現実に介入し批評する、演劇。しかし、演劇に限らず表現を続けていくことは容易ではない。演劇は特に、お金のかかる芸術でもある。
表現をしながら、自由であり続けるためにはどうすればいいのか。前回に引き続き、アートプロデューサーの相馬千秋さんと、劇作家・演出家のカゲヤマ気象台さんの模索のための対話をお届けする。
相馬千秋
NPO法人芸術公社 代表理事/アートプロデューサー。「急な坂スタジオ」初代ディレクター(2006-10年)、国際舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー」初代プログラム・ディレクター (F/T09春〜F/T13)、文化庁文化審議会文化政策部会委員(2012-15年)等を経て、2014年NPO法人芸術公社を設立。国内外で舞台芸術を中心としたプロデュースやキュレーションを多数行っている。2015年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ受章。2016年より立教大学現代心理学部映像身体学科特任准教授。2017年に「シアターコモンズ」を創設、現在に至るまで実行委員長兼ディレクターを務めている。2019年には「あいちトリエンナーレ2019」のパフォーミング部門のキュレーターも務めた。
カゲヤマ気象台
演劇プロジェクト「円盤に乗る派」代表。1988年静岡県浜松市生まれ。2008年に「sons wo:」を設立し、劇作・演出・音響デザインを主に担当する。2018年より「円盤に乗る派」に改名。2013年、『野良猫の首輪』でフェスティバル/トーキョー13公募プログラムに参加。2015年度よりセゾン文化財団ジュニア・フェロー。2017年に『シティⅢ』で第17回AAF戯曲賞大賞受賞。
「劇場」の内外を行き来して
カゲヤマ 「#PublicApple」にしろJアートコールセンターにしろ、演劇を先鋭化させたものではあると思うのですが、とはいえぼくは劇場があって観客がいるという、演劇という制度に乗っていかないと、ちゃんと演劇と関われないという気もしています。制度によって自由がきかなくなる側面もありますが、しかしその制度の中にあってこそ、演劇のもつ知恵とか、意義と正面から向かいあえるように思います。だから、ちゃんと劇場でやらないといけない。劇場でやらずに演劇の知恵を広めることはもちろん可能だと思うんですけど、自分はその方向をとらない。演劇と自分をつなぐものが、結局こういった劇場とか制度の縛りの中にあるように思うので、そうでないと、自分は演劇から離れていってしまうような気がします。
相馬 わたしはどこが理念的な劇場でもいいと思って活動しています。制度としての劇場の話をするならば、日本では公共劇場にしろ民間劇場にしろ、経営者・管理者としての理屈が強く、必ずしも理念的な劇場の本質を追求する場としては成立しづらいと感じ続けてきました。
わたしがかつてフェスティバル/トーキョーという舞台芸術祭をディレクションしていた当時(2009年〜2013年)は、毎回「劇場/演劇から出る」といって、わざわざ既存の劇場制度を揺さぶるような作品やプロジェクトを確信犯的に仕掛けていたのですが、その頃はまだ希望があったんですよ。劇場から出ることによって劇場の存在を確かめようという、ある種正攻法な戦い方をしていたのですが、最近では揺さぶったところでその制度自体が機能していない、という虚脱感もある。でも意外ですね、カゲヤマさんがいまの劇場に希望を見出しているというのは。
カゲヤマ 演劇のいまの制度自体には、満足しないところもありますけれど、だったら自分があるべき劇場の姿に変えたいという欲望があります。たとえば、今の制度では演劇に求められがちなのは対立や葛藤のドラマだと思いますが、自分が演劇で扱ってきたのはそれとは違う、態度とか姿勢というようなものです。この世界をどういう角度から眺め、何に重心を置くのか。外部に対してどういう反応を示すのか。次にどの方向への移行を指向しているのか。リラックスしているのか緊張しているのか。安心しているのか不安なのか。そういった観点から、自分が今とるべきと思うものを提示していきたいと考えています。
