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自殺という選択について

作者:

誰かが自殺をすると、「辛い時は誰かに相談してください」だの「逃げて」だの、終いには「大丈夫、きっと明るい未来が待ってるから」などという言葉がSNS上に飛び交う。また、アメリカの俳優が、自殺したかった青年に対して、「時間ならある、自分を愛せ、お前の人生はまだ始まったばかりだ」と発言する動画が流れ、それに対して「感動した」「泣いた」「この通り」などと言う人々が非常に多くいる。

私はこれらが気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がない。そして、ああこの人は本当の地獄を知らない幸せな人生を歩んで来たのだなと、そういう人も非常に多くいるのだと、なんとも言い表せない気持ちになる。


このようなことは、誰かに言えることではない。しかしどうしてもこの行き場のない感情を外に出したく、ここに記すことにした。






私は中学2年生のとき、死にたくて死にたくて仕方がなかった。原因は伏せる。が、人的要因ではなく、寧ろ私の周りは素晴らしい人ばかりで、親もとても子供思いの良い人で、ただ自分の心の中の問題であったことのみお伝えしておく。

毎日死を考えていた。そのときには既に色々な方面に影響が出ており、しかし一番話せるはずの母親にも話せず、その母とも仲違いをして全く口を利かなかった。部屋で泣いた。トイレで泣いた。家にいる時はずっと部屋に閉じこもり、家族が寝静まった真夜中に、部屋から出、ラップのされた冷たいご飯一人食べ、風呂に入り、シャワーの水と音と共に嗚咽した。毎日目を赤くしながら、寝ているときに死ねますように、明日がもう来ませんように、と普段信じてもいない神に強く願いながら、またポロポロと涙を零しながら布団に入り、そして朝、目覚め、絶望と神への失望を感じつつ、朝練に行くべく起き上がるのだ。毎日、毎日。




学校ではいつも笑っていた。私は生来プライドが高く、絶対に涙は見せたくなかったし、苦しんでいると人に知られたくなかったからだ。私が死にたかったと思っていたなど、きっと、いや確実に、誰も気がつかなかっだろうし、当然今でも知らないだろう。

今から思うに、私が今生きているのは、あのとき、学校では無理をしてでも馬鹿みたいに笑っていたのが一つの大きな要因なのかもしれない。笑うということは非常に大きな影響力を持つものだと思う。きっと無意識的に、私は今幸せなのだと錯覚できていた。笑うことで脳を騙し、私は生き長らえることができたのではないかと思っている。





私はまた、人の生存本能は凄まじいものだと考えている。

私はきっと極限まで行っていた。

友人に羨ましがられるほど家族仲がよく、特に母には愛しているとよく言うような、そんな関係だった。ちなみに今現在のことを話すと、母を残して自死などできないと思うから、親のためだけに生きている状態だ。

が、当時はそんなことを、愛する子どもに先立たれる親の気持ちなど正直考える余裕などなかった。ただただ辛くて、苦しくて、死にたくて、死ばかりを見て、それを渇望していた。クリスマスプレゼントも死が欲しいと本気で思っていた程だ。そしてぬいぐるみは生きていると本気で思っていた。毎日話しかけて会話をしていた。多分本当に極限だった。あと一つ、本当に些細ななにかがあったなら、確実に14回目の誕生日を迎えることはできなかっただろうと思う。今この文章を書いていて、本当に蜘蛛の糸のようだったのだと改めて感じた。



しかし、あとほんの一歩のところにある、死へと続く道には、とてもとても高い、なかなか超えることが難しい壁があった。

こんなに苦しいのに、こんなに死にたいのに、私の心の片隅には、割合で言えばきっと0.00001%にも満たない「生きたい」という感情があった。これのせいで私は今生きてしまっている。これのせいで親を永遠の絶望に落とさなくて済んだ。今では良かったのかもしれないと思っているが、当時は地獄以外の何物でもなかった。


自殺をする人は、成功した人でも、未遂の人でも、この高すぎる壁を越えてしまった人なのだ。言い表せないほどの苦しみと地獄を感じていて、それが高すぎる壁すらも凌駕してしまった人なのだ。彼らが抱えていたものがどれほどのものなのか、私ですら分からない。壁の中程に足跡を付けることさえ私には出来なかったから。

だから、そのようなニュースが流れてきたとき、深い悲しみと、途方もないほどのやるせなさを感じつつ、ああ彼らはようやく楽になれたのだ、良かったねと、どこかほっとしている自分がいる。

