――李岳による黄巾軍殲滅から一ヶ月後、徐州は広陵にて。
李典は一人工房で自作の
義手を器用に動かしながらあーだこーだとこねくり回す。李典以外には用途さえわからない工具や材料をあれこれ繋ぎ合わせたり組み込んだりして、一人ムフムフと笑う。傍から見れば不審者に他ならない。
そしてちょうどその『不審者』を咎めるように背後から近づく一つの影。
「わっ!」
「ギニャー!」
猫のような反射神経の李典。釘に破片にと手にしていたもの全部を放り投げて弾けるように飛び上がると、左右それぞれに束ねた髪を逆立てて威嚇の姿勢。それを見てクスクスと笑う眼鏡におさげの少女。
「な、な、な、なんやと思ったやんかびっくりさせんとって!」
「あははー、ごめんなのー」
笑いながらぺろりと舌を出す少女の姓名は于禁、字は文則。曹操軍において三羽烏と言えば楽進、李典、そしてこの于禁を指す。流行り廃りに敏感な乙女で、身につけるものには一つ一つにこだわった意匠が施されているが、曹操軍においては前線指揮官と同時に新兵教官も務めており、その厳しさは他の追随を許さない。虎豹騎はもとより各将に配属される兵もまずは于禁によって洗礼を受けることが曹操軍の習いとなっていた。
「あーもう心臓に悪いやん! ほんま堪忍して!」
「ごめんなの〜。で? で? 今は何を作ってたのかなぁって」
「……教えなあかんか?」
「だって沙和、知りたいんだもん」
ぶー、と頬をふくらませる于禁。
「ねー、絶対誰にも言わないから!」
「その台詞言うて、ほんまに誰にも言わへんかった人、おると思う? めちゃ墓穴掘りそうやん」
「でも墓穴掘るの好きなんでしょ?」
「そう! 墓穴掘っても掘り続け、突き抜けたならウチの勝ち! ウチを誰やと思うとる! 天下の墓穴掘り、李曼成や! ……ってなに言わすねん! やめてくれるか!?」
ほんまにもうすぐ調子乗らせるねんから、とブツブツこぼしながら作業に戻ろうとする李典。本当にすぐ調子に乗る方が悪いと思うが口には出さない于禁。そして黙ったまま散らばった部品を集めながら再度組み付け始める李典の手元を見続ける。
先に痺れを切らしたのは李典であった。
「……このくだり終わってもまだ帰らんっちゅーことは、なかなか本気ってことなん? 沙和」
「うん!」
「せやけどこれ、大将に極秘でやれって厳命受けてる仕事やねんで」
「秘密は守れるよ〜」
「……はぁ〜。もうほんましゃあないなぁ」
渋々
于禁が手渡されたのは一見するとそれは弩。ただし細工も仕掛けも通常のものとは相当異なるように思えた。
「……これ?」
「んにゃ、李岳軍がつこてた新兵器やって。貸してみ」
そう言うと李典は于禁から弩を取り上げると壁に向かって引っ掛けを指で引いた。二発目、三発目と矢は連続して射出された。連射式! 于禁はごくりと息を飲んだ。
「すごいやろ? 敵ながらあっぱれ言うやつや。まぁ今は同盟中らしいけど」
「れ、連射なんてどうやって」
「説明せえゆうたら難しいねんけど、一発目飛びだした時の力を巻き戻す時にも利用しとって、ほら、ここバネあるやろ、ここが矢の尻を噛んでからカチンとはめ込むようになってるねん。しかも竹や木ちごぉて鉄製や、確かに金属でこの形の方がよぉけ力出るわ。いやー、ようできとるわ」
「そうなんだー、李岳がこれを」
于禁の声がひどく不穏な響きであることに李典はなぜか気づいた。
「まぁ対袁紹戦向けの兵器っちゅー感じで作ったんやろな」
「違うよ真桜ちゃん。袁紹軍なんて、あんなの所詮、黄色い服着て喜んでる豚さん共に過ぎないの」
内心ぞっとする李典。いつの間にやら于禁は笑顔のまま最前線にいるかのような殺気を放っている。
「この武器は私たちを殺すためのものなの。私や、真桜ちゃんや、華琳さまを殺すために作った兵器」
「ま、まぁそうなんやろうけど……」
「袁紹軍なんて敵じゃない。本当の敵は一人だけ。一人だけなの……季衣ちゃんの敵を討つのは私たち」
――曹操軍の虎。そんな風にあだ名された少女がいた。
