生存報告、その30
2023年 10月01日 (日) 07:28
おはようございます、ピストンです。
生きております。

先月は体調不良でお休みさせてもらいましたが、今月はなんとか生存報告書きあげましたの。ただ体調不良継続中につき、コメント欄は閉じさせていただきます。来月は開けますので。

先月、体調不良じゃなかったら、雑談では最後にランキングものをやろうと思っていたのです。
そこで普段の私は自分の投稿した文章を読み返したりしないタイプのユーザなんですが、過去にどんなランキング書いたっけ、と珍しく読み返してみたのですよ。

そしたらびっくり。書いて投稿したと思い込んでいた文章がいろいろと見当たらない。執筆中一覧にもないので、どこか気に入らず削除したんでしょうねえ。
いちばんのびっくりはロバート・B・パーカーって作家さんについての文章がないこと。パーカーについて何本か書いたはずなんですが、だましだましにも図書館行ったらにもパーカーの回って存在しない。あいつらどこ行った?
(1本は思いだしました。ヒーローランキングの時、初稿ではパーカーの生んだ探偵スペンサーが入っていたのです)

他にも見当たらない文章はたくさんあって、今回読み返さなかったら、私は投稿したと思ったままだったでしょうから、やっぱり自分の記憶とか、体験談、経験談、そういうのってアテにならないなあ、と思いましたです。ハイ。


では、雑談。
今回の主題は、そこそこ。
皆さんには馴染みのない作家名、作品名を連発しておりますが、そんな人がいるのねと流してお読みくださいませ。


持ち物を処分するため、押し入れの奥から長年ほったらかしにしていたダンボール箱など取り出して開けてみますと、同じ本を何冊も持っていたりして我ながら呆れます。
よくやるのが、最初に図書館で借りて面白かった小説を、後にブックオフの100円コーナーで見つけて「手元に持っておこうか」と何度も買ってしまうパターン。印象に強く残っているのは図書館の本ですし、100円と気軽に買ってますから、持っているのを忘れてしまう。凄く面白かった傑作や名作ではなく、そこそこ面白かった佳作ってことが多い。
それにしたってトマス・ペリー『蒸発請負人』を4冊持っていたのは忘れすぎだろう、私。

『蒸発請負人』は1995年の作品で日本での翻訳は2001年。本国アメリカでは同じ女性主人公が活躍するシリーズが10作近く続いているのですが、日本での翻訳はこの第1作だけで打ち止めとなってしまいました。魅力的なヒロインだけに少し残念。
トマス・ペリーに日本でのヒット作なんてないのですが、どれもそこそこ面白いので忘れた頃に翻訳が出る。日本では消えそうでなかなか消えない作家さん。

一方で、やはり押し入れの奥から出てきて懐かしいと思ったのがジョン・ラッツ。こちらは翻訳のある全作品が今は絶版、電子書籍もありません。私の知る限り最後に翻訳が出たのが2003年。最新で20年前となると本の状態で買い取りが決まるブックオフからも消えがち。図書館でも棚ではなく書庫に行きがち。あるいは既に処分されているかも。新しく読者を得るという意味では、日本では消えてしまったと言っていいかもしれません。

ただジョン・ラッツという人は70年代から90年代、そこそこ読まれた作家さん。ハードボイルド系の人ですが、映画化された作品もありますし、今後もハードボイルドの歴史に関する評論とか、そういうものには名前が出てくるかも。
未来の日本の翻訳ミステリ好きにとっては、名前は聞いたことあるけど読んだことはないって存在になるのかな。
私の評価は、本当にそこそこって感じ。わざわざ探して読むほどではなく、復刊するほどでもないが、もし新しく訳出されたなら懐かしくて、つい手に取ってしまうことでしょう。

さらに押し入れからは作家としても作品としても、日本では完全に忘れられてしまった、消えてしまったというものも出てきます。翻訳ミステリ好きの間でさえも、話に出てくることのなくなった作品たち。

ナイーブな青年探偵が事件の真相を追う、スティーヴン・P・コーエンの『ハートレス』『アイランド・オヴ・スティール』もそんな作品。日本での出版は87年と90年ですね。
『ハートレス』のほうは出版時そこそこ評判になった記憶があります。少なくとも第2作が翻訳されるくらいには売れたわけですし、私も面白く読んだ気がする。
『アイランド~』のほうは全く記憶にない。読んだのか読んでないのかさえ記憶にない。
今回パラパラと流し読みしてみました。

