神の火 核エネルギーの新しい現在について

ドイツ人の戦争の強さは古代ゲルマン人の昔から有名でカエサルの「ガリア戦記」を読めば、その民族性と呼びたくなる手の付けられない勁さは活き活きとした文体で活写されている。

ドイツ人の歴史を通じて培われたイメージは「自分が絶対に正しい」となぜか信じ込んでいて他民族の人間に向かって

「な?おれは、こんなに正しいだろう? きみも、ぼくと一緒に正しい道を歩くべきだ」と息がかかるほど顔を近づけて述べて、そこで止まれば「おいらは正しいおじちゃん」で、まだいいが、放っておくと、「正しいおれになぜ賛同しない!」と怒りだして、めっちゃめちゃ優秀で先端テクノロジーを満載した兵器で攻めてくる、というドイツの人たちが怒るに決まってるイメージで、ま、偏見なんですけどね。

しかし連合王国を含めた欧州の人間にとっては拭いがたい。

他人を信頼しすぎるおぼっちゃん政治家の傾向があったチェンバレンがお人吉市であったばかりに、当時の先進工業国チェコを手に入れたヒットラーは、「約束?約束なんて愚かな弱者だけが信じるルールだ、ばあーか」と述べて、

ドイツ戦車よりも、よっぽど優秀だったチェコ製戦車の35t38tを並べてポーランドに、どっと攻め入ります。

あっというまにポーランド政府と軍隊を瓦解させると、返す刀でフランスに侵攻する。

ここまではドイツ人にとってナチは、たかだか大阪の維新党で、なんだかインチキ臭い世の中の不満につけこんだ「怪しい政党2号」だったのが、ドイツ国民を唖然とさせたことには、ドイツ人の長年の夢、憎っくき不倶戴天のエラソー敵フランスを、たったの6週間で粉砕して、その瞬間からヒットラーは「総統閣下」になり、ドイツ人にとっての現人神になる。

ほら、正しいのが大好きな人って、あっというまに狂信者になるでしょう?

あれですよ、あれ。

昭和時代に創価学会に折伏されて、あっというまに身上つぶしたパン屋のおばちゃんみたいなもんです。

「あんたも、そろそろ信心しないとダメよ。アーリア人種の人種的優秀性は科学によって証明されているのを知らないの? ユダヤ人みたいな半分豚で人間の皮をかぶったケダモンみたいなやつらは、みんなぶっ殺しちまわないと世界が平和になる日なんて永遠に来ないわよ」と「イギリスパン」をオマケしてくれながらパンを買いに行くたびに説教する。

説教だけならいいが、数が揃ったところで説教が三号戦車とJu 87に乗っかって言うことを聞かせにやってくるのだから、たまったものではない。

ドイツ軍は、歴史を通じて流れる噂に違わず、とにかく強かった。

ミュンヘンだったかフランクフルトだったか、ニュージーランドから成田を経由して、ゲウチャイ成田支店のKung Ob Wunsenを食べたりしながら、ドイツ乗り換えでロンドンに行くと、空港の出来の良さに感動します。

「ここでトローリーがあればなあ」とおもうと、ちゃんとアイデアルなスポットにトローリー置き場がある。

コンベアを流れてくるスーツケースをピックアップして、周りを見渡すと、おお、あった、トルコ人えらいじゃん、とトローリーに駆け寄ってみると、鎖でつながれていて、ロックを解除するのに、国外からの旅行者にとっては、「ふんなもん、持ってるわけないだろ」のリラ硬貨が必要なイスタンブル空港とは、なんというか思想から異なっている。

もっとも、普段から、鵜の目鷹の目、周りをキョロキョロしながら自分が親切に出来る相手はいないかと探して待ち構えているトルコの人が、間髪を入れず、さっと寄ってきて、ニカッと笑いながら硬貨を差し出してくれるけどね。

とにかく。

ドイツ人の頭のなかだけにあったはずの構想を現実化する能力の凄味は、戦争ともなると、遺憾なく発揮されて、だって考えたものがスイスイ現実になってしまうのですもの、このあいだまでセコい20mm砲をタカタカ撃ちながら走りまわっていた戦車は、あっというまに88mmの、ガンダムでも撃ち抜かれそうな初速の長口径砲をぶっ放すようになり、あまつさえ、空には、「ぷ、プロペラがないじゃん、あの戦闘機」な、ビュンッと飛んでいったとおもったら愛機のスピットファイアが穴だらけになっているMe262ジェット戦闘機が飛び交うことになる。

