2023年 06月01日 (木) 06:39
おはようございます。ピストンです。
生きております。
前回が3月1日だったので、3ヶ月ぶりの生存報告。
その間、コメント欄などには書いてましたが、入院などしておりました。
今回は死んでた可能性も多少はあったんですよね。
そして入院中に思いました。私はやっぱり、自身の痕跡はなるべく消していきたい人間なんだなと。消したんだけど、私の知らない所に何かちょこっと残っている、みたいなのが好み。
ということで、最終的にはこのアカウントも、消していこうと決めましたの。
問題はどのタイミングで消すか。
そりゃ最期、いい感じのタイミングで消せればベストなんですけど、そう上手くいかないのは今回実感しました。
ですので区切りのよい所で今年の終わり、12月のどこかでなろうのアカウントも削除しようと思います。なろう含めてネット上のあれこれを整理、最小限の状態で来年以降の生活を、って感じです。
気づいてた人もいるかもしれませんが、今年に入ってから私ってなろうで評価も入れてないし、ブクマや感想もしてないんですよね。読んでないわけじゃなくて、近いうちにアカウント削除するかもしれないからだったんですよ。
そして今回、削除を決めましたので、私のなろうでのポイントにまつわる活動は終了。ほら、活動報告とか見てても完全にブクマ数とかポイント数とか増減を把握している作者さんいるじゃないですか。いずれ消えるポイントは入れにくいんすよ。
ああ、別にすぐ死ぬってわけじゃないですよ。感覚としてはワンピースのラストは無理、ヒロアカ、ブラクロ、呪術のラストは読みたいなって感じ。
では残りの半年間、毎月1日に雑談しに来るつもりですので、よかったらお付き合い下さいませ。
さあ、ここから雑談と思ったのですが困ったことが一つ。
いやね、薬のせいなのか他の要因のせいなのか、このところずっと頭の中に薄皮一枚かぶさっているような、思考力の低下があるんですよ。ある方向に集中すれば、そちら側に思考は展開できるんですけど、枝葉が広がりにくいというか、関係ないヒラメキがなくなったというか。思い付きから何らかの結論まで展開するってことが難しくなっておりますの。
なので長い文章に出来そうな話は次回以降においといて、今回は思い付いたはよいが、思い付いただけって話を何個か。だから何だってことばかりですが、ツイートみたいなものと思って流し読んでもらえればと。
〇 議論
まだツイッターのアカウント持っていた頃に何度か見かけた「作家は経験したことしか書けない」みたいな発言を巡る議論。
前回生存報告の「本格ファンタジー」もそうですが、ツイッター創作界隈の議論は前提となる言葉の定義が一致してないために、基本的に各々のお気持ち表明の羅列になるんですよね。「経験」を本当に自身の体験と限定する人もいれば、そこに通じる感情だったり、創作物などから得たものまで含めたり。「書けない」も全く書けないとする人やら、上手く書けないとする人やら。
ただふと思いました。私って「言葉の意味を完全に共有することなど不可能」論者なわけですよ。ということは細かくみれば議論の前提となる言葉の定義を完全一致させるなんて不可能。一見成り立っている議論も、よくよく見れば、お気持ち表明の羅列なのではなかろうかと。
そこで今回の思い付き。
「議論とは、たまたま何かの成果にたどり着いた、お気持ち表明の塊である」
こんなんでました。
〇 オリジナリティ
やはりツイッターやっていた頃、自作のオリジナリティに自信満々なコメントしている人が作品へのリンクも貼っていたので、どれどれと読みに行ってみたのです。そしたらもう、どこかでみたような設定のオンパレード。なろうテンプレでないってだけで、目新しさゼロ。
まあ、目新しさゼロの作品自体は別にいいんですが、何故こんな自信満々のコメントできるんだと、そっちのほうが面白かった。
なろうでも「非テンプレ」とかわざわざキーワードやあらすじに書いてある作品にオリジナリティ感じることって無いじゃないですか。なろうのテンプレじゃなくても、外のベッタベタのテンプレで。本当にオリジナリティある人は自作がテンプレかどうかなんて、そもそも気にしませんし。
