山口尚

自由意志の哲学

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自由意志の哲学

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note の私のアカウントを「閉じる」ことにした。理由が気になるひとがいるだろうから、以下それを説明したい。同時に note にまつわる数年間の思い出も語りたい。 間接的な理由は、ひとつには、《私の note の記事のビューが全体として100万回に達したこと》である。哲学のブログのようなもので100万回ページを開かせるのはなかなか困難であり、この点の達成に私は少なからぬ満足感を抱いている。煽るような言い方になるが、やれるものならやってみろ、という感じでもある。そして〈ひとつ

    • 埴谷雄高の小説『死霊』のストーリー全体の紹介

      本ノートは埴谷雄高の『死霊』[*]のストーリーを紹介する。なぜこれを行なうのかと言えば、《この作品が全体としてどんなものか》をおおまかに掴むためのストーリー紹介は――私の知る限り――いまだ行なわれていないからである。いや、ひょっとしたらどこかでやられているかもしれないが、少なくともネットで簡単に手に入る内容紹介はない。それゆえ、社会貢献の意味もこめて、今回は大雑把に『死霊』の物語を紹介したい。   [*] 現在、『死霊Ⅰ』・『死霊Ⅱ』・『死霊Ⅲ』(講談社文芸文庫、二〇〇三年)

      • 訂正可能性の場――東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書、2023年)の第一部の議論を少々

        哲学は、ついつい、絶対的な原理を求めてしまう。ここで「絶対的な原理」は、いかなる個別的条件にも依らず、つねに思考を正しい方向へ導く規則のようなものを意味する。そして現代の哲学者は《そんな規則はない》と知っている。いや、さらに言えば、《そんな規則はない》という認識が現代の哲学のひとつの出発点であり、この認識のもとで《絶対的かつ普遍的な原理を求めてしまう哲学の傾向性とどう付き合うのか》という問いが問われたりする。東浩紀の『訂正可能性の哲学』は、ひとつの読み方としては、この問いへ著

        • ひとは漢詩をどんなふうに楽しんでいるか?

          ひとは漢詩をどんなふうに楽しんでいるのだろうか。 ご存じのひとはご存じのとおり、日本においては、かつて「詩」と言えば漢詩のことを言った。かくして漢詩は日本の文化的精神のどこかしら中核的なところに属し、その結果、《漢詩を解さない者は日本を解さない》とさえ言われうる――かどうかは知らないが、ある意味で《哲学者はたまには漢詩を読んだほうがいい》とも言えるので、以下、漢詩について少々。 本題へ進む前に注意点をひとつ。言うまでもないことだろうが、私は漢詩の専門家ではないし、そもそも

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        • 埴谷雄高の小説『死霊』のストーリー全体の紹介

        • 訂正可能性の場――東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書、2023年)の第一部の議論を少々

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          孟子の「道徳」の構想

          『孟子』の「梁恵王篇」には有名な〈牛を羊で代える〉という話がある[*]。これはなかなか頭を悩ませるものだが、示唆に富むところがある。本ノートはこれを手短に読み解く。最終的に、功利主義やカントのものとは本質的に異なる「道徳」の構想が確認されるだろう。 [*] 『孟子(上)』、小林勝人訳注、岩波文庫、1968年 さて〈牛を羊で代える〉というのはどういう話か。 あるとき斉の宣王が孟子に《自分のような者も民を安んずることはできるか》と尋ねる。これにたいして孟子は「できる」と答えて

          孟子の「道徳」の構想

          謝罪と赦しの哲学

          来る8月5日、謝罪にかんするワークショップ、「謝罪について:ロボティクスと哲学から考える」(於キャンパスプラザ京都、第3会議室、13:30-16:30)に登壇する。発表原稿をあらかじめ置いておきたい。 PFDで欲しい方は次をダウンロードされたい(無料である)。 ダウンロードが不要な方は、以下に貼りつけたものを読まれたい。発表時間は30分で、題名は「謝罪と赦し――ストローソン主義のカント的側面」である。 >>> 1. はじめに 「謝罪」と「赦し」という事象には独特な仕

          謝罪と赦しの哲学

          みや竹さんへのリプライ

          みや竹さん(以下、敬称略)は、いわゆる「自由意志の問題」に自ら悩むことを機縁として、この問題への独自の対処を練り上げた。それはふたつの基礎的な区別、すなわち第一に「自/他」の差異、そして第二に「たまたま/現に」の対比をフィーチャーするものであり、独特な対処法になっていると言える。みや竹は、その観点にもとづいて私の議論を批判する――以下では、はじめにみや竹自身の見方を確認し、その後で彼の批判に応答したい。なぜなら彼の見方はそれ自体取り上げて考察する価値が大だからである。 本題

          みや竹さんへのリプライ

          無矛盾性・可能性・不確実性

          先日、ツイッター上で、《自然法則が異なる世界とはいったい何か》ということが問題になった。そこでは〈現実の世界とは異なる可能な世界を考え、そこで自然法則について考える〉という道行きがどのようなものかについても問題となった。本ノートではこの問題に取り組む。それにあたって〈可能な世界へ訴えて自然法則のことを考える〉という作業をじっさいに簡単な仕方でやってみたい。 強調しておきたいのは《このノートの議論が文脈をもつ》という点だ。そして、文脈を知らないひとにとっては、このノートは何が

