【球談徒然】強く印象に残った知将・三原脩監督

2010.05.24


2000年9月27日、途中休養の後、球団に挨拶に訪れた森監督を囲む報道陣。左端が筆者【拡大】

 アマチュア野球を含め監督と名の付く100人以上の人たちと接してきた。一軍の将と言われるだけあって、それぞれが個性のある人々。その中でも特に強い印象を持ったのがプロ野球で最初に担当した大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)の知将・三原脩監督。

 「野武士集団」と呼ばれた中西太、大下弘、豊田泰光、稲尾和久らを束ねて、西鉄ライオンズを日本一に導いた大監督である。

 1960年、それまで6年連続最下位の大洋の監督に就任するや、数々の“三原マジック”を駆使していきなりリーグ優勝。日本シリーズでも大毎オリオンズをいずれも1点差の4連勝で下して日本一に輝いた。

 そんな大監督に最初は気おくれしたが、実際に取材してみると四国弁まじりに理路整然と答えてくれる“好々爺”であった。

 当時は試合後の監督談話は勝っても負けても必要だった。

 三原監督は試合が終わると一度監督室に入り、自分で試合を振り返ってから取材に応じるため、まったく無駄がなく、そのまま記事になった。ときには選手を名指し、記事を読んだ選手がどんな反応を示すかまで計算していた。

 「さすがに記者生活を経験していただけのことはあるな」と感心したものだ。戦後の一時期だが、三原さんは報知新聞社(当時は一般紙)で運動部記者をやっていたことがあるという。“流線型打線”の理論が紙面を飾ったと先輩記者から聞いていた。中心が膨らみ、その前後が曲線を描くのがもっともスピードが出るという力学の応用論を記事に導入。私も勉強させてもらった。しかし、若気の至りで衝突したこともあった。

 67年のキャンプ企画で三問三答のコーナーがあり、「三原監督の現役時代の成績は?」が質問。「108試合、407打数92安打、本塁打0、打点40、打率2割2分6厘」と答えを掲載したら…。

 「アンサン、なんで私の現役時代の成績が必要でっか。アンサンが自分で問題を作ったんと違いまっか」ときた。

 強く否定したが、こんな大監督でも現役時代の成績にこだわるのか、と意外だった。日中戦争で左足に銃創を負ったため、わずか3年で引退していることを補足しておけば気分も変わっただろうが、米大リーグではメジャー経験なしの大監督は何人もいる。あんなに気色ばむなんて、とムッとした。

 感激したこともあった。ファンの知人からサインを頼まれ、名古屋の宿舎で依頼すると、「東京に帰ってから」といい、墨痕あざやかに「最下位から日本一に。人生にもかかる奇跡は必ずあるはず」と、書いてくれた。

 その後、別当薫、青田昇、近藤昭仁、大矢明彦、権藤博、森祇晶ら横浜の歴代監督と接したが、監督の個性とチームカラーが合致しないと、好成績に結びつかないというのが実感。38年ぶりの優勝に導いた権藤監督は放任主義。そのあとの森監督は対照的な管理野球。西武での輝かしい実績に取材記者から身内(月刊ベイスターズ)に替わった私も期待した。ランニング強化やバント練習、さらに食生活の改善など、細かいことに手をつけた。

 1年目こそ佐々木、ローズの抜けた戦力で3位だったが、02年は開幕から5連敗、9月25日の広島戦を最後に休養。広島初優勝の古葉竹識監督にしても3年間すべてBクラス。監督だけでは勝てないことを証明した。

 こう書くと三原さん、「アンサン、それなら私はなぜ優勝したの?」と言ってきそう。

 ■佐伯 松次朗(さえき・まつじろう) 1938年、千葉県生まれ。神奈川県立鎌倉高校から日本体育大学に進学。64年、スポーツニッポン新聞社に入社。運動部、整理部、校閲部次長などを経て95年に定年退職。2004年3月までベイスターズの公式ファンマガジン「月刊ベイスターズ」で執筆。64年の東京五輪では毎日新聞に出向し、フェンシングを担当した。

 

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