2022年 04月03日 (日) 07:45
おはようございます。ピストンです。
春ということで、我が職場でも大学を卒業した若いバイトさんが社会へと旅立っていきました。今年辞めていった子は能力的にも性格的にも、どこ行っても通用するだろうという安心感のある子だったので、おっちゃん心穏やかに見送ることができました。ただ優秀な子ってブラックな会社だと仕事が集中したりするから、そこは心配。
では「結局のところ、なろう長文タイトルとは何だったのかを考えてみる」第3回。
ツイッターをしてますと自分とは全く関わりのない人でありながら、定期的にタイムラインにあがってくる人っています。知り合いの知り合いって感じの人ですね。
私は創作垢と読書垢の中間みたいな所にいますから、知らない人の更新報告や宣伝ツイートもよく流れてくるのです。
先日、そういう交流が一切ない人の新作に目を通してみました。
なろうであまりポイントの入っていない作品。
でも周りの仲良しさんたちからは、それなりに評価されている様子。
で、読んだ感想。
正直、内容以前に、びっくりするくらい下手な文章だなと思いました。
赤ペン持って、ガンガン添削していきたくなるくらいに。
気になってストーリーとか頭に入ってこない。
こうなると不思議に思います。
周りの人は何故評価しているの?
仲良しさんだから評価してあげてるの?
ところがそうは思えない。周りの人は本当に評価しているように見える。
過去作品のレビューでは“リズムが良く読みやすい文章”なんていう人も。おそらく本心から。
そこで私は、今度は周りの人たちの作品も読んでみたのです。
結果から言いますと、最初の人ほど下手と思う文章はなかった。あまり上手くないなという人から、達者なものだなと思える人まで。
ただ面白い、面白そうだと思えるものは一つもなかった。今回は各作者さんのメイン連載10~15話ほど読んでまわりましたが、普通に出会っていたなら、全て1話切りしていたことでしょう。
ここで思いました。
これ「好み」の問題だ、と。
最初の人の作品、異世界を舞台に美少女傭兵が活躍するアクション作品です。周りの人の作品も、舞台は現実世界、近未来、異世界と様々ですが、基本はハードなアクションというものが多い。漫画でいえば『ブラック・ラグーン』『攻殻機動隊』『ヨルムンガンド』なんてタイトルが頭に浮かぶ感じ。
そして文章にも、なんとなく共通する傾向が感じられます。雰囲気を情景描写でやりくりする感じ。
おそらく私がまったく触れてこなかった知らない世界に、彼らが夢中になって大きく影響を受けた小説、ヒットして名作と評価されているような小説があるのでしょう。
私は「好み」でない、それらの作品を完全スルーして生きてきた。そしてもし、その「名作」を読んだとしても、つまらない、下手な文章だと切り捨てることでしょう。
純文学、ロマンス小説、架空戦記、思索的なSFなど、私が「好み」でないとスルーしてきたジャンルは数多くあります。
そして正直にいえば、私は自分が思うほど世界をフラットには見ていない。口にはださないが心のどこかで、自分が好むものに比べて好まないものを下に見ている。
そもそも無意識のうち下に見ているジャンルの、その中でもあまりクオリティの高くない作品とくれば、そりゃ「駄作」と切り捨ててしまいます。たとえそれが誰かの大切な作品であろうとも。
さて、今回の本題。
同じ文章。私は読んで酷いと思った。
でも私のFFさん(今は違う)はリズムが良く読みやすいと評価した。
「好み」が違うとして、何故ここまで違うのか。
そこで頭に浮かんできたのが、脳内変換スキル、スルースキルという言葉。
脳内変換スキル。文字通り自分の頭の中で書きかえてしまう能力。
スルースキル。まあいいかと、受け流してしまえる能力。
以前の私は、これらの能力のことをコツとか慣れとか、そういうレベルの話だと考えていたのですが、最近はもっと「読む」「観る」といった行為の本質に近い話なのではないかと考えています。
この脳内変換スキル、スルースキル。面白いのがいつでもどこでも同じように働くわけではないというところ。
私がなろうで読んだ、ある作品の1話冒頭。
“昔からの幼馴染みが”
いや、幼馴染みなんだから、そりゃ昔からだろ。
別の作品のやはり第1話。
