「恥を知れ、恥を!」のブーメラン
「三本の矢」故事の郷で起こった三者だれにも利のない騒動
「またドリームフィールドの話かよ」と笑われそうだが、本題は別にあるのでご安心を。
かつて10年余り遊ばせてもらったその野球場が安芸高田市高宮町にあったので、同市には地縁もあれば知人も少なくない。なので昨今話題というか社会問題にすらなっている同市長と市議会のバトル、対立騒動は他人事ではない。
当初は、居眠り議員を威勢よく諌める若手市長があらわれ、「これでいくらか行政が刷新されるのだろう」ていどの関心だった。ところがここにきて、どこに行ってもこの話題を持ち出されるので逆輸入のようなかたちであらためて興味を持つことになった。
まず、ユーチューブで中継されている議会のライブを何回か視聴して見た。はっきりいってげんなりした。
市長が議長の議事進行を高圧的に妨げて、唐突に大向こう受けを狙った弁舌をはじめて自己を正当化したかと思えば、議場という聖域でその議長や特定議員を罵しり個人攻撃して見たりの非礼が常態化し、収集のつかないカオスと化してしまっていて、見るに耐えないのだ。
また騒動の火薬庫となり、それを爆発肥大化している一連のユーチューブ番組もいくつか再生してみた。恣意的な編集で市議やメディアをコケにしてマウントを取っている市長をせっせと持ち上げ、いわゆる「敵」に仕立てられた人物を誹謗中傷できそうな場面を切り取り、ウケを狙って再生回数(ゼニ)を稼ぐ意図が見え見え、こちらも愉快なものではなかった。また、そんな見え透いた魂胆も見抜けず洗脳されている連中(当事者を知らなければ自分もそうなった可能性は否定できないが)が少なくないのにも驚いている。
もちろん張本人の石丸伸二市長の「X(旧ツイッター)」を拾い読みもしてみた。これもまた言行不一致、自己矛盾の見本市であることは、そのポストを冷静かつ客観的に読めば一目瞭然であるのに、摩訶不思議な(ヘ)理屈に目が眩んでか「応援しています!」だの「信じてます。」だの、こちらが赤面しそうなお約束の「にぎやかしコメント」だらけなのにも呆れてしまった。
もちろん現地で当事者や地元の有権者に話を聞いてもみたが、当然ながらネットでの〝石丸劇場〟の熱狂とはかなり温度差があって、リアルな感覚として石丸市長に期待してきた熱量は確実に減少しているようだ。また彼の手法の危うさ非礼さが露呈してか、彼に対する嫌悪感のようなものも増幅してきているようにも感じた。そのことを本人も皮膚感覚として感じているのか、一選手の「練習場が遠くて」というネット番組で発したというコメントに、まるで自分のプライドを傷つけられたかのように激怒し、一度は安芸高田市から出て行ってもらってもいいとまで豪語した、そのサンフレッチェの人気にあやかろうとしてか、いまはしきりにサンフレッチェとの蜜月を演出するようになったようだ。
前述したように私も彼の人となりも知らないまま、ぼんやりと〝清廉で才気ある若手市長〟という勝手な思い込みをしていたのだったが、その虚像がガラガラと音を立てて崩れてしまった。
そして得た結論は、「たしかに今までの市政にも問題はあったのだろうが」という前提つきでだが、
「首長になってはいけない人物がなってしまった安芸高田市の不幸」
というほかはない。
全国どこの首長にも、また国政を見てもそんな人物は枚挙にいとまがない。というより、そんな人物に限って当選してしまうことに苦々しい思いをされている方も少なくないだろう。いま話題の万国博覧会を嬉々として誘致したものの、参加予定国が歯抜けになって『全国博』ではないかと揶揄されている首長などは、その一例だろう。いま全国にまともな首長を数えれば十指で足りるかもしれない。
にもかかわらず安芸高田市のケースが異様なのは、市長の特異な性格(いま的にいえば「怪物」か)というか人格・資質によって市政にとんでもない混乱を招いたばかりか、ネットでそんな事態を虚実ない交ぜにして拡散させるにまかせ、あるいは教唆して、みずからが首長である安芸高田市そのもの評判をトコトン貶めてしまったことだろう。
彼が市長になって3年余りになるそうだが、これだけの年月を経ても市政は1ミリも動かず、改革の「か」の字も実現できていないようだ。否、停滞してにっちもさっちもいかなくなり却って後ずさりしているようにさえ見える。
かつて同じ広島県で『革新市長』として広島市の首長となった秋葉忠利氏も、似たような(といっては氏に失礼か)存在だった。東大卒、マサチューセッツ工科大学の教授から転身し、当時は「旧態依然の泥沼市政に舞い降りた一羽の鶴」のように見なされていた。
「反アキバ」一色のごとき市議会で、初年度はほとんど何もやらせてはもらえなかった。本人もそれは覚悟で、「二年目からが勝負ですよ」と腹をくくっていた。そして思惑どおり、緊張感を持ちながらも市議会を運営できる環境をすぐに実現してみせた。功罪はさておき、その器量・才覚を持ってして多選もできたのだ。
ネット空間だけが奇態に盛り上がり、現実の市政は停滞するばかりの安芸高田市。その混迷を招いた石丸市長の特異な性格、資質を物語る裁判がある。その上告審の判決がこの12月13日に下されることになっている。
この裁判は市議会という〝閉鎖的な空間〟で英雄視されているらしい市長が、司法という〝世間の常識〟の場にひっぱりだされてその人格が断じられた裁判だ。
裁判の詳しい内容と経緯は、お調べいただくとして要は、
安芸髙田市長ともあろう人物が、たったの数十万円のポスター印刷代金を踏み倒し、支払いを求められても拒みつづけ提訴されるという前代未聞の事態を引き起こし、その裁判で敗訴して支払いを命じられたにもかかわらずそれを拒否、「ポスター費用等を公費で負担することが前提の選挙制度と矛盾する司法判断だ」との珍説を持ち出して控訴したという、首長たるものの資質としては、にわかには信じられないような奇態を演じているのだ。
そもそも、なぜ石丸市長はタカが数十万円(業者にとっては正当に請求すべきものだが)の支払いを惜しんで訴えられるという奇異なことになったのか?
