たかはしけいのにっき

歩くコンプライアンス。

日本お気持ち国の病人たち

2023-10-09 02:48:51 | Weblog
 このブログを始める時(2005年)、「まあ別に本名だろうがハンドルネームだろうが、あまり関係ないか」と思ったことをよく覚えている。
 しかし、多くの人はそうは思わないらしく、匿名性の中で自分を暗闇に隠しながら、インターネット上で発言することを選ぶようだ。当時はTwitterがないので、2ch文化が非常に強かった。ブログもまだそこまで流行っているわけでもない頃で(ブログといえば眞鍋かをり、みたいな頃ね)、当然のようにインターネット上での渾名を自分につける人が多かったのだ。

 「ネットでは匿名」という気持ちは分からなくはない。実名で何かを発信しているということそのものが日本社会におけるタブーのようなイメージもあったし(今もある?)、何よりも、自分が変なことを言ってしまった際に守ってくれる匿名というヴェールが欲しい気持ちはあるだろう。実際俺だって(更新頻度は高くはないが)Twitterで匿名アカウントはあるし、ある種の安心感はあるし、匿名の中で面白さはあるだろう。

 しかしながら、この匿名文化がもたらす功罪は意外なところで実はとても大きかったのかもしれないな、と最近思うのである。
 Twitterを見ていても、YouTubeのコメント欄を見ていても、多くの人が「ジャッジしたがり」の病に冒されている。

 評価することには非常に慣れているくせに、評価されることには異常なくらいに抵抗する。ゆえにいざ舞台に上がらなければならない瞬間に、現実とのギャップを大きく感じてしまうのだ。よく「理想と現実のギャップ」などという言い方をするが、そうではなくて、どちらかといえば「普段のジャッジと現実との乖離」だ。この”普段のジャッジ”を匿名でやってしまっているところに問題がある。

 例えば私も、このブログをやりはじめた頃は浪人生であったから、今から思うと必要以上にジャッジしたがりであったのではないかと思う(ぜひブログ開設当時の記事を見てくれ、と言いたいところだが、今よりももっともっとイタイので、なるべくなら見ないで欲しい)。自分はどこの大学もまだ卒業していないのにも拘らず、「マーチ出身かよ」などと大人に対して思ってしまったりするわけである。これは大学院生になっても(自分はそうではなかったと思うが)同じような現象が起こりがちになる。4年生やM1は論文を書いていなくとも等しく許される時期であるから、「あの先輩、大学院に5年以上もいるのに1本も論文ないとか、ヤバすぎだろww」などとなりがちである。
 インターネット社会が発展していない場合、こういう例に陥っても、年月が経てば自然と治る。博士課程に進んでもなかなか論文を出せない自分に気がついたり、無事大学に入学してもサークルが楽しすぎて卒業が危なくなったりすれば、自分が幼かったのだと気がつくことができるのだ。

 だが、インターネット上で匿名でジャッジすることに慣れてしまえば、治すタイミングを見失う。自分自身は論文を書いたこともなければ、大学院で修士号すら取得できずに退学したのだとしても、まるでどこかの大学教員を装って「こいつ論文数少なくね?」「旧帝大以外で院通ってて大丈夫なの?」と調子こいたことを言えてしまうのだから。

 残念ながら、ネット上において、虚偽や秘匿を含む批判は短期的には真実を言っている有益な意見と見做されることがある。そうすると、実社会で肯定化されていない分、こんなちょっとの肯定化ですら調子乗らせるポジティヴフィードバックがかかってしまい「自分は偶然に不運で上手くいかなかったが、こいつは運があるにも拘らず、ちゃんとしていない。引き摺り下ろせ!」となる。
 俺は言っていること自体は当たってる!俺は何者でもないが、運さえあれば、有能なんだ!だから結局この社会は親ガチャじゃないか!すべては運じゃないか!と、根拠のない学説を盲信することを厭わなくなる。そして、運よく目立っている(と彼らが思い込んでいる、実名で世に出ても恥ずかしくない勇気のある)人を叩くことで、自分の承認欲求を満たそうとするのである。