で今回の思い付き。
「オリジナリティとは無知から生まれる幻想に過ぎない」
ただですね、私が近年読んだ翻訳ものでいえば『サイレント・スクリーム』『ハティの最後の舞台』なんて作品は、まあ目新しさはないんですよ。どこかで読んだような設定が、どこかで読んだように展開し、どこかで読んだような結末を迎える。ただつまらないかというと、そうじゃない。面白かった。特に『ハティ』は一つ一つの人物や事柄を丁寧にしっかりと描くことで、胸に迫る傑作といっていいレベルに到達している。
ほら、人の指紋ってパッと見たら全部一緒に見えるじゃないですか。でも実際には同じものは一つもない。
小説も一緒かなと。同じ話を書いても、別の人間が書けば一つ一つ違ってくる。クラシックの曲や落語の演目が、演者によってまるで違ってしまうように。
思い付き、その2
「オリジナリティなんて、どうせどんな作品にも存在してしまう」
じゃあ、どんな作品にも価値があるのかといえば、「ある」ともいえるし、「ない」ともいえる。書いた本人には価値があるだろうし、読んだAさんにもあるかもしれない。でもBさんにはないかもしれない。
思い付き、その3
「私にとって面白いオリジナリティと、面白くないオリジナリティがあるだけで、オリジナリティそれ自体、私にとっては価値がない」
こんなんでました。
この思い付きからはAIに関する話に展開できそうな気がしますけど、今回は体力不足でここまで。
〇 一般受け
何度か書いてますけど、私は乃木坂46の皆さんが好きなんですよ。ただ別にCD買ったりコンサート行ったりするほど、熱心なファンではないのです。幾つかのテレビ番組を毎週楽しく観たり、あとYouTubeでも動画を観たりしている。
そうすると、YouTubeのおすすめに、乃木坂さん関連の動画が出てきたりするわけです。
そんなおすすめ動画には2chまとめみたいな動画も出てきます。中身は観ませんが、どうしてもサムネイルは目に入ってくる。
で、観ているとどうもアンチの付きやすい子ってのがいて、変にネガティブなまとめを作られたりしている。
それが私みたいなライトなファンには意外な子だったりするんですよ。えっ、この子は好かれてるんじゃないの? って。
ざっくりした印象なんですが、アンチが付きやすい子って、基本人気者。特に一般層から評価されるような、器用なしっかり者っていう印象がある。
やっぱりオタク層って、いつも自分たちの側に居てくれるとか、自分たちしか良さを知らないとか、そういうのが好きみたい(偏見)。
でも面白いのが、明らかにモノが違う、いわばエース格って人は、アンチあんまり付かないんですよね。オタク一番人気と一般認知度って一致している感じ。
そこで今回の思い付き。
「最も一般受けするものは、最もオタク受けもする。ずば抜けた存在はすべてを制す」
なろうで皆さんと交流をもったこの数年間、エッセイやらコメントやらツイッターなどで、いわゆる文章作法や小説指南、そういったものを目にする機会が増えました。
なるほどなるほどと楽しく読むのですが、実は毎回私の頭の片隅に、ある作品のタイトルが浮かぶのです。
『ホワイト・ジャズ』と。
『ホワイト・ジャズ』はジェイムズ・エルロイという作家さんが1992年に発表した小説。エルロイって人はまあ、広義のミステリの世界では、この半世紀で最も重要な一人と言えるんじゃないでしょうか。『ブラック・ダリア』とか『L.A.コンフィデンシャル』なんて作品は映画にもなってます。
で、このエルロイさん。正直読みにくい。
デビュー時から硬い文章でしたけれど、それが独自の文体に進化していって、唯一無二のエルロイ文体が完成したというか、頂点を迎えたのがこちらの『ホワイト・ジャズ』という作品。
いや、手強かった。読むの時間かかった。疲れた。でも好きな人はたまらなく好きなんですよね。当時も大きな話題になりましたし、今も「君はエルロイが好きなんだねえ」という文体の作家さんにちょくちょく出くわします。
96年に日本でも翻訳が出た『ホワイト・ジャズ』ですが、今は紙の書籍は絶版。でも電子では出てますの。紙も長いこと生きてましたし、日本でも翻訳ものとしては、それなりに売れました。本国でも売れた。
