中村保夫 『神保町バブル戦争』 第十回「20年越しの決算書」
東京キララ社代表の中村保夫が綴る、バブル期の神保町を襲った「侵略者」たちの実態。第十回を迎えたこの連載が、いよいよ現実世界を動かし始めた。この四月、中村の元に20年越しにヨーマツの決算書が送られてきたのだ。
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あまりにも沢山のことが起こり過ぎて、あっという間に前回の連載から2ヶ月半の月日が経ってしまった。5月に入ってからは「チカーノになった日本人」ことKEIさんの「ONENESS CARETAKER」というyoutubeチャンネルの反響が凄まじく、ネット書店が常に品切れの状態だということもあって、連日、社員全員で朝から深夜まで直送に追われる毎日だった。
話は変わるが、コロナ禍の非常事態が長らく続く日々に心が病みそうな人は、凶悪犯の集まるアメリカのレベル5のプリズンをサバイブしてきたKEIさんの生き方を参考にしてほしい。あまりにも特殊な環境下だが、どんな時でも「生き残ること、人生を楽しむこと」を忘れないKEIさんのメッセージが特効薬になる人も多いだろう。KEIさんがアメリカの極悪刑務所をどう生き抜き、そして楽しんだか、それはぜひ東京キララ社刊『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人 改訂版』を読んでいただきたい。
ただいま話題沸騰! KEI著『アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人 改訂版』
それにしても、この連載の反響は驚くほど大きい。疎遠になっていた方からの励ましのメッセージや、下野順一郎(通称:増尾由太郎)の被害者からの「人生を狂わされた」との連絡をはじめ、多数の連絡をいただいている。本当にありがたい。
下野はそろそろ80歳を迎えるというのに、まだまだ事件屋としての活動はお盛んで、福岡に移住して住民運動の旗を振っているようだ。それ自体は彼の人生で一貫して行ってきた「シノギ」のひとつであり、「まだ懲りないか」と思うだけだが、驚いたのは息子も一緒に活動家として道を歩んでいることだ。
下野には一男一女の子供がいて、都立高校に通う長男は医者を目指していると聞いていた。下野は僕たちに「僕は東大を出たけど、うちの創には東大は無理そうだから医者でも目指してもらうけど、甘ったれた坊ちゃんだから将来が心配だ」というようなことをよく言っていた。これ以上、被害者を増やさないように「他人の不幸を金に変える錬金術師」の世襲だけはやめていただきたい。
そしていよいよ重大な局面が迫って来た。これまでは時系列を整理しながらこの事件を書き綴ってきたが、風雲急を告げる知らせが舞い込んだ。大分編、三一書房編と続く予定だったが、そちらは一時中断し、今回からは現在進行形の闘いを核に、過去の要点を絞りながら進めていく。スリリングな局面が間もなく訪れるので、これからも連載に刮目してほしい。
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幻の「決算書」
連休直前の4月27日、僕の元にレターパックが届く。送り主は母、中村怜子だ。その中身は「定時株主総会招集通知書」と「決算報告書」。本来であれば株主総会は年に一回必ず開催されるものだが、母と下野に私物化された株式会社ヨーマツでは、「役員会」も含め、これまで都合のいい時に都合のいい人だけを集めて行われてきた。僕が最後に出席したのは、もう20年以上前になる。母と下野の乗っ取りコンビは会社と家族、合法と違法(限りなく黒に近いグレーゾーンと言うべきか)を都合よく使い分けてきた。
今回、最も驚いたのは「決算報告書」が送られてきたことである。これまで僕は実家を継ぐために大分のデベロッパーで9年間修行し、以後も十数年に渡り自らの仕事(かなりの激務)をしながら、不動産の素人軍団である実家の仕事の面倒を同時に見続けてきた。何度も言うが、それ自体は後継としての僕の責務なのであるが、ただ一度たりも「決算書」を見せてもらうことは叶わなかった。
最初の請求から20年以上かかって届いた決算報告書(ただし最新1年分のみ)