 そう、匿名文化による功罪は、コンプレックスと嫉妬を増幅しやすくし、現実にも虚偽や話を盛ることに罪悪感が薄れてしまうことである。
 そして、それらをさらに煽るコンプレックス商法とも言えてしまうYouTubeチャンネルやインフルエンサーが日銭を稼ぐことに一生懸命になるのだ。そいつらを真に受ける若い世代が、あの頃の俺と同じように、自分の現状を棚上げにして、時期が来ていないことを大義名分に、「東大以外はクソ」などの腐った言説に対して自分なりの”適切な批判”を考えることに一生懸命になる。しかし、あの頃のように、その態度を治すタイミングはない。いつまででも自分を装ってしまえるから。
 時間が経てば経つほど、自分が決めた設定とキャラクターをself-consistentにするための一手を打ち辛くなり、本来の自分自身を侵食していく。もうどうしようもなくなったときに、人はアカウントそのものを消したり、名前を変えたりする。そんなことを何度も何度も繰り返す。自分が何者であるかにこだわるくせに、一貫性がまったくない。

 こうなってくれば、匿名文化を維持している皆にとって嫌なことを言う人は敵であり、それがいくら真実や再現性に基づく帰結であったとしても、批判の的となる。
 その現象をホワイト化と名前をつけたり、単に「コミュニケーション能力が重要」などと馴れ合ってみたりするのは自由なのだが、今よりも犠牲を減らすためには時に科学的事実などについては、みんなにとって嫌なことでもハッキリと主張せねばならないことも多々ある。それを日本語の使い方の問題にすり換えたりすることは簡単なのだが、そういった誤魔化しを正当化してしまうからこそ「auで復旧しないのをどうにかしろよ!」などと”お気持ち”を表明し続けることが正当化されてしまったりするのだ(みんな去年のことはもう忘れちゃったかな)。

 もはや「日本お気持ち国」と「日本科学立国」に分けるしかないのだが、問題はもっと深刻である。

 「お気持ち」を重視する人が「科学的事実」を重視する人よりも多いことは世の常である。俺もどちらかを選べと言われれば、事実よりも気持ちを選ぶし、実際多くの人はそうではないかと思うのだ。
 が、「匿名で人を叩きたい」という腐った気持ちを踏みにじらないようにと、さらに、その望みを叶え続けてしまった結果生じてしまっている"ジャッジと現実の乖離"を目の当たりにさせないためにと、個々人の(どうでもいい)立場と顔に泥を塗らないようにしていくのは、昨今の日本社会では限界なのだ。ただでさえ危機的状況なのに、自分はレベル100の人間をジャッジする暗闇に潜むエージェントだと信じてやまない多くの愚かな人たちのために、本当にレベル70くらいある人たちの言動を規制してしまうことになるのだから、危機はもっと増す。

 と、ここまで言われても、この記事に対しても、匿名で何かを言いたがってしまう。まだ気がつけない。

 「実名で書かないと何の意味もない」という価値観を浸透させ、匿名文化がもたらす功罪の根幹を潰さない限りは、相手にとって心地の良い、しかし長期的に見ればとんでもないことになる「薄っぺらな嘘」は肯定化され続けるので、今の体制派はほくそ笑むだろうし、一般庶民がみんなで損をし続けることになるだろうと思う。

 さて、ここまで読む体力があるくらいには賢いレベル10くらいの諸君、自分を晒すだけの勇気は持てたかな?
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自由の代償

2023-10-08 01:56:40 | Weblog
 戦いに疲れて呆れてしまった側から眺める景色は、どうしたって滑稽に観えてくる。
 いつまでもいつまででも何かの政治力学に翻弄され、その波に飲まれるせいで急かされて恐怖を抱きながら、一つのことに最適化していくことで陣地取りゲームをしていくやる気のない態度をせせら嗤って、自分だけ本質を掴みながらコスパ良く生きていけることは気分の良さを感じることだってある。

 バカげた勝負に一生懸命になる前に積分の一つでもまともにできるようになったらどうだろう。
 それに気がつくためにはまず寝ないといけないけど、寝る暇なんて無いと思い込むことで自分を正当化しているのだから、無理だろうなぁ。
 そういう時代が自分自身にもあったことを憂いながらも、差し伸べた手がいつも傷つけられてしまう状況では、どうにもできないじゃないか。

