夜の逃避行
とんでもなく久しぶりの投稿な気がします。なんとか斎左の日に間に合いましたね…;
『GetBackers-奪還屋-』のパロです。
が、どう見ても斎藤さんは赤屍さんポジションだったので、斎左の2人には奪還屋じゃなく運び屋になってもらいました。
『GB』の原作を知らなくても問題ないとは思いますが、色々と気にならない方だけお進みください。
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「おい、待てよ!」
「……」
少しばかり柄の悪そうな青年の大きな声に道行く人々は思わず振り返るのだが、声をかけられたであろう男は全くの無視を決め込み、ダークグレーのロングコートをなびかせる。
「聞こえてんだろ! この陰険簾!!」
「……」
どんなに悪態をついても、男には暖簾に腕押し。これでは埒があかないと、青年は一足飛びに素早く男の前へと回り込む。目の前に立ち塞がることで、漸く男は立ち止まった。
「……何か用か」
男は咥えていた煙草を指に挟み、紫煙を吐き出してからさも面倒そうにそう問うてくる。その仕草が青年の苛立ちを逆撫でした。
「“何か用か”じゃねぇよ! 用があるのはおめぇの方だろ!!」
「お前に用などない」
「大ありだ! 仕事なんだろ?!」
「あぁ、これから依頼人の話を聞きに行くところだ」
「だったら、相棒であるこの俺にも声かけんのが筋だろうが!」
青年はふんぞり返り、ビシリと自分を指差して渾身のドヤ顔をしてみせる。だが男は鼻で笑うだけであった。
「相棒とは聞いて呆れる。お前のようなひよっこは雑用係でも勿体ないくらいだ」
「んだとーっ!?」
「言いたいことがそれだけなら、いい加減どけ。時間の無駄だ」
憤慨する青年も意に介さず、男は再び煙草を咥えると青年を軽く押しのけ歩を進める。地団駄を踏む青年だったが、追い返されることはないと知っている為、結局その後をついて行った。
この、黒スーツにロングコートの男・斎藤一と、ジーンズにパーカーを羽織るいたってラフな格好の青年・相楽左之助は、裏の稼業を生業とする者達の間では“運び屋”と呼ばれている。報酬さえ支払えば、人でも物でも何処へでも運んでいく。基本的には……。
ちょうど15時の休憩時に2人が訪れたのは、『緋村珈琲館』と書かれた看板を掲げるレトロなカフェだった。
「あ、来た来た。いらっしゃい」
「よぉ、剣心! いつものなっ」
「了解」
扉を開ければ、カランとベルの音と同時にここのマスターである緋村剣心が笑みを浮かべ出迎える。小柄で中性的な優男の剣心だが、裏稼業の者へ仕事を斡旋する仲介役を担っている。
いつも通り、左之助がカウンター席の一番奥に、斎藤が1つあけてその隣の席へ着くと、ボックス席に座っていた1人の女性客がカウンターへと歩み寄った。斎藤にはブレンドを、左之助にはコーヒーゼリーのパフェを提供した剣心がニコリと微笑みかける。
「すみません、お待たせして」
「いえ、大丈夫です」
「2人とも、こちらが今回の仕事の依頼人だよ」
促され顔を上げた斎藤と左之助に、依頼人は深く頭を下げた。少女と呼ぶには大人びた、だが大人の女と呼ぶにはあどけなさの残る依頼人は姿勢良くその場に佇み、2人の不躾な視線も凛とした表情で受け止めている。その真摯な眼差しに好感を抱いた左之助は、ニッと人好きのする笑みを浮かべた。
「俺は相楽左之助。こっちの悪人面は斎藤一だ。よろしくな、嬢ちゃん!」
「神谷薫です。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
「……挨拶は結構。それより、仕事の話だ」
再び頭を下げようとした薫を素気なく遮った斎藤に、左之助は不満も露わに唇を尖らせたが、完全無視に終わる。薫も特に動じることもなく、剣心に促されてカウンターのスツールに改めて腰を下ろした。
「嬢ちゃんが運んで欲しいってのは?」
「……三条財閥の1人娘、燕お嬢様です」
「?! さ、三条って言やあ、政財界でも中堅所の老舗財閥じゃねぇか。少し前にご当主さんが事故死したってニュースで見たけど……。それって、まさか誘拐……?」
「いいえ、決して誘拐じゃありません。順を追ってお話します」
驚きに目を剥く左之助とは対照的に、沈痛な面持ちの薫は訥々と語り始めた。
薫は現在、長岡コンツェルンの総取締役・長岡幹雄の私邸で使用人として働いている。
