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首輪の話 - -------の小説 - pixiv
首輪の話 - -------の小説 - pixiv
14,322文字
首輪の話
猫になった子と公爵の話

※ネームレス
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2023年12月13日 12:11


 目が覚めたら自分が本来あるべき姿ではなくなっていた、という展開はフィクションや物語の中では割とよくあるパターンであると思う。それがまさか生きている自分自身に降りかかるとは全く思っていなかったが。
 フォンテーヌで流行っている猫の姿をした探偵が人語を介さずに相棒という名の飼い主をその可愛さで操り、事件を次々と解決していくという小説を読んだからその夢を見ているのかもしれない。そう思い改めて自分の手、いや前足を見てみるが視界に入るのは毛むくじゃらで肉球がついている足だ。どこからどう見ても獣の足だ。ただ単に、自分の視界にどこからか迷い込んだ猫の足が写り込んでいるだけの可能性も考えたが、私が手のひらを見たいと思って動かすと、前足は肉球のある側をこちらに向ける。いい加減足を上げるのは疲れたから下ろそうとすると、足が下に降りる。私の意思によって動かされていることは確かだし、地面につけた足からは間違いなく硬さと冷たさを感じた。神経も繋がっていて感覚にも間違いはない。
 頭を抱えたい気持ちになるが、猫の姿ではうまくいかないようで、頭に手が回りきらない。精々が猫が顔を洗う姿に近い姿勢だ。猫になってしまったと仮定して、理由や原因は何だろうと思い返す。目が覚めたら猫になっていたのだから、寝る前は人であったのは間違いがないはずだ。私は自分の、五本の指が伸びていて肉球はない手が本を抱えてページを捲っていたことを覚えている。だから、考えられるのは寝ている間に猫になった、ということになるのだが、原因はわからない。寝る前に薬の類や飲み物を飲んだ記憶はない。やはり読んでいた小説にそういった効果があったのでは、と考えてしまうがもしそうなら今頃水の下でも把握できてしまう程度に水の上で大騒ぎになっていて、メロピデ要塞に作者が送られてくることだろう。そうなっていないのだから、小説は全く関係がない。
 何度考えても、原因がわからない。わからないもどかしさに嫌気が差し、意図せず毛繕いをしてしまった。失敗や気まずさを誤魔化すように猫が毛繕いをするところを見たことはあるが、確かに他の行動に移すことで意識が逸れて気分が変わるようだ。理に適っているように思う。
 このまま部屋にいたところで事態は好転しないだろう。元に戻れるまで大人しくしているというのも手だが、個人的には猫の状態でしか見られない物事に興味がある。視界の高さも、聴力も、身軽さも全く人間の時と異なる。それに何より、猫であるならば私は今最高に可愛いはずだ。可愛ければある程度の悪事は許されれというのは世の常だ。最高審判官の前では猫であっても公平に有罪を突きつけそうではあるが、世論は私の可愛さの味方をするはず。況してやここはメロピデ要塞。水の上から離れた場所であり、最高審判官の権力の及ばない場所である。全くの無法地帯というわけではないが、最高管理者である公爵様なら動物にも甘いのではなかろうか。
 この好機を逃すわけにはいかない。猫になってしまったが為にいつもならなんてことない段差が高い壁のように行手を阻んでいるが、好奇心は壁を打ち破るのだ。軽々飛び越えて、開けた場所に出る。やはり、全てが大きくて全てが広い。天井の高さは人である時と比較して数十倍は遠くにあるように見える。この時点でかなり楽しい。
 
「猫?」
 
 さあ広い世界へ飛び出すぞと思った私を引き留めたのは、低い男性の声だった。猫であるからだろうか、人であった時は聞き心地の良い落ち着いた声であると思っていたが、今は少し怖いと感じる。猫は高い声の方が好きなんだったか。
 声のした方へ視線を向ける。この要塞に置いて絶対的な権力を誇る公爵様がいる。目を少し見開いて、こちらを見下ろしている。猫になって改めて思う、下から見上げる公爵様のなんとまあ圧の強いこと。人である時なら、上司である公爵様に声をかけられた時点で立ち止まり、要件を伺うところだ。だが今の私は猫であるから、公爵様の用事なんて知ったことではない。寧ろここで彼に捕まってしまうと探検ができなくなってしまう。猫であるから許されるだろうと、公爵様へ向けていた視線を逸らして歩き出そうとする。
 