少なくとも法的に実家である株式会社ヨーマツの「役員」であり、「株主」である僕には、毎年、決算書を開示する義務がヨーマツにはある。平成10年の秋に大分での修行から東京へ戻って来た僕は、母に「これから家の仕事をするにあたり、決算書を見せてほしい」と言ったところ、その直後から母は不思議なことを言い出した。
「こんな不動産賃貸業なんて年寄り仕事なんだから、お前がやることはない」
母や下野だけでなく、下野が送り込んできたヨーマツの社員全員から、「要松さんの直系の孫として、実家を継ぐために大分に不動産業の修行に行って来なさい」と言われ続け、同じ内容を手紙などでも執拗に説得されてきた。1年の約束だったはずが9年もの間、僕はその任務を勤め上げた。
自分で言うのもなんだが、ずば抜けた営業成績を残し、異例の出世を果たし、宅建などの資格を取得して僕は帰還した。賃貸営業からリースマンション、ファミリーマンション、リゾート物件の販売などを手がけてきたが、部署が変わろうとも、入社2ヶ月目から退社するまで営業成績はずっと毎月部内トップの座を守り続けた。それだけでなく、入社2年もせずに賃貸の部署からリースマンション販売の部署に抜擢された僕は、元々10人以上いた部署にも関わらず、その1〜2年後にはマンションの企画から広告、販売、引き渡し、オーナーの確定申告まですべて「お前一人でできるだろう」と、本当に僕一人に任されるようになった。
僕が所属した「司建設」のグループ企業である不動産会社「つかさ興産」は全社員30人弱だったが、会社の年商の大半は僕が稼いでいた。入社3年目くらいから、役員会をはじめとするほとんどの会議にも参加させられるようになり、営業担当の役員の代理のような存在にまでなっていた。
僕を一番可愛がってくれた佐藤副社長は、そんな僕の活躍を母や下野に報告していて、その頃は母も大変喜んでいたようだ。早く東京に戻りたい気持ちは強かったが、大分で結婚したこともあって、結局、9年間も居続けることとなった。しかし、そのおかげでファミリーマンションの分譲やリゾート物件の販売まで経験することができた。それからすると確かに実家の不動産賃貸業は僕からするとあまりにも簡単で退屈な業務には違いない。
就職の半年前(1989年2月13日)、大分の物件を視察に。右が当時、40代半ばの下野順一郎。
しかし、なんのための修行だったのだろうか。母は「私が70までは社長をやるから、お前はもっと自分を活かせる仕事をしなさい」と言うようになり、僕からの決算書の開示をとぼけ始めた。
しばらくして、母から「三一書房で増尾先生のお手伝いをする気はないか?」と言われた。実家は「雪華社」という戦前から続く出版社も所有していたし、元々、文章を仕事にしたいという気持ちも持っていたことから、僕はそれを引き受けることにした。
母と下野順一郎が出会うきっかけとなった新書「誰も書かなかったケンカのしかた」の版元である左翼系出版社・三一書房では労使紛争が始まっていた。事件屋としての本領を発揮すべく下野は経営者側の黒幕として、盟友・河合弘之弁護士、その部下である青木秀茂弁護士、税理士・滝島勇一というヨーマツに乗り込んだメンバーとまったく同じ顔ぶれを三一書房に引き連れていた。
下野がヨーマツと三一書房に送り込んだ「さくら共同法律事務所」の弁護士
僕の最初の役割は編集担当役員・林さんのボディーガードだった。三一時代の3年間だけでも本が何冊も書けるほどのエピソードがあるが、それはまた追って書きたい。
会社の内容を僕に見せる訳にはいかないのだということを、僕は気づき始めた。だから僕を三一書房に勤務させ、ヨーマツから目を逸らさせたのだ。
それでも僕は決算書の開示を求め続けた。すると今度は下野が「僕が100万円出すから、編集長の中島さんが100万、保夫君が100万出資して有限会社を立ち上げ、三一書房の取次口座を使って出版社をやりなさい」と言い始めた。結果的にこれが東京キララ社の起源となるのだが、これもまたヨーマツから僕を切り離そうとする下野のあからさまな悪巧みなのであった。
僕が東京キララ社を立ち上げた頃、母はいつも「お金がない、お金がない」と言っていたので、僕は「家賃収入から従業員の給料を払ったり、銀行への返済をしたりしても、絶対にそんなはずない」と言うと、驚愕のセリフが返ってきた。
