肋骨の浮き出た裸婦像(ショートショート)

(推定読了時間は4.5分です。人によってはショッキングな表現が含まれるので、苦手な方は閲覧をお控え下さい。)





あばら骨が浮き出た裸婦像なんて、趣味が悪いと思う。

それは弟が描いた絵だった。俺の身長くらいの横幅とそれより大きな縦幅の、大きな絵だった。それは俺の想像する裸婦像とは真逆で、白い肌は良いものの、あばら骨が浮き出ていて、二の腕は枝のように細く、指でつつくだけで折れてしまいそうな体型だった。そのくせ乳首はきれいな桜色をしているのが、弟の童貞臭さを感じた。こんなにも気持ちの悪い絵が1億円で落札だなんて、日本は病気だ。

弟は優秀だった。成績も良かった。息をするように学年首位を独占し、県内トップの高校に入った。俺は下から数えたほうが早い工業高校に入学した。
絵は俺のほうが先に描き始めた。弟は小学生のときすでに全国コンクールの子供の部で名前が挙がっていた。弟が大きな賞をとればとるほど、俺はこっそり絵を描くようになった。そうしているうちに、弟の絵は金持ちによって途方もない金額を提示され、売却されるようになった。そのころは俺はとっくに絵を描いていなかった。

弟の顔は整っていた。陶器のように凹凸の無い肌、涼しげな目元と、男にしては長めで細くて抵抗の無い黒髪、小鼻が小さく鼻筋はすっと通っていて、決して低くないが悪目立ちするほど高くない鼻先。強い個性を持ったパーツは一つもないが、全体のバランスが寸分違わず美しい。それはまるで彼の作品のように不気味であった。


げろげろ。
そんな弟の描いた裸婦像を見てから、俺の体は確実におかしくなっていた。嘔吐が止まらない。中学生のころから週に何回か喉に指を突っ込み嘔吐するのが習慣だが、今回はそんなの比じゃないくらいの滝のような嘔吐をした。最初こそ昼飯のカップ麺やエナジードリンク由来の蛍光色のゲロが出ていたが、現在胃はもうからっぽで、黄みががったどろどろとした液体が出てくるだけだった。

げろげろ。げろげろ。
止まらない。
胃液を出し切ったら、次は何が出るのだろう。カルシウムだろうか。骨から溶け出したカルシウムを嘔吐して、体内の骨はどんどん細くなっていって、やがて消滅する。俺は死ぬ。殺される。弟の絵に、殺される。弟に、殺される。

その裸婦像は、あばらが大きく浮き出ていた。右目の下と右ももの付け根にほくろがあった。斜視だった。
ああ、そして何と言っても、右手の人差し指にあった大きな吐きダコ。それは俺を殺すのに充分すぎた。

右手を見る。口の中に手を突っ込むたびに俺のいびつな犬歯が人差し指の付け根に当たる。赤茶色いタコができる。

げろげろげろげろげろげろげろげろ。

オークションハウスで初めてその絵を見た瞬間から、俺は気づいていた。

弟が描いたのは、ただのあばら骨が浮き出た不健康な女ではない。弟が描いたのは、女体化した俺だ。





胃液もほとんど出なくなった。滝のような嘔吐は、とりあえず今は止んだ。服に着いたゲロを落とすために風呂場に行った。ふと、風呂場の鏡に俺の体が映った。

浮き出たあばら骨、右
目の下と右ももの付け根のほくろ。そしてそれらを見つめる目は、片方はまっすぐ鏡を見つめ、もう片方は内側を向いていた。
白い肌は、乾燥した土のようにボロボロだ。どれだけ食べてもこの体型と肌質は治らなかった。というよりも、量を食べてもしばらく経つと吐き戻してしまう。食べたばかりのものは、もとの形を保ったまま便器に吐き出される。酸っぽい匂いは、体にこびりついてなかなか取れない。

弟の気持ちが分からなかった。
どうして汚い俺を描いたのか?わざわざ女の体にしたのか?侮辱だろうか?体も才すら美しい弟による、汚い体で嘔吐するだけの俺への侮辱だろうか?死ねということか。やはり弟は、俺を殺したいのだ。


ガチャ
扉が開いた。その先に居たのは、弟であった。

「兄さん」

久しぶりの再開だった。弟が実家に顔を出すことは確かに聞いていたが、俺はこいつの絵のせいでそれどころではなかった。
彼の目は相変わらず宝石のように美しく、どこも見ていないような瞳で、しかし確実にまっすぐ俺を見つめて言った。

「兄さん」

「絵が1億で売れたよ」

「兄さんには、1億の価値がある」


俺を見る目は美しく、目尻が下がって、左右対称に広角がすこし上がった。それは穏やかな、優しい、あたたかみのある笑顔だった。


うぐ。
俺は、俺は、胃から、食道へ、こみ上げる。津波のようだ。


げろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろげろ


弟の目に俺はどう映っているのだろう。眼の前で大量の嘔吐をする俺すら、お前には美しく映るのか。

俺が吐き続ける間も、弟の目は蛍光灯の光を反射して、ガラスのような瞳で俺を見つめていた。俺を心配する様子もなく、ヘレン・ケラーのような笑顔を絶やすことなく、俺の背中をさすることもせず、擁護者のような眼差しを俺に向け続けていた。

俺はそのとき思った。やっぱりこいつは頭がおかしいなぁ、と。



紛れもなく俺の弟だなぁ、と。

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