2022年 12月01日 (木) 07:11
おはようございます。ピストンです。
生きております。
ワールドカップ漬けの毎日を過ごしております。Abemaの見逃し配信便利! Abemaありがとう!
ワールドカップというのはサッカーの質としてはクラブチームの戦いと比べて劣りますが、やっぱり特別な面白さがありますねえ。
先ほどまで観ていたグループC、D続けて「目の前の試合には勝ったが他会場の試合結果によりグループ敗退」という私の大好きシチュエーションがあって興奮。
今夜も「黄金世代、そのサイクルの終わり」(今回はベルギーの)という私の大好きシチュエーションが観られるかもしれない。
どっちも酷いシチュエーションですが。
さて、前回の活動報告でも言いましたが、ツイッターのアカウントを削除、というかツイッターアプリ自体をアンインストールしてしまいました。
今後はツイッター上の話題には疎くなります。一般のニュースになるくらいでないと気づかないかなあ。
皆さんの細かな動きにも気づけないかも。すまん。
そして今回の雑談は、ツイッターに関しての最後に、ハッシュタグについてあれこれと。
ちょっと毒っぽいかも。
SNSなどで使われるハッシュタグ。
完全アナログ人間である私には馴染みのないものだったのですが、ツイッターを始めると毎日のように見かけるものになりました。
「#」このマークをハッシュマークというらしく、この後に言葉を続けるとタグとして使えるようになるのです。
#小説家になろう、のようにして使うんですが、その部分をクリックすることで検索できて、同じテーマですぐに集まれる便利なもの。
私自身が使うことはなかったのですが、ツイッターを眺めていると「#名刺がわりの小説10冊」とか「#深夜だから好きなことを言ってみる」とか色々なハッシュタグがあって、SNSならではの遊び方だなあ、と楽しく見ていたのです。
さて、そんなハッシュタグの中でも、今年もっとも有名になったハッシュタグといえば、やはり「#ちむどんどん反省会」ってやつではないでしょうか。なんたってユーキャンの流行語大賞候補にも入ったほど。
もちろん『ちむどんどん』とは今年放送されたNHK朝の連ドラ。どうやら視聴者から不評だったらしく、毎日放送直後からこちらのハッシュタグを使って皆さん酷評酷評で盛り上がっておられました。
私は何年も朝ドラを観ていないので『ちむどんどん』がどれだけ酷いかわからないのですが、まあ部外者としては思ってしまいます。「なら観なきゃいいのに」と。朝ドラはルーティーンになっているんだ、という人もいますが、ツッコミを入れられるほど細部まで観て、SNSに投稿って、それはかなりの熱量じゃんか。
でも本当はわかります。悪口って楽しいものねえ。テレビよりも小説よりも古く、人が集落を築いたころから井戸端で行われてきたであろう娯楽。特に正義がこちらにあって、悪口ではなく批判の体裁がとれる時は本当に楽しい。
不倫した芸能人、失言した政治家、不祥事おこした企業。正義をもって批判できる対象は次々登場。こちら匿名、ハッシュタグで集まれば数の力も。
古来よりの伝統ありつつ、新たなツールでより便利になった、ネット時代の愉快な娯楽、それが悪口。私も大好き。
おっと毒っぽくなってきた。話題を変えましょう。
イーロン・マスクさんがツイッターを買収したことで、これまでのトレンド上における操作が話題となっているのが、政治的なハッシュタグというやつ。
こちらのタイプで今年印象に残っているのが、参議院選挙の時にトレンド入りした「#生稲晃子に投票する意味がわからない」ってタグです。
私、これ見た瞬間に選挙は自民党の勝ちだと思ったんですよねえ。
