(これは2008年に書かれた記事の再録です)
他愛のない子供向けの作り話(ということになっている話のなか)には素晴らしい話がある。 わっしがいまでも愛読しているMadeleine L’Engle
http://en.wikipedia.org/wiki/Madeleine_L%27Engle
の一連の物語などは、その典型である。
わっしは気が向くと世界中の「子供向けのつくり話」を渉猟するが、わっしを仏陀ゴータマ・シッダルータに引き合わせたのも、結局は、わっしのその癖であった。
仏陀が死んだとき、森のなかから象も鹿も虎も猿も、ありとあらゆる動物が現れて「ブッダのために泣いた」というのす。
一枚のタペストリに描かれた情景を見て、わっしは仏教を調べてみればどうか、と思ったのでした。初めに勉強したのは空海の真言密教であって、これは充分面白かったが、どちらかと言えば仏教であるというよりはヒンズーのアニミズムの体系化であって、これを勉強しているあいだじゅう仏教からは返って離れておった。
途中は省くが、その後親鸞から法然の「一枚起請文」を経て、「原始仏教」にたどり着いた。
「原始仏教」というものを透してみた釈迦というひとの偉大さは文字通り筆舌に尽くしがたい。
このひとが朝目覚めて霧の中に手を伸ばすと、そのまま人間の真実に触れるのだ。
このひとが午後に瞑想して、生命について考えると、偽りの衣装を捨てた生命が姿を現すのだ。
一個の人間が、そういう用途のためには不便極まりない人間の言語の径をたどって、あんなところまで行ってしまったのは「驚きである」というほかに言いようがない。
ほら、耳を澄ませると釈迦の声が聞こえるでしょう。
「天国も地獄もない」
「そんなものはただの迷妄にしか過ぎない」
「人間はただ宇宙の法則に従って原子が法に則って意識を持つ存在に過ぎない」
「善行をしたから報われるというようなことはない」
「悪行を重ねたから地獄に行くということはない」
「人間は生まれて、老いて、病んで、死ぬだけであって、その他の実相などというものはない」
釈迦はそーゆー宗教家らしからぬ「実相」を説いて、お腹が空くと売春婦の家に昼飯を食べに行った。
宗教が拡大するためには「党派性」が必要であって、他者への憎しみが必要であるのに釈迦はそれを否定してしまった。
ユダヤのひとびとの半分の知恵もなかった。
でも、日本のひとには返ってわかりやすいのではないでしょうか、もちろん、そこにこそ釈迦の栄光があるのです。
前にも書いたことがありますが、あの意地の悪いバートランド・ラッセルですら、
「もしニーチェと釈尊が対話するところに居合わせたら、ニーチェのほうが遙かに論理的に正しいと判定するだろうが、わたしは自分の生命を賭けて釈迦の言説を支持するだろう」 と言う。
わっしは釈迦の弟子のなかではシャーリプトラというひとが絶対的に好きですが、それはシャーリプトラというひとの絶望の深さが判るような気がするからです。人間の現実を認識して、この現実が世界に存在を許されるためには釈迦がつくった幻想こそが最もふさわしい、と思ったとしか思えない。
われわれが持っている言葉の歴史のなかで、最も深い絶望の底に触れたひとだと思います。
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