏舊藏。此趣向云々-蕪村に「富士一つ埋み殘して若葉哉」の句あり(その三)船見ゆる麓を埋む若葉哉此趣向此間中若葉に案入候へとも、とかくね候、此句もいまた得たりとは申されす候。四五間の庭にうれしき若葉哉ケ樣の句が當時はよきに成てもてはやし候へとも、は左のみ取不申候。大竹の葉に吹るゝや蝸牛句は此方宜候へとも、芭蕉に乘てそよきけりと云趣向□□出來か我等芭蕉に乘て-芭蕉の句「雨がへる芭蕉にのりて戰ぎけり。〓もあれば。竹深し笠にこほるゝかたつふり此句は小さき見付所なれともおもしろく候。にてはなく候。併上品の句○追加、長者宅址之記これは僞筆にして、しかも所々脫漏誤寫とおぼしき個所あれども、もと眞蹟によりて摸寫せるものかと思はるれば參考のため錄す蓋し蕪村の漢文はその作少ければなり。饗十兵-十の下に萬字を脫せしならん。長者宅在茨城郡袴塚村。盖古那珂郡地。倭俗謂富豪爲長者。此所謂長不知何姓名人。國人相傳長者富豪聞於天下。其宅地方十餘里。堀河天皇永保年中。陸奥國巨魁〓原武衡反。源義家拜斧鐵東征。率十萬餘騎。路經本國。長者迎勞義家。饗十兵於宅三日三夜。人皆驚歎其巨富。義家暴師奥州三年。武衡伏誅。義家凱旋再過長者。勞饗如初。義家以爲人臣富豪未聞有如長者。他日爲朝廷患者必在此輩。不如滅長者以絕後患。竊遣衆掩殺長者云。寛永年中野人耕野。多得猪鹿頭之枯骨。不知其有幾千萬。相傳斯地是長者庖風。又多出破瓦。堅緻有布帛紋。或有文字。美澤可愛。好事者爲爲硯。絕妙文章篇
無世比鄴瓦。試以瓦投石。石或損缺。瓦如故。於碧雲洞中風談雅會皇都應皆川大儒愿需書三菓居士俳名蕪村(遺草)書簡篇
一、召波宛○(明和七年)春雨甚おもしろき光景ニ候。しかれは先日御ものかたりの人形以下京都田中王城氏藏。被下置、忝小兒雀躍仕候。別而好物之品大慶仕候。くし貝御惠投、朔日御會之事得意仕候。愚老ひろめ之事も無滯相濟候間、愚老ひろめの事-明和七年春蕪村が夜半亭をつぎて文臺開きせし事なるべしよつてこの手紙の年代を同年と推定せり。御安心可被下候。いつれ近日參可得貴意候。以上三月廿二日再白、おいつ樣へも可然御傳聲可被下候。以上おいつ-召波の妻の名再白、宿の者へ御傳書忝かり申候。以上簡篇
蕪村全集春泥先生尙〓〓わらひの根御掘らせ、々馬南ニたのみ申度候。○三被差置可被下候。菓朔日に又馬南-大魯の舊號。(マヽ)嵯我の吟は定而御聞可被下略仕候。見失ふ鵜の出所や鼻の先これも雅因亭探題ニて候所、案替候故入御聞候。雅因-發句篇一三一頁參照。餘期□□候。頓首五月二日○葎亭-三宅嘯山の居。葎亭後園の筍御配賦被下忝、實雪中ニまさりし心地御座候。扨御歌仙併御句共、明日出點可仕候。今日多用艸々貴答御免可被下候。以上五月六日召波君蕪村○御つゝキ被成〓御座候由、めて度存候。すいふん保重第一ニ御座候。しかれは御藥の義ニ付、竹老人へ五日の品可被遣由、何時ニ而も御勝手次第ニ可被遣候、手帋相添可差遣候。一、御句とも引墨仕候、いつれも引墨の御句おもしろく承得候餘期拜眉萬々。頓首十月廿一日春泥樣夜半○蕪村夜半書簡篇
蕪村全集三つ物-歲且三つ物の脇句なり。昨日者御苦勞忝存候。三ッ物、坐右拂へは目に初霞のかた可然被存候、それニ御極メ可然候。大竹兩子へ御傳聲申聞せ候、兩子ももとり御立寄可申と被申候。何事も期拜顏候。頓首十二月十一日春泥樣蕪村○蕪村昨日者御出席被下おもしろく候。しかれは旨原評並ニ兩吟詠草もたせ落手、御句いかにも可然候、跡付見可申候。御到來の由、見事の松茸被掛貴意忝被存候。早速賞味可仕五席庵とふそ御出席可被下候。餘は期拜面候。頓首九月十一日春泥樣蕪村候。蕪村○昨夜鐵僧社中與會ニテ、不夜菴主も出席ニ付、雁岩書則不夜房へ相渡候。さためて不夜房〓貴家へ相屆可被申候。先日者每々御馳走ニ罷成、終日相たのしひ大慶仕候。且仲英詩もたせ被下慥落手仕候。夜前も不侫句なし、五日ニハ何とそと存候得とも時節多用心もとなく候。只御身ノ上うらやましく被存候。以上七月二日召波樣蕪村○如右故此間者律亭殘念々、御句共ことのほか御出來の方御座候則△之多少ニテ甲乙判然タリ。眉山への手番早速御屆もたせ被下辱被存候。廿七日鼓舌亭、とふそ出席仕度候。畫三昧おのつ鐵僧-京都の人、明和八年歲旦帖、其雪影等に句見社中與-社中と。雁宕-新花摘參照。不夜庵主-太祇。蕪村書簡篇
蕪村全集(マヽ)から誹膓薄ク罷成候。何事も期拜眉候。頓首十七日波君落日庵○(マヽ)夜前者御出被下候所草々、今日もかはらぬもやうにて途炭の苦しみニ而候。御ホ句此たひはいつれも善美いたし候、則引墨仕入御覽候。御うら山しく被存候。拙老なとは一向無之、苦吟いたし申事ニ御座候。何事も貴面。己上五月廿八日阿の名產被下置、今日早速たのしひ可申と大慶仕候。以上春泥樣夜半○何事も期拜眉候。頓首落日庵途炭-塗炭の誤。ホ句-發句。阿の名產-阿波の名產。今日早速たのしひ可申と大慶仕候。夜以上半自笑-書肆八文字屋。自笑露すり物一向さた不承候。御句中ニテ御座候露のすり物なとは、世人ニあたらぬ物ニテ、錢ヲ入すりちらかすは損のかたニテ候。いかゝ自笑ニ承り可申候。拙老此間は寺の畫壁ニ往來致候而、只今歸宅草々及御答候。已上八月十七日○百姓の生キてはたらく暑かな雷に小屋燒れけり瓜の花夕立や足のはへたる明俵蟲干や甥の僧訪ふ東大寺右此ほと仕候、あしく候得共書付候。小松君可然御傳達可被下候。以上書簡篇
蕪村全集六月廿一日○秋冷御平寧被成御座奉恭喜候。しかれは先頃御草稿いまた愚評不相加、そのまゝに差置候、北野參詣の節持參可仕候。延引御宥恕奉希候。且釜座御有幸ニ作、昨日不夜御不參と奉察候。此間は免や角塵用疎懶相過候。縷々期拜眉可申取置候。頓首八月廿五烏召波君落日庵○莊洛西等持院にありし故な北野參詣の節-召波の別り。釜座-召波の本宅京都釜座にありしかそこに何か喜び事ありしならん。落日庵秋暑甚候處、御無爲ニ御しのき被成候由、傳承めてたくそんし奉候。まことニ先日は御蔭德を以、奇なる物共拜見大慶仕候。殊ニ終日御馳走ニ罷成おもしろく罷歸候。其後御禮なから參申度存候へとも、兎角世ニくるしみ半日ノ閑を得かたく候。とふそ可得貴意候。巳上七月廿日尙々おいつ樣へも宜奉願候召波君老近々老雲○昨日は朝食後〓大腹痛ニテ、粥ニ養れ罷有扨々殘念至極存候。今日は平生ニ相成候、何卒北野參りちよと御訪申上度存罷有候。御句共則引墨仕候、愚も二三句案し候得共、いつれも御連中へはいかぬ句故、御さた不申候。しかし海鼠は思ふこと云ぬさまなるなまこ哉此海鼠はよく候、まきらかしの風情ニてはなく候。書簡篇
蕪村全集畠にもならて悲しき枯野哉是は案陽鹽辛シ。○案陽-案じ樣。過日は得寬話大慶仕候、彌御平安奉賀候。今日は葎亭雅會殘念被存候。しかれは鍵屋孫兵衞殿へ用書差遣申候。近頃乍憚早々相屆候樣ニ小童へ被命被下候はゝ、辱次第ニ御座候、何卒明日相屆候樣ニ奉願候。昨日會日を取ちかへ葎亭へ罷越、偶坐半日の閑ヲ得候而、却而雅興薄暮歸宿仕候。しかし愚句いつもなから別而昨日は拙作、甚遺恨御座候。餘は期拜顏候。頓首召波君落日庵○折節近所ヘ罷出御卽答不申上候。先尅-先刻。先尅者御帝上、沖ノ小舟(マヽ)至極おもしろく被存候、ぬけかけは百地句に最早出申候、殘念御座候。竹老人へ御文被遣候由、則私手帋も被遣可被下候。方金三百疋ニ而〓御座候。拙老も少々胸痛、今晩は御見舞不申上候、折角御保養御引こもり可被成候。以上十月廿一日小兒事御尋被下忝被存候、當分のいたみニ而御座候。春泥樣夜半(マヽ)ぬけかけは百地句に最早出申候、百地-百池の誤。殘念以上十六通、中には名宛なきものもあれどすべて召波に宛てたるものにして、今田中氏の藏たり。年代は多く不明なれど、しは明和八年十二月なれ召波の歿せば、の書簡なるべし恐らく明和七八年の頃當分のいたみニ而御座候。夜半二、大魯宛○(安永二年)書簡篇
蕪村全集秋冷相催候、御安康被成御暮めてたく存候。拙無恙候。先頃は預御書忝、ことに御すり物每々御句ともおもしろく、社中とも御噂申出、於愚老よろこはしき事に御座候。愚此間は句も無之候。無爲庵此ほと登京四五日滯留、例之はいかいいたしたのしみ申候、又冬はのほり可申と申候、其節は浪花へも參り可申との事ニ候。曉臺はいかい出來被爲則候由、凡董ものかたりに候。我等は左は不存候、曉臺も又しれものと存候。相替事無之候へとも御安否御尋旁々如此に御座候。餘期重便候。以上九月六日門を出れは我も行人秋のくれ菊つくり汝は菊の奴哉此間は例之風塵句も無之おかしからす候へとも書付候。神戶川西和露氏藏。文中樽良上京のこと見ゆ、こは安永二年九月はじめに樽良が上京せし折のこと(几董日記により推定)と思はる、卽ち大魯が浪花に移り住みし年の手紙なり被爲則-「則」の字よみ難し、今暫くかく讀みおけり。大魯樣蕪村○(安永二年)御返書相達拜見、御安全御くらし其上日々入門の人も有之候よし、芽出度存申候。家內のものどもへも御懇御申越され喜び、尙拙老より宜く御傳へ申上候樣にと申事に御座候。あしのかげ跋の事、御氣に入候よし大慶仕候。此間無爲庵も上京にて物語致候。あしのかげ序跋を具足致候は甚うつとう敷候故、やはり序ばかりにて跋はいらぬものと存候、いかにも跋なきが可然候。右の跋を序に御用ひなされ候て隨分調ひ申候跋かいてよともとむと申す處に、序かいてよともとむと書替候て至極に候。尤も序は一本亭かゝれ候よし傳承候。一本亭も狂歌の先生の由、さ候て俳諧の序にはとり合ひ如何と存候。一本水落露石氏の「聽蛙亭雜筆」所載によるあしのかげ-大魯の編に係る句集なるべし。今傳本あるを聞かず。と几董自筆日記安永二年のこの書のこ條に見え、且つこの手紙を送りしは大魯が大阪移住の後(大阪移住は安永二年秋なり)と思はるれば、今年代を安永二年と推定せり。一本亭-一本亭芙蓉花、發句篇八五頁參照。さ候て-「さ候はゝ」の誤寫か書簡篇
蕪村全集亭序をかゝれくるしからぬ事に候故、愚か序の次にまたかゝれ候て可然存候。畢竟一本亭の御せわの事に候故隨分可然候、いか樣とも御思召次第に候へとも、無爲の了簡もおもしろく候故御相談に及び申候。愚發句亦別にかいつけ置申候。〓字にて可書春雨や人住て煙壁を洩る瓜小家の月にやおはす隱君子甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋缸打鰒になき世の人とはん假名を可付右の四句又御加入宜く御賴申上候。洩といふ字にて御書き、るとおくり假名御付可被下候。缸といふ字、莊子にはどのほとぎといふ字を書有之候哉不覺候、莊子にあるホトギといふ字御吟味假名付被成御出し可被下候。尙追々可承候、取込草々申上候。い春雨や-この句「俳諧新選」に見ゆ。る十月廿一日大ろ樣○紫狐庵○(安永三年)めき〓〓と寒く相成候、御家内無御障めてたく存候、拙家みな〓〓無爲くらし申候間。御安意可被下候。先日は獨吟すり物おひたゝしく御登せ、處々配分いたし候、御句ともいつれもおもしろく於京師甚大評判、於愚老愉悅之至に御座候。別而きぬた蓼の蟲御秀吟存候、きぬたは古き樣に候へ共、我夜をくるゝと申所甚宜珍重に御座候。二つの古さとも巴人に先作在之候へとも、少も等類無之めてたく承候。愚老とかく風塵にくるしみ例の通句も無之無念に御座候。漸水落て細脛高き案山子哉武藤山治氏藏。きぬた、蓼の蟲-背陰く句ㄱ選に健身の教食べ放題被なるでしょう遊ばぬか一그首中に出で甲午」と記し隨てこの手紙も永三年なるべしに二つの古さと芦陰句選ㄱわれか身に古〓ふたつ秋の暮」、この句新雜談集及前記の自筆「甲午科興入首」C中にも出づ巴人に先作-夜半亭發句帖(巴人の句集)に「古〓を書簡篇
蕪村全集ふたつ擔うて袷かな」。の句新雜談集には下五〓ろもがへ」とあり)白髪相憐-宿昔靑雲志、蹉跎白髪年、誰知明鏡裏、形影自相憐(張九齡)。枯尾花野守か鬢に障りけり白髮相憐の意に候。狐火の燃つくはかりかれ尾花是は鹽からき樣なれども、いたさねはならぬ事にて候。御鑒察可被下候。凡董會當坐時雨老が戀わすれんとすれはしくれかなしくれの句世上皆景氣のみ案し候故、引違候而いたし見申候。眞葛かはらの時雨とは、いさゝか意匠違ひ候。右いつれもあしく候へとも、書付ぬも荒凉に候故、筆の序にしるし候、餘は期後便候。頓首九月廿三日〓鹽からき- -理窟のつみたるを形容する語大魯樣蕪村別啓毎々乍御面倒又例の革足袋ほしく御座候、娘も手習に參候故はかせ申度候。拙か足は小ク候。九もん八步くらいにて能候。おくのが足形は別に相下候間、足袋やへ御仰付可被下候、御めんとうなから奉願候。以上○(安永三-五年)御返書相達忝拜覽、御渾家御〓寧めてたく存候。拙いつれも無爲くらし申候。御安意可被下候。小すり物とやらいまた拙かたへはとゝき不申候。樣蕪村娘も手習に參候故はおくの-蕪村の娘の名。足袋やへ御仰付可被下候、御め武藤山治氏藏。簡篇
蕪村全集御發句いつれもめてたく承候。ちか頃無理成哉留之事御尤と被存候、拙句ニも折々有之候、連歌者流やかましく可相申と存候へ共不妨候。わたの花たま〓〓蘭に似たる哉素堂春の水ところ〓〓に見ゆるかな鬼貫老なりし鵜飼ことしは見えぬかな蕪村右之類はいつれも不苦歟と覺申候。先頃拙句にきのふけふ高根のさくら見ゆるかなこれ等は無理歟と存候へとも、かまはす致置候。見事哉と申留御尋いかにもあしく可有之候、しかれ共愚老はくるしからす存候。美哉哉留切字などの論につきてちか頃無理なる-蕪村のは、なほ百池宛の書簡、也哉抄の序等を參照すべし。素鬼蕪堂貫村洋々乎美哉盛也悠哉なとの類はすいふんと可然候。見事も和俗のことはにては見〓物事と申心に候や。左候へはあしく候。愚意には美ナル哉の事と存候。連哥者流は漢學無之人多候故、却而俳諧士よりは不さはけ成論も時々有之候。しかし世ニ論に預り候てにははいらぬ物に御座候。伏水柳女小すり物呈覽いたし候。婦人の句にしては酒落に候。ふしみにては柳女は大將ニテ候、男子も及ひかたく候。れらも愚社中ニテ候故大慶いたし候。春帖追すり出來次第相下可申候。おもしろき御趣向も候は二三日滯留にて下坂いたしはいがいも仕度候。とかく卑賤之句法はあしく御座候。小すり物-歲旦などの小印刷物なり。婦人の句にしては酒落に男子も及ひかたく候。ATING (間のものなるべしは非ずと思はる)。書簡篇
蕪村全集とも-蕪村の妻の名。御内室樣へもよろしく御心得可被下候。ともゝよく〓〓御傳言申上候。凡董へ御傳言相心得申候。四五日逢不申候。かしこ三月廿八日芦陰主人紫狐○(安永二-五年)一昨日は御書簡忝く拜覽、御安寧珍重存候。しかれは急成すり物、愚句初冬の吟御入用の由御仰越候所、此節畫用のみに取かゝり候而、絕誹に而一句も得不申候、しかれ共愚句なくてならぬとの御あふせ故、無理にうめき出候句を書付候。杜夫魚のゑものすくなき翁かな玉あられ漂母か鍋をみたれ撲急案にてすくれす候へ共書付候、短景草々。かしこ紫狐(安永二-五年)武藤山治氏藏。年代不明なれど、大魯大阪在住中(安永二年秋-六年夏)のものなるべし。兵庫在住中はすり物など出す餘裕なかりし如し。なほ几董自筆日記安永二年九月廿七日の條に「芦陰舍月並のスリ物に句を乞、しくるゝやさし荷ひ行炭俵」とあれば、或はこの年の摺物にあらずやと思はる。かしこ十一月二日大ろ樣○し(安永六年)○寒氣はけしく候、御壯健御くらしめてたく存候。愚老無爲消日いたし候。○御句あまたいつれもおもしろく承候、とかく兵庫はキ子相生之地と被存候、浪花御住居の時よりはけしからぬ超乘ニて候。當地社中みな〓〓御噂申出候。有か中にも足を折て頭に餘すふとんかな愚老三十年前の作に、かしらにやかけむ裾にやふるふすまと、わひ寢の床に屈伸をさためかね候。足を折て坊主あたまを憐たる才覺、愚か及ひかたきところに候。ともし火に氷る筆を焦哉〓紅茶冰茶大の°の三霜月十三日」京都港の街道干所載い兵庫に移住せし年の燒氣光花椰奶茶送れる手紙と思はる魯の兵庫移日はことなりキ子-貴子。相生の地-相性の地。けしからぬ超乘-甚しき進步。書簡篇
蕪村全集露愚句ニ齒あらはに筆の氷を嚙夜哉と、貧生獨夜感をつふやき候。子も又寒燈に狸毛を焦したるあはれ、云んたなく候、よき兄第と存候。凡董道立君も無事に候。御家内宜たのみ上候。此ほとは句は無之候、あとより可申上候。かしこ狸毛-筆。此ほとは句は無かしこ十二月二日大魯サマ夜半○(安永二-五年)この手紙原物未見、四日市鈴木廉平氏の手寫せるものによる御すりもの只今相達さて〓〓おもしろきしゆかう、ことに□□□之二章鳳毛おのつからめてたく存候。されとも貴子老□之□□□これも又めてたき御事、末たのもしく存候。一、念珠御せわの至存候、右念珠一音法師方に入用の方在之由、先達一音噂に付この度とくと賴遣し候間、直に一音坊へ御わたし可被下候、ゐらさるものを調置右念珠一音法師方に入用の方在之由、先達一音噂に付直に一音坊へ御わたし可被下候、ゐらさるものを調置候てこまり申候。一、愚老このほとは發句も例なから無之口おしく候。漸私語頭巾にかつく羽織哉쥬眇なる醫師わひしき頭巾哉冬木たち家居ゆかしき麓哉浪花益々はいかい盛にて□□□めてたくし〓うら山しく候。上候。頓首十一月十六日大ろ樣漸尙あとより寬々と申蕪村三、几董宛(明和八年)定而相達可申と存候。宛。昨日幸便ニ手紙差出候、出可被下候。曉臺へ書狀、大阪土居氏藏。「うくひすを」の句は明和八年の蕪村歲旦帖に見ゆれば同年の手紙なるべし。十日ニハ是非御大かた貴子よりも御狀御出可被成と存候、-書簡篇
蕪村全集所ニ御下シ可被下候。正月五日うくひすを雀かと見し夫も春几董樣狀ちんハわり合ニ被成可被下候。以上紫狐庵○(安永三年)啼なから河越す蟬の日影哉(以下連句篇二四、昔を今の卷にのせたれば中畧)右之通あらましつゝり置候、序文も出來候。明日御めにかけ可申候。なをとくと吟味可致候。几董子夜半○(安永三-五年) (安永三年)大阪土居氏藏。歌仙は巴人三十三囘忌昔を今の草稿と思しければ、年代を安永三年と推定せり。夜半神戶川西氏藏。大魯在阪中のものと思はるれば年代ん安永三及至五年と推定せり御物遠相過候彌御無難被成御暮めてたく存候、愚老も無事に候。二柳無膓書狀先頃飛來之處、打わすれ延引に及申候、御免可被下候大魯表六句御付御下被成候や。伏見柳女すり物に貴句加入之義所望申來候、何そ御書付可被下候。無爲庵句も加入いたしくれ候樣ニと申來候。久しく無爲に逢不申候ゆへ、近頃之句も不承候。御覺の句候はヾ一處に御書付可被下候。伏水甚いそぎ居申候。何事も拜眉と申殘候。以上打わすれ延引に及申候、御免何そ御書付可九月廿八日來月發句會題木からしル董樣ふとんル夜半書簡篇
蕪村全集○(安永五年)白せん子畫御さいそくのよし則左之通遣申候。かけ物七枚よせ張物十枚右いづれも尋常の物にては無之候、はいかい物之草畫、凡海內に並ぶ者覺無之候。下直に御ひさぎ被下候儀は御用捨可被下候。他人には申さぬ事に候、貴子ゆへ內意かくさず候。かけ物八枚造候、是は御入用次第餘り候はば御返し被下候とも、又は大略に御見斗被下御ひさぎ被下候とも、何分任賢慮書畫珍本雜誌に沼波瓊音氏の紹介せるものによる。几董の「名月や朱雀の鬼神」及蕪村の「名月や主の翁」の句により、安永五年と年代を推定せりりといふべし。俳諧物の云々-自讃至れとも、度候。一鼠かたへ今日返事いたし一音へむけさし出候。哥仙評□御草稿御□見之所至極御尤に候、その趣にて猶文章潤色いたし一鼠-越前敦賀の人大阪正月殁、年五十三。に住す。凉袋門、天明二年評□-評卷か。相□候間、一鼠子へも右之旨御申傳可被下と申暮候、尤几董も同意ニテ候と書取申候。貴子よりも近〓〓其旨御申越可被成候。尙御めにかゝり愚老趣意をも御話可被下候。曉臺も書狀出可申と存候、是も御めにかゝり御咄申度候。何やかや取まぎれ跡先わすれ申候、いさゐは面上と申殘候。以上月の御句朱雀鬼おもしろく承り申候、尋常の事はおかしからず候。朱雀鬼-八董の句「名月や朱雀の鬼神たえて出ず」をさせり。この句几董自筆日記安永五年の條及び「月〇級(安永五年)に出づ。尋常の事はおかしからず愚句左に又月今宵名月や主の翁舞出よ名月や夜を逃れ住む盜人等盜人の首領歌よむけふの月月今宵主の-この句も「月の夜」に出でたり。書簡篇
蕪村全集山の端や海をはなるゝ月も今名月やかしこき物は人ばかり名月や露にぬれぬは露斗仲丸の魂祭せむけふの月右いづれ可然や御評〓〓何事も明日寛々可申承候。以上八月十一日八董樣蕪村○(安永五年)雁唐辛子(マヽ)御安全珍重多々、この方御尋被下度存候。いまだはか〓〓しく無之、大黑町の鈴木多門にかけ申候、全快可致と申候故安心い蕪村雜誌「木太刀」明治四十二年九月號に足立球谷氏の11寫經社集又「中〓〓〓の蕪村の句は續明烏出でたれば以上総合金をして安永五年のも(安永五年)被下度存候-「被下忝存候」の誤寫ならん。未だはか〓〓しく-娘の病氣のことならん。六六三頁參照。無爲菴-樗良。暮雨-曉臺。たし候。今日も右の醫家へ連れて參り候。一、無爲菴未だ歸京なく□□相立れ申候。暮雨へ昨日尋ね行候處鎖戶有之むなしく罷歸候。月居おもひ立至極に候故、暮雨出京ならば相催し申度ものに候、隨分物の入らぬ樣にいたし候が、俳諧長久の基にて候。併し暮雨直ちに歸國と被存候。一、明烏見申候、至極よろしく候、御返却いたし候、御〓書にかゝり可然候。愚集板下の事、とふで御苦勞に預り可申と存候、一兩日中先歌仙二三卷も淨寫にかゝり可申候、とくと草稿相認め置可申候。さりとはむつかしくいやな事に存候、それ故一日〓〓と相延申候。明鳥-續明烏のことなるぺし。明烏は安永二年の編なれば年代合はず。至極よろしく候、御返却いたし候、御〓書にとふで御苦勞に-「とふそ」の誤寫か書簡篇
蕪村全集寫經集-安永五年の經社集」のことならん。寫寫經集追すり廿五册參り候。貴家より御配り被成候所御書付置可被下候、さし合ぬ樣に配分いたし度候。雁蕃椒早く御出來にて、愚評左に西に星見ゆ小田の水是は當世句にて、とかく幾度參り候も此體多く候。諸家の作者も只此所に留り候樣に被存候、然れとも格別珍敷事はなきもの故、無是非事に候。あしき作の句よりは、先づよろしきと申物故、とかく離れかたく候。腹の鳴る夜の方可然候。腸に秋のしみ込と申樣なる事も、耳に古り候ておかしからす候。生出てつれなしの蕃椒、めてたく被存候。江戶の人の句に、西に星見ゆ-八董自筆日記安永五年の條に「落雁や西に星見ゆ小田の水」の句出づ。「膓の鳴夜天行雁の聲」。腹の鳴る-右の句の次に耳生出て-右の次に「生ひ出てつれなし背戶のとうからし」やさ男ふつり〓〓と唐辛子此の句の方、詮なしよりはまさりたる心地に候。喰て詮なしは理におち、其上細か成る案場と存候。紅の女にうとし、少ししみたれ候心地に候。雪中菴なとは却つて取可申所にて候。何にもせよ、妙句は有ましく候故、先はよろしき方と申物にて候。田子への御手紙相心得申候、早速御屆可申候、致て快案の珍重の事に候。以上八月廿七日良夜とふかたもなくとひくる人もなければ中〓〓に獨なれはそ月を友蕪村喰て詮雪中庵-蓼太。先はよろしき方と申物に田子-田福か。早速御屆可申候、致て快案の由、村書簡篇
蕪村全集月の友よりはまさりたる心地し侍り几董樣夜半○(安永七年)たにさくかい付したゝめ遣候御落手可被下候。大和の何來來ル亥の春本卦の賀ニ付すりものいたし度旨ニ而、愚句竝キ子の句を乞ニ先日書狀到達之所失念、又さいそくに預り候。急成事ニ候故代句いたし、則たんさくニしたゝめ相下候、左樣御心得可被下候。何來子か六十一の壽を賀して年是亥子の日にさゝく千々の松几董右之通いたし遣候。愚句ハつちのとの亥の春又みとり子にこまかへ几夜半(安永七年)池田某氏藏。つちのとの亥は安永八年なればその前年冬の手紙なるべく、蕪村の賀句は蕪村文集にものせ几董の句も實は蕪村の代作なること之にて知らる何來のことは文章篇隱口塚序參照。几董り老行さきの千代の松風吹つたへてつきせぬ宿のめてたさを大和の國なる何來のぬしか本卦の賀に申侍る一字借音大和假名いの字を兒の筆はしめさん用つめ成句ニ候へとも、折ふしはケ樣の手妻もいたして見せるも能候、所詮賀の句に洒落も出來ぬ事ニ候。几董樣夜半○(安永九年)夜前の歌論愚老勝也、今日も源氏物語見申候。我則之偏屈者こまり入候、おもはす老疳を發し今日はくたびれ申候。夜前之燒物は一之事也此者に御渡可被下候几池田豐島氏藏、乾氏の手寫Cせしものによる歌論-つきての論なりしなるべし源氏物語中の歌に我則-蕪村門のち几董門書簡篇
蕪村全集桃すもゝ寫しとり被成候哉、早々見度候三番目の句してと直し可被下候。此少婦先日妻之供いたし、貴家にて治三良とやら申人美男のよし、歸後執心之よし承候、夫故態々遣し申候、是戀情之仁心也。追付ひるめし燒物早々可被下候。短冊はわすれてもよし花と鯛三月十二日几董主人夜半桃李安永九年刊のものの中華國民主党巻のみなの無村而してこゝに三番目の句を「して〓訂正刊大阪市中央區第二t按てににほんと かんとれも夏ホルト一覽發行的意味しならんかつ年代を安永九年夜半○(安永九年)此ほとの御會不坐甚殘念御さ候。御安意可被下候。冬こたち月骨髓に入夜哉沓音寒き柴門の 外(安永九年)池田小林氏藏。桃李の歌李仙History Landonの手紙なりは如し又夏の卷蕪村の「牡丹散て」の發向は安永二年の明烏、俳諧新選等に見えたりされど同歌仙の草稿を凡董より春坡に愚老所勞も最早よろしく候、キ董讓れる際の几董の添書に「安永庚子の年にやありけん云々」て、桃李興行の年を安永九とあれば、之に從年と推定せり。此句老杜か寒き腸杜詩を諷へは寒き唇右三句いつれ可然や、御定メの上第三あんし可申候。無げいのおもひもよろしく候へ共、とかくワキしみたれ候方ニ而、一卷引立申間敷候。右の冬木たちは實ニ杜子美か語風有之候。早々御返書相待候事ニ御座候。以上七月廿三日キ董樣夜はん○(安永九年)御無爲御くらし被成めてたく候。此間兩吟わきいかゝ御定候や其節申殘候ほたんちりてうち重りぬ二三片蕪村きキ夜はん伊勢前川素川氏藏。今碧梧桐氏の紹介せるものによ前出七月廿三日付につゞく手紙なるべし。此間兩吟わきいかゝ御定候や蕪村書簡篇
蕪村全集卯月廿日の有明の月八董右之ワキ甚よろしく、第三御案可被成候。さのみ骨を折らすして、いさきよきワキ體にて、愚句も又花いはらよりはさらりとして、ほたんのかた可然候。冬木立月骨髓に入夜哉几董此句老杜か寒き腸蕪村五里に一舍かしきこき使者を勞ひて同右之ワキ第三に相極候。四句五句早々工案可被成候。とかく表は餘りむつかしきは見倦いたす物故、さら〓〓といたす方よろしく、冬木立の句は悲壯なる句法にて、實に杜子美かおもむき有之候。それ故直に右のワキ付候、第三の意はもろこしにて隣國或は遠き境なとへ使をつかはし、諸侯のむつびをいたすおもむ日董村き也。五里々々ほとに休み茶店なとを置て、にて候。右二句共に尋常の句法にてはなく、につくしかたく、猶期面語候。以上七月廿五日春夜主人○(安永九年)使をもてなす光景くわしき事は筆談夜半(安永九年)池田小林氏藏。これも前二通の手紙につぐものにして桃李に關する用件なり。金ふく-金福寺。連句會草稿」によれば安永九年九月廿五日、金福寺に會を興行し。無村も出席せり篇葛の翁山崎宗鑑の所にて-文章賛参照。この手紙は蓋し右の文を草する際きゝにやりしものなるべしこゝろよき天氣にて御座候、金ふく明廿五日に相定候よし、此こときの天氣に候はゝ是非出杖をこゝろかけ候。山崎宗鑑の所にて、かきつはたの發句し給ひける大臣の御名覺不申候、何大臣何公と御書付可被下候。雜談集の內にしかと有之歟と覺申候、御見出し此便りに御書付可被下候、急々文章ニ入用の事こさ候。無御失念直に御書付愚妻に御渡可被下候、此書簡篇
蕪村全集御めんとうなから賴申候。一、兩吟昨日百池より相とゝき申候、いかにも仰のことく四五句いたし替可然候。いとをしと代りてうたをよみぬらん九日は菊の盛なりけりいつそこの句より御案し替被成間敷や此菊の句あしらいとは申なから、前の寄さほとニ無之と存候、やり句はこと更寄のよろしきか可然候、しかしあしき句にも無之候故、やはり居置へきや今一應おほし召うけ給りたく候。能登ゝのと博士の句、しかとつかまへたる句付にては無之候へとも、とこやら付たる心地に候故、あとあんし可被下候、何事も明日芭蕉庵にて御物語と申殘候。以上兩吟-以下の文意によりて、桃李の兩吟なることを知るべしいとをしと-桃李冬の卷中の句。いかにも仰のことく四五九日は-この句桃李には「出船つれなや追風吹く秋」と訂正されたり。居置へきや-すゑ置くべきや能登とのと-桃李の夏の卷第十九第廿句の「能〓殿の弦音霞むをらかたに蕪村」「几董」博士ひそみて時を占をさすとも、九月廿四日几董樣夜半用書○(安永五-末年)さむく相成候、御壯健被成御凌めてたく存候、御賢兄御病氣段々御快候よし、まづ〓〓御安心珍重の御事ニ候。すり物草稿愚意書付候、なを思召も候はゝ再應御相談ニ可被遣候。文章至極よろしく候、先夜御ものかたり道すからいたし候冬の月案し見申候。左ニ古傘の婆娑としくるゝ月夜哉月婆娑と申事は、冬夜の月光なとの木々も荒蕪したる有さまニ用ひ候字也、秋の月ニハ不用、冬の月ニ用ひ候字也と南郭先生夜半大阪北田氏藏。南郭先生-服部南郭か。書簡篇
蕪村全集南郭は實曆九年に歿したれば蕪村江戶在住中その塾に學びし〓ななどありしか被申、それ故遣ひ申候。ばさと云響き古傘ニ取合よろしき歟と存候。何ニもせよ人のせぬ所ニて候。嵐甲いたみおもしろく候、急成事故添削もそこ〓〓ニいたし候。橘仙へ相渡申候。いさゐは御めにかゝり。以上几董樣夜半○(天明三年)加久夜長帶刀はさうなき數奇もの也けり、古曾部の入道はしめてのけさんに引出物見すへきとて、錦の小袋をさかしもとめける風流なとおもひ出つゝ、すゝろ春色に堪す侍れは山吹や井出を流るゝ鉋屑右の句ことは書ともに御加入可被下候。嵐甲-蕪村門、京都の人。その歿年不明なれども、津守舟安永カ年正月刊)にそ安永氏を付後の事項をしはの句出でたれば取扱所の の安永末年までに歿せしなる〓いたみの句」とは追悼の句のことなり橘仙-書肆。大阪砂原氏藏。山吹やの句天明三年の几董初懷紙に出でたれば、同年の手紙なるべし。夜半八董樣きのふ見し萬歲に逢ふや嵯峨の町傀儡の赤き頭巾や うめの花夜半右蕪村○(安永五年)此間は遠方埒もなき事、しかし宿もとにて少〓用をいたしよろこひ申候。魚尺畫料御ひかへもたせ被遣、御やつかいの御事、慥落手忝存候。然ニ小海老風味あしきよし、かさねてよろしきを又もらひ申たく候。○ゑひさて御せわの至、十七匁則添申候。いかにも五合ニ而よろしく候。愚ハもはや精進故。鳶からすの畫きぬ地之事いさゐ相こゝろ得申候。同しくは以下五通大和上市、澤井〓三氏(凡董門可翠の後裔)藏文中道立君より丁碑云々レ洛東芭蕉庵再興の折のことなるべくよつて年代を安永五年と推定せりなほ芭蕉庵再興記及び佛心子宛書簡參照。同しくは書簡篇
蕪村全集これこま子-召波の子維駒これこま子の幅を見申度候。先年畫候故覺不申候。尤圖式はこと〓〓く替候てしたゝめ候へとも、おもむきを一見いたしたく候。一、筆の事被仰越候處、日々畫ニ用ひ候故筆先切レ候て、中々板下なとニハ一向用ひられ不申候。それ故遣不申候。殘念之事一度、もし月溪方ニいまた餘分有之候はんか、うけ給り候て、もし有之候はゝ月溪の人にて遣くれられ候樣ニ相賴可申候。しかし是も禿筆ニ相成候はんと察申候。昨日道立君より石碑ヲすりたるを五枚もらひ申候、ことの外よろしく出來御互ニ生涯の面目よろこはしき事に御さ候。〓〓章も參候故早々順達いたし候。おくのほそみち季遊子へ被仰遣御らん可被下候。何事も貴面申のこし候。かしこし〓季遊-季遊宛書簡七八四頁參照。何事も貴白砧-蕪寸門下の一人なるべし。几董自筆日記安永五年の條に九月十四日夜砧月居蕪村等七八人几白董居に會し菊具有意ONE.て句作せし當夜し白砧の點にてなるべし蕪村高點を得九月十七日尙々景物二品辱落手うれしき事ニ候。白砧子御越被成候はゝ、さりとハ名點者哉と譽候段御傳可被下候。何ニもせよ近來の佳興、又誰そ御すゝめ可被成候。御内樣へもよろしく。八董樣蕪村○(安永八年)御物遠御さ候、近々御下灘御心いそかしく候半と存候。しかれは十三日金福寺魯追善之法會、欠座の人百池月溪自笑月居雲良田ふく此方の社中右之分は不座と申さたニ候、維駒子も日來大魯とハ不和ニ候故出席無覺束候。左候へは甚不連と被存候。松宗師例大魯の歿せしは安永七年十一月十三日にしてこの手紙は按ふに翌年十月十三日金福寺にてその一周忌を几董主催の下に行ひし事ありその時の案內に對する返事なるべ下灘-攝津灘への旅行なりc魯-大魯。雲良-蕪村晩年の門人。不連-連中不揃の意。しかれ書簡篇
蕪村全集松宗師-金福寺の住僧。のことく多人數と被存候而、こしらへ等おひたゝしく仕込られ候ては甚きのとくニ候。此旨かねて金ふくへ被仰達可然存候。もちろん愚老なとも此節風塵中と申、老足旁出席計かたく候。(マン)何分宜御相談可成候。何事も近々御めにかゝり可申解候。己上十月四日几董樣夜半○彌御安寧被成御暮めてたく存候。しかれは四暢之圖早速御見せ被下、幸望之人見え候故及相談候處餘り懇望ニも無之候や、以之外下直成思ひ入ニ御座候。中々埓の明ぬ事ニ御座候故、右四暢之圖直ニ御返却いたし候。御落手可被下候。表具等はよろしく相見え候へとも論ニ不及、只々畫之おもしろき物ヲほしかり夜半被申候。此四暢之畫ハ南宗之畫法にて、素人ハ餘り取らぬ物ニ御座候。それ故相談出來かたく殘念之至に御座候。先方へよろしく御取なし被仰遣可被下候。餘ハ期面上御物かたり。以上五月廿四日二白、廿一日御會是非出席とたのしみ居候所、家內のこらす梅亭へ呼れ候而、愚老ハ留守をつとめ居申候。甚殘念之事ニ御座候。廿六日於金福寺段々可得御意候。以上几董樣蕪村○御かわりなくめてたくそんし申候。御句とも引墨いたし候。尙御工案可然候。凡董うせいなとは猪名川之ことくニさた致候故一番おもしろき手の句見申度と、諸子もおもふ〓ニニ御座候。餘村京都の人。うせい-鳥西、蕪村門、猪名川-力士の名にて句合など當時行ひしか書簡篇
蕪村全集期面上候。頓首五月廿五日几董樣蕪村○九湖子之ふすま受取置申候。畫ののそみ是又承知いたし候。飮中八仙ハちとむつかしき物ニ而候故、急ニハいかゝニて候。好事の輩往來いたす所故、目をおとろかす物をと御望ニ候へ共早卒に畫候物ニハ、さほとおもしろき事はいたしかたく候。とかく心安き物ならてハ出來不申候間、其段御申達可被下候。愚老も今日ハ風邪の心地ニ而、少々惡風の心地、明日なとはいかゝ可有之候や無覺束候。不快ニテ候はゝ八日迄之間ニハ中〓〓あひかね可申候間、是又御申達可被下候。何事も貴面御物かたり。蕪村九湖-彫工にして又俳諧以上澤田氏藏。をよくす。蕪村門なるべし(飮中八仙-杜甫の飮中八仙歌中の八人を畫けとの註文ありしならん艸々頓首十月三日几董樣○蕪村大阪渡邊氏舊藏。翁の短册云々との事あれば安永二年と推定でる廿三日付手紙-つそやの蕉翁短册云に々」と關係あるに非るか佳棠-書肆汲古堂。ふくゑん-不詳。了簡したひ-了簡次第。昨夜は御馳走歸路例之佳棠同行ニ而、ふくゑんにしはらく三更ニ歸菴、扨々くたひれ申候。翁のたんさくもたせ遣候、御落手可被下候。よき樣ニ御取はからひ何事も御まかせ申候。足下之御了簡したひいか樣共御賴申候。今朝〓下婢ひま入延引に相成申候。蓼太の狀は今明日中ニしたゝめ遣可申候。たんさく御いそきゆへ先ツさし遣候。以上。二月廿五日ふくゑんにしはらく三更たんさく御いそ書簡篇
蕪村全集八董樣夜半○けしからぬ秋暑に候、いかゝ御しのき被成候や、打絕御無音案申事に御さ候。盆前御仕廻何と被成候や、相かはらぬ風塵御樂之事に御さ候。御見舞にも參り申度候へとも、事多候故意外之御ふさた御免可被下候。今日寺迄人遣候故、御安否御尋旁如此に御さ候。とかく盆中御めにかゝり寛々御物かたりと書留候。以上七月十二日尙々御內樣もよろしく御賴申候。きぬも手のいたみ少々さし起り候故、先頃6手前へ罷越養生を加へ、野瀨秀作殿御くすりをたべさせ申候。少々よろしき方に候故御安意可被下候。○昨日雄山へも聯に發句書付漸相下候。聯のうらおもて左に書大阪土居氏藏。きぬ-娘の名か。雄山-大阪の人、にその句見ゆ明烏等付申候。法師ほとうらやましからぬものはあらし人には木のはしのやうにおもはれてとはこゝろえぬ兼好のすさひならすや自剃して凉とる木のはし居哉方空子に申つかはす御佛のなを尊さよけさの秋又目に見ゆる秋の姿や麻衣几董樣○夜半池田、小林氏藏。書簡篇
蕪村全集なりしと見ゆ雷鳴恐怖-蕪村は雷嫌ひ今日は快霽と被存候、昨日者雷鳴恐怖御察可被下候。くの義一先つ今日は歸宅いたし可申哉と人遣申候、段々御陰にて快方におもむき候よし大慶の至に御座候、貴家滯留も甚こゝろよく候よし申事に御座候故、又々三五日も御留め被下御せわ可被下候、今日はちよと罷歸り申候ム又保養にも可相成候故御歸し可被下候、それ共直に居つゝけに居可申候はゝいか樣共御計意可被下候、彼是御せわかたしけなき次第に御さ候、御內樣へもくれ〓〓御禮被仰可被下候、いそき候故草々申殘候。以上六月廿八日几董樣蕪村○おくの細道一卷出來いたし候、御熟覽可被下候。是は春泥舍士くの-娘の名、當時病氣きたるならん。保養のため几董方へ預け置蕪村京都内藤氏藏。御熟覽可被下候。是は春泥舍士おくの細道一卷-圖卷な蕪村はこの外しば奥の細道を圖卷に描ける事他の手紙にも見え又その圖卷の現存せるものもあ春泥舍-召波。士川-攝津大石の門人。騏道-大津の門人。柳の脇-一夜四歌仙其三博多摩郡の脇句な紙もそのいのにとの野はじる小數れに歌のばし仙も夏てはの安水二年これは郭公のた永明つ吟facultativeの のは大阪府中国会議院代決しがたし橘仙-書肆。川のよりはおもしろく候。湖南の屏風內々御噂申置候通、乍御世話騏道迄御通達可被下候。畫の具夥入甚迷惑仕候。柳のワキ離々としてまた蝶を待草、是はいかゝ哉、月居いまた便無之兎角不屆者こまり入候。兵庫灘の贈物いまた橘仙より不參候。貴子よりも御催促可被下候。此少女御見しり置可被下候、漸一人抱申候、ほとゝきす待や都の空たのめほとゝきす平安城を筋違にいつそやの蕉翁短尺いかゝ相成候哉、先方へ御尋可被下候。宇治田原へ遣し申度候。廿三日春夜樣夜半宇夜半書簡篇
蕪村全集○京都藤井培屋氏奮藏。版による寫眞道君-樋口道立。今日檀林會御つとめ被成候よし、めてたき御事に候。愚老腹瀉いまた不調不參、扨〓〓殘念之至に御座候。道君其外御出席の御かたよろしく御傳可被下候。先日〓かたく禁酒にて、一向俳情も取失ひ候、されとも口おしく候故、今朝左の句案し候、御(マこ社中衆儀判御たのみ申候。ほたて秋暮鹽淡くほたてを嗜む法師哉蓼の穂を眞壺にたしむ法しかな嗜を又藏すともいたし見申候いつれ歟たての穗に乾けるしほをたしむかな甲斐かねやほたてのうへを鹽車秋のくれ鳥さしの西へ過けり秋暮淋し身の杖わすれたり秋のくれ秋のくれなとは深く案候はゝよき句も可有候へとも病中叶ひかたく候一、湖柳樣御たのみの物二幅御達可被下候。四暢の圖の內を揮毫いたし申候、是は得意の物ニテ候。湖柳樣へもよろしく御致聲可被下候。御神事のせつはけしからぬ御馳走、おとろき入候。御令內へもよく〓〓御禮被仰可被下候。近日快氣を得候て、御見舞御ものかたりと申のこし候。以上八月廿四日湖柳-大津の門人。書篇
蕪村全集儿董樣夜半○雜誌「ホトヽギス」八ノ八所載寫眞版による。京都河井長藏氏舊藏なりと明日談林會相心得申候。朝飯後よりまいり候て相極メ可申候。此節いそかしき事言語道斷に候。諸方とも延しかたき畫用のみ相加ルにはいかい是も何と云事ニ候や、遠近都鄙のもとめ多くて扨もこまり候へとも、さほとの奇妙もなく、只々いとまを費シ候八甫の事いさゐ相心得候。□□七はいかにもおもしろき事と耳ニひゝき候。御家內御催のよしとふそ此方の者共も遣申度候。しかし相つゝき物入多くこまり候。何事も明日御相談をとげ可申候。以上九月廿日八甫-傳不詳。七-「太郎七」とよまるれど確かならずこの手紙は「「家家書翰集、俳諧書翰集」中にも收められ그無緣寺の日をなつNo.しみ梅花」-莚帆につし飛岸のうめLの二句香をれども、Alexander : 【のでてるし け几几董樣夜半○小兒微恙御尋被下忝存候。早速快氣安心仕候。拙老も余程能候今少々ニ而御座候。一、御句とも甚おもしろく候。則愚意書印掛御目候。拙老なとハ雅俗相混候而、心中あはたゝしく相暮候ニ付、工案之いとまも無之遺恨至候。何事も期拜眉申候。几董樣夜半○きのふ〓又熱く今ニ平臥いたし候。摺物畫之事大延引、是は吳春をたのみ置候、定而今明日の內に出來と存候。悲しさや釣の糸吹あきの風董夜半雜誌ホトヽギスに京都西陣河合長藏氏舊藏品として紹介せられし寫眞版による。早速快氣安心仕候。拙老も余程能候夜半中川四明氏藏として「俳句に關する展覽會集」所載の寫眞版による。是は吳書簡篇
蕪村全集いな妻の一網うつやいせの海右二句之內に而摺物ニ御出可被下候。金福寺會之事延引も可然と存候。其內道君佳棠も上京と存候。曉臺書は御屆申上候。猶一兩日之內可得拜顏候。以上八日几董樣夜半道君-樋口道立。日樣夜半○京都中野羊我氏藏。几董よの無村、大阪府中央區運転浜市せしものなり。如果蔬菜の食べ放題を分は几董よりの手紙の實大教授にてそのより哲二の魔女女せるが最後の「夜半宗匠更のあり畫る宛名は消して、下に「子」の一字を加へ〓几にその下方に「夜半」と署名せり(御推量前夜は御馳走忝奉存候。御老苦奉推候。檀林會正白子より便次第相定メ可申候。(さしたる義もなく殘念承知候摺物之句さむしろに錢置く花のわかれ哉(おもしろし御きハめ被成候彌此句に定メ可申候。如何御尋申入候。今明日ハいつれ參會可申候。早々頓首かならす御出待入候夜半八董子三月十五日八子夜半宗匠○(安永五年)昨日句會御缺座、御病婦並にやぶ入にて嘸御なんぎ察入候。昨日孚升、香載、月溪白紐にて相勤、はやく仕まひ候て花頂山の花見に同伴いたし其佳興御噂申居候0御發句おびたゞしく御示案愚意書付候。無腸發句まゐり候由、すりものゝ事はいかゞ可致哉御めにかゝり御相談可仕候、しかしいらぬもの歟。曉臺上京早速四五日己前愚老方へ尋來に預り、其後曉子も呑溟より細書にて候へども、□□□參りかれ候、今日は御尋可申と存候所、曉臺も伏見の桃にゆくやう傳承り候故、さしひかへ申候。曉子右風邪故早速几董子御尋申がたく候間、水落露石氏の「聽蛙亭雜筆」所載による。候、曉毫も伏見の桃に-几董自筆日記安永五年の條に几董曉臺と桃山に遊びしこと見ゆ當時のことか呑溟-曉臺門、奥州信夫書簡篇
熊村全集の人。京いたし居候趣を九董子へしらせて給り候樣にと申來候。存候。例の丁寧家懇情の人と東木や町松原下る二丁目北村やしき呑溟馬陵表札竹内新四郞右の通の表札有之候由。昨日雨谷見え候てすり物御届申候。布舟へ去年中の發句愚評並に返書遣し候間、一兩日中に御尋可被下候。己上二月廿一日尙〓御家内樣へよろしく御傳可被下候。ル董樣雨谷-伏見の門人。御便りに御下し可被下候。布舟-播州高砂の人。藝村曉臺とゝもに東野西山の表に吟行して夜桃林を出て曉嵯峨のさくら人○水落氏の「聽蛙亭雜筆」所載(もと寶舟三ノ四所載)による。浪花正□-「正名」なるべし昨日浪花正□御越し物語承り候處、貴所には不例の由、いかゞ御□や、けしからぬ熱の由傳聞、近來は度々熱或は筋骨のいたみ御なやみ、是も大事のことに候間日來御保養專一に御座候。十六日後無爲庵會有之候半と存候。愚老儀日限有之畫どもにて、寸陰を惜みしことに御座候。關白樣へ上り三幅對むつかしき物どもにて甚こまり申事に候。右の體故愚老は當に成不申候。御連中へもその段御傳へ可被下候。乍然七つ過にはちよとなりとも參り候て、百句計も點いたし度候。それも又一興に候。相變る事も無之候へども、御不沙汰御尋まで態々如斯に御座候。御口上にて御樣子承り度候。以上神無月十三日夜半几董樣尙々みなし栗此者へ御かし可被下候。題發句見合度もの有之候故ほしく候。○(明和七年)御互に月迫いたし候てこゝろ闇時節、然は大阪士川子の宿の名所御書附可被下候。杉月より湖柳子へ届物、貴子より御たのみ申入候。きのふ正巴子より金貳百疋、關白樣へ上り-「上る」の誤なるべし。みなし栗-其角編、三年刊。天和夜半題發句見合度もの有之候故ほしく候。書簡篇
蕪村全集六六〇畫料御惠贈被下辱御挨拶可被下候。とし守や乾鮭の太刀鱈の棒此棒にて懸鳥ども追廻し、あるひは自眼み凌可申と存候。臘月二十二日八董樣八董樣夜○昨夜は不怪〓光いかゞ御詠候哉、我等は閑窓に獨酌いたし候。可被下候。少々二日醉のきみ亂毫御免可被下候。八朔や偖明日よりは二日月名月や夜は人住まぬ峰の茶屋良夜の句は、良叟の嵐吹く草の中よりけふの月是より外なく候。十六日几とふ樣蕪○昨日よりは不輕春寒、書室之毫針のことく飛驒の山家おもひやられ候。詠草とくに拜見いたし候。二三所愚意添墨仕候。御考へ可然候。夜半以上二通雜誌「鷄」大正十一年十月號に島道素石氏の紹介せるものによるc紀伊木下氏の藏なりと。前者の「とし守や」の句は明和八年歲旦帖に出でたり良叟-樗良。御作いかゞ御聞せ蕪村以下二通雜羔「野火」大正十三年三月號所載C前者は名古屋嘯月庵氏藏。後者は西湖館佐藤氏 なりと扨初懷紙發句是を御出し可被下候。初午や鳥羽四塚の鷄の聲月居いまだ便無之候哉、集も取〆いたし度候。廿二日八董樣猶一兩日緩々拜顏可申上候。以上八董樣夜半〇きのふは佳棠に倡嵐山へ參太秦より雨降なんぎ無極、しかし歸路にハ管鳥が樓に昇り、今朝歸り申候。御書中の趣いさゐ承申候。定日ハ愚老は出席いたし候。い°、だ士が蓑も嵐の花衣拜顏緩々御物語可申上候。以上彌生七日八とふ樣夜半夜半ふ樣夜半四、几董、九湖宛○書簡篇
蕪村全集六六二大阪北田紫水氏藏。角力ひらき-句合會なる不夜-不夜庵二世必化坊五雲。呑師-太祇門、島原の妓樓桔梗屋の主人。茶番興行-文章篇鍬の圖賛參照(五七〇頁)今霄角力ひらき珍重ニ存候。すいふん罷出可申と存候處、不夜呑獅〓今晩茶番興行、拙老上客ニいたし度由、五雲坊使者にて被參候。御存之通之譯故、あのかた云のへかたく罷越候。扨々遺恨之至ニ被存候。依之御行司へ花一枚進上いたし候。これじ而御宥恕可被下候。御連中へのこらす可然御申譯可被下候。明日手からのほと一見可仕とたのしひ居申候。以上廿八日夜九湖樣夜半翁几董樣九湖-九湖堂といふ彫工明和より安永初年までの京都俳書にその句散見す。夜半翁五、正名、東菑、春作宛○(安永五年)以下十四通武藤山治氏藏。むすめ事-手の痛みのことなるべし、次出九月廿二日付のものには多少輕快となれることを報ぜり。朶雪飛來先以御安全被成御暮珍重存候、愚老無爲ニ候。むすめ事はいまたはか〓〓しく無之、御察可被下候。紙料之義御厚情忝、几董への爲替大金ニ候へ共、此方〓相渡可申候、左樣思召可被下候。ちよ良下坂御出會被成、御はいかいも有之蚊しま法師も出一、合のよし、佳興さそと想ひやられ候、樽良發句題を出候所不雅成由、文章家之さたさも可有之存候。御句いつれもよろしく候。扨今更の句評の事、樗良も蚊しまも御氣に入らす候よし、いかさま兩法師之添削のことく無之候而、隨分よろしき御句と存候。愚評は只々今更に我に添是にて至極と存候、しかと御極メ被成可然存候。しかし蚊しまむすめ此方〓相中國民大學生人味噌素酸味特價$1570元/57上京せし折のことかに正名の名も見ゆ下阪せし折の併諧は何に出づるかく手紙の年代を安永五年と不詳今「時雨笛」により暫蚊しま法師-上田無膓。兩法師の添削の如く--二人の添削の如く直さずとも十分宜しとの意。一、しかし蚊しま書簡篇
蕪村全集六六四法しへは御さたなし可然候。先達而被成候御句帳も、とくと見候而評いたし上可申と存候處、とかくけしからぬ多用ニ而、一日〓〓と延引ニ及申候。右句帳の內存外能句とも多く相見え申候、愚老氣質かねて御案內の通、少も諛言なとを吐候きたな心は無之候。蚊しま坊ヘ此書狀遣申候、御達可被下候。御內意被仰下、御眞實之至わすれかたく候。春作-正名の兄弟なるべ多少句作もせしものと思はるれどその名蕪村系の俳書に全く見えず別に俳號ありしか明かならず小すり物よろしからぬ物なれ共、坐右ニ有ニまかせ候。御內樣へもよく〓〓御心得可被下候、春作樣御かはりなく被成暮同然ニ御傳可被下候。紅楓の時も近より又々被仰合、御上京相待候事に御座候、妻もくれ〓〓御言傳申上候、時下風塵艸々。頓首十二月十三日付の手紙に高紅楓の時も近より-後出尾行の書物のこと見ゆるは蓋し蕪村のすゝめによりこの年正名は高尾に遊びしならんまさな-正名、傳不詳。安永初年より天明末年にかけて蕪村系の俳書にその句散見す。大魯下阪後その社中の一人たりしが如く、蕪村の物質的後援者と思はる。大魯とは後絕交せり。九月六日まさな樣蕪村老懷去年より又寂しひそ秋のくれいそかしく候て、發句は得不申候。○(安永五年)彌御安全被成御座奉賀候、愚老無爲、むすめ事も此三四日は甚こゝろよく、手の自在も大たによく成候て、琴のけいこもちとつゝはしめ申體に御座候間、御安意可被下候。每々御尋下され母子ともに御深情忝かり申候。御發句ともおもしろく承候。心やすさよ後の月蕪村書簡篇
