体育祭
「われわれの競争相手は無限大の大空、確乎不動の大地、しっかり頑張りましょう」の学園長の開会の言葉で始まる体育祭。玉川学園創立の1929(昭和4)年から開催され、2018(平成30)年の体育祭で90回目を迎える。
1.第1回体育祭 1929(昭和4)年11月22日に開催
前夜の雨がうそのように晴れ間が広がっている。朝早くから生徒たちの労作で、会場である運動場は準備万全。朝から、玉川の丘の上空に花火があがっている。四方の村の人たちもぞくぞくと集まってきた。いよいよ玉川学園第1回体育祭が、小原國芳学園長の開会の言葉で幕を開けた。岡本敏明先生に導かれて校歌の合唱の後、合同体操。そして競技開始。参加者は、玉川学園の児童・生徒、岡上青年訓練所の生徒、町田・鶴川・柿生・生田・田奈・忠生等の小学校の児童、そして青年団の人たち。
2.プログラム
第1回体育祭のプログラムは次の通りであった。
午前の部は、百米競走、砲丸投げ、障害物競走、四百米競走、小学部五十米競走、八百米リレー、ハードル競走、小学部二百米競走、俵奪い、走り高跳び、百足競走、柿取り、円盤投げ、クロスカウントリーレース、職員リレー、走り幅跳び、小学部リレー、千五百米競走、玉川ボール、岡上青年訓練所の教練、近郷郡部(町田・鶴川・柿生・生田・田奈・忠生等)小学校および青年団の人たちの入場式。午後の部は、青年団の人たちの百米競走、走り高跳び、マラソン、塾生のピラミットビルディング体操。
3.入場門
入場門の制作が開始しされたのがいつかは明確ではない。記録として残っているのは1946(昭和21)年の第18回体育祭からである。戦後まもなくの頃は、樹木にかけた看板だったり、柱を立てた横断幕のようなものであった。やがてアーチ型のものが登場し、1955(昭和30)年以降は見事な作品といえるまでになった。アーチ制作は1982(昭和57)年の第54回まで続いた。翌年から会場が記念グラウンドとなり、会場の都合でフラワーポットの形式となった。それも1987(昭和62)年の第59回で終了した。
4.行進
ニルス・ブックが派遣したポール・ヒルデブラントの指導により、1932(昭和7)年の第3回体育祭から行進が行われるようになった。行進は、昼食後に基本的に全員参加で行われた。その後も継続的に実施されたが、全学部の規模が大きくなり、全体練習の時間の確保が難しくなったことから、1980(昭和55)年の創立50周年記念体育祭(第52回)をもって終了となった。
5.マラソン
1929(昭和4)年の第1回から行われていたマラソンは、2007(平成19)年の第79回体育祭を最後に終了となった。マラソン開始当時は、玉川学園~南大谷から町田第1小学校~町田高校~玉川学園というコースだった。その後コースは多少変わったが、1975(昭和50)年頃まで学外に出るコースで行われていた。やがて学外の道路交通事情により、学内を周回するコースへと変化した。
6.職員リレー
第1回大会から実施されている職員リレーは1933(昭和8)年の第4回から職員各部リレーという種目名称で行われた。1954(昭和29)年の第26回体育祭では、職員年齢別リレーとして、翌年の第27回体育祭からは各部対抗リレーとして実施された。しかし、平成になると、怪我をする人が増えたことから、1992(平成4)年の第64回体育祭を最後に行わないこととなった。
7.デンマーク・オレロップ体育アカデミーのエリートチームの参加
オレロップ体育アカデミーのエリートチームは、第61回、第74回、第78回の体育祭に参加した。そのずっと以前の、1932(昭和7)年の第3回体育祭に、ニルス・ブックによりポール・ヒルデブラントが派遣され、彼の指導で合同体操が行われた。その伝統が今なお徒手体操や棍棒体操、旗体操などのマスゲームに継承されている。また、その43年後の1975(昭和50)年の第47回体育祭には、オレロップ国民高等体操学校のモンテンセン校長と体操チーム35人が参加した。