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続きます。

明日への逃避




 目が離せなかった。


 夕焼けと交わる瞳は私を掴んで離さない。一歩でも動いてしまえば、私ですら言葉で表せない感情を見透かされてしまうような気がした。顔が熱い、体も熱い。唯一幸いだったのは、夕焼けの炎に燃やされているのは私もまた同じであるということだ。(だいだい)と紫の混じるその光のおかげで、間違いなく紅潮しているこの顔を隠さなくて済んだ。


『───惚れた弱みだよ』


 数秒前、空気に溶かすように囁かれた言葉を反芻(はんすう)する。違う、そんなものは意識なんてしなくても勝手に頭の中で繰り返されている。何度も頭の中で巡り巡って、私の脳を、心を溶かしている。


『───だってあいつは………ずっと夏川のことが好きなんだから』


 また、佐々木くんから言われた言葉を思い出す。渉は私の事がずっと好きらしい。でも、私がそれを知っているのは一学期のあの時、渉の家で、渉の思いを告げられた時までの話で、今もそうなのかは分からなかった。それでも佐々木くんのあの言葉が、今の渉に向けられた言葉なのだとしたら───


「…………ぁ…………ぁ……………………」


 顔が熱い。


 夕日が沈んでいく。まだ行かないで欲しい。私の顔は間違いなく熟した果実のままだ。このままでは渉にこの顔を見られてしまう。恥ずかしい。この気持ちを、胸の内から飛び出したままのそれを見られるのが恥ずかしい。だから、どうかまだ行かないで───。


「………………帰るか」


 ───え?


 次の言葉を紡いだ渉。少し疲れたように吐き出すと、前の机に置いていたバッグを持ち上げて、私の横をすれ違って行く。


「………………ぁ、え…………?」


「や、ほら………外も、暗くなり始めたからさ」


 そうじゃない。


 あまりにも平然とした様子の渉。ついさっき、甘い言葉を囁いたようには到底思えない様子で、ほとんどが(かげ)った教室の真ん中まで歩いて行く。その変わり様に、上手く言葉が発する事が出来なかった。


 ───夢だったの?


 さっきまでのあれは、私の妄想? 聴き間違い? だからそんなに何も無かったように居られるの? あの目は、瞳は、愛おしいものを見つめ、少し痛みを知るように話した言葉も全部、現実じゃないの……?


「…………ぁ………………」


 熱が引く。あれだけ望んだ事が、追い返す間もなく恐怖心に変わって襲って来る。(たかぶ)った心、初めての感情、その全てが嘘偽りの妄想に対して向けられたものだと信じたくはなかった。


「ま、待ってっ………」


 全力で声を出す……が、口から出たのは震えながら目の前で消えて行くだけのか細い声だった。平常心なら向かい側の校舎にまで届いていたはずの声も、まるで残り僅かな命の灯火のようになっていた。それほどまでに、私の中に余裕なんてものは無かった。


 どうにもならない自分の体。つい(すが)るように渉を見ると、いつもの黒に戻った瞳がこっちを見ていた。


「───待つよ」


「ぁ…………」


 ふっ、と笑う渉。瞳こそいつも通りなものの、そこに居るのはやっぱりいつもの渉とは思えなかった。たった三文字なのに、その言葉はさっきと同じように何度も頭の中で繰り返された。


「暗くなるのに、一人にできるかよ」


「っ………」


 どうして。


 動くようになった足を渉の方に動かす。大人びたように見えるその顔が段々と近付いて行く。その時間はあまりにもゆっくりで、まるでリハビリで歩く練習でもしてるんじゃないかと思うほどだった。





 ◇





「………」


「………」


 気が付けば昇降口に差し掛かっていた。


 教室からそこに向かうまでに会話は無く、けれど、少し前を行く渉は時おり後ろを歩く私を見て、速度を落とした。その度にふっと細くなる目の優しさに、ただの同級生に向ける友愛とは違うものが含まれている気がして、大きくなる鼓動に余計に足元が覚束(おぼつか)なくなってしまった。


 これは自惚れなんだろうか。私がただ自意識過剰なだけなんだろうか。渉が私に向ける想いがまだ生きているのだと思うと、胸が痛くて仕方がない。


 あれだけ知りたかった渉の〝頑張る理由〟。その時間が、手間が、心の傾きが、その全てが自分に向けられたものだったのだと思うと頭がくらくらとしてしまう。そして、労いや申し訳なさより先にどうしようもなく嬉しさが突き抜けてしまう自分が単純に思えて仕方がない。


 昇降口を出て、外の微かな光を浴びる渉。

 少し空を見上げ、一息つく渉。

 秋口の涼しい風を受けて気持ち良さそうに安らぐ渉。


 思わず注目してしまう。単純に渉の支度が早いというだけじゃなく、私が遅いというのもあるのだろう。手元を見ないで渉を見ていても、永遠に靴を履き替える事はできない。渉が行ってしまわないよう恐れを抱きつつ、何とか履き替えて追い付いた。


