カントが何をやっているのかまったく分からず困っているひとのために
カントが何をやっているのかまったく分からない、と言われることがあります。私自身もそれほど詳しいわけではありません。とはいえ、あまりに頻繁に「カントはまったく分からない」と言われるので、〈カントの勉強を始めるさいに便利でありうる手引き〉を作成しました。
以下の〈手引き〉は、一般に「カント哲学」として知られている事柄を私の言葉で整理整頓したものです。それゆえひとによっては分かり切った内容しか書かれていないと感じるでしょう。また、カントの立場を「正確に」説明しようとすれば分からないテクストを再生産することになりますので、意図的に叙述をぼやかした箇所もあります。今回の〈手引き〉が、カント哲学のさしあたりの全体像を形成し、それによってカントを学び始めるきっかけとなれば幸いです。
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カント(1724-1804)とはどのような哲学者でしょうか。カントより前の時代にはデカルトやライプニッツなどが理性に従って事物を探究し、合理的な世界観を提示しようと努めていました。カントはこうした先駆者の努力をふまえて自分の思想を構築します。カントは、理性を使って探究するだけでなく、《そもそも理性には何ができるのか》を反省します。そしてカントは、理性の役割(理性にできること・できないこと)を明らかにすることによって、人間の理想の生き方や社会の理想のあり方を明らかにしようとします。
カントの主著は『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』の三つです。『純粋理性批判』は〈知識と科学〉をテーマとし、『実践理性批判』は〈行為と道徳〉を主題としています。このふたつ――すなわち〈知識と科学〉および〈行為と道徳〉――は、理想の生き方や理想の社会のあり方を明らかにするさいに必ず論じなければならない話題です。他方で人間の生活には〈科学〉や〈道徳〉以外に〈美〉といった領域もあります――そしてこの第三の領域は『判断力批判』で扱われます。三つの著作において人間に関わる事柄が「全体的に」論じられている、という点はしっかり押さえておきましょう。
以下では、『純粋理性批判』と『実践理性批判』の内容を追いつつ、《カントがどのような人間のあり方や社会のあり方を理想的と見なすか》を確認します。
『純粋理性批判』は、人間がものを知る仕方を考察しながら、人間の知りうることの限界を指摘します。では――ひとつめの話題ですが――はたして人間はどのような仕方でものを知るのでしょうか。
ひとがものを知るとき、第一に感覚で外からの刺激を捉えます。カントは、外からの刺激を感覚において捉える私たちの能力を抽象的に「感性」と呼びます。そしてカントは、人間の感性は空間と時間の形式をもつ、と指摘します。これは、神であれば時空に縛られない仕方で対象を捉えることができるかもしれないが、人間による対象の感覚は空間と時間という形式に縛られている、ということを意味します。
ところで外からの刺激を感性で捉えるだけではものを知ったことにはなりません。人間がものを知るさいには、第二に、感覚で捉えたものに言葉や概念を当てはめる必要があります。例えばひとは、感覚で捉えたものに「リンゴ」や「赤い」などの概念を当てはめることによって、《リンゴが赤い》ということを知ります。カントはこの〈概念を当てはめる〉という操作を抽象的に「カテゴリーを使って判断する」と表現します。そして、感性において捉えられたものに概念を当てはめる能力(すなわちカテゴリーを使って判断する能力)を「悟性」と呼びます。
以上が《ひとはどのような仕方でものを知るか》のカントの説明です。カントによると、感性で捉えられたものへ悟性の概念(カテゴリー)が当てはめられることによって知識が生じます。カント哲学において知識は「認識」という堅い言葉で呼ばれるのですが、この言葉を用いれば以上の考えは次のようにまとめられます。感性が与える材料(感性の素材)へ悟性の概念(カテゴリー)が適用されて認識が成立する、と。
こうした考えはひとつの特徴をもちます。カントの見方によれば、人間は感性や悟性などの自らがもつ能力を駆使して知識を得ます。それゆえ〈人間がものを知る仕方〉は人間の感性や悟性のあり方に縛られていると言えます。例えばミツバチやハトであれば、別種の感性や悟性を通じて(こうした動物に悟性があるかどうかは確実には分かりませんが)、世界を別の仕方で知るでしょう。それゆえ人間は、事物それ自体のあり方を知っているというよりも、事物を自分なりの仕方で知っていると言えます。それゆえカントの哲学においては、物自体は知られない、と言われます。むしろ私たちに現れるものは、私たちの知り方に束縛されています。カントの理論のこうした特徴は「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と表現されます。素朴な見方では、認識が対象に従う(すなわち物自体が認識に現れる)と考えられますが、カントは発想を逆転します。そしてこうした発想転換は「コペルニクス的転回」と名づけられています。
