2021年 12月01日 (水) 02:46
こんばんは、ピストンです。
もう12月。今年は何故こんなに早いの?
ワクチン2回目、翌日に微熱が出ただけで済みました。
今回、高熱が出た時の為に、普段は購入することがない飲むゼリーを何個か買っていたのですが単なるおやつに。でも飲むゼリー、小腹がすいた時にちょうど良いですねえ。今後は買う機会が増えるかも。
では、雑談。
ネタがないので今回もツイッターで見かけた話題から、思いついたことなどを。
長々と書きますが、単なる思いつきなのでまだ最終的な結論とかありませんの。ですので観覧注意です。オチのない話だらだら書きますからね。注意しましたよ。
11月の初め、ツイッターで話題になっていたのが「本格ファンタジー」というやつ。
私は火元を見つけられなかったので経緯はわからないのですが、全体としては「本格派」好きの人が「なろう系」を攻撃、「なろう系」擁護派が反発して攻撃といういつものパターン。
人ごとに「本格派」「なろう系」の定義がバラバラなので、まともな会話になってない不毛さもいつものこと。
気になったのは「本格派」の立つ位置がロードス島辺りにあった人。後からのファンではなくリアルタイムで出会った年配者。
いやね、私の記憶だとロードス島辺りが出てきた頃も、その時点での「本格派読書好き」からけっこう馬鹿にされていた記憶があるのですよ。
私は基本翻訳ミステリ村の住人で門外漢ですし、当時はネットも無かったですからどこまでの動きだったかわからないですが。
そんな馬鹿にされていた新勢力「初期ラノベ」好きが、今や旧体制として新勢力「ウェブ小説」を馬鹿にしている姿は、人の世の虚しさを感じさせてくれて、なかなか乙なものでありました。20年もすれば2010年代のなろうの熱さに比べて〇〇はつまらん、という人々が出てくるんでしょうねえ。
そのすぐ後のツイッター。とある有名経済評論家さんが、異世界転生ものに関して雑な感想を呟いてらっしゃった。
まあ、その人はメカもののアニメ好きらしく、新しく観てみた異世界ものアニメの感想を初心者として言っただけなんですが。
で今回の場合は、私にある程度の異世界転生ものに関する知識があったので「この人は初心者さんなんだな、だからこんな雑な感想なんだな」とわかる訳ですが、面白いなと思ったのが、私が知識も思い入れも無いことに関してだった場合。
私の知らないジャンルAの専門家さんが、知らないジャンルBについて話していた場合。ジャンルAに関して何冊も著作があるような知識豊富な人がジャンルBに関して話していること、私は信じてしまうんじゃないか。
ジャンルBに関して彼はド素人かもしれないのに。
ここで思い出したのが以前放送されていた『知ってるつもり』というテレビ番組。
毎回一人の著名人を取り上げて、その人の人生を紹介する番組。
当時友人宅に遊びに行くと、その番組がかかっていたので私も何度か観たことがあるのです。
友人の家族と共に、そうなんだあ、凄い人だねえ、なんて楽しく観るわけですよ。
ただ、たまに私もそれなりに知識のある人が取り上げられることがありまして。乱歩さんとか横溝さんとかジャイアント馬場さんとか。
そんな時は、この番組が実にいい加減な番組だとわかる訳です。先に反戦とか博愛とか、感動的なゴールを決めて、それに都合のよいエピソードを都合よい順番で並べていく演出なんですよね。
そんな回は、なんだこの番組は! と腹をたてて観ているのです。
しかし不思議なのはその後、特に思い入れのないよく知らない人が取り上げられた回を観た場合。私はそれがいい加減な番組、いい加減な知識であることを知った上で「まあ、いいか」と楽しく観るのです。なにが正しいかよりも、その場での友人家族との楽しい歓談のネタとしての価値を優先したのです。
見たいことを見たいように見たわけですよ。
そうなると今度は「知識」とは何ぞや? という話になってきます。
私が得てきた知識は、たとえ一次ソースにあたったものでさえも、私が見たいように見てきた知識。