姓は許、名は褚。真名は季衣。
反董卓連合軍と董卓軍との戦の最終盤で曹操を守るために孤軍奮闘し、任務を完遂した後に死んだ。
于禁は彼女のことをどうしても忘れることが出来ない。
「流琉ちゃんはもう恨んでないような顔してるけど……沙和は全然納得なんていってないもん。李岳を斬るのは私。季衣ちゃんを奪った洛陽や漢帝国なんて、まるでそびえ立つクソなの」
誰か助けてくれ、と李典は脂汗を浮かべた笑顔のまま願う。この于禁を相手にするには夏侯惇でさえ荷が重いだろう。
「真桜ちゃん、華琳さまからはこの新兵器を曹操軍でも使えるように、って命令が届いてるんだよね」
「あ、ああ……うん、せやで。実は他にも色々あるねんけど」
于禁の迫力が凄まじく、李典は聞かれてもいないというのに他にも機密を話した。李岳軍はさらに騎馬隊の強化のために鞍にも改造を施しており、それを鐙と名付けたという。だが于禁はそちらには興味を示さなかった。あくまで連弩にのみ興味……いや、執着を見せている。
「これ、私の部隊全員に装備させたいなぁ」
「え? うーん、華琳様からは確かに修理、分析して再現せぇ! って命令届いてるけども」
「完成したら私の部隊に回してほしいの〜」
于禁は笑顔だったが否と言わせぬ迫力があった。眼鏡の奥の目は鋭利な光を放っている。
「自分の作った武器で殺されるなら、李岳さんだって本望だと思うの」
「そ、それは」
「よろしくなの〜」
さ、今日も訓練訓練――そう行って于禁は兵のもとたちに戻っていった。じっくりかわいがってやるの〜、泣いたり笑ったり出来なくしてやるの〜、という声が聞こえてくる。
「……なんちゅうド迫力やねん」
「そうだな。私も冷や汗をかいた」
急に後ろから声をかけられ、李典は立て続けに肝を冷やして飛び
「凪! もうほんま誰も彼も、なんでそないにウチを驚かすん!? 殺す気か!?」
なんて日や! と立ち上がって絶叫する李典。本当に勘弁してほしい。
「ていうかいつの間におったん!」
「……流琉の名前が聞こえたところから」
「声かけぇや!」
「機を見失ってな」
いや違う、と李典は思う。凄まじいド迫力を放っていた于禁を避けたのだ。楽進はこう見えて平然とそういうことをする時がある。
だがきっとそれも、責任感からだろうということは李典にも理解できた。楽進は于禁が去っていった方を見つめながら言った。
「……沙和は人一倍仲間思いだ。季衣のことを吹っ切るのは難しいんだろうな」
「せやかて、ウチにドギツイ殺気をぶつけんでもええやないの」
「それは全くその通りだ」
「……ま、しゃあないわな。四年経っても忘れられへんもんは忘れられへん」
「そうだな」
ようやく面影が薄まり、思い返しては涙に濡れるようなこともなくなった。李典でさえそうなのだ。典韋ならもっと苦しんだろう。そして于禁はそれ以上に囚われている。こればかりは親友だとて安易に助言できるものでもない。
「ちょっち、心配やな」
「ああ。この後李岳軍と決戦となると余計な」
楽進はもう少し踏み込んだ心配をしているようだった。
「……暴走してまうんちゃうかって?」
「そこまでは言わないが、退却の銅鑼を聞き逃してしまうとかな。可能性は色々ある」
戦巧者の李岳。全土最強の騎馬隊を擁し、匈奴の連中さえ手足のように動かすという。だとて歩兵が劣るかというと華雄を頂点とした重装歩兵も強力無比だ。李典でさえ現時点で勝機があるのかどうかすらわからない。いずれにしろ紙一重の勝負になる。その時に将が感情で判断を誤らせれば全軍の危機を呼び込むことになる。楽進の懸念は尤もだった。
「それとなく、凪から華琳さまに言うといてもろた方がええかもな」
「そういうのは苦手なんだが……頑張ってみる。それより、例の新兵器の方はどうなんだ? 言っておくがその連弩のことじゃないぞ」
「指摘されたところはだいぶ直せたはず。もうちょいってとこやな」
対李岳軍用の新兵器の運用実験と習熟がこの部隊の任務だった。そしてそれを孫権軍と連携して使えるようになるのが最終目標である。