長岡コンツェルンは長い歴史を持つ堅実な企業であったが、跡取りである幹雄が役員に就任した頃から多角的な展開へと発展していき、一気に大手と呼ばれるまでにのし上がった。そして幹雄も、数年で総取締役の地位に納まった。だが、元々派手好きで金遣いの荒かった幹雄は資産を食いつぶし、懐は火の車となっていた。
そんな折、幹雄の目に留まったのが不幸な事故により僅か15才で名義上当主になった三条燕であった。幹雄は燕の後見人である叔父を抱き込み、燕との婚約を推し進めた。財産目当ての政略結婚なのは誰の目にも明らかだったが、強引な手腕をふるう幹雄に意見できる者はいなかった。
長岡家に無理矢理連れて来られた燕は、幹雄の私邸でほぼ軟禁状態であり、身の回りの世話を任された薫は、なんとかこの少女を自由にしてやりたいという想いが日々募っていったのだった。
「……ここに邸の見取り図があります。と言っても私の手描きですが、警備の配置や交代の時間なども私の知る限り記入してあります。どうか引き受けてもらえませんか?」
ハンドバックから折り畳まれた一枚の紙を取り出した薫は、そっとカウンターの上にそれを置く。無言で手にした斎藤は、今し方火をつけた煙草を口端に咥え、隅々まで目を通し始めた。
左之助はというと、薫の話に肩を震わせ、怒りのあまり固く握られた拳でカウンターテーブルを殴っていた。
「左之、落ち着いて。テーブル壊したら弁償してもらうことになるよ」
「ちゃんと加減はした! けど、その長岡幹雄って野郎には腹が立つんだから仕方ねぇだろ?! 同じ男として恥ずかしいっての! なぁ斎藤、この仕事受けるよな?! つーか受けろ!!」
「逸るな阿呆」
左之助の剣幕に眉間の皺を深くしながら、斎藤は広げた図面を再び折って懐にしまう。そして、長くなった灰を灰皿に落とし薫へと視線を流した。
「……仮に運ぶとして、何処へだ? 三条財閥の娘を匿う宛てでもあるのか?」
「あります」
斎藤の鋭い眼差しに多少怯みながらも、薫は大きく頷いた。
「実は、一週間後の昼から3日間、幹雄様が静岡に視察に出かける予定です。それに併せて、燕お嬢様の幼なじみで明神家のご子息・弥彦さんが留学中のイギリスから帰国されます。もちろん極秘で」
「フン、なるほど。なかなか周到だな」
「え、まさか、三条家のお嬢ちゃん連れて行く為だけに帰ってくんの? そんでもって、国外逃亡……?!」
「デカい声を出すな。そして寄りかかるな」
思っていたよりもスケールが大きくなっていく話に、左之助の声は意図せず上擦った。薫の方へ身を乗り出していた左之助は、気が付けば斎藤の背中に覆い被さるような体勢になっており、鬱陶しそうに斎藤が眉をしかめる。
その様子に剣心は忍び笑いを漏らしたが、薫は動じずに話を進めた。
「寄港できるのは僅かな間だけです。その時間までに燕お嬢様を横浜港へ運んでいただきたいのです。いかがでしょうか」
「報酬は誰が払う」
「私と、弥彦さんで折半することになっています」
「…………」
斎藤は思案するように煙草を一口吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
その間、薫の表情には緊張が滲み、膝の上に並んだ手が固く握られていた。
「……金払いの心配はなさそうだ。受けてやろう」
「!!」
「よっしゃ! 斎藤、よく言った!!」
「あ、ありがとうございます!」
勢いよく立ち上がり、三度頭を下げる薫を視界に捉えながら、調子に乗って頭を撫でてきた左之助の手を盛大にはたき落とす斎藤であった。
そして一週間後の21時10分、斎藤と左之助の姿は件の長岡幹雄邸にあった。
薫手製の見取り図と3日前の下見のおかげで迷うことはなく、警備の者や監視カメラも上手くかわして三階の奥にある燕の部屋を訪れる。
事前に打ち合わせをしていたが、燕と共に部屋で待機していた薫は、2人が現れた瞬間ホッと緊張を緩めた。逆に燕の方は、2人の姿を見るなり顔色を蒼白にする。下見はしていても、燕本人に会うのはこれが初めてである。薫から『運び屋』の話は聞かされていても、上背があり人相もあまりよろしくない2人が並んでいれば当然の反応と言えよう。
だが燕はすっくと立ち上がり、先日の薫のように深く頭を下げた。
「……斎藤さんと、相楽さん、ですよね? 三条燕と申します。どうか今日は、よろしくお願いします」
気丈に振る舞おうとしているようだが、やはり声は震えていた。そんな燕の小さな頭を、左之助の大きな手が優しく撫でた。
「驚かせちまって悪かったな。けど、俺達は小せぇ嬢ちゃんの味方だ。あんたの幼なじみのところまで、しっかり送り届けてやるからな! なんも心配することねぇぜ?」