蕪村全集(マヽ)初五御そうたん、是はなんほと可有之候、故つら〓〓案見不申候、先ツは呼へは來ます心やすさよのちの月主從の魚さげて·いそかしく候或は喰ものも有にまかせつ後の月元來趣向おもしろく候ゆへ、案候はゝいかほとも有之事に候、猶御再案被成可候。ばせを葉の繕ひふしん、少も小細工成事は無御座候、の詩意のおもむき有之甚珍重に候。寫經集先達道立子〓被進候ニ付、宋人寫經集-寫經社集(安永愚老方〓上ヶ候は餘り有五年夏則)のことなるべく、隨てこの手紙も同年のものなること推定せらる赤羽-京都の人、初め富生と號し明和初年赤羽と改む明鳥にその句見ゆ袋なしに-蕪村の細心なるを見るべし。之候由、いつ方へなり共遣候樣被仰下御丁寧忝存候。左候はゝ赤羽かたへ被遣可被下候、袋紙には書付可有之候故、袋なしに御遣可被下候。乍御面倒奉願候。此程申すて候左に。紀の路にもをりす夜を行雁ひとつ紀は日のもとの南方のかきり、なをそれにもをりす、只一羽友を尋ねていつちをさして啼わたることにや、千萬里の波濤孤雁のあはれをおもひつゝけ候。起てゐてもう寢たと云ふ夜寒哉近來の流行めつたにしさいらしく句作り候事、無念の事に候、それ故折々はかくもいたし見せ申候。俵蓄たはらして收メたくはえぬ番椒うつくしや野分の後のとうからし左候はゝ袋なしに起きて居て-八董日記安永五年九月十四日の條に出50無念の事書簡篇
蕪村全集六六八廿日-八董日記安永五年九月廿日の條に「寫經社會兼題夜の鹿」とあり。當時の吟なるべし。廿日洛東金福寺寫經會題鹿三たひ啼て聞えすなりぬ雨の鹿立聞のこゝ地也けり鹿の聲鳴鹿笛を僞りならす山屋形探題山城の名所つくし白河黑谷の隣は白しそはの花一休の白河黑谷隣、紫野丹波近右の語を用ひ申候。其外あれこれいたし候へ共、おもひ出不申候、尙あとより。しま法師春作樣へも宜奉願候、御內樣へも。かしこ九月廿二日まさな樣夜半一休の-ある人「白河黑を一休に求めしに、谷隣」の句を得て、その對言下に〓紫野丹波近と答へたりと(一休咄)蚊しま法師-上田秋成の秋成は安永二年長柄(攝津西成部加島村)に移りて同四年までその地に村居せり物質を行くする。10元起きの法官の大阪に出で居たれど交友の蚊夜半名を以て呼ばれしなるべし几董日記安永五年の條「香島の隱士無膓をとゝめて云々」とあり。加島はその他、けり歌島、神島ともか○(安永五年)扨も此ほとは存外之長滯留、殊に病中何角と御やつかい之至、御德蔭を以テ微恙早速平常ニ復候而大慶仕候、歸菴後隨分堅固ニは候へとも、扨おひたゝしく用事重りこまり申候。乍筆末御內政樣春作樣へもよろしく御禮被仰達可被下候。此度は數狀したゝめ候ニ付、吉の樣へ別ニ不申上候、やかて御上京被成候はゝ貴顏寛々御禮可申上候。〓貴家ニ而仕候愚句此度したゝめ候て進覽仕候。一、梅女へ遣候畫は跡〓相下可申候間、かねて左樣に御傳可被下候、先御禮延引ニ及候ニ付、草々如此ニ御座候。頓首十月十八日東蓄樣蕪村(安永五年)吉の樣-「の」字は「門」字ともよまれ決し難し。貴家にて仕候愚句-文章健康中國/ 1025元起動車遣せしものなるべく通信じゃ幸福建築氏の藏たりなほこのい頃、星座購價格得知此事介したるにりとあるは蓋し右ことなるべし年代は遺草日本大学この時には〓蕪村書簡篇
蕪村全集次の十二月十三日付の手紙にも見ゆれば之も安永五年と推定せらる○(安永五年)先日は預御懇書候處、其節は愚宅ニ三十四五人之客來、京師無(マヽ)双之笋之妙手又ハ舞妓の類ひ五六人も相交、美人たらけの大酒宴にて鷄明ニ至リ、其四五日前後ハ亭主大草臥、只泥のことくニ相くらし申候、それ故早速御返事も不申上御察可被下候、扨も先頃御出京之節又御尋も可有御座哉と心待いたし候所、御さたなく御下坂、嘸御用しけき故とは存候へとも遣恨不少候、愚老も此節驀地闇に畫ニ取かゝり候て、一向發句も出不申、殺風景ニくらし申候。高尾行の御書物つく〓〓拜吟、扨もおもしろく承り申候。春作樣蟹先生へもよく〓〓御傳可被下候。然ニ後世の道の霜夜近來之秀作と存候。笋-第の誤。大酒宴-安永四年冬娘が琴の組入せし時の祝かともと思い、尾尾行太ど一紙參照これへるより按すれば、なほ安永五年と見るべし或はこの年冬蕪村の娘が結婚したる披露の酒宴ならずやと思はる娘は相當の商家にやがないならしく、娘がかねて等を 古しゐたる關係より特にその方の師匠も多く招きしならん。先頃御出京の節-高尾行の際のことか驀地闇-まつしぐら。高尾行の御書物-前出九月六日付の手紙に蕪村は紅楓の折上京せよとすゝめ居蟹先生-上田無膓(秋成)のことなるべしC後世の道の霜夜-東舊のc吟中の句ならん梅女···-六七五頁を見よ。鼠-角鹿齊と號す、凉袋門、越前敦賀の人にて大阪住せり俳諧瓜の實奥の近道等の著あり年歿す年五十三。天明芦陰舍大正貳年交付を知らないとを去る 至りしは安永六く絕交し、遂に大魯が大阪のことなれば、これはそべの年前年と見るを至當とすCさすれば娘の結婚抦露の年代ともよく合へり皷吹-引立てる意。東舊-八董日記安永三年風味の物の名見え、安「津守船」及「秋」等に句あり傳不詳なれど種々の點より推定して正名と同人なりと思はる梅女かたへ拙畫賛の物をくり申度心かけ居候處、とかくいそきの物を揮毫いたし、ほとんとつかれ候て日々ニ延引、御逢被成候はゝよろしく御申譯置可被下候。程なく相下可申候。乍御世話一鼠子へ御便候はゝ此書狀御達可被下候。芦陰舍いかゝ候や、久しく御出會も無之御樣子いふかしく存候、とかく御すてなく御鼓吹被成遣可被下候、愚老において御たのみ致候、御內政樣へよく〓〓被仰達可被下候、愚妻かたへ御傳書忝かり申候、餘は追々、先御返事延引御斷のためあら〓〓かしこ十二月十三日東蓄樣紫狐○(安永三年)書簡篇
蕪村全集か東舊宛ならんと思はる。この手紙宛名なけれど正名又年代は「等閑に香たく」の句武然の安永四年歲日帖に出でたれば、安永三年冬のものと思はる。蕪村せいほ(マヽ)靈運もこよひ容せとしわすれすゝはきや調度すくなき家は誰春興梅折て皺手にかこつかほりかな紅梅や比丘より劣る比丘尼寺鶯や比叡をうしろに高音哉うくひすの高音あたらしき心地ニ候塊にむちうつ梅のあるしかな陽炎や簀に土を愛す人陽炎にしのひかねてや土龍客舍雉子啼や坂をくたりのたひやとりうくひすの枝末を摑む力哉しすへ篠枝とも書候へ共世人に通しかね候はん、俗に枝末と書たるが可然歟指南車を胡地に引去霞哉此句けやけく候へとも折ふしは致度候、霞とくと居り候歟等閑に香性ク春の夕哉春宵の姿情所を得たる歟右いつれも御評判いかにと相待申候、至と思召可被下候。かしこ十二月廿六日蕪やはり去ルと云字にて居り-すわり。かゝる風塵中ニハ奇特之蕪村篇
蕪村全集六七四○(安永六年)御風邪之由我等も同病相あはれむへき事に候、併氣遣なき病ひにて安心仕候。御家內無御殘御引被成候はんと存候、流行の病ひは人先に仕舞候が手柄ニ候。今日凡董〓申來候は、大魯書通有之候、東舊樣と雅俗とも絕交いたし候との事、是は此程蚊しま法師上京にてあら〓〓承候。さも可有御事とは存候へ共、左樣に急ニ絕交とは驚入申候。もちろん芦陰法師不埒は嘸と存候へ共、しはらくも御熟意被成候(マン) (マヽ)御義に候へとも、何とそ思名かへられ今一度和平を御調ひ被下候はゝ、於愚老大慶之至に御座候。此義くれ〓〓春作樣〓ニかしまのおやちとも御相談被成被下度候。一、とりかひ來月ニ至り、中旬〓前に何とそほしく御座候。併高大魯が大阪を去れるは、東舊樣と雅俗とも絕交東苗とのフ交上にも關する所多きが如く、恐らく大魯は東舊との絕交後幾もなくして、大阪を去るのやむなき境遇に立至りしならん。さればこの手紙は安永六年のものと推定せらる。蚊しま法師-上田無腸。芦陰法師-大魯。も併高價に候はゝかならす御無用に被成可被下候、此ほとの相場は甚不敢當之事に候、さはかり貴き事憎きとり貝と存候。一、むめ文此程相達申候、貴君御男ふりも至極に候故、何そおかしきもの揮毫仕候はゝ、御慰に進上可仕と心かけ罷在候。御近作承りたく候、はいかい大御上達恐入候。かしこ二月十八日東蓄樣紫狐菴別莊法師か花も隣也花咲て霍もすさ めぬ薺かな鴈行て門田も遠くおもはるゝ場舞まひのにはもふけたり梅かもとみのむしの古巢に添て梅二輪むめ-安永五六年以後の蕪村系俳書にその句散見しことに几董の初懷紙には年々その句入集せり傳不詳なれど大阪新地の妓女なりし如く几董の句に「江北の梅女に對して、若竹に向へは風のそよき哉」とあり。妓女にしてしかも風流の才あるより蕪村一派の俳人の間にもてはやされしなり又樗良の手紙にも梅女と自分と關係探かりしことを記せる一節あれば、樗良一派の人々にも愛せられしものと見ゆ萬家人名錄に見ゆる月溪の妻梅女とは果して同一人なりや否や明ならず。寧ろ別人ならんかと思はるゝ節多し。紫狐菴書簡篇
蕪村全集つゝし咲て石移したるうれしさよいつれも病後あしきは御免〓〓。春作樣御令內樣へもよろしく御傳可被下候。志慶子への一通早々御達可被下候。蚊島居士へ書狀遣不申候、御會被成候はゝよろしく奉願候。あと〓書通と御申可被下候。○(安永六年)其のちは御物遠打過候、さても霖雨こまりはて申候。貴境もさぞと察入申候。先々御兩君御安全被成御暮めてたく存候、愚老かはらすくらし申候。其後は一向御書通にも預らす候故、いかゝと存候、御寺の御用に而御ひまなく候はんと存候。○大魯一件嘸御聞被成候半と存候、かねて御察候通りに而、なを行すゑ無覺志慶子への一通-以下袖書にて細字に記せり。志慶は大魯の芦陰社中の一人にて津守船、新虛栗、續明鳥、寫經社集、からひば等にその句散見す。又霜月十三日(大魯の卅三囘忌追善)竹齋の句の前書によれは志慶は大魯歿後芦陰舍のあとを再興する意ありて成らざりしものゝ如し。傳不詳。兩人は御寺の御用これにて寺院に關正名春作の係ありしものたること知ら大魯一件-これ大魯が罪を得て遂に大阪を去るに至りし一件なるべくに安永六年五月のことなりそは正さればこの手紙は卽ち同年のものと推定せらる。束事にきのとく仕候。(マヽ)御風雅いかゝに候や、久しく御作もうけ給らはす候、愚老も只〓〓畫にせめられ候へとも、日々疎懶に打くらし、筆ヲとり候事甚うとましく、それ故畫もはかどり不申、ひんほう神の利生いちしるく有かたく存候。春作樣御たのみの畫もいまた落成不仕、延引のたん御免可被下候、やかて揮毫御めにかけ可申候。むすめ事先方爺ゝ專ラ金もふけの事ニのみニ而、しほらしき志し薄く、愚意ニ齟齬いたし候事共多く候ゆへ取返申候。もちろんむすめも先方の家風しのきかね候や、うつ〓〓と病氣つき候故、いや〓〓金も命ありての事と不便に存候而、やがて取もとし申候。何角と御親節に思召被下候故、御しらせ申上候。延引のたん御免可むすめ事-蕪村傳記の條參照。娘を愛せし情見るべしほらしも親節-親切。書簡篇
蕪村全集御令內樣へも宜しく御傳可被下候、愚妻もくれ〓〓御致聲仕候。かはる事無之候へとも御起居御尋申上たく如此御座候。餘は期後便候。頓首皐二十四日蕪村まさな樣春作樣さみたれや大河を前に家二軒涼しさや鐘を離るゝ鐘の聲右は當時流行の調にては無之候、流行のぬめりもいとはしく候。雨後の月誰そや夜ふりの脛白き右いつれもおもしろからぬ句なれと、折から書付候。蕪村折から書付候。さても無腸はいかゞ御入候や、しく候。宜御傳可被下候。○(安永七年)絕ておとつれもなく候、御ゆか○創作品川菜の日記によれなた-攝津灘。見よりき、お前の後にお湯紙は同日脇の濱へ發足の認め送りしものなるべし今日もすくれぬ空なれとも、へも宜御申達可被下候。扨無理になたへ出足仕候。となた樣(是は拂字ニテ候掃可惜落花君勿是は拂字ニテ候-もと「此字を消して拂字に御書添へ可被下候」を抹消して更にかく傍書せと傍書せるとかくこゝろ落付申さす候故、何もかもあやまりかちに御座候舊國子ヘ御出被成候はゝ、其旨宜御申傳可被下候。なたの歸路にちよと御めにかゝりて、御物かたり可仕候。先以此間御やつかい御せは、御禮も難申不申候。御内樣へよく〓〓被仰可被下候。以上書簡篇
蕪村全集六八〇三月十二日正名樣蕪村○(安永七年)彌御安全奉賀候、愚老無恙廿二日歸京仕候。なた〓浪花へ立歸候節、御禮旁御尋可申上と存候處、扨も京腹へ鮮魚おひたゝしく給候故歟、旅宿にて大腹下り、漸守一子の御藥にてちくと快廿一日夜舟に罷登候。其節貴家へも御尋可申上と存候所、よしのへ御兄弟御同伴にて御出被成候よし承及候ニ付、さしひかへ上京仕候。まことにいつも〓〓浪花滯留之せつは御やつかいに罷成、御厚意かたしけなく御禮も難申御座候。御內政樣春作樣へもよろしく〓〓御禮被仰達可被下候。手前內ノものもくれ〓〓御禮申上候。先ツ御禮旁御起居御尋申度如此ニ御座候、餘は期(安永七年)記によれ廿二日歸京-八董自筆日ば安永七年三月h日蕪村凡董と共に下阪し灘地方に遊びて廿二日歸京せりとあればこの手紙もその際のものなるべく前出の一月十二日付書簡に直につゞくべきものなり京腹-京都にては當時生魚を食ふ〓となかりしなり給候故歟-食べ候故か守一-大阪の人、大魯の芦陰社中の一人たりき。御兄弟-正名、春作。よし後便之時。以上三月廿四日まさな樣蕪村○(天明二年)兩三日は春雨しきりニおもしろき天氣御座候。まことニ爾來打絕御無音ニ罷過候、彌御安全被成御座奉賀候。しかれは花さくら右二題の內いつれ成共御工案、二月中旬迄御登せ被下度候、花櫻之帖を出申度候。御社友の御句とも御取集メ、早々御登せ被下度候。右御たのみ申たく如此御座候。宿の者もくれ〓〓御傳舌申上候。以上正月廿二日まことニ爾來打しかれは花櫻帖-天明二年の編なれば、この手紙も同年のものなるべし。花櫻帖には正名の句「夕くれや花を離るゝあまの原」入集せり。書簡篇
蕪村全集六八二正名樣夜春作樣春雨や暮なんとしてけふも有遲き日や雉子の下り居る橋の上ホ句おひたゝしく候へ共、書付候事わつらはしく候、上夜半春雨や、遲き日や-この二句共に几董の天明二年初懷紙に出でたり。(但し春雨やの句は小異あり)略候。以○(安永末年)其後は御物遠に罷過申候。寒冷相募候處御安全被成御暮めてたく存候愚無爲ニくらし申候。先頃は預御懇書殊ニ御すり物さりとはおもしろく候。とかくけしからぬはいかい御上達と、凡董とも御噂申出候。當時浪花第一之俳家と被存候。愚畫事ニ甚いそかしく、其上短日にて浪花第一の俳家-お世辭としてやゝ過ぎたり蓋し正名の技倆見るべきものありしなるべし一向はかとり不申候。訪來人は朝から晩迄綿々として、さりとは邪摩成事ニ而こまりはて申候。御察可被下候。春作樣へ申上候、いつそや句合の序の事いまた案不申候。遲り候故御免可被下候。いそかしき事あたかも泥中の蓮のことくニ候。其上筆を取候事いやにて、諸國文通等閑ニ相成、錢箱かたけて呵られ申斗ニ候。しはらく御待可被下候。まさな樣御内かた樣へもよろしく奉賴候。內ノものもくれ〓〓御傳言申上候。此書繪筆にてしたゝめ候、よめかたく候はんと存候。何事もあと〓〓〓。かしこ十月廿七日蕪村まさ名樣春作樣さりと遲り-おそなはり。泥中の蓮-蕪村一流の比喩か奇拔といふべし。蕪村書簡篇
蕪村全集水仙や寒き都のこゝかしこ古傘の娑婆としくるゝ月夜哉何やら發句も四五句いたし候へとも急ニおもひ出され不申候。○古傘の-この句几董宛書簡(六三九頁)にも出で、蕪村の畫名嘖々たるより推してこの手紙は安永末年のものなるべし扨も〓〓御うと〓〓しく相過候、能天氣には候へともよほと秋冷身にこたへ候、御安全御くらし被成めてたく存候、愚かはらす消日仕候。日外は御狀被下候處御答も不申上、無賴の至御免可被下候。近日浪花下りの事も御座候ゆへ、其節はとふそ御尋申上つもる御物かたりも仕度、たのしみ申事に御座候。されとも不時之畫用共出來候故、いかゝ可有之や無覺束候。御內室樣にもとくと御本復被成候よし、めてたき御事ニ御さ候、よろしく御傳可被下候、宿之者くれ〓〓御言傳申上候。一、一、御風雅もひさしく不承候、いかゝ候や御ゆかしく存候、京はからす、道立子几董其外社中打より候而たのしみ御噂なと申出候。曉臺も此ほと上京にて大津へも罷越候。久々御上京のさたも無御座候、ちと思召たち奉待候。春作樣へもよく〓〓御傳可被下候、餘り御ゆかしく且御起居御尋如此御座候、尙期追便候。不具九月廿一日まさな樣夜半夜半扨も打絕御安否もうけ給らす候、さむさしきりに候へとも御安靜被成御座候や、御ゆかしく候。愚老も此ほとは持病の胸痛、よほとこまりはて申候、しかし持病の事とさわき不申候。其後簡篇
蕪村全集(マヽ)御上京も無御座候哉、さても〓〓浪花も蓼々として、一向風雅のさたも不聞へ候。京師はまた息か通候歟と存候、道立子折節御うはさ申出候、餘り御遠々しく候故かくのことくに候。扨も近年畫と俳とに諸方〓せめられ、ほとんとこまり申事に候。春作樣よろしく奉願候。無腸御出會も御座候はゝ御傳可被下候、此方妻むすめくれ〓〓御致聲申上候。以上十月五日正名樣夜半物負て堅田へ歸るしくれ哉蓮枯て池あさましき時雨哉しくるゝや長田か館の風呂時分右昨日會にいたし申候、いつれもあしく候。夜半○兩君-正名、ならん。春作の兩人兩君只今御上着之由御草臥奉察候。御書面之おもむき承知、卽大魯かたへ手紙遣候間、早々もたせ被遣可然候。手前下女病氣(マヽ)に而宿へ下り無人無是非候、何事後刻拜眉可申承候。以上五月十六日衣の棚竹や町上ルにしかわ吉もんし屋長右衛門大魯右之所ニ居申候間、早々手紙もたせ可被成候。とうし樣ぶそんにしかわ-西側。以上武藤氏藏。○(安永六年)御細書かたしけなく拜覽候、堅固過候間御安意可被下候。(安永六年)御無爲御暮めてたく存候、愚老も扨月並發句御登被下、社中之輩も書簡篇
蕪村全集池田小林氏藏。文中とり貝云々の事あれば前出二月十八日付更舊宛の手紙につぐものなるべく、よつて暫く安永六年と推定しおけり。うれしかり申候。カセ木とくのうかひに相定り申候。き御趣向めてたく承り申候。六月十日兼題蓮夕立右も御工案可被下候。ほたるの句甚おもしろく承り候。とち風に迷ふ甚おもしろく聞も深く被存候。夕風に·夕風といたし候へは、一句はたけ高く〓雅なるかたに候。されともとち風のかた聞處多く候。もちろん世上へ出候にはとち風のかたか德にて候。一句の能は夕風すくれ申あたらし候。いつれもおもしろく勝劣なく聞え申候。うの花くたしせかれけりよろしく承り申候。御句集の自序御つくり被成、御そうたんニ被及、とくと拜見いたし候。扨もよく出來被申候、中〓〓一字の添削を加へ候所無之候。及ひかたき文章おとろき入申候。昨日の我等かたの句會、いつれも佳句は無之候故書付不申候。身やいつの長柄のうふね嘗て見きハ靑梅に打鳴らす齒や貝のこと右蕪村甚あしく候へとも書付申候。春作樣、春作樣、御内政樣へもよろしく奉書
蕪村全集願候。とりかいの事いかにも承知仕候。とおもひ切申候。五月十一日まさな樣最早とり貝は來年の事ふそん內のものもよろしく申上候。○(天明二年)粟津幻住庵夜話丸盆の椎に昔の音聞む幻住庵にて琵琶湖上月といふ題を得て月に漕吳人はしらしあめの魚三井寺山上得皮亭よりみかみのやまをのそみて秋寒し藤太か鎬ひゝく時池田小林氏藏。曉臺臥央が幻住庵に旅寢せるは、明二年九月の事なりとの說に從ひ、手紙の年代を同年と推定せり窓といふ字を探りて住ムかたの秋の夜遠き燈影哉右の句ともおもしろからす候へとも、當月十二日幻住庵に曉臺臥央なと淹留いたし居候を尋ねての句也。それ故御なくさみに書付候。かねては湖水の十三夜に遊んと約しけるに、もとより秋の空のたのみなけれはいかてこよひの〓夜を見過し侍らんとて、しゐて十二日の夜三井の何かしの御坊にいたり、信圓僧都を尋ねて三井寺や月の詩つくるふみ落し右の句は十三夜を十二日の夜に登山しける故かくは申出ける也正名詞兄蕪村○(安永四年)かねては-これは以下句の前書なり。(安永四年)簡篇
蕪村全集靑木月斗氏藏。文中芦陰舍とあるは卽ち大魯にして後に食べたのは恐く大魯が大に隙なき模阪移住後間もなき頃は安水三年冬の又「紅梅や」の句手紙に見ゆればこれは安永四年なるご御やくそくの貝-貝は蕪波宛にもくし貝の禮をのべ村の好物なりしと見え、召し手紙あり。聖春之佳景おもしろく皺を延し候。御安靜被成御迎陽めてたく存候。愚老無障加馬齡候。御華牘忝殊ニ御やくそくの貝おひたゝしく被下有かたく賞味仕候。しかし十日ハ愚亭歲日開ニ而過半ハ社中の人々ニ喰れ口おしく存候。しかれ共めつらしきもの故いつれもうれしかり候而慰老心候早早御禮之書上可申候處、いまた舊臘之餘塵甚取込延引御免可被下候。今日芦陰舍上京先御禮旁如此御座候。尙あと〓寬々可得貴意候。頓首正月十二日副啓兩節春興御すり物甚感心仕候。こと更春興之御句おもしろく承候。こと更春興之御句おもしろ紅梅や比丘より劣る比丘尼寺春興あまたいたし候。やかて春帖にて御覽可被下候。東舊樣蕪村六、霞夫、乙總宛○(安永四年)寒中御兩子御壯健被成御暮候由、珍重之至存候。爾來御文音も絕々に候故、いかゝ御入候哉と、老心おたやかならす候所、此度御懇書とも怡悅之至存候。扨も愚老義當年は惡星の障碍に候や、夏秋を經て病に犯れ、漸全快いたし候處、又々霜月下旬ヨリこゝろあしく、壬月ニ至り候てハ以の外ニ而、とかく老病と被存候。只今ハ社中鐵僧の藥に而、一兩日はよほとこゝろよく候此體ならは春暖を得候はゝ、めき〓〓と快然と被存候、當年六十歲と相成候。來本卦よりは更生いたすつもりに候。それ故以下四通四日市鈴木廉平氏藏壬月-閏月。鐵僧-蕪村門、と見ゆ。醫者なり當年六十歲-安永四年にあたる。書簡篇
蕪村全集六九四はやく當年を過申度候。十五日ハ立春に候故、それからはこちの世の中と、指を屈して相待申候。入集の秋の句とも、御取集候て御登せ被下、御せわの至存候。右の集も當冬中にハ出來のつもりに候處、右の病氣にてとかく筆硯の業もむつかしく、几邊に倚候へはねつさし候て、ろあしく候故、來年に相延申候。とふそ來春中出版いたし候樣にと願候。何事も凡董にまかせ置申候。それ故御社中御句共、延引なから隨分と間ニ合大慶いたし申候。靑蘿と御兩吟の歌仙とも、あら〓〓見申候處、おもしろく承候。愚評申こし候樣に被仰越候へ共、ケ樣のことハ筆談には盡しかたく候、歌仙のうち申所あまた有之候靑蘿もはいかいの數少キ人と見え候處、あまた有之候。しかれとも先ツハあさましそれからはこち入集の-この集恐く安永五年刊の續明烏のことならる湯治-城ノ崎溫泉に入湯の望なるべし。からぬはいかいにて候。とふそ來夏ハ湯治の望に候故、御めにかゝり寛々御ものかたりもいたし度ものにて候。靑蘿か付かた樗良に似たるところ多相見え候。樗良か付かたも難を申候はゝいかほとも有之候。とかく何事も中庸にはまいらぬものにて候。とふみても我家の凡董ほとの才子はなきものにて、此程も曉臺〓の文通ニ北越ヨリ東都へかけ行脚いたし、雪中菴ニ滯留俳談なと席を重ね候所、とかく几董ほとの曲せものに出あハす候。行々蕉門の風格を定め可被申人と、不堪驚嘆候。かゝる人を門人にもたれたるは、うらやましき事に候。向後はいかいの友と力にいたすは、貴翁より外に無之候間、此後いよ〓〓無隔心申通度候。此義許容を希候とくれ〓〓書つゝけ申越候。曉臺は尋常の俗俳とは違ひ候て、厚き仕込ミのものに候。それらさどう見でも我家の几董ほとの-以下几董を推稱すること至れりといふべし曉臺よりの-安永四年六月曉辜佐渡に遊べり、より東都の方へ行脚したるなり。雪中菴-蓼太。向後俳諧の-曉臺と蕪村との關係を知るべし。書簡篇
蕪村全集六九六へ几董を恐れ、三舍ヲ避候ほとの事に候。同社中の事に候故、御兩子なとも御よろこひと存候故、老の長こと御免可被下候、他見ハ必々御無用ニテ候。-音只今木屋町松はら上ル所に、かり座しきをいたし候。しかと京住と申ニても無之候。まことにかりのやとりにて候。この法師はとかく色好ミの失ツ有之、いつかたにも尻かすハリかたく候。又程なく轉蓬ノ客と被存候。しかし此ほとハ〓水の大悲に立願いたし、禁酒のちかひを立て居申候。それ故先ツはおとなしく相見え候。末はともかくもニて候。一、當年は病中ゆへ、例の春帖相休ミ申候。左樣に御心得可被下候。併ニ春ニいたり梅花帖と申ものを出して、春帖の代りにたのしみ可申歟と、心かけ居申候。の人涼袋門、もと越後諸方に流成して飲みます。新疆生活佛教育大学「左比志遠理」北京市公安局海淀分局ふ」(二三四頁)の句は當時の吟なるべし轉蓬の客-漂浪の客。一、先達より貴境處々御賴の畫とも、當年ハ卒業いたし、相下し可申と存候所。多病にて延引、よろしく御照量可被下候。夫に付テハ御兩子へ、甚心外之不義理とも多く候て、胸中ニよこたハリ、これらも病根の一ツにて候。何事もよろしく御兩子御相談被成置、しはらく御待可被下候。有橋樣へよろしく奉願候。折々預御文通御親節之至忝存候。一、翠樹子家大人七十の賀の事、相心得申候。几董一音へも申達、同に相下可申候間、其旨被仰達可被下候。今の世行脚の俳諧者流ほと、下心のいやなるものは無之候。其旨いかにと問ふに、行先キ〓〓に而、金錢を貪り取たかり候。其術にハ他なく候、只々おのれか長を說他人の短をかたりて、人に信伏せられんことを乞願ひ、とふぞ金かほしい〓〓と柄杓有橘-霞夫の父と思はる一、達、書簡篇
蕪村全集をふらぬ斗候。それハともかくも、又人をも害ひ候事多く候。邊部の人はいかい未練の徒ハ敷麥たにわかたす否動せられて、渠かために迷され候事共にて候。御兩子なとハ最早餘ほと御合點もまいり候事故、左樣のあやまちは有ましく候半と存候、かならす〓〓つゝしむべき事に候。貴境海のあれニて魚とらす候よし、いつにても澤山成時節御登せ可被下候。其中に去年中歟、乙ふさ子〓御贈被下候小鴨、美味今にわすれかね候。もし御手に入候はゝ御登可被下候。此書おもひの外長く相成候。御兩子〓の書、久しふりにて老心を慰候而、頭風も退き心地故、病床なからうか〓〓と書つゝけ申候。快氣いたし候て、兩吟歌仙なとの愚評をもひそかに書候【御めにかけ可申候。先此たひハ御容捨可被下候。以上【壬月十一日紫狐庵霞夫樣おとふさ樣內のものむすめかたへ、つと〓〓に御傳書かたしけなかり申候。娘も琴組入いたして、餘ほと上達いたし候。寒中も彈ならし耳やかましく候。されとも無事にひとゝなり候を、たのしみ申事に候。、當年ハ發句甚少く候。されとも五句十句は有之候。秋中〓の愚句とも先達書付進候歟と覺申候、左候ヘハ重復に成候故、こたひは書付す候。○(安永五年)一、足下益御壯健奉賀候、愚老病氣此十日はかり巳來殊外よろ紫狐庵霞夫-但馬出石の人.明の芦三角形成大阪府臨門市方向日焼肉食物繊維天年三十六一、書簡篇
蕪村全集しく、しく、最早平常ニ復候間被安懸念可被下候。むすめ事二月中より左右の腕たるくいたみ候而、今にしか〓〓無之老心をいため候。御憐察可被下候。併氣遣なる病氣にてハ無之由、醫師被申候ゆへ安心いたし候。一、舊年より追々御登せ被成候歌仙或ハ發句共、このたひ愚意書付候。歌仙付合なとは中〓〓筆談にてハ合點まいらぬ事而巳ニ候。それ故あら〓〓と書付候。愚老去年三月より之不例にて、萬事廢置候事御照量可被下候。一、先達より被仰聞候畫幅之內右寒山茅屋山水三幅對中宗全仙人採芝之圖左深林轉路山水娘事二月中より-前出正名宛九月六日、九月廿二日附の手紙にも手痛の事をいり).一、右ハ有橋君御たのみ二幅對梅ニハヽ鳥是ハ華人の物數寄ニ雙幅ヲ掛テ一幅ノ畫ニ見ル法也右ハ誰人のたのみにや、二幅對ニ而大體成畫と御注文にしたかひ候右五幅此たひ相下候、御落手早々それ〓〓御達可被下候。貳十五匁八厘有橘君絹地料十八匁七分五厘二幅對ハヽ鳥絹地代きぬ代の義先達も御登せ被成候樣に覺申候。いつれの絹代にて有之候や、病中故しかと覺不申候。其御地にて御吟味被下。いまた成分ハ又々御登せ可被下候。右の外ニ華人-支那人。い書簡篇
蕪村全集三幅對二通極彩花鳥一幅芭蕉翁一幅右の分も不日に揮毫相下可申候。長病後故畫にせめられ候。先ツ貴境の分より相片付申つもりニしたゝめ申候。はいかいいかゝに候や、御發句とも久しく不承候。一音も無事に候。半化も無事。下總關宿之閑鵞と申者此度芭蕉翁之塚を築候、則陽炎塚と申候。依之陽炎の發句を集め小集にいたし候ニ付、陽炎の句を五月中旬まてニ登セ候樣にと申越候。御工案早々可被遣候。右の閑鵞は愚老舊識にて甚の豪家にて候。入料もいらぬ事に候。愚老社中より多く加入之句有之候。先一音も半化-關更。閑鵞-あとに愚老舊識とあれば、蕪村か野總滯在中の知り合なるべし先日の獨活さて〓〓けしからぬ風味、香氣あたりをはらひいつれもきもをつふし申候。一、先達乙總子たのみの畫屏風山水揮毫いたし相下候、定て相達候半と在候。右畫料なとも貴子御すゝめ被下、五月節前に御登せ被下候樣に、御心を被付可被下候。御兩子方ヘハ返納の物Qも有之候而心頭にかゝり候へ共、右長病家内の困窮言語同斷に候。御察被下候而きぬ地畫料等も御取集早々御登被下度候。是(マヽ)ハ他ヘハ云はれぬ事に候、貴子は格別故覆藏なしに申進候。乙ふさ子へもくれ〓〓御取持御ことはを被添可被下候。扨もくるしき世の中にて候。いそかしく候而發句も無之候。春來の愚句共先達御めにかけ候やと存候覺不申候。いまたに候ハヽ幸便に被仰遣可被下候、香氣あたりをはらひ簡書篇
蕪村全集書付相下可申候。とかく書狀を書候事むつかしく候ゆへ、何事もあとよりおもひ出し〓〓可申上候。妻もくれ〓〓御言傳申候。以上四月十五日霞夫樣蕪村大雅堂も一昨十三日古人と相成候平安の一奇物をしき事に候○(安永五年)御細書飛來拜覽、先々暑の御さはりもなく御安寧御くらしめてたく存候愚老無爲にくらし申候。先達拙畫共相下候處、右御謝義として有橋公〓御丁寧之至かたしけなく、外に金一片是又先方へよろしく御禮仰可被下候先比も一兩度書狀相下候、其內ニハ內々の事ともなと書加大雅堂も-安永五年四月大雅歿す。はなひ坊-一音法師のこと、嚏居士の別號あり。候事共有之候、御他見ハ御無用ニ候。其狀相屆候哉、ちよと御返事御聞セ可被下候、安心いたし度候。はなひ坊いまた御地わたらひ無之候や承度候。此度洛東一乘寺村と申所ニ、金福寺と申禪寺有之候其寺の後山ニ芭蕉庵と云舊名のゝこりたる所有之候。右の地へこのたひ一草室を再興いたし候、もちろん石碑も建申候右再興の小集出申候、一順の付合も有之候、發句も夏季にて加入いたし候、乙ふさ子とキ子の發句覺不申候ニ付、さつと代句いたし加置候。やかて出板候ハヽ相下シ可申候。社中いつれも變事なく候、百池も無事ニ而はいかいめき〓〓と上達いたし候、每々御噂申出候。几董も御噂のみ申出候此おのこ益々上達いたし申候。二柳几董愚老三吟の歌仙なとも一草室を再興-安永五年五月のことなり小集-寫經社集のこと。同集に入れる霞夫の句は「なか〓〓に雨の日は啼し閑古鳥」乙總の句はCCふ夜の己尊しほとゝきす」なり。この手紙によりて共に蕪村の代作なることを知るべし。書簡篇
蕪村全集後便ニ書寫して相下可申候。今明日中は祇園會にて甚取こみあら〓〓申殘候。近々又御たのみの畫とも相下候故、其せつくわしく可得御意候。此たひハ乙ふさ子ヘハ書遣不申候、よろしく御賴申候。內のものむすめも無事に而、琴はけしからす上ヶ申候御上京ならは御聞セ申たく候。內ノ者くれ〓〓御傳言申上候。いろ〓〓おもしろき事共有之候へとも、筆ニ盡しかたく遺恨ニ候。以上六月十三日霞夫樣夜半亭○(安永五年)殘暑甚御座候處、彌御〓榮被成御凌めてたく存候。愚老先ツ無夜半亭(安永五年)以上鈴木氏藏。彌御〓榮被成御凌めてたく存候。愚老先ツ無事と申たいけれども、とかく古家の修理に而、こゝを直せばかしこかがたつき、只々藥三昧に消日候。ことに三十日斗巳來右ノ手しひれ候て、中風歟とおとろき藥を立かけ〓〓用ひ申候。今以我手の樣に不被思候。しひりのきれたる心地、筆を取候ても持心よろしからず候併中風にては無之由、醫家皆に被申候、安意仕候。先頃は有橋君其外〓の謝義とも御取揃御登せ被下、毎々御やつかひの至御禮難申盡候。又此度先達御注文之內三幅對左右中壽星鹿翁の像外ニ山水二幅相下申候。先達御注文の內極さひしき花鳥被仰越候、いまた染筆不致候、其外三幅對もいまた出來不申候。是等毎々御先達御注文の內極さひしき花鳥被仰越其外三幅對もいまた出來不申候。是等書簡篇
蕪村全集盆-中元は盆後相下可申候。此度相下候山水二幅ハ北宗家の畫法にしたゝめ申候。愚老持前の畫法にてハ無之候。それ故ちと不雅ニ相見え候。しかれとも隨分と華人の筆意を得たる物に候されとも愚老かねて好ム處の筆意に而無之候故おかしからす候。足下の御取斗意にて其御地の田舍漢へ賣付代金御登せ可被下候。存の外手間は入候畫共に而候。右の義御他言御無用足下胸中にで御取計意可被下候。三幅對老人星鹿の畫は、專ら〓人の筆意に法り候。甚おもしろき物にて候。とくと御覽可被下候。去年中きぬ地代共御取集御登せ被下候歟と覺申法。いか程とり候や覺不申候。それ故どんちやんとむつかしく候。最早きぬ地ともの思召にて宜樣に御取計ひ可被下候。繪きぬ屋ニもお御取斗意-御取計らひ。ひたゝしき借金こまりはて申候。一、乙ふさ子方屏風したゝめ相下候。其後一向屆いたとも沙汰無之候。いかゝの思召に候哉無覺束候。定而先達の御さし引等共有之候故、其分に返濟のつもりに而候思召歟と察候。それは至極御尤に存候。しかれ共愚老義去年中より當春へかけ長病、既に黃泉の客と存候程の仕合にて、當春へ至り候ても一向畫業打すて置候故、家内物入其外生涯の困窮御察可被下候。それ故先つ先達のさし引事はしはらく御延置下候而、外にも書料等御左樣無之候てハ夜半亭□□かね候。御登セ被下候ハヽ忝存候。兩子の義ハ別而親交の社中と力ニいたし、老心を養ひ申候。此義御垂鑒被ト、乙ふさ子とよろしく御そうたん被下、盆前無間違御登せ被下候樣ニ、旱天に雲を待心地に候。乙ふさ子方屏風したゝめー-前の四月十五日にもこの事を言へり、返事なき故更に催促せしものと見ゆ。隨つてこの手紙も安永五年のものなるべし。夜半亭□□かね-二字汚損の爲よみがたし。「たち」書簡篇
蕪村全集一、一、右の體引こもり畫ニしこり居候故、はいかいの出會ハ此節うと〓〓しく候。二柳半化など押よせ候へとも等閑にあしらい候。一音坊此間上京御地御やうす略承候。貴子例の腹いたみ之由、當年の暑隨分御自愛可被成候。發句ところにてハ無之さてさて殺風景に候、雅事ハあとより寬々可申承候。以上六月廿八日夜霞夫樣蕪村此の返書とふそ早く御聞せ、安堵いたし候樣に御計ひ可被下候。おかみ申候。有橋樣へよろしく、一貫子よろしく。妻むすめ御傳言申上候。蕪村安堵いたし候樣に御計ひ可被下をがみ申候-蕪村の窮狀この語をなさしむるに至る憐むにたへたり。○(安永六年)抑有橘君歿故候事、早春承りおとろき入候早速書を以御悔可申入候處、愚老事も餘寒に中り候て、正月中旬〓以之外所勞、漸此一兩日復常いたし候、それ故延引に及候段御照量可被ト候。さても有橋君いかなるすくせにや有けむ、度〓の御懇書、愚老を叔父丈人なとのことく、書通の度每貴子へも風諫いたしくれ候へなとゝ、愚老もたとび給りし事共おもひ出られ、いとかなしきかきりにて候。愚老も身安く相成候故。近年〓入湯なから下向いたし、寛々御ものかたりも可致とたのしみ申候處、力をぬけ候て恍然とおもひつゝくる斗に候。このたひ申わけの發句いたし遣申候間、塚の樹へ御手むけ被下、愚老〓おこりを御謝可被下候。(安永六年)池田、稻束氏藏。ㄱ愚老もたとび-「も」はな」の誤なるべし、たとびcは尊び入場ながら-城崎溫泉に入湯のためなり。力をぬけて-これは「力もぬけて」の誤か書簡篇
蕪村全集有橋と云名、御改メ被成度旨かねて御望に付、是もいかゝいたし可然候半歟と、御尋ね御尤に存候。見樹陳子道之思亭記既葬益樹以木是は塚に樹を植で置は、子孫其樹を見て親を忘れさるに備ふこと也。右の文字御用ひ被成候而も可然候。もとよりひゞきもよろしく被存候されとも有橘にてもよろしく候、いつれ共御賢慮次第御斗定可被成候。發句帖早々相下候樣に被仰越、是はしはらく愚老方に預り置候て、遠近の諸好士來訪の節書せ可申と存候。此帖を諸國へ遣候ては、中〓〓往返ひま取候て、一年や二年にては埓明申間是もいかゝ陳子道-陳師道の誤。亭記は古文眞寶に出づ。思敷候。愚老當春は春帖を出し、貴子御句はのそき申つもりに候處貴子の名無之候而は、甚帖面さひしく候故、やはり名を出し置候もちろん有橘子不幸計未至前に加入いたし候つもりに候。尤當春は此方社中斗に而、さいたんせいほは無之候。いつれも春興斗に候故。少も不妨候。御愁ひの中にも發句は折々可被成候、詩哥ともにうれいの中に多き物に候杜甫が妙句も多くは愁のうちに候。愚老右の仕合故發句も一向無之候。春帖近日出し早〓相下可申候。以上正月晦日霞夫樣蕪村水にちりて花なくなりぬ崖の梅春帖-安永六年の春興小册のことならん。蕪村書簡篇
蕪村全集七一四此句うち見にはおもしろからぬ樣に候。梅と云梅に落花いたさぬはなく候。されとも樹下に落花のちり舗たる光景は、いまた春色も過行さる心地せられ候。戀〓の情有之候。しかるに此江頭の梅は水に臨み、花か一片ちれは其まゝ流水か奪て、流れ去〓〓て一片の落花も木の下には見へぬ、扨も他の梅とは替りてあわれ成有さま、すご〓〓と江頭に立るたゝすまゐ、とくと御尋思候へはうまみ出候。御嚙〆メ可被成候。野徑梅梅遠近南すへく北すへく梅かゝやひそかにおもき裘むくつけき僕倶したる梅見哉有橘の歿年不明なれども前出安永五年六月の手紙により、當時なほ有橘存し居ること明にして、又安永五年刊の津守船、續明烏等にもその句見ゆ。然るに安永六年の蕪村春興帖に至ては霞夫乙總の句のみにて、有橘の名見えずされば恐らく有橋は安永五年の冬に歿せしならん。六年のものとの紙が安永に推定せり外にも有之候へ共、おもひ出かね候。〓〓と申上候。以上○老なりし鵜飼ことしは見へぬかな紫狐すへて賛の繪をかく事、畫者のこゝろえ有へき事也。此畫にて右の句のあはれを失ひ、むけのことにて候。きすてたる光景しかるへく候。これは門人月溪に申たることを、直ニ其席にて書つけまいらせ候。心得ハ萬事にわたることにて候。乙ふさ子蕪○(安永二年)御兩子彌御壯健被成御暮めてたく存候。拙家内ともに無難罷在候。候。何事も春帖出板の上こま大阪土居氏藏。鵜飼の畫を月溪が描けるものゝ上にこの文句を記せり。紫狐庵右の句に此畫はとり合す候か樣の句には只筋なとをたわゝろ蕪村雜誌月號所載「野火」名古屋嘯月庵氏大正十三年二の藏なりと文中-此ほとり」とあるは卽ち「一夜四歌仙」の事にして、二年九月の刊行なれば同書は安永この手紙も同年ものものと推定せらる拙家内ともに無難罷在候。御安意可被下此度愚考發句合一卷、此ほとり本料、壹封並朱價壹封一、書簡篇
蕪村全集七一六御兩子よりの御狀二通浪華河茂之書狀、慥相達候。卽此方に預り置候。銀子八拾目相添九月二日大阪へ相下申候。定而定茂より其御地へ返書可有之候。右八十目之内、橘仙堂すり物代有之候樣に橘仙への御書中に有之候へとも、橘仙堂遠方にて今日の間に合ひ不申候故、直に八十目封の儘河茂へ相下候。橘仙すり物代は、別に早々御登被成可然候、橘仙も貧書肆に候故いたはしく存候。一、此度くはしく御返書可申候處、とふて點出來の上相下候故、其節可申述候。おとふさ樣よりしほらしき物小兒基怡悅、愚老もともによろこひ申候。尙々先便無相達し忝存候。何事近便と申殘候九月二日紫狐了角樣乙ふさ樣モン門を出れば我も行人秋のくれ此間は句も無之候。○紫狐了角-霞夫の法名などならんか、不詳。「名家書簡集」所載による。酷暑彌御壯健御つとめ被成候由めでたく存候、愚老ふゆともに無爲にくらし居御安意可被下候、當時御用しげく候由、おとふさよりも折々便候□□□□とかく人はいそがしきが無事の第一に御座候、腹痛のうれひもなくなり候はんと察候事に候、然しちよこ〓〓と御たよりは待申候、餘り寥々、社中の輩も此霞夫はいかに〓〓と百池を初めつぶやき候、愚亭此ほどは百句立發句に而おもしろき事に候、初心の輩も百句の都合二時ほどの內に滿尾扨も奇特の事と不堪感〓、淨寫出來候て相分可申候。此節はことの外取込中〓〓淨寫ところにて無之候。御發句なく候やいかゞ〓〓蟬鳴や僧正坊の浴み時ゆふかほや黃に咲たるも有べかり葛を得て〓水に遠きうらみかな葛水や入江の御所にまふづれば汗入れて妻わすれめや藤の茶屋若禰宜のすが〓〓しさよ夏神樂書簡篇
蕪村全集あふみのや麻刈る雨の晴間哉右いづれも得意の句にて無之、百句立の考案こそ思ひ出候ままちよと書付候。し中にも僧正坊のゆあみ時、いさゝか蟬の實景を得たるこゝ地に候。內のものもくれ〓〓御傳言申上候、何分御たよりもあらばとおもふ事に候かしく水無月二十七日霞夫樣夜半然霞夜半七、柳女、賀瑞宛○(安水三年)昨日は御細書拜覽、御安榮被成御座候由めてたく存候。御句共いつれもよろしく候、引墨之句殊更ニ承候。發句御句早卒御工案御出し被下、面目之到ニ候。昨日は社中故障とも多候而甚不連ニて候。選句左ニ書付御めにかけ申候。大阪土居氏藏にしてなほ左の如き月居の極め書附屬せり上の件の九月十六日の文は先師夜牛翁の墨痕にして柳女賀瑞はくれ竹のふしみのさとなる笹 氏氏母母母母のなり證していはくうつみ火に膝なつかしや五六人月居御句共不連-連中不揃の意。草よりは云々-蕪村批評の言なり。柳女の句もと上五「草も木も」とありしなるべし。枯尾花草よりは岩といたすが姿情おもしろく候岩も木もさかなく見するかれ尾花舟慕ふ淀野の犬や枯尾花かれをはな一把に秋をつかねけり枯臥て風を余處なる尾花哉喰付て秋を啼虫やかれ尾花狐火の燃つく斗枯尾花時雨ツラ木兎の頰に日のさす時雨哉した〓〓と漁火にしみ込しくれかな傘かれははたふらすみの時雨哉柳ル自蘭月蕪女董笑洞溪村狐火の-安永三年の吟、六一六頁參照c蕪月蘭村溪洞ふらすみ-降らずみ。書簡篇
蕪村全集寢餘りていとゝさひしき時雨哉柳女日くらしの里ふりこして小夜時雨自笑しくるゝやかたいイむ魚の店几董竟宴付合のはいかい有之候へ共しけく候故略申候。今日は一乘寺村茸狩ヘ罷越候故、甚心あはたゝしく草々したゝめ置候。尙追〓可得華牘候。頓首九月十六日蕪村柳女樣かすい樣○(安永三年) ,かたい-乞食。蕪村池田稻束氏藏「落合て及ㄱ夕風やㄴの二句は共に凡董宿の日記安永三年の條aる代には同年なるこの拝啓の2年(安永三年)みしか夜やさゝらなみよる捨篇けしの花籬すへくもあらぬ哉落合て音なくなれる〓水哉夕風や水靑鷺の 脛を打花茨故〓の道に似たるかな垣越て墓の避行かやり哉目に嬉し戀君の扇眞白なる其外五七句有之候へともおもひ出かね候、社中の發句帳には留有之候、寛々御めにかけ可申候。只此節は風塵御憐察可被下候。何事も□□貴顏御禮可申上候、巳上紫狐庵五月二日柳女樣賀瑞樣○何事も□□-「遠す」と思はるれど定かに讀みがたしc「遠からず」とよむべき紫狐庵書簡篇
蕪村全集七二二伊勢松阪長谷川氏藏。桑名西村氏の手寫せるものによる先日は預華牘忝存候。御安全被成御暮珍重存候爾後兩節御句とも御登せ被下、任仰引墨いたし御めにかけ申候、右之內宜御句を春帖へめてたく御加入可仕候。且御母上樣御句共別而おとろき入候、拙老社中に婦人のはいかい無之、遺恨に御座候所、此末たのもしく大慶仕候、乍慮外御母義樣へくれ〓〓宜御申上可被下候。尙來陽寛々御□可被下候。頓首十二月廿九日御すり物被成候ニ付追加の句、卽左にしるし候。行年や都の隅に小町寺蕪村尙〓〓拙老方へ御入門ニ付御挨拶の御句是又忝存候、取込候故御わきもいたしかね候。賀瑞樣御母上樣御句-母上は卽ち柳女のことなり柳女を閨秀 大のな將と蕪村が指稱せし手紙も前に出てたり兩節表具は落手仕候。O春の部なつかしや朧夜過て春一夜朧夜過て今宵わけておほろ成ルは、春のなこりを惜むゆへかとの御工案おもしろく候。されともこれにては朧夜の過キ去ることになりて、過不足の過にはならす候。なつかしや殊に朧の春一夜右のことくにておたやかに聞え候。それを又更におもしろくせんとならは、なつかしや、朧の中に春一夜桃に櫻に遊ひくらしたる春の日數のさためなく、荏苒として過行興象也。心は朧々たる中に、たつた一夜の春か名殘をしく居るやうなと、無形の物をとりて形容をこしらへたる句格なり。又右の案し場より一轉して春一夜ゆかしき窓の灯影哉まだ寢もやらぬ窓中の灯光は、春の行樂を惜む二三友なるへし。これら秋を惜む句にてはあるへからす。賈島カ詩ニ大阪、土居氏藏。もと京都藤井培屋氏の舊藏にて水落氏の「聽蛙亭雜筆」(もと寶名物如意如意からした と に よ し は 、 、今碧梧桐氏さこれら秋を惜む書簡篇
蕪村全集七二四ケフハ三月ツゴモリヂヤ春ガ我ヲステヽ行ゾノラメシイコトヂヤ三月正當三十日風光別我苦吟身ソレデイヅレニモ申スコンヤハネサシヤルナ明六ツヲゴントツカヌ中ハヤツハリ春チヤソ勸君今夜不須唾未到曉鐘猶是春三月盡の御句甚おもしろく候故、却ていろ〓〓と愚考を書附け御めにかけ申候。近頃の御句と被存候。四月二日柳女樣夜半樣夜半○名古屋伊藤仁兵衞氏藏、碧梧桐氏が碧十七號に紹介せるもの(もと之は嘯月庵氏藏にて野火大正十三年二月號に紹介せられたれど、そは誤讀多し)による。金ふく-金福寺。けしからぬ寒さに御座候へども、御安全被成御凌めてたく存候。とはすきとこゝろよく候間御安心可被下候。○金ふく入集の御句とも落手卽左之句甚よろしく候故、加入のつもりに御座候。此度は道立子の催に候故、愚老はかまひ不申候。蟲絕て行先おもふ夜寒哉柳女榾たけは天狗來ませり峰の坊かすい右之二句甚おもしろく候。乍毫末彌市樣へも、御傳言奉賴候。愚老も一年〓〓と寒氣にこまり候て、只々閉關いたし廢業の體打くらし申候。宿のものへいつも〓〓愚老病氣も此ほ加入のつもりに御座候。御傳言かたしけなく、猶愚老よりよろしく申上候樣申事に御座候。かしく十月廿八日夜半柳女樣かすい樣〇(安永二年)朝暮秋冷相催候處、御ふたかた樣御安寧御慕めでたく存候、拙かた無恙候。爾者爲重九之御祝儀白銀壹兩被掛貴意、不相替御厚情忝受納仕候。御發句あまた御見せかたじけなく候、いづれも甚よろしく御座候添削には及不申候、珍重に御座候。折節凡董百池など居合せ候て、いづれもへ吹聽いたし候處、みな〓〓感賞仕候、於僕悅怡之至に御座候。發句會兼題枯尾花しぐれ右御案被成候而是非御登せ可被下所希候。賀瑞樣御多用に付出句も無之、遺恨に候、ちと御出可被成候、をしき御事に御座候、愚妻方へ每度御傳書忝がり申候。猶宜しく御禮申上候。どふぞ秋中には罷下猶愚老よりよろしく申上候樣申事に御座候。かしく夜半「名家書翰集」所載による。爾者書簡篇
蕪村全集可得閑談心がけ申候、めでたくかしく。九月十日柳女樣"す樣もや〓〓とくらし而、愚句も一向無御座候。しからず候女郞花そも莖ながら花ながら門を出れば我も行人秋のくれ又門を出て故人に逢ぬ秋のくれいづれ可然や貴人の岡に立聞きぬたかな細腰の法師そゞろに踊哉姓名は何子か號は案山子哉めでたくかしく。夜半愚句も一向無御座候。漸二三句左に書付候、いづれもおか門を出れば-この句安永二年の作と思はる。七一六頁六一二頁參照。此かなはうたがひにて歟と云ふこゝろに通ひ候子鼠のちゝよと啼や夜半の夜みのむしのなく音よりはまさりたる心地し侍るいな妻や堅田泊りの宵の空又稻妻やはし居うれしき旅舍りこれもいづれ可ならんや尙追々可申候、己上八、曉臺、士朗宛○(安永二年)碧十八號に碧梧桐氏の紹介寒さはけしく御座候處、彌々御安全被成御座めてたく奉存候。書篇
蕪村全集本善七氏の藏なりと。せるものによる。名古屋森拙老無爲相過候、爾者先達者乍御返書くわしく預花牘忝拜受、無御隔意御胸懷御傾□被下、いまた不得貴意候共實に百世の知己と欣慕仕候。此たびいせの樗良しはらく在京にて、嵐山と申老人の方に而一夜哥仙仕候。則これを刻して小册を出し申候。御慰に呈覽候。尤はいかいは曾而御氣には入ましく存候へ共先相下申候。春中御上京も被成候はゝ、御面談に何角討論も仕度所願に御座候。前かたも申上候歟とそんし申候、拙老はいかいは敢て蕉翁之語風を直ちに擬候にも無之、只心の適するに隨きのふにけふ風調も違ひ候を相樂み、尤ヘンジヤクか醫を施し候樣に所々に而氣格を違へ致候事に御座候。此たびのはいかいも愚眞面目の所には無御座候。賢兄實にはいかいの伯樂此所御鑒察可被下一夜歌仙仕候-安永二年の一夜四歌仙なり。春秋時代の名醫。ヘンジヤク-扁鵠、支那伯樂-名馬をよく見分けし人。候。來春御上京も被成候はゝなをとくと御物かたり申上度候。京師一向はいかいを知たる人地をはらつて無御座候近來御秀作も候はゝ御聞せ被下度候。仙臺の丈芝子定而貴境に滯留と奉存候。別に書進不申候間能々御致聲可被下候。年內預御書候はゝ本望之至に御座候。いさ雪見容す蓑と笠雪の旦母屋のけふりのめてたさよ里ふりて江の鳥白し冬木立右よろしからす候へ共書付申候。かへす〓〓金玉御をしみなく御聞せ被下度候。何事も追々可得貴意候。短景折節多用草々かしく丈芝-白居と號す。仙臺の人にて曉臺の門に遊ぶ。寬政十二年歿、年七十一さ霜月十三日書簡篇