伝統の陸軍歩兵に至っては、強いのを通り越してバケモノで、どう布陣してみても伝説の「スパンダウ」MG42を軸にフランクを広げられて、いつのまにか挟撃されている。

砂漠や荒野では、さっきまで正面にいたはずの機甲師団が、いつのまにか後ろにいて、背後から撃ちまくりながら進んでくる。

どーにもこーにもやってられない強さで、ブラックドラゴンに村の鍛冶屋が鍛えた剣を振りまわして戦っているようなもので、もうあきまへん、で、参戦したアメリカ人たちも音を上げかけていた。

世の中には「人類の歴史を変えてしまった会話」というものが存在します。

オッペンハイマーがホワイトハウスの高官と交わした短い会話が、それだった。

どうしてもナチに勝てない、と、鬱屈する高官に、オッペンハイマーは、「ひとつだけ勝つ方法がある」と述べる。

「?」と見返した高官にオッペンハイマー博士が述べた提案こそが、これから先、五十年先か百年先か、もしかしたら明日なのか、世界を滅ぼすことになった提案で、

「ナチの致命的な失策は何か知っているか?」と訊いて、「彼らは人種的憎悪からユダヤ人を追放してしまったでしょう?」

「ところがユダヤ人のコミュニティのなかにひとつナチにとって致命的になりうるコミュニティがあるんです」

「というと?」と、なおも呑み込めない高官に、この自身もユダヤ民族だった物理学者は核エネルギーと核分裂のチェーンリアクションが放出する凄まじいパワー、そして、それによって人類が見たこともない破壊力をもった爆弾を作りうることを説明する。

ナチの内部に巣くった人種的憎悪によって自分自身が滅びる、という神話的なアイデアに、この高官は感じ入って、

マンハッタン計画と名が付くことになるプロジェクトを開始します。

史実を追っていくと、核兵器はだから、ユダヤ人たちのゲルマン人たちに対する復讐兵器とも言えるのね。

ところが、ナチ帝国は原爆が完成する前に東西の二正面作戦に耐えきれなくなって、アドルフ・ヒットラーの、戦争の運動法則を理解できなかった素人作戦の拙さもあって、原爆が完成する前に崩壊してしまいます。

ピーク時には13万人を動員して、当時のオカネで$2.2billionという、とんでもない巨額の投資をした原爆を「使わない」ということは官僚制の当然の理屈として選択肢としてありえないので、まだ降伏していなかった大日本帝国に落とせば、でっかい予算の言い訳理屈は成り立つ、という結論に、役人の常として辿り着いて、エノラゲイに載せた原爆は広島に投下される。、

マクデブルグやベルリンに投下されるはずだった原爆が、広島と長崎で、どれほど残酷な惨禍を齎したかは、世界のなかで、日本の人たちが最もよく知っているはずです。

194586日、広島県産業奨励館の上空600メートルで、現代の核弾頭に較べれば遙かに原始的で破壊力が小さい核爆弾が爆発した瞬間から、人類の歴史は本質が変わってしまう。

最もおおきな変化は50年代から60年代にかけてフランスの知識人たちが盛んに指摘したように、絶対暴力が地上に出現したことによって、言語は本来の意味性を失ってしまった。

なにを言おうが、どんな議論を積み重ねようが、言語によって築かれたものは、暴力が相対的な威力しか持ちえなかった時代とは異なって、愚かな権力者の手の中の核スイッチがおされれば、そこですべて閃光とともに消し飛んで、無意味な営為へと変わる。

そこで人類が遅まきながら気が付いたのは、人間の社会を支配しているのは政治であって、その政治の本質は暴力の論理である、ということでした。

「正しい」「正しくない」というような人類の伝統語彙がまったく通用しない世界に核以降の人類は生きることになった。

これはね。

言い方を変えれば、人類ご自慢の「叡知」なんて、なんの役にも立たなくなった、ということなんです。

当然、欧州の全域にわたって「知識人とは、なにか? どういう役割を担うべきなのか?」という激しい議論が巻き起こります。

議論はアジアにも波及し、東アジアの、そのまた東の端っこにある日本でも、「知識人論争」が引き起こされる。

それも、特権意識のバケモノみたいな参加者が侃々諤々しているうちに、「大衆」と名前を被せられた大多数の社会の参加者であるordinary peopleに呆れられて、どうでもいいや、ということになっていく。

