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12月13日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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それぞれの3.11

縁の実りを待つ生き方

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写真:梅の手入れをする中村さん=周防大島町 拡大梅の手入れをする中村さん=周防大島町

写真:バンド時代の中村さん=2011年7月、村井香さん撮影 拡大バンド時代の中村さん=2011年7月、村井香さん撮影

  【栗林史子】あの日、中村明珍(みょうちん)さん(37)は、朝まで続いた新作のレコーディング作業を終え、税務署で確定申告中だった。大きな揺れに襲われた。電車もバスもストップし、都内には人があふれていた。

  何とか帰宅してテレビをつけると、津波の映像が流れていた。それでも、考えていたのは次のレコーディングのことだ。チン中村。過激な演奏スタイルで知られ、人気を集めていたパンクバンド「銀杏(ぎんなん)BOYZ」のギタリストだった。

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  埼玉県出身。中学からギターを始め、明治大学卒業後の2003年、銀杏BOYZに加入した。4人のメンバーは全国各地でライブを重ね、曲は映画やCMにも使われた。だが、当時のことを「ブラックワールドにいた」と表現する。

  連日朝まで及ぶレコーディングでは、メンバーに「これできる?」と聞かれると、「できる」としか言えないような雰囲気だった。一方、「ギターならもっとわがままになれ。表現したいことがあるだろ」と怒られる。でも、何を提案しても正解はない。精神的に追い詰められ、体調を崩すメンバーもいた。

  震災後の11年夏には、東北を回るライブツアーを敢行。被災地でのボランティアにも参加した。一方、妻は、福島第一原子力発電所事故による放射能の影響を心配し、当時2歳だった娘と共に祖母の住む周防大島町に移住した。

  でも、「毎日ライブの準備やレコーディングで追い詰められ、震災のことや、外の社会のことをあまり考えられなかった」と話す。「今思えば、そもそも、そんな精神状態になっちゃいけないんです」

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  限界だった。12年夏、バンドを辞め、家族のいる周防大島への移住を決めた。

  島に来てからは、「縁」が生き方を決めた。妻から「農家やれば? 畑はあるよ」と言われ、農業に乗り出した。オリーブを育て始めたのも、たまたま出会った香川県の小豆島のオリーブ生産者から苗をわけてもらったからだ。

  14年には、島の仲間と「島のむらマルシェ」を企画。自然環境に配慮した商品を作る若手生産者と安心安全な食べ物を購入したい消費者が集う試みは、好評を博し、なくてはならないイベントに育っている。

  昨年は、朝日新聞山口版の記事が縁となり、思想家の内田樹氏と知り合い、島での講演会が実現。「これは文章に残すべきだ」と仲間たちと話していたら、編集者ともめぐりあい、雑誌「ちゃぶ台」の発刊につながった。

  「以前は、何かやる時は『自分で何とかしよう』と思っていたし、バンドでも自分の意志を求められていた。でも、変に自分の意志を入れるより、縁を待つ方が、正解が出るのが早いんです」と中村さん。

  「震災前は、みんな原発は安全だと思っていたでしょう。今の自分の価値観が、正しいかどうかはわからない。だから、すぐに判断せず、『答え合わせ』を待てるようになった」。縁の実りを待つ――新しい生き方を、あの日と、その後の島が教えてくれた。

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