蕪村全集曉臺主盟蕪村○先頃は不思議成御上京よろこはしき事に御座候。寒氣の節三君御無恙にて御歸〓被成めてたく奉存候。しかし餘り草々たる御滯留にて殘念の事共筆紙に盡かたく候。殊に暮雨叟はあとに御殘被成候つもりに候處、さたなしに御同行さりとはつまらぬ被成かたと、道立我則月居これ駒なと打寄罵申候。別而道立月居これ駒はいつれも一會宛の亭主をつとめ、三會はおもしろく可樂とかねておもひ居候所に、いか成事にやと恍惚として夢の心甚遺憾之躰に候。士朗君被仰置候もの共此たひ揮毫相下申候。龍門の二字も下申候是は餘り拙き物に候間。御用ひ御無用に成可被下候。蕪村碧十八號に碧梧桐氏の紹介せるものによる。名古屋、渡邊喜兵衞氏の藏なりと「牙寒き」(二〇四頁)の句はこの時の吟か一、宰馬子最平子大野屋之主人求馬公へもよろしく御致聲可被下候。かねて御たのみの畫は不日に相下可申候。おくの細道之卷書畫共愚老揮毫仕候物、近々相下可申候。御覽可被下候。是れは兩三本もしたゝめ候而のこし置申度所願候。貴境は文華の土地に候故一本はのこし申度候。併紙筆の費も有之候故、宰馬子なとの財主之風流家にとゝめ申度候。閭毛君へ別に書狀上不申候。くれ〓〓御傳聲可被下候。とかく筆不性御あはれみ可被下候。此せつ畫用せはしく、發句は一向不得意、何事も追々可得貴意候。かしく十月廿一日暮雨主盟士朗國手蕪村茶の花や石をめくりて道を取と蕪村書簡篇
蕪村全集手紙の末に戯畫ありて「蕪村寫於雪樓中」と署せりと。雪樓は祇園の旗亭。又春の句にしては道を取て石をめくれはつゝし哉かくのことくふれ候はん歟と猶豫いたし候。つゝしにては只の親父に相成可申か、兩子の御高論相待可申候。○(安永九年)○(安永九年)聖春之嘉瑞不可有盡期申收候。先以貴叟御安寧被成御迎陽珍重之至に存候。愚老無爲重馬齡候。まことニ舊臘は預御懇書ことにこのわた一器例よりはおひたゝしく御惠被下、けしからぬ美味社中の酒徒へも少々つゝあかち候而、いつれもよろこひ申事ニ御座候。早速御禮旁々御起居御尋も可申上候處、とかく多用意外之御無音御照察所希候。愚老春興之小册おもひ付申候。とふそ御句早く御登せ被下大阪竹原友三郞氏藏。「鶯や」の句は安永九年の几董初懷紙、及び連句會草稿安永九年の條に出でたり(とふそ御句早く御登せ被下度候。士朗子宰馬氏牛窗子一所に御登せ被下候樣に御下知可被下候。右之三子貴叟より被仰達可被下候。愚妻むすめも無事加年仕候。くれ〓〓御傳言申上候。先ツ年始之祝祠申上たく如此御座候。餘は期永日候。頓首正月十四日暮雨主盟蕪村うくひすのわするゝはかり引音哉加茂の堤はむかし文祿のころ防河使に命せられてあらたにきつかれたりさてこそ桃花水の愁もなくて庶民安堵のおもひをなせり加茂堤太閤樣のすみれかなうくひすや茨くゞりて高う飛蕪村書簡篇
蕪村全集いつれもおかしからぬ句なれと書付候(安永五年)○(安永五年)其後はうと〓〓しく罷過候。いよ〓〓御安全被成御坐めてたく被存候。まことに先頃暮雨子御上京之節は、何より之品被掛貴意、御懇情かたしけなく被存候。菴中日來不足之物にて、一人大慶仕候。暮雨叟御歸國之節、右御禮書狀さし出可申存候所、幕雨氏急ニ御歸國ニ而、愚老へは御さたなしに御くたり候に付むなしく打過候。其後早速書中を以可得貴意存候內、何箇と塵用意外之御無音、且御憐察可被下候。相變事無之候へとも、右之御禮又御起居もいかゝと、艸々如此御座候。御社友のこらすよろしく御致聲可被下候、別而都貢子宰馬子なと、宜御同前に御つたへ可被下候、余は期再鴻之時候。頓首山田久保田氏藏。伊藤松宇氏及桑名西村氏の手寫せるものによる。五月二日士朗樣蕪ほとゝきす待や都のそらたのめ右の句は京の實景、愚老京住二十有餘年、聞こと纔に兩度。ちりて後俤にたつほたむ哉又牡丹切て氣のおとろひし夕哉みしか夜や淺井に柿の花を汲ムや曉早き京はつ れ四明山下の古寺にあそふ山人は人かんこ鳥は鳥也けり蕪村ほとゝきす-この句續明烏(安永五年)、津守舟三に出づ杜鵑を牡丹切て-この句寫經社集(安永五年)に出づ社集に我則の句みしか夜や-この句寫經'して出づ蓋し蕪村の代句なるべく以上諸句の年代より推してこの手紙は安永五年のものと思はる四明山下の古寺-金福寺なるべし。書簡篇
蕪村全集いつれもおかしからぬ句ともなから、句御便りうけ給りたく不堪鳴望候。筆序ニ書付候。貴九、百池宛○先夜は御來かたしけなく候、御安全御くらし被威めてたく存候□尾の歌仙御付句おもしろく候。則引墨いたし候、いか樣にも被成可被遣候。所詮尾と愚老とは俳風□□相違有之候ゆへ、添削もいたしかたく候。西山たな曇の哉留らぬと申事も合點不參候、隨分哉ニ而留り候事ニ候。是等の事も、さほとやかましく申程の事にも無之候。「俳句に關する展覽會集」所載の寫眞版による。版不明瞭にて十分よみ難き故誤讀の箇所もあるべし尾の歌仙、尾と愚老、尾の人-尾とは尾張にて卽ち曉臺のことなり。停車坐愛楓林暮也霜葉紅於二月花右の詩ノ助字ハ、紅葉ハ春ノ花ヨリも紅ヒニテうつくしといふヨリ也。五文字はわすれたりかつらき山のたかねよりかりはらくたるからの音す也西山のたなくもりよりのよりは此うたのより也。西山のたな曇りよりしくれ來ぬといたすと、ゝくと聞え候へ共、それにては一句□□のことくニ候。とかく時雨哉と申さねは句ニならす候。たなくもりより降はしめたるしくれかなと、感を起したる句書
蕪村全集三)、哉すいふんと留り候事也。右之わけも筆序ニ書付候。とかく尾ノ了簡次第ニ御直し置可被成候、あらやかましのはいかいせんぎやな、所詮とやかくと理屈をこねるほとの句ニても無之候。何事もキ面可申上候。以上霜月十六日尙々我等か切字の取捌なとを、尾ノ人へ御さたは必御無用ニ候、此義御つゝしみ可被成候、尤此手かみなど御見せ御他言ニ及候事は決テ御無用、ケ樣の事より能キ中もあしく相成物一ノ炭、百池樣夜半百池樣夜半○(安永九年)維駒集加入之發句、四季六七句つゝ御書付、早々夜半亭へ御出シ可被下候。上邊之ホ句みな〓〓相集り候て、最早板下に取かゝり申候。一兩日中無御失念御書付夜半雜誌祇園大正十年四月號所載の寫眞版による。「居風呂に」の句は連句會草稿安永九年の條に出づ。以上居風呂に後夜きく花の歸り哉百池樣夜半○あふせのことく剛寒御安靜御壽きめでたく存候。しかれば歲末御祝儀不相變致祝納候。且定連料是又辱受納いたし候。御事多中御厚意不淺候。箱の事月居いつかたへ項け候や、只今急には見え不申候、とくとせんぎいたして此方よりもたせ上申可候。偖又句帳は來春迄御豫り申置候、春に至り愚老句集、佳業世話にて急〓出版いたし申つもり候故、句帳とも引合せゑらみ申度候。あふせのことく月居不埒、何角に付きにくき男にて勘當の弟子と相見え候。尙近晩得面唔萬〓御禮可申謝候。以上十二月二十二日百池樣夜半百夜半夜半○御ホ句愚意を加へ、愚老も後刻出席と心かけ候。以上二通雜誌「鷄」四號大雪居先夜以來おめにかゝら書簡篇
蕪村全集正十一年十月)所載、島道素石氏の紹介せるものによる。紀伊木下氏の藏なりと。後者の「夏山や」の句は逸句なれど原物未見なれば發句篇に加へず佳東--佳棠の誤寫か。ず候、別に御禮の手紙遣可申候間、くれ〓〓よろしく仰達可被下候。今日は佳東も出席とやらうけ給り、どうぞ御誘引候はゞ珍重の事に候、も後刻御物かたり申上候。夏山やつもるべき塵もなかりけり半池池池池池池池池池池池池池半何事半半半半半半半半千千千千千千千千千千千千千池池池池池池池池池池池池池池池池池池池池池池池池池···春坡宛○夜前はいつもなから御馳走おとろき入斗に御座候、れ被成候半と被察候。早速御禮參上可仕候へとも、大阪砂原氏藏。及深更御勞例の無賴延尾州の諸子-曉臺一派の人々なるべし。引に及候段御宥恕可被下候。尾州之諸子も甚感賞道すから御噂申出られ候。何事も寬々拜顏萬謝々々。以上三月廿一日尙々歸路御駕迄御仰付被下、御厚情別而不淺被存候、御辭義も可申上と存候へとも、老足ことに夜更ケ故大慶不斜存候。春坡樣夜半○殘暑其御座候へ共、御〓安被成御暮奉□候。爾者暑中御尋として、王徐魚五御めくみ被下、別而此節の美味忝賞味仕候。自此方御ふさた打過候段御免可被下候。尙拜顏御禮可申上候。已上七月九日御厚情別而不淺被存候、御老足ことに夜更ケ故大慶不御辭義-辭退するの意。春夜半大阪土居氏藏。王徐魚-王餘魚と)の誤。(鰈のこ書簡篇
蕪村全集再白先日ハ御枉駕被下辱被存候。春坡樣蕪村○彌御壯健被成御座奉賀候、御噂の句帖もたせ被下候はゝ卽書付進上仕候。たはこ入御めんとうの御事ニ被存候、出來次第御逹被下候はゝ辱被存候、少々いそき候義有之候、先方御さいそく被成下候而、早々出來を願候事ニ候。何事も拜顏。以上四月二日尙々しはゐ已來御めニかゝり候歟と覺中候、わすれ申候、御禮も申つくしかたく面白い事ニ被存候。たしか御めニかゝり候歟と覺申候故、御禮此所ニ略仕候。春蕪村御噂の句帖もたせ被下候はゝ卽書付春春坡樣蕪村○副啓少々なからわらひ進上仕候。池田〓もらひ申候。しかしぢくは甚こはく御座候。以上春坡樣夜半○今日は餘寒扨もはけしき御事ニ御座候。ことニ御微恙切角御保護可被成候、御やくそくの茶臺御惠投被下、每々御厚意辱被存候。近日參御禮可申上候。以上正月十七日春坡樣蕪村坡蕪村以上二通大阪北田氏藏。池田〓もらひ申候。しかしぢくは夜半編者藏。蕪村書簡篇
蕪村全集七四四一一、暮蓼宛○寒冷相催候處彌御無恙めてたく存候。愚老かはらす候。しかれは先達は預御書通、ことに入門御しうきとして方金一塊かたしけなく致受領候。其節御ホ句も御書付御のほせ候歟と覺申候。ホ句はいつれも甚面白うけ給り候。其節直ニ御返事申候やいまたしやしかと覺ず候。もしいまた御返書も不致候ハヽ疎懶之至御免可被下候。右おほつかなく候故態々かくのことくニ候。塵用多々艸々不備十一日五日さゝ山菱田平右衞門樣與謝蕪村以下四通芦屋菱田是佛氏藏.以下順次手紙によりて知らるゝ如く、この頃(年代不明)始めて蕪村に入門し。季由と號せしがやがて蕪村の命名によりて暮蓼と改めたり。暮蓼は丹波篠山の人にして、家代々藩侯の掛屋役として金銀を管す暮蓼名輕夫、通稱平右衞門、文化八年十一月廿八日歿、年四十七。與謝蕪村○寒中御無爲御くらし被成目出度存候。愚老かはらすしのき罷在候。御安意可被下候。先日は預朶雲辱被存候。飛脚いそき候に付早速御返事も不申候。牛行集も中〓〓急には出板いたさす候。來年中寬々と御工案の句御登せ可被下候。古好靑荷之兩子へも其段被仰傳可被下候。御ホ句二句ともに今少し心ゆかす候。御案可被成候。最早年景せまり候故、來陽ならてはと申殘候。切角寒氣御しのき可被成候。かしこ十二月十八日季由樣夜半古好-又古貢ともかけり篠山の人。靑荷-花櫻帖に句見ゆ、同じく篠山の人か御案可被成候。最早年景切角寒氣御しのき可被成夜半書簡篇
蕪村全集おもふこと有て雪を踏て熊野詣のめのと哉のり合に渡唐の僧や冬の月手拭も豆腐も氷る橫川哉右いつれもあしき句なれと書付候○表德駄雪珍十片帆社米屏波冠雪陸尹老鵞阿啓美井茶僕橘郞菊老樗六豈雪蘭府里尹史金千倫八菊段水印路老芋閑吏暮蓼右の內暮蓼といふ名さび有ておもしろく候。上手に御なり被成候而は別而よき名ニテ候故、相極メ〓書可致と存候。しかし思表德-號なり。老鵞里尹阿啓史金武堂-蕪村門、篠山の人。(マヽ)召次第早々御申越可成候。二月六日季由樣(マヽ)荒堂子とも御相たん可成候。以上季由樣蕪村○御安全めてたく存候。愚も無爲にくらし居申候。暮蓼いかにもよき名珍重に御座候。名がよく候間御出精可被成候。御句ともことの外よろしく候。添削いたし御めにかけ申候。〓、すり物今日摺候て見せに參り候。甚よろしく出來、於愚老大慶之至に候。近日のこらす出來相下可申候。大奉書三帖すらせ申候。貴境へはいかほと下シ可申候や、先つ一帖相下シ可申候、京師並田舎おひたゝしく配り候故、此方へは多くほしく候。御返書被仰聞可被下候。古貢子よろしく御傳可被下候。蕪村書簡篇
蕪村全集大取込中早々以上二月十五日暮蓼樣夜半一、、近江屋宛○其後は御物遠罷過候彌御壯健被成御座珍重存候。しかれは靑梅島引ときあらきしま女子物細成しま右之品御座候はゝ、乍御面倒御見せ被下度奉賴候。先日妻に御物かたり被成候ニ付、とふそ御見せ被下候樣と、妻くれ〓〓御以下近江屋宛七通名古屋、織田德兵衞氏藏「碧」十六號に碧梧桐氏の紹介せるもCのによる近江屋は京都の吳服店にてもとこの手紙は五條水口屋吳服店の藏なりきと彌御壯健被成御座珍重存候。しかれは賴申義に御座候。御事多中御めんとうニ可思召候へとも、申上候。右得貴意度如此御座候。以上十月朔日近江屋五兵衞樣御賴與謝蕪村○此きぬ地之裏打、薄墨にて染候と相見え申候。薄墨の紙ニ而きぬのうら打は甚あしく候。一向唐ニハ無之事にて候、隨分と白き紙にてうら打致す物にて候。墨紙にてうら打いたし候へば、畫品甚いやしく、且又彩色もあしく罷成候。キのとく之事ニ御座候。右の趣水口屋樣へもとくと仰達可被下候。以上十二月二十四日近江屋五兵衞樣蕪村蕪村寒冷相募候所御安全被成御座奉賀候、しかれはきぬ地漸今朝迄に出來仕候故先つ御めにかけ申候。此畫はことの外むつかしき物に御座候故、かねて被仰聞候畫料書簡篇
蕪村全集なとニ而は一向間に合不申候ニ付、あなた之畫は外にきぬ申付候。近々出來可仕候、夫迄しはらく御待可被下候。先ツ御やくそくの日限も段々延引に及候故、此畫御めにかけ申候。御覽相濟候はゝ御返却可被下候。何事も貴顏とくと御物かたり可仕候。以上十月十七日近江屋五兵衞樣與謝蕪村與謝蕪村○爾來御物遠罷過候、秋暑はけしく御座候處御壯健被成御凌めてたく存候。□□先達仰聞候きぬ地二幅之內、壹幅は盆前に出來いたし上可申□思合仕候處、中〓〓出來かたく候間其旨先樣へも被仰達可被下候。とふそ一幅は是非揮毫可仕と心かけ候處、及延引候段御察可被下候。右御斷申上度如此御座候。いつれもむつかしき物に御さ候故、あはたゝしく急き候而は不出來仕候、しばらく御待被下度候。何事も拜顏御物かたり可申上候。以上七月七日二白當日めてたく存候。近江屋五兵衞樣○爲拙畫御謝義二朱二片忝致受納候。壬月廿八日近江屋忠兵衞樣〇寒中御安全被成御暮めてたく存候。御丈へ附申候、御落手可被下候。箱の書付もしたゝめ上申候、與謝蕪村御丁寧之至と存候。其內御禮可申上候。以上與謝蕪村しかれは先達被仰聞候きぬ地山水出來に付、折節取込艸々如此に御座候。餘は期拜面候。以上十二月廿四日近江屋五兵衞樣○拙畫は謝義として方金一地竝に御一樽被送下忝致拜受候。被仰傳可被下候。尙來陽貴顏可申謝候。以上與謝蕪村先樣へもよろしく御禮書簡
蕪村全集十二月廿三日近江屋五兵衞樣與謝蕪村1一、東瓦宛○池田稻束氏藏。東瓦は山本氏、伊丹の酒造家にして蕪村門、のち蕪村の紫狐庵の號をつげり。御紙面のおもむきいさゐ承知、則御句共すり物に御出し被成候はゝ、○印の分よろしく候。又美酒一樽御をくり被下かたしけなく、ちよこ〓〓御めくみ被下候樣にと、已來たのしみ申事に御座候。樽此たひ御返却いたし候、御受取可被下候。すり物追加の句左に書付候。鷹か峰に遊ひて樵夫の家にやとる則御句共すり物に御出し被成候寒山に木を伐て乾鮭を烹る夜半翁右の句ことは書共にとくと御〓書被成、御加入可被下成候。十一月二十八日東瓦樣夜半すり物進申候。すり物たひ〓〓おひたゝしく出候へとも、たちまち配り仕舞候て、一枚も無之候。やう〓〓此一枚有合候故進申候。東瓦の子老橘井が、蕪村より亡父に送れる手紙を扇面に板行して好士に頒てるものによる。扇の包紙には表に「蕪村翁尺牘扇」と記し、裏に「俳諧竟身過行脚盡一生東西懸小俣日夜吐太平家內雖立箒滯留不知程只愧呼二白先頃奥州ノ行脚橋居房といふもの御尋候よし、愚亭はもちろん、几董百池月居嘯山五雲其外所々尋參候。我等方も早々追立申候。此ものはかたり者に而候間、かさねて其御地なとへ參候ても、必々御取合被成候事御無用に候。とかく行脚の俳諧師書簡篇
蕪村全集宗匠元是道樂客月居」と月居の狂詩めきしものを書せり。扇の半面には文言ある部、半面には「すりこ木て云々」以下の部を刷り、終りの餘白に「蕪村翁より亡父への文を懷舊のあまり寫しとり好士のかた〓〓へ贈り參らするとてもしほ草其世の春そなつかしき老橘井」と記せり右扇面稻束氏藏橋居房は傳不詳。俳諧獨喰に그智道賛、蛇迄も穴に入りけり沓の音、橋居坊」とあるはこの人なるべしはいつれも油斷のならぬもの斗に候間、たとへ名をは聞及ひ被成候者にても、御出合はかならす御無用に候。もちろん誰〓〓と世に呼るゝものも、組合テはいかいをいたし見申候に、いつれも皆赤下手ニテ候。虛名の徒にて取に足らぬ者斗に候。穴かしこ御油斷有へからす候。以上十月廿七日すりこ木て重箱を洗ふかことくせよとは政の嚴刻なるをいましめ給ふかしこき御代の春に逢ふてすみ〓〓にのこる寒さやうめの花東瓦樣夜半夜半一四、士川宛大石松岡又左衞門氏藏。士川土巧士喬三人は兄弟にして土川は伯通稱甚右衞門十巧は仲通稱德右衞門石士喬は叔通稱又左衞門大氏て、大学生理門今ではあります。 そのではなくなる喬の子孫なり勒仕-勤仕。月居夜半亭門人俳諧の好士也芦人西本願寺勒仕の士也右の兩人日ころ中よき友ニて、折々相會して俳談す、或日月居諸國の句を芦人に物かたりす。それか中に無してくらき鵜飼かうしろかな芦人此句を聞て、扨もおもしろき句哉と嘆美す、月居云、さも(マヽ)こそ是は千句の卷頭に蕪叟か選出せる句なり、抒長き迷闇はいふもさら也、現世より鵜飼の翁か身ニ立添て、やかて背中にせまり來る未來の闇路、まことに無常迅速の理りをもしらさるい或日月居抒-抑の誤。書簡篇
蕪村全集となみ、感慨いふはかりなしとて、蕪叟か秀逸にゑらひ出せる也と、ものかたりしけれは、芦人手を打て、さてこそと嘆息しおのれもかしこく聞得たりと、其夜の俳談は此句に盡て、おの〓〓退散しけるとそ。其後程經て、西御門主近侍あまた集められ、四方山の御物語有ける序、右の句を御ものかたり申上ヶけれは、御門主うち返し〓〓御吟詠まし〓〓、扨々もおもしろき句哉いと尊し、此作者さうなき佛者なるへしと御賞嘆有て、やかて近侍の祐筆に命せられ、此句を記錄にとゝむへしとの御意也けるとそ。右のおもむき芦人早速月居方へまいりて、物かたりのよし也、されは愚老も宗門の事ニ候故、ことに有かたく、且ハ選者の面目にも備へ候て、落淚いたすはかりニ候。扨此たひ大魯ニとくと承り候へは、士喬子の御句也と申事ニ候、說ニ候故、書記御なくさみニ御めニかけ候。おもひもよらぬ珍蕪村士士士士川樣士巧樣士喬樣○(安永八九年)彌御安靜被御座成奉珍重候。しかれは先日以書狀略得貴意候、定而御披見被下候半と被存候。此度愚老門人月溪貴境遊歷仕候、しはらく足を休メ候樣に御取持被下候はゝ、於愚老大慶の至に被存候。前以得貴意候通、此月溪と申者は至而篤實の君子にて、中〓〓大魯月居かこときの無賴者に而は無御座候間、少も川巧喬池田稻束氏藏。これは月溪が金座の關所により、職を失ひ諸所を放浪せし折の紹介狀なるべし。當時月溪廿八九才、卽ち安永八九年の頃なり天明元年に至り月溪は暫く池田に落ちつくことゝなれり後出月溪宛書翰參照。書簡篇
蕪村全集無御心置御出會可被下候、愚老きつと御請合申人物にて御座候。もちろん畫は當時無双の妙手に而候、御なくさみに畫も被仰付可被下候。はいかいもよほとおもしろくいたし候、橫笛なとも上手にて候。彼是器用成おのこにて、別而畫は愚老も恐るゝ斗の若者に而候。大魯月居に御手こり被成候所へ、又候添狀仕候も、愚老面目もなき仕合に候へとも、此月溪は左樣の者にては無之大魯月居が穢れを洗ひ申度候。くれ〓〓御仰合御鼓吹被下候はゝ忝奉存候。右可得貴意かくのことくに御座候。尙以書中追〓可得貴意候。以上九月十四日士川樣夜半鼓吹-引立てゝやること夜半○(天明三年)碧十六號に碧梧桐氏の紹介せるものによる。名古屋味岡榮二氏の藏なりと。朶雲拜見御安全被成御座奉賀候、愚も無爲候。鬼彦ほ句の事いさゐ承知則左に日は日くれよ夜は夜明けよと啼蛙右の句御出し可被下候。蛙は二三ヶ月にわたり候物也、景にて候。一、御酒いつ迄も相待罷有候。一、春の句早々御登せ可被下候、御近邊御社友兵庫邊御さいそく可被下候。春三季にわたるほ句よろしく士喬樣士巧樣へもくれ〓〓奉賴候。一兩日はのとかに相成おもしろき事洛東の烟霞こと更やるかたなく候。京奉待候。三月十日より一七日之間蕉翁百年忌洛の双林寺又大津幻住庵において擧行管事曉臺其中にも此蛙は晩春之致又々御上蕉翁百年忌-天明三年三月に行はれたり。其頃は被仰合御上京可被成候。如月四日以上書簡篇
蕪村全集七六〇士川樣夜半一五、佳棠宛○大阪砂原氏藏。服五亭-不詳。御再輸拜覽、只今服五亭迄罷こし居申候、尤月居も伏水行を相止是迄出張いたし居申候。嵐山ハ所詮遲ク候故斷申候、百池ハいかゝや無覺束候。以上花に遠くさくらにちかしよし野河よし野を出る日、風はけしく雨しきりにして、滿山の飛花春を餘さす雲を呑て花を吐なるよしの山いつれもすくれす候へとも御尋ニ付申上候。花に遠く-この句より「いつれもすくれす候へ共御尋ニ付申上候」まで書體紙質共にやゝ異り別の斷片をこの間に裁ち入れしものゝ如し。されど今暫くつゞけしまゝに揭ぐ。書にいわく待人遲し春の雨佳棠樣夜半○扨も御物遠罷過候、いかゝ御暮被成候や御起居うけ給りたく候。まこと先日はけつかう成御菓子御めくみ被下かたしけなき御事に御座候。それよりして御目にかゝらす御禮も申おくれ候。小絲かたより申こし候は、白ねりのあはせに山水を畫きくれ候樣ニとの事に御座候。これはあしき物好きとそんし候、我等書き候てはことの外きたなく成候て、美人には取合甚あしく候、やはり梅亭可然候、梅亭は毎度美人衣服に書き覺候故模樣取旁甚よろしく候。小絲右之道理をしらすしての物好きと被存候、我等か畫きたるを見候はゝ却而小絲後悔可致きのとくに候夜半大阪高安六郞氏藏。小絲-花鳥篇に女小いとの句あり。妓女にあらずやと思はる。なほ後出の手紙にも小糸のこと見ゆ。簡篇
蕪村全集小絲事に候ゆへ何をたのみ候てもいなとは申さす候へとも、物好きあくしく候ては西施に黥いたす樣成物にて、美人の形容見劣り可申といたはしく候。二三日中に右あはせ仕立候てもたせ遣候よし申遣候。とふそ小絲に御逢被成候てとくと御申聞せ可被下候。縷々筆談に盡しかたく候、何事も貴顏御物かたりと申殘候。以上五月廿六日返す〓〓小絲もとめならは、此方よりのそみ候ても畫き申たき物に候。右之外之畫ならは何成とも申遣候樣御申傳可被下候。此ほとは不夜ねり物へ御越被成候や御ゆかしく存候。少々御閑暇之節御來訪所希候。金篁子へもよろしく、里曉子へも。佳棠樣蕪村不夜-五雲。○明石橫山氏藏。同氏の紹介せるものによる。芳翰拜閱一安安全めたく存候、しかれは端午の御祝儀白銀壹封、且畫料金百疋、御丁寧の至辱致受納候。一、唐墨料、六匁五分是又落手仕候。一、御互に南柯の一夢さめ候時節をかしく候。されとも人間の片より候は木石にも劣り候故、折ふしはよろしく候。禮はかりにては上下不和に候故、樂といふ物なくては天下も納らぬ物にて、和ヲ以テ和セサレバ又行ハルべからすと、大聖孔子さへのたまひ置れ候。只よき程のたのしみは有たき物に候。螢の御句不堪感慨候。逃尻の光りけふとき螢哉何事も節後寬々御物かたりと申殘候。愚老も昨朝より胸痛の心一、逃尻の-逸句なれども手紙の原物未見なれば發句篇にのせず、「けふとき」は「けうとき」書簡篇
蕪村全集地にて引こもり罷在候。五月十三日佳棠樣○しかし當分の持病、御安意乞、以上蕪村加賀翠溪氏藏。御物いみ中何角御せわ忝被存候、御書面之おもむき一々相心得申候。○賀瑞手紙落手○月並二ツ集候故幸便御届申候○十日ニハとふそ御潔齋も相濟候義故、御出席可被下候。以上九月六日佳棠樣夜半樣夜半○愈御壯健珍重事御座候。駕可仕候。波君も嘸佳棠ちきるもゝ糸柳の其中へ拜面に申殘候。乾氏の手寫せしものによる香川象人氏の藏なりと。しかれは御書面之おもむき委細承知、時刻をたかへす出三月二日汲古汲古樣夜半○いよ〓〓御壯健めてたく奉存候、しかれは明日は御不座のよし、貴子御出なくては佛なき堂の心地にて候。とふそ御くり合せ、御越被成候樣にと願ふ事に御座候。一月の小すり物いたし度候。奉書四ツ切夜半寶舟四ノ一に蜃樓氏の紹介する所にして明石安井氏の藏なりと。宛名の所切取りあれど佳棠宛のものならんと附記せり如琴佳棠百池蕪村右の四人の句にて早々すらせ申度候、いかゝ可致や御賢慮承りたく候。御意に候はゞ如琴百池へも被仰達可被下候、何にもせよ月の御ホ句早々うけ給り度候、今日中にかため申度候、早々八月十九日櫻なきもろこしかけてけふの月蕪村蕪村書簡篇
蕪村全集右の句を出し申度候。○雨中欝陶候。彌御平安珍重にぞんじ候。第三妙也。雜誌「野火」大正十三年二月號所載、名古屋嘯月庵氏の藏なりと。且暫日御噺の句甚おもしろくぞんじ上候。閑居之句我のみの柴折くべる蕎麥湯かな今日は月溪大津へ參候。能便ゆへ兼ての漢畫賴遣候。ふし客來。不具廿四日佳業雅子O今日ハ雨中甚こまり申候。出可被下候。夜前之句うら寂しつりの糸吹秋の風白雄子へ御見せ可被下候。畏〓〓今日御出かけ、候。參次第御覽に入可申候。折蕪村「野火」大正十三年三月號所載、名古屋積翠庵氏の藏なりと晝後より積翠樓へ出かけ可申候。御來駕。茅屋之句御御用事御座候共必〓〓待チ居申卄九日佳棠雅君へ○梅津半右衞門の尉は(中略)いとこゝろにくき事也。朝比奈が曾我を訪ふ日や初がつを南蘋を牡丹の客や福西寺御一笑々々々初夏三日田中庄兵衞樣謝寅「名家書翰集」所載。文章は新花摘の終りに出る文と同一なれば中略せり。之は手紙の文句にあらざれば可疑。與謝蕪村一六、騏道宛大津村田氏藏。○秋冷相催候へとも、鑑定左之通也。(安永末年)御安康御くらし被成奉珍重候。大雅堂畫幅書簡篇
蕪村全集般若山水是ハ疑クハ贋作と相見え候、甚よく似せたる物ニ候。大雅社中の內ことの外よく贋物をいたす有之よし傳承候、恐クハそのもの歟。行到水窮處右ハ眞筆ニ候へとも甚不出來成物ニテ候。中秋貴境へ可參と心かけ候所、例のゝら共ニおたてられ、埓もなき月見をいたし遺恨ニ候。御句おもしろく、拙作此せつ多用ニ付不得候、尙あと〓寬々可申承候。取込草々以上。八月廿日良夜いたす有之よし-いたすの下に「者」の字を脫せし埓も尙あと〓寬々可夜櫻なき-この句月溪宛のもの(七八一頁)にあり。さればこの手紙も當時のもの卽ち安永末年ならんか騏道-木村氏、大津の人。文化七年歿曉臺門、さくらなきもろこしかけてけふの月きぬ地山水の義先ツ相心得候、とふそ不日ニ揮毫いたし可申候。其外も當年中ニハ不殘落成、しばらく御待可被下候。騏道樣蕪村道樣蕪村○此ほと洛東芭蕉庵小集探題あな苦し水盡んとす引板の音折くるゝ心こほさし梅もとき梅もとき折るや念珠をかけなから十三夜後の月鳴たつあとの水の中是等は當時の風調にてはなく候。所謂しほからきと申句に候へとも、愚老は折〓〓わざと此句法を用ひ候。當時の俳風すへて高邁洒落を專蕪村某氏の手寫せるものによる所藏者不明。蕪村の一種の俳論を見るべしと雖も原物未見なればその眞僞を斷じがたし。書簡篇
蕪村全集といたし候故、うちききはとふやら貴キ樣にて句は甚うすく、躰もなきホ句共多く扨々きのとくにて候。それ故愚老は社中の初心之者のけいこのためにわさと右の格もいたし置候。とかく片よりは萬藝ともにあしく候。道樣蕪村騏蕪村○秋冷御さはりなく珍重御事御座候。まことニ御神事之節はとふそたのしみ居候處とかく多用に妨かちにてまいりかたく、甚殘念之至に御座候。御待被下候よし御深切辱存候。御句おもしろく候。月を小雨の小夜とつき候かた、調候て姿情も又ゆかしく候。小雨の小夜は雨夜(マヽ)と連綿いたし候歟存候。月の小雨を小夜きぬニては一句むつかしく、意も立かたく候はん歟。いつれ臆斷も可然候。昨日直に御返事可申所、折ふし畫俳取交ことの外いそかしく候て今日ニ及ひ候、飛脚も急き體ニ而、あはたゝしく候ゆへ不□卽答候。以下二通京都内藤氏藏。宛名不明なれど岡山某氏の藏にして前者を摸寫せりと覺しき手紙〓騏道樣蕪村と最後に記せりと後者も恐らく騏道宛なるべくもとその終りに名宛發句などありしをそこだけ切取りしものなりと小夜きぬ-小夜きぬたの誤なるべし。○貴境風雅寥々きのとくに候。怠らす御取立御せわ可下被成候はゝ□□可申候。大津は蕉門齊魯の地ニ候故御出精之上名家も出候樣ニと願事ニ御座候。きぬ山水いまたニ候。ことの外急成物をしたゝめ居候故、それを片付候はゝ不日ニ揮毫御めけニかけ可申候。よろしく故常子へも御傳可被下候。○大津吉住氏藏。さむく相成候へとも御無恙御くらし被成珍重被存候。しかれは先達被仰聞きぬ地山水落成いたし候。かけ物箱長サ壹尺六寸餘かねさし右くらいの箱を相待□□可被遣候。此方之箱ニ入候て相下可申存候へ共、箱方々へ遣候て甚不自由ニ候故かくのことくニ候。扨朝暮天氣陰晴もはや神無月之心地ニ候○とふそいとまを得候て來月中ニハ湖南行之趣向相催可申とたのしみ罷在候。巨洲子漁江子菊二子其外御社中御傳聲可被下候。何事も御めニかゝりしかれは巨洲、漁江、の俳人。菊二-湖南書簡篇
蕪村全集候節。以上九月盡騏道樣時雨しくるゝや長田か舘の風呂時分しくるゝや山かいけちて日の暮るゝまたき冬の句なから今朝いたし候故書付候。夜半一七、梅亭宛四日市鈴木氏識。御安全めてたくそんし候。大橫物漸出來もたせ上候、もしろき物畫申候。此謝只今ほしく、長良餘り畫過候而風流なし、縱ハ盆前又お長良-張良。縱は-たとへば。(註こゝに畫あり)かやう宜、賛ハ嘆息此人去蕭條徐泗空沓おとす音のみ雨の椿かな是を書ところ御殘し置可被下候。五月八日梅亭さま夜半○(天明二年)殊之外之春暖いよ〓〓別條なく御暮し珍重ニ存候。夜前は御來訪のよし、見事之鮒魚二腮被下忝今日賞味いたし候。厚情難謝候。且又よし野行之事承知仕候。先日伏水之土人之物かたりニ桃も滿花のよし承候。さあれは花も此節よりと被存候。外ニ我則佳棠もおもひ立仕居候へ共、其期にいたり異變あるものニ候。貴子同行ならは千人力と存候間、いよ〓〓旅行思召たち可然候。只簑一ツこそ雨の備へとそ存候。何ことも有のまゝにいたし同行可申候。嘆息云々-發句篇四七頁參照。夜半大津某氏藏。傳來正しきものゝ由なれどやゝ贋筆の疑なきにしもあらず、且つ別に次の如き屬筆の手紙あそは全く僞筆なれどもその原物或は蕪村の眞筆にて存するやもはかられず。かた〓〓參考のため錄して後考を俟つ凡普通商船で、句は天明二年出づ〓○よし野の花見かれて慕書簡篇
蕪村全集しくことしは是非と存申候處日和つゝきもし雨になりても、又々佳興と存候。先日伏水土人之物かたりに桃花も此ころ十分のよしさすれは十日七花も滿開と存几董我則も候C炒菜炒麵粉雞湯麵申候へ共其刻にあるものに候らは千人力に存候御したく候ついて花の句書進申候雲をのんて花を吐なりよし野山かくはいたし置申候。花山之佳興おしばかり申候。日より當庵へ定會銀獅も上明京□□申候よし今使まいり申候。兼題春雨かはすに候。御出會可被成候予か句春の雨日暮んとしてけふも有苗代の色紙にあそふかはつかな三月四日梅亭主人蕪村○春夜樓會不參いたし候。今日小集催し出來のよし、貴子御畫のよし御苦勞に候愚老の句いつれニさため可申哉先日不夜菴茶會ニての兩三句書付候。よきを几董へ遣し可申候。萬々貴面御入來待いり候。草かすみ水に音なき日くれかな春雨や日くれんとしてけふも有折釘に烏帽子かけたり霄の春右三句之中任尊意ニ候。以上二月廿三日梅亭主人蕪村蕪村八、延年宛○蕪村爾來絕書音候。彌御安全被成御暮めてたく存候。愚老去年より所勞今以しか〓〓無之、いつかたも意外之御無音御察可被下候、大阪土居氏藏。の人、傳不詳。延年は浪花併此二三日は大かた復常仕候間、被安懸念可被下候。社中すり物御慰ニ進上申候。ちと御上京被成候樣にと心待仕候。浪花振子大評判とふそ見物ニと存罷在候、左候はゝ御尋可申上候とたのしみ申事ニ御座候。樵風子へ乍御面倒御達可被下候。何事も追々以書中可得貴意存候。取込草々以上三月四日延年樣蕪村抿子-嵐振子、者。大阪の役何事も追々以書中可得貴蕪村○(安永五年)貴墨忝拜覽、寒中無御障御安全被成御座珍重存候。愚老無難相過候。一、すり物思召立候ニ付、愚句追加の事相心得申候。左ニ書付候春興篁にうくひす鳴やわすれ時「名家書翰集」所載による。書簡編
蕪村全集こちの梅も隣の梅も咲にけり冬吟乾鮭に腰する市の翁哉三句の內、いつれ成とも御心に叶ひ候を、御加可被下候。愚老儀も當月むすめを片付候て甚いそがしく、發句も無之無念ニくらし申候併良緣在之宜所へ片付、老心をやすんし候。來春〓身も輕う相成候故、よし野曳杖のおもひしきりニ候。さ候はゝ浪花へも立寄、寛々御めニかゝり可申たのしひと候。樵風久しく便りも無之候。いかゝ被相過候哉ゆかしく候。宜御傳被可下候。尤兩節春興之句もほしく候。よろしく〓〓御傳可被下候。此節世塵取紛艸々如斯に御座候。かしこ十二月廿四日延年樣蕪村兩節春興の句-安永六年春興帳に延年の發句一、附句一出で、又蕪村の娘の結婚せしは安永五年冬かと思はるれば、かた〓〓この手紙の年代を安永五年と推定せり蕪村一九、靑荷寃○寶舟四ノ一に蜃樓氏の紹介する所にして、明石尙古園の藏なりと。此間は海ほう寺御うら山しく、しかし歸宅夜に入候と奉存候。愚月並廿六日枯野(註、この二字一旦書きて抹消せり)兼題からさけ雪冬こもり歲暮一、今朝芦陰相續の人被相尋候。吉分禎吉と申若もの、至極美男にて何を見込に芦陰へはいられ候事にやとおもふ斗に候。貴家へも此ほと御見舞被申所、御他行不得御意之由ものかたりにて候。今日直に伏見夜舟にて下り候故、最早凡董子へはまいり不申候間、愚よりよろしく申くれ候樣との事に候、尤道立君へしかし歸宅夜に入候と奉存この二字一旦書きて抹消せり)兼題芦陰-吉分大魯。書簡篇
藩村全集も御見舞可申上候ても御下坂御留守ならん、よく〓〓御達被下候樣にとのたのみに候。芦陰集、右禎吉持參先つ十六册參り候。內八册貴家へとの事に候。又々追々可相登よしに候。何事も一兩日中に御目にかゝり可申述候以上十二月十六日木からしや釘のかしらを戶に怒るいかい事句は有之候てもおもひ出しかたく候。靑荷子夜半○一、そは粉風味けしからぬことに御座候、又た幸便に御惠み可被下、今暫時は粉も持合せ候故、遲々と御贈り可被下候、尙後便頓首。靑荷子夜半無詮事に候故是も芦陰集-今この書傳はらす。靑荷-丹波篠山の人。花櫻帖等にその句散見す。の手紙果して元來靑荷宛のものなりや、疑はしき點あり。夜半今暫時は粉夜半○先日は又た蕎麥粉御惠み被下、早速賞味いたし候。けしからぬ風味不堪雀躍候。木からしや釘の頭を戶に怒る半江の斜日片雲の時雨哉松島て死ぬ人もあり冬籠いかい事句は有之候へ共思ひ出しかたく候。靑荷樣夜半○(天明二年)甚暑之節御安全御しのき被成珍重御座候。愚老無爲にくらし居候。御細書之おもむき承知、別而御厚意ともかたしけなく候。花鳥篇先日出板有之候所御便り遲く及延引候。諸方より加入之句よほと集り候へとも、いつれもはふき候て、社中親友の句のみニいたし候。□影一片御めくみ別而御風流かたしけなく候。とふそ是より燈下に書をたのしみ可申候。是迄は眼力うとく夜分は一向書を見る事叶ひかたく遺恨御察し可被下候。此たひ御ホ旬いつれもめでたく候。先達被遣候可仙あと〓引墨いたし相遣可以上二通「ホトヽギス」四ノ四に水落氏の紹介せるものによる。後者は前出十二月十六日付の手紙の終りと同樣にて疑はし、夜半西胡桃太氏の手寫せるものによる原物未見文中花鳥篇出板の事あれば天明二年なるべし。花鳥篇には「花に添ていさゝか迯る胡蝶哉」と靑荷の句出でたり。御細書之おも先達被遣候可仙あと〓引墨いたし相遣可書簡篇
蕪村全集七八〇申候。此節多用いつかたへもふさたのみ御宥恕可被下候。六月二日靑荷樣此節の句ゆふくれもしらぬてはなし羽ぬけ鳥尙重□□。樣夜半二〇、月溪宛(安永八九年)伊丹岡田氏藏。朝暮扨もさむく相成候、彌御安康御くらしめてたく存候。愚老はしめみな〓〓無爲ニ渡世いたし候、御休意可被下候。先日可仙二卷、早速點いたし相下可申と存候所、ことの外多用且のら旁以延引ニ及候段御免可被下候。扨々無性ニ成候て方々〓さいそくニ預り、日々呵られくらしニ候。御憐察可被下候。可仙おもしろく候。愚老歌仙二卷-文章篇中に收めし歌仙評は或はこの時の評卷の一にあらざるか一、一、俳名の事被仰越此度書付相下候。御氣ニ不入候はゝ又々案し可申候。當分先ツ此內にて御用可被成候。ホ句おひたゝしくいつれもおもしろく候。其內引墨の句々珍重ニ候。大ニ御上達めてたく存候。灘兵庫のかた、御遊歷の思召たち有之候よし、いかにも可然候。此間士川氏かたへ書狀出置候。尙御出立の時節又々書狀遣可申候間御案內可然候。今日はこれこまへ追悼之はいかにニ只今〓罷出候。取込候故草々申のこし候。以上九月朔月溪樣夜半良夜さくらなきもろこしかけて今日の月蕪村其內引墨の句々灘兵庫のかた-當時月溪は池田滯在中なりしと思はる。士川氏かたへ書狀-前出比明十割引 明日の紅川 氏の手紙しよつてこの手紙も安永八九年のものと推定せらるこれゝま-黑柳維駒。追悼とはその父か妹かの法會なるべし。夜半蕪村書簡篇
蕪村全集近年蕉門といふてやかましき輩、いつれもまきらかしの句のみいたし候て片はらいたき事ニ候。それ故愚老ハ右の樣成句をわさといたし候。田兄へよろしく御致聲可被下候。別書進申度候へともかはらぬ事故相止メ候。十三夜ハ金福之會のよしさた有之候。とふそ其節ハ上京可被成樣ニ御申達可被下候。附記、ホトトギス四卷四號に水落氏が「流行の調につきて門葉をいましめたる文に曰く」とて蕪村の一文を紹介せるものは、この月溪宛手紙の一部と內容同じければ、參考の爲左に之を採錄す。田兄-田福。池田の人。良夜櫻なきもろこしかけてけふの月右の詞は當時流行の蕉門といふ者のいたす處には無く候、近頃洒落高邁の風韻を貴ひて、大方はまきらかしの句のみ多く候て、晩進の徒を害ひ候故、暫時其調御無用に候。夜半二一、布舟宛(安永七年)武藤山治氏藏。新春の嘉祥めてたく申納候彌御安全被成御迎陽珍重存候。愚老無爲ニ加馬齡候。其後は御互ニ音信不通のありさま、いかゝ御風雅無覺束存候。當春興帖とふそ御句加入所望候。早々春興御句御登せ被下度候、甚いそき申事ニ候。愚老門人召波遺稿出板ニ付、一部進上仕候、寛々御覽可被下候。京師ニハめつらしき俳者にて有之候處、今は古人ニて愚老半臂を殺れし心仕候。當春中はとふそ貴境へも遊行可仕とこゝろかけ候。早々春興御句御登せ被下召波遺稿-春泥發句選のことなるべし同書には安永六年十二月の蕪村の序あればその出版は同時ももしくは翌千春なるべく隨てこの手紙は安永七年三月のものと推定せらる貴境-播州高砂。書簡篇
糕村全集李樹-不詳、高砂の人なるべし瓜涼-高砂の人。暮櫻亭-布舟の亭號なる22布舟は播州高砂の人田中氏俗稱左太夫文化五年殁す(萬家人名錄)。當時の俳人と交游頗る廣く、靑蘿、蕪村、しやりき樗良の門とは特に親明和より寬政にかけての俳書に、その句多く散見す。酒造家にして同地方の富豪たりしが如く、鍵屋と稱したりと。高砂の人な1' 1'李樹子瓜涼子へもよろしく御傳聲可被下候。1'暮櫻亭の額字、延引なから此度相下候、何事も春永に可申承候。かしこ孟春十六布牢樣蕪其1'蕪其1111'朴療宛編者藏。其後者御疎遠罷過候。やゝ冷氣相催候處、御安全被成御座奉恭慶候。しかれは先達御もとめ之おくのほそみち之卷出來仕候ニ付呈覽仕候。御ものすき甚よろしく候而、したゝめ候ニもこゝろよく大慶之至ニ候。ケ樣之卷物之畫は隨分酒落ニ無之候而は、いやしく候て見いやしく候て見そうそ郵便器や列车在五色加湿西苑を有するにある。そらじゃあーそれを酒シーしてものせやるともして朽的に到くを今老情次信を行あして室室ノやしをそれますか?しんたあの你を左岸の成武三家ニヘクトそりあしら自(、岩甲胃ヲをえちょとさしをしてもちらしみを白ツそうな、まえ、まるる隆久しろ初を独ぶしそひと花なくらちろらそうごう洋だし、そ道南ねぎる老そうならくちそ如意大z dやわリカウT.くちそi〓(藏者編)簡書宛遊季
られぬ物ニ候。それ故隨分と風流を第一ニ揮毫仕候。卷中に女武者之像二人有之候。是は文章中有之候通しのぶの郡鐙摺と申所ニ古寺有之候。其寺ニ次信忠信兩人之内室の像次信忠信兩人內室の像春星堂鶯宿の그道」に蕪村の繪を模刻し挿めり大阪府中国語町感じにんの全く同じ奧細道ば鶯宿の原圖とせる中山圭吾と同一には非るべけれど、以てその圖樣を知る可し。松島行脚-新花摘に松島に遊べること見えたり蕉翁此處の發句-奥細道に「傍の古寺に一家の石碑味噌?汁中にも二人の嫁がづあはれなり。中笈も太刀も五月に飾れ紙幟ㄴ季遊-蕪村門京の人なるべし、「其雪影」等に句散見す、有之候。則甲冑ヲ著し一人は弓箭を取、一人は釼を按シ居申候。先年愚老松島行脚之節見置候。甚懷舊之情ニ堪ぬ所ニて候。それ故右之婦人の像をしたゝめ候。是又卷中の模樣ニ相成候。蕉翁此所之發句は五月五日之發句故、右之女武者をかぶと人形ニ而、五月ニかざるものと御見違被成候而は、いかゝと存候ニ付くわしく書付候。右之段々とくと御一覽可被下候。此卷は愚老も一卷ほしく候。何事も拜眉ニ御ものかたり可申上候。以上九月四日書簡篇七八五
蕪村全集季遊樣蕪村III、楚秋宛京都小林雨郊氏藏。贋物に對して皮肉なる言ひ方面白し、楚秋は蕪村門京都の人と思はる。御疎遠相過候、彌御安康被成御暮珍重被存候。しかれは畫帖一覽いたし申候、一蝶見龍と申は大うそのかはニ而候、一向やくニ立ぬ赤下手之畫ニて候。もちろん書も見龍ニてはなく候。代金壹步位ならは御求置可被成候、子とも衆之なくさみニ相成可申候。一蝶の贋ニても、一蝶流ニ書キ候ならは、せめて尤とも被存候、此畫ハ一蝶の筆意もしらぬ下手くその畫ニて候、目も當られぬ物ニ候。御もとめ被成候義決而御無用候。此間妻むすめ御見舞申上候所、つくり物抔御案内成被下候よし、かたしけなかり申候。御内政樣へもよろしく御禮被仰可目も被下候。尙期貴面候。八月廿日楚秋樣以上蕪付二四、如瑟宛京都土橋氏藏。御遠々しく相過候。扨もけしからぬ暑ニ候處御無恙御しのき被成珍重之御事に御座候。愚老かはらす消日いたし候。しかれは暑中御尋として見事之鮎御めくみ被下、早速賞味たのしひ申事に御座候。まこと打絕御風雅もうけ給らす候。いかゝ御くらし被成候や、□おかしく候。ちと御入來所希御座候。尙期貴面談之時候。以上六月廿四日書簡篇
蕪村全集鴨綠江-鴨川を洒落ていひしならん。我影を淺瀨に踏てすゝみかな右鴨綠江頭にあそひていたし候。も書付候。瑟樣おもしろからす候へと如瑟-「五車反古」、几董の「初懷紙」等にその句散見す。蕪村晩年の門人にしてのち几董に學べり。如夜半二五、路景宛寫眞版による、原物未見。文章篇五五二頁參照c路景は丹後宮津の人、花櫻帖、五車反古等にその句見ゆ。內々御披見當時愚老文臺の裏書をいたし遣候へば、金二百疋或銀一枚之謝義いつかた〓もいたす事に候。此文臺は中〓〓その類ひの物にてはなく候。金貳兩銀五枚已上のものにて候。他聞は恥候。御さたは御無用にて候。貴子御事故無隔意書つゝけ候。此書御覽後火中〓〓。十月廿八日路景子夜半夜半二六、向桃宛池田稻束氏藏。いまた不得拜面候處、預華懷□(一字破損)致候、薰誦さてもさむき事ともに存候へとも、御壯健おくらし被成めてたく存候。しかれは奉納句合愚考の義、いさゐ承知いたし候。しかし當月七日頃まてに點落成いたし候樣にと御申越被下候へ共、最早及老年根氣も薄く、其上畫と俳と諸方〓せめられ、一向不得閑暇候。右の體ゆへ中〓〓七日頃には出點いたしかたく候、とふそ中旬迄御待可被下候且出點御案内申候はゝ、直に御上京可被成旨被仰越、それは以の外費なる事に御座候、かならす〓〓御無用に御座候、時下短景御互に寸陰ヲ爭ひ候節に候故、是は決而御無用に可被成候。春に至り候はゝ愚老も下坂いたし候故、御尋申いさゐ-委細。短景-短日といふに同じ書簡篇
蕪村全集候而寬々可得芳慮候、先日限御斷りのため、とくに候以上七月三日向桃樣夜愚老も永々の不例はいかいも怠り、發句も得不申候。絕々の雲しの(三字破損)はつしくれ息杖に石の火を見る枯野哉先日限御斷りのため、あら〓〓かくのこ向桃-傳不詳。半遺稿に「しのひすよ」とあり。二七、佛心子宛藤井紫影博士藏。蕉翁碑銘石摺一枚相下申候。是はとく出來いたし候而洛東ニ石碑を建申候。則右の碑正面ニ打碑いたし候ものにて候。文章は〓絢先生書は永田俊平也。右之石すりは道立子より足下へ〓絢先生-〓山儋叟、名は絢、字は君錦電話のみ學にして道立の叔父にあたる。永田俊平-平安の書家、名は忠原、東皐と號す道立-文章篇五三六頁參照。これは道立が芭蕉庵を再興せしころの手紙なるべ牛房の謝恩ニ遣被申候筈ニ御さ候き。いまたニ候や。それ故先つ愚老〓一枚進申候。さても〓〓いそかしく候て中〓〓發句も無之候。あとよりくわしく。かしこ二月廿一日佛心子夜半低い樹に鶯啼や晝下り紅梅や黃鳥とまる第三枝おかしからす候へとも書付候。當春帖は相休申候而、さくらのすり物出申候。貴句も加入いたし度候。少々高直に付候摺物故、社中へ費刻料余ほとかゝり申候。御望ニ候やいかゝ〓〓夜半佛心子-傳不詳。書簡篇
蕪村全集七九二二八、駿河守宛御平安奉賀候。扨も御借や立花や九兵衞へ御かし被遣候事、深よろこび申候。俄ニ昨日九兵衞髪をおろし候而、梅亭と呼申候何分其御披露可被下候。昨日法體の砌やすき身を先知れ蚊帳の出入よりといひ遣し候、貴君にも一句御悅ひ遣し可被下候。名前改之事申上度、且何角御禮迄早々頓首。卯月十日駿河守書與謝蕪村用書京都伊藤小三郞氏藏、立花屋九兵衞-この手紙にて梅亭の通稱なること知らる九老の號も九兵衞老人の意なるべし名前改之事駿河守-不詳。與謝蕪村書二九、道立宛寶舟十一ノの六號に參差氏の紹介する所にして同氏の解說によれば、僞筆の疑なしといふ。火蓮居氏の所藏なりと。よし野行脚歸後いまだ不得貴意、殊の外草臥老を養ひ居り申候。月溪より摺り物畫の事度々申參り候。今日書遣し申候。貴子がホ句承り珍重奉存候。一兩日參上拜眉萬々旅談中度候。凡董も昨日は逢不申、金福寺會も急々相催し可申候。衣かへ野路の人はつかに白し衣かへやをら力はあるものを四月十二日道立樣蕪村道蕪村三〇、菰堂宛(天明三年)蕉翁百年忌法事願主尾州曉臺書簡篇
蕪村全集三月十日より十二日迄粟津義仲寺に於て俳諧執行三月十三日より十六日迄四日の間洛東双林寺に於て興行都合一七日右の俳諧有之、其節は被仰合御上京可被成候。何もむつかしき式法も無之、常の通の俳諧にて御座候。尤も諸國より上京、右の俳諧に逢候人々の雜用費は、皆曉臺よりまかなひ候心算に御座候。誠に治世俳諧の盛事に有之候。是非御上京可被成下候。且時節も皇都花の最中に候間、彼是以て是非〓〓御上京希上候以上三月二日菰堂樣夜半菰堂-丹波篠山の門人。夜半註、右「ホトヽギス」四ノ四號に水落氏の紹介せるものによる。天明三年曉臺が蕉翁百囘忌を營みし圻のものなるべし。なほ某氏藏のものに朝夕はいまた寒き事に候。御靜謐めてたく存候。愚老無爲にくらし申候。御安意可被下候。蕉翁百年忌法事願主尾州曉臺子也洛東芭蕉菴において三月十日〓十二日まで之間俳諧執行右之はいかい有之候。其節は被仰合御上京可被成候。何もむづかしき式法も無之、常の通りのはいかいにて候。尤諸國〓上京、右のはいかいに逢候人々の諸入費等は、みな曉たい子まかなひに候。まことに治世俳諧盛事にて候。是非に御上京待入存候。三月二日也有樣夜半花七日箸もとらさぬ嵯峨の宿御一笑被下度。御社中各〓御同道被下候樣是又たのみ入申候。といふ手紙ある由なれど、也有に「何もむづかしき式法も無之」などゝいふべき筈御安夜半書簡篇
蕪村全集もなく、勿論贋物なるべし。なほ同樣の文句の手紙他にも二三存すと。されば當時地方門人に宛てゝ蕪村より蕉翁百回忌の案內をせしことはありしなるべし。三一、雜宛京都藤井氏藏。管鳥-蕪村門、島原の妓樓ったばみ屋の主人彌三郞几圭-八董の父寶曆十年殁。この手紙はかつて水落氏が寶舟二ノ六に紹介したることあり、疑なきやうなれど几圭宛とすれば遲くとも寶曆八九年のものなるべく當時蕪村が己に梅亭月居等を知り居たりしや明かならず且つ原品の筆蹟にも疑はしき點あれば暫く後考をまつて決すべし。〇几圭宛きのふは俄梅亭と高雄參、太秦より時雨、なんきいたし候。こからしや鐘に小石を吹あてるこからしや岸に裂ゆく水の聲歸路管鳥か樓に昇り、佳興あまた御座候、拜顏の節御物語申候。不申候、集も近々出板仕度申居候。曉臺書狀御受取可被下候。扨は是岩愚老を茶に呼び可申事、先は早々如此御座候。以上廿日几圭樣月居いまた歸り是は御斷可被下候。樣夜半○樓川宛今日の月窓日からールのて3今やねら梓石氏はㄱなうて」約60cmのにも手僞作なりといひ、四三、紙も信じ眞僞を判す可からず二十餘年音信も打絕とあれは明和末年頃のものか古來庵-馬場存義、天明二年歿年八十一田夫人-樓川の妻眉齋田女鷄口-樓川の養子、亭和二年歿、年八十五守愚公竝に古來庵へ文通仕候に付、序かましく候得共、御安否御尋申候。偖も二十有餘年音信も打絕、まことに異代の心地に御座候。しかるに圖大泰里しばらく在京にて艸扉咫尺に候故、日夜出會むかし物語申出、しきりに御なつかしく申居候計也。當春は何とやらん御上京もあらんと、いつれも相待候所、音なく成行遺恨不少候。とふそ秋歟來春なとは是非御催可被成候。先申さんは御令室樣御風雅每度御郢吟うけ給り、偖々不堪感賞、この方社中のものとも甚下風をしたひ申事に御座候。御めにはかゝらず候得へ共、田夫人へも可然御致聲奉希候。鷄口子は前かた京師にて得御意候歟と覺申候。其節は雁宕なとも在京の時かにて候。よく〓〓御申達可被下候。かはること無御座候得ども、御起居御尋申上たく如此に御座候。便の節一筆之御返事も被下候はゞ、再面會之心地と有かたく存候。不具五月十三日四季一日の春を歩いて仕舞けり春雨に小磯の小貝ぬれに見一日の春を-この句棒を引きて消したるあとありとC書簡篇
