再魔術化するテクスト──カルトとスピリチュアルの時代の文化批評
第一回 世界は再魔術化しつつあるのか? 倉数茂
0 宗教の凋落? それとも再魔術化?
マックス・ウェーバーが、近代を脱魔術化の過程として捉えたことはよく知られています。宗教改革と啓蒙主義以降、それまで世界を覆っていた宗教的力能は徐々に領域を狭めていき、やがて合理主義的思考に取って代わられる。これがウェーバーら、初期社会学の巨人たちの見通しでした。ではウェーバーの時代から約一〇〇年がたった今、世界の脱魔術化は完成したのでしょうか。
世界112の国で1981年から2020年まで行われた大規模なアンケート「世界価値観調査」のデータに基づいて、ロナルド・イングルハートは、宗教心はますます凋落しつつあると結論づけます(注1)。グローバルに見るのなら、時代が下るにつれ、そして若い世代ほど、一人一人の信仰心は低下し、中絶や同性愛を忌むべきものとは考えず、宗教的規範に囚われず自分の人生を選択している。世俗化は着実に進行しているというわけです。
イングルハートは経済発展と社会の安定による生存への安心感が、脱宗教化を進めていると言います。今後、疫病や貧困によって生存が脅かされることはないと確信できると、宗教への信頼は低下する。だから高所得国では宗教は大きな意味を持たなくなっている。北欧ではそのプロセスが順調に進行し、旧共産圏では逆行が見られるといった地域差はあるけれど、大勢はすでに決しており、人類はリベラルな無神論に近づきつつある、と彼は述べます。
イングルハートが正しいのならアメリカやイスラム諸国で見られる宗教右派言説や原理主義の勃興は世界的な趨勢に対する反動形成に過ぎないことになります。そして、巨視的に見るならばある程度正しいのかもしれません。人々は啓蒙されて不合理な信念を抱くことは少なくなり、デジタルネットワークで結ばれた世界はますますリベラルで個人主義的な空間になっていく。先進国の富裕な階層を観察するならこれがグローバルな潮流であり、他の階層もいずれ後を追うことはまちがいないでしょう。
しかし日常生活に目を移すなら、われわれは思いも寄らない奇妙なところで、聖なるものや宗教的なものの復活を目撃していないでしょうか。しかもそれらは純粋に宗教的なのではなく、むしろ資本主義とのキメラやフィクションのハイブリッドに見えないでしょうか。例えばアメリカのQanonや日本の神真都Qのことをどのように考えたらいいのか。あるいはごく身近な人がスピリチュアル・ビジネスにハマっているのをどうしたらいいのか。いつの間にか、〈遊び〉のはずが〈信仰〉になり、〈宗教〉のはずが〈ビジネス〉になり、〈現実〉のはずが〈虚構〉に感じられる、そうした事態を見たり体験したことはないでしょうか。無神論が浸透することと、生活のワンシーンに聖なる何か(とされるもの)が訪れ、興奮や動揺を引き起こすことは両立するのかもしれません。
2022年7月の安倍元首相の暗殺以来、統一教会の政界への浸透が明らかになって日本を震撼させています。もちろん我が国は、1995年にも地下鉄サリン事件という世界にも類例を見ない宗教テロリズムを経験しています。しかしそうしたわかりやすいカルト宗教以外にも、現代生活には実は多数の宗教的モメントが紛れ込んでおり、人々ははっきり意識しないままそうした瞬間を通過している、というのが本連載の認識です。しかし筆者は宗教学者でも社会学者でもなく、一介の小説家・文芸批評家ですから、まずひとつのフィクションを取り上げてそこから考えていきましょう。
1 宇佐見りん『推し、燃ゆ』
2020年に大きな話題となり、芥川賞も受賞した宇佐見りんの『推し、燃ゆ』という小説があります。作者は当時21歳で、ガチのアイドルファンの苦悩と心情を綴ったこの作品は若い読者からも強い共感をもって迎えられました。実際、アイドルファンであるとはどういうことなのかを内側から記述した初の本格的文学作品として強く記憶に残ります。
主人公の「あたし」ことあかりは女子高生で、上野真幸という男性アイドルのファンです。彼が子役で出ていた『ピーター・パン』のDVDを見たことから夢中になり、今ではすっかり推し活が生活の中心になっています。彼女には発達障害を思わせる不器用さがあり、学校でもバイト先でもうまくいっていません。家庭内の居心地の悪さや、物事をうまくできない自分の未来への不安が推しにハマる理由になっています。彼女は慣れないアルバイトで得た金を推しのCDやDVDやチケットに注ぎ込み、録画した推しの姿や録音したささやきで生活のあらゆる自由時間を満たしています。一方、現実の生活の方では、周囲との疎隔は大きくなるばかり。手持ちの感情的リソースをすべて推しに注ぎ込んでいるために、それ以外の人間に割く注意力が残っていないのです。
