損害賠償という物差し
https://mainichi.jp/articles/20231211/k00/00m/040/299000c
目を離すと事故を起こす知的障害者は大変である。衝動的に水に飛び込むというのでは、最低限の判断能力がないわけで、頭を抱えるしかない。これを食い止める義務があるとなると、やるせない。想像するに、昔から知的障害者の自爆的な事故死はあったと思う。キッチンにあるものは、いつ大火傷しても不思議ではないし、それこそ普通の部屋にあるハサミやホチキスでも危険である。というより、なにもかもが凶器になりうる。以前であれば家庭内で完結していたと思われるが、ここ最近は施設に預けることも多いから、損害賠償の話になってしまうようだ。次から次へとこういう遺族が出てきて、厳罰化への連帯を求められるのであるから、われわれも心労が絶えない。さすがにこの件に関しては、業務上過失致死の容疑で逮捕された施設の人間への同情も強く、法律改正とか、そこまで行くとは限らないが、遺族が騒いでるから警察も逮捕したのだろうし、まったく災難である。水に飛び込むという行動障害があるのなら、外出自体が危険であると思う。走り出して水に飛び込むという行動障害について、両親が最大限に努力したとも思えない。他人に預けないのが最高の選択であった。施設に責任を押し付ける以外に何をしたのか謎である。たとえば子どもが転落死したとして、自宅のベランダから転落する場合と、施設のベランダから転落するのでは扱いが違うのだろうが、なぜ親の不注意は咎められないのか、という根本的な疑問もある。親が目を離した隙に自宅ベランダから転落となると、親が自分自身に損害賠償を請求するという変な話になる。自分で自分に損害賠償請求することはできないので、法律で物事を考えると、どうしても他罰的思考を育んでしまう。民事と刑事事件は違うから、自宅で子どもが転落死した場合でも、なんらかの刑法に基づき、親の過失を罪に問うてもよさそうだが、警察も純粋な法律判断では動いていないのだろうし、遺族感情に合わせているのだろう。とはいえ、遺族がマスコミに出てくるときは、だいたい裏に弁護士がいるわけで、弁護士に毒された社会という文脈もある。弁護士は他罰思考の権化である。他罰から損害賠償金が発生するからだ。これは障害者に限らない。健常者でも同じ話である。街の雑踏を見渡せば、価値のなさそうな有象無象が溢れているのだが、もし事故死したとすれば、法的にはかなりの金額である。健常者でも、生きていると安いのだが、死んだ瞬間に尊い存在になる。われわれは殺人事件や死亡事故に着目することで、辛うじて命の価値を信じているのかもしれない。誰も死ななければ、命の価値はないかもしれないのだ。死ぬから価値があるのであり、生きていたら価値がない、それが生命の本質ではなかろうか。いつもなにかしら遺族がテレビに出ているのは、損害賠償という文脈において発生する命の尊さ、それによって普段の人生の安さを誤魔化しているのかもしれない。われわれは儀礼として、死者にお悔やみを申し上げるのだが、高齢者の死についての裁判とか見ると呆れるし、些細なことで復讐の鬼になる遺族が増えている。やはり弁護士という悪魔が原因であろうし、損害賠償の金額で心が曲がったと思うのである。遺族になった瞬間に復讐を考えるのは人間の本能かもしれないが、昔なら「仕方ない」と言われていたことでも、今は弁護士を引き連れて大立ち回りになるので、必ずしも原始的な生命観とは言い切れない。最近になって弁護士が付け足した生命観もあるわけだ。
駐車場から施設の入り口まで、わずか数メートル。その距離は、障害のある息子の生死を分けかねない距離だった。だからこそ、施設には「職員2人で面倒を見る」と固く約束させていた。「施設の怠慢で約束を破られ、息子の命は失われた」と遺族の怒りは消えない。
2022年12月、大阪府吹田市の放課後等デイサービス施設「デイサービスアルプスの森」に通っていた清水悠生(はるき)さん(当時13歳)が施設内の駐車場で車から降りた直後に走り出して行方不明となり、近くの川で死亡する事故が起きた。府警は、施設の運営会社代表らを業務上過失致死容疑で再逮捕した。
清水さんの母亜佳里さん(42)は、その日を鮮明に覚えている。午後、携帯電話に何回か着信があった。知らない番号なので出ないでいると、今度は家の固定電話が鳴る。嫌な予感がして受話器を取ると、施設からだった。「悠生くんがデイサービスに着いて車から降りる時に走り出し、行方不明になった」。急いで駆け付けると、赤色灯をつけた警察車両が近くの川に集まっていた。1週間後、川で清水さんの遺体が見つかった。