          無矛盾性・可能性・不確実性

          《どんな論理法則が成り立つか》は物理学の個別的内容に依存しない、という命題の意味

          昨日、ツイッター上で、《どんな論理法則が成り立つか》は物理法則の個別的内容に依存しない、と指摘した。すると幾人か納得されないひとが現れた。以下、問題の命題の意味を手短に説明したい。問題の命題にかんして納得が得られれば幸いである。 「A ならば B」でありかつ「A」であるとき、「B」である――これは論理法則のひとつである(ときに MP と呼ばれる)。ではなぜ「論理法則」と言われるのか。それは、A と B の具体的内容に依存せず、必ず成り立つからである。じっさい、A および B

          《どんな論理法則が成り立つか》は物理学の個別的内容に依存しない、という命題の意味

          物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができる哲学的議論

          物理学の個別的内容とは独立に行なうことのできる哲学の議論は存在するか――。答えは「存在する」である。本ノートで行なわれるような議論は、物理学の個別的内容の如何に依存しない。それゆえ物理学の個別的な内容をほとんど知らないひともそれを行なうことができるし、それを理解することもできる。 本題へ入る前に本ノートを書く動機を述べておきたい。ツイッター上でときどき「物理学が役立つ」と「物理学が必要」とを混同しつつ《哲学には物理学が必要だ》と主張するひとがいる(複数見つけられる!)。ほと

          物理学の個別的な内容とは無関係に行なうことができる哲学的議論

          分析哲学をやっているひとはもっと『資本論』に関心をもってもよいのでは?

          私は分析哲学を専門としているが、そうした立場からつねづね《分析哲学をやっているひとはもっとマルクスとエンゲルスの『資本論』に関心をもってもよいのではないか》と感じる。なぜなら、一方で現状において《分析哲学者の多くは『資本論』のことを知らない》と言わざるをえないが、他方で《この作品は分析哲学者の好む仕方で読むことができる》とも言えるからだ。本ノートは、分析哲学を好む性質のひとの心内に、『資本論』への関心を喚起することを目指す。 議論の出発点としてひとつのパズルを考察しよう。そ

          分析哲学をやっているひとはもっと『資本論』に関心をもってもよいのでは?

          「または」と場合分け

          論理学を教えていると、学生から、「または」という論理的結合詞は必要かと尋ねられることがある。どうやら「ならば」や「かつ」と比して、「または」のいわば理論的重要性は、気づかれにくいようだ。本ノートは「または」の大切さを手短に説明する。 ちなみに本論へ進む前に押さえておくべきは、根本的には〈論理〉は何かの必要性のために設置されるものではない、という点だ。じっさい A∨B は、意味論的には、A が真またはBが真のとき、そしてそのときに限り真になる――これ以上でもこれ以下でもない。

          「または」と場合分け

          「空っぽ」と「暴言」――今週あったことの私なりの総括

          何事にも区切りが必要である。それゆえ今週あったことを私の視点から総括しておきたいと思う。仮に私の総括の仕方が無視できない仕方で偏っていたり歪んでいたりする場合には、ご指摘ください(根拠のある指摘であれば修正あるいは訂正する意志はある)。ただし、次の条件をどちらも満たすコメントについては、無視する。相手にしても時間の無駄だからだ。 ・匿名である。 ・指摘に根拠の十分な説明が伴っていない。 では今週何が起こったのか。それは一文で書けば次。すなわち、私の或る記事(5月28日のエ

          「空っぽ」と「暴言」――今週あったことの私なりの総括

          いかにしてデカルトは《精神は絶対的に自由だ》と主張しえたか。

          意志は、与えられた選択肢について、そのひとつを無条件に選ぶことができる――これがデカルトの自由論の核心的見解である。だがいかにしてデカルトはこの見解を、すなわち《精神は絶対的な自由を具える》という見方を主張しえたか。その内的なロジックあるいは理路の骨格はどのようなものか。この点を説明することはそれほど簡単ではない。徹底的に理詰めで考え、その根底にある発想を抽出する必要がある。以下、手短に、この点を説明する。 デカルトは自分の頭で考えることで議論を始める。先取り的に言えば、こ

          いかにしてデカルトは《精神は絶対的に自由だ》と主張しえたか。

          西洋近代の自由論の流れ――デカルト、ホッブズ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル

          西洋近代の自由論には〈個人に焦点を合わせる自由論〉から〈関係性に焦点を合わせる自由論〉へ進んでいくという流れがある。すなわち、デカルトとホッブズは自由を〈個人〉にかかわるものと考えたが、ライプニッツ、カント、ヘーゲルはそれを何かしらの〈関係性〉にかかわるものと捉える。本ノートはこの流れを大雑把に描写することを目指す。 以下、ヘーゲル、デカルト、ホッブズ、ライプニッツ、カントの順で説明する。なぜヘーゲルからかと言えば、ゴールがあらかじめ見えていたほうが、説明も理解しやすくなる

          西洋近代の自由論の流れ――デカルト、ホッブズ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル

          スタイル上の工夫のある日本の哲学書――中島義道・永井均・加藤尚武・田島正樹

          スタイル上の工夫のある日本の哲学書のうち、パッと思いつくものを紹介していきたい。ただしここでの「スタイル上の工夫」とは比較的広い事柄を指し、(たんに文体面だけでなく)書き方全般にかかわる工夫を意味する。哲学書の多くは多かれ少なかれ「ふつうの」スタイルで書かれているが、ときに独特の書きぶりのものがある。そしてそうしたもののうちには深く感心させられる作品もある。本ノートで取り上げるものはどれもそうした作品だ。 以下、四冊紹介する。 一冊目は中島義道の『観念的生活』(文春文庫、

          スタイル上の工夫のある日本の哲学書――中島義道・永井均・加藤尚武・田島正樹

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