蕪村全集七九八西行は死そこなうて袷哉不二ひとつ埋みのこして若葉かな手すさみの團畫かん草の汁春過てなつかぬ鳥や杜鵑雨乞の小町かはてやおとし水口切や五山衆なんどほのめきて山鳥の枝ふみかふる夜長かな紙があまり候ゆゑ、右に書添候。御笑覽可被下候。樓川樣京蕪村○馬圃宛以來御物遠相過候、時下寒氣甚候處御安全御在京のよしめてたく被存候。此方よりも御尋も申上たく候へとも、とかく多用に暮候故意外之御無音御免可被下候。御國もとの首尾もよろしきかたの由珍重存候。とかく世ニ處スルニハかんしやくの氣味なき樣に、人情ニしたかひ御くらし可被成候。兩節春興御工案も候はゝ御序に早々可被遣候。春帖へ加入仕たく候。何事も貴顏可申述候。折節取込勿々頓首十二月十三日樓川-谷口氏、江戶の人、馬場存義等と共に江戶座の故老たり天明三年歿、年八十四京蕪村「碧」十六號に碧梧桐氏の紹介せるものによる。名古屋、三尾氏の藏なりと。馬馬圃樣蕪村○嘉右衞門宛被仰候八僊觀の翁像、少之内御見せ可被下候。其他わすれ候得共、御拂可相成と思召候もの、此ものへ御見せ被下候。他見は不仕候。おりしも吐出し候發句に萩の月うすきはものゝあはれなる蕪村□屋嘉右衞門樣蕪村宮津、黑田芝英氏藏。八仙觀-畫家彭城百川、寶曆三年歿す蕪村□屋-一字破損せり。○〓之助宛「碧」十八號に碧梧桐氏の紹介せるものによる新潟澁木爲雪氏の藏なりと。昨日は東山へまいりおふきにあしをそこれ申候。將この間御みせ被下候絹地かけもの、まことの梅道人とおもはれ候。隨分御たからともなるべく候。ねかはくは買給ふべし。猶また昨夜月溪見えられ感心いたし申候。此上諸家のちからこそ得たく候。草々頓首四月十八日書簡篇
蕪村全集八〇〇わたぬき□□-蕪村の遺草に「····わたぬきたるをくりければ」とあり。あるおうなのもとより衣のわたぬき□□を□りけれは橘のかことかましき袷かな〓之助樣○春庵宛蕪村庵宛氏のとにて四四、大、小しなれど、誤寫多く讀み難し後者は碧十五號に碧梧C桐氏の紹介する所による文面前者と相似同氏もすでに言へる如く疑はしきものと思はる、只參考のため採錄す。出る杭をの句は明和八年の歲旦帖に出づ春庵-大阪の人。貴翰辱拜見彌御安康被成御座欣然到奉存候。且先日ハ奉窺御馳走辱奉存候。甚酩酊恐縮仕候。夫より乘船柳に顏をなてられて出る杭をうとふとしたりや柳かな漸ふしみへ落日着、觀雪子方へ訪問致社中集甚興ありと月を戴歸京候。先日御恩借申候漢畫熱覽仕候、御返還申候。御落掌可被遊候。御隱居樣書畫交張御趣向御田中、小子畫致候書蒙仰承知仕候。近日描上可申候。大雅先生の武陵桃源圖出來候由拜見致度候。名古屋風月孫助方書畫御覽被爲度由、幸近日浪花へ參候由、則書畫携候樣可申候。しかし僞筆多く能〓〓御鑒定陵選方人物張平山□人圖孚九扇面文進柳黃鳥圖春臺先生詩此分みな〓〓宜敷候。京師社中みな〓〓鑒定致置候。李用風竹僞物也、尊君竹畫御好被成候。決而御求メ御無用に候。委細近日可申上候□」□白甚酩晩春廿四日夜半亭蕪村拜近藤春庵樣○碧雲宛皆翰辱拜見彌々御平安被成御座欣然御事奉存候。誠先日は御影にておもしろく欝散致候。殊の外酪酊前後無覺束乘船柳に顏をなてられて出る杭をうとふとしたりや柳かな漸ふしみへ己の刻僊南子へ訪候處例の畫家集俳事は相休酒客と成、社中の責に應畫を致落日頃より歸宅おもしろき事に候。今日は□新公御尋殊更德(五)、酒の誤寫か)看澤山送下され忝奉存候。且漢畫御携駿河の客へ見せ申候。玄妙の山水故甚望に候。御免被下候。御閑暇御上京奉待候。不莊四月廿九日尙々御社中よろ敷御禮奉希候かしく碧雪雅君貴下謝寅蕪村夜半亭蕪村拜風月孫助-名古屋本町の書肆長谷川氏。屋號を風月屋といふ謝寅蕪村○ふくゑん宛御うと〓〓しく候。今宵そのもとかとう樣百池樣御越被成候はんと推しまゐらせ候。さやうならば一寸おしらせたのみまゐらせ候。水島氏編蕪村全集所載によ書簡篇
蕪村全集る。ふくゑんは同氏の註に蕪村の友女流俳人なりとありかとう-佳棠。二七日夜ふくゑんおはぐろつぽへ、てつきうのおれを入るゝところ(右の畫を記す)ふくゑん樣ぶそん○白井半兵衞宛今般吉辰に付御婚禮首尾克御調相成千鶴萬龜めてたき御事に存候、依之輕少至御座候得共、若綠御樽一樽鮮鯛二尾呈上仕候、まことに賀義を述候しるしまてに御座候、恐惶頓音霜月四日白井半兵衞樣與謝蕪村寄松祝つもる雪枝をならさぬしるしかなてつきうのおれを入るゝところぶそんこの手紙原物未見、京都中島氏の手寫せるものによる。句は手紙の終に角樽に紙片を結びつけたる繪をかき、その紙片中にしるせりと與謝蕪村○露風宛「野火」大正十三年二月號所夜前□□句の記載。名古屋嘯月庵氏の藏なりと。今年花落顏色改明年華開復誰在わたらしな蟬の小川のきよければ老の浪そふ影もはつかし葛水にうつらでうれし老か顏畫讚を硯雪子の責に應かくのことし。今晩小子方へ浪花の春庵老見へ申候。御閑暇ならば御光來貴君御好みの玄妙の漢畫携被參候。御苦勞ながら步行可被成候。見事の德□□□晩來客の□□可致候。早々敬白七日露風雅丈蕪村日雅露風雅丈蕪村○李仙宛雨中鬱と敷候。彌御壯康奉珍重候。且尾張風月孫助と申人書畫携來候。甚雅物有之候付御慰に遣候。御逢書畫御覽□□□可被下候。陳子和之山水甚妙。大雅好きにて、大雅さへ被遣候はゞとの樣之書畫も渡し候。交易可被遊候。一牧(註、枚なり)小子求メ申候。御覽ニ入可申候。ちと〓〓御光來。わたらしな蟬の小川のきよければ蕪村「野火」大正十三年三月號所載.名古屋古澤堂靑木の藏なりと。書簡篇
蕪村全集老の浪そふ影もはつかし葛水にうつらで嬉し老か顏石川先生之作に四月廿九日李僊雅丈へ蕪村〇大雅宛各々三々五々がすゝめもだしがたくて鳥渡拜顏、夕方すゞみ今にわすれがたくおもしろく、又々今夜も願くは一力へ向、御出かけ被下候はゞ珍重々々。月溪月居の兩子は粗看の用意、御藥も大極上々飛切の米の油用意させるつもりに候。何卒御内政玉瀾の君も、ほむらなく御同道被下候樣に祈るものならし葛水にうつらで嬉し老の貌祇園會や木瓜花咲く處まで酒百藥長蕪村水島氏編全集所載等による水落氏の「聽蛙亭雜筆」中にも收め、蕪村の手紙として世に知られたり。されど文中「祇園會や」の句は發句題葉集に召波の句として出で「酒はたゞ」の歌も古き狂歌なり。原物未見なれども內容の俗なるより見て贋物なりと斷ずべし。參考のため揭ぐ酒百惡長(の(150%)酒はたゞのまねば須磨の浦さびしすぐればあかし波風ぞ立御一笑御出門あるかいやか、善惡左右共御返事奉願候。奇妙一首月溪宅〓蕪東東山蕪村大雅堂主人玉几下○二白。丸山主水月溪其外社中一統よろしく申上候との事に候。且たにざくは重てしたゝめ上可申候。(株)、この所又「二白、應擧樣へもよろしく且御内政玉瀾樣よりたにさく御こしに候へ共、今日は右の仕合重而したゝめ上可申候よろしく御傳言可被下候。ちと〓〓よした山へ御同伴申たく候へ共、何分俗用にせかまれとんと〓〓ひまのない事に候」となれるもあり。)花墨忝拜見仕候。如仰秋冷彌增候處、御兩君御〓福珍重に奉存候。愚老無爲にくらし申候。しかれば長さ○さともに一尺あまりの古今未曾有の珍敷見事なる大の松茸一本御惠投被下有がたし。是は何國の產物何れよりの御到來に候や、愚老此年迄如斯のしたゝかなるもの見請ず、愚老案ずるに斯は丹州弓削村の邊か、又は河州弓削村の邊の山中より出生たるものと社存じ恐多くも□□今世にましまさば村水島氏編全集所載のものによる蕪村の書簡として比較的有名なるものなれど、右と大同小異の手紙坊間に流布するもの頗る多く、雜誌寶舟七ノ三、卯杖三ノ四碧十八等に紹介せられしものもありもとより同一人に宛てし同一の手紙が數通存する筈なければ、多くは贋物なるべし。なほ文句卑俗にして惡酒落多く、終りの發句の如き初心の輩と雖もなさざる俗惡のものなれば、文言內容共すべて僞作と斷じて可なるべし。文中書簡篇
蕪村全集に見ゆる蕪玉は蕪村門にして師の贋作を多く作れりとの說あれば、前の大雅宛も之も恐らくは蕪玉などが擅に多少文言をかへて贋作せしなるべし。可奉入尊覽ものをと、社中とも大わらひの事に候。時に唯今は書畫最中の所故に、くはしく御返事もなりがたし、ゐさいは月居又は蕪玉子兩舌頭にて御聞可被下候。何事も拜眉の節と申殘し候。八月二十八日(註、「仲秋廿日」等日附いろ〓〓あり)東山大雅先生御答夜半尙々、是に句とのおほせ、御所望にまかせ吟ず。松茸や喰ふにもをしくやるもをし松茸や夫から夫へ花の山松茸や鹽づけにしていつ迄も御一笑。夜半三二、宛名不明○(寳曆元年)大阪乾木水氏藏。蕪村が西(數字破損)椹木町(二字破損)屋與八殿迄右之處付ニ而御に歸りし年の手紙なり傳記參照)。宛名不明なれど結城地方の俳人にあてしものと思はる。平林氏-書家平林靜齋ならん。寶曆三年八月殁、年五十八。登可被下候。候。此書付壁ニ張付ニ被成置、無御失念御登せ可被下平林氏一行もの或はれん二三枚、御もらい可被下候、當地菴中ニ掛申度候。外ニ風流家達而所望いたされ候。何とそ二三枚貴公御德を以拜戴奉願候、一生之御たのみに御座候。大黑したゝめ御禮ニ相下可申候。京都所〓巡見、さて〓〓おもしろく相暮候。先頃臥見へ參上滯留いたし、□□貴公夜踊ニ御出被成候事思いたし獨笑仕候。俳かいも折々仕候。いまた何かといそかしく取とゝめ候事も無之候、一兩年なしみ候はゝ、一入面白候半とたのしみ罷有候、先々平林公之墨跡かならす〓〓奉願候是非〓〓相待申候。鴛見大黑したゝめ-蕪村の描ける大黑像は屢〓寓目す、得意のものなりしか書簡篇
蕪村全集おし鳥に美をつくしてや冬木立その外あまた有之候も略いたし候。ゆふき田洪いかゝ候や、ゆかしく候、かしこ霜月□(一字破損)二日○(安永三年)いふき田洪-結城の俳人なるべし、「夜半亭發句帖」にその句見ゆ。御大阪渡邊氏舊藏。御表德文字書にくきとの事いかさま御尤ニ候。依之何そ能字候はゝ書付候樣被申越相心得申候。近々おもひ付候而響キ能字有之候はゝ書付御めニかけ可申候。其內にて御ゑらみ可被下候。一音坊も又行脚ニ出られ候由、それ故此たひは書狀遣不申候。御書通之節ハ心得可被下候。、拙老とかく世路ニ苦しみホ句なく口おしく候。(マヽ)性名は何子か號は案山子かな蕪村姓名は何子か-この句の下に案山子の略圖を描けり。、蕪村右の句只今うめき出候故書付候。哉ハうたかひニテ候、歟と云心ニて候。此句は案山子の文章書可申と存し、このあいた郊外を吟行いたし候て、つく〓〓かれか有さまを見候ニ、富貴をしたはす貪賤をうれひす、人のために田を守りて風雨霜雪をいとはす、此うへの隱德又有へしとも不覺候。實ニ巖穴の隱君子にて可有とおもひつゝけ候而、此ものニは性ハ何名ハ何字ハ何と申へけれと只案山子といへる別號を以テ人の唱れハ、それも又よしと淵默したる形容のおもしろけれはふと云出したる句ニテ候。さして可取句ニハあらす候へとも不用意にして得たる句故書付申候。これは文章にては無之候、右の句の解ヲ書付候まて也。先達古夜半亭追悼小集相下候所、とくと御覽被成候事と存歟と古夜半亭追悼小集-巴人とくと御覽被成候事と存書簡篇
蕪村全集ん卅三囘追善の「昔を今」なら(文章篇五一〇頁、連句篇三五九頁參照)。候。あの哥仙ハ蕉流ニてハ無之候、宋阿流ニいたしたるはいかいニテ候、それ故序文ニくわしく申ことはり候所一音坊いかゝ序文を見候哉、宋阿追悼之可仙まことに蕉翁のいにしへを今にかへすおもむきめてたく候と申越候。これは大キ成間違ニテ候。序文とくと御見分可被下候。一音坊ニ御逢被成候ハヽ右之事くわしく御傳可被下候。無御失念たのみ入候。○大阪高安氏藏。御誂のおくの細道一卷出來仕候。事に御座候。得と御覽可被下候。初午や鳥羽四塚のとりの聲はつ午や其家〓〓の袖たゝみ右二句御評可被下候。一卷早々御望可被下候。是は士川へ遣し候よりは甚見奥の細道-例の圖卷なり。拜顏の節可申上候。二日夜半○(安永六年)春もさむき春にて御座候、いかゝ御暮被成候や、御ゆかしく存候。しかれは春興小册漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御逹被下度候。延引に及候故片時はやく御屆可被下候。馬堤は毛馬塘也春風馬堤曲則余か故園也余幼童之時、春色〓和の日ニは、必友とちと此堤上ニのほりて遊ひ候。水ニは上下ノ船アリ、堤ニハ往來ノ客アリ、其中ニハ田舍娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢粧に倣ひ、髪かたちも妓家の風情をまなひ、□(註、原本此の所蟲喰の形に摸刻せり)傳蕪村文集「春風馬堤曲」に添へて、この手紙を蕪村自筆のまゝ摸刻して揭げたり(れこの國を公開!!特別支店宛名不詳の門人(恐らくは賀瑞などか)に宛てしものなるべし。春興小册-安水六年春出板せし社中の歲旦帖なり。春風馬堤曲はこの小册に載書簡篇
蕪村全集しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故〓の兄弟を恥いやしむもの有。されとも流石故園ノ情ニ不堪、偶親里に歸省するあだ者成へし。浪花を出てより、親里迄の道行にて、引道具ノ狂言座元夜半亭と御笑ひ可被下候。實は愚老懷舊のやるかたなきよりうめき出たる實情ニて候。當春ノ狀は同盟の社中斗にて、他家を交ず候。それ故伏水の諸家をも洩し申候。御出會候節其御噂被成、諸子腹立なき樣に被仰譯可被下、桃ニハ下り候て、寛々御物かたり可仕候。數狀したゝめ老眼つかれ艸々かしこ二月二十三日夜半○桃には-桃の花の見頃には。夜半池田小林氏藏。書簡の斷片彼小糸となん申美人、與我々□□□夜月照嵐山□月溪同道文山にして、之に蘆雪寫意として嵐山の畫を書きそへたるものあり。小糸-七六一頁參照。子にあい候筏士の蓑やあらしの花衣嵯峨に歸る人はいつこの花にくれし月溪も咲と散あいたに來たり山櫻三月六日謝寅○金子入書狀右はさゝ山ひし田平右衞門殿〓慥落手いたし、あと〓返書相下可申候。爲念如此候。以上十月十七日與謝蕪村○夜前は御尋來被下辱被存候、しかしいつも艸々之至、殘念存候。いよ〓〓明日は御歸國と被存候、もはや御めにかゝらす候、御京都田中王城氏藏。菱田平右衞門-丹波篠山頁參照)。の門人、暮蓼と號す(七四四あと與謝蕪村京都藤井培屋氏舊藏。原物未見、寫眞版によりしため讀みがたき個所多し。書簡篇
蕪村全集八一四安全御くらし可被成候。且御やくそくの門人召波句集一部進上仕候。此召波と申人は、平安にめつらしき高邁之風流家にて候、それ故格調尋常のものにて無之候、隨分と嵐雪其角素堂なとを擬て、古人に恥ぬ作家にて候。うち見にはおもしろからぬ樣に候へとも、とくと御風味被成候へは、漸々佳境に到ル心地に候。□□□も御めにかけられ可被下候。□□は愚艸々稿にて、いまた三潤を加へさるものにて候。いさゐ集册ニ、朱ニ而書付置候。○夜前御物語いたし候春興ホ句御書付御入被下(主)、以下數字不明)何事も御書中可得意候、且又愚老之句は春の海終日のたり〓〓かな御覽可被下候。よき天氣珍重頓首二月廿八日○長日退窟いたし候。然ハ今朝より大江丸上京いたし候。武陽のはなしも御座候。今文七大當り、よしのゝ內裏の段御聞可被成候。然所また兵庫より鯛貰申候。宿かさぬ火影や雪の家つゝき木枯や何に世わたる家五軒御約束の玉子十はかり御こし可被下候。無腸書御屆申上候。以上七日夜半小林一三氏藏。以上夜半追加○爾來疎濶の至に罷過候。時下寒威はげしく候處兩位益御壯健被成御暮奉恭賀候。先達命せられ候蜀棧の一幀此たび相下候。御落手可被下候。右の畫華絹を以て揮毫いたし候。それ故甚大幅にて表粧を御加村畫集」以下二通武藤山治氏編所載による。「蕪名古屋大野屋下窗の舊藏な今文中にいへる蜀棧道圖と共に名古屋渡邊嘉兵衞氏の藏に歸せりと。時下寒威はげしく候處兩位益御壯健被書簡篇
蕪村全集へ被成候はゞ、天地の裁を隨分御つめ被成不申候はゞ、床之壁上に餘り可申と存候。只是華絹は天地たつぷりといたし候を好む事に候故、大幅の牛絹を以てしたゝめ候。右蜀棧自得之物にて候。平安豪族甚價を募り奪はんと欲するものおびたゞしく、價千疋を以ていづれも望み候へとも、先年より御やくそく仕候儀故、貴家へ納め申候。價連城に思召候はゞ早速御返却可被成候。少も不苦候。愚老是迄畫料の儀不申候へ共寒爐擔石空しく殊更行先に節季といへる邪鬼をはらひ申術にて候。御憐察可被下候。求馬君御望の山水不日に相下可申候。愚畫近來兩三月畫力超乘いたし、專ら市俗の氣を脫却して、たゞちに元明諸公の赤幟を奪はんと欲するに至り候。只照鑒を價連城-連城の壁の如く高價なりとの意擔石--石石の誤。儋は二石、石は一石にて米穀の僅かなる量をいふ。願ひ候。右自負不遜のことは御宥恕可被下候。元來是滑稽者流之故態自ら不堪絕倒候。門人月溪も同じく蜀道揮毫いたし候。此度一所に相下候。筆料は思召次第御めぐみ可被下候。此兒輩畫には天授之才有之終には牛耳を握るおのこと末たのもしく候。相變事無御座候へとも右畫幅相下申序起居御尋旁如此に御座候。此節風塵草々不具。元來是滑稽者流牛耳を握るおのこ-おのこは「男」の誤。十二月七日近藤求馬樣大野屋嘉兵衞樣○謝蕪村新春の吉兆不可有盡期申納候。先以御安全被成御迎陽めでたく書簡篇
蕪村全集奉存候。愚老所勞春來復常いたし無爲に重馬齡候。舊冬蜀棧の幅呈覽仕候處、爲御謝義黃金三圓二方御めぐみ、扨々過當之至かたしけなく奉存候。御德蔭を以節鬼を追はらひ候而大慶の至に御座候。月溪へも方金二地早速相遣候愚老より宜敷御禮申上くれ候樣にとくれ〓〓も申事に御座候。六曲屏風人物之畫之事又々蒙命いさゐ承知、遠からぬ內に揮毫呈進可仕候。求馬君御もとめの山水も絹素を輪具へかけ置候。不日に相下可申候。馬君へ其旨御逹可被下候。此たびは別書遣不申候。禮狀したためことの外勞れ候故書留候。餘はあとる敬具。正月六日蕪村午窻樣方金二地-地は匹の誤なるべし。方金は小粒銀C O計上、冒頭數字は繪判じにてかけり。今略す)の御慶めてたく申納候。御家内樣御揃御平安被成御越年賀奉候。不依依舊年をかされ候。しかれば御句とも則添削仕候。いつれもおもしろく候。尙近日御内政樣御同苗樣かたニ可然奉賴候。頓首正月四日歲暮(註、こゝに張良が隻)沓を捧ぐる圖を描く、張子房と云る題を探りて石公へ五百目戾すとしのくれ蕪村追加二、百池、雪居、了爾宛「日本名畫鑑」所載の摸寫に(註、こゝに張良が隻)沓を捧ぐる圖を描く、蕪村○あふせのことく昨宵はおもひよらぬ御馳走、佳興不斜、さては赤みそ御めくみ被下、かたしけなく候。了爾樣〓一尊御をくり被下、別而辱寒夜をしのき可申とた以下京都寺村氏藏。佳興不斜、さては了爾-百池の父。一尊-一樽。書簡篇
蕪村全集八二〇のしひ申事ニ御座候。よろしく御禮あふせられ可被下候。艸〓近日貴面御禮可申上候。以上十月廿七夜百池樣取込夜半百池樣○華牘かたしけなく候。愚いまたとくと無之候。されとも東山遊ひくらひはいとやすき事ニ御座候。扨雪樓御誘引のおもむきかたしけなく候。しかし雪のいやみは、此節病氣ニさはり候ゆへ、御斷申候。もし外ならは御同携可致候。雪は風上ニもいやニて候。以上十月廿四日遊ひくらひ-遊びぐら○昨夜はけしからぬ御馳走、近來之欝散不堪大慶候。早速御禮ニ罷越可申候處、甚取込延引よろしく御兩親樣へも被仰可被下候。且御てうちん返却仕候。御落手可被下候。何事も貴顏御禮可申上候。以上二月廿九日尙々今日ハ屏構定而御出席と存候愚老も是非罷こし可申候。其砌可得芳言候。己上○浪花〓御歸り被成候よし、御無恙珍重被存候。しかれは御細書之おもむき至極御尤之御事ニ候。しはらく絕誹可然候。其外之遊興御つゝしみ第一ニ御座候。何事も御めニかゝり候節御物かたり。以上屏構-屏風講のこと。書簡篇
蕪村全集蕪村昨日は御馳走忝存候。御大客ニ而御勞れ察入申候。扨明日あたり西の戯場千兩のほり見物ニ參可申と存、棧敷は眠獅〓もらひ候故靑田也。只喰物之雜用斗也。雲羅愚老キ子三人にて可參哉と申合候。御同心ニ御座候ハ、御返書相待申候。しかしいまた眠獅かたへも不申遣候。御同心ならはとくと相極メ又々御案内可致候。かねて左様に御心得。以上六月十五日夜半百池樣眠師-大坂の俳優。靑田-無料にて芝居などを見ること。上方語。夜半○上巳之御祝義白銀一封不相變致祝納候。いつれ拜面御禮可申謝候。候。以上三月朔二白此銀封の上書は御母堂樣之御手跡ニて候。ヶ樣之事御兩親樣之御心遣ひニ被成候事は甚いたみ入候。向後貴子御一存に而御取斗意可被成候。百池樣夜半○うつ〓〓しき雨ニて御座候。いよ〓〓御無爲めてた被存候。來十五日月並會囘章早々御達可被下候。昨日御出被成候ハヽ鳥、扨も見事成物にていつれも驚嘆いたされ候。御重寶珍重被存候。了爾樣へもよろしく被仰可被下候。御閑暇ニ候はゝちと御入來所希候。以上夜半被存候。御出-御出し。はゝ鳥の畫幅を出品せしなり。書簡篇
蕪村全集八二四四月十日百池樣夜半○夜前ハ早々しかれは今日大町へ御出可被成段、則愚老手紙したゝめ上申候。御披見之上御持參可被成候。夜前も申候通御病氣之義ハ一大事の義ニ御座候故、醫者ヲ御すゝめ申事ハいやなるものニ御座候。當時なら林と□□子ハ名家の事ニ候故、やはりなら林ニ成共被成可然被存候。何分今一應御そうたん被成可然候。是非今日中ニ醫者ニかゝらずとも、苦しからぬ御病氣ニ候故、猶田ふく樣なとへ今日御出會之上御相談被成、とくと御了簡御定め被成候而之上可然御さ候。しかれ共先々大町への手紙ハしたゝめ遣申候。餘ハ拜面ニ御物かたり以上夜半田ふく-田福。九月十三日尙〓御兩親樣へも宜被仰可被下候百池樣夜半○寒氣御さはりなく御暮めてたく存候。尾への便御句則引墨いたし遣申候。尾へ御ふみのはしニ愚老言傳もくれ〓〓よろしく御申遣可被下候。暮雨〓このわたおひたゝしくめくまれ候。右之答等ともいたし度候へとも、此節大取込寬々返書遣可申と存候。先ツ貴子〓よろしく被仰遣可被下候。何事も貴面。以上十二月四日夜半百池樣尾-尾張の曉臺なり。暮雨-曉臺。半書簡篇
蕪村全集八二六○歲末御祝義不相變かたしけなく致祝納候。並ニ月棒是又御やつかいの至ニ被存候。夜前ハ御尋被下不淺存候。今日は少々こゝろよく御安意、何角御心を御付候て御尋被下、御親情わすれす候。何事も貴面御禮可申述候。已上廿一日大來堂主人夜半なるべし。月棒-月俸、月並の點料何角-なにかと。大來堂-原物は來の字を大書し、下に堂の繪を描き、その下に「主人」と文字にてかけり。夜半-原物には矢の半分を描けり。夜半○御書面のおもむきいさゐ承知いたし申候。御隱居樣へもよろしく被仰可被下候。何事も御めニかゝり得御意候。取込艸々以上八月十三日□落手夜半百池樣○おひたゝしき御發句とくと相考可申候。併只今ハ用事取かゝり不能卽考、一兩日中又々御人可被遣候。愚老とかく手足しびれ候而揮毫心ニ應せす、扨〓〓こまりはて申候。何事も拜眉と申殘候。以上九月廿四日二白百池へもよろしく御傳可被下候。秩天こゝろよく候。ちと何かたへ成共同携いたしたき事ニ候雪居樣夜半○夜半百ち夜半書簡篇
蕪村全集昨日者得寬話大慶之至ニ御座候。しかれハ貴家へむけ參候樣ニと御書面かたしけなく候へとも、愚老いまた町內之禮ニも不出、長髮の體候故遠慮ニ候故御斷申候。甚殘念ニ候。明日あたりハ町內へも可出候。其後ハいつかたへ成共御同携所希候。以上正月三烏二白みのむしの一軸小童へ相渡候。百池先生夜半○句帖取ニ被遣候。則小童へ附候。さりとハセハしき事ニ御座候。此方ニ有之候而もくるしからぬ事ニ御座候。おなごの腐ツたやうニ、セハしく取ニハおこさぬものニて候。二三日の內又〓入夜半うニ、用ニ御さ候間、御かし可被下候。何時ニても又かしてやろと昨日之御手紙候故、ゼひ二三日中ニ被遣可被下候。さりとハ〓〓やくに立ぬどこんじやうの百池成かな。了、夘月廿六日善智識〓くされおやぢめ善智識〓○寒氣しきり候へとも御無恙珍重之御事ニ候。愚老少々腹あしく、其一婢病氣ニ付宿へ下り候而ことの外こまり申躰ニて候。それ故凡董會もはつれ候探題おひたゝしくいつれもめてたく承候。御自愛可被成候。尾へ被遣候ても恥しからす候。〓名畫苑則小童ニ附候。かたしけなく候。一婢も快全もとり候ハ、御見舞可致候。ちと寒クとも生下あたりへ徘徊いたし度其-下に「上」の一字を脫せしか尾-曉室。〓生下-不詳。書簡篇
蕪村全集三物ニ御座候。取込草々己上霜月廿二日夜半百池サマ重九之御祝義白銀壹封不相變辱致祝納候。並ニ定連料落手、扨愚亭會も段々怠り候而きのとくニ候。節後ニハ早々相催於雪樓一會相催可申と存候。佳文すり物のおもひ立一段可然事ニ御さ候。とかく御めニかゝり御そうたん可申候。取込早々以上九月七日節後-九月九日の重陽節後をいへり。とかく御めニ夜半百百池樣○數句いつれもおもしろからす候。中にも古され、酒に泣、右二句はよほと洒落ニ候。餘は取ニたらす候。猶御工案可被成候。良夜の句御尋ニ預り候。中〓〓得かたく候。以上八月十八日○御町內やかましき事出來御心遣之事ニ御座候。さくらの句いつれも評を加へ候。昨日田ふく子も御上京ニ而、夜前ハ四ツ過迄咄し草臥艸々御返事。以上池夜半書簡篇
蕪村全集百百池樣○昨日者御出席かたしけなく候。しくれの御發句餘り秀逸も見えす候。引墨の句とも大ていニて候。御用ひ可被成候。今宵暮時より參上可得御意候。御隱居樣へもよろしく御申可被下候。以上正月十四日百池樣夜半池夜半○來ル十日月並會相つとめ申候。兼題後の月九月三日午時より御出坐可被下候。以上佳如楚百雪一業樣瑟樣奉承知候秋樣池樣居樣一眞樣尙々如瑟子へ申上候。の數字は如意の筆にて、御書添とも奉承知候-尙なり々書に對して蕪村への返事奉承知候御書添とも一差も御同伴可被成候。○御腫物いかゝや御ゆかしく存候。しかれハ金福寺囘章御順達可被下候、○浪花の九序とちもの御達申候。自笑へも御とゝけ可被下候。名古屋金屏風之事隨分承知いたし居申候。何事も拜面と申殘候。以上とちもの--物物。小册子のこと。書簡篇
蕪村全集八三四九月廿六日百池樣夜半○よし野行御遠慮御尤ニ御座候。御發句愚意書付候。いつれもよろしからす候。只一句取へき物有之候。しかれ共尾州代ロ物ニては無御座候。一兩日中ニ罷越可得御意候。以上二月十二日夜半百池樣○(安永八年)扨も寒き事ニ御座候。彌御無恙めてたく存候。爾者蘆陰句集〓すり物御屆申候。昨日ハ几董かた景物會貴句出不申候事。几董も殘念かり申候。愚老も手柄いたし罷歸候。連中卅人斗會合ニ尾州代物--臺臺向きの句にてはなしとの意夜半(安永八年)芦陰句集-芦陰句選(安永八年刊)のことなるべし。而にき〓〓しき事に候キ。十一月廿二日百池樣夜半○可仙花引墨の內ニ而いつれ成とも自選に可被成候。すり物畫御使へ附候。餘ハ期唔言候。以上□月□日百サ蕪○昨日ハ春夜御同伴にて花頂へ御登山のよし、うら山しく存候。愚老いまた風邪よろしからす殘念の事に御さ候。御句共加筆いたし候。とくと御考可被成候。いかさま又近日ニ御同携所希候。春夜-八董。花項-東山、る峰。智恩院のあ書簡篇
蕪村全集八三六以上十月十九日大來主人夜半○上巳御祝義且定連不相變忝致受納候。御事多中御丁寧之至、尙御禮ハ期面唔候。以上三月朔日蕪村百池樣〇(安永九年)御平安御しのき被成候而めてたく存候。しかれは佳棠よりもゝすもゝ本料御逹被下落手いたし候。御出會のせつよろしく被仰可被下候、御句おひたゝしき事ニ御座候。されとも秀逸は見へ夜半御事多中御丁寧之至、尙蕪村(安永九年)桃李-安永九年の板行なりす候。一、愚老又々例の腹瀉にてこまりはて申候。それ故寒中の御尋も不申上候。御兩親樣へもよろしく御申上可被下候。取込艸々廿二日○今日ハ骨にこたへ候寒サ御壯健めてたく存候。しかれは寒中御尋として鳥五羽御めくみ被下、御厚情かたしけなく候。御めニかゝり候て御禮可申述候。取込艸々以上臘月十日尙々かけ物名印いまた不致候。明日大來主人謝老〇明日謝老書簡篇八三七
蕪村全集二白-この手紙前半破損してなし。二白沓〓てうちん落手御せわの上之事共心をいため申候仕合ニ候。殘暑甚候へ共彌御安靜めてたく候。しかれは尾〓より拙畫御謝義として方金三百疋辱落手いたし候。御便之節よろしく御禮被仰達可被下候。此節紛擾艸々及御答候。以上七月廿四日○□月十八日此ほとハ腹瀉にて甚こまりはて申候。黑丸子御所持に候はゝ、一ふく御めくみ可被下候。〇(天明二年)黑丸子御所持に候はゝ、御物遠ニ御座候。中元御しうき南鐐一片忝致受納候。外ニ月並料花鳥編入料たしかに落手いたし候。扨〓〓花鳥編不寄にて愚老損毛御察可被下候。雪樓之書付承知いたし候。此方〓遣可申候。何事も盆中に得御意候。取込艸々以上七月十一日夜半百池樣○此ほとてうちん御恩借早速御返可申候所、昨日は家内之者共連レ候て野外逍遙いたし、夜ニ入歸庵延引御免可被下候。今日もけしからぬ快天うつ〓〓と在宿ハ毒ニて候。花頂あたり夕櫻御見物御同心ニ候はゝ御同携可致候。御趣うけ給はりたく候。花鳥篇-天明二年の板行なり。此方〓遣可申候。何事も盆中に夜半花項-東山智恩院附近。簡篇
蕪村全集八四〇以上。百百池樣夜半○御細書いさゐ承知いつゝ屋へ向ヶ罷こし可申候。董〓取ニ參候故付テ遣申候。兩吟可仙うらうつり明日迄御待可被下候。以上三月廿二日尙々明日金ふくとふそ御同道いたし度候。されとも不相知候。御待被成義ハ御無用也。○此間者御物遠ニ御座候。御安全被成御暮めてたく存候。しかれハ少々得御意御物かたり申度義御さ候間、ちよと御越被池夜半井筒屋-三本木の旗亭。第三ハ先尅几先尅-先刻。以上金ふく-洛北金福寺。されとも不相知下度候。何も御氣遣成筋ニハ無之候へとも、義御座候。いさゐハ御めニかゝり可申述候。以上二月廿八日百池樣○□月十三日尙々千溪百蝶出來いたし候はゝ御見せ可被下候。や御賢慮をかり申度以上夜半尙々-この手紙前半を缺いまたに候○みな〓〓御出席に而、いつれも貴子の御出を相待被申候。候共今日ハ早ク只今御出所希候。以上九日御用日書簡篇
蕪村全集八四二雪居御誘引百池樣用夜半書○御神事ニハ御馳走かたしけなく候。打つゝきはけしき暑ニて候。御安全めてたく被存候。且御書面之おもむき承知いたし候。とふそ御めニかゝりたき物ニ候。何事も貴面以上六月廿一日百池樣蕪村○彌御安靜めてたく存候。しかれハ暮雨〓たのみのふすま之畫、いそきのもの故出來有之候。貴家〓早速御下し可被下候。暮雨と蕪村のたのみ故此節甚多用ニ候へとも、外をさし置したゝめ候。切角出來いたし候物、遣延引ニ及候而ハ本意なく候。御察可被下候。其外御めニかゝり御ものかたり。以上さかい屋三右衞門樣夜半○二白先日暮雨叟旅宿御見舞いたし候所、御他行不得其意甚殘念存候。其後又御尋可申と存候へ共、とかく用事つとひ意外之御ふさた、よろしく御傳達可被下候。近日見合雪樓にてならては逢かたき事と存候。百池樣夜半用書堺屋-百池の屋號にして三右衞門はその通稱なり。のち助右衞門と改む。夜半二白-この手紙前半を缺夜半書○書簡篇
蕪村全集寒氣甚しく候いか御暮候や昨夜ハ田ふく子雲羅坊見え候而、夜すから〓談いたし居申候。御出ならハ可仙成共可致物を殘念月の句引墨いたし候。愚句ハ無之口惜き次第ニ候。と申殘候。以上十六日蕪沙彌阿樹老和尙○けしからぬ御草臥のよし、さてもあさましき事ニ候。愚老なとは今日も韋佗天のことくに候○幻住の兩子貴家へ御入のよし、よろしく〓〓御申傳可被下候。晩ほと愚亭へ御出も可有御座と(マヽ)の御事、是ハしはらく御容舍可被下候。韋佗天と申たは實ハ大愚句ハ無之口惜き次第ニ候。何事も貴面蕪沙彌けしからぬ御草臥-前日百池蕪村相携へて遠遊せし幻住の兩子-粟津幻住庵に滯在中の曉臺臥央をいへるならん。ナルいつはり、中〓〓今日なとは人ニ對して物も云ハれぬ體に(マヽ)て候。切角御來候ても只欠ひの外御馳走も無之候。此旨兩公ヘくれ〓〓御達可被下候。もしや兩子御歸りニ候ハヽ此手かミ早々御屆可被下候。何事も御めにかゝり御物語と申殘候。以上大來堂主人蕪村○欠ひ-あくび。大來堂-雷公と堂の圖を描き下に「主人」と文字にて記せり。明日の金福雨と相見え候雨天にてはとても老足及ひかたく候。とふそ三本木之出張迄成ともまいり申度候。しかし三本木は何と申所へ向ケまいることにや、いつゝ屋とほのかにうけ給り候。いよ〓〓左樣歟ちよと御聞セ可被下候。一、第三後ほと取ニ可被下候。其節三本木の樓名御書付被成可被下候。今日ハ家內之者共紛者のたてニ而、しはゐへ罷こし愚第三-連句の第三。紛者のだて-卑賤の者の却て贅澤する意。書簡篇
蕪村全集八四六老一人俊寛己來之あハれ御推量可被下候。りふれかしと願事ニ候。以上百池樣かゝる時節ニ天よ夜半○(天明三年)月居ハ所詮在宿いたすましく候。當節めてたく存候。扨もきひしき雨にてこまりはて申候。しかれは暮雨夜前御上京之よしめてたく宜御心得可被下候。愚老少々腹のあんはいあしく候て引こもり居申候。それ故早速御訪ひも不致候。先以双林精舍において法會御執行のよしいさゐ承知いたし候。尙御めニかゝりとくと調シ合セ申たき物ニ候。以上三月三日月居方へ之手かみ相達可申候双林精舍-天明三年春、曉臺の主催にて東山双林寺に芭蕉の百囘忌を營みし時のことなるべし百百池樣夜半○此ほとはおもひよらぬ佳興しかしう雪ハ暮雨の奧山と相しられ候池夜半付〓しとくと見候て付可申候○津輕への卷落手○扨々何やかやいそかしき事絕言語候。晩あたりハちよと御見舞可申候。圓山之事なともとくと相談仕たき事ニ候。以上三月十日夜半百池足下○此程者吉辰ニ付御薙髮無滯目出度御事ニ被存候。まことニ人間之本懷此上も無御座御義、御幸福之程御滿悅被察候。且御よろ夜半且御よろ書簡篇
蕪村全集こひの御重之內被贈下御厚情忝、みな〓〓御あやかり申上候樣ニ相寄祝申候事御座候。隨而薄義之至ニ御座候へ共、御祝賀申上候印迄ニ此二品進上仕候。御笑納被下候ハヽ本望之至ニ被存候。猶期拜顏之時己上春日蕪村了爾樣蕪村了了爾樣○彌御安寧被成御座恭喜至極被存候。しかれは昨日御薙髮之御祝詞申上候印迄にいさゝか成品呈上仕候處、御丁寧之御禮被仰下、又其上ニ兩種被贈下扨々忝仕合被存候。かゝる目出たき御事ハ年中ニ百度も有せたきものニ御座候。愚も早速御よろこひニ參上可仕候處、此間ハ□□すくれ不申候ニ付、他行成かたく意外之御ふさた失禮之段御免可被下候。いか樣今晩あたりちよと御祝義ニ參上仕可申候。余拜顏之節頓首了爾樣蕪村蕪村補遺發句篇追加いふき山の御燈に古年の光をのこし、かも川の水音にやゝ春を告たり雞は羽にはつねをうつの宮柱水引も穂に出けりな衣くはり古庭に鶯啼きぬ日もすから(寬旦(同保暮四帖年上)同よ補遺
法師の故事を引ける條の文蓑かりて-徒然草の登蓮外に立てゝ目印とし密夫を加田-紀州加太。春をしむ-句集にとせり。引入るゝ風習ありといふしむ座主の聯句に召れけひ侍りにけり」〇六、るべし。り」「ある者ますほの薄····の句あり夫の不在には權を戶までを前書その初案なこの地「春を習c平の象なり。十日の雨-五風十雨は太微雨樓-門人百池の別號補蕪村全遺集雞は羽にはつねをうつの宮柱の水音にやゝ春を告たりいふき山の御燈に古年の光をのこし、正朔吟お物師の夜明を寢ゐる師走哉虱とる乞食の妻や梅かもと君か代や二三度したるとし忘れ行年や芥流るゝさくら川つくはの山本に春を待みのかりて行道ほそきすゝきかな雉子啼や眠りの森の朝ほらけさし沙の垣根くゝるや梅花春雨や見へすなりたる加田の櫂春おしむ座主の聯句や花のもと柴屋にとろゝする音や花の□美哉盛や新田にかゝる春の水種蒔もよしや十日の雨のゝちひらく田の地の利も得たり春の水あらたに店をひらくを賀すを賀す二章微雨樓かあらたに舗をひらくカイ○連句篇追加かも川(同巳時戊夜辛夜未午酉歲々歲半歲半旦旦旦扇同同同同(遺(日) (自宰畫畫旦旦旦上)帖庵帖亭ノ帖亭鳥面上上上よ草讃讃
抄出す。位たり。點)渭北(廿五點)宋阿(廿四今宰町の名ある部分のみを元文三年九月夜半亭におけ八點にて連衆十四人中第九點)等加はり居り、點)旭洲(卅二點)風篁(廿九る句卷にして、る歌仙一卷を、その他雪童の句のみ句主の名を記せりその中長點朝桑の點せ宰町は十(卅七補蕪村全遺集月影の里へさし込氣色して面白の硯の上に一葉山もあらは○に 扇置か窓な虱とる乞食の妻や梅かもと中に薺○の寺と吉原木くらけの緣より雪は解にけり頭巾きて鳴明のうくひす年內立春のとかさは又鐵槌の柄かぬけて朝湯から春の匂ひやきそ始寶引綱もみる喰の紅二のかはり宗十良か狀見せて名月の根分の芋を雜煮かな大黑 舞の氣にも子の年谷水の泡たつかたは根芹にて神馬しつかに春の白たへ○(夜半亭辛酉歲旦帖)宰鴈鳥宕(寛保四年旦暮帖)宰露條鳥長風(時々庵已未歲旦帖)渭宰北町江宰嶺素露雨鳥月玉鳩
蕪村全集八五四中略泊瀨に祈をかけて乳も出す色々におろかな夢の長局朧のかけの薄キかけほうし中略)目。色々に-二の裏第九句宰町非人も詠メばすくな我國入梅に哀のまさる賣屋敷見附の幕の榮へる曾我の日魂は半分妹に死てのけ下略)見附の-三の裏第六句目。宰町(元文三年九月句卷)渭北の點せる句卷にしてその終に「如月十三日定會時反應はと記せり連衆風篁○雉子鳴や谷に澄きる松の色(廿三點)宋阿(二十一點)松洗(二十點)等十九人にして宰町は十點を得第十一位た中略ゆく月に指をさしたる冬の空隣の國も一面に見え近道の水へ踏込ム蓼の中歌のほとけの圓位上人下略近道の-二の裏第一句の上宰町(渭北點句卷)文章篇追加○自讃の詞嵐山雨中花と云題にて門人俵雨すり物しける時補遺
蕪村全集八五六筏士の簑やあらしの花ころも蕪村右の句を申遣しけるそのゝち程經て、袋草子をよみ侍りけるに、御堂道長公大井河遊覽の時詩哥の舟を雙へ、各被乘堪能之人。而御堂被仰云、四條大納言は何レの舟に可被乘哉。大納言云、可乘和哥船云々。此度(マヽ)「朝またきあらしの風の寒けれはちるもみ葉をきぬ人そなき下略。また後悔あり。乘詩舟是ほとの詩つくりたらましかば、名はあけてまし云々。四條大納言公任也。蕪村云、はいかいほとさるかしこきものはあらし。わつか十七字にて三十一字のこゝろをも自在に云縮るもの也。公任卿のあらし山のうたよりも、みのやあらしの花ころもと云たる、風情まさりて覺ゆ。嵐山下の風雨に簑毛の吹そよめきたるに、袋草子-藤原〓輔撰。學の書。歌さくら花の雨にうたれて散着キたる有さま、眼中に奇景を得たりと云へし。公任卿のうたを取てしたる發句ならはこそ、かつてしらで作り出せる句なれは、一しほしたり貌にて、我はいかいの尙きとを覺侍る。穴かしこ他門の人には申へからさると也。(京都、寺村氏藏遺草)尙き-貴き。○宋阿の文に添ふる辭此ふみはむかし阿翁東武の石町といへるところの夜半亭にて、其角嵐雪の三十三囘の追善の集あめりける時、都の何かしかた余其頃夜半亭にへの文通也。其集は桃さくらとそいへりける。ありて、此擧にあつかる。則余か句すり鉢のみそみめくりや寺の霜とかの集に見ゆ。のち余平安に住して、又阿翁の三十三年の遠此ふみ-宋阿が其嵐卅三囘追善に際し句の加入をすすめ遣したる手紙にして原物はその手紙を上部にはり、下部に蕪村のこの文を附せる軸物なり。遺
蕪村全集八五八忌をつとめて、むかしを今といへる小册子をあむ。普化去りぬにほひのこりて花の雲嵐雪(マヽ)右は晋子世を避したるを悼る句也。玄峰居士匂ひのこりて花の雲宋阿右は雪中庵三十三囘追善獨吟哥仙なこりの花の句也。花の雲三重にかさねて雲の峰蕪村右は宋阿翁三十三囘追善哥仙の發句也。日月梭のことし、又後の人これを見て誰か感慨を生せさらんや。紫狐庵蕪村(京都寺村氏藏遺草)嵐雪文の終りに簿墨にて其、嵐、宋三師の肖像を極略畫にて描けり〇二見形文臺二見形文臺京都、寺村氏の藏にして之に添へて次の如き百池の書「是はこれ亡師蕪村の筆にして余に付與し示して曰、俳諧の道や蕉翁のいにしへにかへさんことをおもふ。先ツ法中に入れよ、法外に遊ふも自在めてたからん。必師の調に化事なかれと。例の磊落なる語勢も今は十おはしぬ。とせあまりの古人とは猶現夢にそはなたち旦暮に慕ふ者は門人百池謹書」長一尺九寸三步鏡板横一尺一寸厚四分五厘小口埋木カマボコ形ニ但ヒラ共ニ丸メテ証、こゝに文臺の繪あり)高三寸五分板足橫一尺六歩厚四分五厘小口埋木前ニ同シカマホコ形ニシテ小口ヨリ三分足ノひき込見付ヨリ二分竪一寸五分足ノつなき橫一寸六分足ニ海鼠すかし長八寸六分中程五分跡先一寸三分補遺
蕪村全集司筆かへし第ニホソウケツリツケ跡先二三分ホトハ鏡板ナシナリ埋木ヲ直ニノベ中高一分ヨハニ小緣ノフトサ程ニシテ次右圖は芭蕉翁の物數奇也。其故は西行談抄に二見の浦に住給ひし頃、扇を文臺として和歌を詠し、その隙には一生いくはくならす來世ちかきにありといふ文を口すさみ給ふるよし、風雅にはこれらのさひをうらやみ、道義にハそれらの結緣をしたへはとそ。さて此形の用とするは、其足の角たゝす疊にそひたる心地よく、硯箱もつねよりは小ふりに筆のつかえぬをかきりとす。蓋の裏に海松と蛤とをかけり。されと硯箱は定法にあらす、大かたはあるにまかすへし。扇の繪ハ梅か若松也、おほくは木地に墨繪なれと、あさくぬりたるも又あるへし。中比より先師のうら書多し、松か梅かの發句なり。蕪村(遺草)附錄
與謝蕪村傳出生と少年時代蕪村は享保元丙申の歲攝津國東成郡毛馬村に生れた。姓を谷口といふ。幼名通稱等を詳かにしない。その生地についても或は丹後の產といひ、或は天王寺村の人で與謝に長じたのであるなどゝもいはれて居る。洛北金福寺境內の蕪村翁碑によれば、「翁本姓谷口(〓)、攝津人、家、生家在丹後國與謝邨、以其生之地屬天王寺村村名于蕪菁、乃又號蕪村、幼養於母氏之生家、因更姓謝」とあり、又大江丸の「俳諧袋」には「蕪村。姓は與谷氏也。丹後の與左の人といひ、別に村が所謂ありといへり又天王寺の人と」とある。姓は與謝氏、生國攝州東成郡毛馬村の產、谷氏也。しかし蕪村が春風馬堤曲に添へて送つた手紙の中に、自ら「馬堤は毛馬塘也、則余が故園也」と言つて居り、又門人几董の「から檜葉」にも「浪速江近きあたりに生ひたちて」とあるのなどから見て、天王寺說や與謝說は頗る疑はしい。異說をあげて居る中で、自ら「馬堤は毛馬塘也、則余がとあるのなどから見て、天王寺說や與謝說は頗る疑はしい。附錄與謝蕪村傳三
蕪村全集四最も信憑すべき文獻は「俳諧袋」であるが、それとても既に毛馬の產たることを本說として認めて居るのである。「別に村が所謂あり」といつたのは、後年蕪村が謝氏を稱して自ら與謝を第二の故郷といつたり、或は蕪村の號に附會して天王寺とも何かの關係があるやうに思はれたりしてゐたので、その事をぼんやり述べたものであらう。その他諸書に傳へる所の如きは多く信を措くに足りない。今は蕪村自身の言によつて、その故園の地が毛馬村たることは疑ふ餘地がないとすべきである。蕪村の出自については殆んど信ずべき傳へがなく、父母の名すらも分らない。或は大阪阿彌陀ヶ池の商家の出で、母は毛馬から下婢に來て居た者だとか、或は北國屋吉兵衞といふ者の妾腹の子だとかいふ說もあるが、もとより何等據る所のない口碑にすぎぬ。又丹後地方の傳說によれば、蕪村の母は與謝郡加悅谷算所村(三河内村、瀧村等とも傳へてゐる)の人で、〓を出て攝州に年季奉公をしてゐるうち、人に嫁して蕪村を生んだ。その後幾もなくして蕪村の父母は相尋いで世を去つたので、蕪村は母の〓里そに來てそこで育つたのだといふ。この說はかの金福寺の碑文に傳へる所と符合してゐて、やゝ信ずべきであるやうだが、その母が與謝の產であるといふ事はともあれ、蕪村が幼時を丹後に送つたといふことはなほ疑はしい。卽ちかの春風馬堤曲に添へた手紙に、「余幼童の時春色〓和の日には必友どちと此堤上にのぼりて遊び候」とあるのは、少くとも彼の幼年の日が、毛馬で過された事を、明らかに物語つてゐるものであらう。かくて蕪村の出自については信ずるに足るやうな資料が殆んどないといつてよい。只近頃發見された「から檜葉」の草稿(凡董自筆日記の一節で、日記は遠藤蓼花氏藏中に、凡董がはじめ蕪村の生立を敍して「おしてるや浪速江ちかき村長「〓民」と訂正してゐる註この二字のち更にの家に生ひ出て」といつて居るのは、看過することの出來ない有力な新史料であらう。之を「橋庵漫筆」に「蕪村は父祖の家產を破敗し身を洒々落々の域に置いて云々」とあるのなどと照らし見ると、彼の生家が〓民中の名門であり、父祖代々相當の產を有した舊家であつたことが朧氣ながら窺ひ知られるのである。恐らく幼年時代の蕪村は、村長の子として友達與謝蕪村傳
蕪村全集六からもかなりの尊敬をうけながら、或は毛馬の塘に登つて嬉戲し、或は塘下の芳草を摘んで、幸福な平和な日を故園に送つて居たのであらう。しかしこの平和な日は長くはつゞかなかつた。無下にいはけなきより畫を好んだといふ彼のことだから、少年の頃から旣に畫事風流を愛して、產を治めるには疎かつたのであらう。やがては父祖の業をもつがず、孤獨の身を他〓に寄せて、漂浪の客とならねばならぬことになつた。それは藝術に對して燃えるやうな憧憬もあつたらう、ゆくての望みに心は勇み立つたかもしれない。しかし彼が師巴人の死に遭うて、「宋阿の翁この年頃子が孤獨なるを拾ひたすけて、枯乳の慈惠深かりけるに」といつて悼んでゐるのを見ると、その〓を去つて江戶に出た頃には、もはや估恃を失つて居たものと思はれる。產を破り父母に別れ、孤影子然として故園を辭した彼の心事は、想ひやるに餘りがある。後年一日耆老を故園に訪ねての歸るさ、春光和らかな馬塘を漫步して、四十餘年前の往時を追懷した蕪村の感慨は、誠に無量であつたらう。「實は愚老懷舊の或は塘下の芳草をやるかたなきよりうめき出でたる實情にて候」といつたのは、まさに彼の僞らない告白であつた。然るに橘庵漫筆の著者が、產を破り風流に身をおいた彼を評して、「神佛聖賢の〓に遠ざかり、名を賣つて俗を引く逸民なり」とひどく貶してゐるのは、世間的の立場から見ては、それも全くの漫罵ではなかつたかもしれぬ。しかし天才の步む道は必しも常人と同じくはない。一般の規矩を以て直ちに之を律しようとするのは、到底偏見たるを免れないのである。況んや蕪村が不朽の藝術を成したのは、實にこの產を破り家を捨てた所に、その端を發して居るともいふべきに於てをや。江戸時代年少志を立てた蕪村は遂に故〓を去つて、遠く江戶に遊んだ。「俳諧袋」等に傳へる所によれば、彼は江戶に出て先づ內田沾山に倚り、後宋阿について俳を學んだといふ。彼が俳諧に親しんだのは、出〓以前からであつたかも知れないが、かうして師に賴つ附錄與謝蕪村傳
蕪村全集八て自ら俳諧を以て立たうと志したのは、按ふに此時が始めであつたらう。「から檜葉」に「弱冠の比より俳諧に耽り」とあるのが、卽ち當時をさすものとすれば、彼が江戶に出て沾山に倚つたのはその二十歲の頃、卽ち享保末年元文初年の交であつたらうと推測される。その後元文二年四月には巴人が京都から歸つて、石町の夜半亭に居を定めた。それでやがて蕪村は沾山の許を去つて巴人に師事する事になつたものと思はれる。しかしその東下の年代、沾山門時代の事蹟、及び巴人門に歸した年代や事情等については、今殆んどその確實な資料を得る事が出來ない。只文獻上蕪村の句と思はるゝものゝまづ最初に見ゆるのは、元文三年正月に出された夜半亭歲旦帖中の左の一句であらう。君が代や二三度したるとし忘れ宰町この宰町といふのこそは、實に蕪村の前號であらうと思はれる。蕪村に宰鳥といふ前號があつたことは、門人百池の手記にかゝる俳人名錄にも記されてあり、金福寺の蕪村翁碑文中にも見える。又望月宋屋編巴人追悼集「西の奧」の序文中に「六月六日惜むべし終に長夜の臺に歸られしとの大變宰鳥雁岩急の知らせに云々」とあつて、同じく宋屋編巴人十三囘忌追悼集「明の蓮」には「六月初六日老師歿して西の奧の一句東武の門弟蕪村雁宕より告來るに驚きて一集を綴る」とあるから、宰鳥卽ち蕪村たることは明かである。しかし宰町が更に宰烏の前號であつたといふ事は、之を證すべき十分の資料があるわけではない。況んや享保頃の俳書に他にも宰町の名を見るといふ話も聞くから、今宰町卽ち宰鳥と推定するのは少しく早計に失するやうだが、元文三年九月九日夜半亭で臨時に催された百韻一卷が現存してゐる。それを見ると、一座の人々は宋阿をはじめ雪童、旭洲、風篁、渭北、佳交、知之、芝光、少我、醉月、巨川、松洗等十餘人で、その中に又宰町の名が見える。しかし翌十日の月並會句卷にはその名を列してゐないので、巴人直門たる彼が一座しないのはをかしく思はれるが、句卷には高點の分だけしか名をあげてゐないから、それだけで不座とも決せられない。更に翌附錄與謝蕪村傳
