2023年 11月01日 (水) 06:45
おはようございます。ピストンです。
生きております。
以前から申しておりましたが、終活の一環として年内でこちらのアカウントを削除させていただきます。
来月1日に最後の活動報告をあげて、1週間後の12月8日に削除という予定。
それまでお付き合いいただければ、幸いですの。
さて、世間的に今年下半期の大きな話題といえば、ジャニーズの話。
これは私も色々と考えなきゃいけない話だと思うのですが、体調不良の私にとっては手に余る問題でして、正直ちょっとスルーして逃げちゃおうかな、と思ってます。
やっぱりこの問題のポイントは「知ってた」ってことだと思うのですよ。
ネットもない80年代の末、京都の外れに住む高校生の私ですら知ってましたもの。その後、文春の裁判の時点で私の中では事実だと判定してましたし。
しかし私は何のアクションも起こさなかった。言ってみればクラスの中のいじめを見て見ぬふりする同級生みたいなもので、私にも確実に罪はある。
ただ、クラスのいじめだと私は罪悪感を持つと思うのです。あるいは身近な知人の子供が性加害を受ければ、相当な怒りを持つと思う。
でも過去にジャニーズの話を聞いて、私の心が動いたことってないのです。正直、今もない。さっき観たバラエティにジャニーズのタレントさんが出てましたが、私は屈託なく楽しみました。逆に彼が今回の件で芸能界から消えたとしても、特に残念とも思わない。この騒ぎが今後どのような展開をむかえようが、おそらく私の心に大きく響くことってない気がします。
東日本大震災の時、ニュースを見ながら私は涙しました。9・11でビルに飛行機が突っ込んだ時も。
でも今年、モロッコの地震やリビアの洪水で数千人規模の死者が出たというニュースを見ても、涙は出なかった。
同じ行ったことのない場所でも、知らない人でも、東北やニューヨークとモロッコ、リビアでは、私にとってのリアリティが違う。感情移入に差が生まれる。
私の中で、人の命の重さには確実に違いがある。人の痛みにも。人の価値にも。
私という人間の正義とか倫理とか共感とか想像力とか誠実さとか、そういうものの限界や欺瞞を改めて見せつけられたような、今回のジャニーズの一件なのであります。
では、雑談。
次回は別れの挨拶となりますから、普通の雑談としましては、これが最後の回。
ということで、今回は創作物の好きなラストシーンについて話をしていきます。古典や有名シーンばかりですが、ネタバレではありますので、ダメな人は今回はパスでお願いしますの。
好きなラストシーン、真っ先に思い浮かべるのは映画『戦場のメリークリスマス』の有名なラスト。処刑前夜のハラ軍曹の元にロレンス中佐が面会にやってくる場面。別れ際にハラ軍曹が放つ「メリークリスマス、メリークリスマス、ミスター・ロレンス」であります。
戦メリ自体はそこまで好きな作品ってわけではないのですが、私はこの「作中ずっと呼び捨てだった人物に対して、何かのタイミングで敬称をつける」というシチュエーションが大好物。
特に『戦メリ』は最後の最後、この一言で映画が終わるわけですから、堪りません。
実は私にも、このシチュエーションが使いたくて書いた話がありました。主人公の浪人生たちがラスト近くで大学受験に合格。予備校に報告に行った際、それまであだ名で呼んでいた若い女性講師に「〇〇先生、ありがとうございました」と深く頭を下げる。かなりベタなシーンだったんですが、やっぱり好きなシチュエーションって書いてて楽しいんですよね。
私が書いたといえば、自作のラストで多用したシチュエーションが電話を切る、切られるといったもの。従順だったお嫁さんが、姑からの電話にたいして「今、忙しいので後にしてもらっていいですか」と返事して切るとか、母親が所有物のように思っていた娘に電話をかけたら「その番号は現在使われておりません」の音声がかえってくるとか、そんなのばっかり書いてた時期があります。メールのない固定電話の時代、大昔の話ですけど。
これはもう完全にグレアム・グリーンのスパイ小説『ヒューマン・ファクター』のラストから影響を受けてます。