それから、死を渇望することこそしていないが、未だ苦しみの中にあった高校生の頃、誰かが自死をしたという情報が流れてきたとき、とても羨ましいと感じていた。今でもそれは少しあるかもしれない。

だからこそ、「誰かに相談して」とか「死んだら終わりなんだよ」とか言っている人が心底おぞましく感じるのだ。死んだら終わり?そんなこと分かっている。死後の世界すら無くていい、寧ろ存在しないで欲しい、とにかく早くこの世界からの消滅という手段で救われたい、そう思っているのだ。



きっと、死を本気で渇望したことの無い人は、どうして言わなかったのだと、やはり思うのかもしれない。

私の場合、苦しみ抜いて4ヶ月ほどのち、母親が流石に異変を察知して、無理やり聞き出してきた。母は気がついてあげられなくてごめんと泣いていた。母の涙を見たのはそれが初めてだった。まして原因は自分が死にたいと思っていることが原因。辛くて辛くてたまらなかった。申し訳なかった。


ここからが問題だ。私は母にほとんど全てを話した。そして母は私にある程度の逃げ場を作ってくれた。できる限り理解しようとしてくれた。確かにそうしようとしてくれた。私は確かに救われた気持ちになった。しかし段々と、やはり他人にこの苦しみを理解出来るわけがなかったのだと、失望を感じることが多くなった。今でもある。失望を感じ、他人に頼ることを諦めることは、想像以上に苦しいものだ。期待した分、それを裏切られたときの悲しみはとてつもない。時に、やるせなくて涙が出ることもある。苦しみを誰かに打ち明けることは、途方もないほどの労力と勇気が必要だ。全てがボロボロな状態にあるとき、そうすることはいつも以上の、想像を絶するほどの力が必要なのだ。それを乗り越えてようやく伝えたのに、救い以上の失望を感じさせられ、ましてや大切な人に対して、言わない方が良かったと思ってしまったときの苦しみは、到底言い表すことはできない。

自殺をした人は、そうでない人もいるとは思うが、きっと何かしらのアクションはしていたのではないだろうか。しかし彼らはどこかで失望を感じ、話さなくなった。話せなくなった。自分を守るために。こういう事なのではないかと私は考えている。







驚くべきことに、この世界には、苦しんでいる人に対してこのようなことを言う人も残念ながら非常に多くいるようだ。



「明けない夜はない。」




私はこの言葉が、大嫌いで、本当に気持ちが悪くて仕方がない。

何様だと思う。こんな言葉で救われると思っている人は、本当にお花畑で、傲慢で、偽善を言って自己陶酔をしたい人なのだなと思う。

明けない夜はない?あるに決まっている。この言葉が大嫌いで大嫌いで仕方がないが、敢えてこの言葉を使って言うと、例えば私はもう二度と朝日を見ることは出来ないだろう。

私は今幸せだ。四年間気ままな学生生活を送った。家族旅行の計画も立てて、何の苦しみも無く呑気に楽しく過ごしている。未来の計画を立てている。少し先の未来を楽しみにしている。

が、そんな状態の今の私ですら、もう一生私の夜は明けないのだろうと思ってしまっている。もうどうやっても這い上がれない、それほどの深みに行ってしまった。しかし、一つ付け加えて言うとすれば、そこに満天の星空を見ることができる日があるということ。



ただ、これは最悪から脱出し、生きていて良かったと思えている今だからこそ、これまでの人生を振り返り呑気に言うことができる言葉なのであって、今現在地獄にいる人には、こんな言葉も響かないだろう。ましてや、どうにも逃げられない、逃げ方すら分からない、時の流れが異様に遅い子供たちに対しては、なんの慰めにもなりはしない。



冒頭に例に出したアメリカの俳優の動画。

自殺をしたかった青年がこの言葉を聞いて感じたであろう失望と、あるいは怒りを思うと、苦しくてたまらなくなる。


「時間ならある、自分を愛せ、お前の人生はまだ始まったばかりだ」


鳥肌が立つ。浅すぎてとにかく酷い。とにかく浅い。もう何と言ったらいいのか分からない。

逃げ方の分からない、そもそも逃げ場の存在しない子どもにこんな酷い言葉をかけるのか。

社会人は、あるいはたくさん逃げ場があるのかもしれない。でも子どもにはどうしたって無いのだ。庇護してもらわなければ生きていけないし、学生という役割から逃れることはできない。