「こらこら、待て」
 
 待て、と言われると人である時の癖が出てしまうようで、自然と足を止めてしまう。猫らしからぬ行動だ。あまり言葉が通じていると思われたくないから、ここは無視すべきだったと反省する。公爵様は勘が鋭い方だから、たとえ猫であってもさまざまな要素から私が看守の一人であり何らかの原因で猫になってしまった、という真相に辿り着いてしまうだろう。そうなれば、猫であるから許されることが無くなってしまう。
 思わず立ち止まり座り込んでしまった私に対し、公爵様は視線を合わせるようにしゃがみ込んで指を差し出してくる。いきなり撫でてこようとしないあたり、扱いに慣れているのではないだろうか。公爵様の指の匂いを嗅ぎながら、本能的に安全な人であるかどうかを判別してしまう。噂で聞いた程度だが、公爵様は自身の執務室でペットを飼おうと考えたことがあったらしい。結局、ペットが可哀想だからいう理由でやめてしまったのだとか。優しい。
 匂いを嗅ぎ終わり、敵ではないと判断した本能が自身の匂いを擦り付けるように公爵様の手に擦り寄る。人である時はイイ男の匂いがするなあと漠然と考えていたが、猫である今の私にはイイ男の匂いかどうかは感じ取れず、敵ではない匂いだという判断しかできないようだ。少し勿体無い気がする。
 私が逃げないことを察した公爵様が、私の前足の下に両手を差し込んで持ち上げる。ぶらりと垂れ下がる私の胴体を一目見て、一言。
 
「メスか」
「にゃあ」
 
 どこ見てるんですか、えっち。
 
 ◇
 
 体を抱えられ、そのままごく自然に公爵様の腕の中で抱かれている。これが人間の姿であればなんともロマンチックで甘い恋人同士のスキンシップと考えられただろうが、生憎今の私は猫の姿であり、そもそも大前提として私と公爵様は恋人関係にない。腕に抱えられた時は逃げ出した方がいいかとも思ったが、自分で歩かなくていいのはあまりにも楽で、そのまま運んでもらっている。どこに運ばれているかは分からないが、公爵様がこんな愛らしい猫を粗暴な囚人の群れや仕事以外に眼中のないお堅い看守に預ける可能性は、おそらく低いだろう。
 公爵様の腕の中から彼の顔を見上げる。今まで近づいたことない距離だ。仕事の連絡事項のために近くに寄ることはあっても、お互いに対面になって間に人が一人分入れるほどの距離が空けられている。下から見上げるのが常だとしても、密着はしていないから初めて見る景色だ。
 それにしても、公爵様はいったいどこに向かって歩いているのだろうか。優しい公爵様のことだから、私を粗忽者の群れに解き放つようなことはしないと思っているが、そうなると可能性としてあり得るのは比較的安全が保障されている医務室だろうか。まあ、何にせよ彼がこうして猫に適しているであろう場所に運んでくれるのは間違いがないのだから流されるままでいいだろう。気が抜けて、自然と口からあくびが出た。
 
 歩く公爵様の顔を下から眺めながら、暇すぎるあまり前足を使って彼の顎あたりを触ってちょっかいをかけてみる。肉球の感触を堪能させてあげよう。日々の業務で疲れ切っているであろう公爵様には動物から得られる癒し要素が必要に違いない。顎を触られるのがくすぐったかったのか単に邪魔だったのか、私の前足を優しく掴まれる。そのまま顎に当てられていた肉球を指で押して楽しみ始めた。どうだ、気持ちよかろう。触るくらいなら私も許してやろう。匂いは嗅がれたくないから、もし吸われそうになったら全力で逃げるつもりだ。
 
「おはよう。悪いが、こいつに水をやってくれないか」
「おはようございます、公爵様。それは……猫ですか?」
「ああ。居住エリアで見つけた。どこから入ってきたのやら」
「囚人か看守が連れてきたんでしょうか」
「その可能性が高いだろうな。……或いは」
 
 公爵様が連れてきたかったのは食堂だったらしい。ウォルジーに話しかけ、私に水を出すように指示を出している。喉が渇いているかと言われれば、全くそんなことはない。喉が渇いているどころか、空腹感すら感じていない。いつもなら朝起きて喉が渇いているから水を飲んで、水を飲んだことでお腹が動いて空腹感に変わりご飯を食べるという流れなのだが、猫になってしまったからなのかいつもの感覚がどこにもない。
 抱えられていた状態からそっと地面に下ろされる。少し久しぶりの地面だ。抱えられるのがいかに楽であるのかを知ってしまった体には、重力が何倍にもなってのしかかっているように感じられ、動くのが億劫だ。それに、メロピデ要塞の床がなんだがジメジメというか、ベトベトしていて肉球に当たる感触が不快だ。
 不快さのあまり、すぐそばにある公爵様の黒くて堅い靴の上に前足を乗せる。流石に両足の上に座り込むのは公爵様だって怒るだろうから、前足だけでもという私なりの気遣いであり配慮だ。
 