恐る恐ると顔を上げた燕の視線の先には、これまた左之助の屈託のない笑みが浮かんでいて、その場の不安な空気が一気に霧散する。
口には出さないが、斎藤は左之助の、今のようにいとも簡単に相手の警戒心を解いて しまう能力を買っていた。左之助本人は無自覚だが、今も燕の大きな瞳には先程まではなかった生気が宿り、キラキラと左之助を見上げている。
老若男女問わず初対面から意気投合できるそれは、天性の素質と言っても過言ではない。時折、必要以上に懐かれて斎藤を苛立たせることもしばしばだが、仕事を円滑に進める為には不可欠となりつつある左之助のコミュニケーション能力は、今回も遺憾なく発揮された。
燕と薫の2人を連れ、斎藤と左之助は慎重に来た道を戻り屋敷の外へ出た。
使用人用の通用門にいる守衛は来た時に眠らせてあり、今もぐっすり夢の中のようだ。悠々と門をくぐり敷地の外まで出ると、4人は早足で少し離れた雑木林までたどり着く。そこには木々に隠れるようにして黒の4WDが停車してあった。
「……やっとお出ましかい、待ちくたびれたで」
運転席の窓から顔を覗かせたのは、髪を逆立てバンダナを巻いた、関西弁の若い男だった。
見知らぬ人物の登場に、少女2人は身を固くする。
「予定通りじゃねぇか。ホラ吹いてんじゃねぇよ、ったく……。こいつは張。運び屋の1人で車と運転担当。声と態度はデカいけど、嬢ちゃん達に危害は加えねぇから安心してくれ」
「トリ頭に声と態度のことだけは言われたないわ! ボケ!!」
「んだと!?」
「2人とも黙れ。殺すぞ」
今にも掴み合いになるかと思われた険悪ムードは、冷ややかな斎藤の一言により途端に静かになった。
少女2人はと言うと、今の数秒で普段の彼らの力関係が読めてしまい、余計な力が抜けた心地であった。
後部の扉を開けた左之助は、小柄な燕をひょいと抱き上げ運転席側へと下ろす。薫から受け取った燕の荷物もついでに積み込みドアを閉めた。
「そう言やあ、嬢ちゃんはどうすんだ? また野郎の屋敷に戻ったら、小せぇ嬢ちゃんが消えた責任とらされちまうんじゃねぇか?」
「はい。私もそう思いましたので、もう戻るつもりはありません」
心配げに振り返った左之助に、薫は苦笑しながら頷いた。よく見ると、薫の手には自身のものと思われるボストンバッグが握られており、左之助も納得して安堵のため息をついた。
「行く宛てはあんのかい?」
「緋村珈琲館のマスターさんが、しばらく匿ってくださると……」
「あぁ、剣心か! それなら安心だぜ!! あいつ、あんなナリしてべらぼうに腕が立つからな。送っていかなくて大丈夫かい?」
「私のことより、どうか燕お嬢様をお願いします」
「分かった! 嬢ちゃんも、念の為気をつけて行けよ? できるだけ公共の乗り物使うとか、明るい道を行くとか」
「はい」
「おら、トリ頭! 時間おしてんねん! はよ乗れや!!」
「うるせぇホウキ頭!」
張に急かされ、左之助は助手席側から燕の隣に乗り込んだ。すでに斎藤は助手席に座っており、エンジンもかけられた状態だった。
発進間際、燕が窓を開け身を乗り出す。
「薫さん! 本当に、……本当にありがとうございました!」
「お気になさらずに。どうぞお元気で。……またいつか、お会いいたしましょう」
薫は、まるで妹にでもするように慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、小さく手を振った。燕は涙を堪えながらしっかりと頷き、薫の姿が見えなくなるまで窓の外を見つめていた。
目的地までのルートは、運転担当である張に一任されている。張は高速には乗らず、あえて外灯も車通りも少ない道を選んでいた。
「なあ、なんで一般道から行くんだ?」
「高速で万が一襲われたら、逃げ場がないやろ? 念には念を入れとかんと」
「……時間おしてるとか言ってたクセに」
「あぁ? なんかゆうたか?」
「べっつに~~」
普段はケンカ腰であるが、左之助の素朴な疑問に案外丁寧に答えた張は得意気にハンドルを切る。すると、偶々あった道路の起伏により、車は思いのほか大きく跳ねた。シートベルトをしている斎藤でも不快気に舌を打ち、していなかったせいで小さく悲鳴を上げて倒れかけた燕を、とっさに左之助が受け止めた。
「……っと。大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」
「もうちょっと気を遣って運転しろよ、ホウキ頭。つか、町中しか走んねぇのになんで4DWなんだよ。どうせならもっと静かで速い車にすればいいのによ」