安芸高田市の『選挙運動費用の公費負担に関する条例』には、つぎのように定めてあるという。
○第6条及び9条 候補者は、第12条2項及び3項で定める額の範囲内で、選挙運動用ビラ及びポスターを無料で作成することができる。
頭の回転が速いらしい石丸市長は、この条例を「ビラおよびポスターの制作費は条例で定めており、その範囲内で無料で作成できる」とでも勝手に解釈してしまったのか、一般的な感覚であれば勘違いに気づいた時点で誤解を素直に認め、「もう少し安くなりませんかね」とか交渉したうえで、合意の金額を支払うところだが、自分の非は認めず、交渉能力が乏しいのにプライドだけは高いらしい同氏にはそんな世間の常識は通用しないようで、詭弁を弄して支払いを拒否しつづけた挙句に提訴され、その結果、敗訴で評価を落とした(ご本人にその自覚はないようだが)上に、また恥の上塗りをしたいかのようなのだ。
またご本人は「だれもが低予算で選挙に出馬できる環境をつくりたかった」とか、珍説を連発されてもいるらしいが、これらも彼のお得意の後付けの言いわけとみるのが妥当だろう。
前記の説にしたって、本当にそうだったのなら、その持論をあらかじめ業者にはっきり「後進の前例とするために、すべてを公費負担額で収めてほしい」と申告しておくべきだったし、それが一般常識というものだろう。それを怠った時点で業者側から見れば、彼の主張する「事前に提示がなかった」ことになり、自己の主張をみずから否定していることになる。これなども言行不一致、しかもその嘘を自己弁護するためにさらに嘘を重ねるという彼の資質がよくあらわれた事例といえるだろう。
彼は「たかが数十万を出し惜しむ非常識な首長」という世間の評価と、「ちっぽけなプライド」を天秤にかければ後者を選択する、はっきりいえば利己的、自己保身が優先する人間らしいのだ。
ちなみに被害にあった印刷会社には身内の方が勤めていられたという。つまりその方を介してポスターなどの印刷を被害会社に発注したということのようだ。しかしこのトラブルで会社に居づらくなり退職されてしまったとの話も聞く。
わが身内ですら、ちっぽけなプライドのために犠牲にしてしまう。そんな人物を、「わが身を捨てて市政を改革しようとしている気鋭の人材」などと持ち上げて嬉々としているネット民がワラワラ湧いているらしいが、そのワラワラには「笑笑」を当ててさしあげたらどうだろうか。
「恥を知れ、恥を」
石丸市長が就任早々の議会において、メディアのウケを計算してこのセリフを〝号砲〟がわりに議会に宣戦布告したのは記憶にあたらしい。いまやその〝名言〟は市民の間からブーメランのように返ってきているのではないだろうか。
このような人物が特異な認識、価値観を議会に持ち込めば、そこに衝突が生まれるのは自明のこと。多少の機能不全はあったにしても、まがりなりにも運営のマナーだけは保たれてきたであろう議会に非礼と非常識が投げ込まれて波紋が広がらないわけもなく、改革以前に混乱だけがヒートアップしたルツボと化してしまったかのようだ。市議会議員各位の心労と当惑、察して余りあるというべきだろう。
この事態を張本人である石丸市長がコントロールする才覚がないことは時間が証明しており、彼には議会の混乱を「二元性なんとかの緊張感だ」と、お得意の言い換えで誤魔化し叫びつづけているほかに術はないようだ。今回の騒動がここまでに至ってしまったのは、このような特異な市長が選ばれてしまったことの当然の帰結といえるだろう。
結果、石丸市長は市議会の評判をとことん貶めたどころか、彼らを選んだ市民の品格をも疑わせしめてしまった。もちろん、3年たっても1ミリも議会を動かせなかった市長が数年先に結果を出せるとも考えられず、「混乱と分断だけを残した首長」として地元に見捨てられてしまう可能性は低くはない。
極論すれば石丸市政とは「だれも(本人もふくめて)幸せにできない〝騒動の拡大再生産装置〟そういっても過言ではないだろう。
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