最近の参院選、投票率は50%前後です。今回の選挙も最後に大きな事件が起こってしまいましたが、全体としてはけっして盛り上がってはいませんでした。投票率が50%程度なのは誰にでも予想できたでしょう(実際は52%)。
50%で今の議席状況。投票したのは与野党ともにかなり強固な支持層でしょう。そう簡単には鞍替えしない。
現状維持では与党の勝ち。野党が相手にしなきゃいけないのは与党支持者ではなく「今、投票に行ってない人」なわけですよ。
ちなみに民主党が政権を奪取した時の衆院選が投票率69%。「今、投票に行ってない人」は「かつて民主党に投票した人」でもあるのです。一度失望させて離れていった人を相手にしなきゃいけないのに「#生稲晃子に投票する意味がわからない」って、自民のネガキャンしてどうするの。相手はそもそも自民党を支持もしてないし、生稲さんに投票する気もないのに。野党や野党支持者はポジティブに自らの有用性を主張しなきゃいけなかった。できるかはともかく。
まあ、自民党へのネガキャンが有効な局面というのもあるでしょう。「このまま自民に任せておくとやべえ」って局面です。この場合、最低条件となるのが「まだ、野党のほうがまし」という認識。
参院選時には無理でしたが、その後に統一教会の問題が表面化したタイミングは将来にむけて野党にとって大きなチャンスだったはず。その時期にツイッターのトレンドにあがったのが「#泉健太の代表辞任を求めます」(泉さんが志位さんをちょっと批判した時にね)のハッシュタグ。
いやお前ら、本気で政権奪う気持ち無いだろ。
いかん、また毒っぽい。
最後の話題に移ります。
小学生の頃、私には一つの疑問がありました。
テレビなどで、当時はまだウーマン・リブなんて言葉も生き残っていた女性解放運動に触れる度に感じていた疑問。
「有権者の半分は女性なんだから、女性大統領も女性首相も、簡単に誕生するんじゃないの?」
いや、小学生の疑問ですよ。大きくなるにつれ、ガチガチに固まった社会の価値観の中で、そんな簡単な話ではないと実感していくんですよ。
でもですね。大人になってからも心のどこかに存在する、リトル・ピストンが囁くのです。
「女性問題に限らず、民主主義国家においては、選挙という実にシンプルな方法で、社会なんて簡単に変えられるんじゃないの?」と。
ずっと隠し持っていた疑問に、ようやく自分の中で納得いく答えがでたのは、2017年のことでした。
それにもあるハッシュタグが関係しています。
「#MeToo」がそのハッシュタグ。
元は活動家の人が生み出したハッシュタグらしいのですが、この年に起こったハリウッドの大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラに対する女優さんたちの告発で使用されると、一気に社会現象になっていきました。
そしてこの時、私にとっては目から鱗とでもいうような出来事がおこったのです。
当時は次々と映画やテレビの関係者が過去のセクハラを告発されるという状況だったのですが、アメリカではマット・デイモンが、フランスではカトリーヌ・ドヌーヴが、それぞれ状況を諌めるような発言をしたのです。
二人の発言に共通する部分を私がめちゃくちゃシンプルに意訳するとこうです。「MeToo運動には賛同するけれど、今の状況は魔女狩りのようで行き過ぎじゃないの?」
結果として二人はそれぞれMeToo運動を行う女性たちから滅茶苦茶に叩かれまして、謝罪のコメントをだすことになりました。そしてその後、二人が選んだ対応は、この運動にたいしての沈黙。
私は見てて思いました。いや、二人は基本的には賛同してるんだから、取り込んで戦力にするべきだったんじゃないのか?