「俺の靴に乗るとは」
 
 すみません。人間だったらこんなこと絶対にしないんですけど、猫なので許してください。さっき公爵様が触って楽しんでた肉球の質が損なわれてしまうんですよ。
 
「意外に甘えたなのか?」
 
 単に面倒だったり不快だったりするのを回避するために利用させてもらってるだけです。
 
「やれやれ、仕方がないな」
 
 仕方がない、と言いつつもどこか甘ったるい声で公爵様は再度私を抱き上げた。最高の抱かれ心地だ。この腕の中で一生を終えたっていいと思う。安定感が抜群だが決して締め付けられているような、拘束されているような感覚はなく、人間の感覚で例えるのなら何万モラもする最高級のベッドに横になっているようなものだ。満足したあまり、あくびが出る。お礼に公爵様へ肉球の感触を贈呈したいが、あいにく先ほど下された時に少し汚れてしまったから触ることができない。
 私の心配をよそに、公爵様は自分の手が汚れることを気にせず肉球を触り始めた。気に入っていただけたようで何よりだ。
 
 ウォルジーが用意した水を飲み、満足したので顔を洗う。行儀は良くないのは百も承知だが、地面に降りたがらない私に根を上げた公爵様の許可を得て、椅子の上に座らせてもらえた。あとで人間に戻った時に、使った椅子はちゃんと拭こう。
 顔を洗おうという意識があるわけではないのだが、体に染みついた習慣であるかのように自身の前足を舐め、その手で顔周りをぐりぐりと洗う。これがなかなかに気持ち良いし気分がリセットされるような、何だかスッキリした気持ちになれるのだ。
 私が水を飲む姿を、公爵様は何をするわけでもなくただ眺めていた。水を飲むのを邪魔することもなく、少しぎこちなく背中を撫でるというよりも毛並みの感触を楽しむように触っていた。もっとこう、思い切り触ってほしいと思うような、もどかしさを感じる触り方だった。
 
「美味かったか?」
 
 ただの水なので、普通でした。ヌヴィレット様って猫になっても水の味にうるさいんですかね?
 
「満足したなら良かったよ」
 
 うーん、薄々わかってたけどこれ意思疎通はできてないですね。
 
「さて、あんたをどうしたものか」
 
 ぎこちない手つきで顎の下を撫でられる。撫でられ方とこちらに投げかけられる声の優しさが心地よくて、もっと撫でて欲しくなってしまう。猫は人間と違って感情に対して体がそのまま素直に動いてしまうようで、もっと撫でろという気持ちが体に現れてしまう。現れた結果、公爵様の手に自分の頭を擦り付ける力が強くなりすぎてしまったようで体のバランスを崩してごろりと寝転がってしまった。私を撫でていた公爵様の手が、戸惑ったように少し止まる。なぜ止めるのか、こんなにも撫でる面積を増やしているのに。そんな気持ちで一声鳴くと、公爵様は恐る恐るといったように腹を撫でる。うーん、急所を晒している自覚はあるのだが相手は公爵様であるから安全に違いないという意識のおかげで何も怖くない。公爵様ってすごい。
 
