| 最近のコメント 10 |
| ★4 | 夢は牛のお医者さん(2014/日) | 「新入生がいないのは淋しいから、代わりに牛を新入生として迎えよう」という発端がまず大いに奮っていて(三頭の仔牛の名づけ―「元気」「強子」「モグタン」―にまるで統一感がなく、その命名由来が明かされないのもいい)、涙腺を刺激する強さで云えば、やはりこの児童時代の諸シーンが際立っている。 [review] | [投票] |
| ★4 | ヴィクとフロ 熊に会う(2013/カナダ) | この演出家が非凡な才能、すなわちいかなる状況でもカメラポジションの最適解を導き出せる映画脳の所有者であることは、それこそファーストシーンの時点から明々白々である。懇切丁寧でない飛躍気味の語りが忍び寄る狂気の予感を漂わせ、一行たりともぞんざいに書かれていない台詞も緊張の糸を引き絞る。 [review] | [投票] |
| ★4 | クライ・マッチョ(2021/米) | とまれ「イーストウッド×動物」の映画である。クリント・イーストウッドと動物を取り合わせた図像が宝船級の福々しい縁起物であることは『ダーティファイター』以来の公知事項だが、彼の監督兼出演作がこの美質を押し出すのは(西部劇の馬を除いて)稀だった。然り、『クライ・マッチョ』は事件である。 [review] | [投票(7)] |
| ★4 | 私をくいとめて(2020/日) | 一人芝居/独白劇と二人芝居/対話劇の中間変種。一人が複数の「役」を継起的に演じ分ける多重人格演技とは設計思想を異にし、『her 世界でひとつの彼女』や『スイス・アーミー・マン』と隣接する。よく小技の効いた小さき物語だが、主演者の魅力で堂々押し切るスタア映画としての王道感は大迫力だ。 | [投票(1)] |
| ★3 | 最後のブルース・リー ドラゴンへの道(1972/香港) | 悲劇の幹に喜劇の枝を生やした(制作順で云うところの)前二作『ドラゴン危機一発』『ドラゴン怒りの鉄拳』からは幹枝が逆転しているが、いずれにせよ抜きん出た身体操作性能の誇示に終始することなく、多くの場面で喜劇的であろうと努め続けてきた志向/嗜好もブルース・リーの映画的偉才に数えられる。 [review] | [投票(3)] |
| ★3 | 狂武蔵(2020/日) | 疲労表現の迫真性および状況設定にかけて「山の石松一〇〇人斬り!!」の正統リメイクと云える。殺陣が極度にリアルを志向していることは承知するが、とりわけ坂口拓の移動なり剣戟なりを彼の背後から捉えた画面造型はある種のヴィデオゲームに酷似してしまう。給水所や代替刀の点在もその感を助長させる。 [review] | [投票(3)] |
| ★3 | ホモ・サピエンスの涙(2019/スウェーデン=独=ノルウェー) | 退屈の核心は筋やアクションの不在というより被写体の魅力の欠落にある。どやつもこやつも血色が悪すぎて不気味だ。このメイキャップはゾンビに施される類のそれである。舞台が冥界と解するならば原題「果てしなさについて」も腑に落ち、死者は生前と変わらぬ営みを続けるという死生観が立ち現れてくる。 | [投票(2)] |
| ★4 | ゆきゆきて、神軍(1987/日) | 奥崎謙三のキャラクタが特異であるだけに、そのありのままの行状を漫然と撮るだけでも珍プレー好プレーの量産が望めそうなところ、それをよしとしない原一男は彼を探偵役に据えた探偵映画として一篇を構想する。「事件」と「探偵の造型」二種の謎の衝突・響応を按配して物語る構造に普遍的な強度がある。 | [投票(3)] |
| ★3 | フットノート(2011/イスラエル) | ライトコメディとして撮るべき話題にほどよい重みを適宜加えつつ語る企みはそれなりに成功している。しかし「ユダヤ教文献学」「イスラエル賞」といった制作国ならではの素材は他で代替/置換可能の作劇要素に過ぎない。国際映画祭的評価文脈依存度は黄信号が灯っている。と意地悪な奴原なら囁くだろう。 | [投票] |
| ★3 | ホドロフスキーのサイコマジック(2019/仏) | 善き詐欺師ホドロフスキーの演出大全。生肉散布、南瓜粉砕、身体着色。サイコマジックは総じてお片付けが大変だ。「汚す」「散らかす」は概して文明人が厭う行為ゆえ癒しの糸口もある。などと云えば一理ありげに聞こえるが、同時に映画的演出でもある。こうも集成すると類型化の趨向が気遣わしくあれど。 | [投票(2)] |