113.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第6節「東映俳優養成所誕生」
1.1973年9月、京都撮影所(京撮)事業部設立
1972年6月、前年に東映社長に就任した岡田茂は、本社各部に事業部を設け、各子会社とともに新規事業の拡大へ檄を飛ばします。
それに応え、各部でも次々と新規事業が立ち上がりました。
参考:96. 第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 https://note.com/toei70th/n/n3f8b4577e1b4
1973年、大川時代のボウリング事業の整理、岡田が始める映画館再開発や新規事業に多額の費用が掛かること、社員の高齢化による人件費負担の増大などで負債が拡大。岡田は負債を補うためにより一層の営業の強化が必要と考えます。
任俠映画の人気下落により、まずは企画のテコ入れを進めて来た京撮は、1973年1月に公開の『仁義なき戦い』、それに続く4月第2作『仁義なき戦い 広島死闘篇』、そして8月『山口組三代目』と実録ヤクザ映画の大ヒットが続き、勢いに乗ります。
岡田は、9月、京撮に事業部を設立。同時に各支社に関連事業室を設け、全社体制で新規事業開発に取り組み、お金をかけずに新たな事業利益を出すことを求めました。
11月には東京撮影所(東撮)にも事業部を設置します。
撮影所事業部では、撮影所を開放し「日用不要品交換会」「生活用品大バーゲンセール」など実施しました。
2.京撮事業部新規事業「東映芸術学院」設立
1958年7月、東映は東撮内に俳優養成を目指した「東映児童演劇研修所」を設立しました。
翌年の日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の開局を控え、子供向けテレビ番組やCM、『少年探偵団』など子供向け映画に出演する子役俳優需要の拡大に備えることを目的としたものでした。
第1期には550名の応募者の中から74名の研修生を迎えます。その中から、風間杜夫、本間千代子、松岡きっこ、大川栄子、桑原幸子、前川陽子など、後にスターとして活躍する俳優が誕生しました。
1966年からは、15歳から22歳までの男女を対象とした「東映演技研究所」を東撮に新設し、若手俳優の育成に取り組みます。
一方の京撮では、テレビの普及で映画界が斜陽になるとともに、時代劇は映画からテレビに移行しました。
映画の現場で鍛えられた俳優たちは、ヤクザ映画やポルノ映画に出演するとともに1964年に誕生した東映京都テレビ・プロダクションでテレビ時代劇に出演するようになります。
その後『銭形平次』『遠山の金さん』『水戸黄門』『大岡越前』と人気番組が生まれ、1973年には17作品335話が制作されるまでに拡大していました。
そんな折、1973年9月に京撮事業部が設立されます。
映画最盛期に第二東映を設立した際に膨れ上がったスタッフや俳優の合理化を進める京撮には、新人俳優たちに時代劇の基礎技術を教え、時代劇俳優をきちんと育てる余裕はなく、この頃京撮の俳優たちは映画、テレビ出演の合間に自主的に殺陣練習やトレーニングを積んでいました。
そこで京撮事業部がまず始めに取り組んだ新規事業が俳優養成所です。
それは、①時代劇俳優の高齢化や引退が進み、増加するテレビ時代劇に対応できる新人時代劇俳優の育成が急務となっていたこと、②東撮の児童演劇研修所が長きにわたり実績を重ねていること、③1973年に朝日新聞が朝日カルチャーセンターという新規事業を始め、これからカルチャー教室の需要が見込まれること、など時代劇の将来と新たな収益確保の目的で設立した事業でした。
1974年、京撮は、これまで京都にて長年にわたり演劇俳優育成に実績のある長田(おさだ)純俳優養成所と提携し、9月、長田俳優養成所を発展的に解消して「東映芸術学院」を設立します。
現在の東映太秦映画村大手門横にあった、ワーナー・ブラザーズの『ザ・ヤクザ』を受注製作した際に建てたプレハブを改装した建物を教室としました。
長田純は東映発足と同じ1951年から「劇団麦の会」を立ち上げ、KBS京都のラジオドラマや劇場公演で活躍するとともに、「俳優の適正」「素質に適合した基礎訓練」を研究して演技創造体系「長田システム」を完成した教育者です。
京撮の任俠映画や時代劇で活躍した藤浩子、松平純子、中村英子、堀越陽子、小田部通麿などの俳優は教えを受けた俳優でした。
「東映芸術学院」は1日5時間週5日の本格的授業のある本科と週末のカルチャー教室である附属教室が設けられ、まずは9月25日に附属教室から開校します。
「附属教室」には、体育教室とマナー教室の2つの講座がありました。
体育教室は毎週金曜日午前10時~11時半開講のママさんコースと毎週土曜日午後1時~2時半の子供コースがあり、講義は長田とその弟子、実技指導は特技の宍戸大全や京都アスレチッククラブの指導者たちが受け持ちます。特別講師として千葉真一の名前もあり、水泳やスケートの授業も行われました。