あかりの上野真幸への態度は、全面的な「献身」という言葉がふさわしいものです。献身とは、すなわち輝かしい特定の対象を全力で愛し、我が身を顧みず仕えることです。あかりは推しへの惜しみない愛の贈与を軸──あかり自身の言葉では「背骨」──として自己を主体化しています。推しがいるから生きていてもいいと思える、推しを推すことで日々が楽しくなる。自分が息苦しい毎日を生き延びられるのは、この「背骨」があってこそだと感じているのです。
けれども、同時に読者が危うさを感じてしまうのは、あかりの日々には明らかにアディクション(依存症)的なものが濃厚だからです。
彼女は家族やクラスで孤立していく自分をはっきり意識して苦しんでおり、その理由にアイドルへの熱中があることも理解しています。しかし追い詰められれば追い詰められるほど、推しだけが生きるよすがになり、他人に割くリソースを減らしてさらに推しに打ち込むようになります。その結果、学校からも家庭からも排除されていくという悪循環が生まれます。自分の存在の意味は上野真幸一人にかかっている。あかりはそう確信しています。
人間の依存しやすさを利用するのは現代ではありふれたビジネス手法になっており、あかりはまさにその渦中にいます。周囲の人間から見れば、利害も計算できずにアイドルに打ち込んでいるあかりはいい鴨であり、呆れられるのも無理はありません。
しかし同時に彼女の態度にはどこか宗教的なものがあります。
この作品のライトモチーフは、あかり自身の身体への嫌悪です。性的で、毎月生理のせいで血を流し、何をやってもうまくいかず、美しくもなく、鈍重な身体。この身体への嫌悪は、そのまま、どうにもままならない人間関係、無慈悲で無関心な現実世界全体への忌避感に続いています。あかりはその息苦しい現実から離脱して飛翔すべく、現世を捨てた修道女のように、意識を推しの存在に集中するわけです。
彼女は惜しみなく推しに献身します。推しの感情をおもんぱかり、何をすれば推しが喜ぶかを真剣に考え、全力でできることをするという行為が彼女の生きる一刻一刻を灼熱させます。あかりはそこでどのような見返りも期待していません。上野真幸の匿名の一ファンであるだけでいいのです。
だから求めているのは推しに振り向いてもらうことでも、推しとの距離を縮めることでもなさそうです。
むしろ、主人公が本当に必要としているのは、CDやパソコンのモニターを通して、推しの姿を見つめ、その声を聞き、語りかけてくる言葉に没入して推しの存在を全身で受け止め感じとり、推しがたまたま同じ時空に存在していることのありがたさと素晴らしさを噛み締め、感謝することだけです。
19世紀初頭のプロテスタント神学者シュライアマハーはこれを「絶対的依存感情」と呼び、宗教の本質だとしました。もちろんシュライアマハーの場合、対象は神(イエス)です。自己の根拠が神にあり、自分は神とともにあり、神に愛されているという感情が渾々と胸裡に溢れ出ること、これをもってシュライアマハーは信仰と呼んだわけです。後述しますが、これは心理化した近代的な信仰のありかたです。あかりの推し崇拝は、このプロテスタントの信仰とよく似ています。
主人公の私室には、「祭壇」と呼ばれる推しの写真を飾った一角があります。
しかし神への愛とアイドルへの愛を一緒にしていいものか、という疑問が当然浮かびます。アイドルへの愛はやはり擬似恋愛と呼んだ方がいいのでは。
ここで注目したいのが、主人公が書いているブログです(注4)。
あかりは推しの言葉を聖典のように飽くことなく解釈し、ブログに書きつけます。
このブログには二つの役割があります。一つは推しに向けられた垂直の愛を、ファン仲間の方に水平に開くことです。主人公は推しを独占したいと思っているのではなく、むしろ〈信徒の交わり〉を通じて集団的な愛を育てたいと思っているのです。
第二に、推しを冷静に分析するという行為を通して距離を生み出すことです。それは推しへの感情が恋愛に転化していくのを防いでいます。通常の恋愛というものが、相手との距離を縮めたい、独占したい、肉体的に繋がりたいと思うものだとすれば、あかりは自分の気持ちが恋愛にならないよう苦心しています。恋愛感情に変わった途端に、それは人への愛になってしまうからです。
もちろんアイドルファンといっても様々であり、アイドルに普通に恋愛感情を持っている人もたくさんいるでしょう(いわゆるガチ恋勢)。また主人公の中にも、恋愛感情へ傾いていく部分があることも確かです。けれども、彼女はそうした心の動きを必死で抑え込み、違うあり方を維持しようとしています。それは推しへの「絶対的依存感情」を守ることです。