「こんな無防備な生き物を放っておくわけにもいかないな」
 
 公爵様の前でしかお腹は晒さないですけど。そんなに安い女じゃありません。
 
「仕方ない。執務室に連れて行くか」
 
 ◇
 
「ここで大人しくしててくれよ」
 
 連れられた公爵様の執務室の、来客用兼公爵様の仮眠用ソファの上に下された。猫になると何倍も広く感じるソファだ。足の裏に当たる感覚が良い感じに固くて、思わず踏み締めるように足踏みしてしまう。だが自分にとって心地よい硬さにはならないし、何だか寒いような気がする。猫だからだろうか、周囲の気温はおそらくいつもと変わらないのだろうが、猫の私には少々肌寒い。
 私をソファに下ろした公爵様は自分の机に向かい、そのまま仕事を始めた。先ほどまで丁寧に構ってくれていた対象の意識が私に向けられていないことが少し、いやかなり不満だ。私を放置してまでする仕事なのだろうか。いやいや、当たり前だろう。私が猫になってもならなくても、公爵様は自分のすべき仕事をする方だ。彼の仕事の邪魔をすべきではないし、彼に構えと突撃しに行くのも間違っている、と人間の私の理性が告げている。
 だが、大人しくしていてくれと言われても暇すぎるのだ。普段なら看守として囚人の作業進捗を見守り生産量を記録し、公爵様へ提出と軽く雑談をするのが今日は一つもこなせない。そういえば、今日の私は無断欠勤になるのだろうか。目が覚めた時点で猫だったから誰にも急遽休むという連絡はできていないし、業務の引き継ぎだって出来ていないだろう。そう考えると早急に人間に戻りたいのだが、一体いつになったら戻れるのだろうか。
 やることが無さすぎるあまり、ソファから飛び降りて公爵様の机に近寄る。少し高いが、猫の体になってずいぶん慣れてきたからだろう飛び乗れない高さではないな、と判断する。体を少しかがめて、バネを生かすようにして飛ぶ。無事に机の上に飛び乗れた。
 
「何だい? 大人しくしててくれって言っただろ」
 
 暇なんです。仕事の邪魔はしないので、ここで見ててもいいですか?
 
「可愛く鳴いても構ってやらないぞ」
 
 分かってますから。
 私との会話を切り上げて、公爵様はペンを手に取り書類と向き合う。その表情は真剣で、普段こんな顔をして仕事をしているのだなあと、初めて見る姿に少しどきりとした。紙を捲り二つの資料を比較したり、生産エリアの生産量をチェックし、備品の申請、新たな施設や仕入れに関する申請と、さまざまな書類に目を通し、時には眉間に皺を寄せて不愉快そうに隅へ避け、時には満足そうにサインを書き込み丁寧に端に寄せる。一人でソファに座っているよりもずっと楽しい。構われないことと、意識が私に向けられないことはやはり不満だが、この距離の近さで今まで見たことがない公爵様の姿を見れるのだからそれくらいは我慢してやろう。
 私の足元にある未申請の書類を見る。猫になっても文字が読めるらしく、内容を確認する。何々、新製品のフォンタの拡販について……ああ、あの職員のか。読み進めるが、公爵様が気に入りそうな要点を全て外した的外れにも程がある提案書だ。彼はきっと公爵様と相性が悪い。他の人に変えてもらった方が、公爵様も販売員の彼も余計なストレスを抱えずに済むだろうに。
 ふと、気がつくと私の前足に公爵様の人差し指が乗せられていた。肉球そのものの感触ではなく、毛まみれの前足を上から少し押したり揉み込んでみたりと感触を楽しんでいるらしい。爪の隠されている指の間を公爵様の指が掠め、くすぐったい。くすぐったさに耐えかねて、触られていた前足を少し上げて避け、前足よりも下になった公爵様の人差し指に自分の前足を乗せた。公爵様の指は抵抗することなく私に押さえつけられている。触られるのは嫌いではないが、くすぐったいのは好きではないのだ。
 押さえ込んだはずの公爵様の指は簡単に私の拘束を抜け出し、再度私の足の上に指を乗せる。くすぐったい。公爵様の指から逃げ出し、また抑えつけた、と思ったのも束の間、また公爵様は指を……きりがない。いつまでも私の足で遊んでいないで仕事をしたらどうなんだ。私に構ってやれないからなとか言っておきながら、大人しく公爵様が仕事をしている姿を眺めつつ呆れた内容の書類を読んでいた私を勝手に構い始めたのは公爵様だ。
 