マナー教室は女性限定の着物コースと男女の話し方コースがあり、それぞれ25名の予定で募集します。
講師として、講義の長田と弟子及び専門の大学教授、実技の東映の衣裳スタッフがそれぞれ担当しました。
翌1975年4月開講の「東映芸術学院」本科は、映画演劇技術の基礎を学ぶだけではなく、まず第1専門科目としてそれぞれ専門の大学教授たちによる文化論や媒体論、心理学や民俗学などの授業、第2専門科目として文化人類学や日本近代文学史、日本生活文化史に加え、長田による演技論、演劇心理学、演技実技演習などが行われます。特技科目として殺陣、日本舞踊、着付け、メイクなどの実習があると言う特殊な教育システムの学校でした。
「東映芸術学院」本科が開講した1975年11月、東映太秦映画村がオープンします。
映画村は予想を大幅に上回る入場者を集め大ヒットしました。
突貫工事の急ごしらえ施設は、このままでは来春から予想される入村客の対応に支障をきたすことが明らかになり、早急の整備、拡充が急務とされます。
これによって「東映芸術学院」建物の撤去が決まり、その結果、長田は東映から離れ、独自で「おさだ塾」を開校しました。
「東映芸術学院」本科は1年で終了します。
3.東映俳優養成所誕生
翌1976年3月、俳優養成所は撮影所内の厚生会館3階に引っ越して京撮事業部の運営で「東映映画テレビ俳優養成所」が設立されました。
これまでその場所にあった、剣会など俳優たちの自主訓練の場である道場と大部屋は俳優会館の4階に移ります。
そして4月開講の第1期生の募集を行い、映画テレビの時代劇作品を数多く監督した小野登が責任者となりました。
撮影所の俳優中村錦司やカメラマン古谷伸(ふるや おさむ)などのベテランに、助監督古市真也、日舞の藤間紋三、他に撮影所の時代劇スタッフたちが講師として実務訓練を中心に授業を始めます。
テレビ時代劇人気もあり、多くの研修生が集まったことで、10月入所の第2期生を募集しました。
翌1977年9月、東映株式会社と映画村の運営会社である株式会社東映京都スタジオが出資し、俳優養成所の運営と俳優マネージメントを行う株式会社東映京都芸能を設立します。
会長岡田茂、社長は京撮所長の高岩淡、専務に京撮事業部長の黒木正美が就任しました。
小野が校長をそのまま引き継ぎます。
授業は平日の昼2日と夜2日のコースがあり、基礎科で1年、研究科で1年と2年間の訓練を経て修了としました。
その後希望者は東映芸能の俳優として登録され、撮影現場に入る者、続けて1年間劇団としてのレッスンを受ける者に分かれます。
養成所に入所した俳優の卵たちは、撮影所のエキストラだけでなく、成績好調な映画村の扮装案内人や撮影整理などのアルバイトとして働き、養成所の授業料を賄っていました。
第2期生として入所した窪田弘和は今も現役のベテラン俳優として撮影所および映画村で活躍しています。
1981年からは小野に代わり、『新選組血風録』や『燃えよ剣』の脚本家結束信二が校長を務め、大阪校も開校しました。
1987年に結束が逝去すると、大阪校は閉校します。
結束の後は、監督の倉田準二、松尾正武、深尾道典、鳥居元宏などが責任者として指導しました。
1999年4月、テレビ時代劇の製作本数が大幅に減り、これまで養成所の運営に携わってきた事務スタッフたちが定年を迎えることもあり、東映芸能は東映京都スタジオに吸収合併されます。
俳優たちは映画村所属となり映画村事業部の管轄となりました。
4.京撮直轄の俳優養成所に
2017年10月、京撮に俳優部が設立され、映画村所属俳優は京撮俳優部に移籍します。
翌2018年4月から養成所運営も俳優部の管轄となり、本館3階にある試写室をリニューアルし厚生会館3階から移り、新しい教室で授業を始めました。
ここから撮影所が時代劇の将来を担う俳優たちを育てる役割を担うことになります。
これまで通り基礎科の募集は35歳まで、児童科は小学生に限定して引き継いで開講しました。
新たに殺陣技術の継承と拡大を目指して中学生以上を対象に平日夜1コマ120分の殺陣専門コースを新設しました。
2020年にはアクトコースとして35歳以上が学べる日曜夕方120分のコース、2023年からは3歳から5歳までの幼児科を設け、時代劇技術の拡大を目指しています。
また、赤ちゃん登録やアイドル募集にもチャレンジしました。
俳優を養成する学校は東京をはじめ全国に数多くありますが、時代劇の演技に必要な技術を本格的に学ぶことができる教室はあまりありません。
その中でも最大の設備を持ち、撮影所の中にあって時代劇の撮影現場と直結する教室が東映俳優養成所です。
現在、殺陣専門コースを含め100名を超える生徒が学んでいます。
養成期間中にも、手が足りない時などエキストラの声がかかります。現代劇では若者の需要が多くあり、時にはセリフのある役が付く場合もあります。
2年間にわたる基本訓練の後、卒業公演を終えて養成所での学習は終了します。
だが、本当の修業はこれから。
. 時代劇の将来は、彼らの肩にかかっています。
多くの時代劇俳優を生み出してきた東映俳優養成所は2026年に50周年を迎えます。