蕪村全集元文四年春、時々庵渭北の歲旦帖を見ると、こゝにも宰町の句があり、年代不明(元文三四年か)如月十三日時々庵定會の百韻俳諧でも、宰町は萬里亭の判で十點を得てゐる。その百韻興行の一座は宋阿、風篁、松洗、木藥、渭亮、渭周、文里、巨川、里夕、氷角、宰町等二十人ばかりである。而して之等の宰町は夜半亭、時々庵及びその他周圍の人々との關係上卽ち宰鳥であると斷ずるのは、あまりに大膽であららうか。宰町は今確證がない以上、なほ之を疑はしいとしても、元文三四年の頃蕪村が既に江戶にあつて、しかも俳人との交游も廣く、俳壇における地位もさまで低くなかつたことは確かであつた。蕪村が若かつた頃、麥天の窮乏を憐んでそのために東奔西奔し、遂に月並の俳席を設けてやるまでの世話をした、おかげで麥天は文臺の主となり名も渭北と更めたといふ事は、「新花摘」に蕪村自ら述べてゐる所で、誰も知つてゐる話である。ところが前揭の句卷、歲旦帖等によつても知らるゝ通り、元文三四年の頃には麥天はすでに渭北と號して居り、四年の正月には粗末な體裁ながらも時々庵宗匠としての歲旦帖を出す程までになつて居る。卽ちこの頃麥天は既に蕪村等の世話で、立派な文臺の主となつて居たのである。無村が元文三四年の交既に江戶にあつて、しかもかなり名を成して居たことは、この事實に徵して自ら明かであらう。而してこれだけの仕事は、當時江戶へかけ出したばかりの年少俳人では出來さうもないことである。必ずやそれまでには少くとも二三年の江戶生活を經てゐて、かなり顏馴染も多くなつてゐたものであらう。だから彼の東下の年代が、享保末年元文初年の交であらうといふことは、之によつてもほヾ誤らない推測であることが、知られる。或は享保十七八年の頃、卽ち彼が十七八歲の時にはもはや江戶へ來て居たのかもしれない。それにしてもまだ弱冠を超えること幾もない彼が、當時已にそれだけの地位を築き上げてゐたことは、以て彼の俳才が凡でなかつたことを見るべきで、師友先輩をして後生畏るべしの感を懷かしめてゐたにちがひない。後年蓼太が蕪村との兩吟歌仙のはじめに、「若かりし時は武江にして俳林の花を爭ひ實を求め」といひ、又蕪村追悼の吟に神澤杜口與謝蕪村傳
蕪村全集三二が、が、「年少うして東都に鳴り」といつたのは、そこに多少の辭令が含まれて居るにしても、彼が夙く東都俳壇に雄飛するに至つた事を、物語つて居るものであらう。さて蕪村が沾山門にあつた間の事は今全く知る由がないが、その沾山の許を去つて巴人に歸した事情については、かつて岡野知十氏が「早稻田文學L誌上に詳說する所があつた。卽ち年少の蕪村は、まづ當時江戶俳壇に最も勢力があつた合歡堂一派たる沾山を師としたのだが、彼の識見はやがてその俗調を慊らずとして、こゝに巴人の老いて高きに服したのであると。蓋し之はほゞ眞相に近い推測であらうが、蕪村が巴人門に歸した事情について、なほ忘れてならないのは彼と雁岩との關係である。雁宕は下總結城の人、その蕪村と相識つたのはいつ頃からか分らぬが、恐らく蕪村の東下後間もなくであつたと思はれる。雁宕はかねて巴人に學び、その再び東に歸らんことを望んでゐたものと見えて、元文元年の春西遊した折、阿叟の草廬を訪ねてそれとなく約する事があつた。それで巴人も古郷ゆかしくなり、やがて翌年の夏には江戶に歸るこも、とになつたのである。だから按ふに蕪村は早く雁宕と相識つて居り、巴人がかくて東歸するや、偶々沾山の俗調に慊らないで居た折柄とて、雁宕に誘はれて早速夜半亭の門に入るやうになつたのであらう。後年蕪村と雁宕との交りが尋常でないのを思へば之は强ち單なる臆測ともいはれないのである。隨つて蕪村は巴人の東歸を待つて、すぐに隨仕するに至つたものと思はれる。巴人が歸郷後第一年目に出した元文三年の歲旦帖に、すでに宰町の名が見えて居る事は、前に述べた通りである。しかしこの宰町はなほ疑はしいとしても、翌元文四年の冬巴人が其角嵐雪の卅三囘忌を營んで、「桃櫻」の追悼集を編んだ時には、蕪村もその門にあつて、すり鉢のみそみめぐりや寺の霜と追善の一句を手向けた事は確かである。それは彼が後年師の卅三囘忌を營んだ折の言葉(肌照t)によつて明かである。八五七而してこの「桃櫻」が板行された事は、當時の俳書に附載された廣告によつても明かだが、今世に傳本があるのを聞かない。もしこの書が附錄與謝蕪村傳
蕪村全集四發見されて、しかもかの擂鉢の一句に宰町の號を見るならば、宰町卽宰鳥か否かの疑問は自ら氷釋するわけだが、遺憾ながら今は暫く後日の考證をまつ外はない。蕪村はとにかくかうして巴人に隨仕し、その夜半亭に寄寓して專心俳諧修行の道を辿ることになつた。元來巴人は東武の產で晋子雪中に業をうけ、百里琴風の輩と共に大いに新意を振つて、早く寶永の始頃から江戶俳壇に鳴つたものであつた。然るに享保七年上京して以來そのまゝ都に足をとゞめ、「一夜松集」を編して後宋阿と號を更めた。かくて滯京十餘年、その間に几圭、宋屋、隨古、盛住等をはじめ門人もかなり多く出來たが、故郷忘じ難く、遂に元文二年四月「古〓をふたつ擔うて袷かな」の吟を殘して江戶へ歸つて來たのである。そして水無月十日の頃、舊友露月等の世話で、石町なる鐘樓のほとりに夜半亭の居を定めたのであつた。その在京當時蕪村は巴人と相識るべき機會を持つてゐたかどうかは分らないが、ともあれかうして二人は江戶で師弟の契を結び、夜半亭に朝夕膝を交へて語ることになつたのである。時に師はすでに六十餘歲、弟子はなほ少壯の靑年であつた。蕪村が後年師の三十三囘忌を營んで往時を追懷した言によると、巴人は世俗の事を耳にするのすら厭ふ高潔の士であつた。霜夜の鐘に驚いた老の寢覺にも、この才氣眉宇に溢れる若人を前にして、諄々として俳諧を說いて倦まなかつた。又ある夜は危坐して俳諧の道の必しも師の句法に泥むべからず、時に變じ時に化し、忽焉として前後相顧みざるが如く有るべきことを說き示した。この一棒下に蕪村は頓悟してやゝ俳諧の自在を得たと彼は語つてゐる。かの「春泥發句集」の序に、俳諧に門戶なし、只是俳諧門といふを以て門とせよと說いた識見は、すでに早く此時に養はれて居たのであつた。されば彼は師の門にあつても必しも師の口質にならはず、みなし栗冬の日の高邁を慕つて、直ちに蕉翁の幽懷を探らうとした。後年蕪村が俳諧に大成を見た所以の者、固より彼の逸才によるのは言をまたないが、師巴人のこの磊落規矩に拘はらない〓へが、實にその根柢をなしたのである。彼は誠によくその師を得、師も亦よくその弟子を導いたといふべきであらう。與謝蕪村傳
蕪村全集一六六當時夜半亭門の狀況は、前にあげた元文三年及び寛保元年の夜半亭歲旦帖や、夜半亭で興行した句卷等によつてほゞその大略を知る事が出來る。卽ち松洗、醉月、少我、我兄、解糸、巨川、赤鯉、百庵等をはじめ渭北、午寂等も亦最も親しく出入した。その他超波、平砂、祇丞、筆端、有佐、故一等も相往來し、蕪村は之等江戶俳人と相交る機會をもつてゐた。又かの雁岩をはじめ風堂、丈羽、大濟、阿誰、楚江、田洪、高峨、巴牛等常總地方の俳人の夜半亭に遊ぶものも多かつた。師の歿後蕪村が同地方に長く滯在するやうになつたのもこの故である。なほ反古衾(寶曆二年刊、雁宕阿誰編)東風流(寶曆六年刊、春來編)等によつても、更に蕪村が江戶俳人との交游の狀は窺ひ知ることが出來よう。元文初年すでに麥天の世話をした位の彼のことであるから、その交游範圍はかなり汎く、誠に俳林の花を爭ひ實を求める有樣であつたらう。かくて彼は巴人の高足として、そのまゝ江戶の俳壇に一旗幟を飜さうと思へば、それは決してむづかしい事ではなかつた。然るに一度師の物故にあふや、忽ち江戶を去つて十年流浪の人となつてしまつたのである。夜半亭門にある間、彼の專らとした所はもとより俳事であつたが、その間繪筆にも亦親しんでゐた事は、かの俳仙群會圖讃頁參照五六九)によつて知ることが出來る。後年屢彼が筆にした三十六俳仙の圖樣の如き、蕪村之が価をなすものといはれてゐるが、早く弱冠の頃すでにこの種の俳畫と覺しいものを作つてゐるのであつた。しかし當時の畫歷、遺書等については他に全く知る所がない。結城地方の遺畫に狩野風の筆致があるのを思へば、或は同派の繪を多少學んだことがあるのかも知れない。又當時服部南郭に漢學を學んだ事などもあるやうだから( 以六三九()、さういふ關係で南北二宗の漢畫にも自ら親しみは持つて居たゞらう。而して彼が江戶俳壇をすてゝ去つたのも、實はこの幼少から好んで來た丹靑の技に遊んで、暫く世塵を江山の間に避けようといふ志があつたのによる事も多かつたらう。與謝蕪村傳
蕪村全集八歷行十年宋阿は寛保二年の春の頃から口中に痛みを覺え、いろ〓〓手を盡したけれども、日を重ねるに從ひ重くなつて、遂に六月六日黃泉の客となつた。「我淚古くはあれど泉かな」と悲しみながら、蕪村はこゝにまたよるべなき孤獨の身に歸らねばならなかつた。暫くはかの空室に坐して師の遺稿を探り、一羽烏といふ文を作らうとしたがそれも果さないで間もなく江戶を去つた。之について彼は自ら只「いさゝか故ありて江戶を退き」と言つてゐるだけだが、按ふにその頃になつては彼の句風漸く時俗に容れられず、且つ今や賴むべき老師もなくなつたので、江戶の俳壇に身を置くことも、あまり好ましくないやうになつたからではなからうか。ここに凡董が桃李の歌仙を興行した折のことについて、後に書きしるした一文があるが、それは以て些かその間の消息を窺ひ知るべき一助とすることが出來よう。今その前半を抄出して見ると、往昔安永庚子のとしにやありけん、ひと月師か夜半亭に遊へる事あり、時に花飛鳥啼春の名殘もおほつかなき夕暮、雨しめやかに降出て、たま〓〓閑席をやふる賓客もなかりければ、師手つから燭を點し危座して示て曰、我むかし東武に在てひとり蕉翁の幽懷を探り、句を吐事瀟酒、もはらみなし栗冬の日の高邁をしたふ。しかれとも世人その佳境を知らず。時に蕪村年二十有七歲、いまだ弱うして句法の老たるをもて、世人我を見る事仇敵のごとくす。時に或人余を諫て曰、はいかいは滑稽也、人と相和して談笑すをもて最とす。子か如き偏癖のものは其本意にあらす、何そ枉て人情に隨はきるや。余此言を聞て亦一見解をひらき、終に野總常武のあいたに遊歷して、麥林支考を尙ふ境に入ては則支麥か句法を用ひ、其角嵐雪を好む處にしては則其嵐の風韻を吐、京 師に遊ては淡々羅人が語氣に倣ふ。されは往ところとして遇さる事なく、をの〓〓我俳諧をもて擅場とす。實は世を玩弄して俗俳を蔑視するのみ。しかして我俳諧に遊ふ事凡五十有餘年、今齡七旬になん〓〓とす。いまだ自得のはいかいをせす。此比おもふに汝か俳諧既に熟せり。試に予と兩吟をすへしと。(下略)年少氣銳獨り自ら高しとして、俗流に下らなかつた鬱勃たる當年の意氣が、こゝに見られるではないか「時に蕪村年廿有七歲」といふのは、まさに寛保二年宋阿の歿した年である。師の風格にすら泥むを屑しとしないで、專ら蕉翁の幽懷を探り、貞享の附錄與謝蕪村傳
蕪村全集二〇句風を慕つた彼のことであるから、今や阿叟歿してはまた他に師事するに足る人を求むべくもないし、寧ろ去つて風雲に身を託し、天地の間に悠遊しようと思つたのであらう。かの何ぞまげて人情に從はざるやといふ言によつて、又一見解を開いたといふのも、もとより衷心その言に服したのではなくて、卽ち實は世を玩弄し俗を蔑視した一種の皮肉であつたのである。そはともあれ彼は師の歿後江戶を去り、下總結城の雁宕が許をあるじとして、こゝで日夜俳諧に遊んだ。卽ち雁宕もまた師の歿後蕪村と相率ゐて故〓に歸つて來たのである。結城にはその外同じく宋阿の門に遊んだ早見晋我やその父北壽老人も居り、丈羽、田洪、楚江等俳を嗜む者もかなり居た。又近く下館には夜半亭ですでに眠近となつてゐる風篁、大濟が居り、關宿境には阿誰父子が居る。それに蕪村が結城にやつて來たのは、これが初めてヾはなかつた。寛保元年の夜半亭歲旦帖のうちにらう。つくはの山本に春を待行年や芥流るゝさくら川宰鳥の一句がある。これで見ると元文五年の冬から寛保元年の春にかけて、常總の際に遊んだことがあると思はれる。それは恐らく雁宕に伴はれて結城に春を迎へたのであつたらう。そんなわけで同地方には蕪村の知友も多く、互に相往來して風流に耽つたのであつた。又或時は柳居が筑波詣に逢うてこゝかしこに俳席を重ね、或は潭北と上野に同行して處々に宿りを共にしたといふのも、當時のことであつたらう。雁宕の紀行「雫の森」に、蕪村、雁宕、大濟、醉月等が相携へて櫻川の花を眺め暮したことを記してあるのも、またその頃のことと思はれる。「雫の森」は辛未の年(實曆元年)九月、雁宕が野總地方を漫歷した折の紀行で、今寫本のまゝ傳はつて居り、碧梧桐氏は雁宕の自筆かもしれないと言はれて居る。その中に、(前略)なか月廿日あまり雰のまきれにたちいでゝ、まづ詳雲峰(註、常陸下館の妙西寺)にのぼりて大濟か墳.妹なりけるものゝ碑前に至て、年頃疎かりける怠りに思ひいづる事のみおほくありて、(中略)櫻井の紅葉また類ひなし、いつの年にや醉月、蕪村、大濟等ともなひ連て、花の盛を眺め暮して、こゝろ葉もと今寫本のまゝ傳はつて居り、與謝蕪村傳
蕪村全集二二もにふりたる櫻かなと云けるに、その友さへみなうせて、はたとせもやふりゆく事なと、獨り類に懷舊す。といふ一節がある。こゝに「その友さへ皆うせて」とあるのは醉月と大濟をさしてゐるらしいが、二人とも殁 不明である。しかし大濟は寶曆四年に雁宕、阿誰等と巴人の追善を催して居り、寶曆六年刊の「『風流」にもその名が出てゐるから、寶曆辛未の年にはなほ生きてゐる事は明かである。隨つてこの辛未はも己寶曆十一年)か癸未(同十三年)の誤であらう。それから逆算して二十年前は恰かも寬保二三年頃にあたる。もとより廿年といふのも正確に數へたわけでもあるまいが、ほゞ年代を知る一助とはなるであらう。蕪村はかうして野總の間を歷遊するのみならず、果ては松島の浦傳ひして好風に面をはらひ、外の濱の旅寢に合浦の玉のかへるさを忘れるに至つた。松島で天麟院に客となり、寺の長老から土產に貰つた萩の埋木を、途中で打捨てゝしまつて、潭北からあとで腹あしく罵られた逸話などは、「新花摘」に出てゐて皆よく人の知る所である。又信夫郡鐙摺の古寺を訪ねて、次信忠信の妻の像を一見したり(600一九、大、出羽の國から月夜の卯兵衞の句を得たり(五箇所)五五七陸奧の方へ通る山中で九十九袋といふ村へ泊り、たのも、この時の旅であつた。かくて彼が臨終の病床で感慨をもらした如く、或は途に煩ひ、ある時は飢ゑもし寒暑になやみ、うき旅の數々命つれなく、辛き目見たのもあまたゝびであつた。しかしこの大行脚によつて、彼の詩眼益〓高く、奚囊愈々肥えたのはいふまでもない。惜い哉當時の作として、今明かに知られるものは極めて少いが、かの最も人口に膾炙してゐる柳散り〓水かれ石ところ〓〓の一句の如きは、實にこの旅中下野の國遊行柳の陰で得た吟であつた。それはもとより寧ろ生硬とも評すべく、まだ渾然たる藝術境に至つてはゐないが、眼を好山奇水の間に馳せつゝ、心を虛栗冬の日のうちに潜めてうめき出した作にはちがひなかつた。陳腐を離れて新奇に就かうとする彼の努力と抱負とは、こゝにあり〓〓と窺はれる。元來蕪村の俳諧に於ける修養は、自然のうちに想を探るといふよりは、寧ろ書卷の間に技を練ることが多かつた。それだけ彼の行脚生活が、その俳諧に及ぼした影響は、芭蕉などのやうに深いものではなかつた。しかし旅の艱苦を具に甞めながら、かうし與謝蕪村傳
蕪村全集て專心俳道に精進して行つたことは、彼の一生の中でも最も尊い心の試鍊であり、最も大きな精神の收穫でなければならなかつた。彼はまたこの歷遊の間に、各地で多くの俳士と風交を結んだ。奧州白石の城主片倉候が停月庵鬼子と號して俳諧をよくし、蕪村凡董と交游があつたことは、儿董の「菊の宿」、鬼子の男鬼孫の編した「鬼子句集」(文化八年刊)等によつて知られるが、按ふにやはりこの旅中彼は候の知遇を得たのであらう。又寬保三年の末から翌年の春にかけては、宇都宮に暫らく足をとヾめてゐたものと見えて、寛保四甲子の歲旦帖を彼は同地で出して居る。宇都宮には雁宕の親戚で俳を嗜んだ露鳩が居たので、彼はその露鳩を賴つて行つたものらしかつた。歲旦三ツ物のはじめに、まづ宰鳥の發句露鳩の脇句が見えてゐるのでも、その間の消息は十分に知られるのである。恐らく彼はこゝで露鳩一派の人々に迎へられて、俳席の數を重ね、相識の士も多くなつたので、折から春に逢うて歲旦の小册をものする程までになつたのであらう。而して彼の蕪村といふ俳號は、實にこの時始めて用ひられたものであつた。寬保四年の蕪村歲旦帖は最近碧梧桐氏の手によつて、下館中村家(風篁の子孫)から前にあげた元文三年寬保元年の夜半亭歲旦帖、元文四年の渭北歲且帖、夜半亭風尊亭等で擧行された俳諧の卷等と共に發見されたものである。紙數數丁の粗末な小册であるが、西歸以前の蕪村に關して、從來この種の文獻は全く世に知られなかつたのであるから、蕪村研究にとつては誠に貴重な資料たるを失はぬ。體裁は半紙二ツ切の小本で、表紙も厚紙などではなく普通の紙を用ひ、口繪寫眞版に示す通りの文字が記されてある。この板下も全部蕪村の筆で、一見晩年の書風とは趣を異にして居るやうだが、彼の筆意たることは疑ひない。蓋し蕪村の書として今日傳はるものゝうち、之は最も時代の古いものであらう。歲旦歲暮の出吟者は多く露鳩社中の人々と見え。露長、露岳、露筍等俳號に露字を冠する者が多く、歲旦の三ツ物には露鳩をはじめ素玉露長、嶺月、條風、江雨の六人の名を列ねてゐる。その外結城からも雁宕、丈羽、田洪が出句して居り、下館の大濟、風篁、關宿の阿誰、佐久山の澤北も句を寄せ、雲帳、可客、連馬、燕山、故一、祇丞、筆端、其川、蝸名、存義等は遙かに江戶から吟を投じて居る。以て當時蕪村の交游狀況を知るべきであらう。この歲旦帖の發見によつて、彼の傳記に關するいろ〓〓な新しい事實が明かにされたが、就中蕪村といふ號がこの時初めて用ひられて居るといふのは、最も興味深い新發見であつた。三ツ物中の三句と歲末の發句にはなほ宰鳥の舊號を用ひてゐるが、表紙と卷軸には蕪村と署名してゐる。恐らく彼はこの時初めて蕪村の新號を用ひようと思つて、表紙と卷軸に特に蕪村と署し、改號のひろめかた〓〓この歲旦帖を知友に配つたものであらう。表紙の「宇附錄與謝蕪村傳
蕪村全集二六都宮溪霜」とある溪霜がよく分らないが、地名ではなからうかと思はれる。溪霜、蕪村ともに或は宇都宮附近の地名に緣あるものではあるまいか。又武藤氏編「蕪村畫集」に、蕪村が結城時代の作らしい唐美人圖がある。それには四明の落欵と、溪漢仲朝滄の印が用ひてあるといふ。この溪霜と溪漢仲と何か關係があるのではあるまいか、記して後考を俟つ。この歲旦帖に見ゆる彼の句風は寧ろ平板卑俗で、虚栗の高邁を慕うたものとも思はれぬが、所謂支麥た尙ぶ境に入つては則ち支麥が句法を用ひたもので、故らに田舍俳人と調を合せたものでもあつたらうか結城下館の友から寄せられた句の中に、却て蕪村風の特色が見られる位である。なほ字都宮の露鳩と雁宕との關係は、かの「雫の森」の中に「期を約して宇都のみやに至るに、露鳩悅ひにたへす、むすめむまこうからやから友とちもおほく集て、冬こもり爰にせよなともとゝめり」とあるのでほゞ分る。恐らく露鳩は雁宕の女婿であつたのだらう。かうして蕪村は野總の際から、遠く奧羽の方まで歷遊することほゞ三年に及んだ。それはおよそ寬保二年の秋冬から、延享元年の春夏にわたる間であつたらうと思はれる。然るにこの行脚の年代を、大野酒竹氏は元文二年以前の事とし、岡野知十氏また元文三四年の頃としてゐるのは、いづれも誤である。蕪村が旨原のために五元集の淨寫を約しながら果さずして江戶を去り、そのまゝとざまかうざまとして三年餘りの星霜を經たので、旨原はとう〓〓蕪村の歸江をまちかね、龜成といふ者に寫させて之を出板したといふ話が新花摘に出てゐる。而してこの五元集が板行されたのは延享四年の秋のことである。無村の行脚を元文初年の事としてはあまりに時代が離れすぎる。それでは延享元、二、三年の間であらうかとも思はれる。しかし蕪村が上野に同行したり松島の旅から歸つて後雁宕のもとで出會つたりした常盤潭北は、延享元年七月に歿して居るのだから、この旅行は必ずや寬保二、三、四年の間でなければならない。蓋し岡野氏は春星堂東皐の遺稿に、蕪村の「柳散り〓水かれ石處々」の句を、彼が廿四五歲の頃の作だらうと言つてゐるのから、元文年間と推測したのであらうが、東皐の言ふ所は只おほよそにすぎない。實は此句は蕪村が廿七八歲頃の作であつたのである。蕪村は東北の行脚を終へてまた結城へ歸つて來た。延享二年正月には北壽老人の物故にあつて、之を悼む曲を作つた(瓩參點)。五七九後年の春風馬堤曲を想はせるやうな、風格の高い一種の詩である。之には「釋蕪村」と署してある。當時彼は圓頂緇衣の姿で、或時與謝蕪村傳
蕪村全集六は雁宕の許に寄寓し、或時は僧堂などに起居して居たものであらう。彼が結城の檀林弘經寺に滯在して居たと傳ふるのも、或は此頃であらうか。彼の遺墨に弘經寺の木の葉經のことを記したものがあり(頁參照)、五三〇又弘經寺に蕪村の描いた襖などが殘つて居るのなどから見て、少くとも彼がこの寺に遊んだ事があるのは明かである。一體彼が釋氏を稱して居ることは、この後もなほ寶曆初年の「反古衾」や「夜半亭發句帖」や木葉經の遺墨などにも見えてゐるが、それはもとより必しも浮屠氏の〓に渴仰する信心の比丘ではなくて、多くの俳人が好んで法體するやうに、旅から旅へ飄々としてさまよふ一蓑一笠の身を、暫らく抖撒の境涯に託したまでにすぎなかつたのであらう。しかし彼が西歸後洛東のある寺に居た樣であり、又宮津の見性寺に寄寓したりしてゐるのを見ると、多少經文位は心得てゐたのかも知れない。全くの風流僧とばかりは思へない。それはともあれかくて釋蕪村はなほ數年を結城にとゞまつて居た。彼が結城地方を去つて、西に歸るやうになつた年代ははつきり分らないが、寛延元年板行の「西海春秋(大阪、(大阪、田鶴樹編)に「關東下總連中」として、阿誰と共に川かけの一株つゝに紅葉哉蕪村の句を出し、又一卷の歌仙(即刻區)を卷いてゐるから、この頃まではなほ下總にとゞまつて居た事が知られる。この阿誰は箱田氏、結城附近の關宿境の人で同地の豪家であつた。卽ち當時蕪村は阿誰の許に暫らく寄寓してゐたものと見える。さてそれから後彼が西歸するに至るまでの事は、今文獻の徵すべきものが全くなく、杏としてその消息を知ることが出來ない。恐らくは寛延末年の頃までなほ結城地方にあつて、同地を中心とし下館、境江戶の諸俳士と交游をつゞけて居たものであらう。或は丈羽の別業に暫く世塵を避けて惡戯狸に脅され、或は下館の風篁の家に宿して狐狸の怪を聞き或は又遠く江戶に出かけて知友と酬酢して歡を分つた事もあつたらう。かくて野總地方に歷行すること前後十年、人の許に食客となつたり、雲水の行脚をつゞけたりして畫と俳とに遊んでゐたのであつたが、今や又更に飄々として西に向つて去らうとする與謝蕪村傳
蕪村全集のである。別るゝに際し結城の故友は、「再會興宴の月に芋を食ふ事を期せず、倶に乾坤を吸ふべし」といつて彼を送り、彼またその言をよしとして袂を別つた。風流の坦懷想ふべしである。こゝになほ彼が遊歷時代における畫事について一寸述べておかう。當時の畫風は今結城の弘經寺、中里氏、柴山氏及び下館の中村氏等に藏せられる遺畫數點によつてほぼその一斑を窺ふことが出來る。弘經寺方丈の襖に描かれた梅花と山水の墨繪、杉戶の鳳凰麒麟の極彩色、中里氏及柴山氏藏の山水圖等、何れも無落款ではあるが傳來正しきもので、蕪村が當時の筆たることは疑ひない。而して之等はいづれも寧ろ狩野の畫風に近く、且つ未だ生硬稚拙たるを免れないが、弘經寺襖の繪の如き、構圖雄大筆力遒勁で流石に後年の大成を想はせるものもある。中村氏藏のものには陶淵明三幅對、三浦大輔三幅對等なほ數種の遺墨があるが、之等の作には後年の筆致と頗る相通ずる點が認められる。又同家には文徵明の畫を蕪村が摸寫した圖卷がある。極めて細心に描かれた着色密畫で、當時蕪村が直に元明諸家に參しようとして、いかに一意畫事に精進してゐたかを偲ばせるものである。按ふに中村家藏のものは、同じく結城滯在中でもよほど後に書かれたもので、卽ちかなり長い修養時代を經た後の作であらう。弘經寺の遺作に比して、玆に一段の妙を加へてゐるのは怪むに足りないわけである。その畫風等については、もし彼の畫論を草するならば、詳しく述ぶべきであらうが、今は只傳記中の一節として、之だけにとゞめておく。なほ前記の陶淵明圖には「子漢」の落款があり、三浦大輔圖には「四明」の落款に「朝滄」「四明山人」の印が用ひられてある。當時繪畫にかゝる號を用ひてゐた事がわかり、又寶曆初年の繪に屢見る朝滄、四明の號が旣に此頃からあつた事を知るべきであらう。なほ武藤氏の編になる「蕪村畫集」中にも、當時の作と覺しきもの一二を收めてある。も、西歸與謝蕪村傳
蕪村全集野總の際を歷行すること十年、飄然として蕪村が西に歸つて來たのは何時であつたか。まづ京都の俳書に彼の名が最初に見えるのは寶曆二年の「双林寺千句」であらう。この書は寶曆二年福田練石等の主催で、貞德の百年遠忌を行つた折の追悼集であつて、之によると同年三月十三日東山双林寺閑阿彌亭で興行された法樂十百韻に、蕪村も出三八六、座して居り(八七頁參照)二又百年の枝にもとるや花の主蕪村の一句を手向けて居る。ついで寶曆二年の跋がある夕靜編「菅の風」に、紫野に遊てひよ鳥の妙手を思ふ時鳥繪になけ東四郞二郞蕪村の句を見る。寶曆二年春夏の交、すでに彼が都にあつたことは之等で明かである。然るにこゝに大阪乾氏の藏にかゝる蕪村の書翰で、彼が上京後間もなく結城地方の知友に宛てたものと思はれるものが存する(取るDIO.宛名も蕪村の署名もないが、書中の冬村木立の句は「百歌仙」(旨原編)に出てゐて、寶曆初年の蕪村の句たることが明らかであり、又その書風から見ても彼の書簡たることは疑ひない。而して文中「右之處付にて御登可被下候」とか、「京都所々巡見さて〓〓おもしろく相暮候」とか言つて居るのによつて、彼の上京後まだ多く日を經ないうちに書かれたものであることも察せられる。するとその日附の霜月は、蕪村が寶曆二年の春すでに京都に居た事が明かだとすれば遲くとも寶曆元年の十一月でなければならない。卽ちこゝに蕪村が西に歸つたのは、寶曆元年の冬と推定されるのである。ところが寶曆元年京都で出版された大夢庵毛越編の「古今短冊集」に寄せた蕪村の跋文によると、そこには自ら「寶曆辛未冬東東囊道四九六人蕪村誌」と署してゐる(國勢照)。それでは寶曆元年の冬なほ彼は東都に居たのであらうか。そこに前說と少からず矛盾を感ずるのである。しかしこの跋文の書きぶりから見ると、遙かに江戶から毛越の爲に寄せたものとは思はれない。「毛越笑て余に跋をもとむ」といふのは、蕪村が身京都に在つて、親しく毛越と語つてゐる狀を想はせるも附錄與謝蕪村傳
蕪村全集のではないか。按ずるに當時蕪村はまだ京都に移り住んだばかりで、京都人士の間に江戶下りの俳人として迎へられてゐたのである。自分でもまた東都の俳士として人々に接してゐたので、こゝに「東都」の二字を特に署したのであらう。かの「俳諧古選」(嘯山編、寶曆十三年刊)に、上京後既に年久しき太祇、蕪村の句を、やはり江戶俳人の句間に伍せしめて居るのを思へば、自らこの推測の然るべきを知るであらう。必しも「東都」の文字に泥んで、矛盾に苦しむには及ばないのである。卽ちこゝに蕪村の西歸を寶曆元年冬のことであると斷じて、未だ多く誤る所はなからうと信ずる。時に蕪村は年三十六歲であつた。百萬坊旨原の句集「風月集」(安永五年)に蕪村か京へ上るに餞す藤骨柳に世を折入れよ紙衾とあるのは、按ふに寶曆元年冬、蕪村が上京するのを送つた句であつたらう。又かのとあるのは、又かの或書には「斗藪雲水故人にわかる(の時」と前書のおみ)木曾路行ていざ年よらん秋ひとり蕪村も、或ひは當時雁岩などに對する留別の吟ではなかつたらうか。暫く推測を許すならば寶曆元年晩秋の頃彼は結城を去り、冬江戶の知友と別を惜んで、木曾路から京へ上つて來たのではあるまいか。善光寺の文兆、柳莊、猿左等と相知つたのも、その旅中の事かも知れない。さて上京して先づ彼が旅裝を解いたのは何處であつたか。かの霜月某日付の手紙に「椹木町何屋與八殿迄右之處付にて御登可被下候」と見えるが、それは只書狀の便り所として指定したゞけなのか、當初そこへ暫く足を休めたのか分らない。庵中に聯をかけたいといふ位だから、人の許に寄寓したのでなく、小さいながら早速草庵の主位に(五三〇なつたやうにも思はれる。そはともあれかの木の葉經の遺草(頁參照)や寶曆初年の遺墨に、「洛東間人」の號を屢々見るし、又右の遺草に閑泉亭の百萬遍に詣でたことを言ひ、も、與謝蕪村傳
蕪村全集自ら「愚僧も云々」と稱して居るのなどを見ると、いづれ上京後間もなく東山あたりのさる僧房に釋蕪村として起居することになつたのであらう。しかしもとよりそれはたゞ生活の手段にすぎなかつたので、彼の志す所は相變らず畫と俳とにあつたのはいふまでもない。今書事は暫く之を措き、上京後彼の俳人としての生活について少し述べて見よう。京都の俳壇は蕪村にとつて全く緣遠いものではなかつた。几圭、宋屋、隨古、武然嘯山、竿秋、移竹、羅人等先師巴人の遺弟知友は少からず居る。またかの「我於子亦管鮑の交あり、辭すべからず」といつて、爲に跋文を書いてやつた「古今短冊集」の編者毛越の如き、恐らくは蕪村の東下以前から相許して居たものだらうと思はれる舊知も居た。況んや彼の俳名は、江戶における巴人の高弟として、旣に世に知られて居たのである。京都の俳士はこの新來の東都俳人を、決して冷然と迎へはしなかつたであらう。蕪村自身もまた上京匁々「古今短冊集」の跋に大いに氣焰をあげ、豪富を鼓吹し孤う。陋を馳驅する未練の宗匠を罵倒して、識者の見を示した。しかしかの霜月某日付の手紙に「俳かいも折々仕候、いまた何かといそがしく取とゝめ候事も無之候、一兩年なしみ候はゝ一入面白候半とたしのみ罷有候」といつて居る通り、上京した當座は身のおちつきや何かで、俳事に沒頭する事も出來なかつたであらう。洛北に遊んで鴛に美を盡すらん冬木立百歌仙」)等の句を得た位であつた。かくて翌年三月には、前にも述べた通り、練石等主催の貞德遠忌に列して貞門の人々とも交り、後蕪村門に歸した川田田福等とも相知るに至つた。彼が俳人としての生活は必しも多事といふ程でなくとも、また交友との唱和、折にふれての口吟など決して少くはなかつたらう。而して當時の吟たることが明かな數句(伊勢氏別) よよてててその句風を見ると、陳腐を去らうとする努力は、やはりこゝにも認めることができるが、寧ろ奇巧を求めて却つて詩趣に乏しい感がある。しかし彼が相前後して西上した太祇と共に、何等かの新味を京都の俳壇に寄與したことは疑ふべ與謝蕪村傳
蕪村全集三八くもない。丈石の編した「俳諧家譜」(寶曆元年刊)によると、當時京都には點者として一家をなすもの約四十人、各々門戶を張つて中々盛んな有樣であつた。就中貞門は古くから行はれて、門戶も最も廣いやうであるが、さきに仙鶴や淡々がやつて來て新勢力を扶植し、巴人も相當の門下を殘して去つた。今またもし蕪村太祇が相應じて起つたならば、必ずや俳壇革新の氣は夙く動いたのかも知れない。しかし蕪村が放浪の癖はなほ止まなかつた。洛東に居を定めてまだ幾年もたゝないのに、また一管の彩毫を載せて、彼は飄然と丹後へ旅立つた。與謝に遊ぶ蕪村が與謝に遊んで宮津の見性寺に三年餘りを送つた事は、「新花摘」の中に自ら記して居るし、「から檜葉」にも「よさの浦天の橋立の邊りに三とせの月雪をながめ」とある。それで西歸後丹後地方に三年程遊んだ事は明かであるが、その京都を去つた年代ははつきり分らない。彼が與謝から再び歸洛するをり書いものと思はれる天橋圖讃五六二(亞參照)に、「丁丑(寶曆七年)九月」とあるから、それから逆算してまづ寶曆四年頃といふ見當はつく。而してこの寶曆四年は丁度先師巴人の十三囘忌に當るので、東武では雁宕、阿誰、大濟等が「夜半亭發句帖」を編し、京都では宋屋の主催で追善集「明の蓮」が出來た。蕪村も「夜半發句帖」には遙かに跋文を寄せてゐるが、「明の蓮」には彼の句を見ない。彼が京都に居てこの追悼に加はらない筈はないのだから、按ふにその頃彼は已に與謝へ去つて居たのであらう。そして發句帖の跋は忌日以前早く雁宕の許へやつてあつたものか、或は丹後から送つものでヾもあらう。ともあれ彼が丹後に去つたのは、之等に徵してほヾ寶曆四年の春頃と推定されるのである。與謝は天橋の勝を控へて、古來騒客の來訪する者が多く、邊僻の地としては割合に風流の士にも富んでゐた。見性寺の竹溪和尙とは、恐らく東山の僧房時代からの知り合であらうが、この竹溪和尙を始め、眞性寺の鷺十和尙、無緣寺の兩巴和尙等何れも俳諧を善くしたので、蕪村が見性寺に落ちつくと間もなく互に相往來するに至つた。附錄與謝蕪村傳
蕪村全集ことに鷺十は「鷺十上人發句集」(寛政四年刊)を殘し、自ら「橋立の秋」(明和三年刊)を編した程で、俳人としても相當の伎倆を有し、又頗る客を愛した。その他「丹後の名寄」(安永九年序)を編した東陌、のち蕪村に入門した路景等も居る。京都を去つて風交必しも寂寞たるを感じなかつたであらう。かの三僧と親交があつたことや、同地の俳人と唱和した有樣などは、今宮津に殘つて居る漫畫讃(三七七)一六課程橋立歌仙の卷(夏參照、二八八等によつて、その一斑を知ることが出來る。又この歌仙のその一で知らるゝ通り、寶曆五年夏には雲裡房もこゝへ節を曳いた。蕪村は雲裡が武府の中橋にやどりして居た頃から識つて居たので、互に久濶を叙し、雲裡の發句で同地俳人と共に歌仙一卷を興行した。かのみじか夜や六里の松に更たらずといふのは、當時雲裡と別るゝに際して、蕪村が送つた句であつた。彼は又宮津から丹波の加悅へ出かけて、夏川を越す嬉しさを吟じ、白道上人の草室を訪ねて日暮るゝまで物語りしたこともあつた。池田稻束氏の藏する蕪村の遺草に白道上人のかりにやどり玉ひける草屋を訪ひ侍りて日くるゝまてものかたりしてかへるさに申侍る蟬も寢る頃や衣の袖疊前に細川のありて潺湲と流れけれは夏川を越すうれしさよ手に草履右蕪村書と記したのがある。夏川の句は蕪村句集に「丹後(丹波の誤)の加悅といふ所にて」と前書して出てゐる句である。加悅は宮津の西南四里位の所で、白道上人はやはり寺の住職であらう。延享頃の俳書に巳にその句が見えてゐるさうである。蟬もかくてこの地に淹留すること三年、秀麗明媚な與謝の風光はいたく彼の氣に入つたものと見えて、都の知友とすらも殆んど音信を絕つて、悠遊自適して居た。さればかつて彼が丹後に遊ぶや、與謝蕪村傳
蕪村全集四二送朝滄遊丹後丹陽佳勝地、遠別聊微吟、松樹爲洲逈、樓臺傍岸深、大山春雪白、北海暮雲陰、江戶兼京洛、應分兩地心、と一詩を裁して送つたその友三宅嘯山は、寄懷朝滄卽蕪村也時在丹後馬場艸閣採離盃、北地冥鴻去復來、江上三年双鯉絕、指頭幾度計君囘、發猊渡雨隨潮暗、如意峰雲擊月開、萬水千山能識否、新詩欲寫思難裁、と更に一律を賦して故人戀々の情を示して居る。二詩共に「嘯山詩集寫本四册、嘯山の自」(筆らしい帝國圖書館電車)に出るもので、嘯山の居馬場草閣に離盃をあげたまゝ、實に江上三年雙鯉絕えて居たのである。元來蕪村が與謝に遊んだのは、彼の單なる放浪癖のみによつて出かけたのではなかつた。さりとて京都の俳壇が厭はしくなつたからといふのでもない。按ふに彼がこの邊僻にとゞまること數年に及んだのは、暫らくこゝに世塵を避けて詩想を松樹爲洲逈、樓臺傍岸深、大山春雪白、北海暮雲陰、練らうといふよりは、寧ろ自然の美景に接して畫題に富まうと欲したのであつた。彼の繪畫について〓究してゐる畫家の言によれば、後年蕪村の描いた山水木石のうちに丹後地方の風光を偲ばせるものが極めて多く、與謝の自然がいかに彼の藝術に大きい影響を及ぼしてゐるかを物語つて居るといふ。卽ち蕪村の三年悠遊の意が那邊にあつたかを知るべきである。かの嘯山の詩中に見ゆる朝滄の名は、前にも述べた如く彼が結城時代から用ひた畫號で、宮津淹留中の畫にもまた、朝滄、四明の落款を最も多く見るのである。嘯山が自ら詩に題するに、蕪村の俳號を以てしないで、朝滄の畫號を用ひた所にも、當時の蕪村が俳よりもむしろ畫事に專らであつた事を思はせるではないか。畫人としての蕪村はかくの如く宮津時代を彼の繪畫の重要な一轉期として、歸洛以來その技頻りに進んだものと思はれる。隨つてこの期の彼の遺作は畫人蕪村の〓究者にとつては、最も興味深い資料であらう。今宮津地方に殘つてゐる彼の遺畫中注意す洛東間人朝滄子べき作品の二三をあげて見ると、宮津黑田氏藏の屏風半双靜御前舞の圖(描と落欵し、朝附錄與謝蕪村傳
蕪村全集四四滄、四明山人の)、一畫ごとに四明、四明圖等と落欵し二印を捺す加悅杉本氏藏の六曲屏風一双十二神仙圖(馬年、四明山人、朝滄等の印を用ふ。施藥寺藏屏風一双神仙圖(昭明)は名鉄あり印を用ひてない等がある。靜御前圖は着色の歷史畫で構圖やや散漫であるが、人物の顏貌姿態に工夫のあとが見える。十二神仙圖は墨畫で構圖筆力ともに雄大遒勁、彼が當時の作中の代表的逸品といふべく、施藥寺の神仙圖また旣に後年の筆致を偲ばせるものがある。又篠山町齋藤氏の藏する神仙圖二幅對も四明山人及び四明圖の落款があつて、當時の作と推定され、筆力雄渾を極めて居る。なほその他怪物圖譜、三和尙漫畫の如き飄逸な俳畫的のものも多少殘つて居る。當時蕪村は畫號として朝滄と四明とを最も多く用ひて居るが、天橋圖(池田、魚治氏藏)や石川村金谷氏藏の茶店圖などの俳畫風のものには、囊道人蕪村とも署して居る。その他かの十二神仙圖、天橋圖等には馬年(年と推讀される)の印が用ひられてあり、金谷氏藏の人物略畫には「孟溟」の落欵、朝滄の印があり、舞鶴土居氏の藏には「魚君寫」と落欵し、馬年、四明山人の二印が捺してある。馬年、孟溟、魚君等は蓋し當時折々用ひて見た異號であらう。なほこゝに注意すべきは繪畫の上における彭城百川と蕪村との關係である。百川は集四四百川は尾張の人、平安に住み漢畫をよくし、寶曆三年五十六歲で歿した。本邦元明の畫格を宗とする者、彼を以て先鞭となすといふ。又俳諧も嗜んで美濃派の流れを汲んだ。嘗て與謝に遊んで橋立の秋)橋立の秋)呼子鳥も渡る橋あり與謝の海の吟があり、又俳僧鷺十の家に寓して蕉翁の像を描いたこともある。蕪村はその與謝に遊ぶ前から百川と相識つてゐたかどうか明かでないが、此地に滯在中百川の殘した書簡篇七九、之を摸した翁の像を描いたり、又かの天橋圖讃の文を畫を見たいといひ九頁參照作つたりしたのを見れば、彼がのち百川に私淑してゐた事は明かである。されば蕪村が百川に師事して居たといふ確證はないが、先輩として畏敬し且つその繪畫制作に幾多の示唆をうけた事は推して知るべきであらう。「畫乘要略」に「大雅蕪村諸輩相繼競興者百川力也」といつてゐるのは誠に過言でない。而して「彼は蓮二に出で蓮二によ又「俳諧に名あらむことを求めざらず、我は晋子にくみして晋子にならはす」といひ、附錄與謝蕪村傳
蕪村全集四六るも同じ趣なり」といつて、自ら百川に比してゐる所にも、より畫家として立たうとした志が見られる。歸洛寶曆七年晩秋、鷺十の閑雲樓中に天橋圖讃を作り、せきれいの尾や橋立をあと荷物と留別の一句を殘した蕪村は、再び洛城の東へ歸つて來た。かくて「から檜葉」に「ふたたび花洛にかへりて谷氏を與謝とはあらため申されし也」とある如く、本姓谷口を改めて與謝とした。蓋しかの地の風光を愛するあまり、第二の故〓として之を記念するために、謝氏を稱したのであらう。歸來彼はやはり俳諧に專らならずして、寧ろ畫事に向つて精進をつゞけた。寶曆十年の作になる〓蔭双馬の圖(「庚辰冬月法松雪道人寫於三菓軒謝長庚」と落欵してある)の如き、玆には已に稚拙粗漫の氣を全く脫して構圖着色共に老練の風を見ることが出來る。歸洛後數年を出でないで早くこの進境を示しまた彼が俳に名を求めむて居る。かくて寶曆十三年八月にはかの有名な六曲屏風一双野馬の圖(京都市立博物館藏。半双には「東成謝長庚寫於碧雲洞中」、半双には「癸未秋八月寫於三菓軒中東成謝春星」と落款してある)が成つた。之は蕪村が始めて絖地に畫いた時の作などゝいふ逸話が傳へられてゐる位で、特に意を用ひた優秀な大作である。野馬の姿態、木石の布置、着色描線等すべて南宗大家たるの畫格を十分具へてゐる。按ふに今や彼は畫家としてすでに一家をなし、之を產として生活の道も立つやうになつたので、東山の僧房から去つて市中に居を定むるに至つたものらしい。所謂三菓軒、碧雲洞が當時何處であつたかは、今之を尋ねる由もないが、洛東間人の號はもはやこの以後見ることが出來ない。なほ寶曆末年明和初年の作には、其他溪山歸漁圖、騎馬涉河圖、觀瀑山水圖、肅何追韓信圖、玄德訪孔明圖等の傑作が殘されてある。畫號は多く謝長庚、春星が用ひられて居るが、やはり當時の作と推定されるものゝ中、俳畫風のものには趙居或は趙平居といふ印を用ひたものが二三ある。附錄與謝蕪村傳
蕪村全集四八丹靑の技はかくして愈々妙境に入つたが、この間俳諧も全く捨てゝ顧みないのではもとよりなかつた。京都には彼の歸洛を迎へ待つ雅友も多かつた。太祇、道立、蝶夢等とも相往來した。彼について俳を學ばうとする人もかなりあつたらしい。俳人としての生活も全く無事ではなかつたのである。歸洛した年の寶曆七年には同門の先輩宋屋の古稀の賀宴が催された。その記念出版たる「机墨」に蕪村の句も見えて居る。翌八年は先師の十七囘忌に相當するので、宋屋の主催で法會を執り行ひ、追悼集「戴恩謝」が編まれた。折から結城の雁宕もはる〓〓京部へやつて來てゐた。蕪村は久しぶりで故人と相會し、或はかの倶に乾坤を吸はうと言つた別離の言を思ひ出し、或は石町に霜夜の鐘をきいた昔を語り合ひながら、先師の冥福を祈つた。寶曆十年には雲裡坊に筑紫行脚をすゝめられて、秋風の動かして行くかゝし哉とよんだが、さはる事でもあつたのか同行しなかつた。雲裡はその年晩秋下旬病をおとよんだが、して三百里の旅程を踏破して歸つたが、翌年四月には病革つて歿した。その追善歌仙には蕪村も珍らしく美濃派の人々と一座してゐる(記號)。ついで寶曆十三年蝶夢が松島に遊んだ紀行「松島道の記」にも、蕪村の句が見えるが、其他寶曆末年の蕪村の俳諧については、多く知る所がない。文獻資料の佚乏にもよるであらうが、要するに當時の蕪村が俳人として活躍する所があまりなかつた一證とも見られよう。さもあれ寶曆十三年刊の「俳諧古選」に、太祇と相並んでその名を列ねて居るのは、彼の江戶俳人としのて名聲なほ太祇と相若くものがあつたことを思はせる。又かの人口に膾炙する春の海ひねもすのたり〓〓哉の如きも、實に當時の吟であつて、老孰渾厚の句風を示してゐる。の如きも、南海に遊ぶ蕪村はうちひさす都を終の栖と定めてからも、なほ畫俳の行脚に杖を曳くことは絕附錄與謝蕪村傳
蕪村全集五〇たなかつた。しかし與謝から歸つて後暫くは、あまり長い旅に出かけたことはないやうである。恐らくその足跡は京畿の近傍を多く出でなかつたであらう。然るに明和の初年になつて、彼は遠く海を渡つて南海に遊んだ。丸龜妙法寺に藏する蕪村の遺畫中「明和戊子夏四月謝春星寫」と署したものがあるので、彼が明和五年の頃この寺に滯在してゐたことが知られる。しかし彼が讃岐地方へ來たのはこの時が始めではなかつた。明和四年春に出した望月武然の歲旦帖「春慶引」に、南海よりの書音に一筋も奔たる枝なき柳かな蕪村とあるから、少くとも明和三年冬には彼は四國に渡つて居たものと見える。しかもそれより早く同年の春、すでに彼が京都に居なかつた事は、宋屋追善集「香世界」(明和四年)に出てゐる蕪村の追悼句の前書(頁參照)によつて知られる。五三一その「餘所に過行」といふのは果して何處であつたか、之だけでは分らぬが、前記の「春慶引」によつて之も恐らく四國地方滯在のことをさすものと推測される。するとかの門人召波が送蕪村先生之讃州春泥發江山の助況んや秋添へて(句選發といつて、師の畫俳が江山の間に愈々神采をますべきを祈つたのは、明和二年秋のことではなかつたらうか。暫らく推測のまゝに述べて見ると、彼はこの年秋色濃かな時京都を立つて、灘福原兵庫地方を經、讃岐にやつて來たのであらう。かくてとゞまること一年有餘、明和四年の春には一旦歸京したのである。それはかの「香世界」の追悼句に、彼がこの年三月宋屋の碑前に罪を謝したことを述べてゐるので分る。而して前記妙法寺藏の遺畫に「明和戊子夏四月」の落欵があるのは、今屏風に仕立てゝあるが、もと襖に描いたものだといふから、後で京都から送り越したものとも思はれない。卽ち明和五年四月には再び南海に遊んで、妙法寺に足をとヾめて居たものであらう。さて今妙法寺に傳へる所によれば、蕪村は始め丸龜に上陸して琴平に至り、そこにするとかの門人召波がも與謝蕪村傳
蕪村全集五二滯在中妙法寺の眞觀上人と相知り、遂に暫らくその寺に寓することになつたのであるといふ。弘化年中讃藩の文學尾池大隣が、蕪村の遺畫に箱書してゐる文章の一節にも「明和中蕪村客遊於讃之象山、數往來龜城、與正因山主眞觀上人友善、曾來寓者數月、乃糊紙干齋壁及屏障一畫畫焉云々」と述べてある。當時蕪村が寺に於ける生活は極めて簡素なもので、弊衣蓬髪或時は酒に親しみ、興至れば乃ち彩毫を揮つて放縱拘はる所がないさまであつたといふ。寺庭の蘇鐵を襖に描いたものであるといふのに、「階前闘奇」と題し「醉春星」と落欵して居るのなど、その傳說の狀を偲ばせるものがある。今妙法寺に傳ふる蕪村の遺墨を列擧して見ると、次のやうなものがある。○南極老人圖一幅、「虛洞寫」と落欵し、「發墨生痕」及び字體不明の遊印を用ひてある。圖は淡彩を施し、大きい强い線で描いてある。弘化丙午秋日にかいた尾池大隣の箱書がついてゐる。大隣も言つて居る通り「虛洞」の號は蕪村の他の畫に全く見ない、恐らく讃岐滯在中一時用ひただけの號であらう。○竹圖一幅.「擬董其昌虚洞寫」と落欵し、東成、春星の二印を用ひてある。墨畫で氣韻高く一見爽涼の氣を生ぜしめる。前幅と共に尾池大隣の箱書を添ふ。○寒山拾得圖襖四枚、無讃無落欵。○山水圖屏風、「明和戊子夏四月謝春星寫」の落欵があつて、印なし。之は次の蘇鐵圖と共に、もと襖に描いたものであつたのを、のち剝落をおそれ改裝したものである。○蘇鐵圖屏風、「階前闘奇醉春星」と題す。○渡唐天神圖一幅、無落欵であるが蕪村筆と傳へてゐる。しかし一見昔景の松梅など全く狩野風の畫で、蕪村らしい畫風ではない。慶應三年九月芙蓉山人の箱書が添はつてゐて、「明和庚寅秋、謝蕪村寓于丸龜妙法寺爲住持眞觀上人、寫渡唐菅公云々」といつて居る。もしこの傳を眞とするならば、明和七年卽ち蕪村が夜半亭をついだ年にもまた讃岐に遊んだことゝなる。隨てかの召波の蕪村先生を送る句も、或はこの三遊の折のことかも知れない。何にもせよ蕪村が讃岐に旅行したのはずつと引續き滯在したのではなく、前後數囘に出かけたのではないかと思はれる。それは更に讃岐地方に殘された蕪村の遺墨の研究が進むに從ひ、明かにされることであらう。武藤氏編「蕪村書集」中の山水畫に、「做錢貫筆意寫作象頭山下臨川亭東成謝春星」としたものがある。臨川亭とはどこであらうか、之等も知りたいものである。なほ妙法寺の蕪村遺畫について後人の記したものがあるから、よほど後のものではあるが、參考のため採錄して見よう。讃州丸龜妙法寺眞觀上人嗜畫、與謝蕪村爲方外之交、明和中蕪村遊于金陵也、數々往來遂迎寺欵待、蕪村大感激乃客殿隔裱數十枚自畫自帖、以答知己之德、距今玆文久三年癸亥之歲殆百年、漆剝過半不久而名畫之は次の蘇鐵圖と共に、もと襖に描い參考のため採錄附錄與謝蕪村傳
蕪村全集五四將剝盡、現住眞延上人深慮之、乃改制屏風三雙懸軸三幀永爲寺什焉、然而佛殿隔稜畫寒山拾得者、絕無濾剝之虞、人物生動氣韵逼眞、洵爲逸品、故唯此畫依舊耳改裝者雖悉幽雅絕妙、特以山水及岩石鐵薰、爲擅美完璧矣、癸亥之冬予南遊訪眞延上人、歷覽諸什讃歎之余、遂應上人之需、志其顯末副畫、以傳悠久矣夫眞觀上人之謀始固善矣、眞延上人之成其終、是亦可不謂美哉、盡菁美爲名畫之副、以爲後世之佳話、兩上人之風致孰可不欽企乎哉、文久三年仲冬上浣撰書於正因山南窓之下芙蓉山人源友德一体蕪村の四國行脚はかの釋蕪村時代の漂浪生活とは自ら趣を異にしてゐた。明和五年三月刊の「平安人物志」によれば、當時彼は平安の畫家として、應擧凌岱等と共に、謝長庚謝長庚字春星號三菓亭四條烏丸東へ入町與謝蕪村と名を列してゐる。卽ち明和初年に至つては蕪村の畫名漸く高く、四條鳥丸に一家を構へてすでに家庭の主となつて居たのである。結城や與謝時代のやうに遊歷數年に亘つて諸方に流寓するといふわけにはゆかなかつた。だからこの旅行は、恐く彼が最も長く足をとゞめて居たといふ金毘羅の雅友たちに招かれて、再三出かけたのであらうこゝに於て思ひ當るのは、明和初年以後引續き出てゐる武然の「春慶引」に、金毘羅連中がかなり勢力を振つてゐることである。武然は宋屋の門人でもとより蕪村とは親しい仲であつた。その緣故で蕪村も金毘羅の暮牛、柱山等の許に遊ぶことになつたのではあるまいか。しかし今同地方における蕪村の俳諧に關しては、土地の口碑に三日月の牙とぎ出せ象頭山といふのが、當時の蕪村の吟だと傳へる外文獻の徵すべきものがない。たゞ彼が高松にも暫く足をとゞめて、あるじ夫婦の隔なきもてなしをうけ、炬燵出て早足もとの野川哉と留別の句を殘したことは、「蕪村句集」等によつて纔に知られる。明和五年冬には武然も讃岐に遊んで師走廿八日に歸京してゐる( /慶引による明和六年春)から、蕪村も或はその時かの句を殘して共に歸つたのかもしれない。ともあれ彼の讃岐遊歷中の事蹟については、たゞ彼が高松附錄與謝蕪村傳