グレアム・グリーン作品のラストといえば、有名なのが映画『第三の男』のラストシーン。枯れ葉舞う並木道、画面の奥から真っ直ぐ歩いてくるヒロイン。手前で待つ主人公。しかしヒロインは主人公に一瞥もくれることなく通りすぎて画面から外れていく。あの長いワンカットは映画撮ってる人間なら誰でも真似したくなるようなカッコいいシーンでありました。
スパイ小説やハードボイルドだと、主人公側が勝利したり、事件が解決したりしても、虚無感やほろ苦さが残る作品って多いんですけど、やっぱりビターなエンディングってのも良いですよね。ロス・マクドナルドとかトマス・H・クックなんかの作品の締めかた、とても好き。
日本だと藤沢周平さんなんかが、なんともキツい場面でポンッと読者に放り投げるような終わりかたしたりしますけど、ああいうの時々無性に読みたくなります。
フィクションなんだからハッピーエンドを、というのもすごく分かるのですが、逆にフィクションだからバッドエンドやビターエンドが楽しめるってのもあると思います。だって現実にキツい状況に居たら、楽しむ余裕なんてないですからね。フィクションだからこそ、悲劇の中の美しさを、醜さの中の人間味を、憎しみの中の愛しさを、孤独の中の自由を、十分に堪能できるということでしょうか。
人は死という、ほとんどの場合は痛みや苦しみを伴うエンディングを迎えるわけですから、そういうラストにも美しさや意味が隠れているバッドエンド、ビターエンドというのは、ある種の安心感を与えてくれる物語の締めかたなのかもしれません。
さて映像作品の場合、ラストシーンの後にエンドロール、スタッフロールというものが流れたりします。そして私の世代で忘れることができないのが、ジャッキー・チェン作品のエンドロール。撮影中のNGシーンを流すってやつです。
普通、NGシーンというのは笑っておしまいなのですが、ジャッキーの場合はそこから凄みを感じさせ、最後は感動にまで到達するという、NGシーン集とは思えないものになっておりました。
テレビアニメの場合、OPEDクレジットがきっちりとしたフォーマットとして作られています。結果としてアニソンというジャンルまで生まれたわけですから、一つの文化といえるでしょう。
そして好きな作品と好きなミュージシャンが組み合わさった時というのは、とても嬉しいものです。
私の場合、劇場版『SHIROBAKO』とfhánaさんの組み合わせがそのパターン。
『SHIROBAKO』は珍しく私がブルーレイボックスを購入したくらい好きなテレビアニメ。アニメ制作会社を舞台にしたクリエイターたちの群像劇なんですが、映画業界をドロップアウトしちゃった私には刺さる刺さる。平岡くんとか堪らん。一番好きなアニメかもしれない。
fhánaさんは私にとって「音楽的には好みから外れるのに何故か応援することになったミュージシャン」の代表格。何組かいるんですが、基本はラジオをたまたま聴いて親近感を抱いたってパターン。勝手に友達感覚を持ってしまって、そうなると曲まで好きになってくるから不思議。
そんな『SHIROBAKO』の劇場版が製作され、主題歌をfhánaさんが担当。テレビ版にはfhánaさんノータッチでしたから、予想外のことで私は大喜び。
エンドロールで流れるんですけど、これが良いんですよ、曲も映像も。
で、エンドロール終了後に短いアニメパートがあるのですが、ここで私の好きな物語の締めかたってのが、言語化されてまして。
作中でも主人公の内面を代弁する、二体のぬいぐるみがいるんですが、彼らが最後にこう話す。
「生きるって永遠に俺たたエンドだから」
「でも悪くないね」
俺たたエンドというのは「俺たちの戦いはこれからだ」エンドの略ですね。ジャンプ漫画あたりで人気がなく打ち切りになる際、戦いの決着もクソもなく終わる、アレです。
実質エタってるのと同じですから、基本的にはみんなから嫌われる、馬鹿にされるエンディングの形ではありますよね。
ただ私、実は俺たたエンド肯定派閥の人間。いや、全方位完結大団円エンドも好きなんですけども、ちょっとだけ作り物に感じてしまう。カップル成立めでたしめでたしエンドも、次の日からは恋人としての日常が始まるわけですし、刑事が事件を解決したり会社員がプロジェクトを成功に導いても、次の朝にはまた出勤しなきゃいけない。主人公が死んだとしても、周りの人間には明日がやって来る。