この2作では、やっぱり『ハートレス』のほうが面白い。ただ興味深いのは『アイランド~』のほうが小説としてはしっかりしていること。
『ハートレス』は作中の主人公もナイーブで青臭いのですが、作者も頑張って雰囲気だそうとする文章が未熟で青臭い。でもその青臭さが青春小説的な読み味につながっている。
『アイランド~』は作者も主人公も経験を積んで成長している。つまりきちんと「普通の私立探偵小説」になっている。そして普通の私立探偵小説であれば、上記したジョン・ラッツあたりのほうが面白く、これでは消えてもしょうがない。

経験を積めば成長はしてしまうもの。『ハートレス』の未熟さは継続できるようなものではなく、続編では「面白い普通の私立探偵小説」を書く必要があった。そしてそれはならなかった。単純に純粋に作者の実力不足。
未熟な、不出来なほうが面白く、成長した、完成度の高いほうがつまらない。なんとも難しい話。

作者の実力というなら『ラッキー第13分署』のジョン・ウェスターマンには、確かな腕があるようにも思えます。ただ日本での翻訳は91年出版のこの1作のみ。訳者あとがきからもう1つ著作があることがわかりますが、その後のことは全くわかりません。
そしてこの作品、当時から話題にならず埋もれてました。今となっては完全に忘れ去られています。
私はそこそこ好きで、佳作だと思うんですけど。

作者自身が元警察官。問題児の集まる分署。雑多な制服警官たちの日常業務。こう書くとミステリ好きなら、警察小説の巨人の一人、ジョゼフ・ウォンボーを連想したりします。ただ読み味はずいぶん違う。
『センチュリアン』『クワイヤボーイズ』といったウォンボーの初期作品は、アメリカでは映画化されたほどのベストセラーなんですが、日本ではイマイチ読まれなかった。初期のウォンボーはアクというかクセというか強くて、好き嫌いがはっきりしちゃう。

それに比べればウェスターマンはマイルド。万人が楽しめるのは、むしろこちら。
でも逆にいうとそれは、深くは引っ掛からないってことなんですよね。
『ラッキー第13分署』は面白いんだけど、じゃあ熱心に布教しようとはならない。時間がたてば忘れてしまう。ウォンボーのほうは熱心なファンも多い。

運も悪かった。この作品が出たのは講談社文庫。当時の講談社は翻訳エンタメが弱くて、私もちょっと侮ってました。翌92年、パトリシア・コーンウェルの『検屍官』が大ヒットして、講談社は翻訳ものに力を入れだすのですが。
もし早川や創元から出ていたなら、何年か後の講談社だったなら、ちょっとは状況変わってたのではないかしら。

そう。
「そこそこ面白い」は忘れられてしまうのです。時がたてば。
売り場から消えてしまうのです。次の「そこそこ面白い」と入れ替わりに。
埋もれてしまうのです。「凄く面白い」の陰で。
そもそも全ての「そこそこ面白い」が世に出られるものでもないでしょう。
全ての「そこそこ面白い」が日の目をみるには、この世に「凄く面白い」や「かなり面白い」が多すぎる。

小売業で発注など担当した経験がある人ならわかるでしょう。毎週毎週どれほど多くの新商品が発売されることか。
正直、売り場担当の人間は「何を置くか」よりも「何を切って場所を空けるか」のほうに、より労力を使っていたりするものです。
私自身も発売日から2、3日の結果で切ったり、そもそも最初から取らなかった商品は数知れず。
それらの商品が他と比べて大きく劣るわけではないのです。

なろうのレビュー欄などで見かける「書籍化されてもおかしくない」「あれが書籍になるなら、これが書籍になってないのはおかしい」なんて言葉。
でもそのレベルが埋もれるのはしょうがない。
書籍として本屋に置いてある作品も多くは埋もれ、初版で消えていく。遥か海を渡り日本で紹介された作品でさえ、初版で消えていくのですから。

以前の五輪マラソン競技における日本代表選手選考は、4つの大会の結果から3人を選ぶという歪なものでありました。バルセロナ五輪での有森、松野両選手を巡る騒動をはじめ、毎回のように揉め事がおこっていたものです。
ある時、そういった話題を取り上げたワイドショーで、細かい言い回しは忘れましたが、松本人志さんがこんな意味のことを言ってました。「4つのレースから3人を選ぶ以上、わだかまりは必ず出てくる。なんで私じゃなくてあの人がってことは出てくる。それでも絶対に選ばれたいのなら、誰がどう見たって、ずば抜けた成績を残すしかない」