この間上演した「おはようクラブ」という作品の主題はコミュニティについてで、人と人がつながって一緒にやっていくときに、どういうつながりかたがよいか、ということを考えてつくったんですね。その作品の中では特に何の理由もなく4人の人物が一緒にいて、船に乗って旅をします。一緒にいるのに理由はいらないし、なかよくしなくてもいい、言いあいをしても関係は決裂しないし、絆が深まったりもしない。しかし4人の間には何らかのノリのようなものは存在していて、それによって旅は続く。そして旅をしているうちに、いつの間にか今までとは違う存在になってしまう。決定的に何かが変わってしまう。そしてその大きな変化を抱えたまま、日常の生活に戻っていく。そういうありかたがいいと思ったんです。
相馬 おもしろいですね。演劇は集団芸術だから、共同体をどうつくるかは永遠の課題ですが、カゲヤマさんの作る「来るべき集団」の「態度」を実作レベルで俳優や観客にもインストールしようとしているわけですね。自己と他者を明確に分けたところで言語的な構築がベースのヨーロッパではなかなか理解されないと思うけれど。でもわたしは感覚的にカゲヤマさんがやろうとしていることのおもしろさがわかる気がします。わたしはいま大学で教えていますが、若い人たちは「弱いつながり」の集団を大事にしていて、それで社会をサバイブしている感じがありますし。
カゲヤマ 対立があってドラマがあったほうがわかりやすいですよね。それは国内外限らず。ドラマによって感情が想起されれば、なおさらキャッチーです。その魅力もわかりますが、でもそうじゃないやりかたを模索したい。
相馬 あいトリでは作品が政治的な対立 の文脈のなかで捉えられ、芸術のなかに政治が持ちこまれてしまったという印象があります。けれどいまわたしたちがやるべきことは、芸術の政治性をもって、いかに政治に影響を与えられるか、という逆のベクトルです。だからわたしは社会に対して応答し、実効性のあることをやっている作家に興味がある。
一方、政治が芸術の価値判断してしまうと、行き着くところ、ナチスが行った「退廃芸術展」のようなことになってしまう。だから「政治の芸術化」ではなく、「芸術の政治化」のベクトルで、芸術がもつ政治性を実際の政治に作用させるようなあり方を、これからいよいよ真剣に考えていかなければいけないと思います。それは単純にアクティビズム・アートをするということではなく、カゲヤマさんのいう「態度」の再設定がキーワードになるかもしれません。直接的ではない形で芸術の政治性をいかに発揮させるか。それが単なる政治批判にとどまるならばつまらないし、現実には大した実効性もないことを、わたしたちは歴史から学ぶべきです。
演劇の自由と平等
相馬千秋さん
カゲヤマ 当事者とは言えなくても、同じ集団にいたりしてパワハラの件にまったく無関係でない場合、どういう態度でいたらいいのかということを悩んだりします。実際に自分もその立場にいた経験があるので。
最近ぼくのやっている「円盤に乗る派」というユニットに日和下駄という俳優が入ったのですが、この間本番直前の稽古で、まだ作品ができあがっておらず、ぼくがピリついていたときに、彼が「ちょっといまピリピリしてますよ、よくないと思います」ということを言ってくれて、空気がよくなったことがありました。だから、トップが変わるということも大事だけど、周りの人がサポートできることもあると思います。そのために、一人でやっているわけではないという前提をいかに大事にできるか。風通しがよく、意見を言いあえる関係性をいかに構築できるかだと思います。
相馬 演出家と俳優がフラットな関係になっていくというのはとてもいいことですよね。でも一方で、どれだけ金銭的なリスクを負っているかがそもそも違う点において、完全な平等はむずかしいとも思います。わたしも芸術公社というNPO法人を主宰していますが、赤字が出たら全部わたしが負います。その点においてもわたしは主宰者であって、最終判断をする権限もあればリスクも責任も負っている。もし経済的なリスクもみんなで分担する組織ならば完全なる平等ということもありうると思いますが、その部分まで見ないと、わたしはふわっと平等について語ることはむずかしいと思います。
カゲヤマ ぼくも完全に平等に、フラットにやろうと思っているわけじゃないし、赤字が出ればぼくが被ります。ぼくは代表としてキャスティングする権利を持っているし、芸術上の判断もぼくが下しています。そうはいっても、従来俳優が関わってこなかった演出や制作などの領域に対して俳優が入ってこられるようなありかたはあると思います。役割としては分けつつも、しかし絶対的な遮断はせず、意見があればいい意味で無責任に発言できるのが理想です。そのほうが息苦しくない。これは仕組みというよりも、稽古場でみんなの話をよく聞くとかそういうレベルのことです。