「増尾(由太郎)先生から、会社で利益が出ると税金を持っていかれるから、利益は全部、先生に渡せって言われてるの、『節税』になるからって。その代わり、裏でそのお金を先生から借りたってことで回してもらってるから、その先生への返済が大変なのよ」
どこまでバカなのかと思った。
「そんなの節税じゃなければ脱税でもない。詐欺じゃないか! こんなおかしな話があるものか!」
下野に完全服従するように洗脳されている母を少しは可哀想に思っていたが、ここまで判断能力が欠如していると同情の念も湧かない。
「うるさい! 先生がそう言ってるんだから、節税なんだ!」
これには滝島税理士も犯罪を幇助しているとしか思えない。いくら説明しても聞く耳を持たない。こういった時の母のお決まりのセリフが飛び出した。
「私がどう思おうと、私の勝手でしょーーー!!」
大声をあげて僕を黙らせようとしても無駄だ。僕は「これがおかしいと思わないのか!? いいから会社の経理資料をぜんぶ見せろ!」と母に迫った。
「うるさい! うるさい! 全部、私の財産なんだーーー!!! 誰にもやらないんだーーー!!!」
完全にぶっ壊れていると思った。もうこれ以上、話は通じない。この時、僕は初めて弁護士に相談した。弁護士は「そろそろ乗っ取りの仕上げに入っているんじゃないか」と言った。結局、後継者であり、株主であり、役員である僕が、ヨーマツの経理資料を見ることは未だにできないでいる。
役員会と顧問弁護士の解雇
それからしばらくすると、この連載の第7回に登場した岡部が三一書房で下野の傀儡政権を作ったのだが、その途端に東京キララ社への支払いが滞り始めた。未収金が300万円を超えていた。ある日、僕は母に呼び出された。何かと思っていたら、「保夫も会社が大変じゃない? お前が持っているヨーマツの株を全部買い取ってやる。少し色をつけて600万円でどうだ。キララ社も助かるだろう」と言い始めた。
完全におかしな話になっているじゃないか。間違いなく「経理資料を見せろ」と言われたことで、僕を追い出そうとしている。尋常じゃないほどの不正行為が行われてきたのだろう。下野から一字一句指示されていることとは言え、あまりにも幼稚で見え透いた与太話だ。
「9年間も九州に修行に行って、ここまで家のために尽くしてきた俺を追い出すと言うのか?」
ヨーマツの監査役であり神保町で美容院と着付け教室をやっていた永倉ハツがそこには同席していた。
「保夫君のために言ってるんじゃない。親心よ」
この永倉ハツは、昔から実家の美成社に出入りしていて、祖母と話す時は一緒に母の悪口を言い、母と話す時には祖母の悪口に同調する、僕が子供の時から信用できないと思っている人間だ。お金をくれる側の人間の手先を忠実に演じていた。
このエピソードを見れば、どれほど不正な経理が行われてきたか、誰もが分かるであろう。正直行って、横領をはじめとして様々な悪行が行われてきたことは間違いないと思っている。だからこそ、どうしても僕には見せられないものなのである。
その最たるものは2012年に行われた「役員会」でのこと。それまで「臨時株主総会」などは何度か出席したことがあったが、はじめてかと思われる「役員会」が、下野のパートナーである河合弘之の弁護士事務所「さくら法律事務所」で開催された。長らくヨーマツの顧問弁護士を務めてきた青木秀茂も同席していた。この時のことも書くべきことが沢山あるが、長くなるのでもっとも重要なことだけ書くこととする。
これまで開催された記憶のない「役員会」を前にして、僕は母に「どんな内容を決議するのか?」と聞いていたが、「来れば分かる」と教えてくれなかった。その内容を知らされていなかったのは僕だけで、弟も妹も永倉ハツも、僕以外は全員、内容を知っていた。神保町の本社ビルを売却するというのだ。すでに決議に賛成する旨の書類がご丁寧にも作成されていて、僕は印鑑を押すだけになっていた。
「そこを売ってしまったら、おじいちゃんとおばあちゃんが創業した美成社が跡形もなくなってしまうじゃないか。こんな大事なことをこの場で急に言われて『はいそうですか』なんて言えない」
その汚いやり口に、僕は中村家先祖代々の意見を代表して猛反対した。母は「いくらお前が反対しようと、結論は変わらない」と言い放った。青木弁護士は僕に、「保夫君は何が気にくわないのか?」と訊いた。
「なぜ沢山の物件がある中で神保町の創業の地の物件を売らなければならないのか? そもそも母からは『会社の経営が苦しくて銀行には利息しか払えていない』と聞いているが、いくら借金があるかも聞かされていない」
