付記:旧来の「新自由主義」から新しい「日本型資本主義」へ
新自由主義者たちによる批判
○ 財政議論は景気回復後に
前のコラムで述べてきたような中間層再構築の施策について「公共投資はいいが、その財源はどうするのか」という批判もあります。これに対しては、「本格的な財源の議論は景気が回復してからするべき。当面は国債で」と返したいと思います。
実は、「国の支出に際してはそれに相当するだけの財源が必要」という発想自体が、誤りを含んでいます。その発想の背後にあるのは、財政収支で黒字化を目指そうとする考えですが、そもそも、デフレ・不景気のただなかにあるときには、財政収支で黒字化など目指せるわけがありません。いったんそのことは踏まえる必要があります。
不景気な時には、その分税収も落ち込みます。逆に、景気が回復しインフレが起これば、自然と税収は増えます。まずは景気回復、その後に財政の健全化という順序が大切です。財政を健全化してから景気回復を目指すなどという、逆の順序はありえません。「公共投資をする前に、相当分の財源を持て」という考えは、財政健全化から景気回復という順序を前提にしていますが、その前提がおかしいのです。
この点、高市早苗政調会長がおっしゃっている、当面の間(あるいはインフレ率2%を達成するまで)はプライマリーバランスの黒字化目標を凍結するという意見に、私も賛同いたします。しばらくは国債で支出相当分をまかない、景気が回復してから、インフレ率をある程度コントロールするためにも、財源たりうる税制を検討する、という順序が穏当でしょう。これは何も、最近流行っている「税は財源ではない」と説くMMT(現代貨幣理論)を援用しなくとも、従来の貨幣観、経済観でも十分に描くことができる道筋です。
○ 「新しい日本型資本主義」と社会主義との違い
また我々自民党の唱える「新しい日本型資本主義」について、旧来の新自由主義者たちからは「社会主義」とのレッテル貼りがなされることがありますが、それは誤りです。我々の「日本型資本主義」という提案は、従来の言葉を使えば「修正資本主義」と言った方がより近いものでしょう。
「修正資本主義」とはつまり、資本主義における基本的な自由市場のあり方を認めながら、そこで生まれてしまった格差やデフレなどの問題を適宜修正し、資本主義を維持していこうとする立場です。これは、全ての経済を政府の計画に基づいて行おうとする「社会主義」とは全く異なるものです。この二つを同一視して、岸田政権のビジョンを「社会主義だ」と批判する方々は、ただレッテル貼りをしている、印象操作を行っていると言わざるをえません。
そもそも岸田政権の「新しい資本主義」は、世界では王道をいく標準的なものでもあります。もし「新しい資本主義」や「修正資本主義」を「社会主義」と呼ぶのであれば、現在存在している先進国が軒並み「社会主義国」であることになってしまいます。岸田政権を「社会主義だ」という新自由主義者たちは、それぐらい乱暴な物言いをしているのです。
もう派手なパフォーマンスはいらない
○ 新自由主義者たちのパフォーマンス
これまで前コラムと本コラムを通して、支出を抑える新自由主義的政策はデフレの時(お金の巡りが悪くなってる時)には完全な悪手で、デフレを脱却する術を持たないとお話してきました。それでは何故このデフレ期に、デフレに対して無力な新自由主義的政策がこれまで推し進められてきたのかということにも触れておかねばなりません。
結論から言えば、新自由主義者のパフォーマンスが上手だったから、ということになってしまうかと思います。
新自由主義者たちは「小さな政府」を目指すので、適切な予算分配をしようというモチベーションが希薄です。基本的にやることと言えば「行政改革」「予算カット」など、行政府をミニマルにしていく方向での仕事です。そして実は、それはメディア映えが良いものでもあります。何かと戦って何かをやっつけて、見ている側に胸がすく思いをさせるような仕事です。正規雇用の公務員を削減して人件費を抑え非正規公務員を増やしたり、儲からないバスの路線を減らしたりして、「これだけカットして財政がこれだけ健全化した」と喧伝します。その成果は数字として見えやすいものなので、宣伝広告とは相性が良いものでもあります。
