2022年 02月02日 (水) 08:49
こんばんは。ピストンです。生きてます。
なろう上では、ぎょーさん書籍化というめでたいニュースがあった1月。10万字加筆(それほぼ書き下ろしでは)ということで出版はまだ先でしょうが楽しみですな。
私の生活のほうは特に話すような変化は無し。なのですぐに雑談へ。
これまた特にネタも無いので、この1月にツイッターを眺めていて思ったことなどを。
この1月もツイッター上では幾つもの炎上騒ぎがありました。プラネテスのやつとかね。
そういう炎上を見ていて思うのが文章に含まれる「感情」と「論理」みたいなこと。
どうもですね、同じ内容、論旨の呟きをしても炎上するものとしないものがある。まあ当たり前ですけど。
ツイッターで炎上しやすいのは、内容云々ではなく、何か対象を「上から目線で、主観で、断定的に否定した場合」が多いように思えるんですね。
ようは内容より言い方の問題であることが多いと思うのです。
さらに言うと論理より感情の問題であることが。
面白いのが炎上自体は人間性に対する不快感、感情的なぶつかり合いに見えるのに、表面的なコメント自体は内容に対する反論、論理の対立の形をとることが多いように見える部分。
今回の宇宙を舞台としたSF漫画、アニメ『プラネテス』をベテラン宇宙エンジニアさんが扱き下ろし、ファンから大反論を受けた炎上騒ぎ。皆さんの不快感の元は宇宙エンジニアさんの上から目線、尊大さに思えるのですが、コメント自体は内容に関する現実とフィクション、リアルとリアリティの話に終始するんですよね。
どうも世の中、自分をつき動かすものが感情であることを自身で認めるのが嫌な人が多いのではないかと。
で、その後に見たのが瀬川さんによる高校の国語授業に関するツイート。
文学の時間が削られ、より実務的な論理国語(論文や説明文の読み方?)が増えて、バランスが偏るのを危惧する話。
さらに見たのが創元推理文庫が毎年秋に行う復刊フェアにむけて、復刊希望の作品リクエストをツイッター上で募集していたもの。
このアンケートには幾つかルール(一つのツイートにつき1作品とか)があったのですが、まあ守っていないツイートの多いこと。つまり創元の説明を読んでいないわけです。そういうツイートは無効に。
復刊希望の小説があるくらいですから、彼らは文章の読める、読むの好きな人なわけですが、にも関わらず説明文を読んでいない。文学は可、論理国語は不可ってことですね。
こういったツイートを見てきて思うのが「文章を読む」とは、いったいどういうことなのか。何をもって「読める」「読んだ」と言えるのか。「読めない」ってのは、読んで理解できないというより、そもそも読んでないんじゃないか。
一応、今のところの私の考えとしましては、文章というものには、「ノリ」「空気」から「意味」「情報」まで様々なものが内包されていて、その全体を掴みとるのはよほど優秀な人でないと難しいのではと。
何をピックアップして、何をしないのか。
何を見て何を見ないのか、何が見えて何が見えないのか。そこにそれぞれの「人としての形」みたいなものが浮かんでくるのかと。
えー、さらにですね。今ちょうど深夜アニメで『平家物語』ってのがやってまして。一方、それを真逆の立場から語るような大河ドラマもやってまして。私まだ平家物語を録画して観ていない、大河はちょっと観れそうにない状況なんですが。で、それぞれの作品に関するツイートなんかも流れてくるわけです。
数百年も前に生きていた人たちのドラマを、数百年に渡って語り継いだ人々がいて、今、山田さんや三谷さんがそれを語り、皆さんそれを受けとっている。それぞれの形で。
まあ何が言いたいかというと、脈絡はまるでないのですが「大丈夫ですよ」ってことなんですね。
文学が減って論理国語になろうが、文章が読めようが読めまいが。話が通じようが通じまいが。人がわかりあえようがあえまいが。
なーんとなくの思いは、星が墜ちるまで、最後の一人まで、なーんとなく繋がっていきますて。平家の立場も源氏の立場も、幸も不幸もみんなまとめて。
と、ツイッターを見ながら何の脈絡もなく悟りを開いたところで今回の生存報告は終わるのです。
では、またっ。
返信遅れて失礼ですのー。
ねー、交流ある人の書籍化は良いものです。
なろうがどう変わっていっても、ウェブ小説全体がどう変わっても、出版業界が、メディア全体が、日本の社会が、世界情勢が、どんな風に変わっていっても、人が幸と不幸を感じる限り、物語を欲することに変わりないのです。
(なんかそれっぽいこと言ってみた)
では、またー。