少年少女雑誌の広告における菓子のデザイン史(一): 雑誌『少年倶楽部』昭和十四年(一九三九)~昭和二十六年(一九五一)を中心として著者榎本 千賀雑誌名大妻女子大学紀要. 文系巻50ページ93-123発行年2018-03-16URLhttp://id.nii.ac.jp/1114/00006540/Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja 大妻女子大学紀要―文系― 第五十号、平成三十(二〇一八)年三月少年少女雑誌の広告における菓子のデザイン史(一)雑誌『少年倶楽部』昭和十四年(一九三九)~昭和二十六年(一九五一)を中心として榎本千賀キーワード少年倶楽部・森永製菓・三井由之助・明治製菓・大橋正はじめにこれまで、菓子については、菓子そのものや、菓子に付いたおまけに焦点があてられることが多かった。例えば、串間努『ザ★おかし』、市橋芳則『キャラメルの値段 昭和三〇年代・一〇円玉で買えたもの』、森永卓郎『グリコのおもちゃ図鑑 「おまけ」で読み解く昭和、平成経済史 』では、商品の写真とともに、商品の発売日などの詳細な年表、暮らしの値段表が掲載されている(1)。これらの先行研究では、写真が豊富で、主に昭和のよき時代を回顧することに主眼が置かれている。しかしながら、商品を宣伝した広告などにこそ、その商品を製造したメーカーの思いが見えてくるのではないだろうか。商品を発売すると、メーカーは、雑誌や新聞に広告を掲載し、テレビのコマーシャルで放映する。近年では、インターネットの画面に広告を載せる場合も多くなっている。この広告については、特定の企業の社史や、『アイデア』、『CM研究』、『宣伝』、『宣伝会議』などの雑誌に個別の事例が記載されているが、総括的な研究が進んでいないように見受けられる。だが、少年少女雑誌の読み手である子どもは、広告に載せられたキャッチフレーズや挿絵の両面から、商品への想像をかきたてられる。そこで、本稿では、雑誌に掲載された菓子広告をもとに、その時代背景、広告のキャッチフレーズ、広告に関わったデザイナー、デザインの変化について考察していく。一雑誌『少年倶楽部』に掲載された菓子広告本章では、第二次世界大戦が始まった昭和十四年(一九三九)から戦後の復興期の昭和二十六年(一九五一)までに取り上げられた菓子広告を見ていく。雑誌は、大正三年(一九一四)に大日本雄弁会講談社(現・講談社)が創刊した月刊少年雑誌『少年倶楽部』とした。なお、『少年倶楽部』は、敗戦後の昭和二十一年(一九四六)四月から『少年クラブ』と改名して昭和三十七年(一九六二)十二月まで刊行された。少年少女雑誌の広告における菓子のデザイン史(一)―93―(93) 〔『少年倶楽部』における広告掲載一覧〕は、昭和十四年(一九三九)新年特大号~昭和二十六年(一九五一)十二月号の十三年間の中で、菓子に関わる広告を抜粋したものである。項目は、菓子名、菓子の種類、広告に記載されたキャッチフレーズ、菓子を購入すると当たる賞品や景品、菓子の価格、広告を描いたデザイナーや挿絵画家が判明する場合には、その氏名を挙げた。菓子の種類の中にある※は、挿絵の中に菓子名が記されていることを指している。なお、広告からの引用に際し、菓子名やキャッチフレーズは、広告に掲げられたままとしたため、促音に不統一の場合がある。また、旧字体は新字体に改めた。この〔『少年倶楽部』における広告掲載一覧〕から、次のことがいえよう。まず、『少年倶楽部』に広告を載せた菓子メーカーは、昭和十四年(一九三九)から昭和十六年(一九四一)では、新高製菓、江崎グリコ、森永製菓、明治製菓、スカウト製菓の五社である。