千葉雅也氏の『勉強の哲学』へのコメント——ヘーゲル的な「反ヘーゲル的」勉強論

千葉の『勉強の哲学』(文藝春秋、2017年)は、一読で判明するように、ヘーゲル的である。

例えば、この本における最高のパンチラインのひとつである「勉強によって自由になるとは、キモい人になることである」(61頁)という一文には、自己超越・転落・自己との和解などといったヘーゲル哲学のモチーフとの共鳴がある。この点で、千葉の『勉強の哲学』はヘーゲル的な「変容の哲学」であり、そこで展開される原理的「勉強法」は弁証法的な動性を特色とする。

とはいえ同書には「反ヘーゲル的」と形容できる側面がある。そして、私の考えでは、この側面こそが千葉の本の真価を形成している。必然性/体系性/教養のプロタゴニストであったヘーゲルにたいして、『勉強の哲学』の作者は偶然性/断片性(有限性)/バカを対置する。勉強をバカという状態からの離脱として規定するのではなく、むしろ勉強をバカという場に内在的な運動として理解すること。今回のノートでは、ヘーゲル的な「反ヘーゲル的」勉強論として、千葉の議論を紹介したい。

「ヘーゲル vs 千葉」というマッチを設定するとき、思想の対立軸はどこに置かれるだろうか。それは、端的に言えば、《知とは何か》の理解である。私たちは、何事かを知りながら、学びながら、探究しながら、生きる。生のかかる「学知的」側面をいかに捉えるかに関して、ヘーゲルと千葉は、さまざまな点で軌を一にしながら、重要な点で袂を分かつ。

学知に関するヘーゲルの理解は、周知のとおり、『精神現象学』の序論できめ細かく展示される。はじめにヘーゲル学問観の一側面を確認しよう。

ヘーゲルは、物事の真偽をキッパリと固定的に分けようとする学知的姿勢を「私見」あるいは「私念(Meinen)」という語で捉え、この姿勢が諸々の哲学体系の相違を「真理の進歩的発展」と把握できない点を指摘する(金子訳、4頁)。よく知られているように、ヘーゲルにとって、学知は動性をその本質とする。真理は運動である。例えば「シーザーはいつ生まれたか」などの問いへキッパリとした答えを与えうる状態が「知」なのではない(38頁)。むしろ、シーザーについてであれ何であれ、それを考えることによって成長し、自己変容することこそが「知」の名にふさわしい過程なのである。

『勉強の哲学』の第一章「勉強と言語――言語偏重の人になる」もまた、知を、あるいは勉強を、一種の運動と捉える。曰く、「勉強とは、これまでの自分の破壊である」(18頁)。だが、こうした破壊の意義は何か。そもそもここでの「破壊」は何を意味しているのか。千葉はこうした点を丹念に説明している。それを私なりに要約すれば以下。

私たちの各人は、そのつど一定の環境において、他者とのかかわりのうちで生きる。そして、職場におけるノリ、旧友との飲み会におけるノリ、家庭におけるノリ、など、そのつどの環境に応じた一定のノリに自己を「乗っ取られ」ながら、生きている(28頁)。さて、こうした環境的ノリは私たちにいわば「環境コード」(どう振る舞うのが適切かを規定する規則)を提示するのだが、私たちはこの種のコードへ完全に従属しているわけではない。むしろ私たちはそこから「距離をとること」ができる(30頁)。そして、所与のノリへ参与することを停止し、そのノリへの固着から自由になり、「生活の別の可能性を開」いたうえで(53頁)、新たなノリへ参入する、という運動を行なうことができる。千葉が「勉強」と呼ぶ事態もまた、かかる自己変容の運動の一種なのである。

こうした自己破壊には〈生の別の可能性を開く〉という意義がある(かかる可能性の増大は、いろいろなケースで、ひとを救うことがあるだろう)。ところで環境コードから距離をとることはどのような事態か。千葉はこの点を「言語」に焦点を合わせて説明する。

押さえるべきは、言語が観念性と物質性を併せ持つ、という点である。

一方で、言語の観念性は私たちが生きる意味空間を開く。実に、人間的世界を構成するもののひとつが言語だ――例えば「カネ」や「恋」などの言葉がなければ人間の世界は存在しない――と言えるように、私たちにとって世界は〈言語的に分節化された場〉である。この意味で千葉は、「人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ(VR)」を生きている」と言う(37頁)。そして言語は、《こうした状況では……を「美しい」と言うべきだ》や《あのような状況では……を「愚かだ」と言うべきだ》などと環境コードを規定することによって、私たちの生を観念的に束縛してもいる。