蕪村全集五六今後の〓究にまつことが多いであらうが、及したとは思はれない。その旅行によつて彼の畫俳に非常な影響を夜半亭繼承明和末年は蕪村にとつて畫俳ともに生涯の一轉期を劃すべき重要な時であつた。彼は明和六年の正月「鬼貫句選」(太祇編)の跋を作り、ついで大祇、嘯山、隨古の三子を催して「平安二十歌仙」を出版させ、自らその序をものした。又嘯山と賈友とで編した宋屋の句集「瓢簞集」に宋屋の像を描いて寄せたのもこの年である。彼がこの頃漸く俳事に熱心で、俳友との交渉もかなり多くなつてゐた事を窺はせる。果せる哉、翌明和七年の春、彼は先師夜半亭の統をついで點者の列に加はり、こゝにまた畫家たるのみならず、純然たる俳人としても立つに至つたのである。當時の事情については「續一夜松後集」(天明六年、凡董編)の序に、ふりにし年をかぞへ見れば、十づゝ五つあまりの昔宋阿老人京師にいたり、一夜松集を撰ぶの功終て、俳諧の業を高弟なる儿圭にゆづりて東に歸、石町の鐘樓のもとにト居しみづから夜半亭と號す。そのころ蕪村壯年にして隨仕し、門人のひとりたり。宋阿老人身まかるの後、村東都を退き花洛に住し、漢畫を產とす。或とき人有て此道の宗匠たらん事を勸む。村いへらく、余が師の俳諧を前に繼る几圭が男凡董我門に在て、永く先師の〓を守らば勸に應ずべしと。爰においてその人董に告て此詞に隨はしむ。よて明和の比村師の夜半亭を都に移し、且師意に倣ひて續一夜松を輯集せん事を欲すといへども、其志を果さで歿せる後三年ありて董東武に赴きいの鐘樓の下に旅亭を設、師が志を追ふて再續一夜松集を撰ぶ云々と井上重厚が述べてゐるのでほヾ分る。按ふに蕪村は同門の先輩たる几圭が夜半亭をつぐべきであつたのにその事なくして歿したので、之に憚つて圭の遺子几董を三世夜半亭たらしむべきことを條件とした上で、人々の慫慂に從つたのであらう。かくて彼は花守の身は弓矢なきかゝし哉と自分の不才を謙遜しつゝ、室町通綾小路下ル町の寓居に二世夜半亭の文臺を開いた。「續一夜松集」には右の句をのせて、「明和八年辛卯春三月京師に夜半亭を移して文臺を與謝蕪村傳
蕪村全集五八ひらく日」と前書がしてある。卽ち彼が文臺開きの年を明和八年としてゐるのだが、之は恐らく凡董の誤であらう。彼が點者の列に加はつたのが明和七年の春であることは「俳諧拾遺譜」(十口編、明和八年正月刊)の明和庚寅在京現存點者中に、蕪村寓舍與謝氏、室町通綾小路下町當春加點列由、雖未告來任風聞而記之。とあるので明かである。但し之は風聞に任せたのでなほ疑ふ餘地はあるが、明和八年の春に出た蕪村の歲旦帖に旣に夜半亭と署されてあり、又彼の筆になる黃石公王猛の二幅對(京都藤原氏藏)に「明和庚寅秋八月寫於夜平亭中謝春星」とあるので、明和七年中に彼が夜半亭を襲いだ事は確かである。文臺を開く日、當時彼の門にあつた田福馬南、召波等はおの〓〓賀章をさゝげて師の前途を祝福し、凡董も「春風や楫をてにはの湊入」とよんで、蕪村の〓をうけることになつた。蕪村が夜半亭をついだ時、後向の自像を自ら描いて、それに「花守の身は弓矢なき案山子哉」の句を自讃した一軸(京都伊藤氏藏)がある。當時の狀を偲ぶべき好資料で、且つ月居と百池の裏書が添うてゐる。左にその全文を錄して〓究資料の一端に供へよう。先師京に出て文臺開の日の口號なる書畫ともに眞跡疑跡にわたらず、證とす。鳥おとろかす寄による春よりて狗尾を以て貂につぎてこれが月居(花押)とろかす寄による春月居の證とせしあらましになほ〓〓しければ爰にい老師蕪村翁明和のはじめ文臺を聞き給ひしくだりは、はず。其さちに門下のたれかれの賀章等を無覺束もかたり出侍るを、蘆家のうしされば夫をかい付よと需給ふ。畫蛇添足ともいふべし、されとも固辭すべきにもあらで田福撞初の聲は霞まし夜半亭馬南山々のあとから不二の笑ひ哉召波木々の芽の藍より出よ靑によろり鐵僧こちら向に比叡のさくらも咲にけりル董春風や楫をてにはの湊入自笑櫻戶や今朝しも明る二見潟百池萠出る色にひろがる蕨かな此外あまたの門葉の句々あなれ共、星霜五十年を經て老のものわすれにまぎれて、筆を差置き畢。附錄與謝蕪村傳
蕪村全集月居か脇句にならひて第三墨かはく硯に水をぬるませて時年七十有一門生百池謹書百池が七十一歲といふのから推せば、之は文政元年にかいたもので、明和七年から正に四十八年を經てゐる。芦家のうしといふのは芦蔭舍三世笠齋のことではあるまいか。とに角之で蕪村が文臺開の當時の狀を些か窺ふ事が出來る。田福、馬南、召波等がその頃門下中の先輩であつて、自笑、百池もすでに早く蕪門に歸して居た事なども分る。當時几董は巳に三十歲に達してゐるから、父凡圭の感化をうけて早く俳諧にも親しんで居たらう。しかし師祖亡父の後を承けて專門の俳人たらんと志したのは、やはりこの頃であつたと思はれる。明和初年以來殆んど每年出してゐる武然の「春慶引」にも、その明和七年のものに初めてよこれたる雪や殘りて川の音子曳陽炎や消たてもなき野風呂の火ル董と子曳の句と相竝んで出てゐる。又彼が歿するまで書き續けた自筆日記の第一册を「日發句集」と題して、の發端に巴人、几圭、蕪村の句數十章をかゝげ、俳諧修行の草稿を作つたのは、明和七年夏六月のことである。以てその間の消息を知ることが出來よう。卽ち「續一夜松後集」の序に述べてある通り、明和七年蕪村立机と共に、その門に入り俳諧修行に志したのであつた。又馬南(後の大魯)も前記明和七年の「春慶引」に始めてその名を見るから、この頃から蕪村に接近したものらしい。なほ百池の裏書に「明和のはじめ文臺を開き」とあるのは、「から檜葉」に「明和のはじめ京師に再び先師巴人の業をつぎて夜半亭と號し」とあるのと同じく、只大まかな言ひ方にすぎない。「から檜葉」の草稿を見ると最初に「明和辛卯のとし京師に文臺をひらきて先師巴人の號を次夜半亭と號す」と書き、次に「明和庚寅のとし京師に再ひ先師巴人の門をひらき夜半亭と號す」と改めてある。庚寅をはじめ辛卯と思ひ違ひし(「續一夜松後集」に蕪村の文臺開を明和辛卯としたのも、やはり几董の思ひ違ひであつた事が之で分る)て記し、最後に年代を明示するのが歷史的記述のやうで面白くないものだから、更に「明和のはじめ」とぼんやりいつたのである。花守の吟が明和七年の作たることを、こゝに明和のはじめとあるので疑ふ必要はない。なほ若州早瀨浦魚商人佐左衞門妻いとといふ者が、八十餘歲の舅に孝養を盡したことが、明和七年春藩主に聞え賞せられた。それで同〓の三宅宗春が之を發句につくり、諸方からも句を乞うて編した「孝婦集」(明和八年刊、明和七年十月嘯山序)といふ俳書がある。その中に蜂蜜に根はうるほひて老木哉夜半亭蕪村とあるのもまた、夜半亭襲號が明和七年春たることを證する一資料であらう。蕪村がかくして始めて文臺の主となつた時、彼の年齡まさに五十五。人は彼の大才にしてこの年までなほ宗匠の地位を贏ち得なかつた事を怪む位であらう。しかし彼は附錄與謝蕪村傳夜半亭蕪村附錄與謝蕪村傳
蕪全集六二前に述べた如く、西歸以來寧ろ畫事を專門として居たので、畫家としては早く平安の一人物たる名聲を得て居た。俳諧とても自ら文臺の主とならうと思つたら、この時を待たないで夙く立机する事はもとより容易であつたらうが、別に彼はそれを强ひて望まなかつたのである。然るに今や彼の周圍には、彼について俳を學ばうとするものも漸く多くなり、且つ彼自身にも些か生活の安定を得ると共に、畫事の外俳諧に親しまうとする氣持が少からず動いてゐた。折から人の勸めに任せ、凡董をして長く我門に在らしめる事を約して、こゝに先師の後を襲ぐことになつたのであらう。しかも之が蕪村の盛名を後昆に馳せさせる一大機緣となつたのであつた。彼に安永以後の生涯が殘されてなかつたとしても、畫家としての謝長庚はなほ識者の間に知られて居たらう。かし俳人蕪村の名は遂に世にあらはれずして終るのであつた。況んやその繪畫に於ても,彼の作に田園趣味と漢詩文の趣味とが巧に結合されて、彼獨特の神采が發揮されて來たのは、やはり明和末年以後のことであつた。もとより已に一家の伎倆を有し、加ふるに老情懶惰なりといへども老當益壯と、常に伏波將軍が語をつぶやいたといふ彼のことだから、老來益々矍鑠として畫事に精進し、以てその大成を見るに至つたのである。しかしこゝに夜半亭の統をつぐべき機緣が齎らされて居なかつたら、それは結局只畫事の大成に終つたのみで。俳人としての大成は遂に望まれなかつたのかもしれない。想うてこゝに至れば、この二世夜半亭を號するに至つた一事は、蕪村の俳名をして畫名と共に不朽に傳ふべきで一大因緣をなすものであつた。さて蕪村が文臺を開いてのち、夜半亭宗匠としての活動ぶりを見るべき第一の文獻は、彼が明和八年の春自ら門人知友の句を輯集して出した歲旦帖であらう。蓋し之は彼が夜半亭を號した一種のひろめとも見るべきものである。惜しいかな、この歳旦帖は今傳はるもの數丁を缺く零本(電話本局)刻されてある書梧桐氏の蕪村)であるが、なほその大〓を知るには差支なく、蕪村〓究の資料としては貴重なものである。まづ卷頭蕪村、子曳、召波三吟の三ッ物に始り、門人としては馬南、鐵僧、烏西、晋才、几董、自笑、田福與謝蕪村傳
蕪村全集六四斗文等知友としては太祇、竹護、雅因、呑獅、銀獅、渡牛等の句が出てゐる。又地方からは福原の貝錦、沙月等、兵庫の水翁、金毘羅の暮牛、柱山、伏見の鷺喬、雨谷、鶴英等が加はつてゐる。浪花の鯉長、江戶の梅幸、雷子、慶子等俳優の名を見るのも面白い。存義、買明、樓川、百萬等江戶の故友も遙かに吟を寄せてゐる。以て當時夜半亭の門人交游の大體を知ることが出來よう。而して蕪村の句は、なほこゝに彼の大成後の特色を十分に見るに至つてはゐないが、出る杭を打たうとしたりや柳かなうすぎぬに君がおぼろや峨眉の月餅舊苔の僕を削れば風新柳の削掛の如き自在な句境を示してゐる。又太祇、几董、馬南等と共に興行した歌仙二卷(頁參照(三〇一の如きも、所謂蕪村調を確立すべき過渡期のものとして、興味深いものがある。この年彼は友人太祇を失ひ、門人召波、鶴英も相前後して歿した。之は彼にとつては少からぬ損失であつたらう。ことに召波の如き俊秀を失つたのは、夜半亭のため誠に惜むべきであつた。しかし翌明和九年には蕪村七部集中に收められてある「其雪影」(凡董編)が世に出された。之は元來几董の父凡圭の十三囘忌追悼として編んだものであるが、その一半は蕪村一派の代表的撰集として見らるべきものである。卽ちこゝに始めて蕪村及その周圍の人々の作が、かなり汎い範圍に亘つて輯集されることになつた。しかし几董は主として先人の知己、阿叟の門流たることを標準として諸家の詠をとつたのであるから、集中の作者はなほ純粹な意味で蕪村一派と稱しがたいものも頗る多い。必しも蕪村の新調に共鳴した人々ばかりではないが、蕪村及その直系門流たる子曳、几董、馬南、九湖、鳥西、自笑等は自らその中心となり、加ふるに太祇、嵐〇六THE三山、雅因等の知友が之に相應じてゐる。明和九年春の武然歲旦帖に見ゆる歌仙に、蕪村が銀屏にわたる浮雲、鬼鹿毛の汗、百姓駕籠に居眠る甲斐德本等の題材を捉へてゐるのは、之を明和八年歲旦帖中の「麁相いたした大事ござらぬ」、寄方の小胯を附錄與謝蕪村傳
蕪村全集六六ねらふ猿眼」などの口質に比して、すでに著しい趣味の變遷を見るのであるが、傾向は「其雪影」以後益〓濃厚となり、こゝに遂に彼の大成期に入つたのである。この大成期蕪村が所謂天明調の盟主として、俳壇に異彩を放つに至つたのは安永以後のことであつた。安永二年には七部集の第二たる「明烏」の編が成つた。凡董の序文は、まさに蕉翁の粉骨を探り、不易の正風に眼を開いて、大いに新聲をあげようとする意氣を示すものであつた。而してこの「明鳥」は、もはや純粹な蕪門一派の集と稱すべきものでしかも江戶の蓼太、加賀の麥水が遙かに句を寄せ、曉臺、樗良、二柳、蝶夢等もまた之に相應じてゐる。卽ち俳壇革新の第一聲は、こゝに力强く叫ばれてゐるのである。この年夏は下河原に舊國、丈芝、呑溟等と會し、九月には樗良の上京するに會つて、夜嵐山居にかの名高い一夜四歌仙を興行した。蕪村の特色とする高雅な古典趣味と、豐麗な感覺美とは、こゝに遺憾なく發揮され、凡董、樗良、嵐山の徒またよく之に相和して目を奪ふやうな美しい四卷の繪卷物が展開された。蕪村の風調はこゝに至つてもはや全く確立されたのである。二安永三年四月には曉臺、丈芝等と相會し、ついで名古屋から士朗がやつて來たので、一日紋阿彌亭に夜半亭、龍門二派の人々が集つた。そして夕風や水靑鷺の脛をうつといふ爽凉腋下に風を生ぜしめる蕪村の句を發句として、盛んな俳諧が催された。今や蕪村は隱然新興俳壇の領袖として目されるに至つてゐたのである。されば履を倒にして門に入る者も實際少くはなかったらう。蕪村にしてもし蓼太などのやうに勢力を張らうとする野心があつたなら、廣く門人を集める事も容易であつたのである。それ位の才は十分彼はもつてゐた。しかし門下を大いに集めようとすれば、勢ひ流俗に媚びなければならない。それは眞に自分の藝術をいとほしむ者にとつては、到底堪へら陣錄與謝蕪村傳
蕪村全集れないことである。蕪村はむしろ、少數の理解ある門人の間に、自分の好むまゝの道を〓へて進みたかつた。安永四年春から冬へかけての長病氣の爲に、窮乏甚しくて、遂に畫料を請うに「拜み候」の語を發せしめたのも、一面彼が俳諧師としての收入が貧弱であつたことを語つてゐる。しかしそれが實は蕪村の藝術を墮落させないで、に〓く高からしめた所以であつた。さて蕪村は今や樗良と會し、曉臺、士朗と語り、二柳、大江丸とも相往來し、更に麥水の「新虛栗」にも相應じた。門下には几董、月居、大魯の俊秀があり、芭蕉庵を再興した道立、物質的の補助をしてくれた百池、春坡等もまた凡庸の徒ではない。七部集中「五車反古」と共に最も代表的でしかも多方面な「續明鳥」も出來た。かうして俳人としての蕪村は遂に天明新調の巨匠たる地位に達したのである。しかしこの後の事蹟に至ては、從來すでに世に知られてゐる事が多いから、今すべて省略に從ふことにしたその生活の大略の樣子は、別項年譜によつてほゞ知る事が出來るであらう。次に飜つて明和末年以後の畫壇における彼の地位はどうであつたか。夜半亭をついだ彼は、專門の俳諧師にはなつたけれども、なほ收入の大部分は畫作によつてゐた。隨つて彼は爲に畫事から遠ざかるといふ事はもとよりなかつた。否俳諧と共に彼の繪畫が大成されたのも、やはりこれから後のことであつたのである。明和八年八月にはかの名高い十便十宜書(大阪水水氏)もあつて、專門家の間にはいろ/議論されてゐる。他に岩崎男爵藏。京都福井氏藏のものを作つて、大雅とその筆力を爭つてゐる。それから安永以後の作に至つては、今日蕪村の畫として最も多く鑑賞されてゐるもので、その優秀な作だけでも枚擧に遑がない。それは自ら蕪村の畫論として別に說くべきものであるから、こゝに絮說する必要はないであらう。たゞ彼が安永二年の頃から繪畫に「謝寅」といふ新しい號を用ひ始めた事を附記しておかう。蕪村の異號は隨分澤山あるが、まづ年代順にあげて見ると、俳號では宰町(?)、宰鳥、溪霜、蕪村、紫狐庵夜半翁等で、蕪村は最も多く用ひられた。又寶曆初年頃畫俳共に、囊道人、洛東間人の號を用ひて居る。畫號では、子漢、四明、四明山人、朝滄、溪漢仲、馬年、孟淇、魚君、三菓軒、三菓堂、碧雲洞、謝長庚、春附錄與謝蕪村傳
蕪村全集星東成、趙居、趙平居、虚洞、紫狐庵、白雪堂、雪齋、雪洞、夜半亭、謝寅等の落欵印影がある。それから畫に俳號を署してあるのは、すべて俳畫に限られてゐる。その他明和頃の手紙に、老雲、落日庵の號を見る。なほ「好古類纂」に蕪菁、巴人、老々庵、淳風庵、臥竜、河南趙居の異號をあげてあるが、かゝる落欵のものをまだ寓目しない。蕪村の俳諧における高雅な古典的趣味と、豐麗な感覺的の美しさ。繪畫における漢詩文の趣味を通して寫された田園山水の景致。それは蓋し大成期における蕪村の畫俳の、最も特色とする所であらう。而してさういふ特質は、もとより彼の藝術に夙にそなはつて居たのではあるけれども、それが十分に發揮され大成されたのは、實に明和末年以後にあつたのである。「萬里の路を行かず、萬卷の書を讀まず、畫祖と作らんと欲するもそれ得べけんや」といふのは董其昌の言であつた。蕪村は歷游十數年、外ケ濱から與謝の海まで萬里の路を行盡して、胸中の丘壑にはすでに富んでゐた。しかも萬卷の書を讀破する暇は未だなかつたのである。ところが彼が夜半亭を襲いだ頃になると、もはや家をなして妻あり子あり、放浪の兒釋蕪村時代の生活は全く一變されてゐた。今は愛兒の頭を撫しつゝ、門人と相對して語る家庭の老宗匠であつた。靜かに讀書すべき餘暇はこゝに初めて與へられたのである。すでに萬里の路を行き、今また萬卷の書を讀むに至つて、彼の繪畫が奕々たる神采を發揮し來つたのは、まさに然るべきであつたらう。且つ彼の俳諧も亦その藝術的根柢は、繪畫と同じ所にあつた。客觀的の句に富み、感覺的印象の明かなのは、繪畫から來る影響としてもとよりであるが更に彼は俳諧修養の根本を讀書に置いてゐた。句を作らんには筆を投じてまづ書をよめ。それは彼が畫に於いてとつた態度と全く同一であつた。かの「春泥句集」の序に畫家の去俗論を引いて、俳諧の俗を去るもまた讀書に若くものがないことを說いてゐるのである。由來安永天明の頃は漢學でも國學でも古典〓究の最も盛んな時であつた。そしてその傾向は文藝的方面に著しく及んで來た。純粹な藝術家肌の漢詩人や國學者が見られるのはこの頃からである。黃表紙酒落本などに至るまで、街學的な古典趣味を匂はせた。自然に化し俗を離るゝ根本義を、讀書に求めた蕪村の俳諧が、特に著し附錄與謝蕪村傳
蕪村全集く古典的趣味の傾向を帶びるやうになつたのも當然である。隨つてかの長い行脚生活の間に於てよりも、晩年やゝ生活の安定を得てゆつくり讀書に耽り得るやうになつてから、彼の俳諧の特色が十分に發揮されて來たのは、決して怪むに足りないのである。そこに詩人としての素質に芭蕉とは全く異つたものがあつた。彼は自然そのものを諦視した心の中に句を求め、此は自然を自分の詩境の中にとり入れようとしてゐる。しかしこゝに蕉村二家を比較することはやめよう。たゞこの俳壇の二明星がいづれもその晩年十年の間に自分の藝術を大成して、しかもそれ〓〓別な途を辿つてゐることは、實に不思議な對照であつた。し終焉天明三年秋の末、蕪村は門人毛條に招かれて、奧田氏通稱治兵衞といつて土地の豪家であつた。宇治の奧田原の里に遊んだ。毛條は野菊、馬蓼などと共に俳を蕪村に學んでゐたのである。蕪村はこの人に伴はれて、山深く茸を狩つたり、斷橋水に臨むあたりにそゞろ客魂を冷したりして、興を擅にした。門人たちは師翁の元氣に驚き、かつは喜んだことであつたらう。ところがその初冬の頃から何となく氣力衰へ、腹痛の爲めに毎日苦しむやうになつた。その病中のことなどは、凡董の「から檜葉」に詳しく記されて居る通りで、病苦のうちにも五車反古の序の事を忘れやらず、門人に筆をとらせて句案にわたる事もあつた。病床には妻子や二人の姉をはじめ、池田から上京して來た月溪や大津の梅亭等が、つき切りで介抱怠らなかつたが、命數いかんともし難く、十二月廿四日の夜冬鶯白梅の三句を生涯語の限として遂に、白玉樓中の人となつた。享年六十八歲。折から歲暮年始の際であつたから、暫く喪を秘し翌年正月廿五日再び葬式義信を盡して、遺骨は金福寺なる芭蕉庵のほとりにとりをさめた。我も死して碑にほとりせんとの幽契空しくなかつたのである。附錄與謝蕪村傳
〓村全集七四家庭蕪村の家系父母等については始んど知る所がない。又その妻子についてもかの金福寺の蕪村翁碑に、「配某氏有一女、不詳其所適焉」と傳へて居る位で、妻の家系や結婚した年代、子女の終る所等については、全く文獻の徵すべきものがない。しかし結城時代から與謝淹留の頃に至るまで、十數年に亘る行脚生活の間は、家を作ることが出來たらうとも思はれない。弱冠〓を辭してから孤獨漂浪實に二十餘年、齡初老に及んでなほ轉蓬の客であつたのである。もとよりそれは常人としては變則の生活であつた。しかし藝術を生命とする彼にとつては、家庭はむしろ煩はしい覊絆であつたかも知れない。畫と俳とに遊ぶことが彼の生活の全部であつた。孤獨の境涯にもさまでの寂寥を感ずることはなかつたのである。それでも流石に年初老に近づいては、時あつて孤獨の悲哀を感ぜずには居られなかつたらう。しかも產なく生活の資なき彼には、妻子を養ふ餘裕もなかつたのである。然るにその畫名やゝ高く收入の途も多少開けるやうになると共に、こゝに始めて家をなし、老境の淋しさを慰めるに至つたものと思はれる。その鍾愛してゐた娘を嫁にやつたのは安永五年十二月のことであるから、當時娘の年齡を十七歲位と假定すると、それから逆算して遲くも寶曆八九年の頃には、彼は結婚してゐなければならない。卽ち恰も彼が與謝から再び洛に歸つた頃である。蕪村の母が與謝の出であり、或はその妻も亦與謝の人であるといふ傳說は、文獻上まだ何等の根據も得ることは出來ないのであるが、彼が與謝滯在中漁村の娘を愛したなどといふ傳說と相對照して考へて見ると、或は與謝から携へ歸つた妻ではないかといふ臆測も生ずるのである。但し「屠赤瑣々錄」の傳を眞だとすれば、妻の親里は京都の內にあつたやうである。それはともあれ結婚後間もなく彼は一人の女子を得た。老年にして始めて子供を持つた蕪村がその娘を愛したことは一通りではなかつた。彼の手紙のうちに屢々娘の事附錄與謝蕪村傳
蕪村全集七六が出て來るのを見ても、一方ならぬ子煩惱であつたことが分る。娘の名はくのと言つた。彼が明和七年夜半亭宗匠のひろめをした時には、もはや召波から人形を貰つて悅ぶ程の年頃であつた。物心がつくと琴をしきりに習はせたものと見えて、安永四年の冬には、娘が琴の組入した事を但馬出石の門人に報じ「寒中も彈きならし耳やかましく候。されども無事にひとゝなりを樂しみ申事に候」と親心を洩らしてゐる。その外にも娘の琴について報じた手紙はちよい〓〓見える。だが不幸にもこの琴の上手な娘は子供の頃から腕のいたむ持病を持つて居たものらしい。すでに明和末年娘が十歲位と思はれる頃に「小兒事御尋被下忝存候當分のいたみにて候」と召波に禮を述べてゐる。又安永五年の二月中から娘の左右の腕が痛んで、四月に至つてもなほはか〓〓しくなく大いに老心を傷めたことや、同年九月末には手の自由も大かたよくなつて、琴の稽古もちとづゝ始めた事を報じた手紙などが殘つてゐる。それから安永三年九月頃には娘を手習にやつてゐた事も大魯宛の手紙で分る(財參照)六一七(Lo手習にやる時はかせる革足袋の足形までも細々と注意して賴んである。かうして何かと大事にして育て上げた娘も良緣あつて他に嫁入らせることになつた。それは安永五年の十二月のことであつた。娘は恐らくまだ十六七の世間知らぬ年頃であつたらう。傳へる所によると、その嫁入り先は三井の料理人で、西洞院椹木町下る柿屋傳兵衞といふ者であつたといふ。蕪村はこの年娘をかたづけて喜にたへず、愚老儀も當月むすめを片付候て甚だいそがしく、發句も無之無念にくらし申候。併し良緣在之宜所へ片付老心をやすんじ候。來春より身も輕う相成候故、吉野曳杖のおもひしきりに候。さ候はゞ浪花へも立寄り寬々御目にかゝり可申樂しひと云々と浪花の延年に言つてやつた。老先遠くない親の身として、娘の良緣を見ては、誠に身も輕々となつて老心を安んじたことであらう。その披露の祝には盛宴を張つて大いに喜んだ(歐先生100)しかもこの結婚は不幸にしてまもなく破鏡の歎を見なければならな六七七かつた。その事情は翌安永六年五月正名に遣した手紙(アム勢七點)によつて知らるゝ如く、附錄與謝蕪村傳
蕪村全集先方の金儲主義な家風が蕪村の氣に入らなかつたのである。しかし「勿論娘も先方の家風しのぎかね云々」といつてゐる通り、やはりそれは娘可愛さのあまりであつた。いや〓〓金も命あつての事と、娘の身の上を氣遣つて遂に取戾してしまつたのである。かくて彼は臨終の際までもこの世づかぬ娘の行末を案じて、門下の二三子に後事を託したのであつた。豪邁人を欺くと評された儁英の才人蕪村も、兒女の爲には愛着の絆絕ち難い愚痴の親であつた。子に注がれたこの煩惱の愛、凡人の愛。それは蕪村の生活をして芭蕉のそれよりも、もつと我等に親しみを感じさせる所以ではなからうか彼が門人に畫料を乞うて、遂には「拜み候」の言を發してゐるのは、その中貰ひためて返すつもりだが、我等事ゆゑどうたか分らぬといつて、去來に吉野行脚の旅費をかりにやつた芭蕉と比して、人物の風格自ら大いに異るの感がある。しかし之とても思へば妻を養ひ子をはぐくまねばならぬ蕪村としては、止むを得ないことであつた。娓々として情を訴へる所、寧ろその窮乏の狀を憐むべきである。今彼の筆になる斷簡零墨も、も、なほ數十金數百金に換へられるのを見たら、地下の蕪村は果して如何の思をなすであらうか。さてかの娘は蕪村の死後どうなつたか。傳へる所では、その後月溪、梅亭の兩人が主として遺族の世話にあたり、蕪村の句稿に兩人の畫を書きそへて之を故人の知己門人に與へ、喜捨を乞うて以て娘の婚嫁の資にあてたといふ。而してこの種の句稿は今もなほ屢寓目する事がある。だから娘も門人の世話によつて再び結婚したものであらう。寛政七年不夜庵三世必化坊が、東都に歸るのを送るために編まれた「秋の餘波」に、古〓にゆく共秋のたび衣かさねてきませ夜寒いとひて甲田氏久能とあるのは、卽ち蕪村の遺孤ではあるまいか。同書には蕪村の未亡人も句を出してゐるので、右の推測も强ち牽强ではない。さうするとかの娘くのは甲田氏に嫁して和歌なども善くしたといふことが分る。地下の蕪村は果して如何の思をなすう。甲田氏附錄與謝蕪村傳
蕪村全集几董に宛てた彼の手紙(六四八頁參照)の中に「きぬも手のいたみ少々さし起り云々」といふ文句があるので、手痛の持病があつて琴をよくした娘の名は、きぬといふことが分る。すると革足袋をはいて手習に行つたくのといふ娘は別人であらうかくのの名は外に几董宛の手紙(六五〇頁參照)にも見える。而して安永五年結婚して翌年取戾した娘は、きぬ、くのの何れであらうか。之等の疑問はすべて今解くべき確證を得ない。金福寺碑文の一女有りといふのに從へば、きぬもくのも同一人でなければならぬ。きとく、ぬとの語音が通じてゐるから、出戻り後緣起をよくしようと思つてくのをきぬと一時呼びかへた事であつたのかもしれぬ。今暫く金福寺碑文に從つて一女と解しておく。蕪村の妻はともといつた。大魯宛の手紙の中に「ともゝよく〓〓御傳言申上候」とあるのが、卽ち妻のことである。それは蕪村の歿後、追悼の句を寄せた人々に對して、未亡人から送つた禮狀と思はれるものに、先達は御たむけの御ホ句被下忝存候此節集册出來仕候に付備御覽申候以上暮蓼樣與謝と右菱田是佛氏藏。小紙片の刷物で板下は月溪の筆と思はれる。幕蓼(七四四頁參照)の宛名だけが肉筆になつてゐる。集册といふのはいふまでもなく「から檜葉」のことで、追善之排諧及び二七日書信のとところに暮蓼の名は見えてゐるといふ手紙が殘つて居るので分る。蕪村の妻が點性で、夫の歿後遺畫を求めにわざわざ日光あたりまで出かけた事が、逸人畫史や名家書畫談に出てゐる。蕪村の歿後その遺墨が急に高價になつたことは、秋成が「蕪村が繪はあたひ今では高間の山」といつてゐる通りだが、それにしても、欲に迷つて女だてら數百里の道を出かけたとは一寸思はれない。之を打消すだけの反證もないが、常識的に考へても、俄に信ずることは出來ない說である。蕪村の手紙の中には、彼が妻に對する心持などを窺ふべき文言をあまり見出すことは出來ないが、少くとも不滿を感じてゐる女ではなかつた。恐くは蕪村よりもずつと年若な女で、夫婦は琴瑟相和し、親千三人家庭團欒の狀掬すべきものがあつただらうと思ふ。蕪村が最期の病床に侍した妻は、娘と共に手厚い介抱を怠らなかつた。夫の歿後は間もなく薙髪して〓了尼とよんだ。寛政元年の秋必化坊五雲が東都に歸らうとして人々に留められ、遂にまた暫く都に落着く事となつた折の記念與謝蕪村傳
蕪村全集八二編集「ふた夜の月」に、此人々予かあらましをきゝ、草庵に追々訪來て、譬をいさめ、難波のよしあしは兎まれかくまれ、是非都に死を定めよとすゝむ。こゝ留むや言を以せずして、ひたすら心を專らとす。せちたる志忘るゝにしのびず。名のみをつられて詩歌ホ句は他日の芳惠を待といふ。といつて蝶夢、晋才等と共に「與謝〓了尼」の名も見えてゐる。五雲及その妻妙雲尼と親しい間柄であつたことが窺はれる。前にのべた「秋の餘波」で、いよ〓〓五雲夫妻が都を去つた時にも、五雲のぬし妙雲尼を伴て故〓に歸り玉ふをとりませて秋とひとつの別哉與謝氏ともと送別の句を二人によせてゐる。かくて夫に別れてからなほ三十餘年存へて、文化十一年三月五日歿した。亡骸は遺言によつて金福寺なる夫の瑩側に葬つた。金福寺に芭蕉庵を訪れたり、蕪村の墓に詣でた人々の記念句帖ともいふべきものが二册藏されてある。いづれも句主の自筆で、几董、百池、道立、月居等をはじめ明治年間に至るまでの人々の筆跡が見られる。をし文化十いづをしい哉一部分散佚したあとがあるが、一昨秋同寺に至つてこの記念帖を子細に閱し、たま〓〓次の數句を見出して蕪村の室の歿年を明かにすることが出來た。與謝〓了みたまにまうさく、過つるいやよひ五日といふ夜、おもふもあやにかなしく、虚蟬のよもつ國へ旅たついまはのきはみ、おのれにりたらひ賜へるをかしこみうしなふことなく、けふなむこの金福寺なる蕪村みたまの磐かくります墓のもとへ、白骨をおなしくはふりおさめ、やからよりつとひて鹿しもの膝をりふせておろかみつかへ奉るは、文化十あまり一とせといふ年の卯月七日深雪菴羅英かしこみ恐みまをすたま〓〓次の數句を見出散花に泣しもあと月きのふけふ蕪翁の室〓了尼の納骨にまうてゝ聲のみは山に殘りぬ時鳥洗膓逝ものはかくのことくか晝夜をわかたすとのたまひけん聖のことは思ひいてゝみるたひにきのふの芥子はなかりけり菊雄夜半翁の碑のうちに其室〓了尼の御魂をまつらんと、みゆき庵めしのまねきにしたかひ、法のむしろにましはりて、けふの納骨のまつりを拜み奉りて鶯の老やなくさむ苔の陰りけい九拜聲膓予も此の鶯のりけい九拜附錄與謝蕪村傳
蕪村全集右〓了尼の白骨を蕪村翁のはかに納め給へるを拜見奉り、猶古へ今を思ひつゝけて生直す百合もかたふくかなしさよ羅上葉さくらに來てうち佗る露の身や百菊〓了尼世にいましける折は膝を摺よせ春はあふり餅をとゝめられ夏は團の世話まてなし給ひけるも終に散るはなとともに黃泉の旅におもむき給ひしもけふにそ成ければ初月忌の法莚にならひ侍りて此菴の若葉の露を手向水文尼の遺言をうけて死後の處置をとり行つた深雪庵といふのは、どんな人か全く分らぬが、夜半翁の末流を汲む宗匠でゝもあつたらうか尼は「秋の名殘」でも知らるゝ如く、自ら多少は發句の心得もあり、又かうして俳壇の人々との交渉も持つて居たものと見える。流石にその臨終には蕪村の妻らしい背景を殘してゐる。りうして夫妻の魂は今おだやかに金福寺背の丘上に眠つてゐるのである。蕪村の家庭については、要するにこの位のことしか分つて居ない。「子孫亦寥焉無聞」と船山が歎じた如く、百餘年の星霜は一代の巨匠のあとをも全く煙滅させて、知らしめる所がない。最後に蕪村にはその歿する時、なほ二人の姉が生きてゐたことを附け加へておく。それはかの「から檜葉」の草稿中に、「妻子兩姊をはじめ月溪梅亭の人々朝夕の起臥を扶けて介抱のこるかたなし」とあるので知られる。しかしその二人の姉も、もとよりその事蹟に至つては全く分らない。逸事諸書を涉獵する際、蕪村に關する斷片的の記事を、得るがまゝに抄出しておいた。今多少の參考にもと思つてその中の一部を傳記の末に附記して置く。但し蕪村に直接關係ある新雜談集等の俳書中の記事や、單に口碑として傳はつてゐるだけの逸事などは、すべて之を省略した。徒らに紙數を費すのを恐れたからである。なほ水落氏著「聽蛙亭雜筆」中には、この外興味ある蕪村の逸事などが多く記されてある。○蕪村の畫の門人に田原慶作といふ者あり。一夜初更後に蕪村を訪ひしに、戶をかたくさしたり。慶作の意にこれは例よりは格別に早く寐につかれたりと思ひ伺ひ居たるに、內にてははた〓〓と物音して何やら叫ぶ聲しければ此れは怪しき事の有りけるよと思ひ、先生の事なればとくと聞かんとて、戶をほとほとと叩きければ、先生の聲にていらへして戶を開きたり。入りて見れば家内に一人も見えず、奥の間に帚木ごみ打のたぐひ取ちらしたり。先生にいかにと問へば蕪村言ふ、今宵は妻は娘及び奴婢を具して親里に行きたりと對ふ。扨今のはた〓〓と音のせ與謝蕪村傳
蕪村全集八六しはいかにと問へば、此內芝居を見しに芝耕といへる役者の藝いかにも感心せしゆへ、今宵は幸に一人ゆへ門をさして其まねをするなり、され共何分にも似ざるゆへ、幾度も試たりと答ふ。かゝる酒落の人物なりしと也。月峯上人の話なり。戊子中秋夜書。○翁(茶山)又云ふ、大雅より蕪村畫は上手なり。蕪村には毎度葛陂先生の宅にて出會す。され共翁も其時は少年にて事を慢り。遂に一度も挨拶もせずして過す、殘念なる事也。○近來蕪村の畫亦妙品、其中能出來たる山水などは近來前後に並ぶ人なし。存生の間はさのみ畫名の高からざりしは、俳名に掩はれたると眞の眼目有る人の世になきとによるべし。(以上、屠赤瑣々錄)蕪村が俳優と交際があつたり、芝居をよく見に行つたことは彼の手紙や發句の前書などでも分る。江戶では梅幸を最も愛したと見え、「梅幸集」(天明四年刊、菊五郞追悼集)中の几董の句の前書に「古夜半翁は二なく梅幸を愛せられしが云々」とあり、明和八年歲旦帖にも梅幸の句が見える。浪花の鯉長、慶子、眠獅等とも親しかつた。一體役者と俳人とは才牛其角以來關係が深かつたので、蕪村當時には凡董も盛んに芝居見に行つてゐるし、太祇、五雲などは島原に居た關係もあるであらうが、夜半亭以上に役者との交渉は多いやうである。なほこの話をきいた月峯は東山双林寺の畫僧で、蕪村とも交があり、「常盤の香」(蕪村十七囘忌追善集)にもその畫が見えてゐる。隨てこの話は信じてもよからう。最後の一項は橘南谿の「北窓瑣談」にも「近來蕪村が俳諧才氣秀拔、其作皆人意の外に出づ。學びて到らるべきの事にあらず。其人天然の才なり。畫亦妙品(以下同文)」とあるのによつたのであらう。蕪村の畫名が俳名に掩はれたといふのは彼の晩年のことであらう。され共翁も其時は少年○大雅逸筆、春星戰筆、二老各有所稽古、大雅正而不議、春星語而不正、然均是一代作覇之好敵手。(篠崎小竹評して曰く、春星亦有正而不譎者、此段恐齊論語。)ヲ○甞觀春星秋山行旅圖、用筆傅彩全然明人、至其屋宇橋梁、布置點景、取諸邊邑僻境所有之寔景、故景新法古、用意最深、高名下無虛士、洵不誣也。○元祿間芭蕉嵐雪其角數輩、以俳諧歌鳴、春星撰三十餘人、自圖其像用減筆法、近日畫史所寫人物、面孔〓眉以至衣摺網紋、用筆行墨簡便巧點、別開一體、與古不同、盖春星作之俑云。(小竹評して曰く、春星所選俳諧想亦當出人意表。)○皆川翁之於芦雪、榜亭翁之於春星、道載翁之於月僊、茶山翁之於月溪、終身愛許稱贊不措。(下略)○(前略)師謝春星者又記二人、一則溪一則楳亭、楳亭差守師法、月溪中年變學應學名世。(下略)(以上、山中人饒舌)蕪村と大雅との比較論の如き、竹田、小竹各〓見を異にして居るのも面白い。○蕪村が繪はあたひ今では高間の山櫻花、俳諧師が信じて島原の桔梗屋の亭主がたんとかいてもろうて、廓中の財寶も價が今は千金、富民の吝しよくやつばり德もいかぬ物じやと思ふよ。(胆大小心錄)例の惡口屋で月溪の事などは、腎虚して今に繪がかけぬに極まつたなどゝ言つてゐるが流石に蕪村はさうくさしてゐない桔梗屋の享主が傍杖を食つてゐる形だが、この亭主といふのは不夜庵門下の呑獅のことである。〇一、近年はいかいのうちにて人情をよく盡すものは、蓼太蕪村の兩叟ことに其の妙あり。すまふの句にても「大ヲ取諸邊邑僻境所有之寔景、故景新法布置點景、廓中の附錄與謝蕪村傳
蕪村全集內の砂を土產やすまふとり蓼太」、これはかのいにしへ名かみの成むらさつまの氏長かたくひにて、田舍のいへつとに守りのかはりにとりかへるさま、こけても砂といふをかしみをふくめたり。又「負ましきすまふを寢ものかたり哉夜半」、つまにあひての情おもひめぐらすべし。「白むめや北のゝ茶屋にすまひとり夜半」、すまふの祖野見のすくれも菅神の御先祖なれば、ひとしほ道の信心もこもれるなり。これらの身にて風月花鳥の情をいひかなへたらむ、道に手だれのほどもおもふべし。鳥蟲のうへばかり凡そにさつしやりて句作したらむ、大かた人形のふえ吹くやうならんと、さる人の仰せもあるべく承はれり。(俳諧袋)大江丸は蓼太に主として學んだのであるが、「その外物を尋ねしは」といつて竹阿、二柳以下の人々をあげて居る中に蕪村の名も列してゐる。蓼太蕪村兩吟歌仙をとりもつて興行させたものも彼であつた。隨つて俳諧袋中の蕪村の傳などは、歿年を誤つたりしてはゐるが、要領を得て信ずべきものである。その他本書中には蕪村に關した事がちよい〓〓見える。「年忘れつの國の何思ふらん」といふ舊國の句を蕪村がほめたので、自分もいゝとは思ひながら何でほめてくれたのか分らなかつた。その後古今集に「つの國のなには思はず云々」の歌があるのを知つて、はじめて蕪叟の賞をしつたなどといふ話も出てゐる。○謝蕪村名長庚後改寅。字春星號夜半亭又號三果。攝津東成〓人。初遊丹後居與謝。愛其山水因以爲氏。後住平安。深幕元明名家。山水雅韻冲潤神氣自足。愈看愈有味。余每觀其山水心神恍惚。若置身於其間。宜哉海內學者多宗之。嘗構畫室雖妻子不許妄入也。當時雖有模擬之議。然構思結圖唯〓恐神思之散亂。一室之中卽入三昧。其爲一代之作者。良有以也哉。天明中歿歲六十三。梅泉曰某寺開龕展觀古蹟數十幅。蕪村日々往觀焉。僧悅曰子隨喜至於此耶。蕪村笑曰吾豈候佛哉。唯〓慕衡山山水而來耳。○北汀先生曰。蕪村畫山水多設題製ノ圖。如賦詩而後下筆。故有無限意味。大雅胸襟磊落能脫塵俗。故其所畫山水皆逸品高格。非人能所及也。近人或謂蕪村数法疎漫。大雅亦非正派。近日學者雖稍〓讀畫譜知宗傳。亦率議論多而成功少矣。夫大雅蕪村馳騁古人域。遂爲一代作家。豈可輕議乎。(畫乘要略)畫乘要略が近世繪畫史の研究上必讀の書たることはいふまでもない。蕪村の畫に關する記述は、その他卷中所々に散見してゐる。某寺開帳の逸話は一寸面白い話である。衡山といふのは董其昌のことである。○一とせ再和房とみよしのゝ花見に、紀行は己れ書きたり。洛の蕪村等富士よしのには故翁すら句なしとあざみ言ふを、再和聞いてこたふ。其句なしとの詞句にして、その跡追ふは古ければ既に蓮二房に雜の句あり、しかのみならず世に數へらるる身にもあらねは憚からずと。其の時の句花に目の行くも屆かず吉野山再和房花の頃吉野は闇も闇ならず松雨やつがれが句思ひ過したりと、歸りて父の言ひしかば再び行きて蒲團きて吉野に寢たり花の雪(鳴ひさご)再和房白朶は尾張の人で五竹坊門、京都に住んでゐた。松雨は岡山の人、その父森々庵松後はやはり五竹房の門で白朶の死後そのあとをついだ人である。鳴ひさごは松雨の隨筆で今寫本で傳はつてゐる。支麥を大嫌ひな蕪村としては、美濃派たる再和房たちの惡口ぐらゐは言ひさうなことである。再松和房雨附錄與謝蕪村傳
蕪村全集九〇〇一、曉臺洛の龍門に在てある夜の會に、通題各々調ひたるに臺ひとり句なし。深更に及で蕪村曰、目明千人めくら千人の世也、十分ならずとも出詠あれひしとなり。臺答て、めくら千人育千人の世也、もしそが中に一人の目明あらむ、其一人に恥るのみとて、又句案時有て題詠とゝのひぬと、京人の尊がりて語りたり。(大鶴庵化草紙)雜誌「汲古」二號に所載のものを抄出した。大鶴庵作草紙とはどんな本か知らないが「汲古」は名古屋の雜誌だから、特に曉臺に面目ありさうな逸話をのせたのであらう。蕪村が例の一寸人を馬鹿にしたやうな口吻に對して曉臺の挨拶は少し眞面目すぎるやうだ。○洛の夜半主人幻住庵のかり寢訪れし時、「丸盆の椎に昔の音聞かむ」と聞えしに、「かだみて月を松もとの山」とかい付け侍る。日頃思ひ設けし事ども問ひもしいらへもしつ、月は四更にかゝる。夜のかされいとうすく裾引かくし肩おしなべて夢境に入る。叟がしはぶきに目さめて、曉の寢すがた寒し九月蚊帳曉臺句集)曉臺が臥央と共に幻住庵に假寢して居た頃、蕪村は都から二人を訪ねて一晩泊つた。凡董や騏道なども一しよであつた。蕪村と曉臺との交游關係をしのぶべき一資料ともなるであらう。○鷄頭華きりくゐかちとなりにけり文兆居士此きりくゐの句を、蕪村翁賞美の餘り、ほ句の意を畫に寫て贈れらしより、社友の人々きりくゐの文兆とよひけるに、むかし伐杭の僧正といふのおはするを、今我か名に呼れむこと、いともつたいなき事なりとて、額に汗して恐あへり。(蟹窟)「蟹窟」は信州善光寺の俳人文兆の追善集で、文化二年乙丑たけへ巢兆の序がある。右の逸語は柳莊(善光寺の人、今井氏、文化八年歿、年六十一)の記になる追悼文中の一節に出てゐる。伐杭の僧正は徒然草に見える故事。○蕪村は文に述懷に病患を書ぬ事なし、わるきくせなりといさめぬれば、其後はちとやみぬ。畫俳世に聞ゆ、頃日の人の中にては惜しき人なりき。〇八文字舍自笑といへる草紙や、年々役者の評判記を出す板元にて世に知る所なり。一とせ何等の引事にや、江戶役者市川九藏と云ふ者の事を書かんとして、自笑も其事安定ならず、其師蕪村に尋ねても不知、蕪村云かゝる事は杜口よくしれり、此翁に尋ね見んとて、余に問之。餘言下に答云(中略、享保三四年の評判記を暗んじて語つた事を記してある)。蕪村手を拍て此の道の博覽、誰か翁の上に立べき、歌人はゐながら名所を知るの理、此答に知られたりと笑ひぬ。○所謂悼與耄雖有罪不加刑。實にも余を顧るに孩兒の如くなるに、不圖思ひよりて「幾夜寢て春にあふぞと耄にけり」と口號みしを、蕪村が是を聞きいたうめでたがりて「其ふるき瓢簞みせよ鉢叩」と去來が言すてしを、「ゆふ貌のそれは髑體か鉢たゝき」と案じ替て、自ら句を得たる心地しけるが、今足下の幾夜ねての句と、去來か瓢簞の句風體對揚して優劣孰れにか有る、分けかたし。己が髑體の句の無下に劣れるうたてしさよと慙愧せしもきのふの昔なりけり。蕪村ほどの者も今は寡し。わるきくせなりといさめぬれば、其後はちとやみぬ。畫俳世に聞ゆ、頃附錄與謝蕪村傳
蕪村全集○唐畫にては近來大雅を大に賞し、○唐畫にては近來大雅を大に賞し、彼が繪はかりそめの席畫の類にても小判を以てす、蕪村之に次ぐ。(以上、翁草)翁草の著書神澤杜口は蕪村の先輩で、巴人、几圭、太祇等とも交りがあつた。蕪村の病氣は正名宛の手紙に、「持病の胸痛よほど困りはて申候」とあるから、胸痛が持病だつたらしい。しかし「から檜葉」で見ると矍鑠たる此翁やと人にも美まれたといふ程だから、決して蒲柳の質ではなかつた。それが病氣を言ひ立てにするといふ癖も面白いが、なるほど手紙などでも少し病氣を大袈裟に吹聽してゐるやうな所も見える。翁草は誰も知る通り當時の俳壇の消息をうかゞふには面白い記事がその外澤山ある。〇人の持てる調度にて其人の心は知らるゝと兼好はいへり。宜哉此頃俳人蕪村が書畫を大に翫弄す、いかなる故と云ふことを知らず。古人の書畫を愛するは其人の德を稱し、次に其能を賞す。夫蕪村は父祖の家產を破敗し、身を洒々落々の域に置いて神佛聖賢の〓へに遠ざかり、名を沽つて俗を引く逸民なり。また同じ境界ながら其隣町に居せし東都の建凉帶は、才も能も拔群に秀でゝ蕪村と日を同じうして語る徒にあらず。然るを例の無いもの食はうといふ病人が、頻りに高金を以て求む。是を賞玩する人の意を兼好はいかゞいはんや。(橘庵漫筆)田宮仲宣は藝術の分らない人間である。芭蕉のことでも惡く言つてゐる。蕪村と凉袋との比較論だけでも、彼が具眼の士でないことは分る。淺見むしろ憐むべきであらう。明和五年の「平安人物志」によると、蕪村は四條烏丸東へ入町、凌岱は三條堀川東へ入町に住んでゐる。○翁本姓谷口、稱宰鳥、一名長庚後改寅、字春星、號落日庵、三果堂、紫狐菴、碧雲洞、白雪堂、四明、東成、皆彼が繪はかりそめの席畫の類にても小判を以てす、三果堂、紫狐菴、碧雲洞、白雪堂、四明、東成、皆其別號也、攝津人、以其生之地屬天王寺村村名于蕪菁、乃又號蕪村、幼養於母氏生家、生家在丹後國與謝邨、因更姓謝、長而赴江戶學俳歌於早野巴人、遂爲入室弟子、既而歷游奥羽諸州、後住京都、爲俳謌宗匠、號夜半亭、蓋巴人卽世襲其號也、又善畫出入元明諸家、尤長於山水、游戯筆墨亦臻妙境、與池大雅齊名、別成一家、其門多能畫之士、吳月溪紀九老卽其選也、天明癸卯十二月廿五日病殁、享年六十又八、葬於一乘寺邑金福寺芭蕉庵側、庵者俳人芭蕉翁常遊處也.配某氏有一女、不詳其所適爲、京師人寺邨百池、學俳歌於蕪村、慨蕪村死而無碑、將建之、不果而歿、今玆明治壬午、値蕪村百年諱辰、而百池亦丁五十年、於是其孫百僊、捐資建碑、將以繼祖父之志也、來請銘於余、々云蕪村去世僅一百年、而其履歷不得詳、子孫亦寥焉無聞、然其流風餘韻、使後人思慕不能己者、亦可以想見其爲人矣、乃銘之曰、俳門遁世、蕉翁遺流、畫苑傳芳、池家匹儔.片石托魂、山深境幽、船山草場廉撰(金福寺蕪村翁碑文)この碑文は諸書に採錄されてあるが、誤寫が多いやうだから序にのせておく。明治十五年の頃すでに蕪村の事蹟は詳にする事が出來なかつたのである。しかし百池の家に傳へた所によつて記したのであらうから、大體こゝに記された事は信じていゝやうである。百池はその行狀を記した碑文中に「蕪村一時名士、以其家無儋石儲、常給金賑之」とあり、又百池宛の蕪村の手紙を見てもそのパトロンであつたことが分る。百池は寺村氏、通稱助右衞門、京都の巨商で俳を蕪村に學んだ。その傳は前記の碑文に詳しい。天保六年十二月十七日歿、年八十八。○(前略)又狂畫多し。於兎按に世に傳ふる者十に八九は贋作多し。曾てきく日光鉢石齋藤氏の家に、蕪村の狂畫於兎按に世に傳ふる者十に八九は贋作多し。曾てきく日光鉢石齋藤氏の家に、蕪村の狂畫附錄與謝蕪村傳
蕪村全集にて源平盛衰記卷軸あり。これは天明年中行脚の頃、此家に暫く逗留せし時、停居主人盛衰記を讀む。其の旁に橫臥してその讀む所をきゝ、筆に托せて寫し終に數十紙に及べり。蕪村歿後其の妻黠婦なるものにて此事を知り遠く日光に下り齋藤氏に就てかの卷軸を賺し得て京師に歸り、多金を得たりときく。故に卷軸今は其の家に傳はらずとなん惜むべき事ならずや。(近世名家畫談)「近世逸人畫史」にもほゞ同樣の傳へをのせてあるが出所は同一であらう。蕪村が日光へ行脚したのはかの野總歷遊中のことであらうが、妻についての傳說は前にものべた通り疑はしい。なほ畫人傳の類にはその他扶桑名畫傳、古畫備考、好古類纂、本朝古今書畫便覽、古今墨蹟鑒定使覽、掌中書畫年契、日本書畫名家編年史等に蕪村に關した記事が見えるが、特に抄出すべき程のことはない。〇一、今はむかし蕪村はじめて京うち參りしけるに、(中略)花芒ひと夜はなびけ武藏坊、蕪村(關の〓水物語)中略の部は五七五頁所載辨慶圖賛と二三字句の異同あるのみで、他は全く同一である。恐らく圖賛の文をそのまゝとつたものであらう。「關の〓水物語」は近江の俳人于當の隨筆で、文政十一年の刊行。○(前略宮津に來る頃一人も其畫の工みなるを知るものなし。是以蕪村を尋常の人となす。蕪村もまた尋常の人となりて、彼是となく交を交ふ。畫を求るものあれば則畫いて之に與ふ。元より潤筆の有無に拘はらず。相識の家に至ては自から紙を求て書畫を試み十枚廿枚に至る。是以蕪村の畫く所宮津に尤多し。一日見性寺に遊ぶ。其寺に白紙の襖あり、和尙の不在に乘じて其襖に墨を以て鴉を畫く。既にして和尙他より、歸り其畫を見て大に怒り再び蕪村の來るを許さず。今其襖宮津の重器となりぬ。斯の如き話說往々少からず。(丹歌府志)丹歌府志は宮津小林支章の編、孫之原の刪補で寫本だといふ。乾氏の紹介による。但しこの種の口碑は讃岐にも傳はつて居り、かの下館中村家に蕪村が滯在中、絽の羽織を作つて貰つたのに、川狩に出かけてその羽織を脫ぎ、それで魚を追つかけ廻つたので、折角の羽織を臺なしにしてしまつたなどといふ類と同じで、後人の揑造說であらう。○蕪村時々富圖を賈ひて樂しとす。門人等諫めて云、先生富の圖を買ふ事をやめ給へ、樂しみにはよしと雖も若し圖にあたらば、人風雅に似合はぬを嘲笑すべし、堅く止り給へといへば、村曰く吾何ぞ富の圖を買ふに當らざるをよしとせん、萬に一囘にても僥倖を得ばと思ふなりといへるに、門人等扨々師も拙き腹を持つもの哉と思へどもいひ雖ければ、師は畫に長じ俳諧に達して今日不足なからん、百兩の金を得て何をかすると問へば、村答へて曰く、余畫を書き俳諧をするも、人より謝儀を受けて其價値丈の物をなして日々の活路を補ふのみ、未だ十分の畫と十分の俳諧を試みず、若し百兩の富あたらば其金のあらん限り心に快き畫をかき、心に樂しき俳諧をせんと思ふなり。吾是を生涯になし得ば嬉しからんと思ふなり、人の誹謗は怖るゝに足らずといひしとぞ。實に名人の道に志す時何ぞ人の是非を容れむや。(俳諧名譽談)この話も出所は確かでないが、滿たされがたい創作欲をもつた藝術家の心情さもあるべきことと思ふ。かの京都市立博物館に野馬屏風一双を寄贈した藤原源作翁の傳記に、その繪の來歷をといてこの富籖の話がやはり出てゐる蕪村はまだ統張の屏風にかいた事がないので、之を購ふべき資を得ようと思つて、萬一を僥倖し富くじを買つたのであるといふ。之をきいた弟子たちは特志の人にはかつて屏風講を組織して、望み通りの絖張にか附錄與謝蕪村傳