公務員を減らしたと言えば、日頃から公務員によくない思いを抱かれている方などは、よくやった!と褒めたくなるかもしれません。しかし実は、それだけ行政府の行政能力が下がり、雇用が不安定になり経済自体が先細りしていき、派遣会社が儲かるだけ……という状況へとつながってもいるのです。儲からないバスであっても、そこには利用者がいて、その方々の生活があります。そのバスを廃止することは、ある人々のライフラインを切断することかもしれません。新自由主義者たちが喧伝する華々しい数字の影には、そういう事情が存在するのです。
もちろん行政改革は必要です。例えば、2003年から2007年まで大阪市長を務められた關淳一さんから始まった大阪市の行政改革などは、立派な業績であったと思います。無駄を省き、より効率的な行政体制を確立することは非常に重要です。しかしそれは、行政府を小さくすること自体に意味があるからではなく、その行政府が効率化することで、より良質な行政サービスを提供することに意義があるから行うべきものなのです。カットそれ自体を成果のように謳うのは、手段と目的がひっくりかえっています。
○ 地味でもいい、真っ当な政治を
「パフォーマンスの上手な新自由主義者」たちは、「改革」という言葉を叫びながら何かと戦い、なんだか仕事をやっているのだという雰囲気を華々しく演出します。そしてそれは確かに人気があります。
しかし、今の大阪、今の日本に本当に必要なのは、そういうパフォーマンス優先の「改革」ごっこに腐心することではなく、誠実で地道な政治を取り戻すことです。そしてそのためには、適切な予算分配をするほかに道はありません。それこそが、彼らに決定的に欠けているものです。
ここで手前味噌ですが、私がこれまでしてきた仕事の話をさせていただきたいと思います。
2004年頃のことです。当時、日本の大陸棚の実態について国連機関に申請する締め切りが2008年に近づいていました。そのとき、当選同期だった吉野正芳さんなど、ことの重要性を認識していた仲間たちと協力し予算確保に奔走しました。そしてその甲斐もあり、大陸棚の調査予算を確保することができました。結果、その予算で行われた調査が国連機関に提出され、日本の海域は1.6倍に増えました。
またこれも2000年代のことですが、地元の方々から、事故が多発し死亡事故まで起こっていて困るということで、国道25号線(平野から八尾までの区間)の道路について相談されました。当時、メジャーを持って現場に行ったことを覚えています。歩道には確かにたいへん危ない段差があり、車道も整備されておらず泥はねなどが起こっていました。そこで国交省などと交渉して予算をとった上で、道路整備の工事を行いました。そして、そこではかつてのような死亡事故は起こらなくなり、泥はねや騒音の問題も軽減されました。
私はこれらの成果に対して、とても満足しています。日本の海域が増え国益を増進することに成功し、国道25号線で起こっていた事故やそこで失われる命を減らせたと思うからです。国民の豊かさに繋がったと信じるからです。
そしてここからが重要なのですが、その成果は予算分配によってなしえたことです。苦労自慢のようなことはしたくありませんが、こういった予算をとってくることは、それなりに大変です。予算カットをする「改革」よりも、よほど骨が折れます。しかし、本来こういう仕事こそが政治家に求められることのはずです。国益を増進するために、住民の命を守るために、必要な予算を分配する。それは政治家にとって、極めて重要な仕事の一つであると私は思います。
さらに、上で述べたような仕事にしても、私ひとりの成果ではありません。大陸棚調査予算を獲得するにあたっても、そこに集った仲間の議員たち、理解を示してくださった当時の政府関係者、相談にのってくださった専門家の方々、そういったみんなの総力戦でやったことです。地元の道路についても、そこには多くの関係者がいて、ようやく事故を減らす道をつくることができたわけです。「自分が日本の海域を増やした」とか「俺がこの道をつくった」とか、そんなふうには決して言えません。ですから、なるほど確かに地味かもしれません。華々しいパフォーマンスにはつながらないでしょう。しかし、何かをつくるとはそういうことです。
麗しい大阪、美しい日本を子や孫の代に残したい、そういう思いで取り組めばこそ、私は適切な予算分配を訴えています。確かに目新しさ、華々しさはないかもしれません。しかし、地味でもいいのです。地味であっても、真っ当な政治を行ってまいりたいと思います。ぜひ有権者の皆さまには、岸田新政権の訴える「再分配」の重要性を知っていただいたうえで、投票所に足をお運びくださるようお願い申し上げます。