『時間』、この先の未来を期待する者には確かに存在するのだろう。それが無いものには、『この先の人生』など存在しない。

それから、思い出してもみてほしい。小学生のあの頃、時の流れが地獄のように遅く、それはたまに天国ですらあった頃のことを。彼らにとって、ひと月は一瞬ではない。ああ、あっという間に年の瀬だ、なんて思わない。一日という長い地獄を生き、一週間という長い地獄を生き、一年という長い長い地獄を生きねばならない。日々を過ごすことで精一杯で、その先の未来など思い描けようはずがない。

そんな子どもにこんな言葉をかけてみろ。きっと苦しみを誰にも言えない子どもができあがるだろう。そしてその子は苦しみを一人抱き込んで、終いにはこの世を去る選択をしてしまうかもしれない。

彼らが生きているのは『この先の人生』ではない。今なのだ。今、彼らは長い地獄に生きている。

「深い」?「感動した」?気持ちが悪すぎて吐き気がする。

「明るい未来が待ってる」?そんな今手元に無いもの、想像もつかないものに縋れというのか?土台無理に決まっている。ああ反吐が出る。





自殺については、もう一つの無視できない結果がある。遺族のことだ。

私は死にたかった。死にたくて死にたくてたまらなかった。遺される家族がいるのは分かっている。しかし、前述の通り正直そのようなことを考える余裕などないし、分かっていてもきっと救済を求める方が大きかった。話してどうなる?失望を感じるだけではないのか?この社会から逃げられるのか?なんの役割もなくただ無意味に生きることこそがとても辛いのではないか?そんな状態に自分は耐えられるか?きっとそのような自分を責める無言の圧力は存在するのだろう、そんなのは耐えられない。






私はこの経験があってよかったと今では思っている。

私は人に正論をぶつけてしまう子どもだった。それは正しくない、間違っている。人を傷つけ、その事実は自分を永遠に苦しめることだとは分かっていても、それでもなお背景も感情も二の次で、そうはっきり言ってしまう子どもだった。


しかし、この経験によって、人を思いやることの大切さを学んだ。私は非常に論理的な人間であるからこそ、何よりもまず人を思いやるべきだと考えるようになった。

この経験があるから、私は大人になれたのだと思う。確かに、まだまだ未熟だ。しかし、一人では到底生きていけないこの世の中で、人を思いやる事の大切さを知り、自分の欠点を常に見つめ、悔しくも何度も失敗をしながらも、都度猛省し直そうとする、それができる人間になった。

この経験がなかったら、私は今でも傲慢で、恥ずかしい人間だったと思う。だから良かった。


一方で、こんなつらい思いをしたくなかったという気持ちもある。恥ずかしい人間でいるのは嫌だけれども、今でも闇を引きずるような、自分を守るために諦めることを選択するばかりの、そんな人生を歩みたくなかったという気持ちがやはりある。あんなことが無ければ、私はきっとキラキラした高校生活を送っていたのだろう。留学などをして、友達と色々なところに出かけて、キラキラした大学生活を送っていたのだろう。

でもまあ、そんなタラレバを言ったところでどうにもならないし、やはり、子どもな大人になる方が今の私には辛いことなので、やはり経験して良かったのかもしれない。


それから、私は元々メンタルが強かったが、更に、これによりダイヤモンド級のメンタルを獲得するに至った。

私は昔から心の容量が人よりも遥かに大きいし、そこから溢れても結構平気な人間だった。地獄を知った今、そしてケ・セラ・セラの精神と、逃げるすべを身につけた今は、もう最強である。中学生のあの頃から今までにもたくさん辛いことはあったが、それこそ大抵の事はかすり傷だ。もはや表面には、ほんの些細な傷すらついていないと思う。就活時には、やはりただ生きることで精一杯だった自分は、誰にも求められない中身のないスカスカな人間なのかもしれないと考え、涙することもあったが、しばらく泣くと満足した。ま、なんとかなるでしょ、あの時よりは辛くないと思い直せるようになった。他にもそんなことばかりだった。

ダイヤモンドも完全では無く、弱点である一方向から何らかの衝撃を受けたら真っ二つに割れる可能性はあるので、十分注意して生きていこうと思ってはいる。

このように、良かったと思える部分がいくつかある。この経験によって、私の内面は確実に良い方へ向かったと思う。


しかし、今でも、何か体に不調が出たら、これがもし死に至るような病であったならいいのにと、毎度愚かにも考えてしまっている。

病気で死ねば、その時は辛いだろうが、涙も出るだろうが、しかしいつか笑って懐かしんでくれる日が来る。でも、自死をしてしまっては、家族は永久に涙と苦しみとともに生きなければならない。特に、私の母は元々食が細く貧血気味で、私がもし自殺をしたら、日々泣き暮らし、それらが更に酷くなって倒れてしまうことは容易に想像できるので、そんなことは私が耐えられないから、きっとこれからもケ・セラ・セラ、ひらひら逃げながら生きていくのだと思う。