艱村全集ゝせたのがこの野馬屏風であるといふ。之も事の眞僞は分らぬが參考のため記しておく。○蕪村は新好を求め、終に一つ目の入道の如き、人間外の形を生めり。(みち彥「無孔笛」)○蕪村が豪邁人を欺のそしりをまぬかれず雪の戶や明よと鹿の鼻鳴らす(大梅居家集)かういふ誹謗はなるほど一面からの觀察としては尤もだが、沈滯した俳壇を革新せんがためには、むしろ新奇にすぎなければならない。しかも蕪村の才は決して新奇の畸形兒に終らず、よく革新の功を完うしてゐるのである。大梅も道彥門だから、こんな事を言つたのであらうが彼は詩から俳に移つた人。流石に蕪村の長所は認めてゐるのである。だから芭蕉を佛とし、其角、去來、丈草、野坡、支考を菩薩とし、蕪村、白雄、十朗、道彦を阿羅漢として禮讃してゐる。蕪村年譜享保元丙申六月廿二日改元七月德川吉宗將軍宣下○八月十五日山口素堂歿七十五〇十月三日小西來山歿六十三-歲攝津東成郡毛馬村に生る同二町二歲四月廿八日岩田凉菟歿五十七三月廿五日三宅嘯山生る○五月十二日立花北枝殁○ひとり言(鬼貫)刊同三戌戊三歲四月廿八日生駒萬子歿六十六〇十二月九日天野桃隣歿八十一同四亥己四歲同五秧五歲湯淺隨古生る同六丑辛六歲九月廿四日池西言水歿七十三○早野巴人江戶より上京す同七寅壬七歲附錄蕪村年譜
蕪村全集同八卯癸八歲四月十七日三上千那歿七十三〇其角十七囘忌同九辰甲九歲近松門左衞門歿七十二正月十三日英一蝶歿七十三〇十一月廿一日同一〇巳乙一〇歲四月十九日秋色女歿五十七〇九月三十日谷木因殁八十〇五月新井白石歿同一午前一一歲二月七日一世琴風歿八十八○六月卅日水間沾德歿六十五同二打一二歲五月十二日高野百里歿六十二同一三申戊一三歲正月荻生徂徠歿○二月十五日福田鞭石歿八十同一四酉一四歲三浦樽良生る同一五戌庚一五歲十一月十三日一世靑峨歿二月七日各務支考歿六十七○長水等會盟して五色墨を撰す六月十三日鯉屋杉風歿七十六〇七月廿五日花千句(巴人)刊安藤冠里侯殁六十二〇加藤曉臺生る○卯の四月廿三日稻津祇空歿七十一〇九月十四日內藤露沾侯殁七十九○巴人一夜松を撰びて北野に奉納す五月八日雲津水國歿五十三〇八月十二日室鳩巢歿七十七〇九月十二日桑岡貞佐歿六十三〇上田秋成紀梅亭生る五月七日佐々木文山歿七十七〇八月十五日鯛屋貞柳歿八十一七月十七日伊藤東涯歿六十七〇春砂岡雁宕阿の居に於て雁宕送別の百韻を興行す西遊して巴人を京都に訪ふ四月十七日宋正月六日椎本才麿歿八十三〇四月十九日宋阿京都を出發し同三十日江戶に歸る〇六月十日宋阿日本橋石町なる鐘樓のほとりに夜半亭の居を定む七月廿七日深川湖十歿六十三〇八月二日上島鬼貫歿七十八〇樋口道立生る九九同一六亥辛一六歲同一一〇一七歲同一八丑癸一八歲同九寅甲一九歲同二〇卯乙二〇歲元文元辰丙四月廿八日改元二一歲同二巳丁二二歲夜半亭歲旦帖に宰町の號にて發句一入集す○九月九日夜半亭臨時の百韻興行に出坐す會するもの宋阿、宰町、渭北風篁、雪童、少我等十餘人蕪村年譜同三午戊二三歲附錄
蕪村全集日貴志沾州歿七十〇其角嵐雪卅三囘忌○桃八月十八日中川乙由歿六十五〇十二月十七櫻(宋阿)成る○梅鏡(宋屋)刊正月三日志田野坡歿七十八○七月十二日〓水超波歿三十六同四未己二四歲時々庵渭北の歲旦帖に出句す(號宰町)○宋阿編其嵐追善集桃櫻に「擂鉢のみそみめくりや寺の霜」の句を出す冬筑波の麓にありて春を待ちや芥流るゝ櫻川」の吟あり「行く年同五申庚二五歲辛寛保元酉二月廿七日改元二旺二六歲夜半亭歲旦帖に出句す(號宰鳥)十二月廿一日人見午寂歿○高井几董生る六月六日早野巴人歿六十六〇九月宋屋京都にて巴人追善の俳諧を興行し追善集西の奥を撰す五月西の奥(宋屋)刊○芭蕉五十囘忌、東山に芭蕉堂建つ京都同二七歲師宋阿の歿後江戶を去り下總結城なる雁宕のもとに寄寓す同三玄癸二八歲西の奥に巴人追悼の句入集京都延享元押二月廿一日改元二九歲野州字都宮にありて歲旦帖を輯す○宰鳥の號を蕪村と改む盤澤北歿○七日三十日中川宗瑞歿六十二月廿七日市川三升歿二十一〇七月三日常同二丑乙三〇歲早見晋我追悼の曲を作る十月家重將軍宣下○正月廿八日早見晋我歿七十五〇十一月十一日八文字屋自笑歿八十餘○延亭廿歌仙(湖十)刊正月廿四日二世湖十歿○二月十五日二世靑峨歿四十九〇江森月居生る同三寅丙三一歲五月十日廬元坊歿五十六〇五月三十日大宰春臺歿六十八〇六月三日小川破笠歿八十五○十月廿四日菊岡沾凉歿六十二〇十二月六日中川貞佐殿六十八〇五元集(旨原編)刊五月卅日佐久間柳居歿六十三〇七月十一日和田希因歿五十一〇冬西海春秋(田鶴樹編)刊同四卯丁三二歲戊寛延元辰七月十二日改元二已己三三歲西海春秋に連句發句入集す同三四歲五月二十五日野村蝸名歿○寺村百池生る同三午庚三五歲淡々浪花に下る○下村春坡生るこれまで數年間諸方に遊歷し、この年冬京都に西歸す○冬古今短册集(毛越編に跋す○冬洛北に遊び「鴛の美をつくすらん冬木立」の句を得三月十三日東山双林寺に練石等の催せる貞德追善法樂十百韻の席に列す○夏大德寺に遊び「時鳥繪になけ東四郞二郞」の吟あり○反古衾に句出づ辛寶曆元未十月廿七日改元申壬同二五月一日長谷川馬光歿○九月八日祇園南海殁七十六〇雪おろし(參太)成る七月廿九日山口羅人殁五十四〇貞德百囘忌○八月續五元集刊○双林寺千句(練石等編)菅の風(夕靜編)七月反古衾(雁宕等編)刊○松村月溪生る六月廿一日立羽不角歿九十二〇八月廿五日彭城百川歿五十六六月廿五日櫻井吏登歿七十四〇十一月廿四日祇德歿五十三〇六月雁宕催にて巴人十三囘追善を營む○六月宋屋阿誰、大濟の主嘯山武然等巴人十三囘追善集明の蓮を編す三六歲同三七歲同三酉癸三八歲同四戍甲三九歲夜半亭發句帖に跋す○春丹後に去る附錄蕪村年譜
蕪村全集同五亥乙四〇歲丹後與謝に客たり、又こゝに至る五月廿八日雲裡房及び夏雲裡房巡歷して宮津の俳人等と歌仙を興行す四月十一日右江渭北歿○二月夜半亭發句帖(雁宕等編)、杖の土(宋屋)刊同六子丙四一歲三月宮津俳人等との歌仙あり六月廿五日山本龜成歿○其角嵐雪五十囘忌○東風流(春來)刊同七町四二歲九月與謝より京都に歸る○咄相人(几圭)、机墨(宋屋)刊四月廿七日富岡有佐歿○九月廿四日市河柏莚殁七十一〇内田沾山殁四十三〇六月宋屋の主催にて巴人十六囘追悼集戴恩謝を編す六月廿一日服部南郭歿七十六〇九月十三日田川移竹歿五十一〇十月廿五日大場寥和歿八十三同八寅戊四三歲巴人十七囘忌に追悼の句を手向く同九卯己四四歲同一○辰庚四五歲秋雲裡房より筑紫巡歷に同行をすゝめられたれど辭す○冬〓隆双馬圖を描く七月家治將軍宣下〇十二月廿三日高井几圭歿七十四四月廿七日渡邊雲裡歿六十九〇五月八日慶紀逸歿六十八〇十一月二日松木淡々歿八十八〇十一月廿五日藤井晉流歿八十二〇文素等雲裡追善集烏帽子塚を編す○樗良伊勢に無爲庵を結ぶ同一-巳辛四六歲同一二午壬四七歲○芭蕉七十囘忌○蝶夢松島に遊び松島道の記を撰す○俳諧古選(嘯山刊同一三楼四八歲八月野馬の圖を屏風二双に描く明和元申甲六月二日改元四九歲北村隆志歿七十八月廿七日正木風狀歿五十二〇九月十八日同二酋五〇歲○武然歲旦帳を出す同三朗五一歲春旅行して京都にあらず日八文字舍白露殁○橋立の秋(鷺十)刊三月十二日望月宋屋殁七十九〇十二月十九正月南海より武然の歲旦帳に句を寄す○三月京都にありて宋屋の一周忌に追悼の句を手向くこの頃鳥丸東へ入町に住す(三月刊平安人物志)○四月讃岐丸龜妙法寺にありて襖に畫きやがて歸京す五月十日浦川富天歿○九月廿三日板羽紙隔歿五十一〇大江丸松島に遊び蓼太の門に入る○宋屋一周忌追善香世界(武然)成る四月四日白井鳥醉歿六十八〇三月雨月物語(秋成)成る○秋の日(曉臺)成る同四亥丁五二歲同五戒五三歲同一大五五四歳す○瓢簞集に宋屋の像を畫く正月鬼貫句選に跋す○平安廿歌仙に序友)刊〇十二月五疊敷(泰里)刊十月泰里上京す○鬼貫句選(太紙)刊〇五月平安二十歌仙(太祇等)刊○瓢簞集(嘯山賈同七庚寅五五歲室町通綾小路下町に住す三月夜牛亭を襲ぎ文臺を開く、この頃曉臺奧州に遊ぶ○俳諧家譜拾遺(十口)刊附錄蕪村年譜
蕪村全集同八卯辛五六歲配して十宜圖を作る春歲旦帳を出す○八月大雅の十便圖に歿○伏見の人鶴英歿○哇臺東國に行脚す八月九日炭太祇歿六十三〇十二月黑柳召波壬安永元辰十一月十六日改元九月十一日松木竿秋歿七十八〇十二月十五日箱島阿誰歿六十二〇秋其雪影(凡董)、太祇句選刊砂岡雁宕歿九月廿四日竹護窓嵐山歿四月廿一日湯淺隨古歿五十四〇七月三十日〇五月馬南西播の旅より歸り薙髮し住す○九月上旬樗良上京す○上田秋成長柄秋大阪に移月(太祇三囘忌追善、に移る○明烏(凡董)俳諧新選(嘯山)、五雲)刊石の五七歲九月太祇句選に跋す○其雪影に序す四月蕪村の前句に諸子をして二句をつがしめ三句の轉を評す○夏下河原睡虎亭に舊國等と會し俳諧興行○九月嵐山す居にて一夜四吟擧行○このほとりに序九月このほとり刊正月下浣也哉抄に序す○三月廿三日樗良凡董と三吟歌仙二卷興行○四日七日丈芝等と歌仙興行○亭に、澤澤土、等等、 、 、 、 、 、 、 、 、領収日下の人民間には四月卅三囘追善昔を土朗凡董等と嵯峨に吟行す○人附合集を撰し之に序す八月玉藻集刊○九月頃娘手ならひに行く○正月十日歲旦開○正月十二日大魯來訪得たれども十月下旬より又惡し○冬娘○三月以來病氣夏秋を經一時小康を琴の組入す○この頃佛光寺烏丸西へ八町に住す(十一月平安人物志)伏見鷺喬の歲旦帳に句を寄す○左比思遠理に序す○二月廿七日東山下に曉臺等と會し歌仙興行○二月中より娘兩腕同二已癸五八歲三月十八日建部涼袋歿五十六〇四月十朗都貢京坂に遊ぶ○十月曉臺湖南高雄に遊ぶ○來抄(曉臺)三月也哉抄(秋成)刻成る○夏昔を今刊瓜の實(一音)、幣袋(士朗)刊○○去冬ゑぼし桶(美角)成る同三午甲五九歲九月八日千代尼歿七十四○九月十四日宮本五始歿五十七〇六月曉臺佐渡に遊びそれより東都へ行脚す○秋成大阪に出づ○五子稿(大魯)、佐渡日記(旦水)附合小鏡(蓼太)刊同四未乙六〇歲四月十三日池大雅歿五十四〇四月米候歿○いたみ八九月頃まではか〓〓しからず100%使用上手○牛肉炒飯炒飯炒飯炒飯月る三十日七同様で大阪府中央区大学附中学校几董等と會す○歌八明太子明旅旅游行に行から仙興行○不在〇九月十四日九董居に月居八七番と會す○九月末娘の手の工合やゝ快し○十月大阪にて病み東菑の家に逗留す○十二月娘結婚す正月中旬より二月にかけて病む○春興夜半樂を出す○四月新花摘起稿病の爲半途にして廢す○四月廿二日三本木水樓に道立、廿六日凡董居にて几董二柳と三吟歌仙几董、大魯等と會す○四月興行○五月十二日荷葉樓に二柳送別の歌仙興行○五月娘を嫁入先より取返す〇十二月七日春泥句集に序す二月十日、四月十日、五月十日夜半亭小集○三月九日几董と共に伏見より晝舟にて浪花に下り十日舊國と三人網島に遊び夕暮機の宮の邊吟歩 、十十二黃火大阪府おもしやさしく街道に行く日兵庫着牛肉面ライメードルドクップ來屯が別業に宿す新鮮奶茶院小集十六日來屯亭會、十日脇の濱に歸る十八日十九一覽證據書籍廿日滯留CHICALON新鮮な事件句を送る蕪村年譜五月八日都貢歿○春曉臺几董桃山に遊ぶ○五月樋口道位の發起にて金福寺芭蕉庵再興落成し蕪村道立几董等寫經社を結ぶ○七月櫻良在京○八月曉臺在京○正月左比志遠理(一音)刊○芭蕉翁付合集(蕪村)續新虛栗(麥水)、月の夜(樗良)刊明烏(几董)、同五申丙六一歲三月廿日淺田八百彦歿八十一〇十一月廿六日興津雅因歿○五月大骨大阪を去り兵庫に移る○春泥句集、良)、蕭條篇(都貢追善、徐英)、太祇句選後篇、花七日(樗桐の影雲雲追善、巨洲)蓼太句集刊同六町六二歲六月十六日小栗旨原歿五十四〇五月吉分大十一月十三魯上京滯在廿五日にして歸國日京都にて病歿す○樗良山代溫泉に遊ぶ七戊戍六三歲同附錄
蕪村全集六月十四日竹溪和尙殁○七月廿日谷口田女歿〇七月廿早川丈石歿八十五〇十二月平づれ(杜口)刊賀源内歿五十四〇樗良史科に遊ぶ○ふたり四月薰村を宗匠として几董を會頭とする俳諧修行の會を結び二十日を定日陰句選に序すとして毎月會を開くこととす○十月芦廿五日金福寺會に出席す○秋几董と桃正月廿一日連句會初會に出席す○九月李兩吟歌仙興行○桃李に序す番左右句合を判す記して金福寺にとゞむ〇八月十四日十五月廿八日芭蕉庵再興記を再び自筆に五月花鳥篇に序す○六月俳題正名に序す○この頃佛光寺烏丸西入町に往す(七月刊4安人物志)〇九月幻住庵に曉臺を訪ふ(西村燕々氏說)正月廿一日春夜樓にて俳諧興行○三月蕉追善の俳諧に列席す十七日洛陳安養寺に於ける曉臺主催芭三月廿三日同じく金福寺に於ける追善の俳諧に列席一、一、一、一、一、、五郞電腦自治す〇十二月廿五日歿同八亥己六四歲同九子庚六五歲十一月十六日三浦樗良殁五十二〇桃李刊天明元四月二日改元丑辛六六歲殁六十八四月廿九日風律歿八十四〇九月十日諸九尼同二寅壬六七歲正月廿一日一鼠歿五十三○十月卅日馬場存義歿八十一〇十一月廿九日谷口樓川歿○花鳥篇刊○九月俳題正名刊正月廿六日松濤芙蓉花歿六十三〇二月廿八歿八十二〇十月十五日堀麥水歿六十三〇三日二世平砂歿七十六〇六月十六日橫井也有月十日より十二日まで義仲寺に於て十三日より十六日まで東山双林寺に於て次で金福寺に於て曉臺の主催にて芭蕉百囘忌行を取古刊越して行ふ○風羅念佛(曉臺)成る○五車反三孵同六八歲年代別發句集元文三年君が代や二三度したる年忘れ(宰町)元文四年お物師の夜明を寢ゐる師走哉(宰町虱とる乞食の妻や梅がもと(宰町)橋鉢のみそみめくりや寺の霜(不詳)寛保元年行く年や芥流るゝさくら川(宰鳥)寛保二年我が淚古くはあれど泉かな(宰島)寬保四年水引も穗に出でけりな衣配(宰鳥)鷄は羽にはつねをうつの宮柱(宰鳥)古庭に鶯啼きぬ日もすがら(以下蕪村延享年間川かげの一株づゝに紅葉哉附錄年代別發句集柳ちり〓水かれ石ところ〓〓延享乃至寶曆初年猿どのゝ夜寒訪行く兎哉わが足にかうべぬかるゝかゝし哉我が手に我を招くや秋の暮草餅に我苔衣うつれかしうかれ越せ鎌倉山を夕千鳥伐倒す木はそのまゝの落葉哉肌寒し己が毛を嚙む木葉經寶曆元年鴛に美をつくしてや冬木立寶曆二年百年の枝にもどるや花の主時鳥畫になけ東四郞二郞寶曆六年短夜や六里の松に更たらず寶曆七年せきれいの尾や橋立をあと荷物寶曆八年十七年さゝげは數珠にくり足らず寶曆十年秋風の動かして行くかゞし哉寶曆年間辛崎の朧いくつそ與謝の海夏川を越すうれしさよ手に草履蟬も寐る頃や衣の袖疊春の海ひねもすのたり〓〓哉絹着せぬ家中ゆゝしや衣更ならし來てわが夜恰め鉢叩順禮の目鼻書行くふくべ哉明和四年一筋もすたる枝なき柳かな線香の灰やこぼれて松の花明和六年(以前) (宰町) (宰町(宰町) (不詳) (宰鳥) (宰島)
蕪村全集行く春や選者を恨む歌の主足あとを字にもみられず閑古鳥秋をしむ戶に音づるゝ狸かな木の端の坊主の端や鉢たゝき明和七年(以前)難波女や京を寒がる御忌詣きのふ去にけふ去に雁のなき夜哉兀山や何にかくれて雉子の聲白梅の枯木に戻る月夜哉けふのみの春を歩行てしまひけり初午やその家々の袖疊鮎くれてよらで過行く夜牛の門離別れたる身を踏込て田植哉古井戶や蚊に飛魚の音闇し負まじき角力を寢物語哉とかくして一把に折ぬ女郞花迷子を呼べば打止むきぬた哉缺け〓〓て月もなくなる夜寒哉一わたし遲れた人にしぐれ哉寒月に薪を割る寺の男かな戶に犬の寢かへる音や冬籠鰒汁の我活きてゐる寢覺哉腰ぬけの妻美しき火燵かな出る杭を打たうとしたりや柳哉明和九年(以前)洗足の盥ももりてゆく春や學問は尻からぬける螢かな雨乞の小町が果や落し水夕顔のそれは髑髏か鉢叩明和九年鶯やかしこ過たる軒の梅魂かへれ初裏の月のあるじなら明和年間行く春や白き花見ゆ垣のひま見失ふ鵜の出所や鼻の先百姓の生きてはたらく暑哉雷に小屋燒かれけり瓜の花夕立や足の生えたる明俵蟲干や甥の僧訪ふ東大寺思ふこといはぬさまなる海皇哉畠にもならで悲しき枯野哉これきりに徑つきたり芹の中安永元年(十一月改元)耳さむし其もち月の頃留り細道を埋みもやらぬ落葉哉細道になり行く聲や寒念佛屋根低き宿うれしさよ冬ごもり埋火や終には煮る鍋のもの鴛や池に音なき樫の雨雪沓をはかんとすれば鼠行く冬籠燈下に書すとかゝれたり古池に草履沈んでみぞれけり雪拂ふ八幡殿の內參木枯しや碑をよむ僧一人明和七年蜂蜜に根はうるほひて老木哉花守の身は弓矢なきかゝし哉明和八年年守や乾鮭の太刀鱈の棒行く年や氷にのこすもとの水鶯を雀かと見しそれも春かつらきの紙子脫かばや明の春風鳥のくらひこぼすや梅の風うすぎぬに君が朧や峨眉の月餅舊苔の僕を削れば風新柳の削掛鶯の麁相がましき初音かな角文字のいざ月もよし牛祭安永二年(以前)畠にもならで悲しきかれ野哉鶯のあちこちとするや小家がち茶の花や黄にも白にも覺束な高麗船のよらで過行く霞かな風や何に世渡る家五軒春の水山なき國を流れけり初雪の底をたゝけば竹の月朧夜や人たゝずめる梨の園大兵の假寢あはれむふとん哉牡丹散てうち重りぬ二三片音なせそたゝくは僧よふぐと汁淺間由烟の中の若葉かな水鳥や提灯寒き西の京飯櫃の底たゝく音やかんこ鳥寒月や僧に行きあふ橋の上味噌汁を食はぬ娘の夏書哉大雪となりけり關のとざし時腹あしき隣同士の蚊やり哉山水のへる程へつて氷りけり禪に團扇さしたる亭主哉稻妻や二打三打劔澤石切の鑿冷したる〓水哉雪の河豚鮟鱇の上にたゝんとす吸殻の浮葉に烟るはちす哉おちこちおちこちとうつ砧かな掛香や啞の娘のひとゝなり團炭法師火桶の窓から窺けり秋來ぬと合點のいたる嚏哉炉燵出てはや足もとの野川哉古〓の座頭に逢ひぬすまふ取不二ひとつ埋み殘して若葉哉黃昏や萩に鼬の高臺寺春の夜や宵あけぼのゝ其中に人をとる淵はかしこか霧の中鰒のつら世上の人を白眼む哉うき人に手をうたれたる砧哉苗代や鞍馬のさくら散りにけり手燭してよきふとん出す夜寒哉牡丹散てうち重りぬ二主片枕上秋の夜を守る刀かな頭へやかけん裾へや古衾窓の灯を山へな見せそ鹿の聲變化すむやしき貰うて冬籠白菊や庭にあまりて畠まで勝手まで誰が妻子ぞ冬籠附錄年代別發句集苦にならぬ借錢負ふて冬籠海鼠にも鍼をして見る書生哉大〓そしれば動く海鼠かなこがらしや廣野にどうと吹起るこがらしや萩も薄もなくなりて木枯しや覗いて逃る淵の色こがらしやこの頃までは萩の風炭賣に鏡見せたる女かな炭やきに汁たうべてし峯の寺山水のへる音減りて氷かなおとごぜのうは着めでたき夜寒哉二本づゝ菊まゐらする佛連面白や葉に柄をすげてちるいてふものいはで繕ふていぬ崩れ築旅人に我夜知らるゝきぬたかな行秋の所々や下り築いてふ踏てしづかに兒の下山哉しかノ〓と主も訪來ずくだり築子供氣に寺おもひ出るいてふ哉裂けたかと見る葉も交るいてふか哉安永二年行く年の女歌舞伎や夜の梅鶯の二聲はなく枯木哉
蕪村全集脫ぎかふる梢もせみの小河哉萍を吹きあつめてや花むしろ荻芒穗に顯はるゝ後光哉薄見つ萩やなからんこの邊春雨や人住て烟壁を洩る瓜小家の月にやおはす隱君子甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋ほとぎ打つて鰒になき世の人とはん門を出れば我も行く人秋のくれ菊つくり汝は菊の奴哉女郞花そも莖ながら花ながら門を出て故人に逢ひぬ秋のくれ貴人の岡に立聞く砧かな細腰の法師そゞろに踊哉姓名は何子か號はかゝし哉子鼠のちゝよと啼くや夜半の秋いな妻や堅田泊りの宵の空いな妻やはし居うれしき旅舍りいざ雪見容す蓑と笠雪の旦母屋の烟のめでたさよ里ふりて江の島白し冬木立安永三年(以前)若竹や夕日の嵯峨となりにけり全集安永三年わが宿の鶯聞かん野に出てつゝじ野やあらぬ所に麥畠菜の花や月は東に日は西にみじか夜の闇より出でゝ大井川落合うて音なくなりし〓水哉夕風や水靑鷺の脛をうつ短夜やさゝら波よる捨筋けしの花籬すべくもあらぬ哉花茨故〓の道に似たる哉垣越えて墓の避行かやり哉目にうれし戀君の扇ま白なる花の雲三重にかさねて雲の峯水落ちて細脛高きかゝし哉枯尾花野守が鬢にさはりけり狐火のもえつくばかり枯尾花老が戀忘れんとすれば時雨哉木兎の頰に日のさす時雨哉靈運もこよひは容せ年忘すゝはきや調度少き家は誰梅折て皺手にかこつかをり哉紅梅や比丘より劣る比丘尼寺鶯や比叡をうしろに高音哉塊にむちうつ梅の主かな陽炎や簀に土を愛す人陽炎にしのびかねてや土龍雉子なくや坂を下りのたびやどり鶯の枝末を摑むちから哉指南車を胡地に引去電哉等閑に香性く春の夕哉安永四年以前)薄生ふ池のみかさや春の雨山鳥の枝ふみかふる夜長かな安永四年御忌のかねひゞくや谷の氷迄麥刈りぬ近道來ませ法の友嵐雪とふとん引合ふ佗寢哉安永五年(以前)耕や鳥さへ啼かぬ山かげに若竹や橋本の遊女ありやなし夕立や草葉をつかむ村雀ひたと犬の鳴く町すぎで躍哉物焚いて花火に遠きかゝり舟うき我に砧うて今は又やみねわが頭巾うき世のさまに似ずも哉初雪や消ゆればぞ又草の露磯千鳥足をぬらして遊びけり西吹けば東にたまる落葉哉乾鮭や琴に斧うつ響あり年守夜老は尊く見られけり小男鹿や角遠近にひとつづゝこちら向に立つ鳴はなし秋の暮草枯れて狐の飛脚通りけい頭巾二つ一つは人に參らせむ安永五年居眠りて我に隱れん冬籠鳴瀧の植木屋が梅咲きにけり五月雨や田毎の闇となりにけり狂居士の首にかけたか鞨鼓鳥椎の花人もすさめぬにほひ哉牡丹切つて氣の衰ひし夕哉散りて後俤に立つ牡丹哉短夜の淺井に柿の花を汲む短夜や曉早き京はつれ山人は人かんこ鳥は鳥なりけり郭公待つや都の空だのめなか〓〓に雨の日は啼し閑古島附錄年代別發句集しのぶ夜の己尊しほとぎす岡の家の海より明けて野分哉綿つみや煙草の花を見て休む白露の篠原へ出る檜原哉白菊の一もと寒し〓見寺起きて居てもう寢たといふ夜寒哉去年より又寂しいぞ秋の暮紀路にもおりず夜を行雁一つ俵して藏め蓄へめ蕃椒美しや野分のあとの蕃椒三度ないて聞えずなりぬ雨の鹿立聞の心地なりけり鹿の聲鹿笛を僞りならす山屋形黑谷の隣は白しそばの花手にとらじとても時雨の古草鞋千鳥聞く夜を借せ君が眠るうち夜桃林を出て曉嵯峨の櫻人耳目肺膓こゝに玉卷芭蕉哉夜を寒し寢心とはむ吳服町月今宵主の翁舞ひ出でよ名月や夜を逃れ住む盜人等盜人の首領歌よむけふの月山の端や海をはなるゝ月も今名月やかしこき物は人ばかり名月や露にぬれぬは露斗仲丸の魂祭せむけふの月なか〓〓に獨なればぞ月の友篁に鸞なくや忘れ時こちの梅も隣の梅も咲きにけり乾鮭に腰する市の翁哉安永六年(以前)花の香や嵯峨のともしび消る時燕啼いて夜蛇をうつ小家哉靑梅や棒心の人垣をへだつ佗禪師乾鮭に白頭の吟を彫る宗祇我を戀ふ夜眉毛に月の露を貫く鐘老聲饑ふて鼠樒をはみこぼす鍋提げて淀の小橋を雪の人安永六年歲旦をしたり顏なる俳諧師やぶ入や浪花を出でゝ長柄川春風や堤長うして家遠し一軒の茶見世の柳老いにけり春もやゝあな鶯よむかし聲白梅や鶴磐を着てうたゝ對すなき人のあるかとぞ思ふ薄羽織一
蕪村全集なつかしき夏書の墨の匂ひ哉春や穗麥が中の水車花の雲五色の雲のうはかさね水にちりて花なくなりぬ崖梅梅遠近南すべく北すべく梅かゝやひそかにおもき裘むくつけき下部倶したる梅見哉別莊法師が花も隣也花咲いて鶴もすさめぬ薺かな雁行いて門田も遠く思はるゝ舞ひ〓〓の場設けたり梅がもとみのむしの古巢に添うて梅二輪つゝじ咲いて石移したる嬉しさよ五月雨や大河を前に家二軒涼しさや鐘をはなるゝ鐘の聲雨後の月誰ぞや夜ぶりの脛白き身やいつの長良の鵜舟かつて見て靑梅に打鳴らす齒や貝のごと凩に鰓吹るゝや鉤の魚灌佛やもとより腹はかりのやど卯月八日死んで生まるゝ子は佛更衣身にしら露のはじめかな衣更母なん藤原氏なりけりほとゝぎす歌よむ遊女聞こゆなる朝比奈が曾我を訪ふ日や初鰹麥秋や狐の退かぬ小百姓麥の秋さびしき顏の狂女かな麥刈つて瓜の花待つ小家かな初鰹觀世太夫が端居かな殿原の名古屋顏なる鵜河かな袂して掃ふ夏書の机かな練供養まつり顏なる小家かな澁柿の花散る里となりにけりぼうふりの水や長沙の裏借家不動ゑがく宅磨が庭の牡丹かな袖笠に毛蟲をしのぶ古御逹討ち果たす梵論連れ立つて夏野かな柚の花やゆかしき母家の乾隅笋や垣のあなたは不動堂橘や昔館の弓矢取谷路行く人は小ひさき若葉かな顏白き子のうれしさよ枕蚊帳床低き旅の宿りや五月雨若竹や十日の雨の夜明方金屏の赫奕として牡丹かな南蘋を牡丹の客や福西寺ぼうたんや白銀の猫黄金の蝶牡丹ある寺行き過ぎし恨みかな耳うとき父入道よほとゝぎす小原女の五人揃ふて袷いな更衣矢瀨の里人ゆかしさよ白銀の花さく井出の垣根かな卯の花や貴布禰の神女の練の袖遠近に瀧の音聞く若葉かな山畑を小雨晴れゆく若葉かな般若讀む庄司が宿の若葉かな夜走りの帆に有明けて若葉かな笋や五助畠の麥の中葉櫻や草鹿作る兵等短夜や八聲の鳥は八つに啼く日光の土にも彫れる牡丹かな短夜や葛城山の朝曇夏山や神の名はいさしらにぎて蹇の三熊まうでや蝸牛關越える壁車や蝸牛少年の矢數問ひ寄る念者振ほの〓〓と粥に明けゆく矢數かな若楓矢數の篝もみぢせよ大矢數弓師親子もまゐりたる葉櫻や奈良に二日の泊り客麥秋や鼬鳴くなる長が許麥秋や遊行の柩通りけりやゝ二十日目も更けゆく牡丹かな山蟻のあからさまなり白牡丹方百里雨雲よせぬ牡丹かな詠物の詩を口ずさむ牡丹かな山蟻の復道造る牡丹かな草の戶によき蚊帳たるゝ法師かな木がくれて名譽の家の幟かな柚の花やよき酒藏す塀の內淺河の西し東す若葉かな夏山や京盡くし飛ぶ鷺一つ賣ト先生木の下闇の訪はれ顔柿の花きのふ散りしは黄ばみ見ゆ山梔子の花咲く方や日にうときごつ〓〓と僧都の咳や閑古鳥掘り喰ふ我が笋の細きかな笋を五本くれたる翁かな麻を刈れと夕日此の頃斜なる藻の花や小舟寄せたる門の前閑古鳥かいさゝか白き鳥飛びぬ辻堂に死せる人あり麥の秋三井寺や日は午にせまる若楓朝風の毛を吹く見ゆる毛蟲かな我が水に隣家の桃の毛蟲かな鮓漬けてやがて去にたる魚屋かな附錄年代別發句集鮒鮮や彥根の城に雲かゝる鮓壓してしばし淋しき心かな朝風に毛を吹かれゐる毛蟲かな鮓を壓す我れ酒釀する隣あり鮓を壓す石上に詩を題すべく鮓桶を洗へば淺き遊魚かな眞しらけのよね一升や鮓の飯卓上の鮓に目寒し觀魚亭若楓學匠書に眼をさらす鮓の石に五更の鐘の響きかな寂寞と書間を鮓の熟れ加減藥園に雨降る五月五日かな巫女町にこき衣すます卯月かな一八やしやが父に似て著義の花蝙蝠の隱れ住みけり破れ傘篝焚く矢數の空をほとゝぎす家古りて幟見せたる翠微かな沼繩採る小舟に歌はなかりけり酒を煮る家の女房ちよと惚れた梢より放つ後光や櫻欄の花靑梅や微雨の中ゆく飯煙ゆかしさよ樒花咲く雨の中芍藥に帋魚うち拂ふ窓の前靑梅やさてこそ知りぬ豐後橋若竹や是非もなげなる蘆の中蟻王宮朱門を開く牡丹かな浮草も沈むばかりよ五月雨近道や水踏み渡る皇月雨五月雨や鳥羽の小道を人の行く五月雨に見えずなりぬる徑かな五月雨や滄海を衝く濁り水五月雨や水に錢踏む渡し船濁江に鵜の玉の〓や五月雨攝げあへぬはだし詣りや皐月雨五月雨や鵜さへ見えなき淀桂皐月雨や貴布禰の社燈消ゆる時小田原で合羽買ひたり五月雨關伽桶に何の花そも五月雨葉を落ちて火串に蛭の焦ける音宿近く火串まうけぬ雨のひま照射して囁く近江八幡かな雨やそも火串に白き花見ゆる谷風に附木吹き散る火串かな兄弟の獵夫中よき火串かなあが汲んで小舟あはれむ五月雨水ふるき深田に苗の綠かな今日はとて嫁も出でたつ田植かな泊りがけの伯母もむれつゝ田植哉
蕪村全集獺の住む水も田に引く早苗かな參河なる八橋も近き田植かな五月雨の大井越したるかしこさよ午の貝田唄音なくなりにけり獺を打ちし翁も誘ふ田植かな五月雨の堀賴もしき岩かな鯰得て戾る田植の男かな葉櫻の下蔭たどる田草取早乙女や黄楊の小櫛はさゝで來し昆布で葺く軒の雫や五月雨安永七年筋違にふとんしいたり宵の春わが歸る道幾筋ぞ春の草もしほ草柿のもとなる落葉さへ痩脛や病より起つ鶴寒し大和假名いの字を兒の筆始め年是亥子の日にさゝぐ千々の松安永八年(以前)山に添うて小舟漕行若葉哉安永八年罷出たものは物臭太郞月かしこにて昨日も鳴きぬ閑古鳥摑みとりて心の闇の螢かな紙燭して廊下過るやさつき雨紅葉して寺あるさまの梢かな秕多き稻をとく刈る翁かな寒梅を手折るひゞきや老が肘鋸の音貧しさよ夜半の冬鶯の二聲耳のほとりかな撞木町うぐひす西へ飛去りぬ下駄かりてうら山道を梅見哉庵の梅屁ひりて立て徘徊す舟よせて鹽魚買ふや岸の梅梅咲いて小さくなりぬ雪丸け散る梅に彷彿として霰降る江の梅に龜の甲干す書間哉春雨やゆるい下駄かす奈良の宿安永年間杜夫魚のえもの少き翁かな玉霞漂母が鍋かみだれうつ私語頭巾にかづく羽織哉すがめなる醫師わびしき頭巾哉冬木立家居ゆかしき麓かな老なりし鵜飼ことしは見えぬ哉詞多く早瓜くるゝ女かな湖の月やよ望に降り雪かとぞ安永九年鶯やいばら潜りて高う飛ぶ妹が垣根三味線草の花咲きぬ源八を渡りて梅のあるじ哉海苔掬ふ水の一重や宵の雨古河の流引きつゝ種ひたし花に來て花に居眠るいとま哉石高な都よ花のもとり足居風呂に後夜聞く花の歸り哉鶯のたま〓〓啼くや花の山傾城は後の世かけて花見かな花にまはで歸るさにくし白拍子折りもてる蕨しほれて暮遲し目に遠くおぼゆる藤の色香哉きのふくれけふ又くれて行く春や飛びかはすやたけ心や親雀歌屑の松に吹かれて遲ざくら浴して蚊やりに遠き主哉もえ立つて顏恥かしき蚊やり哉僧とめて嬉しと蚊帳を高う釣る短夜や足跡淺き由井が濱きのふけふ高根の櫻見ゆる哉己か羽の文字もよめたり初鳥やぶ入の宿は狂女の隣かな水仙や寒き都のこゝかしこ古傘の婆〓としくるゝ月夜哉櫻なきもろこしかけてけふの月うぐひすの鳴やちいさき口明てうつほ木の春をあはれむ木魚哉身の秋や今宵をしのぶあすもあり悲しさや釣の絲吹く秋の風稻妻の一網うつやいせの海天明二年(以前)初午や物種賣に日の當る神棚の灯は怠ら蠶時蚊帳を出て奈良を立ちけり夏木立高灯籠消えなんとするあまたゝび鉢叩これらや夜の都なる岩倉の狂女戀せよほとゝぎす靑柳や芹生の里の芹の中春月や印金堂の木の間より鶯の啼くや鵜殿の河柳花ちりて身の下闇や檜木笠袷着て身は世にありのすさび哉附錄年代別發句集折りくるゝ心こぼさじ梅嫌いばりし蒲團ほしたり須磨の里天明二年蓬萊の山祭りせん老の春遲き日や雉の下りゐる橋の上春の雨日暮れむとしてけふもあり春雨や鶴の七日を降くらす御影講の蓮やこがねの作り花遙拜や我もふしみの竹の雪月に漕ぐ吳人はしらじ江鮭丸盆の椎に昔の音聞かむ秋寒し藤太が鎬ひゞく時住むかたの秋の夜遠き灯影哉三井寺や月の詩つくるふみ落し草霞み水に音なき日くれ哉折釘にゑぼしかけたり宵の春苗代の色紙に遊ぶ蛙かな夕暮も知らぬではなし羽拔鳥花に遠くさくらに近し吉野川松島で死ぬ人もあり冬籠松島で古人となるか年の暮秋の哀忘れんとすれば初時雨木枯しや釘の頭を戶に怒る半江の斜日片雲の時雨かな天明三年(以前)雉子啼くや草の武藏の八平氏筏士の簑や嵐の花衣雪折や吉野のゆめのさむる時はつ午や鳥羽四塚の鷄の聲雉打て歸る家路の日は高し法然の珠數もかゝるや松の藤たらちねの抓まてありや雛の鼻ゆく春や重たき琵琶の抱心祇や鑑や髭に落花を捻りけり岩倉の狂女戀せよほとゝきす短夜やいとま給はる白拍子廣庭の牡丹や天の一方に點滴にうたれて籠る蝸牛蕎麥あしき京をかくして穗麥哉靑梅に眉あつめたる美人哉遠淺に兵舟や夏の月花いばら古〓の路に似たる哉床凉笠着連歌の戾り哉細腰の法師すゞろに踊かな落日の潜りて染るそばの莖去年より又淋しいぞ秋のくれ
蕪村全集夜を寒み小冠者臥たり北枕冬籠灯光虱の眼を射る冬されや北の家陰の韮を刈るいざ雪見容す蓑と笠水仙に狐遊ぶや宵月夜天明三年紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞山吹や井手を流るゝ鉋屑鶯に終日遠し畑の人歲月は三のかほりや福壽草空に降るはみよしの櫻嵯峨の花きのふ見し萬才にあふや嵯峨の町傀儡の赤き頭巾やうめの花涼しさを集めて四つの山おろし線香やますほの薄二三本君見よや拾遣の茸の露五本鮎おちていよ〓〓高き尾上哉帛を裂く琵琶の流や秋の聲冬鶯昔王維が垣根哉鶯や何ごそつかす蔽の霜白梅に明くる夜ばかりとなりにけり補訂木のはしの坊主のはしや鉢たゝきあなたふと茶もだぶー〓と十夜哉山水のへるほどへりて氷かな大兵の假寢憐むふとん哉(以上明和六年)時雨松ふりて鼠の通ふ琴の上蓑蟲のふらと世にふる時雨哉しぐるゝや山は帶する隙もなし化けさうな傘かす寺の時雨哉(以上明和七年)時雨音なくて苔に昔をしのぶ哉爐に燒て煙を握る紅葉哉初雪や消ればぞ又草の露(以上安永三年)雁行て門田も遠く思はるゝ老なりし鵜飼ことしは見えぬ哉(以上安永五年)附記○芥川龍之介氏が文筆多忙の際にもかゝはらず、特に本書の爲に序文を寄せて下さつた。この貧しいさゝやかな仕事に對して、それほど期待を持つて頂いたことは、私にとつてどんなに嬉しいことであつたらう。氏の現文壇に於ける地位については、今さらこゝに述べるまでもない。一代の才筆として文名は日に噴々と傳へられて居る。氏の藝術と蕪村の俳諧と、それはもとより直ちに比較し得べき性質のものではないかもしれぬ。しかし他の追隨を許さない氏の藝術境は、之を天明の俳壇に縱橫獨步した蕪村の新調と相對して、その間自ら相通ずる趣があるのを認め得ないであらうか。あれ天才蕪村の全集に、氏の序文を得たことは、何よりもふさはしいことであり、また編者としては此上もなく光榮に思ふ次第である。氏はなほこの序文に添へて「序文に僞なし、蕪村全集の市に出づる日を待ち焦るゝ事一方ならず云々」といつて下さつま附記
蕪村全集た。が愈々出來上つて見ると、後から〓〓と發見された新資料によつて訂正すべき點が多くなつて、今更大方の期待に十分副へない事を恥ぢるばかりである。○京都寺村助右衞門氏は、蕪村が夜半亭をついだ頃から隨仕して、村のため物質的の後援に力を盡した寺村百池の後裔である。氏は府會議員、市會議員等の公職にあつて日夜最も多忙であるにもかゝはらず、特に半日の閑を割いて編者の爲に村の書簡遺墨等數十點を見せて下さつた。補遺として附した書簡文章等が卽ちそれである。そのすべてが殆んど今まで世に發表されてゐないものばかりで、蕪村〓究上稗益する所は實に少くない。又卷頭寫眞版の蕪村像も同氏の藏で、月溪の筆になるものである。夜半亭で寫したとあるから、恐らく蕪村の生前に描いたものであらう。蕪村の像はこれまで管見に入つたものだけでも六七にとゞまらないが、この像は日夜村に親侍した月溪の筆だけあつて、最もよくその風丰を傳へてゐるやうである。今同氏の好意によつて之を本書の卷頭に揭ぐることが出來たのは何よりも喜しいことであつた。深く同氏の好意に感謝する次第である。なほ同家は百池以來の舊家として家運益々發展し、村翁池叟に關する文獻の藏せらるゝものが非常に多いといふことである。寺村氏が他日この寶庫を悉く開いて、蕪村を中心とする天明俳壇〓究のために提供して下さつたら、我等學徒の喜びはどんなに大きいであらうか。切にその日の來らんことを待ち望んでゐるのである。○名古屋石田元季氏から句解の上について、いろ〓〓〓示をたまはつた事が多い。その一部を拔抄して讀者の參考に資し、併せて同氏の好意を謝する次第である。そ花の御能過ぎて夜を泣く浪花人。室町の花の御所の花の七日の御能かと存候。この花の能に芦苅(春のもの)出で浪花より奉公に來りし女房など思ひよせて夜を泣くことには無之か夜を泣くといふ詞、能が上手なりし感激などにてはあるまじきリズムと存候。謠をうたふものは浪花人といへばすぐ芦苅を連想するはわれひとりにや。月の宴秋津か聲の高きな。秋津は女の名か(假作)と存候。如何なる名にてもよけれど、秋の事なれば秋津と假に名けしか。それは若き腰元か遊里の禿の類にや、とにかく月の宴に斡旋する女の高らかなる聲が一座にひゞ三
蕪村全集四き渡る、一寸面白き情調にや。なほ秋津の名は萬葉三(古今六帖、玉匣にも)湯原王宴席歌に「秋津羽の袖ふる妹を」とあるに思ひよせしにはあらぬか。更衣身に白露のはじめ哉。更衣以後夜の步きなど面白くて夜露に打たるる事多きをいふか。詩の召風行露の章「厭浥行露豈不夙夜謂行多露」とはことちがへども、厭浥行露にはちがひなきかと存候。松浦の文かく夜半や時鳥。松〓は太夫(遊女)の名かと存候。尤も「澪標」や「一日千軒」には見えず候へども、松浦はよもや佐用姫にても玉葛にても無之と存候。戀人をまつ-こぬ人をまつほの浦の夕風に-太夫にありさうな名ならばそれでもよきかと存候。すれば文は無論わかる事にて時島といふも高雄の事など思ひよせられてをかしと存候。○原稿バ切後、故水落露石氏が「蕪村遺稿」として開板したものの原本と思はれるものを見ることが出來た。それは氏が「聽蛙亭雜筆」中にも記してある通り、「蕪村句集」や「新花摘」を刊行した鹽屋忠兵衞が出板するつもりで、蕪村の逸句を拾ひ集めておいたものである。半紙假綴で表紙の中央に「夜半翁蕪村遺稿全一册」その左右に「集者北久太郞町五丁目鹽屋忠兵衞」、「開板人北久太郞町五丁目鹽屋忠兵衞」と記してある。卷末に「享和元酉年四月」としてあるからその頃集めて出版するものであつたらしい。前、半には蕪村の手紙や自筆の句稿、文章、小摺物等を模寫して出し、後半には發句を四季別に集めてある。發句は水落氏編の「遺稿」に殆んどもれなく整理して收められてあるが、何しろ原本の筆者が餘程文盲であつたと見えて、誤字が頗る多い。水落氏がそれを判讀整理した勞は大いに多とすべきである。しかし中にはむしろ原本に不忠實な改竄を施したものもあるし、又判讀しがたく「秋津羽の袖ふる詩の召風行露の章て意味不明であつたり、あまり拙い句であつたりする爲に、故意に省いたと思はれるものもある。しかし古文獻に忠實ならんがためには、原本の出所を突き止めない限り、暫く之等も何かの資料としてそのまま殘しておかねばならないであらう。殊に前半に載せてある手紙の中には、「聽蛙亭雜筆」などにも紹介されてないものがある。又宴樂序、宇治行などの文章は、いづれも「蕪村文集」に收められてあるが、この遺稿には前者に六人の人が食卓を圍んでゐる蕪村の繪を摸寫してあつたり、後者の終りに天明癸卯九月と記してあるので、蕪村の宇治行が九月であつたことが分つたりした。この「蕪村遺稿」は更に忠實な詮鑿を經て再び刊行されてもよいものだと思ふが、今はとりあへず水落氏編の「遺稿」中に漏れたもの、甚しい相遺あるもの、及び未紹介の書簡等だけをここに採錄しておかう。尤も「股立の佐々田雄ちぬ雄春の雨、一輪を五つに分けて梅ちりぬ、長き日をましろに咲きぬ梨の花、短夜や淺井に柿の花を汲む、冬されや韮にかくるる鳥ひとつ」等の句は、水落氏の「遺稿」にもれてゐるが、本書には他の資料によつて採錄してあるから、その類のものは省いた。筈船を刷ひぬはるの雨鳥さしを尻目に數の梅咲ぬ住吉に天滿神のむめ咲ぬうくひすや老かひが耳なかりけり(マヽ)重荷もち丁身をなく夏野かな假の家の塵を掃取うちはかな(マヽ)ふたり寢の蚊屋もる月のせうと達心太手目にせんとおほしめす(手取か)岩に篠あられたはしる小手さし原凩や何をたよりの猿おがせ寒梅や出羽の人の駕の內(以上洩れし分)附記五
蕪村全集六流れ來て池をもとるや春の水烏稀に水また遠しせみの聲稻刈て化をあらはすかゝしかな長櫃に欝々たる菊のかほりかなちか付の角力に逢ぬ繡師寒月や門をたたけば沓の音口切や北も召れて四疊半春雨や鶴の七日をふりくらすきつれ火や五助新田の麥の雨折レつくす秋にテむかかしかな加茂河のかしかしらすや都人能ふとん宗祇とめたるうれしさに鶯の逢ふて歸るや冬の梅樂書の壁あはれなり今朝の雪(以上異同ある分)それから異同はなほ詳しくしらべたらまだあるだらうと思ふ。それから梨の園に人イめりおほろ月之は「俳諧新選」に出てゐる「朧夜や人イめるなしの園」の別案であらう。その他この鹽屋忠兵衞編の「遺稿」によつて、本書中訂正を要すべき點は左の通りである。ケツチキか迯たもしらぬかがしかなふゆ河や誰引すてて赤蕪(この句短册)もりにもあり冬河や舟に菜を洗ふ女有ひとり來て一人を訪ふや冬の月(マヽ)氷踏てつとに驗者木履哉(以上考證の部より除き訂正)古道と聞はゆかしき雪の下(この句出所を「遺稿、遺草」と改む)ふゆ河や誰引すてて赤蕪(この句短册)もりにもありひとり來て一人を訪ふや冬の月(以上考證の部より除き訂正) (この句出所を「遺稿、遺草」と改む)次に未紹介の書簡を採錄しておかう。○いかい事句は有之候へともおもひ出しかたく候。しかれは此たひは獨吟歌仙御登せ被下、早速引墨いたし相下可申候處、今明日は祇園會にて來客有之、ことの外の扮擾御察可被下候。あとの便りに下可申候間、飛脚被仰付御寄可被下候。手燭して鮓うかかふや今朝の雨下五猶有へく候。燭してうかかふ有さまはいまた明やらぬ夜ふかの雨にて可有之候。今朝としても明やらぬ氣色あれともとふやらしら〓〓と明たるおもむきにて候。されはいささか遺恨に候。今一練可被成候。手燭してすしうかゝはん夙に起きてかくのことくいたして可然歟。此鮓の主人はよほと洒落成人物と相見え候。つとに起てといふにて其人の風流もしられ候歟。尙いくたひも〓〓御工案可被成候。李滄溟か詩をねりたる樣に有たく候。しかし餘り案入候もあしく候。はいかいは間に髮に入れすと言〓も有之候。又李白か不用意まことはいかいの確言にて候。今日は大取込草々御返事いくのことく候。書餘重便、以上六月七日夜半靑荷子附記七
蕪村全集八○剛寒の節御安寧被成御凌奉賀候。愚老義先頃よりとかく不快にて甚こまり罷在候。漸昨今者起出候躰ニ而候。惡寒の心地耐かたく閉藏いたし生を養ひ暮申候。老病の事と被存候。併黃泉の客と成候事は露も無之候。被安懸念可被下候。月並發句合愚評則飛脚へ差遣候。病中ゆへ僻考の段も御社中へ御傳達可被下候。一、伏水宗匠家より御賴れの由、愚句加入の事本望の至に候。則書付進申候。當冬者多病故春帖も相休み候程の事故一向發句も無之候。よろしく被仰達可被下候。愚老句御加入被下候とも、京師の宗匠家同例に御加入被下義は御容捨願入候。別に御出被下候義に候はゞすいふん忝存候。此義能々御申傳可被下候。餘は期後鴻候。頓首壬月十四日蕪村山肆樣しら梅やいつの頃より垣の外右の句御加入希候○剛寒御兩君御安全被成御座めてたく存候。しかれは景物畫延引病氣の事故御免可被下候。も能樣に御見斗被下御配分可被下候。第二の景物は直々當地にて蕉雨へ相渡候。此三枚の內いつれと一、兩節の御句とも又々さし替候義いさゐ被仰聞相心得申候。漸々來場めでたく可得御意候。十二月廿日此節病後雜用さしつとひ艸々如此御座候。餘光蕪村すゝはきや調度すくなき家は誰富葉樣山肆樣○寒相募候處御安全被成御暮めてたく存候。まことに先日御噂の發句合愚評あふせにまかせ候。元來發句には高點出しかたきものに候へとも、世話候ては興少候故おひたゝしく撰ひ出し候。たま〓〓能句も見へ候へともとかく作例有之候而殘念候。其趣御社中へもとくと御申達所希候。かけとりの御句おもしろく承候。則愚意書加へ入御覽候。いつれ成共御極メ可然存候。此節多用艸々申のこし候。近々御出京奉待候。以上、十月廿八日富山此節多用艸々申の蕪村山肆樣九記
蕪村全集○因にいふ。靑荷は丹波篠山の門人で、山肆、富葉は共に山城淀の門人である。○河東碧梧桐氏が頃日讃岐地方に遊んで多くの興味深い〓究資料を採訪された。本書の材料が氏の熱心な探訪と〓究とによつて得た結果による所が非常に多かつた事は、はしがきにも述べた通りである。今又氏の新發見にかゝる資料の〓示をうけたからその重要なもの一二を紹介しておく。○爾來御踈遠相過候。彌御安全被成御座奉珍重候。拙明日出足仕候。まことに滯留中は別而御懇意實に舊相識、何とそ今一度接席仕候而寛々御いとま乞も可仕存候所、そのことなくもはや今明日計之讃州と存候得は、山川雲物共にあはれを催申候事に御座候。兎角京師より寬々可得貴意候。君義子へ此度書狀上可申所、此先生へは畫を添進上可仕と存候所、歸京ニ付雜用紛々其上何角と懷憂患事のみ多候故、不堪揮毫これも所詮京より寬々可得貴意候。此たん別而能君義子へ御申傳可被下候。其外々下屋御親子久保先生玄中君移山子御家内のこらす宜御致聲可被下候。めつたにいそかしく草々申上候以上0卯月廿二日二白留別之卒吟御めにかけ候。玄圃君年代を明かにし得ないのは遺憾であるが、見える。これらも心中おたやかならす雅懷蕭條御垂鑒可被下候。以上蕪村とに角讃岐から歸京する折のもので、何か大いに悲觀してゐる樣子が以上○爾來御踈遠罷過候處貴簡かたしけなく拜覽、先以日々寒冷相募候へとも御家内無御殘御壯健被成御暮奉恭喜候愚老無爲家內のものともゝかはらすくらし罷有候間、御安意可被下候。探幽かけ物二幅御登せ被成則鑒定左のことくに御座候。からす探幽齋筆は是は法眼時代也右いかにも眞筆にて御座候。書付も甚よろしく御座候。愚老も段々としより候て、とかく筆を取候事ものうく相成候而書畫ともに怠りかちにくらし申候。それ故に諸方の書音もおのつから等閑に罷成御ふさたにのみ相過候、御憐察可被下候。乍筆末御令內樣御令愛樣かたへもよく〓〓御傳可被下候。自分妻むすめもくれ〓〓御傳言申上候。餘は期後鴻以上十月十五日蕪村附記
蕪村全集二陸船樣陸船は琴平の人で本名秦半左衞門といふさうである。C談林一變蕉流起而未能絕其響猶藕折糸不斷號曰藕糸體しくれ松ふりて鼠の通ふ琴の上蕪村賀越の際婦人の俳諧に名あるもの多し姿嫩く情の癡なるは女の句なれは也これを老婆體と云〇樂天得詩必語老婆子不解則更句專尙淺近しくるゝや山は帶する隙もなし同感遇ことは書略す夜行簑蟲のふらと世にふる時雨哉同化さうな傘かす寺のしくれかな同右は「夜半亭月並」と題した小摺物の一節で、琴平の門人柱山に配つたものである。袋に蕪村自筆で「時雨松ふりてと申句は天和延寶のはせを流ニテ御座候」と記してあるさうである。「しぐれ松」の句は「しぐるゝや鼠のわたる琴の上」の初案であらうし、「山は帶する」の句は全く逸句である。詞書も面白いこの摺物のうちにはなほ斗文、百池、羅雲、烏西、召波、白麻、五雲の發句が見える。夜半亭繼承が明和七年春で、召波の歿したのが明和八年十二月であるから、恐らく明和七年冬の月並會の吟であらう。村同○蕪村の傳記中補正したい事を左に記す。一、「柳ちり〓水かれ」の句を松島方面へ大旅行した時の作としておいたが、「三昧」九月號に碧梧桐氏は必しもその時の作とばかりも斷定しがたいと言つて居られる。成程或は延享年代に入つてからの作かもしれない。二、蕪村が文臺を開いた時、嘯山は遲櫻人に待たれて咲きにけりと一句を送つた。句は「俳諧新選」に出てゐる。三、渭北編「若俵」は元文五年十一月刊行で、存義、渭北、平砂の三吟百韻二卷の外、諸家の發句をかなり汎く集めて居る。然るに渭北と關係の深い宰鳥も雁宕も句を出して居ない。之はこの年秋頃からすでに蕪村が雁宕と共に筑波の麓へ行つて居た事を傍證するものであらう。四、享保十七年刊「卯の花千句」は巴人の判で高點を得た句を、門人郢里、富鈴の二人が集めたものである。そのうち有種といふ人に「百川事」と肩書がしてある。もしこれが彭城百川のことで、彼が元來美濃派でありながら巴人の門などにも出入して、こゝでは有種と號したといふやうな事であれば、後年蕪村と百川との關係を知る上に、大變興味の深い事實である。〇二八八頁以下所載歌仙のその一は、碧梧桐氏によつて蕪村自筆のものが發見された。漢字を假名で、假名を漢字で記したやうなちがひは今之を略して、全く異なる點だけを正しておく。二八九頁三行路時雨は鷺時雨漢字を假名で、假名を漢附記
蕪村全集西二九〇同同二九一○その他の正誤一六頁一〇行五四五六三一七四三九七三一三七六三四(七九四六五七八四云巴はら〓〓晝寢か日つかひははははは云ツハばら〓〓晝寢の目つかひに粟しまのはだしまはりや春の雨(遺草)花盛六波羅禿見ぬ日なき(遺草、遺稿)身に更にちりかゝる花や下り坂(遺草、遺稿)花の雲三重にかされて雲の峯(新五子稿、遺草)麥刈に利き鎌持る翁哉(道、遺稿)手燭して能ふとん出す夜寒かな(新選、石の月)鴈行て門田も遠くおもはるゝ(左比思〓理)老なりし鵜飼ことしは見えぬかな(同上) (右二句は隨て安永五年以前の作たること明かである)「たのまれて櫻見に」の句は「花櫻帖」に春坡の句として見えたれば、「短册は忘れても」の句は手紙の原物未見なれば考證の部にうつす。五五五二六九考證の部に移す。五四七七五四三五〇一五六五二〇三八八一九八四「きのふけふ」の句の頭註に「手紙に下五見ゆるかな」と加ふ。「世に流れ出ては」の句出所たる自畫賛僞筆なる由なれば、考證の部にうつす。「人語を亂る」は鹽屋忠兵衞編遺稿に「人語耳を亂る」とあり、終に「天明癸卯九月」とあり。砥波山の頭註に去少撰とせるは、「浪化撰」の誤。葛の翁圖賛の下「安永九年」の四字を削る。郢月泉の頭註に「通稱基兵衞、諱布慶、葛飾郡向下河岸內堀甚五兵衞の三男にして出でゝ、關宿境箱島氏を嗣ぐ。安永元年十二月十五日歿年六十二」と加ふ。隨て「耳さむし」の句は安永元年の作なり。帆はおそろしき四九八二好士一一五-四三八五七九三頁が九九三頁と誤れり四九八四八二二好士麥天の頭註右江氏○三七九頁「谷の坊花もあるかに香に匂ふ道立」の句の次に左の十數句を脫してゐるのでこゝに補つておく。藪うぐいすの啼で來にけりかけ的の夕くれかけて春の月晋正才白三本傘は聟の定紋初かつをあはや大礒けはひ坂舍我六則一五附記
