アヤカシ・オーヴァドラヰヴ

孤読蕾花

序章 反魂

第1話 アムニージ・アック 其の壱

 目を覚ました少年の頭蓋のうちにある灰白質の中には、記憶と呼べるものも過去と呼べるものも、そのいずれもがどこにも見当たらなかった。

 おおよそ一般常識と呼ばれる知識こそあるから、今自分が身につけているのが手術衣で、手術台のようなものに寝かされていたのだと理解できる。

 体をあらためつつ起き上がり、床に降りると足の裏がひんやりと冷たい。室内は非常灯の薄緑色の灯りが足元を照らす程度で、ろくな光源がなかった。


 一体ここは――そう思って、周囲を見渡す。

 防水タイルが貼られた床にはコード類がスパゲッティのようにのたうっており、コードは天井の一角にある穴から伸びてきている。そこから伸びたコードを目で追うと、部屋の奥に影が一つ。

 生臭い呼吸音と、それに付随する重低音の心音。少年は恐る恐る近づき、ひっと息を呑んだ。


 それは異相の肉塊であった。


 四つの目を持つ頭部に大きく裂けた口。鼻はなく、耳もない。胴体は豊満な女性のそれで四つある乳房にはコードが繋がれ、黄ばんで発酵した母乳が垂れている。チーズのような匂いが漂っていたが、それは性器に溜まる恥垢の生臭さにも似ていた。

 太ももから先のないトルソーで、ぼってりと露出した子宮は粘液でてらてら煌めき、そこから伸びているへその緒らしいものは――少年の臍に繋がっていた。


「っ、ぁ、うわっ」


 少年は両手で臍の緒をちぎり、異形を見た。四つの目がぎょろっとこちらを睨んで、大きく裂けた口の端を持ち上げてうっすらと微笑む。

 一体、これはなんなんだ。

 そばにある姿見を一瞬ちらと見ると、黒髪をボサボサに伸ばした少年がこちらを見ていた。肌は長年引きこもっている子供のように不健康な白さで、目は藍色をしている。

 目の色は人間らしからぬそれ。自分は妖怪なのだろうか。

 肉塊から距離を取り、少年はドアに取り付いてノブを回した。しかりがっちりと施錠されたそれはびくともしない。


「くそっ」


 何度か捻って押しても引いても開かず、思わずタックルをかますが無意味だった。

 少年は去来する無力感と、やるだけ無駄なのだという投げやりな真理をどうすることもできず、虚しさと怒りの混じったため息をついて後ろに下がった。


 沸々と湧いてくる理不尽への怒りが、だんだん黒く染まってくる。どうしてこんな目に遭わなきゃならない――わからないということがなぜわからない? 記憶と過去を喪失しているのに、なぜこうも現状に怒りを抱く?

 それさえわからない。だだただ漠然と腹立たしい。


 ぐるぐるとドス黒い思考が渦を巻く中、目の前のドアが開錠された。

 ドアノブが捻られ、二人の白衣の男が入ってくる。

 妖怪だ。化け狸だろう。狸の耳に四本のしゃもじのような尻尾。丸顔だ。体型もやや丸みを帯びている。その隣には人間の男がいて、そいつは痩身で面長の顔に眼鏡をかけた理知的な印象を持つ人物だった。