正直恥ずかしい。苦しい。悔しい。でもこれがきっと私にとっての最善。何よりも優先すべきは、母に苦しい思いをさせないために、自死以外の方法でどうにか回避すること。











私は来年から社会人になる。大学生活は良かった。不謹慎ではあるが、コロナでずっと家にいることが出来て、苦しみとはほとんど無縁だった。

しかし来年からはまた更なる苦しみを感じるようになるのかもしれない。そうしたら迷わず逃げようと思う。何よりも大切なのは、私の家族の幸せだから。私は逃げることが出来るようになったから。


このような思考に至るようになるまでは、とても長く苦しい道のりだった。

失望も感じた。苦しみは今も続いている。しかし私はとても恵まれていた。だからこそ今生きることができているし、このような思考回路に至っている。総合的には幸せだった。でも多分、親が死んだらすぐ死ぬ気がする。今でもずっと楽に死ぬことについて考えていて、とても良い方法を思いついてしまったくらいだ(生涯絶対にこの方法について言うつもりはありません。聞かれても決して答えません。少し希望を持った方、ごめんなさい、諦めてください)。


しかし、自死を試みる人はそうでは無いことがほとんどだろう。家族に恵まれなかった。学校こそが地獄だった。虐められている、先生もそれを黙認している。そして家に帰っても地獄。全部が地獄。社会が自分を受け入れてくれない。自分は『普通』では無い。そんな状況に身を置く人達に、「逃げて」なんて、そのような酷い言葉がどうして言えようか?どこに逃げる?どこに逃げれば良いのか?逃げてどうするのか?その先で私は生きていけるすべがあるのか?


それから、最悪の地獄を経験した今の私にとっては、大抵の事はかすり傷のように思えるが、「死ぬこと以外かすり傷」なんていう言葉は絶対に苦しむ人にかけてはいけない。むしろこの世から消滅した方がいいと思う。その言葉こそ、鋭利な刃物となって人の心を深く切り裂く。






地獄にある人にとって、『死』は救いだ。確かに、遺族は永劫の苦しみに囚われることになるだろうし、それがいかに辛いことか、自分と親を置き換えてみるだけでも心臓が握りつぶされるほどの悲しみと絶望を感じるので、とても理解できることだ。


結局人は自分の場所でしか物事を見ることができないし、まして背中合わせで背後にいる人の考えを受け入れることもまた難しいのだろう。

だが、地獄を経験した側からすれば、やはり『死』というものは、救済以外の何物でも無いとだけ、お伝えしておきたい。


自死を肯定はしない。遺族の苦しみが、それを経験しなければ分からないほどのもので、これもまたかつて私が感じていた地獄と同じくらいの地獄であろうと分かるからこそ。

「生きてさえいれば」「なんとかなる」

分かる。幸せな今だからこそ分かる。確かに正しいのかもしれないと、幸せな今だからこそ、この言葉を飲み込みはしないが、見て、頷くことができる。

全ては『今だからこそ』。

今辛い人には地獄のような言葉だが。







最後に。


私はやはり、自死をした人に対して、彼らはもう苦しむことはないのだと安堵する。逃げ場のない地獄に苦しむ我々にとって、彼らが救済される様に、何か光り輝くものをみる。


これがわからない人の方が圧倒的に多いと思う。それはとても幸せなことで、時に純粋に羨ましく感じる。分からなくていい。分かって欲しくない。このような事が、多くの人に感じられるようなことはあってはならない。




自殺は美しいものではない。

しかし確かに私には、そこに光り輝く何かがみえるのだ。









こんなにも拙く、かつ愚痴のような、長々とした文章を最後まで読んでくださった皆様に感謝申し上げます。

様々な意見があると思います。十人十色、同じ人は一人として存在しませんし、それぞれの意見が尊重されるべきです。


一つ、当事者にかける言葉だけは間違えないでください。

寧ろ何も言わないであげてください。なんの言葉もかけないであげてください。苦しむ人にとって、あらゆる言葉は鋭利な刃物になり得るから。

ただそばにいてやってください。隣で何も言わず、手を握ったり、背中をさすったり、抱きしめたりしてあげてください。ただ、話を聞いて頷き、時に静かに、一緒に涙を流してあげてください。何がその人にとって効果的で、正しいかは分からないけれど、しかしそうすることが最上の優しさで、あなたができる、その人を生かす唯一の手段であるかもしれません。

