革命的労働者協会(社会党 社青同解放派)政治機関誌『解放』№16(1990年3月付)より転載。
声明
革命的労働者協会
日本社会主義青年同盟
日本社会主義青年同盟
革命的労働者協会と日本社会主義青年同盟は、六月二十五日の事態について、以下声明する。
Ⅰ
六月二十五日、わが党・同盟によって昨年除名され、その後逃亡・敵対し、しかるべき対策が問われていた永井が、永井をめぐる組織防衛上の活動の過程で肉体的変調をきたし、放したが、その後、新聞等マスコミ報道によれば、死亡した。
今回の事態の全責任は、権力に屈服し売り渡しをおこなったのみならず、逃亡・破壊をくりかえした永井本人にある。あわせて、この全過程において、階級的原則がつらぬかれ、かつこの原則を貫徹するために、なされるべき一切がなされたことを明らかにする。死という結果は、目的としてはなかったが、当人の思想的脆弱性と反革命的所業の強さと深さによる動転を主因として、その他の身体的条件が重なって生じたものと考えられる。
また、今回の死の直接の原因に関しては、警察権力の介在について緊張しなければならないと考える。この点では、新聞報道(『毎日』六・二六付け)に、「腹を中心に、顔、胸に裂傷があり」とあるが、それが事実だとすれば、明らかに権力(その他)による謀殺と断定されることになる。
スターリン主義と一切の官僚主義・セクト主義をこえようとするわれわれは、権力・マスコミ・革マルなどが、中国(日本)スターリン主義になぞらえ煽動しているような、「穏健派の一掃」とか「内(々)ゲバによる殺害」とは無縁であり、売り渡し問題のすりかえによるデマゴギーとそれにもとづく一切の弾圧・敵対活動を粉砕するであろうことを言明するものである。
Ⅱ
永井は、九・一四-一五(一九七三年、反革命革マルによる神奈川大学夜襲=白色テロと、革マル反革命分子二名の死)公判、銃刀法公判等に関して、同志の売り渡しによりわが党によって除名され、その後も党と革命運動の反階級的・反革命的な破壊をくりかえしてきた。
永井は、長期投獄-重刑攻撃に屈服し、歴史的な九・一四-一五戦闘の意義を否定し、同志=組織と闘い(革命)を売り渡した、反階級的・反革命的裏切り分子であり、一旦その場逃れ的に〝組織決定に従う〟としながらその後逃亡し、無罪・減刑を裁判所=権力に嘆願し、放免に値することを売り込むことを目的にした党と革命への攪乱=破壊活動を続けたが、それに対する厳重な警告とわれわれの決定の通告を無視したのであって、この問題を利用した権力・革マル等の介入の封殺をふくめた組織防衛上の活動は当然であった。
永井のこうした行動は、権力への屈服に発した裏切りと敵対という性格によって、現下の本格的な武装闘争の着手をふくめた解放派の闘いと組織の飛躍に対する権力の質的に転換を画した弾圧や、革マルによる白色テロ、および社民化しつつある脱党分子の路線転換(権力闘争、対革マル戦、対ファシスト戦の解体)のための介入を許すものであって、永井への必要な処置は、階級闘争の前進と解放派にとって不可欠だったということである。
Ⅲ
われわれは、今回の事態をめぐる国家権力、反革命革マル、右翼ファシストおよび脱党分子、さらにブルジョアマスコミによる一切のデマゴギーや敵対、さらには反動的分子による売り渡しを許さず、党(同盟)-統一戦線・軍の革命的再編強化をよりいっそう強力に推進するであろう。
とりわけ、戦後帝国主義ブルジョア支配の危機に際し、プロレタリア権力の樹立をめざすとともに、強まる「過激派」=解放派潰滅攻撃=投獄・極刑に正面対峙しうる強靭・不抜の革命党(指導部)・軍の建設をなしとげるだろう。
革命的労働者協会・日本社会主義青年同盟-解放派は、「即位の礼」-「大嘗祭」爆砕=天皇決戦、代執行阻止=三里塚二期決戦を二大基軸とし、安保・労戦再編攻撃をはじめとした諸闘争、対ファシスト戦、対革マル戦を革命的に推進するなかで、なだれをうって総屈服-総転向に抗して、日本(世界)階級闘争の革命的転換と、スターリン主義、社会民主主義をこえた共産主義的・革命的な労働者党建設を実現することを明らかにするものである。
以上
一九八九年六月二十七日
【関連する記事】