 などと思いながら夜空に煌く星々を見上げ、まだ会えたことのない、しかし誰よりも会いたいあなたへの想いを馳せる。

 近い将来、もう一度この不毛な戦いを繰り返す必要があるのだろう。それはきっと代理戦争というカタチになってしまうだろうし、だとしたら、まったく新しい世界に繰り出して、そこで戦ってみるほうがいくらかマシなんじゃないか、と思ったりする。

 この世界では、何かの繋がりを保とうとした際には、必ずこの空間に描像させなければならない。寒ければ寒いと言わなければ分からないし、ムカついたらその場を離れなければ理解されないし、この世界からいなくなりたい時は必死にアピールをしなければ支援してもらうことはできない。
 そして、大人になればなるほど、誰が誰よりも上だとか下だとか思いたい子供っぽい気持ちを巧妙に隠しながらも、上手に主張する術を学んでしまう。それを過学習してしまうようなシステムに身を置き、そのシステムのバカバカしさに気がついたとしても、システム全体から距離を置くことで孤立化することを自ら望み、自分以外のものすべてを蔑むことで溜飲を下げるやり方に帰着させたくはない。

 競争なんて起こさなくとも既に世界は危機に瀕している。すぐに競争にかかる取引コストの多さに気がつき、徐々に協力していかねばならない。
 馴れ合いを辞め、本当の意味で戦うべき物理現象に対抗していかなくちゃいけない。そのためには、この世界にあなたが必要で、俺たちは助けてもらうことを期待している。

 人は誰でも歳を取るし、歳を取れば自然と智謀知略も思いつくし、しかしそれと共に自分にとっての必然性が増えていき、確立したお決まりのパターンが原因で次第に何もできなくなっていってしまう。
 その鼓動がいつか止まってしまう時、このヘンテコな世界をめいいっぱい楽しめたなという気持ちに、どうかなっていて欲しい。

 きっと、短いようで長くて、長いようで短い。きっと、大人っぽい子供のままに、子供っぽいままの大人になっていく。
 そんな日々を笑い合えるように、自分自身の自由の代償として矢面に立たせてしまっている人たちに一瞥を投げることでリスペクトしながらも、自分なりに先に進んでいきたいと思っている。
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君に期待しているよ

2023-07-13 02:00:43 | Weblog
 煩雑なことは何も理解しないままに尊敬されたい。
 この国に住む大多数の自分勝手な連中の、このちょっとしたズルい気持ちを叶えるために、有能な人間は常に抑制され、忙殺され続ける。

 きちんとステップを踏みさえすれば、誰でもきちんと理解できるような論理体系しか、この世には存在していない。しかし、ステップを踏めば・・・というエクスキューズはいつだって忘れがちであり、理解できる人と理解できない人には遺伝子レベルでの差異があるかのように語る人も珍しくない。
 そして、それを本気で捉えた人が、悔しさを滲ませ苦し紛れに、難しいことをしている人は趣味である、という解釈をする。それを流布することで立場を得ていき、徒党を組んでいく。きっとそれが何重にも起きてしまっているのが、今の状況なのかもしれないね。

 自分に理解できないものは価値のないものだ、という発想は稚拙だ。偉そうに上から「ワラワにわかるように説明してみよ」というバカは、まずは立場を下りてもらわねば公益性に欠ける。
 ひとがみんなのために実直にやっていることをまともに理解しようともせずに「必要な研究をしろ」「趣味の研究をするな」「儲かる研究をしろ」などと研究者に偉そうに話すわりに、具体性のない精神論に終始しながら、何かの制度やルール造りだけをするのであれば、そもそもあなたが邪魔なのであり、きちんと周囲を見渡して羞恥心を思い出せば良いだけなのではないだろうか、ということを、政治力学に翻弄されすぎて、理系ですらもみんな忘れているのである。必要なことしかしていないのにも拘らず、そういうことを風潮するクズが一人でもいれば、有能で本当に期待ある人からいなくなってしまうだけである。そして、別の場所で、本当に好き勝手にやり始めてしまう。