その人に何かを与えて救えるのは、知識と資格を持った専門家だけです。

個人的にはそう思っています。













ちなみに、中学生の頃に生きていると本気で思っていた人形については、魔法は解けた今でも私のパートナーで、私が死ぬ前に専門のところに連れて行って弔ってもらうか、棺桶に入れてもらうか、どうしようか真剣に悩んでいる。親の棺桶に入れて一緒に燃やしてしまうのもいいのかもとか。

間違ってもゴミ袋に入れられて燃やされたくない。それを思うと涙が出ます。

あの子は永遠に私の一番の友達。結局私は今でも暗闇の中にいるのだなあ。
















※感想への返信を少し編集してここに転記します。




当たり前のことですが、人間は皆違います。家族の、どんなに似ていると言われている人ですら、やはり自分とは違うのです。見た目も、性格も、行動も、全てがクローンのような存在などありません。

顔も、暮らしてきた場所も、何もかもが違う、全くの他人は尚更です。



少し勇気を出して言いますと、私の苦しみは内的要因から始まり、体の不調にまで及んでしまいまして、今現在まで引きずってしまっているという状況です。残念ながらそれを治す手立ては無きに等しく、それゆえに未だに苦しむことがあるのです。だから私にとって「明けない夜はない」という言葉は何よりも私を傷つける言葉で、憎悪を抱くものでもあるのです。

また、私は大層な皮肉屋で、反骨心が強くあるので、尚更大嫌いなのかもしれません。



もしかしたら、世の中には、私と同じくらいの地獄を味わって、それでもなお「死んだら終わり、生きてさえいれば」「明けない夜はない」と仰る方もまた多くいらっしゃるのかもしれません。



苦しみの原因は人それぞれです。そしてその苦しみが、ほとんど似通った要因からなるものだったとしてもまた、それぞれの性格や、立場や、価値観によって、どう苦しいのか、何をしたら良いのかが全く異なってきます。一人として同じ人はなく、それゆえに正解もありません。



私は、本文に書きました言葉が反吐が出るほど嫌いです。

しかし、それを誰かに押し付けるつもりもなく、それでもし救われる人がいるのなら、それに超したことはありません。

ただ、何も分からない人間が、無責任に、自己陶酔の為のように、これらの言葉を安易にかけようとしていることに、強い憤りと、少しのやるせなさを感じ、それらを書いただけなのです。



信じたいものを信じれば良いと思います。すぐ終わると思えば、もしかしたら本当にすぐに終わりが来るのかもしれません。そうでなくても、僅かな心持ちの違いで何かが変わることもあるかもしれません。

私は、(私自身、これを直接言われたくはありませんが、如何せん文章で、実際に顔を突合せてお話させていただいている訳では無く、はっきり言うしかありませんので敢えて言いますと、)希望を捨てないことは何よりも大事であるというのは真実だと思います。それが呑み込めるか否かは別として。

どうか、私の書いたことを鵜呑みにし、ああ、ずっと続くのかもしれない、と思わないで頂きたいのです。




再度になりますが、ここまで、私の稚拙な文章を読んでくださりありがとうございました。

私は、世間一般的に言う「精神的に強い人」であろう。

相談しなくても、大抵の事は一人で解決してしまうし、解決出来てしまうし、辛いとはあまり考えたこともない。


しかし、このような人は、誰かに苦しみをどうしても話すことはできない人であることが多いように思う。「ある日突然、何の予兆もなく命を断ってしまう人」というのは、そのような人なのだろうと思う。



一方で、よく死にたいだの辛いだの、現実でもSNSでも垂れ流している人、「メンヘラ」と一般に呼ばれている人は、世間一般には「精神的に弱い人」と言われている。


しかし私はそうは思わない。

苦しみを人に伝えるのが難しい私にすれば、SNSでも何でも、人に言うことができることは、本当に凄いことだと思う。

その人は、本当にそれがあるのかは分からないし、無いかもしれないが、けれども誰かから手を差し伸べてもらえる機会を自分から得にいっている、そんな風に私は思える。本人はそんなつもりは無いのかもしれないが。

私には、その人たちはある意味「とても強い人」に見えるのだ。


羨ましくて仕方がない。




万物には裏と表が存在し、一概に「これはこうである」と断定することは難しい。




ただそれが言いたかった。

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