“カメラクルーと撮影スタッフが”
カメラクルーは撮影スタッフの一部だろ。
実は私、前者は何も引っ掛かることなく読み進めています。後者はちょっとイラッとしています。
どちらの一文も、作者さんの言わんとすることはすぐに分かります。要は私がそれを汲むか汲まないかの違い。つまりスルースキル発動のライン設定に違いがある。
何故、私は両者に対して違うライン設定をしたのか。
ここで出てくるのが何個か前の活動報告、「生存報告その17」で書いたこと。
言葉が伝えるものには“内容”“意味”と“ノリ”“感覚”があり、実はコミュニケーションの本質とは“ノリ”の共有の方にこそあるのではないかという仮説です。
「好み」の小説とはノリの共有が深いレベルで行われている小説なのではないか。小説を読むとき、内容の共有よりも先にノリの共有が行われているのではないか。
内容の共有とノリの共有は自身の中ではっきりと分けて感じとれるものではなく、自身の意識では内容を共有できたと感じてしまうのではないか。
感じとったノリがどういうものかで、人は脳内変換スキル、スルースキルのライン設定を変化させているのではないか。
そう考えるとですね。私がいままでなろうで書いてきた幾つかの疑問に、とりあえずの答えが出るのです。
赤川次郎さんの文章は、とにかく大勢の人とノリを共有することのできる文章だったと。
ブームに追随した優秀な作家さんたち、赤川作品の内容は模倣できてもノリは模倣できなかったと。
ジェイムズ・パタースンやダニエル・スティール。内容は翻訳できても、ノリは失われたと。
さらに自身のノリを、最も深く共有できるのは自分自身でしょう。
何故、何度も見直した文章に誤字脱字が、主語述語の捻れがあるのか。
何故、こんなにも面白い自作が他人に評価されないのか。
私の言うことを、周りの人は理解できないのか。
話を少し戻します。
“昔からの幼馴染みが”の作品と“カメラクルーと撮影スタッフが”の作品。
この一文、どちらも第1話に書かれています。
幼馴染みの方なんて3行目です。
まだほとんど文章を読んでいない段階にもかかわらず、私はスルースキルの設定ラインを変化させていました。
何故か。
タイトルとあらすじから、その作品の中身を想定したからだと思われます。
その作品の内容、意味と共に、ノリ、感覚を。
さあ、ここらで3回に渡って書いてきたことを纏めてみましょう。
〇 なろうに来てタイトルを見ている時点で、私は幾つかの選択を終えている。
〇 その選択から外れたタイトルは、視界に入っても意識に引っ掛かかりにくい。
〇 テンプレートなタイトルは選択にはまっていた場合、目につきやすい。
〇 ノリを共有できているかで、見えているものは大きく違う。
〇 本文を読み始める以前に、ある程度ノリや内容を想定している。
これらを踏まえての話。
タイトルに必要とされるのは、まず第一に読者に手に取ってもらうこと。読んでもらうこと。
特にそれを好む読者にきっちりと届けられること。
それには作品が持つ内容とノリを感じさせることが必要(もちろん狙ったうえで外すという手法はあるだろうけれども)。
ただタイトルだけでは限界があり、他の要素も重要。
そして、やっぱり身も蓋もないこといっちゃうと、好みを共有する人の多寡ってのはある。美味しいカレーライスと美味しい茶碗蒸し。どっちも同じくらい美味しい。でも市場規模には大きな差があり、それがひっくり返ることは、おそらくない。
地域差ってのもある。全国を制したセブンイレブン、北海道ではセイコーマートに敵わない。ただセイコーマートが全国を制することもない。ウェブも同じ、場所って重要。
次は最終回。
ならば、なろう長文タイトルが示したノリや内容とは何だったのか。
どんな人がそれを求めたのか、に関する仮説。
ということで、また明日。今日と同じくらいの時間に。
この頃、日によって寒暖の差が大きいので皆さん体調には気をつけてー。ではー。
返信、遅れて失礼ー。
漉緒さんは長いことなろうにいて、色々見てるからなあ。
今回のはまあ、ちょっとした思いつきというか、理屈をペタッと貼ってみただけではあるんですが。
ツイッターで多くの人々の意見が食い違い、一方通行に行き交うのを見て、思いつきましたの。
では、今回はコメントありがとうございましたー。