その結果、絶対的だと思われていた構造が揺らぎ、そのうえで成り立つ、うまくいくということもあるのではないかと思っていますし、そうやって偶然成り立っているような関係こそ理想的です。皆が平等に責任を負うとか、等しい権力をもって判断できるようにしようとしても、結局のところ演出家は強くなってしまうし、簡単に平等にはならない。むしろ、表面上に見えなくなることで逆に演出家の権力が硬直化してしまう危険性もあると思います。
持続可能な表現を模索する
相馬 芸術というのは既存の秩序や制度、価値観に揺さぶりをかけるものです。いまの社会で大多数がいいと思っているものであっても、疑問を呈したり、違った見かたを提示したりする。それは未来に別の価値を開く可能性であり、社会の多様性を担保していくためにも必要なものです。それが芸術文化政策の根幹の考えかたで、そこに公的なお金が投資されることは当然だし、それを受益するのがとんがったアートであれ保守的なアートであれ構わない。むしろ、そこに政治的な価値判断が入ってしまうと、時の権力によって未来の多様性が断たれてしまうことになる。ですから助成金制度は、時の権力が価値判断をしない、介入できないような制度設計にすべきで、今回の文化庁による補助金不交付問題(編集部注. 本収録は、不交付取り消しの決定がなされる以前に行われた)は、この一点においてもあってはならないことでした。
カゲヤマ まさにその通りだと思います。それが社会の前提だと信じてきたのですが……。
相馬 そのコンセンサスがこの社会になかったんだなと思わされましたよね。
カゲヤマ そうなると話が変わってくるんですよ。今後公的な助成金が、本当に国にとって役に立つ芸術にしかいかなくなるという未来が、意外とありえるのではないか、そのときのために何ができるかです。
やりかたは二つあると思います。一つは、商業主義でやっていく、資本の論理に則ってやっていくという方法。それはそれで不自由なやりかたになってしまうし、アクチュアリティのあるものが生まれる期待もあまり持てません。そうすると、もう一つはアマチュアリズムでやっていくということになると思うんです。自分の食い扶持は別で確保して、余暇の範囲でできることをやっていく。そのありかたを本気で考えないといけないなと思います。いかにそれならではの可能性を見出すことができるか。
相馬 アマチュアリズムというと素人集団のように聞こえるけれど、インデペンデントということですよね。商業演劇というのはつまり、経営的な責任者が発注主体で、戯曲もキャストも決まっていて、そのなかで利益の上がる作品をつくるという前提のもと、演出家は限られた自由のなかで芸術性を発揮する。一方でインデペンデントは自分自身が発注者であり経営責任者だから、自由度が高いけれどリスクも大きい。
カゲヤマ でも自分の生活のどの位置に創作があるのかというのは、大きな問題だと思っているんです。いまは創作が大きな割合を占めているけれど、そうではなくなったときのことも考えています。
相馬 たとえば会社員をやりながら、趣味的に活動する、というイメージですか?
カゲヤマ そうですね。助成金制度が機能していれば、たとえキャリアの最初で全然お金がなくても、この先やっていけばある程度お金になっていくだろうという期待を持つことはできる。でもそれが崩壊してしまうと、商業主義によらず創作を続けるということは、あくまでも食い扶持をバイトでまかないながら、希望がなくても失望せずに気合でやっていくしかなくなってしまう。
そうなってくると長続きは難しいし、精神的にもきつい。そうすると他に生き延びていく方法を探っていかなければならなくなると思うんですよね。創作以外の仕事にも価値を見出しながら、経済的にゆとりをもちつつ、体力的にも両立していけるような方法は、まだまだ可能性があると思うし、そのありかただからこそのクリエイティビティというものは発見していけると思います。
相馬 よくも悪くも震災がアーティストの感覚を変えたように、この危機を乗り越えるべく、あいトリ後のOSもアップデートされるかもしれないですね。
カゲヤマ アップデートのしかた自体、まったく新しい方法でやらなくちゃいけないわけですよね。いままでにない着眼点から、この社会だからこそのツールを発明しなければならない。まずはその発明を模索するのが仕事かなと思います。
相馬 それはカゲヤマさんたちの世代に期待したいです。
カゲヤマ 現状のままでよいと思っている演劇人はほとんどいないと思います。たとえわずかであっても、一人一人は何かしら考えていると思いますので、話しあったり知恵や技術を交換したりしながら、協力しあっていきたいと思います。
(企画/住本麻子、カネコアキラ)