 好きなことをやることと、好き勝手にやることとは、圧倒的に違う。好き勝手にやりはじめてしまえば、それは、その時間を無駄にしてしまう。
 たとえば、「研究は自分だけのためにやるものだ」「自分の満足が目的だ」と開き直れば、それは結局のところ、自分自身の満足にもならない。というよりも、スタートラインにも立てないまま死んでしまうだろう。
 好きなことはどんなことだって、誰かのためになるし、実益になる。必然性を追いかけて、まともな誰かに心から「ありがとう」と言われるたび、それは間違っていなかったと噛み締めることができるだろう。

 くだらないヤツほど、君に対して「期待している」と言ってくるだろう。俺様が退屈にならないように何か面白いものを持ってきてくれ、と言っているのに他ならない。そんな状態のヤツは物理現象だと思った方が有意義だ。
 定型文を簡単に言うことで、とりあえず対応できたと思い込んでいる人を、実質的にも精神的にもきちんと捨て去って、身の程を気がつかせてあげるためには、その期待の言葉に具体性と気持ちを同時に抽出してくること。君は、それができなきゃいけない。

 そのためにはまず何よりも、君自身が本気で「できる」と思っていなきゃ、どこまでいっても達成されないし、最悪の場合、誰かに「達成した」ということにさせられるだけである。
 達成できていないのに、その力が備わっていないのに、カタチだけ達成してしまうことほど怖いことはない。どんどん生気がなくなっていき、目が死に、身も心も不健康になるだろう。それほどに麻薬は恐ろしいものだし、怖いのは本人は良いものを摂取しているのに悪化するから、自分だけでなく他者にも、とんでもない不利益を被る可能性がある。

 自分で押したやる気スイッチなら自分以外の誰も消すことはできないが、誰かに押されたやる気スイッチはいつでも消される可能性がある。その恐怖と常に隣り合わせで生きていくよりも、まずは自分自身が「できる」と思いながら、煩雑なことでも一つひとつのステップをちゃんと踏んで、レベルアップしていこうぜ。
 ・・・きっとこれを読んでいるであろう君に、俺は期待しているよ。
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どうして「話せば分かる」と思ってしまうのか

2023-07-02 03:42:00 | Weblog
 どちらかが信頼関係を裏切る瞬間、実は裏切る側はそれを認識できていないことが多い。
 完全に信頼が消失しているにも拘らず、話し合おうとしたり、みんなで集まる機会を作ろうとしてしまうのは、幻にしてしまった何かの繋がりの実在を信じているからに他ならない。

 「話せば分かる」というのは、誰もが陥ってしまうトラップ。
 昨今、どんなに酷いことをしても、後から話せばどうにかなると思っている人が増えている気がする。それは、その人とどれくらいの信頼関係を構築できているか可視化されていると勘違いしやすい技術が浸透してしまったことにも原因があるかもしれない。自分の投稿に沢山のいいねやスタンプがついていれば、それだけで支持されていると思いやすい。毎日毎日、顔をつきあわせなくても会話ができてしまえば、何かの信頼関係があると思ってしまいやすい。

 当たり前だが、身内を殺されたとして、話して分かるわけがない。話しても無意味である。
 これが極端な例として、日常に還元してみてほしい。酷い仕打ちをして、コミュニケーションで胡麻化して、つっこまれても良いようにディフェンスして、有無も言わせないのであれば、それはただオラオラしているだけであり、ただ傲慢なだけであり、潜在的にものすごく敵を増やしている行為なのだ。それに気が付いているか?
 話しても分からないことがあるからこそ、大人同士の円滑なコミュニケーションのために法や契約が設定されている。にも拘らず、「部活やってんのか?」「いつまで大学のサークルノリなんだよ」という"いい大人"があまりにも目立つ。

 逆にそれまでに信頼関係を構築できていれば、話したら分かるかもしれない。熱い気持ちを持った結果としての行動や言葉が原因のトラブルなら、もしかしたらその理由を分かってもらえるかもしれない。話して話して、とことんに掘り下げて、お互いに傷つく気で喋りつくしてみれば、もしかしたら「裏切り」は勘違いかもしれない。けど、誤解は解けても言葉は遺るし、構築してきた信頼関係がニセモノだったのかもしれない。そのリスクをかけても良いのであれば、話す価値はある。