私の経験は、言ってみれば「それ、あなたの感想ですよね」の積み重ね。
人を形作る経験、蓄えられる知識とは主観や偏見というフィルターを通した極めてパーソナルなものではないかと。
冒頭の話に戻りますと、初期ラノベが馬鹿にされていたというのは私の知識、経験であって、いやロードス島は発表当初から誰もが認める作品だったと認識している人がいてもおかしくないわけです。
ツイッター見れば今日この瞬間のなろうに対する認識も千差万別で、それは20年後、その人にとっての嘘偽りないリアルタイムでの経験なわけです。
今の私を形作っているものは、そんな実にあやふやな知識や経験の積み重ねなんだろうなあ、と思ってしまいました。
そして長くなりましたが、ここからが今回の思いつき。
多分、樋口さんがリツイートしていたのだと思う私の知らない人の呟きなんですが、「話が通じる」と感じるのは賢い人の場合は内容、そうじゃない人の場合はノリ、というようなツイートを見たのですよ。
で、思いつきました。
ひょっとしたらコミュニケーションの本質とは、この「ノリ」の共有のほうにあるのではないかと。
まあ、だましだましの後半でさんざん書きましたが、私にはどれだけ言葉を尽くしても、言葉の意味、定義の100パーセント完全な共有はあり得ない、という考えがあるのですよ。だからこそ、そこに価値があるとも考えているのですが。
なので「内容」が完璧に伝わることなどないのではないか。最終的には何らかの「ノリ」「感覚」「空気」の共有が行われるのではないかと考えるのです。
そうなるとコミュニケーションのツールたる「言葉」というものは、内容、意味の共有ではなく、ノリ、感覚の共有を補助する為のツールなのではないか。
言葉を重ねる、定義を明確にする、なんてことも、最終的にノリを共有できるところまで落とし込む為の作業に過ぎないのではなかろうか。学問というものはノリの共有なんていうあやふやなものに対する人々のささやかな抵抗なんではなかろうか。
なんて思いついたわけですよ。
そしてノリ、感覚を作り上げるための経験や知識が極めてパーソナルなものであるとしたら、これはもう「ノリの合う」「ノリの合わない」人が出てくるのは当然、必然のこと。すなわち「話が決定的に通じない人」は確実に存在するということなのであります。
更に言葉の集合体である「小説」。
やはり、だましだましの後半で何度が話していた私にとっての謎。
何故、ライトなミステリが数多くあるなか、赤川次郎さんの作品だけが突出して読まれたのか?
英語圏においてロマンス小説でダニエル・スティールが、サイコスリラーでジェイムズ・パタースンが突出して読まれ、しかし日本では読まれることがなかったのか。
この「ノリの共有」という側面に答えがあるような気もするのです。
小説を作っている様々な要素、ストーリーや構成、キャラ等々。
それらが大きく合う人合わない人をふるいにかけていった後、最終局面でノリの共有に大きな影響を与える要素として「語り口」ってのが重要なのかな、と思ったり。
というところで、今回の思いつきは終了。
いや、オチとか結論とかないですよ。
11月上旬にツイッター見ながらボーッと考えてただけの話ですから。
ええ、そんなの書くくらいネタがないのです。
さて、次回生存報告は1月1日(予定)。
つまり今回が今年最後ということで、皆さん今年もお世話になりました。
先週あたりから急に寒くなってきましたから、お身体には気をつけて下さいませ。
ては早いですが、よいお年をー。
2回目大丈夫でした!
新しい株も出てきて状況は変わっていきますが、私は長いものに巻かれて流されていきますの。
確かに仕事なんかだと余計な主観が入りこむ隙を少なくするためにも、簡潔な報告のほうが良いかもしれませんねえ。
主観を入れた方が良い場面と排除した方が良い場面を上手く使いわけられる人が、周りから有能認定される人なのかも。
「信用できない語り手」って奴ですな。逆に言えば語り手はいつも信用できない(おい)。
では、コメントありがとうございましたー。