「じゃかましい! 最初っから速い車なんぞ面白みもなんもないやんけ! それに、俺はこのごっつい見た目が気に入っとんのや! 人の趣味に口出しすな、アホンダラ!」
「へいへい、わかったよ」
「っかーー! かっわいくないトリ頭やな!!」
「……死にたいらしいな」
白熱しそうになった2人の舌戦は、再び斎藤の静かすぎる一言によって中断された。まだ言い足りなそうな2人ではあったが、この狭い車内で斎藤を怒らせるのは得策ではないと身に染みて理解している為、バックミラー越しに睨み合いはしても口はなんとか噤んだ。
車内が静かになったことに満足した斎藤は、懐から煙草のケースを取り出し一本咥える。しかしジッポライターで火を着けようとしたまさにその時、後部座席から左之助の腕が鞭のように伸びて斎藤の口から煙草をひったくった。当然斎藤は、鬼のような形相で背後を振り返る。
「……なんの真似だ」
「バッカ野郎! この車には俺達以外に小せぇ嬢ちゃんも乗ってんだぞ?! こんな狭い所で吸われた日にゃあ、ケムいしにおいついちまうし、何より嬢ちゃんの体に悪ぃだろ!」
「あ、あの! 私のことは気にしないでください」
「いーや! 気にしないではいられねぇよ!つーわけで、今回の仕事の間はおめぇ、煙草禁止な!!」
そう言って奪った煙草を自分のパーカーのポケットに突っ込む左之助を、斎藤は青筋を浮かべて睨み付けていたが、そんな2人をオロオロと見比べる燕が視界に入り、不本意ではあるが折れてやることにした。舌打ち1つでジッポをしまい、前に向き直る。
斎藤がこうもあっさり自分の意見を聞き入れるとは思っていなかった左之助は、あまりの嬉しさに破顔して燕にガッツポーズをして見せた。
そして張は、普段の二割増しで仏頂面な斎藤を横目に肩を震わせた。
「……くくっ。お嬢ちゃんの助力があったとは言え、泣く子も黙る斎藤一に言うこと聞かせられるんはあの相楽くらいやなぁ。なぁ、旦那?」
「……黙って運転していろ」
「へいへーい」
常人なら竦み上がってしまう鋭い眼光で睨みを利かせる斎藤だが、張のニヤけ面はなかなか治まらなかった。
それから暫くは真夜中の静かなドライブが続いた。張の運転もすべらかで、左之助に促された燕は目を閉じ、少しの休眠に入っていた。煙草が吸えず不愉快そうな斎藤も、固く口を閉ざしている。
座席に深く身を沈めて外の景色をぼんやりと眺めていた左之助は、車のエンジン音とは違う何かを感じ、前へ顔を覗かせた。
「……なぁ、なんか聞こえねぇ?」
「はぁ? なんかって、なんや」
「分かんねぇけど、さっきまでは聞こえなかった雑音みてぇのが……」
「ちゅーても、周りにはなんも見えへんやん」
張はサイドとバックミラーを確認し、目視も行うが車やバイクなどは見当たらず、ヘッドライトのような灯りも皆無だった。だが、左之助の言葉を受けて耳をそばだてていた斎藤が眉間の皺を深くし窓を下ろす。話し声で目を覚ました燕も含め、4人は外の音に集中した。
すると、風の音に混じって微かに機械音のようなものが聞こえ、それは次第に大きく耳障りになる。
「……これって」
「……ヘリかいな?!」
左之助も大きく窓を開け、肩まで外に乗り出し空を見た。
まるでそれを見計らったように、近くの林の影から一台のヘリコプターが姿を現した。プロペラが撒き起こす暴風に木々は揺れ、鳴り響く羽音に会話もままならない。
「マジでヘリが来よった! ドクターヘリとかとちゃうんかい?!」
「違うな。明らかにこの車を狙っている」
斎藤の言葉を肯定するようにヘリは彼らの上を旋回し、ついにはサーチライトで車を照らし出した。
「さ、相楽さんっ」
「嬢ちゃんは伏せてな!」
震える声に縋られ、左之助は身を低くするよう指示してから再び窓の外へ視線を転じる。煌々と照らされるライトに目を眇めながらも追い続けると、ゆらりと揺れる黒い影を視界に捉えた。
「おい! ヘリからぶら下がってる奴がいる! 多分……2人!」
「マジかい! 間違っても車の上に飛び降りんなやっ!!」
張はハンドルを切りながらスピードを上げるが、舗装された道路を走っている限り上空のヘリからは行き先が手にとるように分かる。張のテクニックを以てしても、サーチライトから逃れることはできずにいた。
すると、ヘリから下ろされたはしご状のものにぶら下がる影が、ひらりと空中に身を投げ出した。
「……! 飛んだ!!」
「よっしゃ!!」