「……遅いな」
 
 何がだろう。この時間にいつも書類を持ってくる人とかがいたのだろうか。それとも私の反射神経のことを言っているのだろうか。だとしたらちょっと怒る。
 
「はあ……これじゃあ仕事にならないな。散歩にでも行こうか」
 
 私の同意を求めることなく抱き上げて、公爵様は執務室の階段を下りて部屋を出た。本日三度目の抱っこだ。もう彼の抱っこなしでは生きられないかもしれない。
 部屋を出た公爵様は管理エリアをぐるっと一周し、鉄拳闘技場に顔を出した。気分転換に試合にでも出るのだろうかと思ったが、ぐるりと周囲に目を向けて何かを確認し、誰とも話すことなくその場を後にした。何をしているのだろう。
 その後は生産エリア、居住エリアを歩いているが、様子がおかしい。エリアに入るための昇降機から降りた後は必ず周囲をよく見渡していて、何だか探し物をしているように見える。人を探しているのだろうか。部屋を出る前に「遅い」と漏らしていたから、やはり誰かが来るのを待っていたが来なかったため、こうして探しにきたのだろうか。
 仕事上よほど大切な書類のやり取りをしている相手なのだろう。公爵様が直々に探しに行かれるくらいなのだから。このまま抱えられていたら公爵様の探し人が分かるだろう。何だか少し楽しみだ。公爵様に連れられて要塞内を散歩しているついでに、私が不本意ながら無断欠勤したために業務に支障が出ていないかは確認した。報告内容が溜まっている以外は、特に問題はなさそうで心底安心した。できる同僚と聞き分けの良い囚人に恵まれている。
 公爵様は次に医務室に向かった。シグウィン看護師長に会いにきたのだろうか、いや、彼女が待ち人ならばまず真っ先に医務室に向かうはずだから、それはないか。
 
「あら? 公爵じゃない。どうしたの?」
「別に、特に用事はないんだが」
「そうなの? なら、お散歩かしら。怪我をしない方法でちゃんと体を動かしてるなんて、えらいわね!」
「やめてくれ、子どもじゃないんだ」
 
 あの公爵様も看護師長の前では子ども扱いされてしまうらしい。シグウィン看護師長は見た目こそ幼いが、その正体はメリュジーヌであり、人間よりも遥かに長生きしていると聞いた時は、人は見かけなよらなさすぎるだろうと思ったものだ。人より長く生きていて、人を慈しむ生き物であるからこそ、人をよく観察し異常に気づかなくてはならない看護師という職に就いているのかもしれない。私だって、看護師長に子ども扱いされたことは何度もある。何というのか、甘んじて受け入れたい甘やかし方と叱り方ではあるのだが、そこまで幼いつもりはないぞという大人としてのプライドが邪魔をするのだ。非常に複雑な気持ちにさせられる。
 
「公爵、何だか可愛いものを抱いているのね」
「ああ。今朝拾ったんだ」
「ふぅん。ちょっとよく見せて……、」
「ちなみにメス猫だ」
「あら! まさか確認したの? あら……そうなの……」
「オスかメスかを確認するのはそんなにまずいことじゃないだろう」
 
 いやいや、私がたまたま偶然猫になってしまったただの人間だからこそ、雌雄を判別されたのはけっこう恥ずかしかったですよ。
 
「そうよねえ。でも、許してあげてね? 悪気があったわけじゃないと思うのよ」
「猫と会話してるのか。メリュジーヌってのは、猫との意思疎通も出来るものなのか?」
「まさか! そんなはずないわ。ただ、人間と一緒で猫だってよく観察していれば表情の変化とか尻尾の振り方とか、あとは髭の向きとかで何を考えているのか、喜怒哀楽くらいは分かるものなのよ」
「へえ」
 
 公爵様は感心したように看護師長の話を聞いている。私には興味がない話になってしまったから、公爵様の腕の中であくびをする。公爵様の体温が心地よくて、何だか眠ってしまいそうだ。何か探しているの、人を探しているんだ、誰かしらウチも協力するわ、そいつは助かる、名前は?
 テンポよく続けられる二人の会話を聞き流しながら、眠気に抗うことなく眠りについた。意識が落ちる寸前に聞こえた名前は、私のものだったような気がする。
 
 ◇
 
 目が覚めると誰かの膝の上だった。安定感がありながらもソファよりも少し硬いような気がする感触、だが安心する匂いがしてもっと自分の匂いを擦り付けたくなったから、ごろりと寝返りをうちつつ体を念入りに擦り付ける。寝返りを打ったことでお腹を外に晒す体制になった。晒された私の腹を、よく知る感覚が撫でる。よく考えると猫になってから撫でられたのはこの手にだけかもしれない。この手以外を知らないのは良いことなのか、少し勿体無いような気がする。
 少し目を開けると、優しい目で私を見下ろしながら撫で続ける公爵様がいた。体の下にある感触は少し暖かいことからも彼の体のどこかで、そうであるならば私は公爵様の膝の上で寝ていたのだろう。最後に見た景色は医務室だったはず。それからどのくらい寝てしまっていたのだろうか。長いのか、短いのか。どちらにせよ私の姿はまだ猫のままらしい。眠って起きたら元に戻っているかもしれないと期待したが、そんなことは無かった。
 
