2023年 02月01日 (水) 07:30
おはようございます。ピストンです。
生きております。
先日「本の雑誌」の目黒考二さん、私にとっては書評家の北上次郎さんが亡くなられました。
海外エンタメ小説に目覚めた中1の頃から、あらゆるジャンルのあらゆる評論家の中で、最もつきあいが長く、最も頻繁に目にした、感覚的には私の一番の読み友達。
今後出版される新刊について、北上さんの書評が読めないってのが、今はまだ想像つかないのですよ。
では、雑談。
今回は前回書いた紅白歌合戦の話の続き。
ネットニュース等で紅白歌合戦やレコード大賞に関する記事を読んだりしますと、コメント欄でよく見かけるのが「昔のヒット曲は日本国民みんなが知ってた。今はそういう曲がない」みたいな言葉。
これを別の言い方にすると「今はチャネルが増えて、好みが細分化、多様化した為に共通して認識される曲が少なくなった」ってとこでしょうか。
これはまあ、確かなことだと思います。
家庭にテレビが1台だけあって、家族みんなが集まって同じ番組を観る状況と、子供部屋にそれぞれテレビがある状況、今の個人がスマホを持つ状況。一つの楽曲が認識される幅広さに違いが生まれるのは当然のことでしょう。
ただですねえ、「昔のヒット曲はみんな知ってた」「今は好みが多様化した」みたいな話、9割9分納得して同意しながらも、残りの1分、「本当か?」「そうかあ?」と思ってしまうのが、私というひねくれた人間なのですよ。
まず「昔のヒット曲はみんな知ってた」「昔は老若男女に歌われる曲があった」のほう。
考えてみると、私は曲が流行った時点での年寄りがこれを言っているのを聞いたことがないんですよねえ。だいたい年寄りが、自分の若かった時代の曲を想定しながら話をしている。
昭和歌謡の代表格『青い山脈』がヒットしたのが1949年。世代をこえた名曲であるのは確かなんですが、その世代って基本、その当時は若かった層から後の人ばかり。1949年時点で平均寿命であった60歳前後、1950年代のうちに亡くなったような年寄りたちは『青い山脈』をどこまで認識していたのか?
また「触れる機会がある」と「きちんと認識する」にも違いがありますよねえ。ピンクレディーが大ブームだった当時はまだ元気に生きていた私の祖母、確実に何度も観ていた、でもペッパー警部は歌えなかった。キャンディーズとの違いも認識できていなかった。
これ自分に置きかえて考えてみますと、ジャニーズの若い男の子、私はバラエティ番組なんかでちょくちょく観てますが、全然顔と名前と所属グループが一致しないんですよ。やっと最近キンプリ平野くんを認識したところ。もう一人、河合くんって子をバラエティで認識していますが、彼がどのグループなのかは覚えていない。
単に若い子の顔が覚えられないのかというと違う。乃木坂の子たちは全員、認識できているわけですから。けっきょく関心の薄いことって、観ても頭に残らないってことでしょう。
同じ部屋で1台のテレビを観ていた家族。はたしてどこまで関心のない話題をしっかり共通認識と出来ていたのか。
続きまして「好み、嗜好が細分化、多様化した」のほう。
これまた思ってしまうんですよ。「好みなんて元から細分化されていたのでは?」と。
いや、わかるんですよ。手に入れられるものの量が格段に増えましたから。そのくせ手間は格段に減りましたから。好きなものだけ手にできると。
サーモンのお寿司が食べたい人。昔は盛り合わせを買うしかなかった。別に食べたくない赤貝も食べるしかなかった。だから赤貝の味も知っている。今は回転寿司でサーモンの皿だけ取れる。赤貝を食べることはなくなった、味も知らない、みたいな。
でもですねえ。人の感受性がそれほど変化したとも思えないのですよ。昔だって、こだわる人は手間がかかろうが、手に入れにくかろうが、好きな物事に集中したでしょう。サーモンばっかり食べたはずです。こだわらない人は手に入れやすい万人受けするものを適度に楽しんだことでしょう。
「好みが細分化、多様化した」というよりは「関心のないものに触れる機会が少なくなった」ってことだと思うんですよ。「アクセス可能な回路が増えた」ことで「アクセス必須とされる回路が減った」「選んだ回路で紹介されない情報について全くの無知になった」といいますか。
同じ意味とも思えますが、ちょっと違うとも思える。
「今はその年を代表するような流行歌がなくなった」なんて言い回しもよく目にするのですが、例えば紅白でも披露されたウタ(Ado)さんの『新時代』は22年夏頃のデジタル系チャートを独走。2ヶ月ほどでストリーミング1億再生突破。劇中で使用されたワンピースの映画は興収197億、YouTubeでのMV再生も1億超え。
こういった数字はツールや貨幣価値の変化もあって時代時代で直接比較するのは難しいんですが、それでも凄い数字だと思います。多分、好んで聴いた人の数は、どの時代のどんな流行歌にも負けてないんじゃないか。
変化したのは「好んだ人の多寡」ではなく、それだけのヒット作を、興味がなければ「全く知らずに過ごせる環境」の方だと思うのです。
『CITRUS』『Habit』といったレコード大賞受賞曲。大賞直後のネットニュースには「数年後この曲を口ずさむ人はいるのか」なんて年寄りのコメントが付いたりするんですが、「いるに決まってんだろ」と思うわけですよ。『Habit』のダンスを家族や友達と踊って動画をSNSにあげた少年少女たちにとって、それは大人になってからも懐かしく思い出す瞬間になるはず。我が姉がピンクレディーを踊っていたのと体感的には同じでしょう。