「被験体四号が目を覚ましていますね」


 無味乾燥な抑揚のない声で化け狸が言った。


「報告に行け。私が診る」

「わかりました。仮にも人造妖怪です。気をつけてください」


 化け狸が去っていく。

 少年は理解が追いつかず、言葉を失っていた。

 被験体? 人造妖怪? ――一体、何を言っている。


「自分が何者かわからないだろう。安心しろ、君は人工的に造られた妖怪で、我々の研究被験体の四番目だ。それだけだよ」

「な――にを、」

「それ以上でもそれ以下でもない。君はただのモルモットだ」


 冷たく突きつけられた現実とは思えない事実に、少年は絶句して立ち尽くすしかなかった。

 何を言われたのか、脳が理解を拒んでいる。それでも猛毒のように染み込んできた単語が脳に結びついて、強引に言葉を理解させてきた。

 自分は――恐らくはあの肉塊から生まれた実験動物なのだ。

 記憶も過去も持ち合わせないのは、それが理由なのだ。


 少年は急に吐き気が込み上げてきて、思い切りえづいた。

 空っぽの胃からは何も出ないが、胃液が糸を引いて垂れ落ちる。

 研究員と思しき男は少年を見下ろし、バインダーに何か書き込んだ後、綿棒で胃液を採取した。それを保護ジェルが充填されたシリンダーに入れ、無言で去ろうとする。


「待て……っ、お前らはなんなんだ!」

「君が知る必要はない」


 少年の怒りが沸点に達し、怒りに任せて飛びかかった。が、研究員の男は頭脳労働者ホワイトカラーとは思えない敏捷性で腰を落として掴み掛かる少年を躱し、カウンターで放ったボディブローを肝臓に決める。


「ゴァッ」


 激痛にうずくまり、少年は唾液と胃液で床をべちゃべちゃに汚す。

 痛みで涙が滲むのか、こんなひょろい男一人に敵わないことに悔し涙を流しているのかわからない。ただただ惨めで、消えてしまいたくなった。


「手間を取らせるな被験体四号」

「……じゃない」

「なに」

「被験体じゃない。……俺は、……俺は……」

「名もなき怪物。フランケンシュタインの怪物とでも名乗るかね」


 悔しくて、また殴りかかった。しかし容易くカウンターを顔面に叩き込まれ、サイドテーブルに激突して転がされる。

 痛みは後から追いかけてきた。しかし身体的な痛みよりも、心理的に与えられる痛みの方が遥かに問題だった。

 もう立ち上がる気力もない。


「えらく反抗的だな。ここで処分しておくか」


 男が白衣の内から式符を取り出した。炎をかたどった呪文字の中央に炎の一文字。火炎符という火を生む式符だ。

 少年は知識だけはあるので、あれを打ち込まれれば丸焼きにされ死ぬことを悟っていた。

 この後に及んで死にたくないと強く願う彼は、咄嗟に床に転がっていた滅菌メスを握った。

 皮膚をバターのように裂く鋭い刃を閃かせ、男に攻撃する。

 しかし、


「つくづく甘い。何も学ばんな、欠陥品」


 メスを握る右手を捻りあげられた。


「ぐぅ――ぁああああああああ!」

「子供の遊びに付き合う暇はない」


 喉を締め上げられた。それから式符を少年の右腕に押し当てる。


「出来の悪いモルモットとはいえ、腕は惜しいか? 焼き落として、サンプルとしてもらっておこう」

「やめろ――やめろ!」


 妖力が注がれる。ボジュゥッと炎が刃のように圧縮され、放たれた。

 超高熱・超高気圧のジェット噴射は少年の腕を、上腕の半ばから切り落とした。焼かれたせいで血も出ない。


「ぎゃぁぁああああああああああああッ! ぁあ……ぐ、ぁ……あぁ」


 激痛に視界が大きく歪んだ。痛すぎて、そのショックで小便を漏らす。

 無抵抗になった少年を、男はおざなりに投げ飛ばした。


「何度も言わせるな。じっとしていろ」


 その声はほとんど聞こえていなかった。少年は力無くうなだれ、生暖かい尿の感触さえも意識から遠く感じられていた。今更羞恥心などなく、無くした腕の痛みに奥歯を噛み締める。

 男は少年の腕を拾い上げ、去っていった。


 異相の肉塊がその様子をじっと見ていたが、何もしない。あれが生き物なのかどうかもわからない。

 視界に入れていると頭がおかしくなりそうで、少年は視線をドアに向けた。

 そのとき、突如として火災報知器のようなベルが鳴り響いた。


 一体何が起きたのだろうか。

 少年はぐちゃぐちゃにかき乱された意識を振り絞り、なんとか現実に留まることを選んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る