しかし現実には推しは一人の青年であり、生身の身体と個人的な感情を持っています。怒りのあまり人を殴ることもあれば、恋をした相手と結婚もします。これは主人公にとっては大変な苦痛です。それにより彼は偶像(生ける神)ではなく、一人の人間になってしまうからです。推しが持っている身体、時に暴走する身体こそが主人公にとっては敵です。
物語の最後で、上野真幸はファンとの結婚を匂わせて引退します。そして信仰の対象を失ったあかりは、無様な自分の身体──実存──とともに地上に残されて終わります。
強調しておきますが、アイドルを推すことは宗教ではないし、歴史的に見ても宗教とはなんの関係もありません。神秘ともオカルトとも超自然的な存在への崇敬とも完全に無縁です。ですから推し活を宗教のようで危険だとか、非理性的な振る舞いだと主張する意図はまったくありません。しかし現代社会では宗教とまったく関係のない行為に宗教とよく似た構造が現れる、その奇妙さに着目したいのです。あかりの生き方は依存症的であり、同時に宗教的です。サブカルにどっぷりと浸かった今どきの女子高生のリアリティが、敬虔な信仰者の姿を想起させます。これはいったいどういうことなのか。
2 世俗化の再検討
ここまで宇佐見りんという若手作家の作品を例に、推し活と信仰の類似性を論じてきました。しかしこればかりでなく、現代社会にはポピュリズムから陰謀論まで、宗教的にも思える現象が溢れています。それらは商業主義の一部だったり、サブカルチャーの一種類だったりするために、なかなかその宗教性には気づけません。しかしながら近代合理主義の観点からはうまく説明のできないカルチャーです。
実は1970年代にウェーバーらの脱魔術化の主張──以下では世俗化論と呼びます──は大きな転換点を迎えています。イスラムによるイラン革命(1978)は宗教を旗印にした体制変革がありうることを知らしめて左派知識人を震撼させ、さらに聖書を字義通りに解釈するキリスト教右派の拡大や、東洋思想を奉じるカルト教団の増大、先進国でのニューエイジ・ムーブメントなどが、宗教が衰退しているという見通しを揺らがせることになりました。これらの宗教的現象が一時的な反動なのか、それとも新しい時代の幕開けなのかは未だ結論が出ていません。そしてアメリカの連邦議会議事堂を襲撃したQanonのように、再魔術化の高潮はもはや宗教とは呼べないものに姿を変えながらさらに広く社会を覆わんとしているようにさえ見えます。
今、何が起きているのか理解するために、もう一度世俗化がどのように進行してきたかを検討してみる必要があります。その上で、この論考の最後ではこれまでの世俗化論が依拠してきた聖と俗に社会を分ける考え方に対して、聖・俗・遊の三項モデルを提示し、さらにそれぞれの境界が揺らぎ始めていると主張するつもりです。
さて、過去の研究者たちが近代化の進展につれて宗教は支配領域を狭めていくだろうといったとき、それは人が宗教を必要としなくなることを意味しませんでした。むしろ、宗教はあり方と領域を変えて執拗に持続するとされていたのです。
近代以前、宗教は社会とぴったりと重なり、全体を覆って現実の秩序を根本的に基礎付けるものでした。王権は究極的には神の権威に根拠を持ち、ローマ法皇は世俗の領主でもありつつ教会の長として諸王の頭に冠を与える権利を持ちました。日本でも事情は変わらなかったことは、武家に政権を奪われて困窮に苦しんでも、最終権威としての地位だけは失わなかった皇室のことを考えれば明らかです。宗教的権威と政治権力は複雑に絡まり合い、両者を切り分けることはできませんでした。
また教会や寺社は社会の基礎的なインフラでもありました。教会簿には個人の生没が記録され、教育機関の仕事も果たし、またミサ、洗礼、結婚、埋葬を通して日常の習俗を律するばかりか、場合によっては弱者や逸脱者が逃げ込むアジールともなりました。コミュニティの核であり、行政機能も兼ね備えた宗教組織なしには社会は成り立たなかったのです。
そうした時代に、人々はあえて〈信仰深く〉ある必要はありませんでした。神のことをわざわざ考えなくても、日常の秩序に従うだけで、問題なく模範的な信者でいられたからです。ラテン語の聖書を読み解くのは聖職者の特権であり、庶民は、イエスや聖書のエピソードを説教と口伝えを通してぼんやりと知っているだけでした。そして日常生活の内部には、教会の教えから逸脱するような呪術や民間信仰がたくさんありましたが、それらは曖昧に許容されていました。
