哲学の勉強の仕方
哲学的問題の理解を深めるやり方はふたつあり、一方は内発的なものであり、他方は外発的なものである。本ノートでは便宜的に、前者を「自分の頭で考えること」、後者を「勉強」と呼ぼう。
自己の内的な関心に導かれて何かしらの哲学的問題の理解を深める――これについては「どうやって実行するのか」の問いはとくに生じない。なぜなら特定の問題へ内的な関心をもつひとは、例えば良い教科書があろうがなかろうが、自分の頭で考えてどんどん理解を深めていけるからである。私について言えば、〈自由意志の問題〉に対して内的な関心をもっており、このテーマに関しては他者の手引きがなくても思索を続けることができる。
他方で「勉強」に関しては「どうやって実行するのか」の問いが生じうる。すなわち、内発的な興味のない問題をどう勉強していけばよいのか、という問いだ。おそらく《興味がなければ勉強する必要はない》という意見もあるだろう。とはいえ――後述するように――〈自分の内的な関心のない話題を学ぶこと〉には無視できない利益がある。以下では〈内発的な興味のない問題を勉強する仕方〉について二三述べたい。
個人的な経験から話を始めよう。「なぜひとを殺してはいけないのか」あるいはより抽象的に「なぜ道徳的でなければならないか」という問いに私は内的な関心をもたない。だがたまたま永井均の一連の著作が存在していたおかげで私はこの問題に関して(あくまで自己評価だが)それなりに理解を深めることができた。「なぜ道徳的でなければならないか」という問いは英語を用いて “Why be moral?” の問題と称されることがあるが、この問題系へ参与するための出発点のひとつは永井の『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998年)で紹介されている――それは以下のようなものである。
1997年11月30日の朝日新聞の朝刊に、大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」という文章が載っていた。私はそれを読んでとても嫌な感じがした。その嫌な感じにはある懐かしさがともなっていた。少年のころの私が何度も感じた嫌な感じだったからである。
大江は、テレビの討論番組である若者が「どうして人を殺してはいけないのか」と問いかけたことに対して、こう書いている。「私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良しあしとか、頭の鋭さとは無関係に、子供は幼いなりに固有の誇りをもっているから」。大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは悪いことだと主張している。だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。だが、じつはこれは答えにならない。なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる当のものであるからだ。(20-21頁)
永井によると、大江は、道徳に関する或るタイプの問い――すなわち「なぜ人を殺してはいけないのか」という問い――について、《それを問うことは道徳的に悪いことだ》と主張することで問いそのものを「圧殺」しようとしている。ここでは興味深いことが生じているのだが、押さえるべきことのひとつは《大江が道徳の内部で語っている》という点だ。じつに道徳は〈その内部において道徳の根拠を問うこと〉を悪と見なす。道徳に備わるこうした構造には何かしら面白いところがある。
私は永井の文章から当該問題への関心をいわば「外的に」植えつけられた。そして次のような作品を――もっぱら次のような順序で――読み進めることによって “Why be moral?” の問題の理解を深めるころができた。
(i)『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書、1996年)の「問いの前に」と「第二の問い なぜ悪いことをしてはいけないのか」の章
(ii)『なぜ人を殺してはいけないのか?』(小泉義之との共著、河出文庫、2010年)
(iii)「よく生きることヤテ、そりゃナンボのもんや?」(安彦一恵・大庭健・溝口宏平編『叢書《エチカ》① 道徳の理由』、昭和堂、1992年所収)
(iv)「なぜ悪いことをしても〈よい〉のか」(大庭健・安彦一恵・永井均編『なぜ悪いことをしてはいけないのか』、ナカニシヤ出版、2000年所収)
(v)『倫理とは何か』(ちくま学芸文庫、2003年)
じつに、こうした著作を読み進めることによって、ひとは〈道徳と内部と外部の区別〉の感覚を研ぎ澄ませていくことになる。そこで学ばれるものは特定のテーゼではなく、或る〈世界を見る見方〉である。とはいえ《そこからどのような景色が見えるか》はそこにじっさいに立ってみないと分からない――関心のある方は(i)から(v)を読み進めて頂きたい。そして先の引用文を面白く感じたひとは是非とも取り組まれたい。というのもうまくいけば「勉強」による至福の時間を味わうことができるからだ。
以上が個人的なエピソードである。ここでギアを切り替えて〈勉強の利益〉というより一般的な事柄を説明するのがよいだろう。
冒頭で触れたことだが私は、自分は自由意志の問題をこれまでどこかで「勉強」した、とは考えていない。というのも、自由意志への関心は私の内側から生じるものであったので、とくに〈他者の関心に導かれて勉強する〉という機会は必要でなかったからである。むしろ、いろいろな書籍や論文から論点を「つまみ食い」するだけで、あとは自分の頭で考えることができた。
その一方で私は、もし自分が自由意志に関する「内発的な」思索ばかりを行ない、他者が外的に教えてくれるような何かを勉強しなかったとすれば、自分はいま以上に「薄っぺらな」哲学者になっていただろう、とも思う。そして、仮に “Why be moral?” の問題に関する永井の一連の著作がなかったとしたら、私はそもそもそれを勉強しようともしなかっただろうし、結果としてそれについて十分に理解を深めることができなかったはずである。
ポイントを別の角度から敷衍したい。率直に言うと「なぜ道徳的でなければならないか」という問いは私の内的な関心に属していない。それゆえこの問いをめぐる私の考察は全体として「外発的な」ものである。他方で――この点は大事なので強調するが――《哲学に取り組む者が、他者の関心を面白く感じ、その他者の導きに従って何かしらの問題の理解を深める》ということはあってしかるべきである。というのも、そうした「勉強」によって、ひとは、内的な関心のみでは到達できなかったところへ辿り着くことができるからだ。結局のところ、(本ノートの意味の)「勉強」の利益は次である。自分ひとりではなれなかったところの者になることができる、と。
ところで、いったいぜんたいどうして上記の(i)から(v)の作品は――いろいろな論文を渡り歩くのと違って――(本ノートの意味の)「勉強」を可能にするのだろうか。答えは単純で、そこにひとつの精神が通底しているからである。逆から言えば、同一の著者の手による連続的作品であっても、そこに一個の精神が受肉していないかぎり読解による学びは「断片的」の域を出ない。けっきょく、本ノートで言う「勉強」の本来のあり方は、〈他者の一個の精神に導かれることによって特定の問題の理解を深めていくこと〉である。
“Why be moral?” に関する永井の諸作品以外に、日本語で書かれたもので(今述べた意味の)「勉強」を可能にする一連の作品はあるだろうか。知っているものがあれば、また教えてください。
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