清水さんには、つないだ手を突然離して走り出したり、水を見ると飛び込んだりする特性があった。このため父悠路(ゆうじ)さん(47)と亜佳里さんは清水さんが小学1年の時、当時施設側の代表だった宇津雅美容疑者に「施設で車を乗り降りする時は職員2人態勢で見ること」を約束させたが、事故当時は1人しか付き添っていなかった。事故後、吹田市から「何度か1人で対応していたようだ」と知らされた。施設側は23年9月に保護者向け説明会を開いたものの、約束を破った理由について納得のいく説明はなかった。
清水さんは大好きなグミやチョコレートを2歳下の弟に取られても怒らず、家族がくしゃみをしたらティッシュを渡してくれる優しい性格だった。当たり前のことをするのに時間はかかるが、「本当に少しずつだけど成長を見せてくれていた」と亜佳里さんは語る。
亜佳里さんは「施設側の対応からは、悠生の特性により『事故は仕方がなかった』という考えが透けて見える。亡くなったのは障害のせいでは断じてない。容疑者には、あの日どうして悠生を行方不明にさせたのか、きちんと説明してほしい」と訴えた。【洪玟香】
目を離すと事故を起こす知的障害者は大変である。衝動的に水に飛び込むというのでは、最低限の判断能力がないわけで、頭を抱えるしかない。これを食い止める義務があるとなると、やるせない。想像するに、昔から知的障害者の自爆的な事故死はあったと思う。キッチンにあるものは、いつ大火傷しても不思議ではないし、それこそ普通の部屋にあるハサミやホチキスでも危険である。というより、なにもかもが凶器になりうる。以前であれば家庭内で完結していたと思われるが、ここ最近は施設に預けることも多いから、損害賠償の話になってしまうようだ。次から次へとこういう遺族が出てきて、厳罰化への連帯を求められるのであるから、われわれも心労が絶えない。さすがにこの件に関しては、業務上過失致死の容疑で逮捕された施設の人間への同情も強く、法律改正とか、そこまで行くとは限らないが、遺族が騒いでるから警察も逮捕したのだろうし、まったく災難である。水に飛び込むという行動障害があるのなら、外出自体が危険であると思う。走り出して水に飛び込むという行動障害について、両親が最大限に努力したとも思えない。他人に預けないのが最高の選択であった。施設に責任を押し付ける以外に何をしたのか謎である。たとえば子どもが転落死したとして、自宅のベランダから転落する場合と、施設のベランダから転落するのでは扱いが違うのだろうが、なぜ親の不注意は咎められないのか、という根本的な疑問もある。親が目を離した隙に自宅ベランダから転落となると、親が自分自身に損害賠償を請求するという変な話になる。自分で自分に損害賠償請求することはできないので、法律で物事を考えると、どうしても他罰的思考を育んでしまう。民事と刑事事件は違うから、自宅で子どもが転落死した場合でも、なんらかの刑法に基づき、親の過失を罪に問うてもよさそうだが、警察も純粋な法律判断では動いていないのだろうし、遺族感情に合わせているのだろう。とはいえ、遺族がマスコミに出てくるときは、だいたい裏に弁護士がいるわけで、弁護士に毒された社会という文脈もある。弁護士は他罰思考の権化である。他罰から損害賠償金が発生するからだ。これは障害者に限らない。健常者でも同じ話である。街の雑踏を見渡せば、価値のなさそうな有象無象が溢れているのだが、もし事故死したとすれば、法的にはかなりの金額である。健常者でも、生きていると安いのだが、死んだ瞬間に尊い存在になる。われわれは殺人事件や死亡事故に着目することで、辛うじて命の価値を信じているのかもしれない。誰も死ななければ、命の価値はないかもしれないのだ。死ぬから価値があるのであり、生きていたら価値がない、それが生命の本質ではなかろうか。いつもなにかしら遺族がテレビに出ているのは、損害賠償という文脈において発生する命の尊さ、それによって普段の人生の安さを誤魔化しているのかもしれない。われわれは儀礼として、死者にお悔やみを申し上げるのだが、高齢者の死についての裁判とか見ると呆れるし、些細なことで復讐の鬼になる遺族が増えている。やはり弁護士という悪魔が原因であろうし、損害賠償の金額で心が曲がったと思うのである。遺族になった瞬間に復讐を考えるのは人間の本能かもしれないが、昔なら「仕方ない」と言われていたことでも、今は弁護士を引き連れて大立ち回りになるので、必ずしも原始的な生命観とは言い切れない。最近になって弁護士が付け足した生命観もあるわけだ。