左之助の声を合図に、張はさらにアクセルを踏み込んだ。一度はしごから宙へ身を踊らせてしまえば、常人では追跡は難しくなるはずである。追っ手を振り切るチャンスとばかり口端をつり上げた張は、内心『アホめ』と呟いていた。
張の期待通り、1人は目測を誤ったのかずいぶんと先の木立の中へ消えていく。もう1人は身が軽いようで異様に滞空時間が長く、ピタリと車の真上を捉えていたが、張がスピードを上げたことにより徐々に間隔は広がっていた。
「旦那のセリフを借りるなら、あいつらそうとうの阿呆やな! おとなしゅうヘリで追跡しとったらええのに」
すっかり余裕を取り戻した張は鼻歌でも歌い出しそうな様子だったが、左之助は違った。未だに身を乗り出したまま、瞬きも忘れたように上空を睨んでいる。そんな左之助の視線の先で、小さくなりつつある人影が大きく腕を振るった。暗闇の空では何をしようとしているのか全く分からなかったが、視力のすこぶる良い左之助の目には、ヘリのライトによって一瞬光った糸のようなものが微かに見えた。
「掴まれっ!!」
叫ぶと同時、左之助は燕に覆い被さりドアとシートの背をがっちりと掴む。斎藤も張も、条件反射のように衝撃に備えた。
それから一呼吸の間もなく車体が揺れ、傾いたかと思うとコントロールを失い、猛スピードのまま右に左に揺さぶられた。
「きゃああぁっ!」
「大丈夫だ嬢ちゃん! 張っ!!」
「わーっとるわい!!」
張は目一杯ブレーキを踏みつつ、ハンドルを取られまいと歯を食いしばる。やがて車は、歩道側のガードレールに激しく車体をこすりつけて漸く止まった。
真っ先に飛び出した張が懐中電灯片手にチェックすると、左の後輪がまるで鋭利な刃物で切りつけられたかのように裂け、バーストしていた。
「マ、マジか。最近替えたばっかやぞ……」
「つーことは、こっから歩きかよ」
「アホンダラ! スペアくらい積んどるわい! それよか、このぶ厚いタイヤかっ捌いた奴の方に疑問持ちぃや!」
「そのとおり。奇妙な髪型の割にまともなことを言いますね」
「!!?」
アスファルトに膝をついていた張と、それを車内から見下ろしていた左之助は、聞き知らぬ男の声がした方へほぼ同時に顔をむけた。全く気配を感じさせず、まるで暗闇から溶け出したかのような黒い袴装束の男が1人、彼らから30メートルと離れぬ場所にひたりと立っていた。髑髏が描かれた覆面がぼんやりと浮かび上がり、窓から様子を窺った燕が小さく身を竦める。
「なんじゃい、おどれは! けったいな格好のクセして、わいのヘアースタイルどうこう言われたないわ!!」
「……その減らず口を閉じろ、運転手」
張の罵倒を遮るように扉が開き、斎藤が覆面の男と対峙する。
「斎藤!」
左之助も後部座席から外へ飛び出し、トランクから抜き出した彼の得物を投げ渡してやる。その形状はどう見ても日本刀と呼ばれるそれで、燕は再度身を竦ませたが、辛うじて悲鳴は飲み込んだ。
「今は仕事中でな。お引き取り願おうか」
「奇遇ですね、私も仕事で来ていますよ。そちらのお嬢さんを奪還するという、ね」
「……っ」
男が覆面越しに燕に視線を寄越すと、怯える彼女を守るように左之助が2人の間に立ちはだかり身構える。
と、その時。覆面男のそばの藪がガサガサと揺れ動き、もう1人、今度は大柄な男が姿を現した。おそらくヘリから飛び降りた2つの影の内、先にフェードアウトした方であろう。ドレッドヘアーを揺らしながら、鋭い目をぎらつかせる。
「お? もうおっぱじまってんのかよ。そんじゃ……!」
男はTシャツがはちきれそう程の筋肉の持ち主ながら、思わぬ俊敏さで斎藤へと詰め寄り、握り拳を振り下ろした。
だがその拳は、斎藤が身をかわすまでもなく左之助によって受け止められていた。左之助の姿を捉え、ドレッドの男は凶悪そうな笑みを見せる。
「よう。てめぇが『万物必壊』と噂の相楽左之助か!」
「あん? なんだ、おめぇ」
左之助が空いた拳を相手の脇腹めがけ振るうと、男は止められていた腕を払い身軽に飛び退いた。
「ハッハー! 俺様は戌亥番神! 長岡幹雄に雇われた奪還屋だ! そして相楽左之助! てめぇの万物必壊の拳を打ち砕く無敵の男だ!!」
「長岡に雇われた、だとぉ?」
雇い主の名を聞き、燕の表情が悲しげに歪む。それが見えていたわけではないが、左之助の眉が逆立った。
「やれやれ。番神くん、フライングですよ。私だってまだ名乗っていないのに」
「おっと、こりゃあすまねぇ」
まったく悪びれた風のない番神がニヤニヤと笑みを浮かべながらも一歩後ろに下がる。そして入れ代わるように覆面の男が前に出た。