蕪村全集一六淡き藥に身をたのみたる故郷曉の月かくやくとあられ降維駒暮またき燭の光をかこつらし嬰夫金山ちかき霜の白浪樵風竹をめくれは行盡す道舍員つく〓〓と見れは眞壁の平四郞東瓦新田に不思議や水の測出して菊尹酒屋に腰を掛川の宿左雀儒醫時に記す孝子の傳賀瑞空高く怒れる蜂の飛去て乙總かりそめの小くらのはかま二十年呑獅岡部の畠けふもうつ見ゆ霞夫往來まれなる關をもりつゝ呑周花の頃三秀院に浪花人八董餅買て猿も栖に歸るらん柳女都を友に住よしの春大魯錫とゝまれは鉢か飛出る延年(夜半樂)○京都寺村家で今度いよ〓〓同家の祕藏にかゝる蕪村關係の俳書句稿等の大部分を公開される事になつた。これまで蕪村〓究家が齊しく大きな期待を持つてゐたゞけあつて之等の資料はいづれも目を刮するに足るべきものばかりである。就中百池の手記に曉の月かくやくとあられ降金山ちかき霜の白浪つく〓〓と見れは眞壁の平四郞酒屋に腰を掛川の宿空高く怒れる蜂の飛去て岡部の畠けふもうつ見ゆ花の頃三秀院に浪花人都を友に住よしの春なる紫狐庵落日庵句集及び蕪村一派の俳人の歌仙草稿等は、蓋し珍中の珍といふべきであらう。之等の資料によつて本書の發句篇連句篇及び蕪村傳等に、多くの訂正增補を加へねばならない事は勿論で、殊に百池手記の句集によつて明和以後の蕪村の句は殆ど年代が明かにされた。尤も明和末年以後は蕪村の句風もほヾ一定してゐるので、寶曆以前のやうに著しい句風變遷のあとを辿る事は出來ないが、とにかくこの年代が明記されてゐることは蕪村〓究上資する所頗る大きい。煩はしい考證の結果知り得た年代よりも更に確實なものなのであるから。しかし遺憾ながら寺村家の祕庫が開かれた時は、すでに本書の印刷は全部終つてゐたので、纔かに未校了であつた年譜の一部を訂正し、玆にその〓末を記し得たに過ぎない。之はなるべく完全な全集を世に提供したいと思つてゐる編者としては、誠に慊らず思ふ所だが今止むを得ない。逸句、年代別發句集、重要な歌仙等は再版のをりをまつて增訂したいと思ふ。但し紫狐庵、落日庵句集等もその中のすぐれた句はすべて世に知られ、隨て本書にも收錄されてあるの附記
蕪村全集で、逸句としてあぐべきものは割合に少い。しかもその逸句は蕪村が自ら拙句として世に示さなかつたものであるから、事實寧ろ蕪村としては發表される事を好まないだらうと思はれるものが多い。、彼が遺稿出でゝ作者日頃の聲譽を墮すと心配したのもこゝらの事かも知れない。それで本書の發句篇は、蕪村の代表的な句を網羅して居る點に於ては少しも動搖を感じない。しかしそれはそれとして、蕪村がどんな句を自ら拙としたかといふ事を知るだけでも、之等の逸句はやはり收錄しておきたい。況んや年代その他本書の誤をたゞすべき點は、編者の責任として再版のをりぜひ寺村家の新資料によつて訂正しておかうと思ふ。ともあれ本書編纂のため編者が寺村家を訪ねた事がやがて寺村氏を動すべき一の動機となつて、こゝに貴重な新資料の公開を見るに至つたのは、實に喜にたへない。而して之を世に紹介すべく最も熱心に寺村氏に說いたのは、「蕪村の新〓究」の著者たる乾木水氏であつた。なほ同氏の斡旋によつて、寺村家のこの新資料は近くそのまゝ出版されるといふ事である。寺村氏が公務に鞅掌して寸暇なき際學徒のため特に祕庫を整理され、又乾氏が熱心努力の結果資料出版の運びに至つたのは蕪村〓究上の功績大なりといふべきである。○寺村家では從來名だけ分つて原本が知られずにゐた「あけ鳥」「今を昔」及び新たに分つた「五疊敷」「ゑぼし桶」等の蕪村關係俳書も大分發見された。之等もその飜刻を見たいと思つてゐるが、さし當り蕪村關係の連句二三卷を紹介しておく。「五疊敷は明和六年の冬泰里が江戶から上京して五條西洞院に住んでゐた折撰んだ諸家の連句發句集で「ゑぼし桶」は安永三年冬美角の撰、この年曉臺が美角の許に暫く滯在して居たので暮雨巷夜半亭一派の人々の作を集めたものである。○武藏鐙の卷(明和六年)かゝる雪空あのひかし山嘯山都の人々に對話のおりからおのかあつまのさつくりと飛こす岸の砂落て五雲言癖を恥てくちはみを干ス百年の家蕪村五疊庵物いふもむさし鐙や冬こもり泰里惣〓〓のひと夜蒸れて明の月圖大○武藏鐙の卷(明和六年)都の人々に對話のおりからおのかあつまの言癖を恥て嘯五蕪圖山雲村大五疊庵物いふもむさし鐙や冬こもり泰里附記
淺く汲む水の柄杓のならはしに木のはしの坊主のはしや鉢たゝき木の下に掃溜てある花の雪山法師心しつかに老にけり積物の白きを見れは夜そ更て花に來て荒人神や祈るらし家造に秋をわするゝ茨木屋けふも又毛見の馳走にまはり道睪丸痒き身を學校にあり佗て傘の橋に音して吹れゆく始て法の道を踏む霜東風やはらかに來ぬる廣庭麥飯くふて立て俳何戶さゝぬ御代や殖るゑのころしはらく〓〓頰被りぬつ相場にかゝる後家の大膽夕月かけて十三夜なるいつ磨くものともなくて鐘の聲松黑〓〓と古附○鉢叩の卷(明和六年)瓢簞酒に年をしむ也町の奢りを見する葬禮刺刀序いさ誰にても蕪村全集記き陵太泰里蕪村(五疊敷)五圖大同蕪村泰里五雲さす月のためにもあらす藏の窓同嘯五雲泰里晝見〓る月見うしなふことはあれと蕪村圖大嘯山五雲賑に松風ひゝく深山寺圖大蕪村油斷せぬ元龜の頃も戀ありて泰嘯山執筆祇雲山荷はせた鐵さい棒のいかめしや里椽先に干わすれたる山歸來ありかたや十日の雨に田植して手に繰りて疾く見る文をはしたなき首玉に一際猫の愛增してふら〓〓と秋を出歩くお大名羊羹の麻衣まくる手つからに仕舞雛藏まて送りまいらせん諸肌脫に凉とる月まだ陸奧は軍最中枕たてつゝ來ぬ夜恨る親孝行の家の日あたりみたるゝ方か萩の見ところ持くさらしの臺子なりけり干潟風ふく江の島の秋のこる暑はたつた一時猿にひとしき從者遣ひぬる四六の文を戰すらん聟になる子のよい若衆なる落日遲き毛氈のいろ二五雲圖大蕪村泰里太祇五雲圖大蕪村泰里執筆五圖大嘯同太祇五雲蕪村泰里圖大蕪村泰里嘯山五雲圖大雲山
賊に脫て得させん上一重箸立て粮ほときたる小鷹かり浮雲の月をはなるゝ風はやみ山莊の朱の文机なゝめにて霜に伏て思ひ入事地三尺折焚く柴の匂ひあはれむ門田の早稻の穂なみめてたき杓にとほしき水にわひけり一氣をふくむ初冬の感祈るにもあやにく遠き神やしろ打切に死骸どんふり投込てあさなへる繩のことしと口すさみ蠟燭の漸く燈る明りさし戀ならなくに東雲の人灘行船の風のまに〓〓酉の下刻は寒の入也すは御大事から尻に醫者かゝる野にとが〓〓しきは雉子の聲そなたの空や春の行方花嫁と和子か成りし歟ても扨も相傘ねたき仇書のさま附蕪記八十年の後さらに一日柩を守るゝく故翁の骸骨墳中に歸して八十年ゐりて枯たる花をつみ一勺の泪をそ甲午のとし神無月江南のきそ寺にま村全集呑我百嵐几美蕪一曉太圖同蕪嘯泰太五圖蕪泰太溟則池甲董角村音臺祇大山村里祇雲大村里祇物着せ·踊を··衝立に談林風の發句ありて啼なから川越す蟬の日影哉卯花や身延のお山薄くもりきのふのまことけふ時雨けり行人少にところてん見世母伴ひし旅のあかつき及び句主のみをあぐ) (以下三五九頁と同一なればその異同ある點右下略○昔を今の卷(安永三年) (ゑぼし桶)甘定百斗蕪二もと土佐駒を飼給へかし花の頃人買の伸ひも欠ひも憎氣也居風呂のあまりぬるさに風引て鼻唄も一ふし月の武者執行洗濯ものを潜る近道南三月になつて凧あける風夢みたやうにさめるどび漉尾花のしら髮山にはらける無阿彌陀佛〓〓(五疊敷)太嘯蕪圖嘯泰五蕪嘯○霜に伏ての卷(安永三年)芭蕉忌二二致我自宋阿居士〓則笑池文村蘭雅祇山村大山里雲村山
宋阿佛匂ひ·道連は桃さくらてふ集編る後鴻に·光る二には句主の名が記されてない。)發見されないので稿本のまゝによる。よりて補ふ。(三〇二頁以下所載のものを殘の裏五句目に「雪に花普化玄峯に宋阿居士」の董以下の歌仙がもう一卷あるが、(昔を今にはなほ「啼ながら」の句を立句として几○春興の卷(明和八年)一句を附けてゐるだけである)寺村家でも明和辛卯歲旦帖はなほ「紫狐庵聯句集」蕪村はその名(昔を今)子致なほその几我月に曳董則郷溪今みとせ··たれこめてことさら花のなつかしき世忰め·劒鍛冶大根のやり水··髮生藥聲のとか一里の霜の終の栖とらはれ·附蕪記村全集蕪致田維我自百月柳田維册曳董則郷溪村〓福駒則笑池溪女福駒魚石塔をおほつか鐵の棒八十三斤にあつらへてとかくして凧の絲卷く暮の月折得たる花もこゝろに任せさるほし店仕舞殘念な貌蝶うち拂ふ寺の爼板雨もり御厩の喜三太物に小さし出たつた今盜んた伽羅を盜れてなま長い貌へさしてむ夕日影生駒の山や築波山なる返事なと書樂屋譯なきあやなき闇に古い挑灯(その一前略)あつふるひ峯の月風諫の戀に·秋冷か麥めしを焚あやまちて泣計故郷の牡丹の甥の·二五二四村曳董南祇董曳村南祇董維雪宰柳月田百自册我維宰駒店町女溪福池笑魚則駒町
蕪村全集あまた女を奪ふ强盜(下略) (その二前略)松明を下タてに立よ山おろし住持と見しは本尊也けり二八はかり長者夫婦の其中に手なんとつたなからぬ媒口なしにへたての垣のうらなくておも家に遠くやはらかな飯元信も三とせはこゝに大德寺鐘は霞に花は葉こしに關の戶の居風呂こほす朧月角をおとした鹿の尻こみ祇草鞋に斧のむね打五ツ六ツ庄司か宿の般若聞へるそよ〓〓と餘所を降した薰也卑賤の相に一睡の 夢鞘走る劔は何を見付けん蔦おしわけて壁に詩を書月を待けはひもにくし裏坐敷中居か釣か〓はひんしやん義盛に和田の身の上ひよろっいてひそかに御意を江間の小四郞漏刻の水も澄きる丑の時松に琥珀の風氷る聲(下略)貫山宇梅○「昔を今」の原本により、五一一頁所載むかしを今の序中六行目の「耳つふして」の下に「おろかなるさまにも見えおはして」の數字を「蕪村文集」には脫して居る事が分つたなほ五一二頁二行「しかする」原本には「しかある」とある。
發句索引秋風や酒肆秋風や千魚秋來ぬと合點させたる秋來ぬと合點の秋寒し·秋雨や水底秋雨や我秋去て秋されや秋立つや素湯秋立つや何に秋たま〓秋のあはれ秋の風書秋の蚊の秋の蚊屋秋の暮辻の秋の暮佛に同秋の霜秋の空一三五一五二二三三三気三六要·二五八·一六七二三五二三二〇〇三六三二五二九一三一181三四七一云二其秋の月古文臺に秋の野や秋の燈や·秋の夜の燈を秋の夜や古き秋はものの秋ふたつあけかかる揚土の曙の明やすき夜を·明やすき夜や稻妻の明やすき夜や住のえの阿古久曾の麻を刈れと朝風に毛を吹かれ朝風の毛を吹見ゆる朝風のふき淺河の朝顏に朝顏や一輪·一四六一七·二〇〇一四一·一四一一三'공三三七三毫毫六七〓五八(5)靑梅を·靑梅に打鳴らす靑梅に眉··靑梅やさてこそ靑梅や微雨の靑梅や棒心靑柳や芹生の靑柳や我大君同.闕伽桶にあか汲んで曉の雨や曉の家根に商人を··秋をしむ秋風に秋風の動して秋風の吳人は秋風の再び··ins一三三一三三i112一三三一三三四四四四五四八七〇tio九一四四五一四三一五八一五三四三一〓二三二八六六索引
蕪村全集二朝顏や手拭朝霧や畫に朝霧や杭打つ朝霧やまだ朝霧や村千軒朝霜や釼を·朝霜や室の朝日さす朝比奈があさましき淺間山··足跡を字にもみられ足跡を字にもよまれ足跡のなき蹇の蘆の花蘆の穗に足弱の宿かる足弱のわたりて汗入れてあだ花にあだ花は頭うつ頭から六一三一三五一〇一五一〓io.三四四10〓·一八四三三一四一二〇一ニ六八三八一八二二八七五五〓〓〓九三死一三二二六番21m2あちきなや蚊屋のあちきなや椿あち向に寝た人あちら向に鳴も小豆賣:暑き日の貴人の·跡かくすあな苦しあなたふと袷着て··粟島へ逢はぬ戀あふみ路や麻刈る近江路や軒端に油買て油灯の泥障しけ雨乞に雨乞のあま酒の尼寺や海士の家の網打の·三元四七ニ元四二六七一七〇一三三一百言八四六二三四九八二〇七一五五二二四三五九八兵九九八六二元九雨となる·雨にとまる雨にもゆる雨の鹿雨の時·雨の日やまたきに雨の日や都に雨ほろ〓〓雨やそも鮎落ちていよ〓〓同.鮎おちて焚火鮎落ちて官木鮎くれて·鮎汲のあら凉し·有と見えて步行〓〓曠野行くC七四二八公·一七二〓三〓三五四六九六九五二七五四二·一七八一七七·一〇七二八七八10七五筏士の雷に電の四九三三icheいかのぼり息杖に·池と川池田からいささかなをいめいざさらば·いささかな料理いざや寢んいざ雪見いざよひのいさり火のいざよひや石を打つ石切の石高な石となる石に詩を伊勢武者の磯ちどり一二寸一日の一羽來て一八や市人の物五三三云五八九公三西一五二·二一五六·一七〇七六電〓三三三八三宅二五公四二三一二市人のよべ一輪を一行D一四四つこより出へくと一瓢のいてう踏んでいてさらば出水の糸櫻いとはるゝいとまなき··稻妻にこぼるゝいな妻の·いな妻や秋津島いな妻や堅田いな妻や佐渡いな妻や浪もていな妻やはしるいな妻や八丈稻妻や二打稻葉殿の·稻かけて·二四三二五二六四四四〇孟二云七九·一〇五四八六二五一五五一五五〓三五二五一五一五五二五一〇三一五五稻かれば小草に稻かれば化を猪の露折り猪の猩··井のもとへいねふりて岩に腰岩倉の·茨老··いはりせし家ありや·家ふりて家にあらで庵の梅庵の月庵買て今はたゞ··いましめの妹が垣根妹が子は色も香も鰯煮る·いんで來る一六八云·一八七二三五·二〇四西·一〇二五八一心〓〓〓〓二石八五三三九圖10/0ニ·二三六六二三1/0ニ見100索引三
蕪村全集四鷽の適々うぐひすの啼くやあち向き·うぐひすの鳴やうどのうぐひすの鳴や師走の鶯の鳴やちひさき鶯の日枝を鶯の二聲耳の鶯の二聲はうぐひすのわするゝうぐひすはやようぐひすや茨同鶯や梅··鶯やかしこすぎたるうぐひすや笠縫·うぐひすや柏峠うぐひすや家內鶯や堤を··うぐひすや何こそ鶯や野申の動く葉も雨後の月失うたうすきぬに四八三in·二〇五三つ三〇三〇二九·三二三三〇四〇五三二九三三三〇in二四九三二七九三一四春や老木の春や穗麥が同、羅に哥屑の松に吹かれて遲哥屑の松に吹かれて山うたゝ寢のさむれば·うたゝねの貌に哥なくて打かへし袿衣の··うちはして討はたす打ちよする打ちよりて卯月八日··うつくしやうつゝなきうつほ木の埋火の埋火も埋火や終には理火や春に埋火や物そ一五三.三九一二七五五五三七·一一〇一〇三一八二·二四一三七五二四八二〇〇七九〓元·六三100, illo〓ill 2000 1000 3飢鳥の魚くさき·うかふ瀨にうかれて出てうかれ越せうき草を同.うき草の花萍のさそひうきくさも沈むうき旅やうき人にうき我に鶯を·鶯に鶯のあちこち鶯の逢ふて鶯の枝末を鶯の枝ふみ鶯の聲鶯の鹿相鶯の竹に五四二一七·三六·二四七ニ一九1111ニ一九三·六九天元〓·二九三〇元二三三三〇三〇ニうつむけに··うの花のこぼる卯の花のゆうべうの花や庵へうの花や貴布禰うは風に音なきうは風に蚊の蝮のうへ見えぬ馬下りて午の貝··馬の尾に海越えて海手より湖の月··海のなき鵜舟漕ぐ梅遠近梅折て梅が香の梅が香や梅咲いて帶梅咲いて小さく梅咲きぬ··六〇三一一七三三三三三三一三二一二五ニ五五九六IIII六五四國人九五四二四〇四三四三四三九四梅園に··梅ちりて梅ちるや梅もどき折るや梅もどき鳥うら枯のうら枯や家を·うら枯やからき浦ちどりうら町に裏門の··瓜小家のうれしさの賣喰の愁ひつ며二四四四一六六一六一九九一九二四八一九三元六一三二天美三榎から··榎時雨して烏帽子着て烏帽子脫いで襟に緣ばなへ閻王の〔お·を〕大鼾·老なりし老がこひ老を山へ大高に大粒な大原や大矢數大雪となりけり大雪や上客御勝手に岡の家に岡の家の荻芒·起きて居てice二〇三三五七ニヨ八三二〇〇九四三三ison元次五八스二三四二三四二云一五三二九一三七(2)陳賜の遙拜や衞士の繪團の穢多村に易水に江の梅に二九二三七三六九100二〇三ニル索引五
無村全集荻の風··おくびなり送り火や稚子の鴛に美を鴛や池に鴛鳥や鼬の鴛や國師の鴛や花の··をそを打ちし遲き日のつもりて遲き日や雉の遲き日や草を遲き日や谺遲き日や都のをその住む小田原で·落ち合ふて··をちこちをちこちをちこちに瀧の落葉して落穗拾ひ入津繪に落つる日の八〓一五九싱美三尺寸〓愛員九六五五五五五九五七〇七六一元二三(三)·一五三三一九〓御手討ちのおとごぜの落し水田毎落し水柳に音なせそ大人なるおとろひや鬼貫や鬼王が斧入れておのが葉に己が羽のおのが身の小野の炭小原女の足の小原女の五人·追風に御火焚や犬も御火焚や霜追剝を··おぼろ月蛙に朧月大河を朧夜や人千める女郞花そも公三兵三八·二四三11.ご三一六九21111二五六一九九二一四、西口全〓一七〇二二五言〓00三三二三八七女郞花二もと·面影のおもかげも同.おもしろや澤潟は·おもひでておもふことおやもなくおよぐ時折あしく折りえたる折りくるゝ折りつくす折持てる折釘におろし置御經に溫泉の女倶して同ニミテcer·二三九五九九八三二五二〇一〇六三六一七三一八二〓二六六六二六三七五三八三六三五四八か海棠の花は海棠や白粉に攝けあへぬ筋たく缺〓〓て同.垣越えて垣越に柿崎のかきつばた垣ね潜る柿の花きのふ柿の葉のかぎりある閣に座して杜父魚の學問は··かくれ住んでかけ稻にかけ稻のかけ香や啞の掛香や何にかけ香や幕湯··かけ香やわすれ陽炎にしのび··四六七〇-10°三一三〇九八六云一九六三경三三一九三一四一〓2층一元四八一五一五九〇九〇九〇九〇一元陽炎や名も·陽炎やひそみもかけらふや簀に風雲の·笠とれてかしかましかしこくもかしこにてかじか啼く柏木の··かしらへや同梶の葉を風一陣··風邪聲の風なくて風吹かぬかたつぶり片町に家中衆に褐鼓鳥·勝手までかつまたのかづらきの·一八一九八一八八葵三11二二1三증〓·二三三·三一六ニ元元·二四七in三六四五一八三ing·一〇六·二二五·一四七同佳棠ちぎる門を出て··門を出れば門口の··かなしさや鐵をはむ鐘老い蚊の聲す獺の川かけの川狩や歸去來川狩や樓上の河童の河內路や川床に川床や河骨のかはほりのかくれ·かはほりのふためきかはほりや向ひの甲斐かねに雲甲斐がねや穗蓼壁隣···三〇〇·二六三一四三三吾一五二1014 10°二二〇元八九三九三七三一〓〓一二八·一〇七四二·一〇一八八八三引七
蕪村全集八紙子着て神棚の··紙ふすま龜山へ加茂川の加茂堤·加茂人の歸る鴈貌白き顔みせの顏見世や既貌見世やふとんを貌見世や夜着を··鴨遠く··蚊屋を出て奈良を立ちけり··蚊屋を出て奈良を立行く幅こしに·蚊屋の內にほたる蚊屋の中に朧月夜蚊屋を出て內に蚊屋つりて··蚊遣火や柴門··蚊やりして參らす蚊遣して宿り·isis三二三三三증六二二四八三四からかさの唐くさに辛崎のから鮭にからさけの片荷やからさけの骨にからさけもからさけや小野のからさけや帶刀殿の乾鮭や琴にからさけや鳶もから鮭や判官殿の烏來てからびたる唐人よ狩衣の袖の狩衣の袖より借具足狩倉のかりそめに早百合かりそめの戀·雁立て·雁啼や刈稻の一六五言三三二四二二四二二三、二四二二四二三四、二四二·二四一in交入一四九一元ニ·一二·二〇四吾三五八三ニ二五一六八かり寐する雁行て枯枝に枯尾花繭に寒月や南大寒聲や寒菊やいつを寒菊や日の寒月に寒月や開山堂寒月や門を·寒月や門なき寒月や枯木の寒月や小石の寒月や衆徒の寒月や僧に寒月や豁を寒月や鋸岩の寒月や松の閑居鳥歟閑居鳥可もなく閑居鳥昨日··閑居鳥さくらの五〓一八三·二五八二九三八八二三七·二五七ニ元七二〇八二〇九二〇八二〇八·二〇九二〇九二〇元·二〇八こ〇八三〇·二〇九一〇五一〇六·一〇五121二三七三二三二、三三七·二四五···一一六二三二三五八七八七八七全公公閑居鳥寺閑居鳥は鳥閑居鳥招けども寒こりに尻を·寒こりやいざ·寒垢離や上の町邯鄲の市·邯鄲の又寐や寒山に巫女に寒梅を·寒梅や梅の寒梅や熊野寒梅や火の看病の101.ニヨル10元〓〓·二三六二六三六八1211三二百二五四三四二五四一六二きく川に木藥の菊つくり菊の露菊は黃に雉打てきじ啼くや御里雉子啼くや草の雉鳴くや坂を岸根行く木曾路行て木曾どのの北に向く人·きちかうも狐火の燃え狐火やいづ狐火や五助畠狐火や髑髏に來て見れば黃に咲くは黃にそみし帛を裂く同きぬ〓〓の要七九〓ハ二三一三二三四三三三四二三〓00二六二三二·一八七三七二三〇三三.二00三一九全要五四三三絹着せぬ家中ゆゝしき絹着せぬ家中ゆゝしやきのふ去にきのふ暮れきのふけふ木の下が蹄の木の下に木の端のきのふ見し牙寒き君見よや君行くや祇や鑑や花に祇や鑑や髭に客僧の狸··客僧の二階兄弟の木屋町の伽羅臭き漁家寒し御忌のかね時なき御忌のかねひゞくや同.狂居士の·스三四五四五六一二一三二〇四一九五五六孟三九五六三二〇四글1/2三六二一三(き〓)木曾すぎて紀路にも灸のないぎをん會や僧の祇園會や眞葛原の木刀も聽きへらす·二六八二五七九七八七八八九·二四九索引九
蕪村全集C.〓輔は木ひとつに興つきた去年より去來いに·きり〓〓す伐たふす桐の葉桐火桶霧はれて霧ふかき銀闇に禁足の公達に金の間の金屏のかくやく金屏の羅蟻王宮五〇二五五要三九二〇〇一三七二五〇一八五三元一五五〓t〓六三口切や五山衆口切や小城下口切や梢··口切や北にも口切や湯氣鯨賣··口なしの愚痴無智の葛を得て沓おとす葛の葉の葛水にうつりて葛水に見る同.葛水や入江の葛水や鏡に同草いきれ草霞み·草枯れて草莖を草の雨草の戶によき草の戶や二見·二二八二二八二二八·二二八·二二八二重二三九九九九四七一八、co.九九五六六(00九九五六六言六·二五八·一七六六八六室草餅に腐儒者くしやみにも楠の··藥喰隣の藥喰人に藥喰ふ蘆生の藥盜む藥堀る具足師が糞ひとつ葛の葉の愚に耐へよ苦にならぬ喰うて熊野路や組みあうて雲を呑で··雲のひまに雲のみね四澤の雲の峰に首くゝる〓〓棚〓に黑谷の·二五·二五八五六二一〇云三一三一三-一二四二二三二一八二二三四五一九二三五〇二七四土五二〓二二一五二III {草臥てねにかへる草臥て物乞ふ口切の隣も五五二八〓〓ニュースル一六栗備ふくれかぬる紅のくれの秋暮れんとす鍬洗ふ··鍬そゝぐ傀儡の灌佛は灌佛や訓讀の薫風や〓五一五一、一四、五三二四六三七四三八〇七九ins七四けつてきの夏百日今日はとて今日は又·今日匂ふ今日のみの毛見の衆の源八を·(〓〓甲賀衆の〓君の孝行な小路行けば鴻の巢の·紅梅の落花紅梅や入日紅梅や黄鳥聲深き紅梅や比丘より剛力は子を遣ふ子を捨てる子を寐させて二三一스〓二八九云九天三九木がくれて金掘る··小冠者出て凩に鰓··こがらしや岩にこがらしや荻も木枯や鐘に木がらしや釘の木がらしや小石木がらしやこの頃木がらしや炭賣木がらしや畠の木がらしや碑を·木がらしやひたと木がらしや廣野··木がらしや野河の木がらしや覗て子狐のかくれ凩や何に小狐の何に後家の君極楽力こころにくき御所柿に全三四九二八二九三九三九九九三三000二三九九〓二〓三六、二一九一九九二一天一八八八九九九九八盃四一三一言三三三〓cm二番ing二七〇四三四三四二五三二二三〓今朝の秋鷄頭の根に鷄頭の花の傾城は··今朝の冬けさ來つる下戶ならぬけしの花(〓〓下駄かりて月光西に一八八三三二〇〇六一三六二三四八三三元五二-索引
蕪村全集一二腰ぬけの梢より小僧等に炬燵出てこちの梅もこちら向にごつ〓〓とこと草も殊更に·今年より異夫のこと葉多く子供氣に小鳥來る王四の碁のひまに木の下がこの村の人は此の冬やこのものよりこの二日此の森もこの雨もこの蘭や二二九言·二回〇三元四三二三八121.二二〇三三八二七〇ニ三、一八一二五一四、一八一·二六五二六、111.二七〇五六·一七六二六五全セ小春風戀風は戀さま〓〓小百姓戀わたる鎌倉戀わたる鹿や東風吹くや氷ふんで昆布で茸く同.2小舟にて氷る燈の蟬や高麗舟の朝鮮人更衣印籠更衣いわけ更衣うしと更衣いやし小路行けばこもり居て更衣狂女の更衣金ふく更衣塵うち·二〇二モニ二九七七ニ元二四二六·二六〇七四五五〓〓〓1111一七九一七一二二三1-10八三八二八三八二八三八三八三更衣布子の更衣野路の更衣母なん更衣人も更衣身に更衣昔に更衣やをら更衣矢瀨のころも手は五六升··これきりに樵捨る··(さ)公仝八三八二八三八四八二三一四六六三元早乙女や小男鹿や僧都が小男鹿や角相阿彌の採尊を西行の西行は盃に帘軒に嵯峨寒し一六三三三六一七番三一九七六·一四六·二一三二〇〇嵯峨ひと日嵯峨く歸る鷺ぬれてさくら狩り櫻木のさくら散て櫻さへ櫻なき櫻ちる櫻ひと木·咲くべくもさくらより酒を煮る··裂けたかと酒十駄さゝめごとさゝやかに山茶花のさしぬきをさし汐にさつき雨里過ぎて里人は里人よ里ふりて·五四四八三二五四三五六二三一七七三五五三毛四五九八八二六三三八八一元/三一二八七一〓一八七實方の實盛がさびしさの嬉しくさびしさに花淋し身に佐保川に五月雨に見えず五月雨のうつほ柱五月雨のかくて五月雨の大井五月雨の堀·五月雨や鵜さへ五月雨や滄海を皐雨や貴布禰五月雨や大河を五月雨や田毎の五月雨や鳥羽の五月雨や名も五月雨や佛の五月雨や水に五月雨や美豆のさむしろを·鞘走る·離別れたる兵·二三三一四、五五一四二二三五七〇七一七二七二七二七〇七〇七〇七二一二七〇七二七二七〇七一四三一〇二〓皿を踏む猿どのゝさればこそ三徑の三軒家山賊の三尺の山中の三部の·二〇三一三七·一九四·一九一八六〓四五二五五三L〓鹿寒ししか〓〓と鹿啼いて··鹿ながら鹿啼くや鹿の聲··鹿の寄る鹿笛を鴫立て鴫遠く時雨るゝやとある時雨るゝや長田が時雨音なくて·三三一·一七二·一七三工百·一七三·一七三云山一七六·一七六三三二三三索引一三
蕪村全時雨るゝや鼠の時雨るゝや簑時雨るゝや山時雨るゝや用意時雨るゝや我も茂山や扨は家ある柿若葉·茂山や扨は家ある柿紅葉·四五人に帋燭して自剃して·したたかにしだり尾の下露の靜さに靜さや靜なる·しづ〓〓と信濃なる指南車をしのゝめに小雨しのゝめや鵜をしのゝめや露のしのゝめや雲忍ぶ夜の柴刈に村全集四O.O〓〓〓·二一三·二一〇·一一四·一八二·一六一七二九二天coo一九三七七七三〇八云〓一八一八九四三三二二〇二六八三三柴刈の柴漬の枇多き椎の花椎拾ふ澁柿の澁柿や鹽淡く汐煙鹽わかる島原の島山や霜あれて霜百里··耳目肺腸·下屋敷僧都別莊法師芍藥に沙彌律師·舍利となる丈山の少年の十七年出水の二八二五一六八三四一九三三一智一九交二三三二四九二五八inn二三五〇五三二三三二五、九八六八九常燈の十月の書記典主修業者の宿老の朱硯に同出家して親在す出家して親王ます撞木町·燭の火を瀟湘の蕭條として書にいはく修理寮の春月や春水や順禮の自然の白梅に白梅や北野の白梅や墨白梅や誰白梅や鶴一二三一一元·二〇二仝七1112一一五五九一八二四三〇一七八五二Old一七三四〇四四〇四〇三元白梅や忘れ白菊の·白菊やかゝる白菊や吳山の白菊や庭に白露の篠原へ白露の身や白露や茨の白露や家白露やさつと白萩を白炭の白がねの新右衞門晋人の·新米に假居の新米にまだ新米の坂田·(4)四三全云二〓八三〓〓oo五七五〇五〇吾云·二三一in二〇二九一六八二六九一八八水仙や寒き·水仙や美人水仙や鵙の居風呂に後夜居風呂に棒の師匠やおぼろ月居風呂に棒の師匠や春の眇なる··鮓おして鮓をおす石上に鮓をおす我··すし桶を洗へはすし桶をこれへ鮓つけて誰··鮓つけてやがて鮓の石に篠かけや鱸得て·薄枯れて藩見つ同涼しさを涼しさに同.1凉しさや鐘を三七·二五七·二五七四八三七1三(10) (00一〇〇(10)·一〇一一〇一100·一〇一一三五.二七二五五一八六三二六交交五五七夫涼しさや都を煤掃や調度煤拂や塵凉舟·裾に置いて筋違に既に得し捨てやらで砂川や··居りたる船を居りたる船に炭賣りに鏡炭賣りに日の炭竈に炭竈の隈々に炭俵炭取の炭燒きに住吉の墨染の住むかたの角力取··すりこぎの交三三八三三元九二ニ元二五五四四in六二空100 cer三三三二·內100三三-三二三ist一四二二六番·二六四吹殼·水晶の水仙にニ六七二五六一五引
蕪村全集擂盆の〓00攝待へ攝待や絕頂の脊のひくき·錢買つて錢龜や蟬鳴くや昨日は蟠鳴くや行者の蟬鳴くや行人蟬も寢る蟠鳴くや僧正坊線香の灰や同線香や同禪寺の船頭の洗足の一二三二三二〓八五三七七一二賊船を·そこ〓〓に底のない袖笠にその昔蕎麥あしき·蕎麥刈て·染めあへぬ空にふるは(ア)大兵の假寢大兵の廿ちたえ〓〓の大とこの大佛のあなた大佛のこれが大文字やあふみの大文字や谷間の大門の·誰がための誰住んで高灯籠消えなん高燈籠總檢校の七三三七一百三·二四四in一三一元五〇(せ)姓名は··石工の飛火·石工の飮み石工の指や石工へ關越る石陳の寂として關の戶に關の戶の火鉢關の火を寂寞とせきれいの同.1瀨田降て節季候着たり節季候や雪月花雪船の雪信が攝待に一五七七七六五八·二〇六三八七三三二01°四二一四一〇一·一七七五八三天ニ六·二三八·二五九二〇五二二一一三一一五九五二一九吾一、三一四九三六四O.O 115三八〇天五八七七九四100一六(そ〓宗鑑に宗祇我を儈とめて早梅や··九九一四三八七二番たかどのゝ高紐に篁に耕すや五石の耕すや鳥さへ寶船··抱籠や瀧口に焚火して鬼焚火して冷さぬ卓上の茸狩や頭を茸狩や似雲が筍を五本··筍の藪の筍や柑を笥や甥の筍や垣の筍や五助畠黃昏やテめばたち聞の立去る事橘のかごと·索二二〓三〓·二六三三八九三二五二三五101一六次一一七·一七七·一一八·一一八一一七二一六〓山 田二七八四橘のかはたれ時·橘や昔館たつ雁のたつ鴫に蓼の葉を蓼の穗を蓼の穗に炭團法師火桶の穴炭團法師火桶の窓たな橋は··田におちて谷風に··谷路行く谷水の種俵··賴まれてたのもしき旅芝居·旅立を旅立や旅なれし足袋はいて旅人に旅人の鼻まだ·一二三一二三〓〓二七円一〇一·一九一一一二·二二八二二八二六一五八九五二三〓六〓八四iiioニュール三二八九·二三二itl壹旅人の火を旅人よ·玉あられうけるや玉霰漂母が玉人の座右玉川に玉川の歌··玉川の末や魂かへれ手枕に手枕の魂棚を魂祭·袂してたらちねの俵して短册はたんぽゝの(う)爺も婆も知恩院の重箱を··ちかづきの角力·モ一五一一五五三八三四七四八·二四四一一〇一五九三五三ニ元ニ元八〇〓次五二illo二三二六七一番引
蕪村ちかづきの鳴子·近道へ出て近道や推出し地下りに地藏會や父母の千とり聞く同.千葉どの、粽解て長生の張良が茶袋を茶の花の茶の花や石を茶の花や白にも茶畠に挑灯を消せ挑灯の猶散るたびに散る梅に散るは櫻散る花の全集八〓五八七〇三〇一九モニ二三元ニ見て五三八三毛八五·二五二10m2二五二12m一六三二五二〓二〇〓二三六四三三九五七毛散りつみて··散りて後(2)ニモ二二〇頭巾着て頭巾二つつくばうた辻駕に塊に辻堂に土舟やつゝじ咲いて石··つゝじ咲いて片山里·つゝじ野や··恙なきつと入やしる人々つと入や納戶のつなぎ馬角文字の椿落て乙鳥や去年も乙鳥や幹を··つばくらや水田のつばめ啼いて終に夜を莟とは妻や子の妻も子も三三三二一元八二四二充元共五八五八一二一三三一三二一六一七一四七〓兵〓三二三五朔日の摑みとりて月おぼろ··春の·月今宵あるじの月今宵松に月今宵めくら突きさして·月天心··突きとめた月に聞さて月に漕ぐ同月に對す月になく月の句を同.月の宴月見船月見れば二二一二元三·二五二一四六一七七一四八八九一四、·二四五三五二六四十四九三一四六一〇八五二七一四要其一三五一四積る雪枝を釣しのぶ釣鐘に釣上げし釣人の七七八七元三天にあらばてる雨や出る杭をてら〓〓と點滴に天狗風の一八二五一八四四九年守や乾鮭とし守る夜殿原は戶に犬の殿原の名護屋殿原のいづち·殿守の鳥羽殿へ飛入の飛び盡す飛かはす遠淺に飛魚と訪ひより飛石も··泊る氣で泊りがけの飛のりの照射して·虎の尾を鳥さしの鳥つきて鳥ないて鳥まれに三元三元三五二五〇九四九七三一二二六一六三番一四八ins三五三三七三七四九五九六言一四〇三三一四三(て〓手燭して能き手燭して色·出代や手斧打っ手燭して庭鐵をはむ手ずさびの徹書記の蝸牛の手取にや··てゝむしや角をてゝむしやその手にとらで手枕に身を手拭も手まくらの夢寺寒くと唐黍の戶開れば戶を明て·燈籠を三度桃原の堂守の十日まり·戶をたたく德本の·とかくして一把とかくして笠に獨鈷鎌首床凉··ところてん歲月日年一つ·一七ニコロ一二七云11m2二四五ニ元元三元八九二二二五三八二二二三五三二〇三3층·一五二·二二六·二三八一七一一四三정仝ニ一七三八〓九二(10°四20c一九索引
蕪村全集とろゝ汲む··とんぼうやいつまでとんぼうや村な二二二元ニ·九なつかしき夏書のなつかしきしをにがなつかしき忍のなつかしき津守の夏河を··夏山やうちかたむいて夏山や神の夏山や通ひ夏山や京盡し七くさや·何喰うてなにばちや菜の花に僧の菜の花にみな菜の花や油菜の花や笋菜の花や鯨も菜の花や月は同.菜の花や遠山菜の花や晝··菜の花や法師が菜の花や麻耶を名のれ〓〓八六150三七兵七五七五七五七五四125三六〇六〇六〇六〇六〇六〇三四二六六〇六〇六·一〇三苗代に嬉しき苗代の色紙苗代や鞍馬苗代や立ち菜畠に菜畠の鍋釜も鍋さげて同鍋敷に等閑に海鼠にもなまめきて鱠得て、ならし來てなら道や鳴瀧のなれ過ぎた南蘋を六三三〓二一四四六四二二六長生の長き日を長き日に永き日を長き夜や通夜の長き夜や物うき長旅や·なか〓〓に雨の日·中々に落穗·中々に獨長櫃に仲丸の流れ來て流れ來る啼きあへでなき人の梨の木に梨の花那須七騎·二五二·二六七四六三一四二一三二三一·二六八一五五國八一四五三in三九〇要四六八四二五〇言〓三ユ四八三九一〇一ニ元に入区の濁江に二三軒三四、100一二〇錦木を·錦木の立つ錦木の門を錦木は西須磨を·錦する秋の錦する野に西吹けば西の京に二十五の虹を吐いて似た僧の日光の·にほひある·二本づ人間に任口に六大ニ三元一二一八八一番奏奏一八五二00八三二二〇九二一一九七一五五五八九盜人の屋根に蓴生ふ·ぬなはとる(a三元西三七野ばかまののり合に海苔掬ふ乘物を··糊ひきて野分して野分やんでは齒あらはに飛蟻飛ぶや蠅いとふ蠅打て蠅散て蠅のなき賣ト先生羽織着て葉を落ちて·葉がくれのはつかし葉がくれの枕··袴着て萩咲て萩の月麥秋や鼬三〓〓〓六三二三五二三三吾二一葱洗ふ葱買て根に歸る寐ぐるしきねぶたさの寐佛を·ねり依養念比な三元二五九九三七三四九一〇八〇·二一五三三一二元九三一一〇·一一〇·一一〇一一七·二四八九五三一三二三〇三云一八六交(2)のうれんに軒に寐る鋸の··野路の秋野路の梅後の月賢き·後の月鴨たつ野とともに野の馬の··三一四一·二〇五三毛四二ニ乳一四九元脫ぎかふる脫捨てゝぬけがけの主しれぬ盜人の首領··索三一三三七三八八一四八引
蕪村全集麥秋や狐麥秋や何麥秋やひと夜麥秋や遊行の化けそうな兀山や··箱を出る葉櫻の··葉ざくちや碁氣に葉ざくらや草鹿端居して橋立やはしたなき橋なくて蓮池の蓮枯れた蓮の香や芭蕉去つて同.沙魚鈎の畑打の目に畑打やうごかぬ畑うちや法三章の畑打や細き·六九六九充充二一一12/ニュ九七二三二五六七二三一〇三〓〓〓三二一二一二六·二〇六五六〇二六三兵云云畑打や峯のはた打や耳はた打や我が宿畑打や木の間の畑打や我家も畠うつや鳥さへ畑うつや道問ふはた打よこちの裸身に畠にも畑に田に同肌寒し同畠ぬし案山子に畠ぬしの案山子ばち音に蜂蜜に鉢たゝき初秋やよそ初午やその初午や鳥羽初午や物種廿日路のモ元云·二六六六云二七六六六二二二二〓·五七七二〇一.五三〇奏天300三八二三五二三三三初鰹初かりに八朔梅·八朔や·初しぐれ初霜や·初冬や香花初冬や訪はん初冬や日和に初汐に初潮や初もみぢ初雪の底··初雪の出來初雪や消れば初雪や上京の花いばら花色の·花を踏みし同花か實か花曇り·花咲いて花ざかり一〇七二五·二五四·一七一·二〇九Ollo·二〇一·二〇一·二〇一三七三七八一二一八二四二四三三三八八四九五五四二六五二五花薄刈のこす花薄ひと夜は同.花ちりて木の間の花散月落て花すりも花ちりで身の·花散りてもとの花散るや同ノ同.1花鳥の花なくて花七日··花に去ぬ花に來て花に花に來て鱠花にくれぬ花に啼く花に遠く花に表太花に暮れて花に舞はで花の御能··-九一六〇五七六ニエル二八九五三九五九九·五六五五五六五六一四二三二六七言四七五五〇三三1/3五四四八四八四八花の香や·花の雲三重に花の雲五色の花見戻り花火せよ花のみか花の幕·花の春誰そや花紅葉·花守の身は花火見えて花守に葉に蔓に羽いろも濱荻に蛤に同はなたれて腹あしき僧も腹あしき僧こぼし早すしや腹あしき隣腹の中へ··はら〓〓と·四七五二七四春うたゝ春をしむ座主の春をしむ人や·春惜しむ宿や春風のさす手春風に··春風のつま春風や堤·春雨に下駄春風や浪を同春雨にぬるゝ春雨にぬれつ春雨の中に春雨の中を春雨や蛙の春雨やいさよふ春雨や暮れなん春雨や小磯の春雨や綱が春雨や珠數春雨や鶴の春雨や同車の春雨や人··二K五八三一一三四四四六モ五六六三天六二五五一四百云〓〓〓四九電·一九七10元二八五七一七三八二八九三三八〇八五一七四
蕪春雨や菜めし春雨や身に春雨や物語り春雨や物書ぬ春雨やゆるい春過ぎて·春の雨穴一春の雨日暮れ春の海終日春の暮筑紫·春の水すみれ春の水背戶に春の水にうた春の水山なき春の夕かの春の夕たへなむ春の夜に春の変や狐の春の夜やたらひを春の夜や宵春もや同半江の半日の村全集二四モ三三五三五四一〇三七二五〓一〇三〓〓〓〓〓〓O'D六般若讀む番屋ある〓〓日あたりの硝子の硝や比叡にかよふ日枝の日を燈を置かで日を帶びて火桶炭團同.日を以て日歸りの引きかうで引きよせて低き木に··日くるゝに日くれ〓〓日ごろ仲··ひたと犬の飛彈山の肘白き二三一四八ひつぢ田に·飛彈へ行きし一人きて·日でりどし·人をとる灘は人をとる淵は一しきり一筋も人妻の一つ家の一とせの人無き日人は何に人に似よと人の世に人間に··一人來て·ひともじの燈ともせと一渡しおくれた一渡越すべき雛の灯に雛祭る雛見世の三€ti 3층一八三吾二三二二二四四一三〇一三六五九1m2奏一七〓一四一三元一四一二一〇八三三宝六·二五八一三六一五三二·10三二四金三元五元八毫二三二二五四三〇壹七一三三一六、二〇五八八八八二九天五·二一二三日の光··日は日くれよ日は斜·枇杷の花柊さすひえ鳥を·病人の駕の病人の駕も白蓮を百姓に百姓の百日の鵯のうたゝ鵯のこぽし晝がほや此の晝がほや町にひるがへる晝を蚊の·晝舟に廣庭の拾ひ殘す曠野行く便舟の貧僧の二〓一元二五二ニ元三六七充三一·二〇一交一七七〓天三三三三三二二二二二三七五貢三貧乏に貧乏な御下屋敷貧乏な儒者と(3)三六三·二〇二ふたつ三つ二村にふためいて二もとの二人して藤の花佛印の文机の不動畫く鮒すしの鮒すしや船引の船よせて書綴る麓なる冬鶯冬川や孤村の冬川や誰·冬川や佛の冬川や船·冬木立家居冬木立北の冬こだち月に冬ごもり壁を畜二五三四〇七七六〇一二七二二二一-三五000 (2)·三九三글·二四九·二二·二六〇·三·二六〇〓風雲の風鳥の同風鈴や笛の音に深草の茯苓は鰒くへと鰒汁の君よふぐ汁の亭主鰒汁の宿··鰒汁の我鰒と汁鰒汁やおのれ·河豚汁や五候の鰒の賛鰒の面不二おろし富士ひとつ·二四八三九三〇四八九二〇〇三八一九九三四三一四三三二四三二四三·二四四國國醫四四四五二一四二五五二五二五索引
蕪冬ごもり心の··冬ごもり妻にも冬ごもり燈下に冬ごもり燈光··冬ごもり佛に冬籠母屋へ冬ざれて冬ざれや北の冬ざれや韮に冬ざれや小島の冬ちかし冬の梅··冬の日やぶゆ一つ冬やことし降りかへて古あふぎ·古池に古井戶や古傘の古河を古河の流を·古河の流引きつ古曆流れ村全集二六古曆踏むや古〓に一夜古〓の座頭古〓や酒は古寺に唐黍古寺の藤··古寺やはうろく古庭に古雛や古道を古道と古道に風呂敷に風呂入に禪に三八、言一三三一些一六、二五一六四六三元三一七六〓二一七八九辨當に同.美三三二三21m三二〇七二〇七·二〇七こ〇〇一四三三三二〇八cer三三五三三八八二八一一〇二一〇二三五二七·二七三六五七八ほ褒居士は··ぼうたんや棒ついて法然の··ぼうふりの蓬萊の箒目に鬼灯やほき〓〓と木刀も··木瓜の陰に帆虱の·同.細き身を細腰の細脛に細道を細道にぼたん有る牡丹切て··九二一二智五九一〇一二六-七会八九三三〔ヘ〕兵どもに閉帳の平地ゆきて蛇を追ふ蛇を截つて返歌なき變化すむ五四六三云九〇二五〇〓二二二八一三二五五〓〓〓一一九牡丹散て同.ほととぎす歌よむ時鳥畫に時鳥琥珀のほとゝぎす橘子規柩を··ほととぎす平安城を時鳥待つや··ほとぎうつてほとゝぎす世は骨拾ふ·ほのぼのと方百里堀喰ふほろほろと(3)眞金はむ··まかり出た同枕上枕する枕にと二八58°101.一〇二一〇三元一〇二20°·一〇二二七〇二四四六二스一一九二〓三五負まじき負腹の眞しらげの交へ折て升飮の又噓をまだきともまた長う又平に松浦の松明消て松島で死ぬ松島で古人松しまの月待人の松明ふりてまづ二つまつ宵や眞直に町はづれ窓の灯を窓の人の窓の燈の梢窓の灯の佐田一六三次二二一四六一六九二五三一〇五一〇三元二二五二六二一·二五一三〇吾一四三二二三三一一·一七二二三五一一一三學する·舞舞の舞雲雀眞結ひの眉ばかり眞夜中や迷子を丸盆の曼珠沙花(おか)四〇三五iiii云1111一六九一九四一八一見失ふ御影講の參河なる三日月の三日月も巫町に··實さくらやみじかよをみじかよかみじかよの闇よりみじかよの闇のみじか夜の夜の間みじか夜や六里·二七九三〓六四二五六五·二七〇·二〇五三九四一四一三二七〇三二〇六五索引
蕪村みじかよや曉·みじかよや垣のみじかよや淺井にみじかよや淺瀨にみじかよや足跡みじかよや芦間のみじかよやいとまみじかよやおもひもみじかよや葛城山みじかよや金もみじかよや毛蟲··みじかよや小見世みじかよや芒みじかよや同心衆みじかよや浪·みじかよや三尺みじかよや一つみじかよや伏見のみじかよや枕にみじかよや八聲のみじかよや吾妻の御園もる味噌汁を路邊の村全集二八奏三〇一道のべや道べたの路たえて道を取て三度啼て湖へ富士湖や堅田水桶に水落ちて水かれて水かれ〓〓水ぎはも水と鳥の水鳥を水鳥の水鳥も水鳥や朝めし水鳥や巨椋··水鳥や枯木の水鳥やてうちん遠き水鳥や提灯ひとつ水鳥や百姓·水鳥や舟に水島や夕日一八ニテル1111·六八三七二三三三一五一四八一〓三二一七電二四七二〇五二四七·二四七·二四六二四六二四二四六·二四六·二四七水に散りて水ぬるむ水の粉の水の粉や水の月水深く水古き水一筋·みとり子の身に更に身にしむや亡妻の身にしむや橫川の峰の茶屋に身の秋や同〓身のこすや身の闇の簑笠の簑蟲の得たり簑蟲のふらと簑蟲の古巢簑蟲はちゝみの蟲や秋簑蟲や笠置の九九九四四次九五霊〓五六三二三二一COO三三〓·一四六·二一〇·二〇九二二三一八一七八一元六六〓会窒畜窒空窒窒〓突盍六六六一六八〇三身やいつの耳寒し木兎の宮城野の御佛に晝御座G命婦より牡丹餅たばす亥子··命婦より牡丹餅たばす彼岸··耳うとき都人に·見渡せば三輪の田に三井寺に三井寺や月の三井寺や日は·子を結ぶ·〓無緣寺の麥刈て瓜の麥刈に麥刈て遠山麥刈りぬ麥の秋〓〓〓·二二五〓00〓i21.二三三六、一二·二三一五一一六一元要111九九九四九六麥蒔の麥蒔やむき蜆·蟲賣のむし啼やむささびのむくつけき·むくと起きて蟲のために蠹んで武者ぶりの蟲干や莚帆に宗任にむら雨にむづかしきむらさきの村百戶·村〓〓のむら紅葉·名月や秋月··名月にゑのころ(6)一七八二三一二六ing三四一六二五八三三員二〇二〇一·八九四三壹四三二三二云·一八二兵名月やあるじを名月や雨を··名月やうさぎの名月や今朝··名月や夜を名月や神泉苑の名月やかしこき名月や露に名月や夜は飯櫃のめぐり來るめしつぎの目に嬉し目さましてめし粒で飯盜む目に遠く目に見ゆるも一 己·二三二一四八豆一四八一四七一八二二二翼一四八二六〇一四七〇四1 8 8六九久五九二〇一四三九七九七九七九充電一四八木蓮の燃立て目前をもしほ草·三三.三九引
蕪村全集餅舊苔の望月の物資うて物書に物云はでもの焚いた物焚いて物種のものくる物あれてもののふの藻の花や小舟藻の花や片藻の花や藤太が紅葉してそれも紅葉して寺ある紅葉見の紅葉見や股立の百とせの枝に百とせの姿も桃の花守信と門前の嫗が四西日三一番元元一六番一五八三三六八一〇〇一二八三一二八·一八二一八一一三三一七四七二三五呉二三五四五門前の老婆子(4)一三やぶ入の宿はやぶ入の夢ややぶ入や鐵漿やぶ入や浪花を同.やぶ入や鳩に·やぶ入や守袋··やぶ入やよそ山蟻のあからさま山蟻の覆道·山おろし早苗山風一二の山をこす山陰や誰山陰や麥より山雀や山くれて山里や山寺や朝めし山寺や撞きそこなひ大和假名大和路の山鳥の枝山鳥の尾を四二四二四五七四ニ四西二二二一〓靈三三元ニテル二七円12/·二一五九六三三二四五揚州の〓園に度脛の毛に度脛や·やすき身を宿かさぬ宿かせと宿かへて宿近く宿の梅やどり木のやなぎから柳散同柳にも屋根ふきが屋根葺の屋根低きやぶ入をやぶ入はやぶ入のまたいで七四八五〓二〇三全·二一五·2三mニ元九五四〇二四空26 112四五二三五二三二二六二四〓〓山に添うて··屋根ひくき·山の端や·山はくれて山畑を山蜂や山彦の山人は山吹の卯の花山吹のおくれ山吹や山伏を山水の山もとに山守の月夜山守の冷飯闇の夜に終る闇の夜に頭巾を·やゝ廿日··(5)湯あがりの浴して··ゆかしさよ·二二·二二六一四四一九九二三三七七·一〇五·一二二·二六九五八二0 iii五九レ四五四三六isi.一一九床低き·雪を踏で雪折も雪折や雪を··雪折やよし野の往來待てゆき暮て雪消えて同雪沓を雲國や雲白しゆきたけも雲とけや妹が雪とけやけふも雪の旦·雪の暮雪の戶雪拂ふ·行き〓〓てゆく秋の行秋や·ゆくすゑは·行年の女歌舞妓·充三七二一五三山三日二三.〓二一六五六六二〇、二一六三三五八四九元二六二三三六二一七七五〓三三八八〓〓〓〓同.ゆく年のめざまし行年の瀨田を··行年や行春のいづち行春の尻べた·行春やおもき頭を行春やおもたきゆく春や歌もゆく春や逡巡行春や白き··行春や撰者をゆく春や同車のゆく春や水もゆく春や眼に行春やむらさきゆく春や橫川へ行舟やゆく水に油斷して柚の花やゆかしき柚の花やよき酒夕風や同三一九(00c·二〇七三〇一〇in-一〇九一〇九九八一〇二三一〇九九(00·五二-bo三三三三·一〇七云·二四八八五·一二四索引三
蕪村全集夕がらす·ゆふがほに夕がほのそれは夕貌の花噛む夕がほや行燈夕がほや黄に夕がほや竹夕貌や武士夕時雨蟇··夕しぐれ車夕ぐれを··夕立や足の白雨や門脇夕立や兼行菴夕立や草葉ゆふだちや筆も夕露や弓取に弓取の夢さめて夢よりも(+)よいたねを··二〇一七九三三三実三夜を寒し··夜を寒み··世をみればよき角力よき人と·よきふとん夜興引や夜興引のよし野出てよらで過る夜角力の夜桃林を四つの海に夜泣する世に流れ夜の蘭夜走りの宵々の夜は夜明けよ夜水とる··よもすがら夜やいつの鎧着て元三〓一六三·二三四三三二二H (ら)來迎のらふそくの樂書の嵐雪と嵐雪に蘭の香や蘭夕〓二六、·一八七公三O.O二三三六三三三上二六四七二七二一三三三元九〇一〇一一三二全云五三·二四九三、七七八七三三三三六七三二七九四一八八る留主に居る留主守の·(れ)一〇三三靈雲も連哥して同烈々と三元〓天五(3)路ぢの闇··爐に燒いて·二六五歸びらきや裏町·爐塞いでたち出る爐塞いで南阮の爐びらきや雪中庵の爐ふさぎや爐びらきや先··(オ)七二〓元々·二八六·二九同我が手に我が泪我捨てしわが歸る我頭巾··同.若禰宜の若葉して我が骨の我か水に我が宿にいかに我が宿にもの忘れ我が宿の鶯わくら葉にわくらはの梢わするなよ··わたとりや犬をわたつみたばこ渡し呼ぶ女の渡し呼ぶ草のわたり鳥雲のわたり鳥こゝを侘禪師··吾わらび野やわりなしやわれぬべき我を厭ふ我のみの我は矢の我も死して補雉子啼くやこゝ歲旦を同西念は·葉櫻や奈良·;)o三二五八ニ元七八七九三四200三三七七九五二九三三21mmニ元1000三七二六三클三四若鮎や若楓學匠·若楓〓づしき若楓矢數の若草に若草や·若竹や曉の·若竹や是非も若竹や十日のわかたけや橋本若竹や村百軒若竹や夕日の若竹や橫雲の我脚に我影を我門やニ二三·一一六八四四·二六四·一一八二六八·一一八二六·二六七·一一八三一二五カ三七八二三五二五一〇三七一二二〓公二五二五三索引
發行所大正十四年十一月十八日發大正十四年十一月十五日印振替東京七一四八東京市神田區錦町一丁目印印刷者發編刷行者所者行刷有東京市牛込區榎町七番地東京市牛込區榎町七番地東京市神田區錦町一丁目十九番地兵庫縣西ノ宮市常盤町十七番地日〓印刷株式會社竹三潁蕪村全集朋内正價金五圓五拾錢原堂喜浦書太退店郞理藏
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