「よく眠れたかい?」
 
 とっても。公爵様の膝はけっこう寝心地がいいですね。ソファよりもずっといいです。
 
「どれだけ撫でても耳を触っても起きないものなんだな。それだけ信用されてるってことなんだろうが」
 
 私が寝ている間にそんなに好き放題触ってたんですか?これでも女の子なんだから、もう少し遠慮してもいいんですよ。
 
「このまま、ここで世話を見るのもいいかもしれないと思ったんだがな。やっぱりあんたのような生き物は、ちゃんと水の上に行くべきだ」
 
 私を撫でながら少し寂しそうな顔をする公爵様に呆れる。こちらの意思を無視してすでに別れることが確定していて、その別れを思って勝手に悲しんでいるのだ。優しいが、あまりにも身勝手だ。いいや、生き物と一緒に暮らす上であれば、公爵様の判断はとても正しい。だから、これは私の一方的な批判でしかない。
 今日一日で撫でることに躊躇がなくなった公爵様は、顎の下のみならず鼻の周りや髭の近くも撫でる。そこは感覚が鋭くて敏感な場所だからあまり触られたくはないが、公爵様ならばまあいいか。ああでも、あまり鼻の近くは。むずむずする。いけない、くしゃみが出てしまう。猫ってくしゃみできるんだな。
 
「へっくしゅん」
「……は?」
「あれ?」
 
 くしゃみをした時に出た声が、あまりにも人間の声だった。今日一日、自分でも聞かなかった自分自身の声。考えていることを口に出そうとしても、出てくる音は可愛らしい猫の鳴き声だけだったのが、はっきりと人の言葉に変わっている。けむくじゃらで公爵様に随分と可愛がられた肉球のついていた前足は、指が伸びていて毛も生えていない人間の手になっていた。手を握って、開いて、感覚が自分のものであることを確認する。
 どうやら、くしゃみをした勢いで人間に戻れたらしい。どういう理屈かは知らないが、戻れたならばそれでいいか。
 
「戻った」
「……信じ難いが、目の前の光景は嘘じゃないらしい」
「どういう理屈かは知りませんが、朝起きたら猫になってまして。ちょうどいいから探索しようと思って外に出たところを、公爵様に保護していただいてました」
「何がちょうどいいのか分からないんだが、保護したのが俺でよかったと、心底思っているよ」
「そうですね。大変お世話になりました。ああ、あと。仕事については明日まとめて報告いたします」
「ああ……いや、それはいいんだが」
「何か?」
 
 公爵様は一呼吸おいて、重々しく何かとても重要なことを伝える覚悟を決めたような顔をして言葉を発した。
 
「責任は取る」
「何のですか?」
「いや、ほら。あんたの裸を暴いたようなものだろう」
「ええ? 気にしてませんよ。毛むくじゃらの猫だったので」
「俺の気が済まないんだ。なあ、あんたさえ良ければ俺に償いをさせてくれ」
「いや、本当に大丈夫なので……気にしていないし公爵様が責任を感じることじゃないと思います」
 
 公爵様の様子がおかしい。人を口説き落とす時のような情熱で、私の両手を握り込んでじっとこちらを見ている。人間に戻る前にいた場所は公爵様の膝の上だった。くしゃみをして元に戻ったことを受け入れるのに意識が向いていて、自分の座っている場所なんて全く気にしていなかったが、この位置は非常にまずい。現に、手を握られてしまったことで逃げられなくなってしまっている。
 公爵様の目には猫の時に向けられていた小さな生き物を愛でるような甘さは無く、もっとどろりとしていて纏わりつくような重たさを感じるものに変わっていた。
 
「あんたに用意するのは首輪の方がいいのか?」
「いや、なら指輪がいいです」
「そうか。分かった」
 
 にっこりと笑う公爵様に、ああ、嵌められたんだなと察した。
 
 
 