ところで――話を進めると――人間は、ものを知ろうとするさいに、〈感性の素材へ悟性の概念を適用する〉ということ以外も行ないます。例えば感性の素材へカテゴリーを適用して私が「ひとが走っている」と知るとしましょう。ここで私は、さらに頭を働かせ、《あのひとは「走るぞ!」という自由意志に従って走っているのだろう》と推理したりします。事物を知ろうとするさいには、悟性の判断だけでなく、理性の推理や推論も関与します。そして、カントによれば、推理や推論が理性の主要な働きのひとつです。
とはいえ、こうした理性の推論という働きにおいて知性の限界が明らかになる、とカントは指摘します。先の具体例で説明しましょう。私には走っているひとの姿が見えます。そして私は「ひとが走っている」と判断します。そして私は、このひとは走っているのであるから、そこには「走るぞ!」という自由意志があるに違いない、と推論します。とはいえ――ここが核心的に重要ですが――自由意志というものは感性の素材のうちに現れません。じっさい、「走るぞ!」という自由意志の存在を他人に認めることは推論の域を出ません。
ここからカントは以下のように論じます。たしかに私たちは、感性の素材に悟性の概念を適用して認識を得るかぎり、確実な知識をもつことができる。とはいえ、理性によって推論を行ない、その結果として「自由意志がある」などと考えるときには、感性の素材を欠く思考が行なわれている――これは、不確実な領域に足を踏み入れている、ということ。けっきょく、ひとを観察してそこから「自由意志がある」と推論することは、妥当な認識を与えるものではないのです。
以上の議論の要点は、自由意志のような明らかに存在すると思われているものがじつは観察などでは確実に知ることのできないものだった、というところです。カントによれば、私たちが生きていくうえで、自由意志が存在するという考え(加えて神が存在するという考えと魂が滅びないという考え)は不可欠の重要性をもちます。とはいえ、観察や推論による認識というやり方では、自由意志の存在は確かめられません。人間の知識には無視できない限界があるのです。そしてカントによれば、自由意志の存在が確かめられるのは、〈知識と科学〉を超えた〈行為と道徳〉の領域においてです。
では、〈行為と道徳〉の領域において、どのような仕方で自由意志の存在は確かめられるのでしょうか。次にこの点を説明します。
ひとが困っているのを私が見る、とします。このとき――じっさいに助けるかどうかは別にして――「ひとを助けよ!」という理性の声がします。カントによると、理性は私たちにいろいろな命令を行ないますが、こうした命令が理性のもうひとつの働きです。
ちなみに《なぜ理性は推論と命令というふたつの働きをもつのか》という点については、もう一歩踏み込んだ説明が可能です。例えば、たんなる動物のうちには簡単な判断を行なうものがいるかもしれませんが、推論や推理は人間くらいの知的存在にしか行なえません。また、たんなる動物も仲間意識のようなものを持つかもしれませんが、心の奥から生じる道徳的命令の声を聞けるのもまた人間くらいの知的存在に限られます。カントにおいて「理性」はたんなる動物とそれ以外を分けるようなものと捉えられています。それゆえ理性に〈推論〉と〈命令〉というふたつの機能が割り当てられているわけです。
「自由意志」の話へ戻りましょう。困っているひとを見るとき、私たちは「ひとを助けよ!」という理性の命令を聞きます。このとき――ここが重要ですが――私たちは、自分がこの命令に従うこともできれば従わないこともできる、ということを意識します。ここにおいて私は自分が自由意志をもつことを確認するに至ります。このように、カントの哲学においては、自由意志の存在は〈認識〉の文脈において観察によって確かめられるものではなく、むしろそれは〈実践〉の文脈において道徳的選択のさいに確かめられるのです。自由意志という人間生活において重要なものは、〈知識と科学〉の領域を超えて、〈行為と実践〉の領域においてはじめて確証されるのです。
さて――話をさらに進めると――カントは以上の枠組みにおいて人間の理想の生き方や社会の理想のあり方を指摘します。カントは《理性の命令に従うことが理想的な生き方にとって必要だ》と考えますが、この哲学者は私たちが従いうる命令を二種類に分けます。例えば一方で「ほめられたいならひとを助けよ!」という命令があり、他方で「ほめられたいなら」などの条件の無い「ひとを助けよ!」という命令があります。カントは前者の条件付き命令を「仮言命法」、後者の無条件的命令を「定言命法」と呼びます。そして、道徳的に行為するためには私たちは(仮言命法ではなく)定言命法に従わなければならない、と主張します。
ここでカントが行なっているのは打算と道徳の区別です。「ほめられたいならひとを助けよ!」という仮言命法を動機としてひとを助けるとき、たしかにそのひとは或る意味で「よい」ことをしています(なぜならひとを助けているからです)。とはいえこれはあくまで打算であり、道徳的な行為とは種類を異にします。そして私たちは、「ひとを助けよ!」という定言命法を動機とするときだけ、(打算ではなく)道徳的に行為することができます。