宗教社会学者のピーター・バーガーは、近代以前に宗教が果たしていた役割を「聖なる天蓋sacred canopy」(注6)と呼んでいます。つまり地位や階級が違っても、人々の上には単一の宗教的コスモロジーが広がって共同主観的な「世界」を作り出していたというのです。ここでいうコスモロジーとは、生と死(つまり、見えるものと見えないものの両方)を包含する神話的宇宙観を意味します。神はなぜ人を作ったのか、人は死んだらどこにいくのか、なぜ世界はこのようになっているのか、人はそうした問いの答えをコスモロジーに求め、その宇宙に自分を位置付けることで、今ここに生きている意味を理解します。
3 「内面化」する宗教
しかしこうした天蓋は、16世紀の宗教改革以降、あちらこちらに穴が開くようになっていきます。さらに啓蒙主義を経て、宗教は公的役割から撤退し、社会統合の機能を弱めていきます(注7)。中世には民間のまじないから教会が推進する聖遺物信仰まで、人間の周囲にさまざまな「力」が溢れていたのですが、それらも一掃され、世界は数学や科学を通して理解可能な純粋に物質的な存在として把握されます。
それでは神はどこにいったのでしょうか。実は、合理化はそのまま信仰の衰退を意味するわけではありません。むしろある意味では、信仰心は圧縮され、より強固で密度の高いものに変わったとも言えます。宗教の領域が減少していくとしても、それは単なる縮小ではなく、存在のあり方を変えたのです。宗教は外部世界から撤退し、同時に魔術的な力への信頼も消えていきますが、その代わり人間の精神の内側、すなわち「内面」に確固とした領土を得るのです。
ルターにはじまるプロテスタント三大原理と呼ばれるものがあります。その1「信仰のみ」、すなわち人は神を心から信じ頼ることによってだけ救われる。その2「聖書のみ」、信仰で頼りとすべきは日々聖書を読み聖句と対話をすることである。その3「万人祭司」、神の前では皆平等であり、信仰において特別な指導者や仲介者は存在しない。この3つはいずれも、それまでカトリックに顕著であった華麗な祭儀を伴う共同行為としての信仰を、シンプルだがインテンシブな孤独で密やかな祈りへと転換させるものでした。グーテンベルクによる印刷術の発明とそれによる聖書の普及が転換を後押ししました。
先に名前をあげたシュライアマハーは初期ドイツロマン派のシュレーゲルとも深く関わり、内面信仰としてのキリスト教神学を確立した重要な神学者ですが、彼は次のように述べています。
ここで言われる「宇宙」とは物理的な存在ではなく、当然目に見えるものではありません。それは五感を介さずに、「直観」として直接精神に到来し、人を巨大な感情で満たすものだとされています。信仰は、このように心で〈神〉と出会うことであり、信ずるものに必要なのは一人きりで訪れを待つこと、神の声に耳を傾けること、超越に対して心を開くことです。目の前にある自然や、王、領主、教会といった権力は、神の意志の具現化というわけではなくなります。これは社会制度を批判する上でも、自然を機械的なメカニズムで作動する物質の集積と考える上でも好都合です。改良可能な人為制度としての社会、人智で解明可能な物質的な世界。ここから革命と科学という近代の二大プロジェクトが始まります。そして神は両者と異なるレイヤーに、すなわち主観性の内奥に穿たれた無限への扉として存在します。
つまり近代社会は実は宗教性を縮減していったのではなく、異なる場所に置き換えたのです。世俗化とは、聖と俗とが一体化していた社会から、それぞれが分離し、共存していく社会への転換です。そこで、〈世俗〉は政治・経済・公共の領域であり、〈聖〉は信者集団、家庭、そして何よりも個人の内面に場所を持ちます。近代国家の政教分離と信教の自由という二大原則は、いずれも宗教の公的領域からの撤退と内面化を規定したものであり、これにより宗教は独自の領土を得て安定したのです。
我々現代人は「宗教は心の問題である」という言い方に馴染んでいます。それは近代以降の宗教がそのようなものだからです。他方、イスラムのようにシャリーア(イスラム法)を持ち、世俗の法と聖なる教えを一致させるべきだという主張を内在させた宗教もありますが、それでも国民国家であるかぎり、近代法の体系を捨てることはできません。もし無理矢理に神政一致国家を地上に打ち立てようとすれば、一時期力を持ったイスラム国のように、シャリーアの解釈自体が病んで狂ったものになり、近代的な人道原理からも国際社会の秩序からもひどく逸脱したものにならざるを得ません。
4 回帰する宗教性──政治