 そう思ってもらえない場合、話しても無駄。話すだけイライラするくらいなら、そんな機会を設けることにデメリットしかないだろう。
 もっとリスクの高い行為だってある。話してもらえたとして、本音で話しているフリをされてしまうことだ。相手は、こちらのことを、人間関係だと思っておらず、下手したら生命現象だとも思っておらず、ただの物理現象だと思っていて、仕方なく何か得になることを探している可能性だってある。

 信頼とは、過ごした時間の長さと双方の本音度合いを変数とした関数である。長い時間を過ごしていても信頼が得れていないことはあるし、本音は片一方だけでは無意味だ。
 よく生じてしまうのは金銭による信頼の勘違いだ。たいていの社員はカネが貰えるからこそ、拘束時間が長くとも我慢するし、本音を言っているフリもする。別にその会社が好きなわけじゃないのだ。それを信頼だと勘違いしてしまうand/or勘違いしたくなる経営者は多いだろう(だからこそ経営者は孤独であり、占いや宗教や女遊びやコンサルにハマりがちになる)。重要なのは、金銭や権威が発生していない状況でも自分にどれくらいついてきてくれるか?なのだが、ほとんどの人間は自分が見たいものしか見ようとしないので、認識できない。
 で、気が付いた頃には、カネや権威が実力と乖離し過ぎており、深海でペシャンコになる等の大変な事態へと発展してしまう。

 社会に出て、ある程度の権威や言葉を得てしまうと、誰もバカヤローとは言ってくれない。自分がどんなにバカヤローでも、そう指摘してくれる人は、極めて少なくなる。
 だから、魂に触れるコミュニケーションをしようとして、バカヤローと言ってきたヤツは異常者だとレッテルを貼りたくなる。貼ろうかどうかと迷っていると、カネと安定のために群がってきただけの信頼関係が本来は皆無なのにも拘わらず「俺は彼を信頼している」と思ってしまっているクズが、「あんなやつ、社会常識ないからヤバいですよ。縁を切りましょう」と嘯いてくる。そして、孤独が加速するのだ。

 だから、話しても無駄だという"場"は加速する。どんどんクズしか周りにいなくなる。指数関数的に、ね。
 一言だけ生の言葉を聴いてほしい。「ごめん」って。「誤解だよ」って。そうしたら!って思ってしまうのは、信頼関係を測り間違えていた証拠。

 …だから、、話しても無駄。確かにそれはそうかもしれない。
 けど、俺の考え方を、ここでそうやって盗むのは勝手だぜ?許してやるよ。
 さぁ、そして、どう飛ぶのか。面白いもんを見せてみろよ。
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物理学で退屈しないためには

2023-06-28 01:13:28 | Weblog
 俺らは死ぬまでの暇つぶしをどのように過ごすかに常に頭を悩ませている。
 大抵の人は、仲間とくっちゃべって、その中のありふれた愛情や関係性をホンモノだと名前をつけて、本当は直面すべき「いずれは死んでしまう」という現実から目を逸らす。

 誰だって自分の人生が退屈だとは思いたくない。だから、必要以上に表面的な感謝を振りまいてみたり、権威や金に最適化して有意義だと思い込んでみたり、死ぬかもしれないのに海底に行ってみたりバンジージャンプをしてみたり、、大抵はそんなことをするのだろう。
 さらに、そこにランキングやヒエラルキーを定義して、どっちが上でどっちが下か、マウントをとったりとられたりするわけで、そういうことをしていれば、他者から自分がまさか暇だとは認識されないからだ。

 だが自分の人生が退屈かどうかは、他でもない自分自身が一番わかることだ。他人から暇と思われなかったとしても、どんなにカレンダーに予定を埋めて忙しくしていたとしても、どんなに自分に「俺は充実しているんだ!」と呪いをかけてまくったとしても、退屈であるかどうかは自分だけで判断される。そして、大抵の人は、退屈に陥っているのだと思う。