「お初にお目にかかります。私は外印。彼と同じく長岡氏に雇われた奪還屋です。奪還するよう依頼されたのは、ご存知の通り三条燕嬢。何も言わずに渡せば良し。抵抗するならば……」
「フン。ならば、どうする? 奪還屋と言うが、奪い屋の間違いじゃないのか?」
抜刀する素振りは見せず、左手に刀を握る斎藤が鼻で笑う。
覆面をしていて目視はできないが、外印も笑みを零したのが気配で伝わってきた。
「誤解されているようですが、今現在、他人の私邸に不法侵入し婚約者を奪うという犯罪行為を行っているのはそちらの方ですよ? 我々は正当な理由の下に、悪漢に浚われた姫君を取り返す役を仰せつかったまでです」
「……チッ」
外印の言は至極正論で、斎藤と左之助は表情を険しくする。
「なあ、そろそろいいだろう? 俺は早いとこ相楽をぶちのめしてぇんだよ!」
「んだと?! そりゃあ、こっちのセリフだぜ!!」
左之助と番神が睨み合いながら拳を握り締める。
「そうですね。私も裏界隈で“最強最悪の男”と怖れられる斎藤一に、是非ともお手合わせ願いたい。もちろん受けてくださいますよね?」
断れぬ状況と分かっていてなお、仰々しく頭を下げる外印に眉をしかめながらも、斎藤の唇は弧を描いた。
「……そんな二つ名は知らんが、こちらには時間制限がある。貴様等が退かぬなら、退かせるまでだ」
「張! 小せぇ嬢ちゃんは任せる!!」
「言われんでもそのつもりや! 早よやってまえ!!」
一度張を振り返った左之助は、すでに抜き放った刀を右手に構える斎藤を認め、その間合いに入らぬようゆっくりと移動した。少しも視線を外さぬまま、番神もそれに倣う。
改めて相手を観察してみると、背はさほど変わらないが腕の太さや胴回りは、華奢に見られがちな左之助の二倍はありそうだった。そして両の手には、まるで甲冑の一部のような厳つい手甲を纏っている。その拳をまともに受ければ、骨が折れるだけでは済まないだろう。
左之助は自身が身につけているグローブを外して放り投げ、小さく呼吸を整えると地を蹴った。ほぼ同時に前に出た番神と、激しく拳を打ち合わせる。受けきれなかった相手の拳がそれぞれの体を掠め、時には直撃したが互いに怯まず、主導権を渡すことはなかった。
「うおらぁぁっ!」
足元を狙って繰り出された番神の一撃がアスファルトを割り、その破片を撒き散らす。かわす為に飛びすさっていた左之助は、相手が体勢を整える間際を狙い、懐に飛び込んでいった。渾身の右ストレートが、狂いなく番神の顎を捉えた。……かのように見えたが。
「?!」
「…甘ぇぜ!」
左之助の拳は手甲によって完全に防がれていた。その手甲にも、傷1つない。
「……チッ。硬ぇな」
「当然よ! これこそが“絶対不破”を誇る俺様の無敵鉄甲だ!! てめぇの拳如きにゃあビクともしねぇんだ、よっ!!」
「ぐっ!!」
左之助を容易く弾き飛ばした番神の返す拳が、的確に左頬を捉えた。手甲と頬骨が鈍い音を響かせ、その衝撃に左之助は上体をぐらつかせた。そこを逃さず、拳の連打と上段の回し蹴りが浴びせられる。全てを防ぐ術なくその身に受けた左之助は所々血を滲ませてはいたが、膝をつくことはなかった。むしろ闘志を漲らせ、ひたと番神を見据えている。
変わらず口元をニヤつかせている番神だが、その背には嫌な汗がじわりと浮いていた。特殊合金の手甲で殴られ続けているというのに、左之助を一度も地面に叩き伏せられていない。ダメージは着実に与えているはずだが、左之助が意に介する程ではないという事実と、よろめくことなく立ち塞がっている現実が、番神に得体の知れない恐怖をもたらしていた。
「……なんでぇ。もう終いか?」
「チッ。なんなんだよ、てめぇ……」
「あぁ? 俺は運び屋の相楽左之助! そんで、おめぇの無敵だか絶対不破だかの拳を砕く男、ってな!!」
そう豪語し、左之助は再び地を蹴っていた。
一方、斎藤と外印の戦いは、相手の出方を窺うばかりで戦況は全く動いていなかった。特に斎藤は外印の得物が何かを図りかね、より慎重になっていた。ただ、タイヤを裂いたのは外印だと確信しており、鋭利かつ衣装に隠せる程小さいものだろうとは当たりをつけているのだが。考えているだけでは埒があかないと、斎藤は間合いを詰めた。すぐさま刀を横に薙いだが、外印はゆらりと身をかわし、そのまま滑るように離れた。そして両腕を交錯させるように振るう。すると、何かが斎藤の周囲を舞った。咄嗟に飛び退いたが頬を掠め、僅かに血が滲む。さらに左正面の風が動き、斎藤は左手に握っていた鞘を突き出した。