世界の人口は80億を越えて増え続け、逆に日本の人口は減り、国内市場も縮小している今、どちらのベクトルにしても「そこそこ」が埋もれてしまう確率は高まっているように思います。
ただネットが発達し、誰もが「まだ他の人が見つけていない優良コンテンツを発見して、センスの良さマウントをとりたい」欲にかられている現在、「ずば抜けた」が埋もれてしまう可能性は小さくなっているのではないでしょうか。

「そこそこ」であるなら、埋もれる埋もれないは最終的には運。マーケティングによって確率を上げ下げすることはできても、最終的には運。「そこそこ」のレベルで世を嘆いても、本人の精神安定以上の意味はない。
絶対に何かを掴みとりたいなら「ずば抜けた」を目指さなければ。到達しなければ。世を嘆くのは、そこからの話。
というのが、私の考えなのであります。


でも一方で、こんなこともありました。

昨年の下半期、私は傑作や名作と呼ばれる小説ばかりを読んでおりました。残りの時間を思えば、あれも読まなきゃこれも読まなきゃ、そこそこの作品なんて読んでる暇ないぞ、と。
傑作名作といっても、あくまでエンタメ小説の分野ですから難しい作品を読んでたわけではありません。クリスティなどの古典、有名賞の受賞作、お気に入り作家の読んでない作品、年末ランキングの上位作などなど。
あまりにも好みから外れてそうな作品は、そもそも手に取ってませんから、読んだ作品はどれも、なるほど高く評価されるだけの内容を持った作品。面白いなと思って読んでいたのです。

ただ年末、私は何故かロバート・ポビ著『マンハッタンの狙撃手』というアクション小説を図書館で借りてきて読んだのです。
こちらの作品、北上次郎さんがどこかで誉めていたのが頭にあって借りてきたのですが、北上さん以外の書評家が言及している記事を見たことはなく、刊行当時話題になることもなく、当然年末の各ランキングに入ることもなく。
日本での出版は2019年。その時点でシリーズ3作まであるらしいのですが、今だに2作目が出てないってことは、翻訳は打ち切られたのでしょう。

真冬のマンハッタンで起きた狙撃事件。被害者はFBI捜査官。捜査責任者は被害者の元相棒であり、今は引退していた主人公に復帰を依頼というベタなストーリー。登場キャラもステレオタイプの域を出てませんし、展開もご都合主義感がありますし、社会派要素もありますが深みはなく、テンポの良さだけが取り柄の、まあ50点から60点って感じの作品。映画でいえばテレ東の午後にやってそうな。

でも楽しかったのです。
一気に読み終わった私は、思ったのです。
「ああ、久々に面白かった」と。
その前には傑作や名作を読んで、評価にふさわしい内容だと納得していたにも関わらず「久々に」と。
同時に思いました。それらの傑作や名作にたいして「もったいないことしたなあ」と。

おそらく私のような人間には「もの凄く面白い」ものを「もの凄く楽しむ」ってことを、連続して行い続けることは不可能なんですよね。
それが出来るのは、何かのジャンルをもの凄く愛している人、そのジャンルに生涯を費やして飽きることなく悔いないような人であって(たまに複数のジャンルを凄く愛せる、人生の達人みたいな人いますけど)、私みたいなあっちもこっちもそれなりに好きっ、てな人間には、ある程度の「そこそこ面白い」を、きっちりと「そこそこ楽しむ」って期間がないと「もの凄く面白い」をきちんともの凄くは楽しめないみたい。

ただそうなると、私の人生のクオリティを左右してきたのって「もの凄いをもの凄く」って能力よりもむしろ、そこそこな物事を、きちんとそこそこ楽しめるかって能力だったんではなかろうか。

その点、私は自分が出会ってきた「そこそこ面白い」のラインナップと、自分がそれらをきっちりと「そこそこ楽しんできた」ってことに、そこそこの自信を持っているのです。


ということで、今回はこのへんで。
ちょっと体力が尽きて、後半ぐだっちゃったかもしれない。
では、また来月1日にお会いできたらと思います。さよならー。
コメント
コメントの書き込みはログインが必要です。