 ◆
 
 猫を見つけた。最初はゴミ袋か何かだと思ったが、近づいてみるとそれは自分の意思を持っている生き物の動き方をしていて、だがこんな水の下にいる生き物なんて人間とメリュジーヌの他にいるとすれば虫くらいのはずだ。虫にしては大きすぎるし、人型の何かにしては小さすぎる。足音を殺してそっと近づいてみれば、それはこんな場所では滅多に、いやまず見かけることはない猫だった。
 毛色は黒。毛は長くない種類のようで、首輪はしていない。誰かの飼い猫か、この要塞内でペットを飼おうとする奴がいるとは思えないし、持ち込むのであれば必ず俺の許可が必要になる。直近でそんな申請を許可した覚えはないし、記憶を遡っても心当たりがない。ならば無許可で持ち込まれた禁制品であるのだろう。無機物であれば俺が何とでも処分ができたものだが、生き物となれば話は別だ。処分という言葉を使うことすら憚られる。保護し、あの子を持ち込んだやつを見つけ出し、適切な罰則を与えた後に水の上の誰かに預けられるべきだろう。もし、持ち込まれた子ではなくただの迷い猫だったとしたら。まあ、その時は別の方法を考えればいいだろう。
 思わず溢れた「猫」という言葉に、猫はこちらを振り返った。黄色い二つの目がこちらを見ている。水の上のように陽が当たる明るい場所では無いからだろうか、大きく黒くて丸い瞳孔が愛らしさを強調させているような気がする。
 俺の声を聞いてその方向を見ただけで、猫は俺に興味はないらしい。すぐに顔を背けてどこかに歩き出そうとする。いやいや、それは許されない。ここであの子をきちんと捕まえて保護しなくては。ここにいる大半の囚人は罪を自覚し更生しようとしている者だが、そうではない者も少なからず存在している。そんな奴らにこの子が見つかって捕まってしまったらと思うと、ぞっとする。
 待て、と声をかければ言葉が通じているのか猫は歩くのをやめて座り込み、こちらを見上げる。警戒させないようにするには匂いを嗅がせるのがいいんだったか、撫でる時は上からではなく下からだったか。記憶を掘り起こしながら猫に逃げられないように慎重に接する。こんな小さな体の生き物を捕まえるのが容易ではないことは想像に難くない。俺を敵ではないと認識したのだろう猫は、手に擦り寄ってくる。警戒心が薄すぎやしないだろうか。人懐っこい子なのだと言われればそれまでかもしれないが、俺はあまり動物に好かれやすいタイプではない自覚がある。体が大きく身につけているもののせいで黒い。声だって低いし普段から纏う気配のせいか、人間を含めた大抵の生き物に警戒される。
 だからだろうか、自分に懐いてくれる子が一層愛らしく見えてしまった。首輪をしていないのを理由に、自分の手元に置いてしまおうかと思ってしまう程度には。
 
 逃げられては困るからというのは建前で、本音は俺が抱きかかえたいからという理由で猫を腕に抱いて食堂まで向かった。この子の飼い主を探してやるのがまず先だとは思ったが、腹が減っていたことともう少しこの猫と一緒にいたいと思ってしまったから手放し難かった。抱っこを嫌がる猫もいると聞いたことはあるが、この子はそれに該当しないらしい。腕の中で大人しく抱かれながら、あくびをしたり毛繕いをしたりと自由気ままなものだ。猫らしいと言えばそうかもしれない。何が気になるのか、猫が前足を俺の顎に当ててくるのは喜んでいいものか分からなかったが、その感触が心地よいと思った気持ちは騙せず、肉球を存分に楽しませてもらった。嫌がるようならやめようと思ったが、そんな素振りもなかった。
 この子は本当に自然界で生きていけているのだろうか。プクプク獣やノンビリラッコと同等か、それ以上の警戒心の薄さだ。心配になってくる。食堂に連れて行き取り敢えず何か飲ませるべきかと水を差し出せば、何も疑うことなく飲んだ挙句、飲み終えたと思ったら腹を晒して撫でろと要求してくる姿は、無防備にも程がある。俺の心配をよそに、猫は俺の言葉に何やら返事をしている。よく喋る子だ。猫ってのは、このくらいよく喋るのだろうか。
 結局誰が持ち込んだ子なのかを確認するのは一旦後にして、仕事に取り掛かることにした。医務室に預けるのも手かと思ったが、開けた場所にこの子を置いておくのは好き勝手にどこかへ出かけて行き、そのまま行方がわからなりそうだからやめておいた。手元に置いておくほうが余程安心できる。
 ソファにいるように伝えたはずの猫は、早々に俺の言ったことを無視して机まで登ってきた。もちろん、猫に言葉が完璧に通じるとも俺の指示通りに動いてくれるとも思わないが、この子はやけに聞き分けが良い気がしたからもしかしたら、と思ったのだ。まあ、そんなことはなかったのだが。
 仕事の邪魔をするのかと思って構ってやれないことを伝えると、やはり言葉が分かっているかのように答えてくる。よく分からない子だ。
 俺の指示が伝わったのか、猫は机の上で大人しくしている。俺のペンの動きを見たり、隅に寄せた紙の行方を見ていたり、猫の足元にある書類を見ていたりする。猫が文字を読めるとは思わないが、まるでしっかりと内容を把握しているかのような真剣さに、ここにはいない人のことを思い出す。そう言えば、今日はまだ彼女を見ていない。
 視線を書類に落としている猫の頭頂部を見る。書類にばかり目を向けている姿が彼女を彷彿とさせる。俺の指示の内容と書類に書かれている内容を照らし合わせながら相槌を打つ彼女は、俺がどんな顔でその姿を見ているのか知らないだろう。
 時間を確認する。いつもなら彼女が定期報告にやってくる時間のはずだが、執務室の扉が叩かれる様子はない。今日は休暇だっただろうか。いいや、記憶にない。ならば急な休みか、単に遅れているだけなのか。
 じっくりと機が訪れるのを待つのも嫌いではないが、たまには自分から積極的に動くのも悪くはないだろう。いつもわざわざ来てもらっているのが申し訳なくなった、なんて言えば彼女はきっと納得する。彼女は仕事以外の細かいところは無頓着な方だから。彼女なら、この猫のことも気にいるだろう。どこか似た空気のある者同士、俺よりも仲良くなる可能性がある。俺を放って仲良くなられたその時は、俺はどちらに嫉妬するのだろうか。それを確かめるのも、悪くはないだろう。
 猫を抱えて執務室を出て、要塞内を歩いてまわる。探している人物はどこにもいない。楽観視していたが、状況は俺が思っているよりも悪いのかもしれない。彼女の持ち場に行き他の看守たちにも確認したが、今日は姿を見ていないという。ならば体調を崩して医務室にいるのかと思ったが、居るのはシグウィン看護師長だけだった。看護師長は俺の腕の中にいる猫に興味津々だ。水の下ではまず見ない生き物だから、当然だろう。
 