近代社会は聖と俗という二つの領域を、人間の内面と外的世界に振り分けて弁別することで成り立っています。それにより、聖書にある神による七日間の世界創造や奇跡を、歴史や科学と矛盾するのではないかと悩む必要はなくなります。聖書は文学的な象徴言語で書かれていると考えればいいからです。
しかしながら、社会の表面から姿を消したかに思える宗教性は、別の形をとって、主に二つの領域に回帰してくることになりました。
その一つはナショナリズムです。
ナショナリズム論の古典である『想像の共同体』の中で、ベネディクト・アンダーソンは、国民国家が宗教的想像力の退潮と引き換えに、人と永遠を結びつけるという役割を引き受けたと論じています。もはや死後の世界も超越的な正義も期待できなくなった近代にあっては、国家のみが死を意味づけし──靖国神社を想起してください──偉大なものに奉仕する感覚を与えることができたからです。
また法哲学者のカール・シュミットは『政治神学』で「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」と述べています。国家の政治体制、それを支える法理論は、キリスト教の枠組み内部で形成されたものの流用であるというのです。
シュミット自身が加担したナチズムやその宿敵である共産主義は、ともに宗教的と呼ぶほかはない極度の熱狂を伴う政治運動でした。18世紀、ヴォルテールは「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と書きましたが、フランス革命を経て発明された神の名は「民族」、あるいは「国家」であり、以降、社会から退潮していく〈神〉に代わってそれこそが命を賭けて守護すべき対象になりました。戦争と革命の世紀である20世紀の歴史を動かしたのは、国家と政治運動に注ぎ込まれた普通の人々の膨大な熱情と献身であったといえます。そして主に戦争という形をとって、新たな神への祭壇に無数の命が犠牲として捧げられました。無論、万世一系の現人神を頂いていた大日本帝国も例外ではありません。
現代でもナショナリズムの力は衰えてはいません。しかし、アメリカ連邦議事堂襲撃のような現象は、これまでとは違った形態で、政治的にして魔術的なものが復活している印象を与えます。現代における政治と宗教、あるいは魔術との結びつきについても、いずれこの連載で考察してみたいと思います。
5 宗教性の代替──芸術
しかしながら、本連載で中心になるのは、もうひとつの領域、すなわち芸術、そして後継者としてのサブカルチャーです。そもそも芸術は神に歌や踊りを捧げたところから始まっているという見方があります。例えば民俗学者の折口信夫は、日本の文学は人に降りた神との応答関係から始まったと考えました。また祭りのさなかに到来する神の所作を真似るところから芸能が生まれ、やがて神の言葉や仕草を伝承する人々が各地の村々に祝福を与えてまわる風習が成立したと考えました。
折口の描き出す芸術の発生が、今の歴史学の知見でどこまで肯定できるのかは分かりません。しかし起源における芸術と宗教の深い関わりは否定しきれないように思います。よく知られているように、ラスコーやアルタミラなど旧石器時代の人類が描いた洞窟壁画には、しばしばシャーマンらしき人物が登場します。壁画自体も、豊猟祈願の要素があった可能性が濃厚です。
我々が今「芸術」と呼んでいるものは、16世紀から18世紀にかけて西ヨーロッパで徐々に結晶化していったものです。それまで絵画も音楽も舞踏も詩歌も、しばしば宗教的な祭礼や制度に埋め込まれており、集団でパフォームされ、集団で享受されるものでした。近代はそれまで一体だった社会領域が政治、経済、教育、法というようにそれぞれの機能に応じて分化・自律していく時代です。芸術が自律し、作品が社会的背景から独立したそれそのものとして生産・享受されるようになったのも社会の機能分化の一環だったと考えられます。そのためには美術館や美術批評のような制度の確立、製作者の自己規定が職人から芸術家へ移行すること、多数で匿名的な観衆・聴衆の成立といった条件が必要でした。
だから、近代以前の美術や詩歌を「芸術」と呼ぶのには少しおかしなところがあります。作る側も愉しむ側も芸術だなんて思っておらず、そもそもそれに当たる概念がなかったからです。そこで前近代の段階では芸術とはみなされていないけれど、視覚や聴覚、言葉の律動などの形で人に訴えかけてくるものを〈芸術・のようなものart-like object〉と呼びましょう。
ではなぜ以前の社会では〈芸術・のようなもの〉は宗教や政治と一体だったのでしょうか?