周囲には洛陽からの諜報員の気配もあり、徹底的に隠匿しての実験が続いているため進捗はかんばしくないのが正直なところだ。だが諸将の懸命な努力と李典の開発力によってようやく形にはなってきた、というのが楽進の所感である。
曹操が指示し、荀彧と郭嘉が起案し、李典が絵図面を描いて楽進と于禁が習熟を繰り返す。完成すれば夏侯惇、夏侯淵以下全軍に行き渡るであろう。まさに曹操軍全体、いや孫権軍も合わせれば対李岳の戦に従軍する全員で作り上げる作戦だった。
これほどの用意をして勝てないとなれば、一体誰があの李岳を打ち倒せるというのか――楽進が去った後、李典は再び作業に戻りながら一人思う。技術とは人の試行錯誤の歴史だ。この世すべてのものには経緯がある。しかし手にしたこの弩――連弩にはいくつもの点でそれをすっ飛ばしたような飛躍が見受けられた。まるで完成形を知っていてそこから形作ったような、この先どうなるかを知った上で知識を引用しているかのような……
「なんつって」
李典は今度こそ雑念を払って作業に戻った。
そんな者がいるとすれば、もはやそれは人ではない。神か悪魔だ。考えるだけ無駄なのである。
――官渡城にて。
李岳、曹操は軍を一にしてこの城に入城することになった。それから一月が経っている。
李岳が黄巾軍を討滅した直後、浮き上がった問題は二つあった。一つはもちろん身軽になった袁紹軍本隊の機動である。もう一つは補給の問題であった。
当初は野戦陣に固執していた李岳であったが、兵糧の欠乏がその選択を奪った。今は補給の安定を第一として拠点を一つどころに定めた。
結果として、官渡城以北、以東は広く袁紹軍に支配されることになった。いくら騎馬隊であっても一個の城に拠点を定める以上、行動範囲は狭まり自由度は下がる。騎馬隊の有効性を半分殺されたようなものだ。
袁紹はその点、優位に移動を展開し李岳曹操連合軍を追い詰めることになった。大兵力の利点を軍略に
「苦しいわね」
「いや本当に。思っていたより袁紹は手強い」
茶を飲みながら曹操の問いに李岳が答えた。官渡城の欄干で軍衣のまま話すのが日課であった。
「んなぁ~にが『思っていたより袁紹は手強い』よ! 呑気に気取ってる前になんとか打開策を考えなさいよ!」
「荀文若殿は何か腹案がおありで?」
「っさいわね仲達! あんたこそ大した考えもないくせに黙ってなさい!」
案の定、曹操軍の軍師である荀彧と李岳軍軍師の司馬懿は馬が合わなかった。この一月、こうして口喧嘩にならない日はない。今もまた短躯の荀彧と長躯の司馬懿がお互い器用な姿勢で睨み合っている。
両軍相まみえ、この城に駐屯して一月。決して大きい城とは言えない官渡城の中で過ごす以上、接触は避けがたいものがある。しかし厳しく軍規が守られている曹操軍、決して李岳軍と軽率な揉め事を起こすようなことはなかった。ただし袁紹軍から同士討ちを仕掛けるような小細工が仕掛けられている可能性も低くはない。最も警戒するのはまさにそれだった。
「二人も毎度飽きないわね。桂花、司馬懿も。貴女たちのその醜態を見れば麗羽は笑うわよ」
「……お見苦しいところを。失礼しました冬至様、曹操殿」
「堅苦しいわね司馬懿。そろそろ真名を交換しましょうか?」
「これにお答えするのは五度目ですが、しません」
途端、李岳は曹操に詰め寄った。
「曹操さん、あのですね、毎回堂々と引き抜こうとするのやめてくれませんか? そしてもう一個気づいたけど、このやり取り俺の目の前では四回目だから! 知らないところでもう一回あったわけ?」
「実は昨日……湯殿で……くっ」
恥ずかしげに頬を染める司馬懿に李岳はすわ何事かと声を荒げる。
「如月! 大丈夫!? 変なことされてないか!」
「あのねぇ、私をなんだと思ってるの。そういう行為は必ず合意の元で行うわ」
「それは当たり前のことなんだけど、聞いているのはそういうことじゃない!」