アレが売れるなら、何でもありだと思うんですよね。そこに圧倒的な何かさえあれば。すなわち。
「ずば抜けた存在はすべてを制す」
上で書いたことと似た話ですけど、よく見かける「売れ線の商業作品が定型的、マイナー作品やアマチュア作品が型に嵌まってなくて実験的」みたいな考え方もねえ、どうなんだろうと思うのですよ。
翻訳エンタメでベストセラー作家といえば、例えばスティーヴン・キングやジェフリー・ディーヴァーでしょうか。キングって人は作品内容というよりは、出版形態で変なことしがち。『グリーンマイル』での薄っぺらい一冊を6冊毎月刊行とか、同じ恐怖の設定でキング名義『デスペレーション』、バックマン名義『レギュレイターズ』同時期刊行とか。
ディーヴァーだと『オクトーバー・リスト』ですかねえ。いわゆる時間遡行型、冒頭にラストシーンを置いて、時間軸を戻っていくタイプの作品。このタイプの作品は最後、ゼロ時間に戻った後にエピローグって感じで冒頭場面以降の時間軸を足しがちなんですけど、ディーヴァーはさすがに潔く、36章(日曜日)からスタートして1章(金曜日)で綺麗に締めくくる。ディーヴァーらしい快作でした。
日本でベストセラー作家といえば宮部みゆきさん。彼女もデビュー長編からして犬の一人称。『長い長い殺人』では財布の一人称(これは佐野洋さんリスペクトですね)。『ぼんくら』では冒頭から独立短編を何個か置いて、その後の長編パートで短編部分の裏側を描いていくという手法(こちらは半村良さんリスペクト)。最高作『火車』でも真の主人公ともいえるヒロインがラストワンシーンまで作中実際には登場しないという手法が話題になりました。
そして私が宮部作品で一番頭おかしいと思うのが『ブレイブ・ストーリー』。あの作品、ゲームをやってこなかった私からしても既視感ありまくりの、王道というよりむしろ陳腐なほどのゲームテンプレ場面が続く。まさに目新しさゼロ。でもそれを筆力だけを武器に読ませちゃう。だいたい新聞連載の異世界ファンタジーなのにスタートから時間軸に沿って、長々と現実世界で話が進んでいく。スニーカー文庫で4冊に分けたときは1冊目まるまる現実世界ですから。よく編集が止めなかった。
その前の『模倣犯』の反動が出ちゃったんでしょう。とにかく捻りなくストレートが投げたかった。ど真ん中に。球威だけを武器に。
キングにしても、同じアイデアから二つプロットが浮かんで、どっちも書きたくなっただけだと思うのよねえ。多分。
そういうのを実現できちゃうのが、ベストセラー作家の権力よね。あと自らの筆力に対する傲慢とさえいえる自信。怖い怖い。
赤川次郎さんも杉原爽香シリーズで、毎年1作刊行、主人公が合わせて歳をとっていくってことをやっている。88年に15歳でスタートした主人公、昨年発表の作品では49歳だって。
難しいことを難しくみせない、変なことを変だと思わせない、他の人だと成立しないものを商売として成立させちゃう、それがベストセラー作家って人たちなんではないかな。つまりは、
「ずば抜け(以下、略)」
今回はこんな感じで。
昨日、一迅社のコンテストで真尋さんと間咲さんが審査員特別賞に選ばれてましたね!
短編アンソロジーが出るんですって。本屋で見るの楽しみです。
そして今日は6月1日。ぎょーさんのヴィルヘルミーナ発売日。雨が降りだす前に、頑張ってアニメイトまで行ってきますの。
そんな、ぎょーさんも入院中とか。お大事にね。
それでは、またー。
それはそうですね(どれだ)。物事にはなんにせよ内実と外観、二つの基準があって、それはたいてい一致はしないんですけど、多くの場合、問題はこの二つを自覚せずに、同じ天秤に乗せてしまうことで起こる気がします。天秤ばかりを使うときは、これ同じ条件かと注意すること、大切。
ヒロイン、インドウニ、オフ会、ヒーロー、この辺のどれかに参加してたらなまクラですって。読み専の私より作家さんのぶん、黒イ卵さんのほうが内側に見えてたんじゃないかしら。
黒イ卵さん、上手くログインできないのは不思議ねえ。
ではー。