「!!」
「……なるほど。細く研ぎ澄まされた鋼鉄製のワイヤーか。これならばかさばらず、それでいてタイヤも刻めるというわけだ。着物の袖で見えにくくしているようだが、手首のそれで巻き取り、指から放出しているようだな」
斎藤の鞘には、光にかざして漸く見える程度の銀色の糸が幾重にも巻きついていた。キシッと擦れる音はすれども、切れる様子はない。
「……さすがは斎藤殿。鞘まで鋼の拵えとは恐れ入りましたよ。そして見事。初手をかわし、尚且つ完璧に見破ったのは貴方が初めてですよ」
外印が手首を返すと、鞘に巻きついていたワイヤーは緩み、瞬く間に回収された。
「しかし、私の得物を見破ったとてこの暗がり。果たしてその目で捉えられるかな?」
心なし声を弾ませた外印が腕を振るう。斎藤はその腕の動きと、周囲の風の流れを頼りにワイヤーの行方を読んでかわした。それでも読みきれず、鞘ごと左腕を絡めとられる。すぐさま刀でワイヤーを切り離したが、次の瞬間には刀の柄を握る右手を奪われていた。
「チッ」
鞘で払おうとした斎藤だが、再び左腕も捕らわれ、まるで蜘蛛の巣に張り付けにされたかのように身動きがとれなくなった。
「フフフッ、遅い遅い。この斬鋼線から逃れられるのは、私と同等かそれを上回るスピードの持ち主のみ。貴方は少々役不足だったようです」
袖の中からスルリと仕込みのナイフを取り出した外印は、なんの躊躇もなく斎藤の間合いに入り込む。
斎藤が僅かに腕を動かすと、ギシリと斬鋼線が食い込んだ。
「おっと。引き千切ろうなんて考えない方がいい。腕が落ちますよ?」
言っている内容は物騒だが、さも愉快そうな外印がそう忠告する。すると、それにかぶせるように斎藤が肩を震わせ笑い出した。
「……何が可笑しい」
「クックッ。こんなもので拘束できたと思っているのが、とんだ笑い種でな」
そう言うや否や。斎藤は力任せに腕を引き、刀を振るった。斬鋼線がコートの袖を裂いたが、腕に達するよりも速く拘束する糸を切り離す。張り詰めていたそれが断ち切られた反動で、外印が僅かに体勢を崩した。その隙を見逃すはずもなく、斎藤が足を踏み出す。
「くっ……!」
「遅い」
まるで意趣返しのように笑うと、外印が構える暇を与えず鞘を薙いだ。渾身の力が乗せられたそれをまともに受けた外印の右腕が、ミシリと嫌な音を立てる。
「うぐぅ……っ」
慌てて飛びすさるが、あまりの痛みに脂汗が浮き片膝をつく。
「おいおい、今の感触だと精々骨にヒビが入った程度だろう。みっともなく呻くな」
「くっ……」
薄ら寒い笑みを浮かべる斎藤を覆面越しにねめつけながら、外印は己の右腕の状態を確かめた。斬鋼線を仕込んでいる手首の装置が砕けている。が、そのおかげで骨は斎藤の言った通り折れるまでには至らなかった。それでも痺れるような痛みが右腕を這いずり回る。
冷や汗を流しながら次の手立てを考える外印の耳に、先程のデジャヴのような破壊音が届いた。
「があぁぁっ……! お、俺様の無敵鉄甲が!!」
「驚いてる場合じゃねぇぜ!」
外印がそちらへ視線をむけたまさにその時、左之助の上段蹴りが番神の鼻下にクリーンヒットしていた。番神の巨躯が一瞬宙に浮く程の衝撃だったが、上手く受け身をとり立ち上がった。その顔面は鼻からの出血で赤く染まり、わなわなと震える拳に纏う自慢の手甲は砕け、破片は砂塵と化していた。
「これが万物必壊の“二重の極み”でぃ! もう無敵なんて名乗れねぇぞ、ドレッド野郎!!」
「……クソッ!」
口元やこめかみに血を滲ませながらも、左之助は勝ち誇った笑みを浮かべ握り拳を突き出した。
対して番神は、ギリギリと歯軋りせんばかりの形相である。
「フン。あちらも勝敗は決したようだな」
「……」
あからさまに嘲笑を含んだ表情で見下ろしてくる斎藤に背をむけるのは非常に屈辱ではあったが、負けると分かっていて挑む程直情的な外印ではない。
「……このまま素直に引き下がるのはなんとも癪ですが。番神くん、ここは一旦戻りましょう」
「……チィッ、仕方ねぇ。だが、まだ勝負は着いてねぇからな! 次はてめぇを地面に叩き伏せてやる! 覚悟しとけ!!」
「そんな鼻血出しながら言われてもな…。まぁ、気長に待っててやるよ、“元”無敵くん」
「“元”言うなっ!! てめぇだってボコボコだろうが!!」
「番神くん、退き際が見苦しいですよ」
なんのかんのと騒ぎながらも、外印と番神の2人は暗がりの藪の中へと姿を消していった。
「……やれやれ、ようやく静かになりよったな」
車のそばで燕を護衛しつつ成り行きを窺っていた張が、大げさなため息と共に肩を竦める。