それはそれらが力の器だと考えられていたからでしょう。石壁に描かれたもの、語られたもの(とりわけ抑揚をつけて発声されるうた=詩)、石や樹木を刻んだカミ-ヒトを象ったものには、呪的な力がついてまわります。神前で披露される舞、神話上の出来事を再現する劇は優雅さや華やかさや語りの力によって時間を逆流させ、太古の時間を現前させます。
イギリスの文化人類学者アルフレッド・ジェルは、南太平洋で使われるカヌーの装飾や南インドで魔除けのために床に描かれる砂絵を取り上げて、それらを「社会的作用を媒介する物体」と指摘しました。つまりそれらは物体が埋め込まれている社会関係の効果として、見るものに特定の作用を及ぼす、つまるところ「力」(呪術)を持つというのです。ジェルは〈芸術・のようなもの〉の機能を、パース記号学の用語を使用して「アブダクション」(推論・仮説形成)によって説明しています。人は〈芸術・のようなもの〉を特殊で異様なインデックス(痕跡)として捉え、そこからその事物を成り立たせている力やメカニズムの存在を自動的に推論せざるを得ないからです(注9)。
現代の芸術作品にも、この呪力の痕跡は残されているかもしれません。筆者は草間彌生の水玉模様がプリントされた作品が部屋全体を埋め尽くしているような展覧会場に入ると、生理的な気持ち悪さと背筋がゾクゾクする感じを覚えます。無意識に何らかのアブダクションが行われ、精神の安定を脅かしているのかもしれません。
けれどもこれは例外であって、現代の「芸術」はこうした呪力とは本質的に切り離されています。農村の祠におさめられた神の石像は、以前は稲穂の成長を守護したり、子供の病気を治したりしてくれる「力」を持つものだったかもしれません。しかし、それが博物館のケースに収蔵されるようになると、審美的な関心をもって眺められるようになります。以前は世界に働きかけていたものが、素朴な物体に過ぎなくなります。鑑賞者は美しいと感じたり、味わい深いと思ったりするかもしれませんが、それらはすべて鑑賞者の精神内部の出来事です。つまり分化により、芸術は世界を変える呪力を失うと同時に、精神の内側において効果を発揮するようになります。
カナダの政治・宗教哲学者であるチャールズ・テイラーはこの消息を次のように述べています。
テイラーが述べているのは次のようなことです。アニミスティックな祭礼で太鼓が打ち鳴らされ精霊に憑依された人々が体を揺らし声を合わせて歌いだすとき、その歌は神々の訪れを、また共同体に伝承されてきた神話を再現し、伝達しています。あるいは荘厳なゴシック教会堂で、パイプオルガンの響きとともに合唱隊が透明な歌声を遥かな天井に向かって立ち上がらせるとき、その聖歌は神の偉大さを讃え、その愛への感謝の念を表明しています。つまり文化は違えども、どちらも「歌」の外側に伝達されるべき対象があり、「歌」はそれを運ぶメディアになっています。人々はその歌に巻き込まれ、高揚状態になって体が動き出したり(アニミスティックな祭礼)、静かに頭を垂れて深い瞑想に沈んだり(教会でのミサ)しますが、いずれも人々を動かしているのは歌を通してやってきたものです。
しかし近代芸術であるモーツアルトの場合、その曲はもはや特定の「意味」を持たず、あるのは純粋な音の戯れだけです。曲の外側に、あらかじめ伝達されるべき「何か」があるわけではありません。にもかかわらず、その作品に没入するとき、我々は確かに何かが伝達された、という印象を受けます。そこで何が伝達されたのかは誰も言語化することはできません。なぜなら、作品は完全にその内側に閉じており、伝達されるのは作品それ自身、あるいは〈無〉そのものだからです。
近代以前の作品が特定の「意味」を持つことを可能にしていたのは、ひとつは歌詞や物語のような言語的要素であり、もうひとつは祭礼や教会でのミサといった作品が埋め込まれた社会的文脈でした。それらは作品が、集団のコスモロジーを表示し、かつコスモロジー自体を実現するための前提でした。「宇宙全体を人間にとって意味ある存在として想念する大胆な試み」(バーガー)である宗教の一部でとしての〈芸術・のようなもの〉に人々は魅入られ、それを通じて自分の生きる世界を形成したのです。
しかし機能分化により、近代以降の芸術は世界を変える呪力を失います。作り手は所属するコミュニティの価値観を形象化するのではなく、自らの技術と経験だけを頼りに、個人的なヴィジョンを表現することになります。芸術家は伝統によって支えられたコスモロジーに依拠できないまま、世界の意味を探求しなければなりません。それは孤独な営みです。しかしその代わり、精神の内側において、世界自体への問いの場を開くことになります。
優れた絵画や音楽に触れたとき、我々の意識に、何か圧倒的なものに直面しているという感覚が生まれます。何か言葉にできないもの、優れたもの、時間を聖別し、より芳醇で充実した瞬間に変えてくれるもの、これは〈神〉との出会いに似てますが、実際人がそこで出会っているのは色彩や音声やイメージの戯れです。つまり、近代的な宗教と芸術は、個人の意識というところに着目するならば極めて似通った構造を持っています。芸術も宗教も、〈超越〉への通路として機能するわけです。
内面化した宗教が、現世利益や神との取引を排除して、純粋な神との出会い、祈りのための祈りを追求するのと、近代芸術の「芸術のための芸術 art pour art」は似ています。実存主義神学のキルケゴールやカール・バルトは、同時代のモダニズム芸術に対応しています。バルトらは、神の絶対的他者性と不可知性を強調しますが、ジョイスの『ユリシーズ』やプルーストの『失われた時を求めて』も、あまりに複雑で多義的であるが故に崇拝されるモダニズムの「聖典」です。
芸術が力を減少させた宗教の役割を代替する。これによって近代社会が、芸術に極めて高い地位を与えた理由が説明できます。ヤーウェのような「人格神」をもはや信じることのできない19世紀の知的な若い世代にとって、芸術は拝金主義的な世俗の世界から身を引き、人生を意味づける唯一の拠点になったわけです。
6 芸術作品の「逆説」
カントはさすがに、この芸術の内面化にも鋭敏な分析のメスを入れています。
