言語の暴力性
トルコ共和国で私が出会った多くの外国人は、母語やトルコ語に加え、英語やロシア語、フランス語、アラビア語を不自由なく使いこなすことができる。
チェチェン共和国出身者はチェチェン語とロシア語を理解できる。北アフリカ出身者の多くはアラビア語に加えてフランス語を流暢に話す。パキスタン出身者はウルドゥー語に加えて英語が得意とする。
トルコ語、英語どちらも不得手な私は普通に彼らが羨ましかった。
アラビア語が分かれば、トルコ語の語彙の三割を学習する前から知っている状態になるし、ロシア語が分かれば、ウクライナから中央アジアまで広く通じるし、英語が分かれば、この今後一世紀は何らかの仕事には就けるだろう。
彼らの出身地では二か国語、三か国語話者が当たり前にいる状態でなんの物珍しさもないらしい。これを受けて、日本人のインフルエンサーやメディアは日本人の英語含む語学力がいかに低いかをよく揶揄する。
ここ数十年で特に「国際化」、「グローバル化」の名のもと、大学入試では英語の比重が年々高くなっており、大学で英語の講義の割合を高くすることで、学生の語学力の向上を謳う学部の新設が増えたように感じる。
私はこの風潮に危機感を抱いている。
今起きているこの現象に甘んじれば、ゆくゆくはこの言語の戦いに屈することになると思っている。
所謂発展途上国出身者は、教育にアクセスするために母語から英語やフランス語などの旧宗主国の言語を介して教育を受ける。国によっては、小学生の段階から外国語を習得せざるを得ない。母語で学術用語のような高度な概念を説明できないことはもちろん、学校の授業、日常のコミュニケーションでさえ当然のことながら母語と比較して精度の低くなる。文法や語彙、発音は常に宗主国のルールが適用されるために自分たちが好む好まない関係なしにそれに従わざるを得ない。自分が日常的に使う言葉でさえ自分のモノではなく、常に他社のモノである続けるのだ。加えて死ぬまで旧宗主国の人間との語学力と比較され、上下関係を覆すことができない。旧宗主国で教育を受けることができたごく一部の人間のみが唯一それなりの相手をしてもらえる。この権力の不均衡が続くのだ。
我々日本人が英語学習で幾度か腹の立った文法や発音を学生時代のみならず死ぬまで高頻度に悩み続ける必要があるのだ。
遠い昔に占領された地域に限ったことではない。
現在のウクライナでも同様である。旧CIS加盟国の中央アジアや東欧の国々は皆ロシア語で教育を受けたために、とりわけ都市部では現地の言語よりもロシア語のほうが遥かに使いこなすことができる人が今もなお多く住む。ロシア語を日常的に話す人が半数を超えるウクライナ東部の地域と聞くと、親ロシアの住民が多いように感じるが、実際はこのような背景から話者人口が多いのが一番の理由である。そんな彼らは現在、外国語であるウクライナ語の使用を強要されている。
こういった言語政策は現在に至るまで続いているのだ。
もちろん、外国語学習を通じて新たな世界へのアクセスすることも重要ではあるが、自分たちの言語をぞんざいに扱う日本の過度な英語教育は自らを低い地位に貶めんとしていると感じるのは私だけだろうか。
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