 「そうではない。自分にはこれが!」と思っている人の中には、物理学を日々繰り返し鍛錬している人もいるだろう。
 かつてパスカルは気晴らしから抜け出すための唯一の方法は「信仰」だと考えていたらしい。一神教であるキリスト教における信仰する対象を、イエスキリストから再現性に置換した自然科学の基礎である物理学は、現代社会で信仰するなら一番の宗教かもしれないね。
 それは正解に近いのかもしれないが、、大抵の物理学徒は、他者と本当の信頼関係を構築することからの単なる拒絶として物理学を志しているという現実も、俺はよく知ってしまっている。

 その例というわけではないが、とても示唆的だった事例をTwitterで見かけて、、大学レベルの物理学を鍛錬している中学生が、素粒子理論を専攻している大学院生に学習の仕方で批判を受けたために、「もう物理学へのモチベーションを失ったしまった」と言っていたのを見かけた。なんだかとても切なくなってしまって、、彼に必要なのは物理学の理解や計算力よりも、もっと単純でありふれたものなのではないかと思ってしまった。
 ありふれた関係性なんてもんにしがみ付いても仕方ないと思う一方で、それらの経験が不足しているために、物理学などの自然科学のコミュニティーにそれらを求めるのであれば、物理を学ぶまでに得なければいけない鍛錬が足りていないのかもしれないよなぁってね。

 物理学を理解する上で、計算を追っているだけではダメ。定性的な理解を繰り返していてもダメ。
 定量的な理解も定性的な理解もしながら、自分なりに噛み砕いて、きっちり吸収していかなくちゃいけない。これは物理学が顕著ってだけで、物理学以外でも、本来は同じだろうと思う。「概要は理解した」と言って何もわかっておらず、ただ用語を知っているだけで満足している人で世の中溢れかえっているが、この人は!と思う人は、物理学の知見がなくても、本当の意味で理解するために重要なことをよく理解している。
 おそらく、この程度のことは上記した中学生も分かっていただろう。

 しかし、たった一人にほんの少し批判されただけで「もう物理をどうしてやっていったら良いのか。。」と思ってしまうのであれば、それは物理学にとっかかる前に得るべき「何か」を得ていないのではないか、と疑わざるを得ない。そして、それは、大人である我々も例外ではなく、自分ごととして、よくよく考えなければいけないことなのではないだろうか。

 たしかに、「いずれは死んでしまう」という現実から目を逸らさずに本質的に生きていきたいのであれば、物理学くらいは軽く理解する気概を見せて欲しいものだ。
 コミュニケーションという名の「馴れ合い」ばかりを重視して、忙しいフリに一生懸命になっているバカどもがくだらないマウンティングをかましてきて、実際に何かの実益を損ねたりすれば、ある一時期、物理学などに助けを求めたくなる気持ちはよくわかる。
 けれど、当たり前のことを人並みに経験することで、ありふれていたとしても、愛情と信頼関係の存在を信じられる程度には、それらを自分の生きる上での土台としていたほうが、逆に人生に退屈しなくて済むのではないだろうか。
 俺自身が中学のときに、学校の勉強なんてうざいとしか思わず、直列やら並列やらの計算なんかめんどくさいとしか思わず、ましてやその先の物理学なんて興味も持たずに、ただただ友達と夜遅くまで話しまくって、誰が好きだとか嫌いだとか、あの先生むかつくだとか、そういうありふれたくだらないことをしていたことが、今、物理学を使ってバイオロジーの分野に身を置かせてもらって研究し、日々、多くの人に現代物理学を分かってもらうためにはどうしたら良いかを考える上で、非常に役に立っているなぁと個人的には思う。

 別に俺が良い状態というわけではないと思うし、俺が当たり前のことで欠落している部分はたくさんあるのだけど、、何事もベースをしっかり保っていなければ、少なくとも保とうとしなければ、崩れ去るのは早いのではないか。と勉強させてもらっているよなぁということは、ここに書いておこうと思う。

 そして、俺は、家族や友達と何か共通のことで楽しむことを通じて得られる信頼関係を信じていながらも、暇でない証明に権威や金を得るような態度にはできる限り関わらないようにして、再現性を神とする自然科学という信仰を淡々と進めていきたいと思っている。
 最近すごく思うのは、この信仰には、必ずしも友達は必要ではないということだ。仲間は必要だけどね。それが(自分の判断として)退屈しないコツだと思うけど、それもきっと(他者から見れば単なる)暇つぶしには違いない。
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