カントの三大批判のうちのひとつ『判断力批判』は1790年に書かれており、近代芸術はまだ黎明期にあったにもかかわらず、ここでカントは極めて近代的な論理を提出しています。カントによれば、人が美しいものに触れて喜びを感じるとき、起きているのは主体内部における構想力と悟性の自由な戯れです。人に快楽を与える〈美しさ〉は、対象の側にではなく、享受する側の現象なのだ、とカントは主張するのです。確かにそのためには主体の感性を触発する外的な対象(芸術作品)が必要です。しかし本質的なできごとは触発される鑑賞者の方で起きており、つまりカントは芸術をあくまで主体内部の問題として考えているわけです。
ここにひとつの逆説が生まれます。
芸術作品は何かを伝達するが、それは同時に「無」でなければならない。伝達されるもの──作品の「メッセージ」──が明瞭に言語化・意識化できるようなものであっては、それは世界内の一部になってしまって、世界からの「開け」にはならないからです。
しかし一方で作品はつねに無数の意味作用を引き起こします。言語で作られる文学作品が意味を発生させるのは当然ですが、言葉のない音楽やダンスですら、何らかの意味作用を発生させずにはいられません。その意味作用は、作品そのものからも、あるいは作品が置かれている文脈からもきます(例えばブラックミュージックはそれ単体でも楽しめますが、少しでも背景に目を凝らせば黒人の権利をめぐる社会的な闘争と関わりがあることが見えてきます)。地と図という二項対立を使用するなら、いわば作品(図)があることによって、作品が置かれた背景(地)が認知の域内に入ってきて、そこから生まれる意味が作品をさらに複雑に書き換えていくというプロセスが始まります(その過程を言語化したものが「批評」と呼ばれます)。つまり作品は意味の不在であるとともに意味の爆発でなければならないのです。
そのため、優れた作品は高度に濃縮された思弁そのものともいえます。それは享受者に触れられることで爆発的な意味作用を解放します。ただし、そこで生まれる思考は、作者が「考えたこと」ではありません(もちろん作者はいろいろなことを考えているでしょうが)。つまり作品は作者の思想を表現するための媒体ではなく、作品自身が無数の思考そのものなのであり、作品自身が受容者を通して考えているといった方がいいでしょう。
より現実的な表現をすれば、作品は、作者ではなく、受容者の意味論的探究を触発するための装置です。芸術作品の享受は、観客や読者に、自分はいま作品を通して、作者の苦闘を媒介にして、自分自身の「生きる意味」の探究に携わっているという感覚を与えます。それは人々に過去からの連続性や世界との調和感覚を与えていたコスモロジーを、より個人的な形で回復するように促すでしょう。その意味で、芸術は過去に宗教が果たしていた役割を、異なるかたちで再生産するものだと考えられます。
7 聖・俗・遊というモデル
以上、近代における「世俗化」がどのように進んできたかを概観しました。世俗化が単なる宗教の衰退ではなく、徐々に聖なるものが限定化(内面化)されていったこと、さらに宗教ではないが、同様に内面におけるある種の「開け」として、また世界の「意味」の探究として芸術があったことを確認しました。
しかし西洋的な「芸術」概念が十分に市民社会に根付いたとは言えない日本でもこの分析は当てはまるのでしょうか。まして今や芸術らしい芸術などもはや社会でどれほどの影響力も持たず、娯楽やサブカルチャーの海に溶けて消えてしまったのではないでしょうか(注11)。
けれども筆者はそう思いません。消費主義のため多少輪郭が曖昧になっても、あるいはサブカルチャーに取って代わられても、社会における基本的な機能は変わってないと思っています。
ここでひとつ補助線を引いてみたいと思います。世俗化論が問題にしてきたのは、聖と俗との関係であり、社会はこの二つの領域に分かたれると考えてきました。しかし芸術とその後継者としてのサブカルチャーを重視する我々は、むしろロジェ・カイヨワの考えた聖・俗・遊モデルを採用します(注12)。
カイヨワはジョルジョ・バタイユなどとも関わりのあったフランスの批評家ですが、人類学や社会学の知見を生かして、人間における「遊び」の役割を雄弁に論じたことで有名です。カイヨワによれば、遊びは、聖なる領域とさまざまに重なる部分がありながらも、聖なるものと関わる時のような真剣さやコミットメントが求められず、より自由で気楽でいられる点で異なっています。
ここでカイヨワがいう遊びにはさまざまなものが含まれます。公園での子供の遊びも、大人が夢中になるサッカーなどのスポーツや賭博、あるいは演劇やゲームも遊びです。けれども、我々が問題にするのはこの「遊び」の領域のうちの芸術とサブカルチャーです。
本連載では次のような構図を前提にしています。近代社会は、人間の内面に定位した聖なる領域(聖)、政治や経済が営まれる世俗の領域(俗)、娯楽であるとともに生きる意味の探求でもある芸術とサブカルチャー(遊)の三つによって構成されている、と。
そして肝心なのは、これらの領域が共有しているものです。
聖と俗、このふたつに共通するのは、どちらも気軽にやめるわけにはいかないことです。信仰とは拘束であり、もし気分で信じたり撤回したりができるならそれは信仰とは呼べません。聖なるものは、個人の意志を超えて人を吸引します。大抵の宗教団体は、入ることはできても出るのは大変難しい。世界宗教イスラムの場合は、信者になってしまえば一生棄教できません。
一方世俗領域、つまり働いて金を稼ぐこと、子供を養い教育を与えることなども原則として逃れようがありません。もちろん未婚や子供を作らないなどの「ライフスタイル」を選ぶことはできますが、何らかの「生活」を選ばないことはあり得ません。世俗=生活の本質は死ぬまで一生続くことです。だからこそ気晴らしとしての遊びが渇望されるのです。
逆にいうと、遊の特徴は好きに始めて勝手にやめられるところです。強制された遊びはもう遊びとは呼べません。参入も離脱も自由であること。それに対し、聖と俗の二つの領域は「離脱不可能性」を共有しています。
次に、聖と遊の場合はどうでしょうか?