「───秋だな」


「え……?」


「何か、ほら…………ずっと集中してたから。ついさっきまで、ずっと真夏だったような感じがすんだよ。もうこんな涼しかったんだなって」


「…………そう、ね」


 気が付けば秋。渉に言われて初めて気付く。文化祭実行委員会の活動がまるで夏のもののように感じていたのは私も同じだった。この自覚とともに、明日からの活動はまた別の景色に映るのだろう。あれだけつらかった時間も、今では想い出に変わりつつあった。


 どこからか、スズムシの鳴き声が聞こえた。


「………」


「………夏川?」


「あっ……う、うん…………」


 真横に立つと、渉が見えない。だからつい少し後ろを歩いてしまう。その方が顔がよく見えるから。気が付けば、これ以上無いくらいにトボトボと歩いている事に気付いた。さすがに歩くのが遅すぎたかもしれない。渉は(いぶか)しむように私を見ていた。


 顔が熱くなる。自分が単純すぎて恥ずかしい。見られたくなくて、慌てて渉の横に付く。


「………」


「………」


 沈黙の帰り道。渉は何も話さない。バレないように横顔を窺うと、渉はただ真っ直ぐ前を見て歩いていた。ただどこか眠そうで、疲れているようにも見えた。大人びて見えていた時とは一転、少しあどけなさを感じる。


 ドキドキする。


 おかしい。渉は今までこんなに格好良かっただろうか。こんなに可愛かっただろうか。見れば見るほど胸の奥が熱くなって、思わず触れてしまいそうになってしまう。ただ横に立つだけで渉の匂いが伝わって来て、頭の中が溶けて行くような気がした。


 こんなのは初めてだ。今までの人生で一度も経験したことが無い。


 視線を落とすと、すぐ右には渉の手が有った。私よりも大きい手だった。少し手を伸ばせば簡単に触れる事ができる。たった十五センチほどの距離なのに、その手を取る事ができず歯痒(はがゆ)い気持ちになった。


「───ぁ」


 悶々としていると分かれ道が見えて来た。いつの間に、と思った。学校から出てそんなに時間が経った気がしない。まだ十数歩しか歩いていないような気がする。それまでの時間をずっと渉の左手と戦っていたのだと思うと、また少し顔が熱くなった。


 誤魔化すように前を見ても、そこには渉と別れなければならない道しかなかった。


 ───やだ。


 思わず立ち止まってしまう。まだ渉と居たいという強い思いが足の動きを封じた。先を行く渉はそんな私に一拍遅れて気付く。不思議そうに振り返った後に、辺りを見回して納得したように言った。


「もうここか」


「うん………」


 呆気ない帰り道。眠そうなまま、情緒も無く呟く渉に少し悲しい気持ちになる。もう少し、何か、何かあれば。このまま別れるのだけは嫌だという焦燥感が生まれる。


「…………はぁ……」


「………!」


 私に背を向けて、その場で少し肩を落とした渉。聞こえてきたのは疲れを感じさせる溜め息の音だった。私に気を遣って見えないようにしたのだろう。そんな仕草が、揺れ動く私の心を(たま)らなく刺激する。


 もう、我慢できなかった。


「なつ───え?」


「………」


「………」


 少しがっちりした感触だった。呼吸をしてみると渉の匂い以外何もしない。うずめた背中は温かいと思いきや、少しひんやりとしていた。指先でなぞってみると、でこぼこした体の(すじ)を感じた。


「ごめん………ちょっと、つまずいて……」


「…………あ、え? つ、つまずいた?」


「うん……つまずいた」


 腕を回す。もっとふかふかしてると思ってたけど、思ったより硬い体だった。ギュッと腕に力を入れると、渉の背中が少し熱くなった。頬に伝わるその温もりを全身に行き渡らせるように、目を閉じてじっと感じる。


「ね、疲れた……?」


「え、え……? つかれたってか………まぁ、うん………糸が切れたっていうか………」


「そうなんだ」


 誰かのためだなんて関係ない。渉は頑張った。その姿を羨んで嫉妬したはずだったけど、今ではそんなものはどうでも良かった。ただ愛おしく感じてしまう彼を、(ねぎら)わずには居られなかった。


「お疲れ様、渉」


 ───好き、かも。


 背中に向けて、息だけで伝えた。


 聞こえなくていい。伝わらなくていい。今の私にその資格は無いのかもしれないのだから。ただせめてこの抱擁だけは。二年以上の月日に免じて、どうか許して欲しい。


『───惚れた弱みだよ』


 誰のために向けられた言葉なのか。渉の言葉で聞きたい気持ちはある。だけど、今はそれを()(ただ)そうとは思わない。どんな結果に転んでも、私が私の有り様を納得できないか、傷付くだけのどちらかだから。


「………」


「………」


 振り向かせないように、背中に両手を添える。この顔だけは絶対に見せられない。もし見られようものなら、きっと私は泣いてしまう。これもまた、私自身のための我儘。


「また明日、ね?」


「………ぁ───」


 一歩踏み出したところで、見える景色は何も変わらないかもしれないけれど。逃げてばかりの私だけれど。


 しっかりと前を向いて逃げ出したのは、これが生まれて初めてだった。

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