「おめぇだって似たような感じだろ」
「あんなデカいだけの脳ミソまで筋肉的な奴と一緒にすなや! これだからトリ頭は……」
「あんだよ!」
「黙れ」
「「はい」」
風を切る音と共に斎藤の刀の切っ先が2人にむけられ、さすがにおとなしく従う左之助と張だった。
「タイヤの交換にはどれくらいかかる」
「まぁ、10分もあれば。ちゃちゃっと済ませますわ」
「そうしろ」
「……あ、あの! 何かお手伝い、できませんか……?」
「んん?」
張がトランクから工具箱を取り出していると、わざわざ車を降りてきた燕が見るからに一生懸命という健気さで訊ねてきた。ずっと怯えたような様子だったので、まさか話しかけられるとは思っていなかった張は少し驚いて小さな燕を見下ろした。
「あ~~、えぇよえぇよ。お嬢ちゃんはお客さんやし。中でゆっくりしとき」
「はい。でも、あの、……少しだけ」
興味深げに作業の様子を覗き込む燕に、張も悪い気はしない。結局は色々と説明しながら進める、案外面倒見の良い張であった。
そんな2人の後ろ姿を見てひとまず安心した左之助が自分で放り投げたグローブを回収していると、とっくに刀を車内に収めた斎藤がゆらりと歩き出した。その際、ちらりとこちらに視線を寄越したので、左之助は小走りに斎藤へ駆け寄った。
「斎藤? 何かあったのか?」
「……いいから黙ってついて来い」
どこか苛立たしげな斎藤は吐き捨てるようにそう言うと、ガードレールを乗り越え外灯もない木立の中へ分け入った。
慌ててついて行った左之助も、アスファルトから僅かばかり草の生えた土の地面に足を踏み入れる。その途端、伸びてきた斎藤の手が左之助の胸倉を掴みそばの立木に強く押し付けられた。
「おわっ! 何す……んっ?!」
左之助の抗議の声は、重なった唇によって途中で途切れた。
「んん! ……んっ…は……あ…んぅ…っ」
すぐさま侵入した舌が無遠慮に上顎を撫で、咥内を荒らしていくと、左之助は思わず縋るように斎藤にしがみつく。息も継げぬ程の長い口付けは、一度互いの舌を絡ませたところで唐突に離れていった。
「……ふはっ…は…はっ…。な、なんだよ一体?!」
「……少しは静かにできんのか、お前は」
「こ、こんな時に静かになんかできるかっ」
「阿呆。こんな時だからだ」
斎藤にそう告げられ、左之助はハッと続く言葉を飲み込んだ。
まだ近くに敵が潜んでいる可能性もある上、燕達もいる。木と斎藤の体に挟まれていながら、そっと辺りを窺う左之助を斎藤は鼻で笑い、腫れた頬をベロリと舐めあげた。
「ぅひっ」
「わざわざ敵がいそうな所へ連れ込むか。それに、車からも死角だ」
「あっ、ちょ……っ」
「またやられ放題だな。防ぐなりかわすなりしろといつも言っているだろう」
斎藤の舌は頬を滑り、口の端に残った僅かな血の跡も舐めとっていく。斎藤の器用な舌に肌を撫でられる度、左之助はビクビクと背を震わせる。それでも眉を逆立て斎藤を睨み上げた。
「う、うるせぇっ。おめぇだって、目の下に傷できてるじゃねぇか」
「お前のと一緒にするな」
「んぅっ!」
そう言うなり、再び口を塞がれた。上唇をやわやわと食まれ、下唇を強く吸われると、反射的に左之助の背が反った。
何度も角度を変えながら啄まれ、油断した頃に舌が中へ押し入ってくる。肩や胸を叩いて止めさせようとしたところで、細身に見えて逞しい斎藤はビクともしない。それどころか返って距離を縮められ、グッと腕の中に抱き込まれた。
激しい水音も気に留めずひたすら互いの舌を絡め合わせ、左之助の膝から力が抜け始めた辺りで漸く解放された。
「……はぁっ。さ、さいとう。こんなとこで、盛ってんじゃ、ねぇよ……」
息も絶え絶えに木にもたれかかる左之助の瞳には涙の膜がはり、唇はテラテラと光っている。そんな左之助の様子に斎藤は、手放してしまいそうになる理性を手繰り寄せ、わざと皮肉げな笑みを浮かべた。
「盛っているのはお前じゃないのか?」
「んなわきゃ、ねぇ、だろ……っ。いい加減にしとけよ!」
「まだ足りん。どこかの阿呆に禁煙を余儀なくされて口寂しいんだ。責任をとってもらわんとな」
「お、おめぇっ。なんか苛ついてると思ったら煙草のせいかよ!」
「分かったなら、おとなしく付き合え」
「~~~~っ、わーったよっ!」
左之助が観念したように自ら身を寄せると、斎藤は満足そうに笑み、目の前の唇に食らいついた。
それから、タイヤ交換を終えた張が姿の見えない2人を探して喚き始めるまで、斎藤からの甘い攻め苦は続いたのだった。