「あのね、公爵」
「どうした?」
「あなたの探している子はね、多分その猫なのよ」
「は?」
 
 探し人の名を出したところ、看護師長からあり得ない言葉が飛び出た。猫が、探している彼女であると。そんなはずはないだろう。人間が猫になるはずはない。だが、人間と異なる視界を持つメリュジーヌだからこそ分かる真実なのかもしれない。
 
「こうなっちゃった原因は分からないけれど、ウチの目には間違いなく、あの子と同じものがその猫にも見えているの。その子、やけに人の言葉を理解していたりしない?」
「心当たりならあるが……」
「やっぱり! 猫になって人の言葉を喋れないから仕方がないかもしれないけれど、きっとあの子で間違いないわ!」
「本当にそうなのか?」
「あら、疑うの?」
「まさか。看護師長の言うことを疑ったりなんてしないさ。だが、信じ難いと思うのも分かってくれるだろう?」
「うーん、あれだけ熱心に探していた人が自分の腕の中にずっといて、しかも寝ちゃってるのが拍子抜けってことかしら」
 
 その通りだ。心配になって要塞内を歩き回るなんて、しかもその行動に移すために自分の中で言い訳まで考えていたんだ。彼女でもあるこの猫は、俺が心配して歩き回る姿を一番の特等席であくびをしたり毛繕いをしたり、俺にちょっかいをかけて見ていたわけだ。一体どんな気持ちで猫の状態で俺と会話をしていたのか。どんな気持ちで俺の腕の中で抱かれていたのか。しっかりと聞き出さなくては気が済まない。
 
「探していた人は見つかったんだ。元に戻るのをじっくりと待つことにするよ」
「元に戻るのにそんなに時間はかからないと思うのよ。だから、安心してね」
「ありがとう、看護師長」
「あ! それとね、首輪をつけるのならウチは赤色がいいと思うわ!」
 
 なるほど、赤色か。ならば、俺の身につけているものと同じ赤色にしよう。きっと人間の彼女にも似合うはずだ。勿論、それ以外を望むのならそれを与えてやろう。

 執務室に戻り、俺の膝の上で呑気に眠る彼女を見る。彼女が元に戻ったら、まずは謝罪をすべきだろう。不可抗力とは言え性別を確認してしまったのは人間の意識を持つのであれば辱められたようなものであったに違いない。それを理由にするだけで付け入る隙はいくらでもある。猫は十分に堪能した。次は人である彼女を、出来ることなら一生愛でさせてほしい。

首輪の話
猫になった子と公爵の話

※ネームレス
2904053233
2023年12月13日 12:11
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