「あらそう? だったらもう少し詳しく言うけれど、昨日は手を握って肩を抱き、首筋に唇を這わせただけよ」
「おい! ちょ、本当お前な! うちの子に手ぇ出すな!」
――本心はどうあれ、指揮官同士がわだかまりを見せないように接することが同士討ちを防ぐ最も有効な対策の一つである。何より表面的な打開策を何一つ講じることが出来ないまま、袁紹軍の展開を指をくわえて見ている他ない現状、精神的負担を軽減することは不可欠なことでもある。
実際には李岳、曹操ともに焦燥に駆られていた。袁紹軍に決定的な一撃を加える必要がある、それも極めて短期的な作戦のうちに、である。陳宮から送られてくる自らの血を捧げるような補給もか細いもので、一日の食事量もだんだんと目減りしている。都合のいい話ではあるかもしれないが、袁紹軍の弱点を突いて大打撃を与えなくてはならないのだった。
指揮官にあるまじき楽観的な夢想ではあるが、李岳も曹操も独自にその糸口を攻略せんと探っており――そして数日後、実を結ぶこととなった。
李岳麾下、謀略を担っている張燕、その副頭目である廖化が一人の人物を連れてきたのである。
深夜、李岳と曹操の二人だけでその人物と面会した。
名は許攸。
「これは許攸殿、我が招きに応じて参陣頂き感謝の言葉もありません」
「この許子遠、李岳将軍の志に感じ入り馳せ参じた次第、感謝の言葉など勿体のうございます」
許攸は慇懃無礼に李岳に挨拶すると、続いて曹操に向き直った。
「曹操殿もお久しゅうございますな。洛陽以来でありますな」
「そうね。反董卓連合軍で顔を見なかったのは、冀州の監督を任されていたからだったかしら?」
「ええまぁそのようなものです。袁紹殿は前へ前へのお方、私のようなものが背後を守り、見落としている点を指摘して差し上げなければならないのですよ。最前線で血を流すのも結構ですが、背骨を支えるというのもそれに劣らぬ労苦でありますゆえ」
李岳でさえ、ペラペラよく回る舌だな、と思うほど。馴れ馴れしく話しかけられている曹操などはそろそろ我慢の限界だろう、と察した。
(おー、怒ってる怒ってる。怖い怖い)
なんとか笑顔を保っているだけすごい。曹孟徳最大の忍耐と言えるかもしれない。
未だ話し続けようとする許攸を遮ったのは李岳の咳払いだった。無駄話に付き合うために廖化に危険な橋を渡らせたわけではない。
「……許攸殿。そろそろ本題の方に」
「おお、そうでしたな李岳将軍。この許子遠、今この時より御身のために働きたく参った次第でございます」
「感謝の言葉もありません。しかして許攸殿、袁紹軍打破の重要な情報をお持ちであると伺いましたが」
「そうですなぁ。さてさて」
もったいぶる許攸の態度に今度は李岳の忍耐が試される番だった。見なくてもわかる、曹操は笑いを噛み殺しているだろう。
そもそも許攸は一月前から帰順の意をほのめかし続けていた。それをダラダラと遅延させて今に至る。きっと李岳軍の窮乏がより極まる時機を見計らっていたのだろう。自分を身売りするのに最も高値が付く時を待っていたのだ。だがそれは李岳軍、曹操軍の苦しみと流した血の量によって贖われた時間である。果たしてそれを買い戻すだけの価値がこの男にあるかどうか――
「李岳将軍、気を揉まれるご心中、この許子遠察して余りありまする。しかしながら己もまた袁紹軍で培ってきたすべてのものをなげうってやって来たのです。それ相応の対価というものを所望したとて仁義にもとりますまい」
「それは無論のことです。私にできる範囲であれば何なりと」
「そうですな、まずは冀州でありましょう。冀州牧の席を確約頂きたい」
「……陛下に進言いたしましょう。しかしまずは、とおっしゃいましたが」
「無論、袁紹打倒の暁にはこの功績、冀州一州では到底まかなえるものではありません! 次期丞相として洛陽に招聘して頂きたい!」
笑うな、と李岳は曹操を睨みつけた。許攸に見えないように巧妙に立ち位置を変えた後に曹操は肩を震わせているのだ。
(わざわざ見えるように……! 笑いが移るだろ!)