なので、物語としては一つの区切りがつきながら、少しだけ「俺たた」感がある、くらいのエンディングが一番のお気に入り。
実際の形としては、作中の物語を経て、再び日常に帰る登場人物たちのちょっとした意思表示というのが好み。まあ、この活動報告は1ヶ月ほどの存在ですから、がっつり引用しちゃいますと。
ロバート・A・ハインライン『夏への扉』ラスト3行。訳は福島正美さん。
“彼はいつまでたっても、ドアというドアを試せば、必ずそのひとつは夏に通じるという確信を、棄てようとはしないのだ。
そしてもちろん、ぼくはピートの肩を持つ。”
北村薫さん、『スキップ』ラスト3行。
“昨日という日があったらしい。明日という日があるらしい。だが、わたしには今がある。
そしてわたしは、自分の決めたその人の隣に、今、頬を染め近づいて行く。”
こんな感じの。
私はやっぱり、世界や運命に対する人間の自由意志というのが、一番好きみたい。
では今回の雑談は、以前の活動報告の文章でもパクったことがある、私のお気に入りエンディングを引用して、終わることとしましょうか。
ロバート・ゴダードの名作『リオノーラの肖像』ラストページの一節から。訳は加地美知子さん。
“リオノーラは車に乗りこみドアを閉めた。彼女には乗らねばならない汽車があった。帰らねばならない家があった。戻らねばならない現在があった──そして、ずっと忘れていた、まもらねばならない約束があった。
(略)
リオノーラの思考は遠くへ行っていた。彼女が答えたとき、それは娘の質問にたいする返事ではなく、曾祖父にたいする約束だった。「ええ、なるわ」
「何になるのよ?」
「幸せになるわ」”
これにて今回の雑談はおしまい。同時になろうでの私の雑談もおしまいです。
ヒロインランキング参加が19年4月。活動報告でだましだましの補足を始めたのが19年12月。月1の生存報告を始めたのが20年8月。
私って、自分の都合で閉じたとき以外では、毎回感想やコメントをいただいてきたんですよねえ。皆さんのおかげで、楽しいなろう生活がおくれましたの。ありがとうございました。
それでは来月1日に。
いやぁ、なろうって本当にいいものですね。
それでは皆さん、さよなら。さよなら。さよなら。(水野さん&淀川さん風に)
余裕がありましたならば、テキトーに読み流して下さいませ〜
感情移入の差、コレはヒトならば誰しもー、でありましょう。そこに後ろめたさや罪悪感を感じるのは人としての度量であるかと。
何故イジメは、犯罪は、戦争は無くならないのか? と言う問題にも相通じるトコロかなー、と。 人の為す善きも悪しきも根源は群れをつくる動物としての本能でありましょう。 私の感じた世の理不尽や矛盾に対して納得出来る答えを示してくれたのは宗教や哲学、政治思想などではなく、自然科学でありました。
好きなラストシーン、思い出に残るラストシーン、私も多々ありますですよー、ええ、ソレはもう、ねw
ソレ等はさておいて、『戦場のメリークリスマス』。映画を見てから翻訳小説を読みまして、「あー、そーゆーことだったのかー」と納得しましたですか。映画のラストシーン、北野たけしがドハマりでしたねー。
私、小学校低学年の折に基地のアメリカの子達と言葉もロクに通じ無いままに遊んだ経験がありましてー、その後まぁ色々とありましたが、正しく得難いよい経験をしたものだなー、と。
ビターエンド、わたくすも大好物であります♪ 少年少女が主人公であるならば、また別ですが、大人が主人公であるならば、一抹のニガミは欲しいトコロでありますねー
バッドエンドは、本当に辛い読後感に襲われる事もありますが、「メメントモリ」の修練修行ともなり得ますですかねー。とは言え、まぁ、普通の方にはオススメは致しかねますぬw
「オレ戦エンド」、物語の終わった後も、彼等の生は続く。で、あるならば。さもありなん。
過ぎてしまえば、あっと言う間の四年半でした。私も、私の方こそピストンさんとの交流は、なろうでの大きな愉しみでありました。
ありがとうございました〜♪
なろ活を終えて後のピストンさんの戦いにエールを送ります
フレーーーェッ!
フレーーーェッ!
ピーーー
スーーー
トーーー
ンーーーッ!
フレッ! フレッ!
ピストンッ!
フレッ! フレッ!
ピストンッ!
ザァーッス!!!
では、次回を愉しみにお待ちしてます