ここにきてようやく、長年の疑問に納得いく答えが出たのです。
薩長同盟ってのは、普通は実現するもんじゃないんだ。ありゃ幾つかの要因が重なった奇跡なんだと。
平時に運動を生み出すのは原理主義者の強い意志で、でも原理主義者が力を持つ限り、運動は一定以上大きくはならないんだと。
青は純粋に青だけで固まって、共闘できるはずの水色や紺色すら拒絶してしまう。
それらが共闘するには、圧倒的な危機感、脅威が必要なのだろうと。
さて、今回の雑談のまとめに入りましょう。
かつて人の交流を疎外するものといえば距離、ひらたく言えば「声の届かなさ」だったかと思います。何かで書きましたが私は実家にいた頃、ずっと観たかった映画『ストップ・メイキング・センス』をようやく観た興奮を、誰とも共有できなかった。まわりに共有できる人がいなかったから。
今、インターネットがその距離の問題を解決してくれました。
でも今、逆に「声の届きやすさ」が人々の交流を疎外するターンが来たように思います。
『ちむどんどん』は大不評でしたが、今の朝ドラ『舞いあがれ!』は大好評のよう。一つ前の『カムカムエヴリバディ』は大絶賛でした。
とにかく世の中がゼロか100かに分かれています。これも同じ一つの意見の持ち主が、簡単に集まれるからでしょう。なまじ集団となってしまうため、他の意見に聞く耳を持たなくなってしまう。
そしてゼロと100の中間に存在する人がとる行動は、かつてのマット・デイモンと同じでしょうか。つまり、沈黙。
ネットが誕生した頃、表面上はスカシながらも実は内心、世界が変わるんじゃないかなんて期待をしてました。
でも今は、やっぱり人間の本質というのは変わるものではないのかなあ、と思っています。
社会が大きく変革するのは、独裁者のおこす戦争とか、大きな自然災害とか、圧倒的なテクノロジーの更新とかによってで、そんな変わった社会の中でも、人は変わらない関係を続けていくのかなあ、なんて。宇宙船の中でも核シェルターの中でも終末の世界でも、仲良しグループで集まって、気にいらない人の悪口を言いあいながら。
で、それでいいのかもなあ、なんて思いも。
今の私の興味は社会の変革よりも、個人の意識の変革のほうに向いているようです。
社会が変わらないならば、社会に上手く適応できない部分で、個人はどう向き合っていけばいいのか。
なんかそこには、人と物語の関係の意味、みたいなものがある気がするのですよ。
こんなこと考えている私は、やはり根っからの個人主義者のようですが。
ということで、今回の雑談はおしまい。
次回生存報告は元旦の予定。東京は今日から本格的に冬の寒さが始まるみたいですが、皆さんもお身体気をつけて、よいお年を。
では、またー。
おお、黒イ卵さんの貴重なログイン時間を私なんぞに使っていただけるとは。
そういえば『ちむどんどん』は沖縄の話なんですね。『半分、青い』の北川さんといい、そもそも可燃性の高い要素は持っていたわけか。
ワールドカップ盛り上がりましたねえ。開催前はこれまでの大会と比べて静かだったのですが、日本がドイツに勝ったとたんにこの盛り上がり。
これだけ人の興味が細分化した世の中で、オリンピックや以前のラグビーのワールドカップ、今回のサッカーと、やっぱり国別対抗のスポーツイベントはコンテンツとして強いですねえ。
確かに連帯感、一体感って重要なキーワードかも。
人はモラトリアムの期間を経てアイデンティティを確立するってのが昔に授業で習った生き方の定番なんですが、実際にはアイデンティティをしっかりと確立できる人ってのは少ない。
特にオリジナルを手にしにくい、何をしたって既に前例が存在するような時代では。
そんなとき、何かの集団、グループに所属していると感じることは、とても人に安心感を与えてくれることなのかもしれませんね。ここに居てもいいんだと、存在理由を与えてくれる。
国家対抗のスポーツイベントというのは実にわかりやすく帰属意識をもたらしてくれるのかも。
そして悪口というのも、そういうものかもしれません。普通に内輪のグループを作るのは、誰かしら求心力のある人が中心に居ないとなかなか難しいものですが、悪口の場合は必ずしもこちら側にそんな人物はいらない。ましてやネット上であれば集まるのは容易い。敵の敵は味方ってことで、お手軽に連帯感を得られる孤立した人の命綱みたいなものなのかもしれませんねえ。悪口が悪口でおさまって、いじめに発展しないようなシステムが作れれば良いのですが、今存在しないということは、無理なんでしょうなあ。
自我を持って他者とはけっして完全にはわかりあえない、でも独りで生きていくことは不可能。なかなかやっかいなことではあります。
こちらも長い返信失礼しましたー。
良いお年をー。