両者はともに「内面」と関わっています。宗教と同様に、芸術もサブカルチャーもある種のフィクションであり、物質で構成された世界とは別のレイヤーにおいて生起するものです。神は実在すると信仰者なら主張するかもしれませんが、それは物質的に実在するという意味ではないでしょう。ゆえに、現実とは異なる水準に存在するという意味で、内面性と虚構性こそが聖と遊の共通の本質だと言えます。
最後に俗と遊です。これは誰でも知っていることですが、どのような芸術作品もサブカルチャーも、現代社会ではひとつの商品として現れます。つまり両者の基盤を成すのは経済機構としての資本主義です。
では、離脱不可能性/可能性で分割されていた聖俗/遊の境界線が崩れるとどうなるでしょう?
現代には様々なアディクション(依存症)が溢れています。アルコール依存のように以前から問題になっているものもありますが、ゲーム依存やSNS依存など新しく登場してきたアディクションも少なくありません。もう飽きているし疲れているのに(あるいはだからこそ)、タッチモニターから指を離せないという経験は誰にでも覚えがあるのではないでしょうか。こうしたアディクションの依存先はもともと気楽で楽しみを与えてくれる行為、つまり遊びの領域のもののはずです。そして遊びの特徴は、気軽に始めたりやめたりできることでした。しかし、それがいつの間にかやめたくてもやめられなくなってしまう。つまり遊びから離脱可能性が失われてしまったとき、それはアディクションになるのです。
一方聖と遊の特徴であった内面と結びついたフィクションが世俗領域に漏出してしまったのが陰謀論だとみなすことができます。
実際陰謀論は内的な空想が複数に共有され、社会に投射されたものです。どれほど妄想的な内容であれ、虚構だと自覚されていれば無害であった空想が、人々を巻き込み、実際の行動に結びつくと厄介な陰謀論になります。陰謀論の内容はジョークのようなものだし、事実ジョークから始まった陰謀論も少なくありません。そして陰謀論に夢中になってデモなどをしている人たちを見ていて気づくのは、不可解な高揚感、お祭り感覚があることです。陰謀論は明瞭に遊びとしての痕跡を残しています。
陰謀論の流行は、社会と異なるレイヤーとしての「内面」を維持していくことの時代的な困難を示す現象に思えます。
そして、世俗と遊びの領域の基部にあった資本主義システムはあらゆる境界を越えて今や聖なる領域も飲み込もうとしています。スピリチュアル・カルチャーでは占いやパワーグッズなどが聖なる商品として売り買いされ、誰もそのことを疑問に思っていません。現代ではあらゆるものが商業化の波にさらわれざるを得ず、スピリチュアル・ビジネスも集金マシンとなったカルト教団も、世俗の論理が宗教と融合した結果です。
このように、聖・俗・遊の境界が機能しなくなり、それぞれの要素が越境してしまっていると考えると、陰謀論やスピリチュアルのような現代の事象をクリアに考えることができます。無論これはいささか観念的な「見立て」に過ぎず、個々の文化事象のディテールに目を凝らすことで検証されていくべき事柄です。
次回は統一教会やオウム真理教などの「カルト教団」について検討し、戦後日本社会において新宗教がどのような存在であったかを考えたいと思います。(第一回了)
▶第二回「カルトはわたしたちの間に(1)」は下記のリンクから。
▶倉数茂。1969年生。日本近代文学研究・小説家。著書に『黒揚羽の夏』(ポプラ社、2011年7月)、『私自身であろうとする衝動―関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社、2011年9月)、『名もなき王国』(ポプラ社、2018年8月)、『忘れられたその場所で、』(ポプラ社、2021年5月)など。
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