右手で脇腹をつねりあげながら、李岳は自然な笑みを再度浮かべた。
「無論、当然のことです。進言いたします。ご不安であれば一筆したためましょう」
「あいや! さすが天下の李岳将軍です! それではぜひご一筆……」
李岳は頭がどうにかなりそうになるのをこらえながら、許攸の推挙の一文を書いた。それを抱きしめながらはしゃぐ許攸と、さすがに笑いを通り越して殺気を放つ曹操。一体なんの冗談だと思う他ない。
「許攸殿! それではそろそろ秘策とやらをお伺いしたい。当然ですが、それが虚偽だった場合お約束はすべて反故です」
「わはは! そうですな。いや心配召されるな……申し上げましょう。お伝えすることは袁紹軍の兵糧の集積地であります。なんと驚かれませぬよう。そもそも兵糧を一つどころに集めるよう進言したのはこの許攸なのです! そして今まさにその場所をお伝えせんとしている。この深謀遠慮、まさに神算鬼謀としか言いようがありませぬ!」
「はい。で、場所は?」
「酸棗です!」
曹操の目に妖しい光が走る。李岳はしばし瞑目した。
(一度は放棄したはずの史実に沿った『官渡の戦い』がまたこうして戻ってきた……しかし……)
これを吉と取るか凶と取るか、李岳は判断に逡巡した。自分の知る歴史ととうに流れが変わっている以上、上辺だけ似通っているからといって安易に重ね合わせるのは危険。だが同時に全く関連付けないというのも失策になる。
そして史実と異なる一点――許攸の告げたる地名が酸棗だったこと。史実であれば、烏巣なのである!
うきうきと手を揉む許攸を素通りして、李岳の目は曹操に注がれていた。当然、李岳も曹操も袁紹の兵糧を狙っていた。大軍に対しては補給を断つことが軍略の王道だからである。喉から手がでるほど欲していた情報がこうして難なく手に入ること。そこに疑念を抱かないという方が無理がある。
しかしそれでも打つべき手である。だが幸い、今伸ばせる手は二本ある――曹操は全く一分の齟齬もなく、李岳の意を汲んだ。
「我が曹操軍は別行動を取る」
許攸がこれでもかというようなしかめっ面で振り返った。
「曹操殿、この許攸の進言を疑われるか!」
「あまりにも危険すぎる。袁紹の罠だった場合、部隊は全滅することになる」
「なんという惰弱な!」
「言うことは以上よ」
退室していく曹操の背中に、許攸はあらん限りの罵声を浴びせた。李岳はその言葉を一つたりとも耳に入れることなく、曹操の背中を黙って見送った。
「許攸殿、そこまでに」
「しかし李岳将軍!」
「私は貴殿を信じます。これより我が軍主力で討って出ます。酸棗、見事攻略いたしましょう」
「さすが李岳将軍!」
「つきましては許攸殿、念の為随軍して頂きたい。なに、剣を振れとは申しません。私の隣で勝利の栄誉を共に享受して頂きたいのです!」
「もちろんでございますぞ! 否やがどこにありましょう! さあさあ、天下の命運を決しましょうぞ。しかしやはり曹操という女、将の器ではございませんなぁ。それに比べて李岳様の果断なこと! やはり貴方様こそ我が盟友とすべきお方でした……」
「そうですね。曹操は将ではない」
将を統べる将。言うならば王者だろう。しかしその言葉を李岳は飲み込んだ。語る相手は選びたい。
「許攸殿。貴方のこの進言が正しく、酸棗急襲が成った時は先程お約束した以上の褒美をお渡しすることを約束します。そして私を真名で呼ぶことを許しましょう」
許攸は感激に震えた。それは真の意味で李岳の盟友になることを意味したからだ。陣営の中枢に食い込むことになる、そしていずれ帝に面会する機会もあろう。丞相の地位が夢ではなくなる!