僕がそう言うと、銀行への借金の残高は1億5000万円程度だと、初めてその額が知らされた。
「その程度の借入額で元金を返済せずに利息しか払っていないのだったら、年間の支払いなんてたかが知れてる。他の物件を売らずに、なぜ神保町を売るのか、その根拠も示されないで何の判断ができるのか。だいたいこれまでに何度見せてほしいと言っても、一度たりとも決算書を見せてもらったことがない。ヨーマツの役員として、株主として、決算書の開示を要求する」
予想外に青木弁護士は驚いた顔をしていた。
「一度もないんですか……?」
母は黙って下を向いていた。
「もちろん保夫君には見る権利がある。どんな書類が見たいのか、文章で送ってくれないか」
青木弁護士は僕に経理書類の開示を約束した。
その直後のことだった、僕が決算報告書や銀行の借入残高などの資料を求めたのだが、その返答が来る前に、青木弁護士はヨーマツの顧問弁護士を電撃解任された。それまで下野がヨーマツに寄生し始めた頃から、25年以上ずっと顧問を務めていたにも関わらず、あっさりと消え、後任は河合弘之弁護士の元から独立していた西川一八弁護士に首がすげ替えられた。
こんなことまでこれまでありながら、今回、突然、なぜ決算書を送ってきたのか。下野や怜子がこの連載を見ているのは間違いない。何しろ、今や「ヨーマツ」でググると、かなり上位にこの連載がヒットするのだから。このタイミングでの役員人事と株券不発行会社への移行、真意はいずこに。乗っ取り行為の最終仕上げ段階に入ったようだが、経済犯罪に詳しい方がいたら、ぜひお知恵を貸して欲しい。
宮崎学の存在
次回は、本件を掘り下げようと思うが、最後に連載開始から「宮崎学はいつ登場するんですか?」という声が相当数寄せられているので、下野と宮崎学のことを書いて終わらせたい。
宮崎学は僕が大分に行った後ぐらいに、父の後見人として現れた。だから実際に僕が会ったことはないと思う。皆さんご存知のグリコ・森永事件の「キツネ目の男」と酷似しているとして重要参考人になった男で、アウトローの世界の住人であり、ベストセラーとなった『突破者』の著者である。
これは下野から聞かされた話である。バブル時に地上げをシノギとしていた宮崎氏がヨーマツに現れたが、下野がうまく丸め込み、月々5万円のはした金であしらったと、下野は武勇伝のように語っていた。
「彼は様々な裏の世界の経験をしてきたから、僕が『その体験を本にしたらどうですか』と言ってあげたんです。それが『突破者』。だから彼が成功したのは僕のおかげなんですよ」
そう言うと下野は、気持ちの良さそうに顔を高揚させていた。
それからしばらくして、三一書房の労使紛争が始まった時、経営側の黒幕が下野で、組合側をバックアップするのが宮崎氏だった。この二人は対立する運命になっているのだろう。
僕は宮崎氏が立ち上げた雑誌「アウトロージャパン」の編集長になる横山さんと、神保町のヨーマツのビルの1階にあった「安」という居酒屋で、元受刑者のノンフィクション作家・安土茂さんなどと一緒によく飲んでいた。僕は三一書房で安土さんの『刑務所特別房 残酷』という本を編集したのだが、安土さんは新人編集者の僕を可愛がってくれて多くの刺激的で面白い出版界の人たちを紹介してくれていた。その場で横山さんから、「中村君、『アウトロージャパン』の副編集長をやってくれないか?」と口説かれ、僕は答えた。
「宮崎さんとはお会いしたことないですが、ずっとすれ違ったり反対する立場にいたりしたので、すごく興味があります。でも、僕は一緒に何かをしてはいけない立場だと思うんです」
今となっては引き受けていたら面白かったかなと思っている。また、下野から一方的に聞いた話だけで宮崎氏を判断してはいけない、という思いもずっと持ち続けている。お会いする機会があったら、宮崎さんから見た下野、そして親父のことについてお伺いしてみたい。下野に対峙すべき立場の人間として、今、もっともお話を聞きたい人物である。
ヨーマツから資金的に締め付けられてサラ金に手を出した父に関する情報を、父の「保佐人」である宮崎(橋村)学氏に求めた質問状
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