各メーカーは、これらの商品の箱の中に、賞品や景品がもらえるカードや券、引換証を入れていた。例えば、昭和十四年(一九三九)新年特大号では、新高製菓は、「新高ドロップ」の中に入っている「メートルカード」を一万メートル集めると、漫画家西川コーゾーの雑誌『ウマイモン太郎』、ハーモニカ、水筒などがもらえた。「森永ミルクキヤラメル」は読物『漫画学校』、「森永ミゼット」は「立体紙芝居」、「グリコ」は「グライダーグリコ号」、「組立飛行機集」、「組立軍艦集」、「豆望遠鏡顕微鏡セット」などを賞品とし、子ども達を楽しませた。しかし、徐々に物資も少なくなり、昭和十五年(一九四〇)十一月号では、グリコは、「引換賞品がやめになります」との広告を出す。そして、これまで賞品としていた「国旗集」、「軍歌集」、「組立飛行機」、「組立動物集」はことごとく中止となるのである(2)。さて、この時期、戦時下が如実に現れたキャッチフレーズが登場する。例えば、昭和十四年(一九三九)七月号の「新高ドロップ」では、「お国のためにおやくにたつつよいカラダになりませう」。昭和十五年(一九四〇)二月号の「明治キヤラメル」では、「強いからだで銃後を護れ」。昭和十五年(一九四〇)三月号の「森永ミルクキヤラメル」では、「兵隊さんへ送りませう」。昭和十六年(一九四一)四月号の「グリコ」では、「栄養総力戦 日本を強くするために国民は一人残らず、丈夫な体で力をあはせて働かねばなりません。総力戦です!」となり、軍事色が濃いキャッチフレーズが散見される。それとともに、昭和十五年九月号のグリコの「栄養の話グリコに含まれてゐる七つの栄養素」のような滋養・栄養を強調したキャッチフレーズも目立つ。この傾向は、戦後の昭和二十五年(一九五〇)、昭和二十六年(一九五一)の広告にも引き継がれている。ところで、昭和六年(一九三一)の満州事変後、菓子メーカーは、次々に中国に工場を造っている。例えば、森永製菓は、「昭和九年(一九三四)に大連工場落成。昭和十六年(一九四一)台南工場(台湾)落成、ビスケット・キャンデー類製造。同年、新京工場(満州国の首都)落成、翌年一月から製造開始。昭和十七年(一九四二)満州森永食糧工業(株)設立。同年、天津工場(北部中国)落成、軍用乾パンなど製造。同年、華北森永食糧工業(株)設立。昭和十八年(一九四三)、関東州森永食糧工業(株)設立。昭和十九年(一九四四)、屏東工場(台湾)落成、キャンデー類製造」となる(3)。明治製菓は、「昭和十二年(一九三七)、満州国ハルビン市にハルビン工場を開設。昭和十四年(一九三九)、満州明治製菓(株)を設立。同年、上海市に明華産業(株)を設立」する(4)。江崎グリコは、「昭和七年(一九三二)、大連工場新設関東州(現中国)大連市沙河口。昭和十年(一九三五)、奉天工場新設満州奉天市鉄西区興工街。大連工場を吸収。昭和十四年(一九三九)、天津工場新設中華民国天津特別市(現中国天津市)河北存義里」である(5)。佐賀市立図書館富士館の調べによると、新高製菓だけは、「明治三十七年(一九〇四)、台湾で創業。大正十三年(一九二四)、大阪工場操業。昭和三年(一九二八)東京・大森工場操業開始。千葉工場、種子島工場、大連・南京・上海・広東・香港に工場兼営業所(店舗)」―94―(94) となり、元々、台湾から始まった。以上のように、中国に進出した各メーカーは、戦局の悪化に伴い、国内外にあった工場は、昭和二十年(一九四五)、次々に空襲を受ける。森永製菓は、「鶴見工場空襲により被災、キャラメル工場、チョコレート工場全焼(この前後に全国主要各地支店・売店大半焼失)。青森工場空襲により被災全焼。広島市に原子爆弾投下され、広島支店・広島売店全壊」となる(6)。明治製菓も、「川崎工場は空襲をうけ全焼。