「……なんとなんと、それは。いやしかしその褒美に見合った土産であることはこの許攸、身命を賭して保証致しますぞ!」
「軍を整えますのでしばらくお待ちあれ」
お早く、という声を背中で聞きながら李岳は歩き出した。鬱憤と闘志によって肺の中で熱せられた息を全開で吐き出す。
城内、諸将のいる居室の前を素通りしながら言葉を発した。誰もが通路の両脇に立ったまま李岳を待っていた。
李岳を先頭に、将が続いて歩き出す。
「曹操とは決裂した。曹操軍は我が軍とは独立して行動する。我々はこれより西から回って酸棗を襲撃するぞ。恋、霞、桂様、星、それに翠! ただちに出陣の用意を。この夜が勝負だ。騎馬隊には全力で奮戦して頂く」
歩を止める間もなく早口にまくしたてる李岳。切迫感が陣内に満ちる。名を呼ばれた者から李岳の隣に付いた。横並びに進む将の威容は軍内の士気を一気に高めた。
「珠悠! 如月!」
「はっ」
「ここに」
「酸棗に罠が張られている、ということを前提に動く。策を立てろ、出撃まで半刻もないぞ」
「騎馬隊に同行の許可を」
徐庶が申し出た。
「許す」
「私は曹操軍に同行したく」
司馬懿もまた李岳の考えるところと意を同じくしていた。酸棗が罠だった場合、決定機を握るのは曹操である。
「曹操には一言、烏巣、と」
「かしこまりました」
聡明な司馬懿、内心疑念もあったろうが押し殺したようである。
「廖化殿!」
「出番ですかな?」
「如月と同じく曹操軍に張り付いて頂きたい。両軍の橋渡しです。状況の全てを最短で相互に届けて欲しい。我々はあくまで曹操軍と決裂したというのが前提だ。兵は使えない」
「任されよ。しかし罠だった場合、厳しい戦いになりますが? 死に損ないを連れて行った方が良いのでは?」
「おいおい誰が死に損ないだ、無礼なやつめ」
廖化にからかわれ、列を抜いて現れたのは張郃である。
「お館、まさかまたこの俺を輜重の運び手として使うつもりではありますまいな?」
「今回は廖化殿の言う通り、縁起がいいからお守り代わりに連れて行くとするよ、吉鷹」
「みんな揃って減らず口だな全く」
進みゆく全員が大口を開けて笑った。
「出撃は以上だ。が、紫苑」
「なんなりと」
廖化やら張郃やらを押しのけて、黄忠は李岳の側にピタリとついた。
「出撃後、官渡城の総指揮を任せる。騎馬隊は奇襲である。つまり隠密行動だ、敵に本隊が抜けたことを気取られぬように気を配ってくれ」
「御意のままに」
「騎馬隊の襲撃が成功すれば朝までに連絡が来る。その時は総攻めだ。攻めどころは伝令を出す。華雄殿以下重装歩兵、匈奴の騎馬隊も含めて全て隷下に置け。出し惜しみするな。予備戦力はいらない。全軍で突っ込んでこい」
「きっと誰よりも早くお迎えに上がりますわ、ご主人様」
黄忠が答えた時、計ったように一同は場外に出た。毎晩そうであったように、いつでも飛び出せるように揃った騎馬隊が李岳を迎える。奮い立つ、血潮。今ばかりは失われる敵兵の命に思いを馳せることはない。李岳は爪が食い込むほどに強く拳を握りながら声を上げた。
「総員出撃! だらだら長引かせるつもりはない、今夜一撃で決めるぞ!」
応、と響く声。そして李岳は繰り返した。これまで何度も繰り返した、死ぬな、という言葉を。
こう、あれよ。指揮官が先頭を進んで、幕僚がその後に続いてザッザッと歩きながら同時に作戦会議するやつ。
ああいうの大好き侍なんですよ。やってみたかったやつやりました。
次回、対袁紹戦決着。