稲尾善三の馴れ初め
時は平安。天長七年のこと。三十年前の富士の大噴火に始まり、三年前に起きた京の大地震。負の感情が蔓延り、それは多くは妖怪のせいとされてしまい、善三は如何ともしがたい無力感と、そこしれぬ怒りに震えていた。
裡辺の地に住まう男児として、妖怪を悪と決めつけるのは恥だ。彼らは確かにいたずら好きで手を焼くこともあるが、それ以上に聡明で、相応の働きには救いの手を差し出してくれる。
今善三がこの稲尾の屋敷を治めて魅雲村を守護する術師として振る舞うのも、妖怪からの理解と助力があってこそだ。
裡辺は忌み地——ナメラスジの終着と言われる土地でもある。ここをわざわざ支配せんとする連中などいないが、言い方を変えればここに集うあやかし連中が、余計な争いを遠ざけているとも言えた。少なくとも、この地で暮らす人間はそう認識している。
さても善三は勉学に励んでいた。当主となっても、座学は避けられぬもの。仏の教えを写す写経をして、精神的な安定と平易な呼吸を高めていた。
とはいえ彼も血気はやる十七の男。かれこれ二刻も正座し、筆を走らせている。
キリのいいところで手をとめ、善三は手拭いで額を拭った。
「伊予、茶を用意せい」
「は」
伊予——そう呼ばれたのは栗色の髪の毛をした化け狸の女だ。この家に仕える妖怪の一匹で、賢く気配りができ、働き者であった。
善三は畳の上で足を組み替えてあぐらをかく。彼の背中をじっと見ていた妻・稲尾柊が寄り添った。
「随分と熱心であったな。按摩してやろうか」
「喉を潤してから頼む。しかし、集中のできる姿勢といえど、長いこと正座をしておると……なかなかに堪えるな」
「のう、妾がおれば働く必要なぞないのだぞ? 寝転んでのんびりしておれば良いのに」
「妖怪らしい言葉だな。お前とて、怠け者に嫁いだわけではないだろう。それに、これから子が生まれるのだ。父上も、死ぬ前に次の当主を見たいと願っておられる」
「なら、いらぬことは言わん方がいいな。今日の夜は、山菜を食おう。それから、湖で漁をした連中が、龍神の恵みと騒いで魚を安く売っておってな。妾が腕を振るって、炒め物と焼き魚を作るでな」
「楽しみだ。だが、どう考えても酒に合わせようとしておるだろう」
「妖怪から酒を取るでないわ」
楽しそうに柊は話した。
彼女と出会ったのは七年前。馬に乗り山を歩いていた際、猪に襲われた善三を突如飛び出してきた白狐が庇ったのである。
その白狐は九斤は下らぬ巨体に、九つの尾を振るう異様であり、猪を組み伏せ喉元を口ちぎったのである。
共にいた父は白狐に驚き、術で応戦することも視野に入れていたそうで、善三が止めに入らねば危うく将来の嫁が去ってしまうところであった。
かくして不可思議な縁ができた善三と白狐——つまり柊は、その後山に入る都度逢瀬を重ねた。
ある晩、村におぞましき
術師連が対処したが、きりのない勢いに敗北必至。とうとう村も終わりかと思われた時、白狐が現れ月白の狐火で魍魎だけを焼き払ったのである。
村を救った柊は、見返りに善三を求めた。
ただ一言、「惚れた男の前で、格好をつけにきただけだ」と言って。
村としても、九尾——神格に至るほどの妖怪が嫁いでくるのは嬉しいし、当時の稲尾家当主も、初代当主が狐の寵愛を受けたと聞いていたから、無碍にはしなかった。まさか己の息子が初代様の再現をするとは、思わなかったが。
「善三様、粗茶ですが」
「ありがたい」
湯気を立てる茶を受け取り、善三は一口啜った。
「伊予、妾の茶が見当たらぬが」
「自分で用意なさい」
「ええい全く、お主は妾に礼がなっておらぬぞ」
「昔からのともがらに礼もなにもないでしょう。むしろ、されたことを思えばあなたが私に茶を振る舞うべきだと思いますけど」
「聞こえんな。耳が遠いもんで」
都合のいいやつだ、と善三は笑った。
これが、後々まで続く稲尾家の始まりの歴史である——。
×
現代。
「ということがあって、妾はこんにちに至るまでこの屋敷におるわけだな」
柊はあの頃と変わらぬ美貌で、そう言った。手元には、伊予が淹れた熱い茶が置かれている。
その話を聞いていた三十四代目の子孫・稲尾
「へえ。柊の方が善三さんに惚れたの?」
「ああ、惚れた。もっと言えば稲尾の初代に惚れた、だな。初代に恩寵をくれたのも妾だ。未練がましくも妾はいくばく離れた子孫である善三とくっついたのだ」
「なんかあれね、薄い本で年増の妖怪にみそめられる子供みたいな……」
「ええいやめろやめんか! 妾の壮大な恋物語をそのようなものと同列にするでない!」
椿姫の妹の菘は眠そうな顔で、その兄であり同じく椿姫の弟である竜胆は「なんていうか僕らの家って昔話の体現みたい」なんて言っている。
「昔話の体現っていうか、生き字引だもんね、柊が」
「褒めても何も出ないからな」
「いや別に褒めてはいないけど」
椿姫は呆れ気味にそう言った。
柊はふ、と微笑んで、
「今日の夜は山菜にしようか。
「そうね。万里恵」
椿姫がちょいちょい、と指を曲げると、なぜか見えているかのようにふすまを開けて猫又の女が入ってきた。
「なに? 呼んだ?」
「マスを買ってきて欲しいの。頼める?」
「はいはーい。ついでに私プリン買ってきちゃお」
菘が目をぱっちり開け、万里恵の足にしがみついた。
「わっちもついてく! プリンかう!」
「よーしよし、私たちだけで美味しく食べようね。へへへ……」
くっく、と柊は喉の奥で笑う。
「元気でよろしい。甘味を好むのはいかにも善三らしいな」
そう言って、柊は熱い茶を啜った。伊予が淹れた茶は、平安の頃と変わらぬ優しい味がした。
裡辺あやかし紀行伝 夢咲蕾花 @FoxHunter
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