神戸工場は空襲をうけ全焼」する(7)。江崎グリコは、「東京工場 空襲で全焼。大阪工場 空襲で全焼。終戦 外地の工場・資産の一切を失う」こととなる(8)。〔『少年倶楽部』における広告掲載一覧〕によると、『少年倶楽部』の場合には、昭和十六年(一九四一)十一月号以降、菓子広告が全く掲載されなくなる。各メーカーの菓子広告がなくなっていく順を追っていくと、昭和十六年(一九四一)五月号から「新高ドロップ」は消え、同年六月号から「グリコ」もなくなる。森永製菓は、昭和十六年は「キヤラメル」以外に、「ビスケット」に変わっていく。同年十一月号になると、明治製菓、森永製菓の広告もなくなることとなる。代わりに、同年十一月号では、これまで裏表紙全面にあった明治製菓の広告部分に、上部に大政翼賛会、下部に花王石鹸が登場するようになる。同年十二月号も、裏表紙の上部に大政翼賛会、下部にトンボ鉛筆である。昭和十七年(一九四二)においても、裏表紙は、上部に大政翼賛会、下部が花王石鹸、三星ゑのぐ、トンボ鉛筆のいずれかになる。その後、昭和二十年(一九四五)は、菓子も含め、一切広告がなくなる。昭和二十一年(一九四六)五月号からトンボ鉛筆、ミヤマ鉛筆、地球鉛筆といった鉛筆の広告が見られるようになる。昭和二十二年(一九四七)、昭和二十三年(一九四八)では、鉛筆や絵の具、ハーモニカといった広告が載せられており、菓子に関する広告は一切ない。この背景には、昭和十六年(一九四一)六月十日の菓子配給統制要綱発令、昭和二十四年(一九四九)十一月二十六日の水飴の統制撤廃、昭和二十五年(一九五〇)四月一日の練粉乳の統制撤廃、同年八月十二日の菓子類価格統制撤廃が関わっている(9)。改名した『少年クラブ』に菓子広告が復活したのは、昭和二十五年(一九五〇)二月号からである。昭和二十五年・昭和二十六年(一九五一)では、新高製菓とスカウト製菓は広告から消え、代わりに、ロッテ、ハリス、カルケット食品が台頭する。つまり、明治製菓、森永製菓、ロッテ、ハリス、江崎グリコ、カルケット食品の六社が『少年クラブ』に広告を載せるようになるのである。スカウト製菓の実態は、現時点では不明だが、新高製菓は、佐賀市立図書館富士館の調べによると、「昭和十九年(一九四四)、戦時解散。昭和二十二年(一九四七)、東京本社・工場再建(大阪・名古屋・札幌を順次再開)。昭和二十三年(一九四八)、再開」しており、廃業しているわけではない。管見の限りでは、『少年』昭和三十四年(一九五九)一月号に「ニイタカドロップ」の広告を見いだすことができる。また、『幼年クラブ』昭和二十六年(一九五一)一月号には、浦和市木崎小学校の三年生の子ども達による森永製菓の「キャラメル工場をたずねて」という記事があり、各メーカーの復興を垣間見ることができる。昭和二十五年(一九五〇)・昭和二十六年(一九五一)のキャッチフレーズや広告を見ていくと、以下のことがいえよう。例えば、昭和二十五年四月号の「森永ミルクキヤラメル」では、「ホームランキング味の本塁打王!」というキャッチフレーズとともに、キャラメルをズボンのポケットに入れた少年がバットを構える挿絵が描かれている。また、同年春の増刊では、「ワーイすばらしいホームランだワーイすてきロッテチュウインガム」のキャッチフレーズとともに、バットを振り切ろうとする少年の姿を描写している。このロッテの広告には、ロッテベースボールガムの文字も入り、ロッテベースボールガムには「天然色野球カード」が入っているとしている。さらに、同年八月号では、「お兄ちゃん!さあ今日のホームラン賞!明治キヤラメル」少年少女雑誌の広告における菓子のデザイン史(一)―95―(95) Related papers