多くの人がダーウィンが残した名言として信じているこの言説は、実は、ダーウィンの言葉ではなく、彼が唱えた「進化論」に照らしてみても誤ったものだった。
ビジネスや政治の世界で好んで使われるフレーズのルーツをたどってみると、意外な事実がわかってきた。
講談社ブルーバックスのロングセラー『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』の著者である千葉聡教授(東北大学大学院生命科学研究科)の新作『ダーウィンの呪い』が話題沸騰中だ。今回の新刊を記念して、誤解と偏見を重ねながら面妖に「進化してきた」アナロジーに潜む謎と病理を解き明かす記事をお届けしよう。
あの名言は、ダーウィンの言葉ではなかった
進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています。
これは19年前、とある首相が行った国会演説の一節である。いわゆる構造改革、〈改革なくして成長なし〉を印象づける文脈で用いられた。
今でも、この演説で触れられた鉤括弧内のフレーズは、ダーウィンが残した言葉として、改革好きの経営者や政治家、学者、メディア等に好んで引用されている。
だが進化生物学的には、不可解な言葉である。
第一に、そもそも安定な環境に棲む生物に当てはまらない。第二に、変化に対応できる生物、の意味が不明である。もし「環境変化に強い」の意味なら、そうした個体が占める集団は、たいてい辺境の変動の多い環境に棲み、やがて安定で好適な環境に移動するとともに、体が大きくて強いなど、高い競争力をもつ個体に置き換えられていくことが多い。
一方、変化する環境に速やかに適応できる集団が生き残る、つまり「絶滅しにくい」という意味ならその確かな証拠はないし、むしろ古生物学者は、絶滅の有無は運で決まると主張してきた。何よりダーウィンの進化の考えとは異なる話だ。
じつはこれはダーウィンの言葉ではない。彼の考えでさえないのだ。いったい、どこから生まれてきたのだろうか。
「ビジネス界の呪文」になった背景
科学史家の調査によれば、これは元々1960年代に米国の経営学者レオン・メギンソンがダーウィンの考えを独自に解釈して論文中に記した言葉であった。それを他者が引用を重ねるうち少しずつ変化して、最後にダーウィンの言葉として誤って伝えられるに至ったものである。
なおメギンソンは19世紀ロシアの生物学者カール・ケスラーの進化説に強い関心をもち、この言葉もむしろケスラーの考えを反映している。ケスラーは競争よりも相互扶助が進化に重要だと主張し、革命家ピョートル・クロポトキンに思想的影響を与えて無政府共産主義に導いた人物である。
そんな背景のもとに記された言葉が、ダーウィン自身の言葉へと「進化的変化」を遂げ、競争を生き抜くためのビジネス界の呪文となったのは皮肉な話である。
さてこの言葉、進化生物学的な興味はもう一つ別にある。環境の変化に対応できる生物ーーとくに、常に変化する環境に速やかに適応できる生物の性質があるとすれば、それはどのようなものかという点だ。
「環境の変化に対応できる」ことの、生物学的な意味
最近のゲノム科学や理論研究が示した答えは次のようなものだ。
集団レベルの性質ならば、多様でかつ現在の環境下では生存率の向上にあまり貢献していない「今は役に立たない」遺伝的変異を多くもつことである。個体レベルの性質なら、ゲノム中に同じ遺伝子が重複してできた重複遺伝子を数多く含むこと、複雑で余剰の多い遺伝子制御ネットワークをもつことである。
要するに、常に変化する環境に適応し易い生物の性質とは、非効率で無駄が多いことなのである。これはたとえば、行き過ぎた効率化のため冗長性が失われた社会が、予期せぬ災害や疫病流行に対応できないことと似ている。
だから、もしこのダーウィンの言葉と誤解されているフレーズが、どう変化するか予想が困難な社会環境のもとで、組織や業務の「選択と集中」や、効率化を進めることを正当化するために用いられるなら、それは明らかに誤りであり不適切である。
「きっと、研究まで興味を持たれていないんだ」
あまり意識されることはないが、実は進化研究の成果は農業、製薬、医療などに幅広く利用されている。たとえば、新型コロナウイルスの感染ルート解明に欠かせぬ分子系統解析の技術は、進化理論の粋を集めたものである。
その一方で、進化を政治が利用すると世に厄災を招くことは、百年以上に及ぶ進化学の歴史が高い再現性で示してきた。何より生物進化の話は、概して社会で誤ったアナロジーとして使われ、人々を惑わす。
こうした不幸や誤りが起きるのは多分、進化の話には多くの人が興味をもつが、進化の研究自体には関心が薄いせいだろう。
現代の進化学者が行う研究は、観察、実験、データ解析や数理モデルによる地道な仮説検証の作業である。だから地味で目を引かず、関心ももたれにくい。
しかしそれはたとえば国民がスポーツの国際試合の勝敗には関心を払うが試合そのものや選手のプレーには無関心な場合と同じで、成果の意味を人々に誤解され易いのだ。
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そこでストーリーを通して、進化研究に興味をもつディープなファン獲得を、と目論むのが拙著『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』である。加えて直面する危機の解決にも欠かせぬ科学的態度――事実に基づく論証、自由な議論と批判の重要さや、常に余裕を忘れないことの大切さを感じていただければと考えた。
きっとただの偶然の一致だと思うのだが、19年前、あの演説が行われた時代を境に、進化生物学を含め日本の自然科学研究を巡る状況は急速に劣化していった。今ならまだ回復のチャンスはあると信じているが、研究者の努力だけでは難しい。回り道でも、それを支えるファンが増えることーー再び土地を耕すことから始めなければならないと思う。
森が枯れても土があれば若木は育つ。本書が未来の森の再生への、呼び水の一滴となれば幸いである。