他方で、言語は、たんなる音、たんなるインクの集まり、たんなる腕と指の動きなどでもある。すなわちこの点において言語は、積み木やレゴ・ブロックと同じく、物質あるいは物塊のカテゴリーに属す何かである。そして私たちは――意外かもしれないが――言語のかかる物質性のおかげで、意味の観念的束縛から自由になりうる。なぜなら私たちは、レゴ・ブロックを組み直すように、物質的言語の並びもまた組み替えうるからである。そして私たちは、ソシュール的な差異の観念的体系を媒体の物質的側面に即して編み直すことによって、所与の環境コードから自由になりうるのである。

以上が千葉の議論。ここですでに「反ヘーゲル的」契機が見てとれる。図式的に言えば、〈物質の個別性から観念の普遍性へ上昇すること〉を自由と見なすヘーゲルにたいして、千葉は〈観念の規範性から物質の偶然性へ下降すること〉に自由の重要な側面を見出す。この違いの意味は「遊び」という概念を通じて説明できる。

まず千葉の勉強論のさらなる要点を紹介したい。はたして〈言語の秩序を組み直して所与の環境コードから距離をとる〉とは具体的にどのような活動か。例えば、不倫報道のあった芸能人をみんなが非難している、という文脈にあなたが身を置いていると仮定しよう。この場合、所与の環境コードは「不倫するなんてひどい奴だ」と発言することへあなたを向かわせるかもしれない。だがあなたはこうしたコードが決して期待しない思考――例えば、配偶者がいるにもかかわらず別の人物と関係をもつことが「不‐倫」と呼ばれるのだが、いったいぜんたい「倫」に関するいかなる先行了解がかかる把握を生み出したのか、などの思考――を展開することができる。これはコード的な適切さからズレた思考であり、笑いを喚起する。だが、千葉が的確に指摘することだが、ひとを吹き出させるくらいにズレた思考とズレた言葉使いこそが勉強の核心を形成している。例えばかつて石田純一は「不倫は文化だ」と言ったが(そして世間から顰蹙を買ったが)、この言葉が期せずして思考喚起的であり、不倫という現象の理解を深めさせてくれそうな兆しをもつという点に鑑みると、思わずニヤリとしてしまう。

さて、以上のような考察にもとづき、千葉は〈言語の秩序を組み直して所与の環境コードから距離をとる〉という活動を「遊び」という概念で特徴づける。ポイントは次の点。すなわち、一定の目的意識のもとで言語の秩序を組み直そうとしても不十分であり(なぜなら目的意識はコード従属的だから)、むしろ《とにかく言語の組み直しそれ自体が楽しい》という姿勢でそれをやってしまっている場合の方が、生の可能性の空間は創造的に拡大するのだ、という点。実に、笑いを誘うような言葉の遊戯的組み替え、例えば「ミシェル・フーコーはリベラルになるのをいやがるアイロニストであるのに対し、ユルゲン・ハーバーマスはアイロニストになるのをいやがるリベラルである」というローティの詩的キアズム、こうした遊びこそが私たちの脳天に雷を落とす。ハイデガー的に言えば、勉強における思索はまさしく詩作なのである。

以上の考えが凝縮されたパッセージを引用させて頂きたい。

慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」へと移ろうとする狭間における言語的な違和感を見つめる。そしてその違和感を、「言語をそれ自体として操作する意識」へと発展させる必要がある。[…]
自分を言語的にバラす、そうして、多様な可能性が次々に構築されては、またバラされ、また構築されるというプロセスに入る。それが、勉強における自己破壊である。
(52頁)

ここには――すでに触れたように――ヘーゲル的な変容の運動があるが、同時に、注目すべき「反ヘーゲル的」側面もある。いまやこの点は以下の仕方で説明可能である。

ヘーゲルが〈物質の個別性から観念の普遍性へ上昇すること〉こそを自由と見なした理由のひとつは、彼がフロイト以前の合理主義者であったことである。ヘーゲルにとっては、諸概念の有意味な体系的連関こそが「知」の名にふさわしい。曰く、「真なるものは全体である」(金子訳、19頁)。それゆえヘーゲルは、すべてのものを接続し、そこに合理的な意味連関を見出そうとする。曰く、理性とは「合目的な営為」である(cf. 金子訳、20頁)。かくしてヘーゲルは、物質の偶然性をいわば低いものと見なし、概念の必然的で全体的な連関を、すなわち「体系」を、学知の理想と捉える。