渦の中にいる人と外にいる人の実感、体感の断絶みたいなものがポイントだと思います。
渦の外にいる人は中の熱量を全く実感できない。中にいる人には渦の大きさを客観的に測ることができない。
メディアが「マス」として存在できていた時代、渦の境界線はもう少し緩やかであったように思います。外からでも中の様子が窺える程度には。より個人がダイレクトに情報とアクセスする現在、旧メディアとネットで、あるいはネット内でもプラットホームごとに、実感や体感といったものが完全に断絶しているのかなと。
ただ人の実感、体感というのも、意外と厄介なものだったり。
ロック評論家に渋谷陽一さんという人がいるんですが、渋谷さんが色々なところで「60年代当時、学校でそんなにビートルズ聴いてる人はいなかった」という内容の発言をされてまして。渋谷さんとの対談で、チャボさんだったか細野さんだったか、共感してらっしゃったのを読んだ記憶もあります。
一方で山下達郎さんはビートルズの来日公演を「クラスの半分が観に行った」なんて発言されてますし、ある大学の先生は渋谷さんの発言に対し「とんでもない。(渋谷さんの学校は)よほど遅れた学校だったんだろう。みなビートルズが好きだった」と反応されてます。ちなみに渋谷さんも達郎さんも、ビートルズ来日時は東京都内在住の中学生。
これ私、全部真実なんだと思うんですよ。
周りにいたのがどんな層の人たちだったかで変わってくる実感。達郎さんの話にしても、ビートルズの来日公演なんて木~土曜に武道館で5回ですから、公演そのものでなく武道館周辺に行っただけだとしても「クラスの半分」は大袈裟すぎる。しかし実感として、それだけの勢いを感じたということでしょう。
これまた私自身のことで考えてみますと、中学生の頃、週刊少年サンデーにて『タッチ』という漫画が連載されてまして、ご存知でしょうが途中で主人公の一人、和也くんが交通事故死してしまうのです。
この回が掲載されたサンデーが出た日というのは、もう学校中がその話題でもちきりだったんですよ、という「実感」が私にはあったりします。
しかしですよ、冷静に考えてみますと当時の私が「学校中」を見てまわるなんてことはあり得ない。隣の教室にさえ出入りした記憶はない。
私の「学校中」ってのは、ごくごく狭い範囲から感じた実感でしかないはず。
でもやっぱり私には学校中その話題でもちきりだったという実感が確かに存在するのです。
世相、風潮。それらは結局のところ個人の実感、体感の集合に過ぎない気もします。特に声の大きな人の影響は大きいかと。
そしてその実感、体感というのは個人が目で見た、耳で聞いた、小さな世界から生まれたもの。メディアを通してだって、目にできる記事や番組はほんの少し。
対象を見上げたか見下ろしたか。その時お腹がふくれていたか空いていたか。上着を着て暖かくしていたか脱いで涼しかったか。日向から見たか日陰から見たか。一人だったか二人だったか。
そんな些細なことで、私自身の実感なんてものは変化してしまうでしょう。
百聞は一見にしかず。自分の経験や記憶は何よりも信用できる判断材料ではありますが、100パーセント信用はできない。
誰もが認める定説、常識。納得できる根拠があろうとも少しは疑いたい。
とはいえ全ての物事を疑ってばかりいたら、前には進めませんから、基本は信じることから始めるほうが良いでしょう。
全ての物事を信じる。同時に全ての物事を疑う。
私の基本ルールみたいなものなんですが、実際にいいバランスで行うのは難しい。今回の私の文章のように、理屈ってのは付けようと思えば、どんな方向からだって付けられる。そして理屈が付いたことで納得、満足してしまって思考を止めたりもする。客観的なデータをどう読むかには主観が入ってきちゃうんですが、そこに主観があること、なかなか認識できないんですよねえ。
今月はこんなところで。
先週は寒波が来てましたが、皆さん大丈夫でした? 私の場合、昨年真冬にエアコン故障、その後暖房なし生活ってのを経験してますので、今年は余裕であります。
でも2月になれば花粉。嫌だー。
では、またー。
朝の4時にそこに対してのコメント!
まあ、口ずさみやすい曲調ではない。
私自身もたいして興味のわく曲でもない。
まあ、でもですね、口ずさむってガッツリ歌詞とか曲全体とかわかってなくても良いわけで、スキャットマンにしても私は世代ですらないですが、サビのメロディーを「ぴーらっぱららっぱ」ってひたすらリフレインしたりすることはありますし。
シトラスって去年の年間カラオケランキングでどこのメーカーでも10位以内にいるんですよね。23年1月も30位以内には入ってる。そんだけ歌ってる人がいるなら口ずさむ人もいるだろうと。
あと、リズムやテンポには慣れってあると思うんですよ。
サザンが勝手にシンドバットで出てきた時、私は全くといっていい程、歌詞が聞き取れなかった。早さに付いていけなくて歌うのも無理だった。でも今となってはサザンなんて余裕ですからね。
サザン以前以後みたいな形で、ボカロ以前以後みたいなギャップもあると思うのですよ。物心ついた時にボカロがあった世代は、リズム、テンポについて、ちょっと感覚違うんじゃないかなんて。授業でダンスある世代ですし。
でもまあ、口ずさみやすい曲ではないですわね。
では、コメントどうもでしたー。
またー。