これは面白い、というか、一歩退いたところから、核を擬人化してみなせば、正に核の思惑通り、人間の痴呆化に成功したことになる。

絶対暴力側、「核を使う側」からすると好都合だったのは、マニュアルの手順を端折って「うまくやる」悪癖をもつ日本社会では、極めて深刻な性質の東海村JCO臨界事故という神様の警告のような事故があったにも関わらず、タカをくくって、少しでも利益をおおくするために、またも安全手順を端折って、その結果、十分に予測され警告されていた津波に耐えられずに、大爆発を起こして、ついにはメルトダウンという、そこに至ってしまえば人間の知恵では回復が望めない段階にまでいってしまった大事故を起こしたにもかかわらず、日本人たちが「この程度の放射線量を起こすくらいは実は人体に影響がなくて大丈夫でした」と、ぶっくらこく意見具申を始めたことで、

なにしろ世界でただひとり、核爆発と、その後の核後遺症を経験して、今度は、チェルノブイリと、大気拡散、地中拡散の違いはあるものの、たいして規模が変わらない、あるいはより深刻な、未曾有の核汚染を抱え込んだ民族が、「核なんて怖くない」と言い出したので、

核を使う側は、「うん。核兵器って言ったって、TNTと桁が違う爆発力があるだけで次元としては通常兵器とおなじで、量の違いで、質の違いだというのは、なんでも大騒ぎしたがる知識人たちの空騒ぎだよね」と述べていればいいことになった。

いちどはヒロシマを象徴とする核の、人間が忌避すべきだった力を去って、廃絶の方向に向かうかに見えた世界が、当のヒロシマ被害者の国である日本のひとびとが、フクシマにおいて、「こんなの、全然ダイジョブ」と言い始めたので、これほどの好機を見逃すわけはない。

核兵器は、再び、「いつでも使っていい兵器」として、相手の報復の出方を計算すればいいだけの、いわば通常兵器の親玉としての扱い対象に復帰した。

核兵器が絶対暴力で、それこそ絶対に使用を避けなければならないという50年代から90年代、2000年代を通じて人類が信じてきた思想は単なるmythで、相対暴力の世界のチャンピオンにしか過ぎないということになった現代の世界では、戦術核クラスの使用は時間の問題だというのが常識になっている。

戦略核の全面使用へのチェインリアクションを引き起こすかも知れない、誰がやっても計算しきれない展開が読み切れなくて、やや尻込みしているだけです。

それが例えば東部ウクライナの原発爆発だと言いくるめられることなるのか、長引く戦争に倦んだ世界世論に見捨てられたウクライナが敗退を始めて、プーチンが「計算通り」にフィンランド/スウェーデンを脅かせ始めた結果NATOの直接介入を招いて、戦力均衡のために戦術核を使い始めるのか、具体的な展開は誰にも判らないが、核兵器の使用が時間の問題だということだけは、ほぼ全員が納得している。

日本でいえば自衛隊の南西諸島への展開や大分分屯地での巨大弾薬庫建設は、日本語ネット上でよく言われているような「国内政治失敗から眼を逸らさせるための作られた『中国が攻めてくる』騒ぎ」ではなくて、現実の軍事情報に基づいたものであるのはNATO諸国やアメリカ軍の動きを見ればよく判ります。

恐らくは米軍の強い要請にもどづくものでしょう。

アメリカの、日本の人が「日本を守るための戦略変化」と誤解している最近の急速で大規模な動きは、「日本を盾にして西/南太平洋を防衛する」戦略への変化であることは、ほとんど誰の目にも明らかなほど露骨になっている。

でも、まあ、ほら、当の日本人がいまさら心配したって、どうなるものでもないので、いまの日本人の

「そんなこと、起きるわけないじゃん」で、自宅デートレードやなんかで、政府が遮二無二引きあげている株価に一喜一憂したり、「国の借金ったって、借りた相手が日本人なんだから、なんの問題もないマイペンライ」で、まるで社会ごと痴呆状態を装っているかのような、「みんなハッピー、いえーい」状態で、良いのではないか。

事態の展開に顔を引きつらせている北欧人やオーストラリア人たちを笑って「心配しすぎですよ」と従容と運命に従うほうが、日本人らしくて良いかもね、とこのごろは考えています。

いえーい



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