フロイト以後の世界に生きる千葉は、意味への拘りが「神経症的」状況を引き起こしうるという事態をよく知っている点で、ヘーゲルにたいしてアドバンテージを有する。千葉にとっては、勉強においても意味の接続過剰は禁物である。むしろ、知の現場における未規定な「遊び」に価値を見出し、このゆとりの空間の確保のために言語の偶然性の活用を推奨する。結果として、千葉は詩的な遊戯こそを勉強において心掛けるべきものと捉える。ヘーゲルにとっては「知」は教養ある大人を鍛え上げる垂直的過程であったが、千葉にとってそれは遊びを楽しむバカ者(関西では「アホ」という)のモードをそれ自体「遊戯的に」転換していく水平的運動である。

さて、このように論じる場合、《知とは何か》にたいする姿勢に関してヘーゲルと千葉のどちらがベターか、という点が気になるかもしれない。私はさしあたり、これは難しい問いだ、と言いたい。それゆえ、ここでは直接の答えを与えるのを避け、むしろ両哲学者の学知観の違いを別の角度から説明するに留めたい。

思うに、ヘーゲルは「知」の目的をいわば公共空間の改善と捉える傾向がある。言い換えれば、彼にとっては〈われわれ〉の次元が重要なのであり、〈われ〉は〈われわれ〉に媒介されて初めて〈われ〉になる。かくして「知」はひとびとをして公共空間でよりよく生きることを可能にせしめる教養でなければならない。政治哲学の語彙を用いれば、ひとを、たんなる血族の一員に留まらず、市民社会の一員へ育て上げ、さらには国家の一員へ鍛え上げるような公共的「鍛練」こそが知の目指すべきところである。

他方で、ふたたび思うに、必ずしも『勉強の哲学』で明示化されているわけではないのだが、千葉は「知」の意義の重心をどちらかと言えば私的な次元に置く。いや、これは私がそう感じるということである。そして千葉は、公共的価値へ決して還元されることのない私的価値の存在をキチンと見据えており(その種の価値の存在はときに「正義」の名のもとに否認されることがある)、かかる価値を守る道として彼の勉強論を提示する。いや、これもまた私がそう感じるということなのだが、いずれにせよ、多かれ少なかれ私的な詩的言語行為を軸に理解された勉強は、自己創造という人生における重要な作業に貢献する(ご存じのように、ポエティックはポイエーシスであり、自己を自己たらしめる際に詩の力は無双である)。かくして、千葉にとっては、ローティが「私的な完成」を呼ぶものこそが勉強の意義だと言える。
前段落の指摘は何らかの正当化を必要とするかもしれない。いささか文脈無視の引用になるが、次を引いておこう。

小賢しく可能性を比較し続けるだけの状態から、行為へと私たちをプッシュするのは、私たちひとりひとりのこだわりなのです。それは、ずっと昔の自分が、何かとのトラウマ的な出会いの後、環境のなかで形成したバカな部分である。
享楽的こだわりとは、自分のバカな部分である。
バカだというのは、英語では「idiot」です。これは、古代ギリシア語の「idios」から来ている。それは、「個人の」、「特異な」という意味をもっています。
(169-170頁)

予め述べたようにあくまで文脈を無視した引用だが、それでも少なくとも《千葉が勉強の核を「自分のバカな部分」と捉えている》という点は読み取れると思う。このように千葉にとっては、勉強は私的で詩的な思索である、と指摘できるだろう。

さて――私の理解が正しければ――ヘーゲルと千葉の間では学知の理解に関して重心のズレがある。その結果、ともに変容の哲学に与するにもかかわらず、《体系か遊戯か》について見解を異にする。要するに、ヘーゲルがヘーゲル的で「ヘーゲル的な」学問論を提示するのにたいして、千葉はヘーゲル的で「反ヘーゲル的な」勉強論を彫琢している、ということである。そして私は、ひとつに、自己変容あるいは自己破壊の「非ヘーゲル的」理解を展開する点に『勉強の哲学』の面白みを感じている。

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