カントのこうした道徳論は或る特徴をもちます――この点を指摘しておきましょう。カントは道徳において動機を重視しています。すなわち、行為の動機が何であるかに応じて《行為が道徳的か否か》が判定される、ということです。こうした見方は「道徳的かどうか」の基準を、行為の帰結ではなく、行為の動機に置いています。それゆえカントの道徳論は「動機主義」に分類され「帰結主義」とは区別されます。
徐々にカントにおける〈理想の生き方〉の話へ近づいてきました。カントによると、いろいろな定言命法の中で、「道徳法則」と呼ばれうる至上のものがあります。それは――いささか難しい文面ですが――次のような命法です。
汝の意志の格率(ルール)がつねに同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ。
文末が「せよ」であるのでこの文が命令であることが分かります。そしてこの命令に「……なら」などの条件はありません。それゆえこれは定言命法です。
ではこの定言命法の意味は何でしょうか。これは、「汝」というひとりの人間がどのような意思決定のルールを選ぶべきか、に関する命令です。そしてこの命令は、「汝」というひとりの人間が自分のルールを選ぶさいには、「普遍的な立法の原理」というみんなが従うべき規則にあてはまるものを選べと述べています。簡単に言えば、すべてのひとにあてはめてOKなルールを、自分の意思決定のルールとして定めよ、ということです。具体的には、自分の行為のルールを定めるさいには、「嘘はつくな」や「約束を破るな」などの〈みんなにあてはめてOKなルール〉を選べということ(というのも逆に「場合によっては嘘をつけ」などのルールは決してこの世のみんなに採用されてOKなものでないからです)。
話がここまで進めば《先に紹介した定言命法がなぜ至上のものと見なされるのか》も説明できます。押さえるべきは、「道徳法則」という定言命法は《私たちがどのような定言命法に従えばいいのか》について命令している、という点です。それゆえ道徳法則は「定言命法についての定言命法」と呼んでかまわないほどに根本的です。これが道徳法則が定言命法のなかで至上だとされる理由のひとつです。
いまやカント哲学における〈理想の生き方〉が説明できます。じつにカントは、道徳法則の命じる仕方で自分のルールを自分で定めて行動することを「自律」と呼び、これを理想の生き方としました。これに対して感情や欲望に流されて生きることはカントの哲学において「他律」と呼ばれます。他律を脱して自律を保つこと――これがカントの重視する生き方です。
残るは〈理想の社会のあり方〉の話ですが、これを理解するためにはカント哲学における「人格」という概念を掴んでおかねばなりません。カントは、自律して生きる可能性をもつ人間存在を「人格」と呼び、これをたんなる動物などから区別します。そしてそのうえで次の命法を重要なものとして提示します。
人格をたんなる手段としてでなく目的としても扱え。
この命法は「人格を目的とせよ」と述べているのですが、そうなると問いは次です。はたして「人格を目的とする」とはどのような事態か。具体的に説明します。例えば或る医者がAという患者を診ているとします。ここで「なぜ医者はAさんを診るのか」と問われれば、答えのひとつは《医者は給料のためにAさんを診ている》というものでしょう。ここにおいては、給料が究極の目的であり、Aさんは或る意味でそのための手段になっています。ただしカントはこうした状態を必ずしも悪いものと見なしません。とはいえ、仮に医者がAさんを診る目的が給料だけ[*]だったとすれば、カントはこの事態を「よくない」と評価します。この哲学者の考えでは医者の診療は、給料のためだけではなく、同時にAさんのためでなくてはなりません。そしてこの「Aさんのために(for A)」というのが「人格を目的とする」ということです。
[*] ご指摘を受けて「だけ」を加えた(もともとは「だけ」が脱字)。[2020/07/28]
カントは《人格が互いを手段として利用する》という事態を或る意味で「仕方のない」ことだと考えています。とはいえ同時に、これだけではいけない、と考えています。カントによれば、私たちは互いを目的ともせねばなりません。このような見方――すなわち《人格を手段としてだけではなく目的としても扱わねばならない》という見方――はときに「人格主義」と呼ばれます。
以上を踏まえるとカント哲学における〈理想の社会のあり方〉も説明できます。カントによれば、すべてのひとがお互いを目的として尊重している、というのが社会の理想的な状態です。言い換えれば、たんなる道具として扱われているひとが誰もいない社会が理想だ、ということ。誰しもが「あなたのために」という敬意を得ている社会はときに「目的の王国」と呼ばれたりします。
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